カルネア連邦共和国/歴史

略史詳細史


 

略史


 現在のカルネア国民の大部分を占めるヴァルネル人は、現ライヒスデール北部にあったヴァリュア公国を建国した民族でした。彼らは後にイーフォン皇国を建てることになりますが、やがて皇国内部で反乱が相次ぐようになると、前聖歴155年にヴァルネル人の多くがヴァリュア領から逃亡を果たします。彼らは北方に移動して現カルネアへとたどり着きますが、この土地には既に現アルメアを構成するアル人たちが支配しておりました。そのため、ヴァルネル人は民族移動を主導したモーズリー家の指揮のもとに戦い、現在の南部地方を奪って前聖歴148年にマトレーシュ公国を築き上げます。
 公国はその後も何度かアルメアとの戦いを経験しますが、地形的な要因やアルメアの固い防備によってわずかに領土を広げたのみで、ほぼ現在の国境線がほぼ確定しました。この間に、国土拡張の勢いを借りてモーズリー家が王冠を戴き、聖歴175年にモーズリー朝ヴァレンティン王国を建国します。その後、モーズリー朝は内紛で分裂し、南北にプレジア王国とフラム王国が興りますが、最終的にはフラム王国はプレジア王国へと併合されてしまいます。プレジア王国はその後も少しずつ領土を拡大してゆきますが、やがて民衆や貴族が離反して北西部へと移住を始め、西部諸公国と手を携えてテインダリア連合王国を作り上げます。これによって力を失ったプレジア王国は、王家同士の結婚によってテインダリア連合王国と合併することになり、聖歴496年、カルネア王国が誕生します。
 成立当初のカルネア王国は穏やかな治世を過ごしますが、中央集権化が進むようになると数々の悪政が重なり、聖歴567年、遂に王朝は滅ぶことになります。その後の国内は混乱をきわめ、50年で4つの王朝が交替します。聖歴638年には国内を武力で統一したライトハール家による王朝が興り、乱れきった国内を武力で統治する時期が続きます。そのため、聖歴655年に地方貴族や富裕農民による反乱が起こり、国民も次々と武装蜂起を始めました。この混乱を利用したのが後の革命指導者たちで、彼らは地方領主と手を結んで反乱分子を指導し、王都で革命軍を決起します。そして、すみやかに王宮を包囲して王権を武力で奪い取り、聖歴661年、無血のうちに政府の交代が行われました。これがカルネア人権革命と呼ばれる事件です。
 その後、カルネアはロンデニアに倣って新しい政治制度や工業技術を取り入れ、エルモアでも指折りの先進国へと発展してゆきます。聖歴730年代に入ると、一時的にラガン帝国に奪われていたペルソニア植民地を取り戻します。これによって奴隷貿易が頻繁に行われ、運び込まれた奴隷たちは農場や工場で労働させられるようになりました。
 しかし、カルネア国民党を支持する北部と、民主共和党を支持する南部の対立は時を経るごとに激化してゆきます。そして聖歴775年、カルネア国民党のウェイリンクが大統領に選ばれると、南部諸州は即座に南部連合を設立してこれに反発しました。こうして国家は2分され、1つの国に2つの政体が並立することになったのです。両者の溝は深く、ついに話し合いによって歩み寄ることはできずじまいでした。そして、聖歴788年8月に起こった逃亡奴隷虐殺事件をきっかけに、両政府の間で内戦が勃発します。これがカルネア奴隷解放戦争の始まりです。昨年より始まったこの内戦は、現在までは南部有利の展開で進んでいます。しかし、昨年の虐殺事件に対する怒りから、黒人を中心とした一般志願兵が急増しており、今夏にも北部では南部へ大侵攻を開始する予定でいます。志願兵の40%が逃亡奴隷であることは、南部の奴隷民に対する虐待ぶりが予想されます。


