メルリィナ王国/歴史

略史詳細史


 

略史


 現在のルワール大国の位置には、前聖歴412年に成立したイーフォン皇国が存在しておりましたが、やがて皇国内では反乱が相次ぐようになり、ついに前聖歴184年、皇国を離反したカリスト人によってメルレイン王国(現ルワール、メルリィナ、ルクレイド)が建国されます。これによって皇国の分裂は加速し、聖歴元年のイーフォン皇帝の死によって遂に滅亡を迎えると、エルモア中央部は小国家乱立時代へと突入します。
 やがて聖歴31年になると、メルレイン王国では継承戦争が勃発しますが、ルワール大公派は東メルレイン連邦自治領として自治権を得るとともに、ルクレイド地方の北西部にパディストリア五王国が建国されます。
 その後、メルレイン王国では貴族や聖職特権を問題にした論争が起こり、これをきっかけに王朝は交替して、フゼール王朝によるキルリア王国が誕生します。しかし、王朝の交替をきっかけとして東メルレイン諸公国連邦はキルリア王の権威を無視するようになります。このため、聖歴200年頃になると双方は国境を挟んで争うのですが、やがて東メルレイン連邦が勝利し、完全なる自治を獲得して東メルレイン連邦王国が成立します。
 その後、王国は交易によって国力を取り戻すと、聖歴290年頃に現フレイディオンにあるブリンテンハウラ連盟と同盟を結んでフローヴィエンヌ王国を攻め、その領土を支配下に置きます。しかし王朝はその後、ブリンテンハウラ連盟と関係を悪くして戦争に至り、フローヴィエンヌ王国から奪った領土の半分を失うことになりました。こうしてキルリアは再び低迷期を迎え、地方分権の時代が長く続くことになりますが、聖歴350年頃にパドウィック侯爵がソファイア王家の後ろ盾を得て、後キルリア王国を建国することとなりました。
 パドウィック朝前期のキルリアは繁栄し、聖歴410年にはブリンテンハウラ連盟を倒して領土を奪います。また、アルア=ルピッツ連盟を併合し、旧メルレイン王国時代の2/3ほどの領土を支配下に置くこととなりました。しかし、聖歴460年頃に現ルクレイド南部で反乱が起こり、聖歴468年にハルモニア王国が建国されます。そして聖歴471年、パドウィック王朝の断絶によってキルリア王国は滅亡し、聖歴478年にブレイヴィオ王朝メルリィナ王国が建国されることとなりました。
 その後、バートネット候国の領土問題で、聖歴523年にルワール大公国との国境戦争が起こりますが、王国はこれに敗北して現エリーディア地方東部の鉱山を奪われ、多額の賠償金を課されることになります。しかし、メルリィナは時間をかけて国内を立て直すと、聖歴578年に起きたハルモニア王国(現ルクレイド)の内乱に干渉し、フレイディオンのクレンヴェルヌ王国と結んで領土を拡張します。そして国王の弟エバートを占領地の王に封じ、ルクレイド東部には新たにブローヌベント朝エシディア王国が建国されました。また、聖歴603年になるとアリアナ海の交易問題でセルセティアと争いますが、ルワールおよびロンデニアと結んでこれを倒し、アリアナ海の制海権を握ることになります。
 しかし、聖歴622年に王家直系の血筋が途絶えると、ルワール、エシディア王国の君主が継承権を主張し、3国によるメルリィナ継承戦争が勃発します。継承戦争は12年間続きますが、最終的には聖母教会の仲介によって和平会談が行なわれ、国内のヴァレンシア公爵家から王を出すことで、継承戦争はようやく終わりを迎えました。メルリィナはこの代償としてエシディア王国には北部の鉄山地域を割譲することになります。また、ルワール大公国には占領地を無償で返還し、代わりに捕虜とこの戦いで失った中東部のベリエーリュ地方南部からフィルアルダス地方北部までの土地を取り戻します。
 継承戦争とその再建の間に海上での力を完全に失ったメルリィナ王国は、その後長い低迷期を迎えることになります。この後、国内を立て直すための制度改革が繰り返されましたが、かつての権勢を取り戻せないまま現在に至っております。


