English

 「通研周辺そのむかし」目次

 (その1) 荒れ野原だった緑町    
 (その2) 強制疎開で出来た吉祥寺村     
 (その3) 御門訴事件(No.1)     
 (その4) 御門訴事件(No.2).      
 (その5) 御門訴事件(No.3)    
 (その6) 成蹊学園と中島飛行機の引越し
 (その7) 中島飛行機 (1)
 (その8) 中島飛行機 (2) 巨大工場の一枚の航空写真
 (その9) 中島飛行機 (3) 地下道といちょう
(その10) 中島飛行機 (4)
(その11) うたかたのグリンパーク野球場
(その12) 武蔵野なのに三鷹下車
(その13) 計画変更された米軍宿舎
(その14) 武蔵野にB29は何回来たか?
 出典


通研(NTT武蔵野電気通信研究所)の正門から1号館と池をのぞむ

(その1) 荒れ野原だった緑町

 通研のあるこの武蔵野市緑町、ここは昔どうだったのであろうか。
 国分寺、府中などについては古文書や、古代土器があるから歴史がある程度わかるが、水のない武蔵野は恐らく荒涼たる荒れ野原であったにちがいない。
 武蔵野市史によれば、この武蔵野の歴史は比較的新しく、いにしえを語る文献や物的証拠は極めて少ないという。
 それというのも、この地は武蔵野台地という関東ローム層の上にあって、水が無かったからである。
 玉川兄弟が、玉川上水を引きその分水である千川上水が名主の川崎八郎衛門によって導かれて、この地が開墾されたのは1696年頃だから、このころからこの地に人が多く住むようになったのである。(この開墾の指導者は川崎平衛門)

(その2) 強制疎開で出来た吉祥寺村

 今の武蔵野市を形成する旧村は、吉祥寺村、西窪村、関前村、境村の四つによって成り立つ。この内、吉祥寺の名は、吉祥寺という寺名から付けられた。
 吉祥寺は江戸の大寺で、もと本郷元町、いまの水道橋の北側にあった。江戸では明歴 3年(1657年)正月に、江戸城本丸をはじめ、市内の大部分を焼失する大火災(振袖火事)があり、その門前町の住民もり災した。翌 4年正月にも大火があって、吉祥寺もまた焼けて、寺は駒込に移された。この火災を吉祥寺大火といったという。
 明歴の大火後、幕府では、門前町の人々を強制疎開させこの地に移したというところから吉祥寺の名がついた。
 西窪は、江戸の西窪城山町(今の港区西窪巴町)の百姓が移住してきたためにその名がついたが、これも慶安3年(1650年)の火災が原因であった。

(その3) 御門訴事件(No.1)

 明治2年、武蔵野のこの地は、品川県庁に所属した。
 維新で庶民は生活が楽になるかと思ったら暮しは少しも良くならなかった。
 時の県知事古賀一平は、百姓の飢饉に備えるためと称して、百姓から米を強制供出させ、これを貯蔵、有事に備えることとした。これを社倉制度という。社倉制度は昔からあったが、その昔のは、大百姓が主として供出し、小百姓は事実上、供出はゼロであった。
 ところが新政府がうち出した社倉制度は、小百姓からも取り立てるというもので、しかも供出した米は品川県庁に持って行かれ、帰って来る可能性がない。つまり取られっぱなしであり、簡単にいえば年貢が増えたのも同じであった。反対ののろしは上がり、その火の手はまたたく間にひろがって十三カ村に及んだ。

表1. 御門訴事件に参加した村
        (武蔵野市史より)

村名

現在の市名

新座郡上保谷新田 保谷市
多摩郡関前新田 武蔵野市
同  梶野新田 小金井市
同  関野新田 小金井市
同  鈴木新田 小平市
同  大沼田新田 小平市
多摩郡野中新田 府中市
 与右衛門組 小平市
 善右衛門組 小平市
 六左衛門組 国分寺市
多摩郡戸倉新田 国分寺市
同  内藤新田 国分寺市
同  柳窪新田 東久留米市
同  田無新田 田無市
なお田無新田は門訴の段階で脱落

(その4) 御門訴事件(No.2)