◆カルネア年表

前聖歴 出来事

540年〜
 ヴァルネル人のリケルト=フォンベルグが、現ライヒスデール北部にヴァリュア公国を建国する。

425年
 レヴォンシャ公国とヴァンテンデル公国の連合軍に敗れる。やがて周辺7公国を基盤とするイーフォン皇国が成立し、ヴァリュア公国は皇国ヴァリュア領となる。
155年  ヴァリュア公国領の住民が皇国から離れ、北方に移動して現カルネアにたどり着く。
148年  モーズリー家の主導のもとに戦い、アル人から土地を奪ってマトレーシュ公国を建てる。
聖歴 出来事

175年
 ヴァルネル人は幾度かの戦いの後に領土を拡大し、モーズリー朝ヴァレンティン王国を建国する。

250年〜
 政争から国家は幾つかの派閥に分裂し、やがて武力抗争へと発展する。国王は破れその地位を追われ、リュクセルク侯爵家がプレジア王国を、ストラチウス公爵がフラム王国を建国する。

340年〜
 フラム王国が継承問題から3つに分裂し、やがてプレジア王国へと併合される。

442年
 プレジア王国が西部へと進出し、ウィルアーダ地方を征服。

455年
 セルロッタ島で炭田が発見され、カルネア、ライヒスデール、ユークレイ間で争いとなるが、後にその地にて鬼人王と呼ばれる怪物が発掘される。3国の連合体制によりからくもこれを倒すが、死に際に残した呪いにより生物が突然死するようになり、この島は不可侵の領域となる。

477年
 西部にテインダリア連合王国が興る。
496年  王家同士の結婚によりプレジア王国とテインダリア連合王国が合併し、カルネア王国が誕生する。
546年  隣国ユークレイとの間にあったウィルマー公国を支配下に置く。

567年
 民衆蜂起によってディルレアン王朝が断絶。その後の国内は混乱をきわめ、50年で4つの王朝が交替する。

607年
 ラズフォード朝ユークレイ王国の侵攻により、ウィルマー公国が奪われる。ユークレイはそのままカルネア国内への進入を果たし、レティクノイル地方東部を占拠し、ヴォルティシア大公国を建てる。
638年  国内を武力で統一したライトハール家による王朝が成立。

655年
 セクリィズ地方で起こった地方貴族や富裕農民による反乱をきっかけに、次々と国民が武装蜂起する。カルネア人権革命のはじまり。

661年
 王宮を包囲して武力で王権を奪い取り、無血のうちに政府の交代が行われる。

673年
 貴族派による抵抗をロンデニアの協力によって鎮圧。捕らえられた王族が処刑される。この翌年の聖歴674年、革命政府によってカルネア連邦共和国の誕生が宣言される。

679年
 ヴォルティシア大公国の民衆が本国からの独立を果たし、カルネアへの参入を求める。このため、ユークレイはカルネア貴族と手を結んで共和政府へ武力干渉を始める。

683年
 ユークレイと和平が結ばれ、貴族の多くがユークレイへと亡命し、ヴォルティシア大公国の民衆がカルネア国内へと移住することが決まった。この時に現在の国境線が確定することになる。
730年〜  ラガン帝国に奪われていたペルソニア植民地を回復。奴隷貿易が頻繁に行われるようになる。
753年  ルワール大公国の植民地を奪い取り、ペルソニアでの領土を広げる。
776年  北部連邦と南部連合に分裂。
784年  北部での奴隷解放が実施される。
788年  逃亡奴隷虐殺事件が起こる。カルネア奴隷解放戦争勃発。


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詳細史


○創始期(〜前聖歴148年)