◆メルリィナ年表

前聖歴 出来事
412年〜  7公国からなるイーフォン皇国が成立する。皇国はやがて隣国エクセリールと戦いを繰り広げる。
184年  カリス卜人の反乱によって、皇国からメルレイン王国(現在のルワール、メルリィナ、ルクレイド)が独立する。
聖歴 出来事
6年  イーフォン皇国の滅亡によってエルモア地方全土で戦乱が起こる。

31〜35年
 メルレイン継承戦争が勃発。ルワール地方の諸邦国は、東メルレイン連邦自治領として自治権を得る。また、ルクレイドにはパディストリア五王国が建国される。

138年
 メルレイン王国が滅亡し、諸侯の支持を得たフゼール朝によるキルリア王国が誕生する。

219年
 戦いに敗北したことによって東メルレイン連邦自治領の独立を許し、現ルワール地方に東メルレイン連邦国家が建国される。現ルクレイド側の諸国も王国から独立し、アルア=ルピッツ連盟を成立させる。

290年〜
 ブリンテンハウラ連盟と同盟を結んでフローヴィエンヌ王国を支配下に置く。しかし、後にブリンテンハウラ連盟との関係を悪化させ、征服した領土の半分を失う。

360年
 ソファイア王家の後ろ盾を得たパドウィック侯爵により、後キルリア王国を建国される。

410年
 ブリンテンハウラ連盟を倒して、かつての戦いで失った領土の殆どを取り戻す。

433年〜
 都市国家半島で火山の爆発が起こり、数年のあいだ飢饉が続く。

437年
 アルア=ルピッツ連盟を併合。

460年〜
 現ルクレイド南部で反乱が起こり、聖歴468年にハルモニア王国が建国される。

471年
 パドウィック王朝の治世が終わる。この後、継承者問題についてソファイアの介入を招くが、7年の戦いの後にこれを撃退する。

478年
 ブレイヴィオ朝メルリィナ王国が誕生する。

523年
 ルワール大公国との間で国境紛争が起こるが敗北。現エリーディア地方東部の鉱山を失い、多額の賠償金を課される。

578年
 クレンヴェルヌ王国とともにハルモニア王国(現ルクレイド地方)の内乱に介入して領土を得る。この地には王弟が王として封じられ、ブローヌベント朝エシディア王国が建国される。

603年
 ルワール大公国およびロンデニアと結んでソファイア・セルセティアの連合軍と戦い、アリアナ海の制海権を握る。

622年
 ルワール、エシディアとの間でメルリィナ継承戦争が勃発。

634年
 カーカバートの調停により、メルリィナ継承戦争終結。国内のヴァレンシア公爵家から王を出すことで決着する。


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詳細史


○メルレイン王国(前聖歴400年〜聖歴6年)

