略史
現在のジグラット地方を支配していたのは、前聖歴579年に成立したマイリール人によるエクセリール王朝です。やがて王朝は領土を拡大してエルモア屈指の大国となりますが、前聖歴412年にイーフォン皇国が建国されると徐々に衰退してゆき、聖歴12年にジグラッ ト王国の独立を契機に内部分裂が起こります。エクセリール王朝に反旗を翻したジグラット勢力は、傭兵隊とカイン人の数部族を中心とした一団で、傭兵隊長フェルンデュマがカイン人族長の娘ナディアと結婚したことにより、ジグラット王国が誕生します。この時期、現在のジグラット地方には幾つかの勢力が混在しており、北部はエクセリール王家の血を引くイズルファート王国が、西部にはカリスト人部族のギルダ首長大連が、南部には竜の一族の支配域が、そして東部の海岸域では自治商業都市が東部都市連合を結成して、それぞれの自治を守っておりました。
やがてジグラットはこれらの勢力と争いますが、ギルダ首長大連と共闘して竜の一族を南方の山脈地域へと押し込め、後にイズルファート王国も併合することになります。しかし聖歴383年になると、国王に冷遇されたアズル=アシュバーンによる国王暗殺事件が起こります。アズルは暗殺のみならず、竜の一族と南方の公国の幾つかを味方につけて反乱を起こし、ギルダ首長大連をも巻き込んで16年間も戦います。この反乱は最終的には鎮圧されますが、これによって国内は大いに乱れ、聖歴408年にヴェゼルディ公爵による王位の簒奪を許すこととなります。
しかし、ジグラット貴族たちは王国からの離反を試み、2派に分かれて連合体制を整えます。そして三公会戦と呼ばれる三つ巴の戦いが行われ、セッツェル公爵派が勝利して戦乱の世に終わりを終止符を打ちます。この時、戦いに巻き込まれたギルダ首長大連は壊滅状態にあり、ルワールの占領地を除く首長国の殆どは、ジグラットへと組み込まれることとなりました。それからの王国はセッツェル公爵による立て直しが図られ、王国の中央集権化が果たされましたが、次のリューイ王の治世になると悪政が行われるようになります。また、第一王子フィエリーズと第二王子ペリルが仲違いをしたことから、リューイ王は王国の分割相続を行うのですが、このことから王国内は割れて、戦乱の世が再び訪れることになるのです。
その後、フィエリーズの暗殺未遂事件が起こり、第二王子ペリルは処刑されてしまいますが、内部の分裂はおさまらず、ロカリーニ伯爵派とフィエリーズ派との戦いが繰り広げられます。ロカリーニ派は伝統や血筋に裏付けされた権威を持たないため、フェルンデュマ=ジグラットの血を引くペイリン=ヴィンストン伯爵を王位につけ、ジグラット王朝による西部ジグラット王国を建国します。双方は国土を東西に二分して戦うことになりますが、結局はロカリーニ派が勝利します。この戦いの間、ルワールの干渉がありましたが、ロカリーニ派は竜の一族を利用してこれを退けています。
こうして成立した第二ジグラット王朝は、それから周辺国家との戦乱を幾つか経験します。聖歴645年、竜の一族との間に九竜戦記と呼ばれる戦いが勃発しますが、竜の一族は真竜と呼ばれる最強の竜を失うと、再び山脈の深部へと押し込められてしまいます。また、聖歴677年にはエリスファリアとの間で制海権問題が生じ、ログリア内海でアストリア海戦が起こります。聖歴705年にはメルリィナ継承戦争の最中に失った領地の返還を求めて、ルワール大公国がジグラット領内への侵攻を開始します。この戦いは4年のあいだ続きましたが、途中でジグラット王が逝去したことで統制が乱れ、戦いに敗れることとなりました。
このように幾度もの戦いを経た結果、ジグラットは周辺諸国との関係を悪化させ、陸の孤島として文化的に孤立した状況に追い込まれます。また、ラガン帝国やエリスファリアとの関係を悪くしたことから、ペルソニア大陸への参入も遅れ、科学的な発展からも取り残されることとなりました。今では少しずつ科学に目が向けられるようになっていますが、他国との格差は簡単に埋めることは出来ず、国際的な地位を低下させています。
◆ジグラット年表
前聖歴 出来事 579年 マイリール人によるエクセリール王朝が誕生する。 412年〜 エルモア中西部にイーフォン皇国が成立する。皇国とエクセリール王朝は争うようになるが、やがて皇国の力が上回りエクセリール王朝は徐々に衰退してゆく。 聖歴 出来事 6年 イーフォン皇国の滅亡によってエルモア地方全土で戦乱が起こる。 12年〜 ジグラット王国の独立に端を発して、エクセリール王朝が分裂。小王国の乱立状態へと移行。 32年 メルリィナ継承戦争が勃発。ルワール大公国に味方して西部地方の2公国を手に入れる。 230年〜 二重封領であった8公国が、イズルファート王国の支配下に置かれる。これによって両国間に戦乱が勃発しますが、ジグラット王国は敗北しレノール国王が人質となる。