 現在のカルネア国民の大部分を占めるヴァルネル人は、現ライヒスデール北部にあったヴァリュア公国を建国した民族でした。これは前聖歴540年頃に、ヴァルネル人のリケルト=フォンベルグが武力によって平定したもので、ヴァリュア公の地位はフォンベルグ家が世襲的に受け継いでおりました。
 しかし、前聖歴500年代の初頭には、周辺の有力諸侯たちが支配域を巡って激しく対立するようになります。そして前聖歴460年には、ヴァリュア、エルンシュテン、レヴォンシャ、トーラッド、ヴァンテンデル、ソラルスキア、フゼットの7つの公国の間で、統一戦争と呼ばれる50年あまりにおよぶ戦いが始まります。7公国の争いは前聖歴440年代に激化しますが、レヴォンシャ公王(現フレイディオン南西部)とヴァンテンデル公王(フレイディオン北部)が手を結ぶと、この両国が少しずつ領土を広げてゆくようになります。そして、ヴァリュア公国は前聖歴425年に、その他の公国も前聖歴412年までに破れ、長い戦乱はようやく終わりの時を迎えます。
 両家はそれぞれの王子と王女の間で婚姻を結び、7公国からなるイーフォン皇国(現ライヒスデール、フレイディオン、ルワール南部、メルリィナ、ルクレイド、エストルーク、ペトラーシャ南部)を誕生させます。それから約200年に渡り、イーフォンはエルモア屈指の強国として君臨しましたが、やがて皇国内部でも反乱が相次ぐこととなり、前聖歴184年にはカリス卜人の反乱によってメルレイン王国(現在のルワール、メルリィナ、ルクレイド)が誕生します。また、前聖歴155年にはヴァリュア公国領の住民が皇国から離れ、北方に移動して現カルネアへとたどり着きます。この場所は現在のアルメアを構成するアル人たちが支配していたのですが、ヴァルネル人は民族移動を主導したモーズリー家の指揮のもとに戦い、現在の南部地方を奪って前聖歴148年にマトレーシュ公国を築き上げました。


○南北の統一(前聖歴148年〜聖歴400年)

 創始期のマトレーシュ公国の領土は現カルネアの1/4ほどであり、西半分の領域は未だアル人の領土のままでした。そして北方の一部地域には、アル人から自治を許されていたフェルメル民族が住んでおりました。しかし建国50年を過ぎた頃から、5度の戦乱を経てアル人を追い出し、前聖歴48年には現在の2/3ほどの地域を支配するに至っております。また、聖歴54年までにフェルメル族を追い出し、ピレル地方を支配下に置くことになります。その後、フェルメル族の半数はアルメア北部へと逃亡して候国を建てることになりますが、その他の部族はフリスタスやユークレイの地域に分散してしまい、現在では遊牧民族や遊芸の民としてエルモア地方を徘徊しています。
 公国はその後も何度かアルメアとの戦いを経験しますが、地形的な要因やアルメアの固い防備によってわずかに領土を広げたのみで、ほぼ現在の国境線がほぼ確定しました。この間に、国土拡張の勢いを借りて、諸侯の王としてモーズリー家は王冠を戴き、聖歴175年にモーズリー朝ヴァレンティン王国を建国します。
 その後、西へと勢力を広げようとしていたスレイラール人(ユークレイ)とも衝突を繰り返しますが、徐々に争いはおさまり、聖歴240年までには現在の4/5ほどの国土を領有することになります。しかし、聖歴250年代になると、獲得した領土を巡る貴族間の争いから端を発した政争から、国家は幾つかの派閥に分裂します。この時、戦乱を嫌った多くの貴族や農民は西部へと移住し、西部地方の開拓が進みました。
 その後、この政争は実際の武力抗争へと転じ、国王は破れその地位を追われることになります。この際、王族はその殆どが処刑されますが、王家の傍系であるファストーニュ家と一部の近臣は東部のブレーウィル地方へと移り住み、この地方のスレイラール人と戦ってウィルマー公国を建てます。ウィルマー公国は民主的な政体を作り上げ、この時代には珍しい民主議会を中心とした共和制政府を設立しました。
 王を失ったヴァレンティン王国内では、この間にリュクセルク侯爵家とストラチウス公爵が台頭し、周辺諸侯を従えて南北にプレジア王国とフラム王国を興します。この時、山脈を越えた西部地方はこれらの争いには干渉せず、独自の自治を保ち続けておりました。やがて北東部のフラム王国が徐々に勢力を伸ばして、最大の力を誇るようになりますが、聖歴340年代に国王ヴァリウスが三子に領土を分封したことから分裂がはじまり、最終的には南のプレジア王国へと併合されてしまうことになります。この時、ヴァリウスの孫にあたるシュテファニア王女がフリスタスへ逃亡したと言われていますが、その後の行方はわからなくなっています。
 東南部地域を支配したプレジア王国は、その後、ブルム内海北部を荒らした海賊に悩まされることになりますが、これらの蛮行や内海でのフェルディガン(現ユノス)・ソファイアの台頭に対抗するため、ロンデニアと手を組むことを約束します。このために、ロンデニアのアルティス王子がカルネアを訪れたのですが、その隙に彼の異母妹ジャクリーヌ王女による王位の簒奪が行われました。カルネアはアルティスに力を貸して、ジャクリーヌをうち倒し、聖歴392年にアルティス王子を王位につけることに成功します。この時に結んだ条約によって、カルネアはロンデニアの力を借りて海賊を南部沿岸から追い払い、また関税緩和や航海における寄港地の使用権限などの幾つかの権益を得ることになります。