 前聖歴400年代の初頭、大陸西部域で有力諸侯たちが支配域を巡って激しく対立するようになりました。そして前聖歴460年に、ヴァリュア、レヴォンシャ、トーラッド、ヴァンテンデル、ソラルスキア、フゼット、エルンシュテンの7つの公国の間で、統一戦争と呼ばれる50年あまりにおよぶ戦乱が始まります。7公国の争いは前聖歴440年代に激化しますが、レヴォンシャ公王(現フレイディオン南西部)とヴァンテンデル公王(フレイディオン北部)が手を結ぶと、この両国が少しずつ領土を広げてゆくようになります。そして、前聖歴412年に残り5公国の領地を手中に収め、長い戦乱はようやく終わりの時を迎えます。
 両家はそれぞれの王子と王女の間で婚姻を結び、7公国と周辺諸候国からなるイーフォン皇国(現ライヒスデール、フレイディオン、ルワール南部、メルリィナ、ルクレイド、エストルーク、ペトラーシャ南西部)を誕生させます。隣国エクセリールは皇国の誕生を快く思わず、まだ戦乱後の疲弊が残る皇国に対して侵攻を行いますが、イーフォンは団結してこれを防ぐと、エクセリール領土に対して逆侵攻を開始します。この2大国の争いは数百年の間続くのですが、最終的にはイーフォンの力が上回り、エクセリール王朝は徐々に衰退してゆくことになります。
 こうして力をつけていったイーフォン皇国ですが、やがて政治に口を挟んでくる聖母教会を疎ましく思うようになり、前聖歴240年頃になるとその影響力を積極的に削ごうとしてゆきます。そして前聖歴198年に、当時のイーフォン皇帝は独断で法教会への改宗を果たし、これを皇国の国教として布教しようとします。法教会の教皇はイーフォンの王権を神が認めた権威であると宣言し、神の名の下に戴冠式を執り行おうとします。しかし、教会の反教皇派および諸侯の反発によって皇国内部に不協和音が生じ、戴冠式の直前に起こった一部の聖堂騎士による法教会教皇の暗殺に続いて、改革派による組織の大刷新が始まります。この改革により教皇という地位そのものが消滅し、新たに法王を教主とする組織が法教会の主体となります。
 これら一連の動きに対して、聖母教会を深く信仰していた南方の民は古くから反発する姿勢を見せておりましたが、皇帝が戴冠式を強硬しようとしたことで怒りは頂点に達します。そして法教会内で争いが起こると、カリスト人を中心とした諸公国はすぐに自公国の国教を聖母教会と定め、帝国から離反することを宣言します。
 国内の混乱を収めることを第一とした皇国は、これら南方諸侯の反発を押さえるために、なし崩し的に彼らの自治を認めることとなりました。しかし、それでも彼らの不満は払拭されず、ついに前聖歴184年、聖母教会の守護を名目としたメルレイン王国(現在のルワール、メルリィナ、ルクレイド)が誕生することとなります。こうしてエルモア中央部の勢力は、大きくイーフォン、メルレイン、エクセリールの3つの分かれることとなったのです。
 その後、この3勢力は領土を巡る争いを繰り返すことになりますが、聖歴元年に1つの大きな事件が起こります。それがユナスの降臨として知られる奇跡で、彼女はイーフォン皇帝フィエル=ミュン=イーフォンの死を予言し、長き戦乱時代が訪れることを人々に伝えました。直後、ユナスの予言通りに皇帝フィエルは死亡し(心不全と考えられています)、その後の皇国は内乱によってわずか6年で滅亡することとなったのです。こうしてカイテイン、ラガン、イーフォン、メルレイン、ベルメック、フィアンの六大国時代は崩壊し、エルモア中央部は小国家乱立時代へと突入します。なお、イーフォン皇帝の死は神による天罰と人々は信じ込み、力を失いかけていた聖母教会は多くの信者を取り戻すこととなりました。


○メルレイン継承戦争(聖歴6年〜35年)

 イーフォンという最大の脅威を失ったエルモア地方では、メルレインは大陸南部を支配する大国として君臨するはずでした。しかし、当面の外敵を失った彼らは、聖歴31年に王を失ったことをきっかけとして、内部での争いに力を注ぐこととなります。
 メルレイン王国は、現メルリィナの都市カトラシア周辺を治めていたメルンヴェルヌ大公国を首長とする国家で、メルンヴェルヌ大公が代々王位に就いておりました。しかし、時のメルンヴェルヌ大公ウィシャスには跡継ぎがなく、亡き兄の娘にあたるフェゼリア公デュティーネを後継者に指名して亡くなりました。しかし、ウィシャスの弟であったルワール大公ブランソンはこれを不服とし、東部諸侯を味方に付けて自らの継承権を主張します。これに対して、デュティーネを正統後継者とする諸侯はフェゼリア連盟を結成し、大公派を逆臣として激しく非難しました。そして、両者の反目は王国を大きく2つに分かつことになり、メルレイン継承戦争と呼ばれる戦いへと発展してゆきます。
 ルワール大公はジグラットに協力を仰いで、やや不利な情勢を一気に逆転しようと試みました。これに対して、フェゼリア連盟は現ルクレイド南部の諸侯を味方に引き入れようとしますが、彼らは情勢をひとまず静観しようと考え、中立の立場を装って動こうとはしませんでした。これらの動きを見て野望を抱いたのが、最初は中立派に属していたステッドバイン公国のルージュモン侯爵です。彼は自身がイーフォン皇家の血筋であることから、ルクレイド北西部やフレイディオン南部を中心とした旧イーフォンの所属国を味方につけると、フェゼリア連盟に対する進攻を開始しました。
 ルージュモン侯爵は、当初は大公派と結んでフェゼリア連盟を挟撃する心づもりでした。そして、ルワール大公を王位につける代わりに、自派諸侯による同盟の自治を認めるよう書状を送ります。しかし、ルワール大公はイーフォンの血脈が力を得ることを警戒し、一時フェゼリア連盟と手を結んでこの撃退を図ります。そして最終的には、両派が協力してルージュモン侯爵の軍勢を退け、継承戦争は4年で終結を迎えることとなります。
 結局、フェゼリア公デュティーネはメルレイン王国の正統後継者として王位に就くことになりますが、その代償としてルワール大公派の公国に、東メルレイン連邦自治領として自治権を与えることになります。連邦は名目上はメルレイン王国に従属する立場でしたが、司法権限と徴税権などを託されたルワール大公国は、事実上の王として君臨することになりました。そして、彼ら自身は東メルレイン連邦自治領とは呼ばず、東メルレイン連邦国家と称するようになるのです。また、兵を引いたルージュモン侯爵は周辺4公国を味方につけて、現ルクレイドとフレイディオンの国境付近に、独自にパディストリア五王国を建設します。残りのルージュモン派の貴族はこれに付かず、フレイディオンにあったブリンテンハウラ連盟に加盟しました。