やがて国王が獄中で病死し、国内では王位継承問題を巡る争いが起こる。 256年〜 ラガン帝国の被征服民であったラチェン人の逃亡事件に端を発し、帝国がヴァンヤン島への侵攻を開始する。帝国はエルモア地方への進出も目論んでいたため、ジグラットはルワール、エリスファリア、ラチェン人と手を組んで帝国と戦い、辛くもこれを退ける。 355年 ギルダ首長大連と結んで、イズルファート王国の併合に成功。 383年 アズル=アシュバーンによる国王暗殺事件が起こる。その後、アシュバーンは竜の一族と南方の公国の幾つかを味方につけて反乱を起こすが、16年の戦いの後に討伐される。 408年 ヴェゼルディ公爵による王位簒奪が起こる。貴族たちはこれを僭称王家と呼んで王国からの離反を試みる。 413年 ルワールと同盟を結んでギルダ首長大連を挟撃し、その半数の領邦国家を支配下に置く。 414〜425年 反国王派の貴族2派がそれぞれ連合体制を整える。そして、ヴェゼルディ王を交えた三公会戦と呼ばれる三つ巴の戦いが行われ、セッツェル公爵派が勝利する。この時、壊滅状態にあったギルダ首長大連が、ジグラットとルワール大公国に併合される。 502年 リューイ王の死により、王国の東半分を第一王子フィエリーズ、西半分を第二王子ペリルが分割相続することになる。 503年 フィエリーズの暗殺事件が起こる。第二王子ペリルが首謀者として処刑されるが、後に真犯人は第三王子の仕業であることが判明。 504年 フィエリーズ王子が戴冠式を行う。これに対して、ロカリーニ伯爵派がフェルンデュマ=ジグラットの血を引くとされるヴィンストン家の当主ペイリン伯爵を王位につけ、西部ジグラット王国を建国する。 517年 フィエリーズ王の敗北により、ロカリーニ伯爵派が王国全土を統一する。そしてペイリンが王位に就き、ヴィンストン王朝ジグラット王国が建国される。この王朝は第二ジグラット王朝とも呼ばれる。 622年 メルリィナ継承戦争が起こり、メルリィナ、ルクレイド、ルワールの3国が争う。この際、過去にルワール大公国に組み込まれたギルダ首長大連の所属領土が、選挙によってジグラットへの帰属を決定する。 645〜650年 九竜戦記と呼ばれる竜の一族との最大の戦闘が始まる。この戦いは5年間続くが、真竜を失った竜の一族は弱体化し、再び山脈の深部へと押し込められることになる。 677〜678年 制海権問題によりエリスファリアとの間でアストリア海戦が起こる。 705〜709年 メルリィナ継承戦争の最中に失った領土を奪還するために、ルワール大公国がエリスファリアと同盟を結んでジグラットへの侵攻を開始する。これによりナディリカ侯国とマーカンティル公国の半分を失う。 722年 エリスファリア周辺でバストーシャ山の噴火が起こり、周辺地域が飢饉に見舞われる。 761年 現国王サレナスが王位に就く。
先頭へ
詳細史
○エクセリール王朝時代(前聖歴579年〜聖歴12年)
現在のジグラット王国の存在する地域を支配していたのは、前聖歴579年に成立したマイリール人によるエクセリール王朝です。この当時のエルモア地方にはカイテイン帝国以外の大国は存在せず、彼らの領土拡張を妨げる障害は存在しませんでした。とはいえ、王朝は聖母教会を国教とし、民族融和を基調路線とした穏和な手段で領土を拡張してゆき、(変異の影響を受けた者以外は)民衆が虐げられることも殆どなかったため、問題はあまり起こらなかったようです。
こうして、当初はルワール北部、エリスファリア、ジグラット付近しか保有していなかった国土は、最盛期にはカスティルーン南部、ペトラーシャ東南部、ルワール北部、エリスファリア、ジグラット、カイテインの一部地域を含む大国となり、前聖歴400年代に入る頃にはエルモア地方最大の勢力へと成長してゆきます。
しかし、前聖歴400年代の初頭には、大陸西方で有力諸侯たちが支配域を巡って激しく対立するようになりました。そして前聖歴460年には、ヴァリュア、レヴォンシャ、トーラッド、ヴァンテンデル、ソラルスキア、フゼット、エルンシュテンの7つの公国の間で、統一戦争と呼ばれる50年あまりにおよぶ戦乱が始まり、領土拡張を目論むエクセリール王朝もこれに参戦することになります。平和な治世に慣れきっていた民衆は、これに対して不満を募らせていったのですが、後に貴族たちはその意見を権力で強引に押さえつけるようになり、エクセリール王朝は少しずつ軍国主義へと傾いてゆきます。
7公国の争いは前聖歴440年代に激化しますが、レヴォンシャ公王(現フレイディオン南西部)とヴァンテンデル公王(フレイディオン北部)が手を結ぶと、この両国が少しずつ領土を広げてゆくようになります。そして、前聖歴412年に残り5公国の領地を手中に収め、長い戦乱はようやく終わりの時を迎えます。両家はそれぞれの王子と王女の間で婚姻を結び、7公国と周辺諸候国からなるイーフォン皇国(現ライヒスデール、フレイディオン、ルワール南部、メルリィナ、ルクレイド、エストルーク、ペトラーシャ南西部)を誕生させます。