○西方平定(聖歴401年〜496年)

 聖歴401年、東部のウィルマー公国は現ユークレイの地に成立したペルドラッド朝に支配され、共和制による政体は一時途絶えることになります。プレジア王国はさらなる西進を目指すペルドラッド朝の動きを警戒するようになりますが、ちょうどこの頃、ロンデニアではアルティス王が塔に幽閉され、新たなる王朝が誕生しようとしておりました。他に後ろ盾のないプレジア王国は、国力が低下したこの時期の戦乱を避けるべく外交交渉を行います。そして、ちょうどこの時、カスティルーン王国が北征を開始したため、ペルドラッド王朝も相互不可侵条約を受け入れることになります。
 その後の約20年間は、プレジア王国は殆ど戦いの平和な時を過ごし、この間に国力を高めることに成功します。そして、聖歴422年には西部諸侯国への進出を開始し、現ウィルアーダ地方を手に入れることになります。また、アルメアの王位継承戦争にも干渉し、わずかに領土を拡大することに成功しています。
 しかし、聖歴455年のセルロッタ島を巡る戦いで多くの死傷者を出して、再び大きな損害を被ると、武力による領土拡張に嫌気がさした民衆の反乱が起こり、王国はこの対応に苦慮することになりました。また、同じくこの戦いに参戦したユークレイのペルドラッド朝が崩壊して、地方反乱や移民による影響が国内にまで波及するようになると、王朝の武力による統治が困難になり、北西部へと民衆や貴族が移住するようになり、西部諸侯と手を携えてテインダリア連合王国という新たなる政体を作り上げます。これによって力を失ったプレジア王国は、王家同士の結婚によってテインダリア連合王国と合併することになり、聖歴496年、ウィルマー公国を除いた地域は統一を果たし、ディルレアン朝カルネア王国が誕生しました。
 なお、ウィルマー公国はペルドラッド朝の事実上の瓦解にともない、再び自治を獲得していますが、形の上ではペルドラッド朝に臣属しておりました。しかし、聖歴526年にペルドラッド朝が途絶えると、完全に独立を果たすことになります。


○戦乱期(聖歴496年〜638年)