○キルリア王国の建国(聖歴35年〜聖歴138年)

 王位に就いたフェゼリア公デュティーネは、王国の再建に生涯の殆どを費やすことになります。その際、継承戦争で中立派にまわった現ルクレイド南部の諸侯は、制度改革の際に様々な面で冷遇されていったことから、後にパディストリア五王国との2つの王国に仕える立場となります。
 また、5代目国王ジードルは財政を立て直すために聖母教会の所有地への課税を強引に進めますが、これが周辺諸国を巻き込んだ宗教論争へと発展します。そして、これから派生して各公国での課税や裁判権の問題まで触れるようになると、一時国内は大きく分裂して争いが起こるようになりました。しかし、王妃の従兄弟にあたる保守派のフゼール伯爵が先頭に立って、この改革を主導した国王派を破ると、王を幽閉して自らが中心になって貴族集会を開き、貴族の既得権を守るための憲章を承認させます。こうして最終的には、教会も含めて国内では今まで通りの制度が守られることになり、王国の崩壊は回避されました。
 憲章の成立後にジードル王は釈放されますが、彼は貴族集会の決定を不服としてブリンテンハウラ連盟と手を結ぼうと考えます。しかし、密書を送る段階で王は病死してしまい(暗殺と考える歴史家もいます)、彼の計画はその子供に託されることになりました。ジードルには養子と実子の2人の子供がおりましたが、諸侯は彼らが王位に就くことで再び国内が乱れることを恐れ、宗教や国内制度に関する貴族の意思統一をはかるために、フゼール伯爵を王とすることで意見をまとめます。こうして聖歴138年、フゼール王朝によるキルリア王国が誕生することになるのです。


○東メルレイン連邦国家の独立(聖歴138年〜220年)

 王朝の交代をきっかけに東メルレイン連邦自治領は税を滞納しはじめ、キルリア王国からの数々の勧告を無視し続けます。しかし、フゼールの王位継承を不服とする旧国王派の貴族や、パディストリア五王国にも仕えていた現ルクレイド南部の諸侯たちの協力を得られず、連邦に対して強い動きに出ることは出来ませんでした。
 その後、旧国王派の貴族はパディストリア五王国と手を結んで、新たにフローヴィエンヌ王国を建国します。それから聖歴170年までの間に、現ルクレイド南部を治めていた諸侯の半数以上がキルリア王国から離れ、フローヴィエンヌ王国に従属するようになりました。
 しかし、聖歴200年頃になって国内もまとまり、十分な軍事力が整うようになると、王国を維持するために新たな領土を欲するようになります。そこでキルリア王国は、反発し続けてきた東メルレイン連邦自治領を威圧する目的で、国境付近に砦を建設して兵を配備します。これに対して、連邦も兵を揃えて前線へと送り出し、一歩も引かない姿勢を王国に示しました。両者は一度、国境付近で戦を行いましたが、その時は痛み分けという結果に終わります。その後、カーカバートやフローヴィエンヌ王国が連邦側に味方したため、キルリアは当時大きな力を持っていたソファイアへ援軍を要請して状況の打開を図ろうとします。そして、ソファイア軍の到着を待ちながら国境を防衛していたのですが、後に前線の砦を中心として伝染病が蔓延し、3人の将軍を立て続けに失ってしまい、前線守備の任を引き受けようとする公国領主がいなくなってしまいました。このことで自然崩壊に近い形でキルリア王国は撤退を開始し、それ以上剣を交えることなく戦は終結します。
 こうして聖歴219年、キルリア王国は東メルレイン連邦自治領の独立を許すことになり、ルワール大公を首長とする東メルレイン連邦国家が正式に成立することになりました。また、現ルクレイド側の諸国もまたキルリア王国から独立を果たし、2つの邦国を首長とするアルア=ルピッツ連盟を成立させます。


