略史
現在のペトラーシャを支配していたのは、カイテイン帝国、エクセリール王朝、イーフォン皇国の3つの大国でした。
しかし、東南部を領有してエクセリール王朝は、前聖歴412年のイーフォン皇国の誕生から徐々に衰退してゆき、聖歴に入ると幾つかの小王国に分裂してしまいます。そして、東南部地域はエリンプラッフ王国として、エクセリール貴族の末裔が統治することになりました。
北部地方は、イーフォン皇国の成立に手を貸したカイテイン帝国の領土として、テルミジア公国が建てられました。しかし、カイテイン帝国で大魔戦争と呼ばれる内戦が生じたことで、聖歴295年に公国はカイテインからの独立を果たすことになります。
南西部はイーフォン皇国によって支配されていた地域ですが、皇国が聖歴に入ってまもなく滅亡したため、皇国の下級貴族の末裔によってペトルリナ公国が建国されます。しかし、土着のナヴァール人たちがエデルラーシア同盟をつくり、これに激しく抵抗を始めます。両陣営は激しい戦いを繰り返しますが、聖歴134年、法教会の仲介によってマイリール人とナヴァール人は和解し、ペトラーシャ連合王国が成立することになります。
聖歴273年になると、東南部のエリンプラッフ王国が北のテルミジア公国およびマウロリディア公国と結んで、連合王国の領土へと侵攻を開始します。しかし、連合王国はカスティルーンと同盟を結ぶことで対抗し、逆にエリンプラッフ王国を征服します。また、聖歴422年にはマウロリディア公国と結んでテルミジア公国を奪い、カスティルーンとの国境線が現在とほぼ同じ位置で確定します。
その後、テルミジア公国を征服したことで、ペトラーシャは陸上交易の中心地として繁栄を極めますが、聖歴565年に世継ぎを指名しないまま王が急死したため、ペトラーシャ継承戦争と呼ばれる大きな国内紛争が勃発します。これは主な勢力として王母派、王妃派、王妹派の3つがあり、女性を中心とした争いだったので、これを女継戦争と呼ぶこともあります。継承戦争には国内外を含めて数多くの勢力が参入したため、終結までに70年余りの時間を費やしました。当初、法教会は各勢力の調停役と民衆の保護に力を注いでいたのですが、やがて穏健的な救済策を捨て去り、民衆の反乱に助力することになります。そして聖歴658年、彼ら聖職者の主導のもとに戦った民衆は、ついに王朝の打倒に成功するのです。その翌年、人民投票を行って王政は廃止され、ペトラーシャの政治は民衆の手に渡り、政党と三権分立制による近代政治制度が誕生しました。王族は今も存在していますが、国王は象徴的存在と規定されて権力を奪われています。
継承戦争以降は法教会の影響もあって、国外に対する干渉はほとんど行なっておらず、それが逆に国力を高める結果を生みました。現在のエルモア地方では最も文化的に進んだ国家であり、先進的な工業技術によって更なる発展を遂げることでしょう。
◆ペトラーシャ年表
前聖歴 出来事 412年〜 7公国からなるイーフォン皇国が成立する。この時、皇国成立に手を貸したカイテイン帝国の領土として、現ペトラーシャ北部にテルミジア公国が成立。 184年 イーフォン皇国からメルレイン王国(現在のルワール、メルリィナ、ルクレイド)が独立する。これから皇国の崩壊が加速する。 聖歴 出来事 6年 イーフォン皇国の滅亡によってエルモア地方全土で戦乱が起こる。 12年〜 ジグラット王国の独立に端を発して、エクセリール王朝が分裂。ペトラーシャ東部地方に、エクセリール貴族の末裔によるエリンプラッフ王国が誕生する。 134年 法教会の仲立ちにより、マイリール人とナヴァール人によるペトラーシャ連合王国が誕生する。 273年〜 エリンプラッフ王国、テルミジア公国、マウロリディア公国の連合軍がペトラーシャ連合王国への侵攻を開始。しかし、連合王国はカスティルーンと結んでこれを撃退し、逆にエリンブラッフの一部領土を得る。 