エクセリールは皇国の誕生を快く思わず、まだ戦乱後の疲弊が残る皇国に対して侵攻を行いますが、イーフォンは団結してこれを防ぐと、エクセリール領土に対して逆侵攻を開始します。この2大国の争いは数百年の間続くのですが、最終的にはイーフォンの力が上回り、エクセリール王朝は徐々に衰退してゆくことになります。そして、聖歴12年にジグラット王国が独立すると連鎖的に内部分裂が起こり、ついには小王国の乱立状態へと移行するのです。
○創始期(聖歴12年〜230年)
エクセリール王朝に反旗を翻した勢力は、ジグラット中央域の軍備を担当していた傭兵隊と、カイン人の数部族を中心とした一団でした。後にこの勢力に流れ者などが合流しますが、あくまでも中心となるのは傭兵隊とカイン民族であり、彼らが強い発言権を有しておりました。
既に事実上瓦解していたエクセリールから独立するのは難しいことではなく、彼らは数ヶ月ほどの戦いの後に、現在の国土中央部(現支配域の1/5ほどの面積)を領有します。そして、全軍を率いていた傭兵隊長フェルンデュマは、カイン人の中心部族であったペゾット家の長女ナディアと結婚し、2人はジグラット地方(国家中央部)を治める一族という意味でジグラットという姓を名乗りました。その後、フェルンデュマは現在の首都サレイアにある雨の聖ルシータ教会で戴冠式を行い、ジグラット王国の建国を宣言します。
この時期のジグラット王国周辺には、同じようにして独立を果たした国が幾つか存在しました。北部はエクセリール王家の血を引くイズルファート王国が、西部には蛮王と呼ばれたガットゥーニオ率いるカリスト人部族のギルダ首長大連が支配しておりましたし、南部は竜の一族の支配域で、東部の海岸域にも自治商業都市が東部都市連合を結成して、それぞれの自治を守っておりました。ジグラット王家はこのうち東部都市連合と手を結び、東部地域の守護を引き受けながら、連合を通じた中央地方との貿易によって力を蓄えてゆきました。また、聖歴32年にメルリィナ継承戦争が勃発しますが、ルワール大公国に味方して西部地方の2公国を手に入れるなど、周囲の勢力を取り込んで発展してゆくこととなります。
建国当初の王国は国家という形態を取ってはいるものの、その実体は契約による部族の緩い連合体であり、それぞれの独立性は強く保たれたままでした。たとえば、各氏族の長は伯区という単位で領民を納めており、それが集まって部族長を中心とする公区を形成しておりましたが、公区は武装農民を中心とした軍隊を保有する小公国のようなもので、それぞれの領内の自治が認められています。また、東部の都市も自治都市として個別に活動を行っており、それぞれが伯区と同等の扱いを受けておりました。王家は首都周辺を支配する一族の1つでしかなく、国家全体の施策を決定する同盟議会の議長を務める立場ではありましたが、各地区の自治に干渉する権限はありませんでした。
しかし、建国から約200年の時間をかけて、周辺諸国と小さな戦いを繰り返しながら王国の基盤を固めてゆくと、徐々に王家の権威が助長されるようになります。聖歴100年を過ぎた頃になると、世襲ではなかった公区や伯区の長は一族の長子が継承するようになり、伯区長や公区長は伯爵や公爵という地位に変化しました。また、それらの中間となる侯爵位も生まれて、現在の貴族と同様の構造が出来上がっております。これら貴族は所有領および国家を守護する軍人であると同時に、同盟議会の議員や官僚として働く文官としての地位も得ておりました。
貴族の権力の基盤となったのは、王家による領土の授封や官位の叙任であったため、その後の王国内では王家に追随することで権力を得ようとする風潮が蔓延しました。また、これら軍事力を基盤とした官僚政治を担う者たちは、それ以外の権力の台頭を好ましく思っておらず、その力を積極的に削ぐことを試みるようになり、貴族による支配体制が徐々に固まってゆきます。
もともと、伯区の下には子区という自由農民の地域共同体があり、これらを富裕農民が治めておりましたが、貴族は議会を動かして子区の自治権を奪ったり、人頭税を導入するなど民衆の圧迫を行いました。また、自治都市連合は民会という組織をつくって市民の意見をまとめ、その代表である民氏を同盟議会へ送り込んで、公区と対等の存在として意見提出を行っておりましたが、民会を構成する有力商人を対象として新たな課税を行うなど、都市への強い締め付けを繰り返すようになります。民氏は議会でこの動きに反発したのですが、武力を持たない彼らは最終的に屈服する形となり、地方都市の自治権は狭められることとなりました。
○第一動乱期(聖歴230年〜254年)