○後キルリア王国の成立(聖歴220年〜360年)

 先の戦乱の敗北によって王権は弱体化し、地方諸侯が台頭するようになります。そのため、これ以上の諸侯の離反を恐れた王は、都市に特権を与えて諸侯の力を押さえ、商業都市と手を結んで国力の増強に努めます。
 当初、キルリア王国は国際的に孤立した状況に置かれておりましたが、キルリアは東西に鉄山を保有していたことから、後に武器を生産してソファイア王国やセルセティアに輸出して、外貨を獲得するようになります。また、名馬の産地としても知られていたことから他国の商人が馬の買い付けに訪れ、後に馬を中心とした大々的な市が開かれるようにもなりました。
 こうして国力を増強した王国は、聖歴290年頃に現フレイディオンにあるブリンテンハウラ連盟と同盟を結んでフローヴィエンヌ王国を攻め、その領土を支配下に置きます。この際、幾つかの候国はアルア=ルピッツ連盟に吸収されますが、その他の周辺地域も含めて6つの国を支配下に置くことに成功します。しかし王朝はその後、ブリンテンハウラ連盟と関係を悪くして戦争に至り、フローヴィエンヌ王国から奪った領土の半分を失うことになりました。
 こうしてキルリアは再び低迷期を迎え、地方分権の時代が長く続くことになります。しかし聖歴350年頃になると、南部のシャーメイン公国(現シャーウッド地方)を領有していたパドウィック侯爵は、ソファイア王家から娘を貰ってその後ろ盾を得ます。そして、もともと国王の従兄弟であり王家の血を引く侯爵は、諸侯の支持を得て王の座に就き、後キルリア王国を建国することとなりました。


○パドウィック朝時代(聖歴360年〜471年)

 パドウィック朝前期のキルリアは、ソファイアとともにアリアナ海の交易を支配し、かつての衰退ぶりを思わせない権勢を誇りました。そして聖歴400年頃には最盛期を迎え、国外へも目を向けるようになります。聖歴410年にはブリンテンハウラ連盟を倒して現ルクレイドの地から追いやり、失った領土の殆どを取り返します。続いて聖歴437年には、宗主権問題で揺れていたアルア=ルピッツ連盟を併合し、旧メルレイン王国時代の2/3ほどの領土を支配下に置くこととなりました。
 その後の王国は中央集権化を果たし、貴族の官僚化が進んでゆきます。しかし、アロイス王の時代になると宮廷の浪費や悪政の繰り返しで財政が破綻し、そのために重税を課して貴族や民衆の反感を買うようになりました。そして、聖歴460年頃に現ルクレイド南部で反乱が起こり、末のルイス王子が不平貴族の討伐にあたることになったのですが、ここで1つの事件が起こります。
 武闘派のルイス王子は、当初は軍団の戦闘に立って指揮をしていたのですが、やがて砦に引きこもって誰にも会わないようになります。その時期と前後して、王国の前線では王の使者が行方不明になったり、召使いが惨殺死体として発見されるなどの数々の事件が起こりました。これは後にルイス王子の仕業であることがわかったのですが、その時点での彼は変異現象のせいで異形の体に変化しており、兜の下には7つの目を、そして鎧の下には怪物の肉体を隠していたのです。この事実を知った王は、密かに前線からルイスを離宮に移して匿うのですが、狂気に至っていた王子は召使いたちを惨殺し、果てには悪魔と手を組んで王国内で暴れるようになります。事件を隠しきれなくなった王家は、2つの都市を失った後で討伐隊を差し向けて王子を倒しますが、その時には既に噂は国外にまで広まっておりました。
 ルクレイドの反乱軍は、王家が神の意向に背いたためにルイスが悪魔に魅入られたのだとして、この戦いの正統性を高らかに主張します。こうして勢いを増したルクレイドの反乱軍は戦況を逆転し、聖歴468年にハルモニア王国を建国して独立を果たします。そして、ルイス王子の事件によって王位を継ぐ資格なしとされたパドウィック家は、一族すべてが捕らえられ骨すら残さず火刑にされるという結果に終わります。この処刑は聖母教会の意向とは異なっていたのですが、貴族たちはこの機を利用して王家を排斥し、聖歴471年にはパドウィック王朝の治世は終焉を迎えることになります。