295年〜 テルミジア公国がカイテインからの独立を果たす。 422年 マウロリディア公国と手を結んでテルミジア公国を征服。 565〜643年 ペトラーシャ継承戦争が始まり、国内外の勢力が入り乱れて長く争う。 643〜658年 継承戦争に疲弊した人々が法教会の助力で革命を起こし、聖歴658年に王朝を打倒。民主政治が始まる。 727年 法教会の主導により、ユークレイ、カスティルーンと神聖同盟が締結される。盟主はカスティルーン。 750年〜 フレイディオンの独裁制を見て、民衆は権力の一極集中を恐れるようになる。これによって行政監査機関の設置、首相の権限を制限する法律が定められる。 767年 ライヒスデール、フレイディオンの軍事同盟がユークレイへの侵攻を開始する。ペトラーシャは同盟の一員としてユークレイを後方支援。ライヒスデール、フレイディオンの両国とは国交を断絶。
先頭へ
詳細史
○統一前時代(前聖歴579年〜聖歴134年)
現在のペトラーシャを支配していたのは、カイテイン、エクセリール、イーフォンの3つの大国であり、古くより交通の要衝であったという事実がそこから見てとれます。
▼東南部
現在のペトラーシャ東南部を領有していたのは、古くにエルモア地方の大国として存在した、マイリール人のエクセリール王朝です。この王朝はカスティルーン南部、ペトラーシャ東部、ルワール北部、エリスファリア、ジグラット、カイテインの一部地域を含む王国であり、当時のエルモア地方では最大の勢力を誇っておりました。しかし、前聖歴412年にエルモア中央部にイーフォン皇国が誕生すると徐々に衰退を始め、聖歴12年のジグラット王国の独立に端を発して、幾つかの小王国に分裂することになります。そして現在のペトラーシャ東部地方もまた、エリンプラッフ王国としてエクセリール貴族の末裔が統治することになりました。
▼北部
ペトラーシャ北部地方は、イーフォン皇国の成立時に戦乱に巻き込まれた地域で、皇国成立に手を貸したカイテイン帝国の領土として、デミトニーリ公爵が治めるテルミジア公国が成立しておりました。
その後もこの地域は、イーフォンおよびエクセリール王朝との戦地として乱れ、領土の拡大と縮小を繰り返しながらも、緩衝地帯として維持されておりました。しかし、カイテイン帝国で大魔戦争と呼ばれる内戦が生じたことで、聖歴295年に公国はカイテインからの独立を果たすことになります。
▼南西部
ペトラーシャ南西部はイーフォン皇国によって支配されていた地域で、最も早くに他国の支配から独立した土地です。この地域が現在のペトラーシャの母体となります。
イーフォン皇国は聖歴に入ってまもなく滅亡し、その影響でエルモア中央部は小国家が幾つも乱立することになります。この当時のペトラーシャ南部を支配していたのは、皇国の下級貴族の末裔アステル=フォンセンティスで、混乱に乗じて現在のブリュールサック地方近辺を領土とし、ペトルリナ公国の王の座につきます。しかしちょうど同じ頃、皇国の被征服民であった土着のナヴァール人が連合してエデルラーシア同盟をつくり、ゴートニール地方南部を中心としてこれに激しく抵抗を始めます。この争いは長く続いたのですが、天災の影響やメルレインなど周辺国家の圧力によって、双方とも徐々に力を弱めてゆくことになります。
両陣営ともに存続が危ぶまれるようになった頃、この状況を憂慮していた法教会が仲介役となり、停戦協定を結ぶことに成功します。そして、穏健派のデナテル=フォンセンティス(アステルの息子)が当主の座につくと、公国は急速に民族融和路線へと転換し、聖歴134年、ついにマイリール人とナヴァール人の連合体としてのペトラーシャ連合王国が成立することになります。この時、ペトルリナ以外の幾つかの貴族国家もこれに同調したため、連合王国は他の周辺国家に匹敵する勢力となりました。なお、この時代の国家を指して統一ペトラーシャと呼ぶ場合もあります。