聖歴230年を過ぎた頃、北西部のヴィオラ、アドリースといった8公国がイズルファート王国に侵攻され、ジグラット王国に対して助勢を求める要請が為されました。これら公国はジグラットとイズルファートの双方に仕える二重封領でしたが、この当時のイズルファート王ヴァノンは王位を継いだばかりの血気盛んな人物であり、国土拡大を目論んでこれら公国を単独領地として支配下に置こうとしたのです。
ジグラット王国はイズルファート王国よりも広い面積を領有しており、国民の多くは簡単にこれを撃退できるものと考えておりました。しかし、この当時のジグラット内部には4つの政治派閥があり、参戦に対して意見が大きく分かれました。参戦派の中心となるレノール国王一派には、現在の政策には反発しているものの参戦には賛同するネイヴィル侯爵派が付いたのですが、平和外交路線の穏健派と東部都市を中心とした共和派がこれに真っ向から反対し、議会で激しく意見をぶつけ合うこととなります。正しくは、穏健派と共和派は即時の出兵に反対であり、北西8公国の後方支援を行いつつ、ルワール大公国もしくはエリスファリアに援軍を要請しようというものでした。というのは、ヴァノン王に変わってからのイズルファートは中央地方のラガン帝国と手を結んでおり、出兵そのものがラガン侵攻の理由になると考えたためです。
参戦派は王国最強と呼ばれる北星騎士団を国土防備の要として残すことを条件に、議会で反対勢力の意見を抑え込んで、北への出陣を強行します。しかし、後に稀代の名軍師と呼ばれる青年アドルフォ=アシュバーンの奇計に翻弄され、公国は次々とイズルファートの手に落ちてしまうのです。そのため、最後にはレノール王自ら兵を率いて北方平定に乗り出すのですが、面目を保つどころか逆に潰走状態に陥り、敵国の人質になるという大失態を侵します。しかし、ここで一計を案じたのがネイヴィル派の貴族たちで、ヴァノン王からの使者を国境付近で捕らえて身代金要求の書状を奪い取ると、王が処刑されたという噂をいち早く王国内に流布させます。そして、病弱であまり表に出ることがなかった王弟トリニエルを擁立し、混乱のうちに政権を乗っ取ろうと企んだのです。
これに反対したのが王の忠臣たちと穏健派です。国王派は王の死が確認されていないことから、その救出を第一とした対策を議会で提案しました。そして、実際に使者を送って王の返還交渉を試みたのですが、ネイヴィル派はそれに先んじて、捕らえた相手方の使者を殺害して、ヴァノン王にその死体を送り返したのです。ヴァノン王は烈火のごとく怒り、報復として同じように使者を惨殺した上に、捕虜数名の死体とともにジグラット側に送還したのです。国王の生存は確認されたものの、この事件によって両国の関係には決定的な亀裂が入り、捕虜交換や身代金では収まらないところまで双方の怒りは達しておりました。これに火をつけたのはやはりネイヴィル派で、国民を扇動して徹底抗戦を意識づけるとともに、国王派を焚き付けて一大侵攻を計画させます。王国最強と呼ばれる北星騎士団を中心とした軍勢は、善戦はしたものの最後には撤退を余儀なくされ、その面目を潰す結果に終わりました。しかし、国王派の留守中に軍備や国内体制を整えることに専念したネイヴィル派は、自らの軍勢を殆ど失うことなく議会での発言力を増すこととなります。
その後、8公国の全てがイズルファート王国の支配下に組み込まれ、北方国境はしばらく戦乱から遠ざかることとなりました。それからまもなく、レノール国王が獄中で病死したことが伝えられ、捕虜交換とともに王の亡骸は国家への帰還を果たします。しかし、その死は決して偶然起こったことではなく、軍師アシュバーンとネイヴィル派によってもたらされたものだったのです。ネイヴィル侯爵は国内参戦派を抑える代わりに、ラガン帝国の介入を防ぐようアシュバーンに密書を送っておりました。国王暗殺はネイヴィル派が政権を取る目的ばかりではなく、王国内に一時的な混乱を引き起こすための手段でもあったのです。一方、この戦乱で国力を低下させいたイズルファート側としても、これ以上の疲弊とラガンの過剰な干渉は避けたいところでした。このように双方の思惑は一致したところで、一連の戦いは静かに終止符が打たれました。しかしアシュバーンは、攻勢のうちに南部への侵攻を果たそうと考えていたヴァノン王の不興を買い、その信頼を大きく失うこととなります。
○第二動乱期(聖歴254年〜266年)
その後の王国内では、穏健派とネイヴィル派の2大勢力の間で、新たな王の選定を巡って激しい争いが起こりました。穏健派が推していたのはレノール王の妹にあたるファンテーヌです。レノール王の父にあたるパヴィルは10人の子をもうけましたが、そのうち7人が既に亡くなっており、先王レノールと第7子ファンテーヌ、そして末弟トリニエルしか残っておりませんでした。