 村役人は小百姓の負担の低い修正案を出して妥協を計ったが、新政府の拒否にあった。修正案をのむことによって農民達に自信をつけさせることを恐れたからであろう。
 新政府に交渉に行った村役人も宿あずかりになったという報についに農民は立ち上がった。
 「未ダ御免ナラザルハ官ニ於テ人民ヲ偽リタルニ付、一同御役所ニ直訴セントナス」。デモ隊の数は 500人とも1000人ともいわれた。当時の家数は13カ村あわせて 533戸とあるから、事実上村をあげての決起である。
 明治3年1月10日、県庁前は農民によって埋まった。
 「武蔵野新田十二カ村百姓、申上げ奉候。連年凶作打続き、食糧にも差支え、必死と難渋仕候に付、何卒御慈悲をもって社倉穀積み立てを全員免除して下されたし」と一同が、みの笠姿で門外へ居並び嘆願すると県庁側は農民に門の中に入れと話しかけた。門内に入ればその訴えは強訴ということになり厳しい弾圧が待っている。

通研北門50mにある三郡橋。保谷、西窪、関の三つの郡の交わる点にあるので[みごうりばし]と名付けられた。

(その5) 御門訴事件(No.3)

 農民は挑発にのらなかった。
 再び県庁側は農民に声をかけた。しからば其の方共は県知事様をここに出せということか∞さようでございます≠アの声を聞くや否や県庁側は知事様をここへ出せとはもったいない話。不らちな奴ばら、太刀の続く限り切り捨てよ≠アの号令が出るや否や門内にかまえた騎馬隊、刀を持った切り込み隊が一斉に門を出てデモ隊に切ってかかった。さらにこの時には大砲まで打ち出されるという大騒ぎになった。デモ隊はもち論、散を乱して逃げようとしたが、時は夕刻、土地は不案内のため、51人がつかまってしまった。たまたま知事次席が死亡したが、その腹に鎌が刺さっていたため当局の追求は厳しく、多くの犠牲者が獄死した。
 しかし社倉制度はひかれなくなった。
 犠牲は大きかったが、農民の要求も通ったのである。
 これが今に残る御門訴事件で、犠牲者の霊を慰めるための碑が関前に立っている。  

(その6) 成蹊学園と中島飛行機の引越し 
成蹊学園の欅並木

 通研の南を走る五日市街道には昔、欅並木があり、ちょうどその間から富士山が遠望された。しかし拡幅工事で欅は切り倒され、今は通研の東2kmにある成蹊学園に、その面影をしのばせる並木がある。
 この成蹊学園は大正13年 4月に坪 6円で引っ越してきたが、お稲荷様の御利益によったという。
 いま通研のあるところは中島飛行機武蔵野工場の跡だが、この中島飛行機がここへ引っ越してきた由来についても、社長の弟が夢のお告げで西へ行けといわれたからだという話がある。
 さてはて、通研は何様のお告げで引越したことになっているのだろう

(その7) 中島飛行機 (1)

 通研、緑町住宅、グリーンパークなどの土地は昔、中島飛行機の発動機工場だった。
 飛行機は第一次世界大戦で価値が認められて以来、多くの実戦で威力を発揮、飛行機産業は拡充を重ねた。中島飛行機の社長中島知久平氏の実弟喜代一氏が昭和12年 7月にこの武蔵野に発動機工場を建設し始めたのも、東京近郊で広大な土地が入手できたからであった。武蔵野ローム層のこの土地は耕地にするには水が不足で、広大の土地が残されていたのが中島に幸いした。
 中島飛行機が工場創設以来敗戦までに製作した総数は表にみるように 2万 6千余機におよぶ。 

表2.中島飛行機が作った飛行機とエンジン

陸軍機 40種 隼、鍾馗、呑竜、疾風等
海軍機 65種 月光、零戦(原設計は三菱、エンジンは中島機体も6000機作った)天山、彩雲、銀河、連山等
民間機 21種 中島式AT、中島式DC-2型、ダグラス式DC-3型等合計26868機
エンジン 20種以上 栄、誉(ハ45と同型)、ハ109等  約50000基