 カルネア王国は身分制議会を成立させ、文人による平和統治を重視し、対外的には消極的な策をもって国家統治を行いました。民衆はこれを歓迎し、極めて平和な時期を過ごすことになります。
 やがて王国は徐々に中央集権化が進み、統治法も全国で統一されたものへと変化してゆきます。しかし、中央政府に権力が集中しすぎたことから、王とその佞臣による独裁が進むようになり、絶対王政を維持するための領土拡張を求める富国強兵策へと、国政の転換が図られました。そして聖歴546年、独立したウィルマー公国を支配下に置くと、ユークレイ侵攻のために国境付近に砦を築きます。しかし、王の独断による税制の変更と議会の閉会が宣言されるにあたって民衆の不満が爆発し、聖歴567年にディルレアン王朝は滅ぶことになります。
 その後の国内は混乱をきわめ、50年で4つの王朝が交替します。この間に隣国ユークレイではラズフォード朝が力をつけ、聖歴608年には政治的解放の名目でウィルマー公国を占領すると、そのままカルネア国内への進入を果たし、レティクノイル地方東部を占拠します。そして、これら占領地にはラズフォード家の血縁筋のベリッシュ家が大公として封じられ、傀儡政権によるヴォルティシア大公国が成立します。


○ライトハール王朝の滅亡(聖歴638年〜674年)

 ユークレイ侵攻後もしばらく内乱は続きましたが、聖歴638年には国内を武力で統一したライトハール家による王朝が興ります。しかし、乱れきった国内を平和的手段で統治することは困難だったため、ライトハール王朝は強力な軍事力に頼る政治を行い、地方の声を力で押さえつける時期が続きます。
 武力で王権を維持するためにはもちろん、ユークレイを国土から追い出すためにも戦費を要します。しかし、国庫は破綻し民衆への更なる課税でもこれを賄うことは不可能だったため、緊急措置として貴族が所有する土地への課税が行われるようになり、諸侯は王国への税を強制されました。また、地方政治には地方長官が派遣され、強制的に王国法を押しつける形になるのですが、当然のことながら諸侯はこれらの制度改正に強く反発します。
 そして聖歴655年にセクリィズ地方で起こった地方貴族や富裕農民による反乱がきっかけで、この国は大きな転機を迎えることになります。王国軍はこの鎮圧に出向いたのですが、国民はこの反乱軍を支持し、他の地方でも次々と反乱が起こります。これはあくまでも烏合の衆に過ぎず、まとまった兵力とはなり得ませんでしたが、ここで登場したのが革新的思想の持ち主クリストフェル伯爵と、セルシア兄弟やカ−スティン=フィルマイユといった、後の歴史に名を残す革命指導者たちです。彼らは地方領主と手を結んで反乱分子を指導し、民衆の側にたった改革を掲げて兵力を集め、王都で革命軍を決起します。そして、すみやかに王宮を包囲して王権を武力で奪い取り、聖歴661年、無血のうちに政府の交代が行われました。
 こうして、一時的に王都には革命政府がうち立てられるのですが、貴族の権益を失うことを恐れた地方諸侯は、王家と手を結んで王都へと進軍を開始します。これを覆す兵力を持たない革命軍は、共和制政府の成立を諦めて、王制の廃止と封建的特権の一部廃止を条件に、地方諸侯や富裕農民たちを味方に引き入れようとします。これに賛同した者は半数以下であり、革命軍は圧倒的不利な状況にありましたが、一部の革命指導者は血筋を活かしてロンデニアと渡り、ファイン=ファウンドの支配権を渡すことを条件に助力を得ることに成功します。両者を結ぶために奔走したハミルトン子爵の子孫は、現在でも議会で大きな影響力を持つベティス派の議員として活動しています。
 海上の強国ロンデニアの加担により、西部諸侯の中にも革命政権と手を結ぶ者が多くあらわれます。これに対して、貴族派はユークレイ王家に支援を求めますが、ユークレイからの解放を望むヴォルティシア大公国の民衆が革命政権と手を組んで反乱を起こしたために、ユークレイはこの鎮圧に力を割くこととなりました。
 これらの諸勢力の駆け引きと争いは約8年の間続きましたが、聖歴673年には革命派が勝利して王族が処刑されます。そして翌年の聖歴674年、革命政府によってカルネア連邦共和国の誕生が全国に宣言されました。しかし、革命指導者であるクリストフェル伯爵は、凱旋帰郷の際に妻とその愛人であるトバイアス子爵に殺害されてしまいます。彼らは貴族の既得権益を失うことを恐れ、王国軍の残党と内通していたようですが、まもなく革命軍に捕らえられて処刑されています。