順当にゆけばファンテーヌが王位を継承するのは間違いないのですが、ファンテーヌは既にギルダ首長大連の首長の1人と婚姻を結んでおりました。彼女の嫁ぎ先であるゼスタフ家は、周辺国家との平和外交を第一と考える派閥の中心人物だったのですが、首長大連がイズルファート王国に味方したことから、彼女を推す穏健派は不利な立場にありました。また、彼女を担ぎ出すことは、首長大連と争っているルワール大公国との関係を悪化させ、王国にとっては不利益をもたらすことが予想されました。というのは、ジグラットではルワール人傭兵を多数雇い入れて前回の出兵に臨んでおり、この後に予想されるラガン帝国の侵攻に対しても、彼らは欠かせない戦力と考えられていたからです。
しかし、ネイヴィル派が推すトリニエルにも不利な点があります。彼は先王より聡明で、政治家としての才能も申し分ないのですが、その弱気な性格となにより健康上の問題が懸念され、国内での人気は今ひとつだったのです。この国の制度上、特に貴族たちの支持は王になるためには不可欠な要素でした。というのは、公区が存在していた頃から公区長には選王公として選挙権が与えられていたのですが、それは現在も公爵たちに継承されており、彼らの選王選挙によって王位継承が承認されるためです。また、この頃には王国の議会にも票が与えられており、侯爵以下の貴族の票も重視しなければなりませんでした。
情勢から考えればファンテーヌを推す者は少ないはずでしたが、予想以上にトリニエルを不安視する声があり、継承騒動は長期化するかとも思われました。しかし、この時期にラガン帝国によるヴァンヤン島への侵攻が始まったため、思いのほか早く問題が決着することになります。この侵攻は聖歴256年に起こったラチェン人の逃亡事件に端を発するものでした。ラチェン人は帝国の被征服民であり、都市国家半島の植民都市に住まわされ、その多くが奴隷として生活しておりました。彼らはログリア内海の出口に位置するヴァンヤン島や西部諸国へと逃亡を企てましたが、その際に彼らの討伐に当たった皇帝家筋の将校を殺害しており、帝国軍はその敵討ちという理由付けでヴァンヤン島に軍隊を送り込んだのです。しかし、彼らがログリア内海およびエルモア地方への進出を目論んでいることは明らかで、これによってルワール大公国と親交を結ぶことを余儀なくされたジグラットは、ネイヴィル派の推すトリニエルに王位を与えることになったのです。
ジグラットはこの侵攻に対して、建国まもないエリスファリアやラチェン人とも手を組んで、海上を主体とした戦いを繰り広げました。イズルファート王国もこれに参戦したのですが、都市国家半島で新たな反乱が起こったり、セルセティアの介入を招くなどして情勢が不利になったため、最終的にこの戦いから手を引くこととなりました。こうしてジグラットを含む連合軍は勝利し、ラガンの侵攻から国土を守ることに成功します。
○中央集権体制の成立(聖歴266年〜300年)
トリニエルは王位に就きましたが、ネイヴィル派はその後の国内財政の立て直しをはかることが出来ず、穏健派を抑えて権勢を振るうことには失敗しました。本来であれば東方の商業都市の経済力をあてにするところなのですが、戦いの舞台となったのが主にログリア内海であったため、戦乱に巻き込まれた都市は内部を治める力をも失っており、その復興にあてる財政負担も国家に重くのしかかることとなったのです。
この時、貴族は重税を課して状況を打開しようとしたのですが、これに反発した西部貴族たちは王国を離反し、ギルダ首長大連への参入を試みようとします。王国はこの流れを押し止めようとして、議会での議席数や登用官僚を増やすなど、貴族に特権を与えて急場を凌ごうとしました。これによって諸侯を押しとどめることには成功しますが、民衆と貴族との距離が開くことになり、結果として各地での農民一揆や反乱を生み出すことになりました。しかし、そのしばらく後にイズルファーンからアドルフォ=アシュバーンが亡命してきたことで、情勢に変化が訪れます。彼はラガンの介入に関してヴァノン王と衝突を繰り返し、さらには2度の出兵に連続して失敗し、その地位を失ったのです。
亡命当初は彼を信用しなかったジグラット貴族たちですが、ネイヴィル派は先に交わした密約のこともあり、彼を優遇せざるを得ませんでした。一方で、賢明なアシュバーンは暗殺を恐れて、密約に関する話を交渉材料とすることなく、ただ働く場所と最低限の地位のみを求めるに止めました。こうして官僚の1人として登用されたアシュバーンですが、すぐに誰もがその才を認めざるを得なくなり、最終的には国王の政治相談役としての地位を得るに至ります。この時に反対の声が少なかったのは単に実力が認められただけでなく、彼が既に60歳を越えており、長くその地位に止まることはないと予想されたためです。