(その8) 中島飛行機 (2)巨大工場の一枚の航空写真

 中島飛行機株式会社は、群馬県太田市をはじめ東京、武蔵、小泉、半田、大宮、宇都宮、浜松、三島の九製作所をもち、従業員25万人、使用総資本額約36億円(昭和20年で)の巨大メーカであった。そして通研がある武蔵野製作所は敷地5万5千坪、昼夜交替2万5千人ずつが働いていたといわれる。
 この武蔵野製作所の全景を示す一枚の航空写真がある。これはB29が最初に日本本土に侵入したとき撮ったものである。敗戦後、米航空隊の日本爆撃効果調査団が廃虚と化した武蔵野製作所に来たとき、工場説明役の椎野八朔氏がチェックシートの中に見つけ、もらいうけたものという。ちなみに、この写真は通研の設計の際にも使われた。(編者注:米軍が爆撃前に撮った旧中島飛行機工場全景の航空写真は栗田良平氏提供。拡大プリントされた写真が保谷市の柳沢公民館の玄関に掲示されている)

(その9) 中島飛行機 (3)地下道といちょう

中島飛行機の工場群は、すべて地下道で連絡されていた。その主なものは、南北に 6本、東西に 3〜 4本、多摩製作所と武蔵野製作所を結ぶものが 1本と言われている。現在の通研 1号館建設や 4号館撤去の際に、見たことのある人も多いことだろう。
 このように地下道をはりめぐらした理由は工員を早く位置につけるためとか、空襲のためとか、いろいろ考えられているが、ある人は工場から出る莫大な切り屑を片づけるためと言っている。
 また、通研の正門を南に、公団住宅の間を通る道の両側にいちょうの大木があり、秋には銀なんをいっぱい実らせる。このいちょう並木も、中島時代からあったという。いちょうは火に強いというが、空襲にもめげず生き残った訳だ。大軍需工場から野球場、団地群への変遷を、どういう気持ちでみてきたことだろうか。

(現在2号館東にNTT史料館を建てるために、地下埋設障害物撤去工事中です。参考:公団緑町住宅からみたながめ

(その10) 中島飛行機 (4)

 昭和19年、アメリカ空軍はサイパンを根拠地としB29による日本本土への全面的攻撃を始めた。中島飛行機への第一回の空襲は11月24日、続く12月 3日には、10梯団70機の集中攻撃が行なわれ、死者220人を出した。
 爆撃は最初は250kg、500kgなどの小さい爆弾で、建物に小さな穴があく程度であったが、後に、一トン爆弾が落ちてくるようになると、建物はあめのようにふっとんだ。
 そのずさまじさは、戦後 5年を経過した後でも、通研建設メンバーが息をのむほどだったという。

(その11) うたかたのグリンパーク野球場

 昭和27年から35年まで、通研の隣、現在の公団住宅の土地にグリンパーク野球場があった。
 この野球場は通研を現在の地に誘致した松前重義氏がその権勢をもって中島飛行機の跡地に計画していた一連の施設の一部としてつくられた。
 三鷹駅から国電を引き、夜間照明施設をもち、 7万人収容と称し、神宮球場が米軍に接収されていた当時、東洋一とさえいわれていた。
 国鉄スワローズのホームグランドというふれこみのこの野球場も実際には、プロ野球に二、三回のほか高校野球に使用されただけだった。
 というのは、野球場開きにジャイアンツをよんだが春先の風は武蔵野の黄土を運び、選手は目を開いていることができず試合どころではなかった。もちろん客の入りも悪く野球場は団地にされてしまった。だから団地は円く中央が低い野球場の形をしている。

(その12) 武蔵野なのに三鷹下車

 通研人の約半数が利用している中央線は、昔、甲武鉄道という私鉄だった。開設許可申請は最初は馬車鉄道(明治17年)だったが、蒸気に変えて明治21年 3月に許可となった。資本金90万円で、明治21年 6月着工、22年 4月11日新宿・立川間が開業した。このとき三鷹駅はなく、住民は武蔵境駅から乗車した。吉祥寺駅ができたのは32年。
 大正13年に三鷹の地元から駅設置の請願が出され、武蔵野側からも出されたので競争となった。三鷹側には一つも駅がなかったので結局三鷹駅として昭和 5年 6月15日に開設された。北口ができたのは昭和16年に中島飛行機ができてからである。