○メルリィナ王国の誕生(聖歴471年〜478年)

 ソファイア王は、この粛正の中で唯一生き残ったとされるパドウィック家のエレリア王女を後継者に指名し、彼女を自身の孫ジュリオと結婚させて王位に付けることを画策します。しかし、メルレイン王家の血を引くブレイヴィオ侯爵家は、国内第一の力を持っていたポルリーニ公国の当主トレビスと子供たちの婚姻を約束し、自家を王国の宗主とすべくメルレイン王家筋の諸侯に協力を要請します。そして、エレリア王女を自称する娘を捕らえて、拷問の末に身分を偽ったということを白状させ、その正統性を真っ向から否定して処刑してしまいました。
 南部のソファイア筋の貴族はこの所業に激しく怒り、ソファイア王国軍と共同で北へと進軍します。また、後キルリアの王室は国内の諸勢力から反感を買っていたのですが、エレリア王女は庶民に味方した数少ない貴族で、国民からは非常に人気が高かったため、これに連動して幾つかの抗議運動も起こりました。しかしソファイアの野心を知る諸侯は、国民の声を無視してブレイヴィオ侯爵家に味方して戦います。そして、7年ほどの戦いの後、ソファイアは敗北して王国からの撤退を余儀なくされ、残された国内南部のソファイア筋の貴族は多くがソファイアへと亡命することになります。
 こうして聖歴478年には、侯爵家を首長とするブレイヴィオ朝メルリィナ王国が誕生します。そして、侯爵に味方した貴族は恩賞として新たな領地を得ることになりました。


○メルリィナ王国の発展(聖歴478年〜622年)

 建国当初のメルリィナ王国では、地方で幾つかの反乱が起こったり、諸侯の利権争いで国家制度の改正もうまく進みませんでした。その後、最も大規模な反乱が起こっていた東部のバートネット候国に関する問題で、聖歴523年にルワール大公国との国境戦争が起こります。この時、ルワール大公国と関係を悪くしていたカーカバートがメルリィナを支援しますが、先の戦乱で疲弊していた王国はこれに敗北して、現エリーディア地方東部の鉱山を奪われると、多額の賠償金を課せられることになります。このように建国当初は各地に問題を抱え、王朝交代の危機をも幾度か経験したメルリィナですが、議会の権力を拡大するなど貴族に対する譲歩を行うことで国内をまとめ上げます。そして時間をかけて国力を蓄えると、再び国外へと目を向けるようになります。
 聖歴578年になると、現ルクレイド地方のハルモニア王国が内部分裂を起こし、新勢力である共和派が半ばクーデターを起こす形で議会を乗っ取ると、新憲法を通過させて新しい議会制度を確立しました。当時の王リナレスは策士として知られる人物で、ハルモニアの有力貴族のシューレル侯爵を操ってメルリィナに対して支援要請を出させると、すかさずハルモニア王国への侵攻を開始します。この時、リナレスは共和派にも裏工作を仕掛けており、一部の貴族をたぶらかしてフレイディオンのクレンヴェルヌ王国と同盟を結ばせるのですが、既にメルリィナとクレンヴェルヌ王国の間では密書が交わされており、彼の計画通りクレンヴェルヌ王国は大義名分を得てハルモニア王国へと入り込むことに成功しました。その後、メルリィナ側は一度軍を引いてクレンヴェルヌにシューレル侯爵を倒させると、この間にすれ違う形で進軍して共和派を倒し、当初の予定通りにクレンヴェルヌとの間に和平を結びます。そして聖歴584年に結ばれた条約によって、現ルクレイドの北西部はクレンヴェルヌ王国が奪い、それ以外の地域はメルリィナ王国に委ねられることになります。メルリィナは国王の弟エバートをこの地の王に封じ、新たにブローヌベント朝エシディア王国が建国されました。
 また聖歴603年になると、王国はアリアナ海の交易問題でセルセティアと争いますが、ソファイアがセルセティア側に就いたことで一時形勢が不利になります。この時、長年の敵対心を払拭する目的も含めてルワールと同盟を結び、リナレスの息子アンドレア王はルワール大公家から王妃を貰い受け、逆にリナレスの孫娘でありアンドレアの姪にあたるテレージア公女をルワール大公家に嫁がせて、両家の間に親戚関係を結んでいます。そして、最終的にロンデニアが味方についたことで戦局は逆転し、3国はアリアナ海の制海権を握ることになります。セルセティアはこれによって力を失い、海上では要衝に位置しながら衰退の道を辿ることになったのです。