○統一時代→貴族制(聖歴134年〜聖歴400年)
統一ペトラーシャといっても、政治形態までが完全に1つのものとなったわけではなく、互いの自治を尊重しながら1つの連合として対外政策を進めるための、いわば軍事同盟のような形で存在しておりました。ですから、盟主が国王であることにはかわりはありませんが、ゴートニール地方南部およびフォリー地方北部のナヴァール人は、かつてのエデルラーシア同盟の支配地域をそのまま自治区域とし、それまでの政策を殆どそのままの形で存続させています。
統一ペトラーシャは早くに貴族共和制から市民を交えた議会制へと移行を果たしましたが、これも自治区域と領主貴族による対等関係の代表者会議であり、王も議長である以外に強い権力を有しているわけではありませんでした。しかし、ナヴァール人が商工業の発達によって力をつけてゆき、蓄積した富の力で王の選定にも影響を与えるようになると、貴族たちは自治都市に与えられている特権を積極的に削ごうするようになります。
このように国内に乱れが生じ始めた聖歴273年に、東南部を治めていたエリンプラッフ王国が北のテルミジア公国およびマウロリディア公国と結んで、ペトラーシャ連合王国領土へと侵攻を開始しました。この動きに対して、ペトラーシャは法教会を通してランカード朝カスティルーンを味方とし、逆にエリンプラッフ王国の2/3以上を領土とすることに成功します。また、カスティルーンもテルミジア公国の一地方(現在のウィッスリー地方の約半分)を得ることになります。大国カイテインはこの動きに対して、エルモア中央部への橋頭堡でもあったテルミジア公国を奪い返すべく戦力を整えるのですが、281年に大魔戦争と呼ばれる大規模な国内紛争が起こり、辺境地域の公国の幾つかが帝国から離反しました。そして、戦乱に疲弊していたテルミジア公国も、これにならって独立を果たすことになります。
この時に戦功を挙げて多くの領土を得た領主貴族たちは、議会での議席数を拡大し、次第に自治都市の持つ特権を狭めてゆきました。また、同業者組合の発達により自由競争が制限され、生産の発達を妨げられるようになった都市は、一部家系への富の集中が顕著となり、自治都市の代表者の地位は世襲による継承が一般化してしまいました。こうして、かつての同盟の結束は殆ど皆無に近い状態となり、領主貴族と通じて利権をあさる者も多数あらわれて、聖歴400年に入る頃には、統一ペトラーシャはほぼ完全な貴族制国家へと移行することになります。
○領土拡張時代(聖歴400年〜聖歴565年)
内部が安定化するに従い、ペトラーシャ貴族たちは領土の拡張をもくろむようになります。この時に目をつけられたのが、カイテインおよびカスティルーンとの中間に位置していたテルミジア公国です。ちょうどこの頃のテルミジア公国は、ライヒスデールとカイテインのルーヴィン一族との間に立ち、陸上交易で力をつけておりました。これらの国家の繋がりを恐れ、また陸上交易の支配をもくろんだペトラーシャは、聖歴422年にカスティルーン南部にあったマウロリディア公国と手を結んでテルミジアへと侵攻を開始しました。
その頃のカイテイン国内は、皇位継承権をかけた内乱が生じていたため、ルーヴィン一族と敵対していた皇母派はペトラーシャと条約を結び、武器や食料の支援と引き替えにルーヴィン一族の動きを抑えることを約束します。また、ライヒスデールは国内が分裂していた時期で、テルミジア公国は他国の支援を満足に受けることはできず、ほぼ一方的に領土を奪われることとなりました。
こうしてペトラーシャは、テルミジア公国を無傷に近い形で手に入れることに成功します。同時にマウロリディア公国もテルミジア北部地方を得て、カスティルーンとの国境線はほぼ現在と同じ位置に定まることとなりました。