○共和制カルネアの成立(聖歴674年〜683年)

 貴族との間の交渉を一手に引き受け、強力な指導力を持つクリストフェル伯爵を失った革命派は、国家制度の制定において内部で紛糾することになります。しかし、ユークレイなど国外からの干渉を招きそうになると、革命指導者の一人であったハミルトン子爵を全面に立てて、国内外の貴族との駆け引きを行うようになりました。
 しかし、ハミルトン子爵は民衆が望む清廉潔白な指導者ではなく、自らの権益を守るために貴族優位の体制を覆そうとはしませんでした。これは必ずしも彼の私欲による決断ばかりとはいえず、地方諸侯と交わした約束上も大胆な改革を断行することが出来ませんでしたし、政府には武力で強引にこれを進めるほどの力もなかったのです。また、ユークレイ等の対外的脅威の存在を考えると、貴族を敵に回して内戦に突入するのは自殺行為と呼べるものでした。
 彼の妥協的政策は政府上層部では仕方のないものとして受け入れられましたが、理想を夢見る急進派の青年たちには受け入れられず、彼は遊説の途中で暗殺されることになります。そして、急進派に半ば脅される形で担ぎ出されたアディア=セルシア(セルシア兄弟の弟)が、政府首班として立つことになるのです。そして暫定法によって、封建制度の撤廃、法の下の平等、身分制議会の再開、出版の自由などが定められ、貴族は民衆に課す様々な税を決める権限も奪われることになりました。また、貴族の土地が没収されることはありませんでしたが、領地に属する農民が解放されたために、貴族の土地はあくまでも私有財産でしかなく、税も課されることとなりました。
 当然のことながら貴族たちはこれに納得せず、南部を中心に反政府活動を始めます。しかしこの時、カルネアにはまた1つの大きな転機が訪れます。聖歴679年にヴォルティシア大公国の民衆が本国からの独立を果たし、カルネアへの参入を求めるのですが、封建的特権を守ろうとする貴族は、これを理由にユークレイと手を結んで、解放戦争と称した武力闘争をはじめました。しかし、この3年後の聖歴682年、ライヒスデールにあった北デール王国とカスティルーンとの間で移民問題に端を発した戦争が起こると、ユークレイは南方の国境付近にも警戒しなければならなくなります。ユークレイとカスティルーンの間では同盟が結ばれていたため、支援要請を無視するわけにはゆきませんでしたが、うかつに兵を送れば北デール王国との関係に亀裂が入ることになります。ユークレイは国境付近に兵を配備して静観しておりましが、劣勢になった北デール王国が南部に興ったライヒスデールに支援要請を行ったため、いよいよ大戦へ突入するかと思われました。
 しかし、これを機と見たカイテイン帝国が、ヴォルティシア大公国の民衆をユークレイの圧制から解放するという名目で、ユークレイとの国境付近に兵を置いて牽制したため、ユークレイはこちらも警戒せずにいられない状況に陥ります。その後、霧氷の詩と呼ばれる変異現象で北デールおよびライヒスデールの連合軍が退却したのをきっかけに、ユークレイは国境から速やかに兵を引きます。そして、独立運動の中心となっていたヴォルティシア大公国民(旧ウィルマー公国を除く)の独立を認め、カイテインにも兵を引かせることを約束させたのです。
 こうして聖歴683年にこの緊張状態は緩和され、貴族たちの多くはユークレイへと亡命し、ヴォルティシア大公国の民衆がカルネア国内へと移住することとなりました。そして、続く聖歴685年には、旧ウィルマー公国の1/3とヴォルティシア大公国の一部を交換する形で国境線が確定されます。この国境は現在の位置と全く同じものとなります。
 改革派は逃亡した貴族の領地を没収し、富裕農民や産業資本家などに売却することで資金を得ました。このため、国内貴族の力では改革派を押さえることが出来なくなり、封建的特権の廃止を認めることになるのです。その後、税を支払うために貴族は土地を売却したり、大農場経営者として生き残ることとなります。土地を持たない貴族の運命は悲惨なもので、没落貴族として他国へ亡命したり、平民同様の立場に立たされることになりました。逆に、もともと革命に参加していた貴族はもちろん、いち早く改革派に賛同した貴族たちは、政治家や地方の名士として権力を握るようになります。