アシュバーンは国家の基盤を支えるのは農民であると説き、余剰農産物の自由販売を認めたり、人頭税や結婚税といったものを廃止し、その優遇を図りました。これによって民心の離反は防がれ、一揆や反乱は瞬く間に沈静化します。また、農村にも貨幣経済が浸透しはじめ、後には貨幣による納税が認められることになります。しかし、貴族は彼の提案の1つにあった移動の自由を認めなかったため、これによって農民の都市への流入は起こらず、産業の発展が促進されることはありませんでした。
彼は大方の予想通り、その地位を得て5年ほどで死に至り、養女ミューナに爵位を譲り渡しました。ミューナは後に政治家として活躍するのですが、主に陰謀家としての才を発揮します。彼女は東部都市連合の反逆の事実を捏造し、民会とともに都市の自治権を完全に奪い去り、一領土としてこれらを王国制度に組み込んでしまいました。先の戦乱で力を失っていた都市はこの動き止めることが出来ず、王国の要求をそのまま受け入れることとなりました。しかし、商人が離反することによる国内経済の弱体化をおそれ、この改革は自治権を奪うのみとし、かわりに国内交通の自由を認めたり、有力商人を貴族の一門として迎え入れるという妥協策を提示しました。
彼女は東部の問題が片づくと、次に西部の体制を整えることに勢力を傾けます。ミューナは密偵を潜り込ませて首長大連の王の暗殺を謀り、平和外交派を首長大連の主派につけることに成功します。そして、自国の穏健派を通じて首長大連との取り引きを持ちかけ、和平を結ぼうとしたのです。当時の首長大連は、南方の竜の民との関係を悪化させており、この申し出を快く受け入れることとなります。こうして彼女は、戦いらしい戦いを一度も経験しないまま、国家体制を盤石のものとすることに成功したのです。
○第三動乱期(聖歴300年〜450年)
国内問題があらかた片づいた頃に噴出してきたのが、王位後継者の人選についてです。トリニエルの息子ティルニーエには子がなく、ファンテーヌの孫にあたる幼いエメリー公女が養女に迎えられ、彼女を王位後継者とすることで簡単に話はまとまりました。しかし、問題はエメリー王女が誰と結婚するかであり、それによって今後の政治情勢が大きく変わることは明らかでした。その後、貴族の間で様々な相談や駆け引きが行われましたが、最終的にはルワール大公家筋の者との婚姻を結ぶという、非常に妥当な線で決着することになります。この婚姻を通じて、ギルダ首長大連とルワールも和睦し、西方は完全な平和が保たれることとなりました。それから数十年の時間を経て国内は安定期を迎え、国力を少しずつ蓄えてゆくことになります。その間に、王国はギルダ首長大連と共闘して、竜の一族を南方の山脈地域へと押し込めることにも成功しています。
その後の聖歴355年、ラガン帝国がアニスカグナ地方のイルヌ王国と戦いを開始したのを期に、ギルダ首長大連と手を結んで北方への侵攻を開始し、イズルファート王国を併合しました。この時、ミューナの息子アズル=アシュバーン伯爵とトレヴィス王太子が活躍するのですが、トレヴィスは王位継承後に忠臣であったアズルを疎むようになり、南方守護役として辺境へと追いやってしまいます。老いてからもこの仕打ちを恨みに抱いていたアズルは、聖歴383年に避暑のために離宮を訪れていた国王トレヴィスを暗殺し、竜の一族と南方の公国の幾つかを味方につけて反乱を起こしました。この戦いはすぐに終わると思われていたのですが、最終的にはギルダ首長大連をも巻き込んで、収束までに16年という時間を費やすことになったのです。
これによって国内は大いに乱れ、聖歴408年にヴェゼルディ公爵による王位の簒奪を許すこととなります。貴族たちはこれを僭称王家と呼んで王国からの離反を試み、再び国内は戦国の世へと突入します。この戦いに参入したギルダ首長大連に対して、ヴェゼルディ公爵はルワールと同盟を結んで挟撃し、その半数を支配下に置くことに成功しました。公爵は支配領土をルワールと分け合って力を得ますが、この間に諸侯はそれぞれ2派に分かれて連合体制を整えます。そして、最終的に三公会戦と呼ばれる三つ巴の戦いが行われ、セッツェル公爵派が勝利して戦乱の世に終わりを終止符を打つことになります。この時、既にギルダ首長大連は壊滅状態にあり、ルワールが占領した地域を除く首長国の殆どは、ジグラットの領地へと組み込まれることとなりました。
その後、セッツェル公爵派の主導で国内体制の立て直しが行われました。公爵家の当主エヴィア=セッツェルは、母親がエリスファリアの出身であることから、エリスファリア王家筋の者を国王を迎えることを提案します。ルワール筋の貴族たちはこれに反発しましたが、ルワール大公国がジグラットの領土に野心を抱いていることは明らかでしたし、再びラガンの目がログリア内海に向いた時期であったことから、貴族の総集会を経てエリスファリア出身の王が承認されることとなりました。