その後、聖歴433年からは、東南部を治めるエリンブラッフ王国への侵攻が行なわれます。しかし、この頃のエリンブラッフは内部で分裂状態にあり、王国の北部を支配していたラディシエール侯爵家が離反すると、それに追随する家が多く出始め、聖歴435年の終わりにオルトード王家は降伏勧告を受け入れることになりました。こうして東南部は完全に平定され、現ぺトラーシャの国境線が現在の位置でほぼ確定するのです。
テルミジア公国およびエリンブラッフ王国を征服したことで、ペトラーシャ連合王国は陸上交易の中心地として繁栄を極め、貴族の力が一層強化されることとなりました。また、貿易のみに頼ることなく、その利益を産業の育成にも投じたため、国家の力としてはエルモアでも屈指の国家として君臨します。
○継承戦争前期(聖歴565年〜聖歴620年)
こうして発展を遂げたペトラーシャ連合王国は、その後も小さな国境紛争を行うことはありましたが、しばらくの間は他国と大きな諍いを起こさずに過ごしました。しかし、このように安定した治世を送っていたこの国でも、聖歴565年にペトラーシャ継承戦争と呼ばれる大きな国内紛争が勃発します。これは世継ぎを指名しないまま王が急死したために起こったもので、数多くの勢力が入り乱れて80年近くもの長いあいだ継続しました。主な勢力として王母派、王妃派、王妹派の3つがあり、女性を中心とした争いだったので、これを女継戦争と呼ぶこともあります。
王母派は王弟(この時点で既に死去)の子であるデルニース三世を、王妃は懐妊中であった自身の子ピアコットを、カイテインの公爵筋に嫁いでいた王妹ハリエットは自らを、それぞれ王位継承者として指名しました。この時、正統と見られるピアコット王子が後継者として認められなかったのは、彼が王妃の愛人と目されていたウィカーディス伯爵の子という疑いがあり、なおかつ王子の誕生後に伯爵がそのことを公の場で認めたためです。実際には、伯爵の母と娘が王妹派に誘拐され、脅されていたゆえの発言であり、後にこの誘拐事件のことは明るみに出たのですが、その時の国内はすでに内戦状態へと移行しており、戦う理由の1つにしかなりませんでした。
この間、ペトラーシャの議会は完全に停止し、西部地域では地方領主がライヒスデールの地にあったデール王国の後ろ盾を得てアイマーン連盟を結成し、新たな議会を設けて独自の政府を樹立したり、一部の公国は王国から独立して個別に政治を行っておりました。地方貴族たちの多くは二重結婚による領地の拡大政策を行ったり、他国と通じて独自の利益を得るためだけに奔走したため、領地人民は自力で生活を守るしかありませんでした。そして、王妃の幽閉事件によって更なる内部の分裂が起こった頃に、カイテインがエルモア中央部進出を目的として出兵し、国内は完全に泥沼の状態へと陥ります。カイテイン軍は旧式の装備しか揃えていなかったため、どうにかこれを撃退することに成功しますが、その頃にはいずれの勢力も自身の領地を維持するのが精一杯という状態で、他国から攻め入られた場合はいとも簡単に占領されてしまっていたでしょう。
○継承戦争後期(聖歴621年〜聖歴643年)
法教会はそれまで各勢力の調停役と民衆の保護に力を注いでいたのですが、ここに至って穏健的な救済策を捨て去ることを決意します。このような状態に疲弊した人民のため、彼らは農民を中心とした反乱勢力に助力し、革命を起こすことを計画したのです。
まず、王都付近の民衆は大火発生後の隙をついて、短期決戦を目論んで一気に行動を開始します。まず、軍がデール王国軍を警戒して国境付近へと兵を配備したのを確かめると、手薄になった王都を占拠して民衆主導のもとに議会を再開します。ピアコット王子の後を継いでいたピアコット二世は、味方であったウルリケ=シャルバン公爵を頼ってその領地へと逃亡しますが、これも計画のうちに織り込まれていたことで、ピアコット二世を主な囮として民衆は効果的に領主たちを動かし、全勢力を均等に疲弊させてゆきました。