○奴隷解放戦争(683年〜現在)

 その後、カルネア国内では憲法が制定され、ロンデニアを模倣した議会政治が行われるようになります。議会は貴族と革命指導者たちによる上院と、民衆代表による下院の二院で構成されており、保守派と自由派が主流な派閥として上院で争っておりました。当時、地方代表の平民によって構成される下院は力は力が弱く、地方の意見を政府に述べる程度の立場でしかありませんでした。しかし時代が過ぎて、聖歴719年にフレイディオンで緑葉革命が起こり、市民の権利や法の下の平等という意識が浸透するにつれて、下院が力を増して上院との立場を逆転してゆきます。また、産業の発達とともに有産市民が台頭し、力のない貴族が没落してゆくことで、ますます下院の勢力が増すこととなりました。
 そして、聖歴725年に憲法の改正が行われ、上院議員への立候補に対しても身分等の制限がなくなると、上院は下院の決議に対する参考審議を行う機関へと変化しました。こうして上院と下院の立場が完全に逆転し、地方代表の議員が政治の実権を握るようになると、貴族出身や革命指導者の血を引く議員が下院へと参入し、やがて平民派であるカルネア国民党と旧貴族派である民主共和党の2党が勢力を誇ることになるのです。
 聖歴730年代に入ると、一時的にラガン帝国に奪われていたペルソニア植民地を再び取り戻します。また、聖歴753年にはルワール大公国の植民地を奪い取り、ペルソニアの領土をさらに拡大することに成功しました。これによって奴隷貿易が盛んになり、運び込まれた奴隷たちは農場で厳しい労働を強いられるようになります。
 しかし、カルネア国民党を支持する北部と、民主共和党を支持する南部の対立は時を経るごとに激化してゆきます。これは北部の保護貿易主義と南部の自由貿易主義との対立が主な原因ですが、他にも南部の農場での奴隷使役間題や、選挙の際の奴隷の扱い(南部では奴隷の所有者が奴隷の人数分の票を投じることができる権利を主張)など、国政の在り方での対立が山積したことによる結果によるものです。
 その後、両者の対立が最も激しくなった聖歴770年代に、この国を再び分裂させる大きな事件が起こります。これは聖歴775年に、カルネア国民党のウェイリンクが大統領に選任されたことが契機となったもので、南部諸州の支持する民主共和党はウェイリンクの就任と同時に南部連合を設立しました。そして、翌年の776年には新たなる政府を南部に発足させ、国家は南北に2分されることになったのです。このような事態に陥ったことの遠因に、産業資本家の台頭があります。経済によって国に多大な影響力を及ぼすようになった資本家たちが議院になるにつれ、旧来の制度を維持しようとする南部の大農場経営者(旧貴族や地主階級)と対立を深めたため、現在の結果が生まれたといえるでしょう。両者の溝は深く、ついに話し合いによって歩み寄ることはできずじまいでした。
 そして、聖歴788年8月に起こった逃亡奴隷虐殺事件をきっかけに、ついに内戦が勃発します。これがカルネア奴隷解放戦争の始まりです。昨年より始まったこの内戦は、現在までは南部有利の展開で進んでいます。しかし、昨年の虐殺事件に対する怒りから、黒人を中心とした一般志願兵が急増しており、今夏にも北部では南部へ大侵攻を開始する予定でいます。


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