(その13) 計画変更された米軍宿舎

 昭和27年 8月、中島飛行機武蔵野製作所西工場に 4,000名規模の米軍宿舎を設置する話がもち上がった。
 同地は住民用住宅化の計画が進められていたために市長にただしたが、米軍宿舎は日米合同委員会にも出ていないほどの急な話しであった。また、費用が、米10億、日本20億という点にも、非難の声があがった。立川のような基地が街の真中にできるとあっては教育上も心配と、関前住宅親和会、北多摩教員組合、PTA関係者などが反対、武三地区労も市民、民主団体、政党とともに反対運動の展開を決め、住民集会が武蔵野一中で行われた。
 これには俳優の河原崎国太郎氏も舞台衣装のままかけつけるという一幕もあり、盛り上がった。
 通研の組合は、いち早く委員会で反対決議をしていたが、所長にも反対の陳情書を市へ出すよう要請した。
 結局、 4,000名の兵士の案を将校家族用に変更、施設内にマーケット、学校、理髪、パーマ店まで設置し、地元民とのトラブルを極力さける形をとって実施され、翌28年に工場の改装工事が完了した。

(編者注:写真は米軍将校家族宿舎、プール。手前に通研クラブ(電気通信研究所25年の記録p.654))

(その14) 武蔵野にB29は何回来たか?

 通研のある中島飛行機武蔵野製作所へのB29の爆撃は何回あっただろうか。「毎日のようだった」という人もいれば、「3日おきだった」と断言する人もいる。
 武蔵野市史には、空襲回数を11回としている。このうちB29による爆撃は 7回くらいである。また公式の資料である東京大空襲戦災誌第三巻には 6回と記載されている。一方空襲を行なった側の報告書「B29部隊の対日戦略爆撃作戦(富永訳)」によると11回となっている。
 これには天候不良 3回、成果不十分3回が含まれているので、それを引くと 5回となる。この三誌より推定すると、実際の爆撃は別表のような6回というのが正しいようである。
 しかし第一回の空襲が11月24日、次にB29が来たのが11月27日(爆撃はなかった)であるので 3日おきという記憶もこの限りでは正しいし、11月25日、26日も警報は出されているので、「毎日のようだった」というのも間違いとはいえないようだ。

表3.  中島飛行機工場への爆撃
B29機数 爆弾 焼夷弾 死者 重傷

軽傷

昭19.11.24 88 40.8t

17t

73

56

28

19.12.3 75 99.3

 42.3

 55

58

19.12.27 250 500k級26発250k級244発

5 

32

20.1.9 48 42

4 

20.4.7

103

陸上機97

1t級175発

4 

20.4.12

100

(含P51)

100k級65 以上2回は建物被害のみ

 被爆のひどかった部分を切取工事中の2・3号館(「通研新聞」 '58年8月14日p3)
 建築工事 (電気通信研究所十五年史p.10西側より眺めた修復時の2、3号館電気通信研究所25年の記録「写真で見る電気通信研究所25年」p.12、)(電気通信研究所35年の記録「写真で見る電気通信研究所35年」p.K40)

TBSの取材依頼により、2号館地下道の下見を行なった(武蔵野研開センタ総務ニュース「ゆう&あい」'91.2 Vol.42)
 (昭和天皇の死去にともなうマスコミ「自粛」により、放映中止となった)

消えかかった文字が時の流れを物語っています。

出典            

 この小冊子は、「インピーダンス」(日本共産党通研支部機関紙)に1976年 2月 2日(No.317)から 8月16日(NO.344)まで連載された「通研周辺そのむかし」を転載し、英訳をそえたものです。写真は所内の出版物から転載、挿絵は編者の若松が描きました.

(編者注)

 この連載「通研周辺そのむかし」では、中島飛行機工場の被爆を扱った関係で、この戦争での日本本土の被害だけを記述した。しかし、そもそも、この戦争は日本の天皇制政府が起こした侵略戦争であり、アジアで2000万人の人々の命を奪った。身近な戦争被害を語り継ぐとともに、この面についても忘れてはならない。

通研周辺ガイド地図

なお、参考写真として以下のものも掲載を検討中です。

武蔵野庁舎へ集結(昭和25年12月) (電気通信研究所35年の記録「写真で見る電気通信研究所35年」p.K41)
集結完了後の研究所(昭和27年) (電気通信研究所十五年史p.10)
今はなき東京グリーンパークスタジアム ()
グリーンパーク想定図 (「通研新聞」'51年1月4日号p.2)
1950年武蔵野に集結した武蔵野電気通信研究所 (通研15年史より?)
1968年の武蔵野電気通信研究所 (通研25年史より?)
1963年、6号館が完成した当時の通研 (通研25年史より?)
「御門訴」関係諸村略図(「季刊 武蔵野」'92年夏号)

自然観察の目次へ  Homeへ