革命勢力は王都を包囲されるなど幾度か危ない場面に遭遇しましたが、後にカスティルーンがペトラーシャ国内へ侵攻を開始したため、北方貴族はその動きに警戒を強めなければなりませんでした。デール王国もまた隣国が力をつけるのを恐れ、国境付近へと部隊を送り込んでその動きを牽制するのですが、カスティルーンはこれに対してユークレイの力を借りて北からライヒスデールへと圧力をかけます。これら後の領地割譲などをもくろんでの列強の行動は互いを牽制し合う結果となり、国内の革命勢力を助けることになりました。
この国外の一連の動きによって王都奪回の契機を失った各勢力は、権威の失墜を恐れて自身の領地に王都を遷都することを宣言しました。このため、国家は複数の王都が存在することとなり、事実上複数の王朝が並立する完全分裂の状態へと陥ります。
後に、ピアコット二世はシャルバン公爵と仲違いをし、国外へと逃亡しようとした途中で、公爵の差し向けた追っ手に殺害されてしまいます。また、ハリエットの直系の子孫であるパトリシア王女は、アイマーン連盟とフレイディオンとの三勢力による会戦に破れて逃亡した後、消息不明となっております。連盟はこの戦いで兵力を激減させ、結局はデルニース五世の軍に降伏することになりました。そして、最終的にはパトリシアの妹エリアラ(2歳)とデルニース六世(4歳)が結婚し、王位継承者をデルニース六世とすることで合意を得て、内乱は決着するかに思われました。
○人民革命(聖歴643年〜現在)
しかし、民衆による内乱はおさまるばかりか更に勢いを増し、地方勢力の残党も含めた貴族たちの多くが、きわめて短期間のうちに領土を失ってゆきました。これは各地の民衆が最終的な状況に至るまで、1つのイデオロギーのもとに統一された集団としてではなく、一見個別の反乱が複数存在するように見せかけたためで、これによって油断した貴族たちは常に後手に回ることになったのです。ですが、彼らは法教会を通じて強固に結ばれた大集団であり、聖職者たちの術法によって他勢力の動きを逐一察知していた革命勢力は、軍隊の手薄になった地域を的確に突いて国内の殆どを制圧しました。そして、聖歴658年にはデルニース五世および六世の立てこもる王城を包囲して無血開城させ、残る王族のすべてを捕らえて王朝を打倒するのです。
この翌年の聖歴659年1月3日、人民投票によって王政の廃止が決定され、ペトラーシャの政治は民衆の手に渡ることになります。王族は今も存在していますが、国王は象徴的存在と規定されて権力を奪われてしまい、政党と三権分立制による近代政治制度が誕生しました。また、貴族の地位は残されているものの、支配者として保持していた特権の殆ど全てを失うことになります。
革命の実働部隊には聖堂騎士の一部も参加していたといいますが、法教会が革命に寄与したものはそればかりではありません。民衆の戦闘訓練や戦場での指揮をはじめとして、食料供給や輸送計画などを受け持ったのも聖職者たちですし、カスティルーンを内部から牽制して影響力を削いだり、国外勢力との調停会談を積極的に行うなど、革命で起こった出来事のほぼ全般に関係しています。たとえば、継承戦争の終結後もルワールやフレイディオンといった周辺諸国から圧力を受けたのですが、これら国家に住んでいたナヴァール人やイーフォン皇国由来の法教会信奉者を受け入れ、逆にペトラーシャ辺境域の聖母教会信奉者との居住地交換を行うことで、聖母教会勢力を通じて他国の干渉を抑えることに成功しています。
政教分離が行われた現在では、このような戦争に聖堂騎士は参加しないことになっておりますが、いざ事が起これば教会がどのような立場を取るかはわかりません。ユークレイ、カスティルーンの貴族たちも、この一連の出来事から法教会勢力を恐れることとなり、結果的にいずれの国家でも高い地位を得るに至っています。
先頭へ