○メルリィナ継承戦争(聖歴622年〜634年)

 その後、アンドレア王が死んで一人息子のカトルが王位に就いたのですが、彼は即位後3年も経たずして心筋梗塞で倒れて急死します。
 アンドレア王はリナレスに比べると凡庸で大人しく、将来を心配したリナレスは彼を立派な王に育てるために、幼い頃から国外に出して先進的な教育を学ばせました。その後、リナレスの死によって帰国した彼は、宮廷には誰1人として味方がおらず、自分をまるめこんで傀儡にしようとする貴族たちを相手に孤独な戦いを挑まなければなりませんでした。そのためか、ルワールから嫁いで同じく孤独だった妻フレデリカとは仲が良く、やがて献身的で優しい彼女以外を誰も信用しなくなり、フレデリカの死後もその愛を貫いて妾を取ることもしませんでした。このような事情で、王家直系の血筋はカトルの死によって途絶えてしまい、結局はリナレスの従兄弟の子にあたるヴァレンシア公爵家のルイーゼが女王として即位することになりました。
 しかし、ルワール大公国およびエシディア王国の両君主は、メルリィナ王家と姻戚関係にあることから継承権を主張して、3国間での戦乱が勃発することになります。これがメルリィナ継承戦争と呼ばれる戦いであり、3国は一進一退の攻防を繰り広げ、決着がつかないまま12年もの長きに渡って激しく争うことになりました。
 しかし、国外勢力の介入を招きそうになると、大きな戦乱を恐れた聖母教会が仲介役となって、中立地帯のカーカバートで和平会談が行なわれることになります。そして締結された条約により、当初の予定通りにヴァレンシア公爵家が王位を継ぐことで、この不毛な国際紛争はようやく決着することとなります。この代償としてエシディア王国には北部の鉄山地域を割譲することになります。また、ルワール大公国には継承戦争で一時的に占領下に置いた南部のアランフェルト地方を無償で返還し、代わりに捕虜とこの戦いで失った中東部のベリエーリュ地方南部からフィルアルダス地方北部までの土地を取り戻します。
 なお、この会談にはカーカバートの13人委員会の陰謀が働いていたという噂が囁かれています。調停を買って出たカーカバートは、この頃メルリィナと貿易問題で対立しており、戦争自体がメルリィナを弱体化させるためだったという話もあります。国王の死亡原因は心筋梗塞ですが、これは実は暗殺によるものらしいのです。裏の世界ではカーカバートの暗殺者ギルドの存在は有名です。


○王国の再建(聖歴634年〜現在)

 継承戦争とその再建の間に海上での力を完全に失ったメルリィナ王国は、その後長い低迷期を迎えることになります。この間に、数々の制度改革が行われることになりますが、これは紛争をうまくまとめて終結させた聖母教会と、余剰戦力を残していた南部諸侯が中心となって行われました。聖母教会は戦乱の世に嫌気がさした国民の不満を抑えることを条件として、貴族たちに平民議会としての衆議院の設立を認めさせます。これに対して諸侯は、国王の権限を抑制する機構として貴族連合制度を議会で通過させ、政党に相当する連帯組織を作るようになります。その後、国民の利益を守るために聖母教会と貴族の間で妥協的な制度がまとめられてゆき、政治制度はかつてないほど複雑化され、行政機関の間での些細な対立が起こっただけでも国政が滞るようになってしまいました。
 一部の貴族たちは純粋に王国の行く末を憂慮し、新たに連合を結成して制度改革に乗り出すのですが、これは自らの利権を守ろうとする貴族たちに利用されることになります。そして、少しずつ貴族優位の方向で制度改正が繰り返され、王国は有力貴族の寡頭政治体制へと姿を変えてゆきます。こうして、現在のメルリィナでは貴族が非常に強い権力を持ち、平民の意見は政治に反映されにくくなりましたが、力を弱められたとはいえ聖母教会の奮闘によって衆議院は解体されることなく存続しておりますし、南方の貿易都市を中心に自治を勝ち取った地域も存在しています。


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