セッツェル公爵は表向きは王の忠臣として振る舞いましたが、誰が見ても王は傀儡でしかなく、公爵とその近臣である4家が実権を握り、強引な制度改革を行うようになりました。国内が再び乱れることを恐れた彼は、その後の人生の殆どを王権の強化に費やすことになります。民衆にとって幸いであったのは、エヴィア=セッツェルが当時としては先進的な思想の持ち主であり、また、財政の立て直しを民衆への課税に依らない方針を立てたことでしょう。まず、公爵は貴族の土地への課税を行いますが、同時に貴族が領民に重税を課すことを防ぐために、倹約令を出して浪費を抑えさせました。それから、試験による官僚の任命を制度化して武官と文官の役割を分離したり、国家直属の軍隊を整備するなどして、封建諸侯の力を弱めることに成功します。他にも、一部商人や同業者組合の特権であった市への参加を独立商人にも認めて、市場競争という意識を民衆に植え付け、商業の立て直しをはかります。そして、輸入品に対する関税を重くしたり、特許状によって工業生産者の国外への移住を押しとどめるなどの方策を採って、国内産業の発展を促進させました。
○第四動乱期(聖歴450年〜517年)
セッツェル公爵の政策によって王国の中央集権化は果たされましたが、次のリューイ王が私腹を肥やすために特許状の濫発を行ったために、後にこれが産業の発展を妨げることとなります。また、貴族への課税の負担は最終的に民衆への課税に上乗せされることになり、農民の反乱が相次いで起こり、中央集権体制は徐々に崩壊してゆくことになりました。
また、当時の第一王子フィエリーズはセッツェル派を疎み、エリスファリア筋の東部貴族を味方につけて、王家に実権を取り戻そうと様々な裏工作を試みます。しかし、この頃のエリスファリアとは海上交易や関税問題で幾度か衝突しており、また、エリスファリアが対ロンデニアの立場からラガン帝国側に傾いたこともあって、これに反発する貴族たちの支持を得ることは出来ませんでした。セッツェル派でもなくフィエリーズ派でもない貴族たちは、第二王子ペリルの下に結束して自らの権益を拡大しようと努めました。ペリルは母親をルワール貴族に持つことから、ペリル派にはルワールと親交を持つ西部貴族たちが集まり、後にはセッツェル派を離れた貴族を取り込んで、フィエリーズと激しい宮廷闘争を繰り広げるようになります。
このような動きに対して、2人の息子を溺愛していたリューイ王は、王国の東半分をフィエリーズ、西半分をペリルの管轄として分割相続させることで、双方の対立を解消しようとしました。しかし、このような安易な方法で問題が解決されるはずもなく、リューイ王の治世が終わるとすぐに情勢に大きな変化が訪れます。リューイ王の死後1年を待たずして、狩猟場でフィエリーズの暗殺事件が起こりました。この時に死亡したのは影武者で、フィエリーズ自らが陣頭に立って事件の捜査を行いましたが、逮捕されたのは王国の誰もが予想した人物でした。フィエリーズはペリルを暗殺の首謀者として処刑し、その領地を我がものとしてしまいます。なお、後にこの事件は、庶子であることから官職しか与えられなかった第三王子が、ペリルとの密約によって行ったものであることがわかっています。
しかし、西部諸侯をまとめていたロカリーニ伯爵は、フィエリーズが継承したのは王国東部のみであると主張し、新たな議会を創設して独立王国を成立させようと目論みました。しかし、ジグラットには建国王が戴冠した都市サレイアで戴冠するしきたりがあり、王朝が変わってもその伝統は受け継がれておりました。このことから、フィエリーズは聖歴504年にいち早く戴冠式を執り行うと、サレイアを首都に定めて王宮を移し、ロカリーニ派の動きを牽制します。これに対して、伝統や血筋に裏付けされた権威を持たないロカリーニ派は、ジグラット王朝の古い血筋を利用することを考えます。そして議会の承認を経て、フェルンデュマ=ジグラットの血を引くとされるヴィンストン家の当主ペイリン伯爵を王位につけ、ヴィンストン王朝による西部ジグラット王国の建国を宣言したのです。
双方は国土を東西に二分して戦うことになりますが、聖歴510年頃にエリスファリアで海賊王ラグによる復讐戦が起こり、フィエリーズは大きな後ろ盾を失います。また、自派のメイヒュー公爵が反乱を起こした領民の虐殺を行ったことで、民意は瞬く間にフィエリーズから離れ、徐々に勢力範囲を狭めてゆきました。その後、ルワール大公国もこの戦いに干渉しますが、ロカリーニ派は竜の一族を利用してこれを退けます。そして、首都を包囲してフィエリーズを降伏させると、王家一族を処刑して前王朝の血を根絶やしにし、聖歴517年、ヴィンストン王朝ジグラット王国の建国を宣言しました。なお、王家がジグラット家の血脈であることから、この王朝を第二ジグラット王朝と呼ぶことも多いようです。
○ヴィンストン王朝期(聖歴517年〜現在)
その後、王家に権力が集中することを恐れた貴族たちは、地方分権制度の構築に力を注ぎました。まず、宮廷貴族を中心とした議会を解散し、地方領主主導の新しい議会を設立させます。そして、王位の継承も王の指名だけでは成立せず、議会の承認が必須のものとされました。
こうして成立したヴィンストン王朝ですが、諸侯による権益争いが起こることはあっても、国家が大きく分かれて戦うことはありませんでした。対外的には幾度かの戦乱を経験しますが、そのいずれをも無事乗り切って現在に至っております。
▼メルリィナ継承戦争(聖歴622年)
聖歴622年に起こった継承戦争で、メルリィナ、ルクレイド、ルワールの3国が激しい争いました。この時、過去にルワール大公国に組み込まれたギルダ首長大連の所属領土が、選挙によってジグラットへの帰属を決定します。継承戦争に勢力を傾けていたルワールはこの動きを阻止することが出来ず、ジグラットは2つの候国と1つの公国を無傷で手に入れることになりました。しかし、この事件によってルワールとの関係を決定的に悪化させることになります。
▼九竜戦記(聖歴645年〜650年)
先の内乱にルワール大公国が干渉しようとした際に、ロカリーニ派は竜の一族を利用してこれを退けました。しかし、その時に交わした契約をジグラット側は守らず、竜の狩猟場として認めた地域に砦を建て、竜の一族を南方の山岳地帯へと追いやろうと試みたのです。これに怒った竜の一族は、聖歴645年にジグラット王国に宣戦布告し、真竜と呼ばれる最強の竜を呼び出して戦いに挑みました。
竜の一族は、真竜ファティスファーンを失うと一気に戦局を逆転され、再び山脈の深部へと押し込められてしまいます。彼らの住処である竜の柱には、徒歩など通常の手段で到達することが不可能であるため、一族の全てが滅ぼされるまでには至りませんでしたが、この敗北によってその力を殆ど失うことになります。この戦いは終結を迎えるまでに5年の月日を費やしましたが、彼らが絶対的少数派であったことを考えれば、これは異常な年数といえるでしょう。
▼アストリア海戦(聖歴677年〜678年)
聖歴677年にエリスファリアとの間で制海権問題が生じ、ログリア内海でアストリア海戦が起こりました。この時、エリスファリア国内ではジグラット出身の第2王妃が、ジグラット筋の貴族を中心とした反対派を影で集めて政治工作を行い、戦いを小規模なうちに終わらせようと画策します。
しかし、これが当時のエリスファリア王の不興を買い、彼女は一方的に離婚を言い渡されるという屈辱的な仕打ちを受けることとなったのです。その後、ジグラットとエリスファリアの関係は悪化したまま現在に至っております。
▼ロブランの悲劇(聖歴705年〜709年)
メルリィナ継承戦争の最中に失った3つの領地の返還を長く求めていたルワール大公国は、これを奪還しようと遂にジグラット領内への侵攻を開始しました。ルワール大公国がエリスファリアと同盟を結んで南北からの挟撃を試みたため、ジグラットはエリスファリアとの関係が悪化していたラガン帝国に助けを求め、銃器とドゥーガル人傭兵を大量に導入して両国を迎え撃ちました。この戦いは4年のあいだ続きましたが、途中でジグラット王が逝去したことで統制が乱れ、戦いに敗れることとなりました。これによってジグラットはナディリカ侯国とマーカンティル公国の半分を失うのですが、この際にロブランという街が中央から分断されたため、2つの国にまたがる悲劇の街と呼ばれるようになりました。ルワールに助勢したエリスファリアは、その代償としてルクイエス候国を得ておりますが、これはもともとエリスファリア領であった場所で、ルワール側としては何かと大公家に反発していた候国を切り離した形となります。
この戦いで起こった悲劇は、ロブラン分割だけにとどまりませんでした。戦いの際にジグラットの軍勢が分断されて、ルワール側に一部の兵士が取り残されたのですが、新たなジグラット王アズルはもともと反ラガンの立場にあり、自国の捕虜に対する身代金しか支払いませんでした。そのためドゥーガル人傭兵の多くが、ルーワルの捕虜として収容所に入れられてしまったのです。この時期、ラガン帝国がペルソニア大陸で植民地を失ったり、都市国家半島で起こった反乱の鎮圧に手を焼いていることを見越しての行動でしたが、両国の関係がこれで途切れたことは言うまでもありません。なお、捕集されたドゥーガル人兵士の一部は後に脱走し、南部の山中などに身を隠して生活するようになりましたが、この末裔は現在ルワール大公国で反乱を起こしている黄人勢力の一部となっています。
このように幾度もの戦いを経た結果、ジグラットは周辺諸国との関係を悪化させ、陸の孤島として文化的に孤立した状況に追い込まれます。また、ラガン帝国やエリスファリアとの関係を悪くしたことから、ペルソニア大陸への参入も遅れ、西方や神聖同盟3国の科学的発展からも取り残されることとなりました。今では少しずつ科学に目が向けられるようになっていますが、他国との格差は簡単に埋めることは出来ず、国際的な地位を低下させています。
先頭へ