ルワール植民地/全体

基本情報民族問題


 

基本情報


○統治制度

 ウェルナー小州(A-3地域)およびマルティア小州(C-3、C-4地域)が、ルワール大公国の植民地として扱われています。


▼管轄
 植民地は辺境伯(植民地総督)が統治する独立伯爵領となります。ルワール本国においては、独立伯爵領は準州として扱われますが、辺境領土であるペルソニア植民地は小州として区分されます。そのため、植民地は1つの領邦国家として、領内に独自の法を持つことが許されています。

▼首長
 辺境伯は領主貴族(支配階級)として1つの自治体を統括する行政長であり、この地位は世襲的に代々受け継がれてゆきます。

▼制度
 植民地の自治体制度は国家制度とほぼ似たような構造を取っています。貴族領主あるいはその指名者が、小州知事や市長といった自治体の最高責任者となり、その下部に議会と行政組織が整備されています。
 小州は大公国の法律に抵触しない範囲で独自の法を設置することも出来ますし、行政組織を改編することも可能となります。

▼監査
 大公国の行政組織は地方行政に深く介入する権限を持たず、領主貴族が一切の権限を持っています。


○治安

▼警察
 本国と同様の制度を取っており、警察組織は領地単位で運営されます。個別の警察組織は、治安判事という役職を中心として活動しております。治安判事は1つの地域や街の警察組織を統括する刑事で、部下の警吏を率いて事件捜査を行うと同時に、軽犯罪に関する裁判も担当します。


▼軍事

◇管轄
 ルワールでは地方自治体がそれぞれ独自に軍隊を保有しており、これが集まって国家軍を構成しています。軍の将校となるのは貴族たちであり、領主は自領地の軍を指揮する権限を有しています。常備軍ではありますが、職業兵士ではなく農民層を中心とした徴兵と傭兵が主力となっています。

◇出動
 植民地軍の全体の指揮を行なうのは領主貴族ですが、個別の部隊を直接指揮するのは貴族である将校となります。


○宗教

 ルワール大公国の国教は聖母教会であり、植民地においてもそれ以外の信仰は認められておりません。植民地政府も現地宗教を徹底的に排除する方針で動いており、現地民は強制的に改宗させられています。


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民族問題


○ドゥーガル人問題

 ドゥーガル人(黄人)の独立運動に関する問題は、本国でも重要な案件として取り扱われています。これは植民地においても例外ではなく、ウェルナー小州(A-3)では黄人を中心とする反抗勢力に対する警戒が高まっています。


▼捕虜
 もともとドゥーガル人はラガン帝国の民で、優秀な傭兵を輩出する一族として知られていました。彼らがルワールの支配地で暮らすようになったのには、以下のような事情があります。
 聖歴705年のことですが、ルワール大公国はメルリィナ継承戦争の最中に失った領地を奪還するため、隣国であるジグラット領内への侵攻を開始します。この時、ジグラットはラガン帝国に助力を求め、これに応えて派遣されたのがドゥーガル人の傭兵部隊です。戦いは4年のあいだ続きましたが、途中で国王が逝去したことでジグラット軍の統制が乱れ、ルワール側が勝利することとなりました。この戦いの際にジグラットの軍勢が分断されて、ルワール側に一部の兵士が取り残されたのですが、新たなジグラット王アズルはもともと反ラガンの立場にあり、自国の捕虜に対する身代金しか支払いませんでした。そのためドゥーガル人傭兵の多くが、ルーワルの捕虜として収容所に入れられてしまったのです。
 聖歴709年にペルソニアの植民地駐留軍が壊滅状態に陥ったことで、ラガン帝国政府はその処理に謀殺され、捕虜となったドゥーガル人兵士の返還要請をねばり強く行うことはありませんでした。また、ドゥーガル人はもともと帝国の主要な構成民族でもなく、かつて幾度かの反乱に加担したことも、彼らを切り捨てる理由となったのでしょう。
 ともあれ、こうして兵士たちは母国へ帰る道を断たれ、鉱山や農地開拓のための労働力として、奴隷同様の待遇で強制労働させられました。このうちの一部は後に脱走し、ルワール南部の山中などに身を隠して生活するようになりましたが、多くは不幸な境遇に置かれたままとなったのです。


▼解放
 しかし、ペルソニア大陸への参入を考え始めた当時のルワール大公は、聖歴720年代に入るとすぐにドゥーガル人に対する方針を転換せざるを得なくなります。この時期、ペルソニアでの権益を得るためには、交易ルートを支配していたカーカバートを無視することは出来なかったのですが、彼らはルワールと手を組む代償として、同じ民族であるドゥーガル人捕虜の解放を求めたのです。この要求は聖歴724年に承諾されましたが、多くのドゥーガル人は自分たちを切り捨てた帝国への復帰を望まず、幾つかの集団に分かれて新たな道を歩むことになります。強制労働から解放された後、多くの者は開墾した土地の一部を得て農夫となったり、下層の労働者や兵士としてルワール国内で暮らすことを選びました。また、カーカバートに移って船乗りや貿易商人として身を立てた者や、後にルワールが得たペルソニア植民地や都市国家半島で暮らすことを選択した一団もいます。


▼思惑
 ペルソニアへ移住したドゥーガル人の殆どは、再び兵士としての人生を送ろうと考えた者や、その子供たちで占められておりました。彼らはペルソニアに新たな領土を得ようとしたルワールに傭兵として雇われ、弱体化したラガン帝国から植民地を奪うために戦うことになります。そして、聖歴730年代の初頭にはA-2地域の西部を、聖歴736年にはA-3、A-4地域を手にするのです。その後、カルネアやエリスファリアと争い、A-2およびA-4の植民地を失うことになりますが、これらの戦いにもドゥーガル人傭兵は参加し、勇猛果敢に戦いました。
 なお、表向きには知られておりませんが、ドゥーガル人傭兵に参戦を要請したのはカーカバート市で、非公式にですが彼らの給与の一部も肩代わりしています。というのは、後ろ楯としていたラガン帝国を失ったカーカバートは、ロンデニア・ルワールと手を組むことにより、交易ルートを守ろうとしていたからです。そもそも、ドゥーガル人捕虜の解放もその計画の一部であり、単に民族を同じくするという理由だけではなく、ラガンからの植民地の奪取を念頭として、さして利益のない交換条件を持ち出したのです。


▼現状
 カーカバートの思惑はともあれ、ルワールはラガン帝国から植民地を奪い取ることに成功し、現在もウェルナー小州(A-3)およびマルティア小州(C-3、C-4)を維持しています。戦いで活躍したドゥーガル人傭兵たちは、そのまま植民地の市民として暮らすことになり、その子孫たちの多くがウェルナー小州に残っています。しかし、彼らも含めた殆どの黄人たちは、ラガンの出自ということもあってあまり良い待遇を受けず、これまで多くの不満を抱えたまま生活しておりました。
 さらに、聖歴784年に本国でドゥーガル人の独立運動が起こると、この領内での黄人差別も激しくなってゆきます。これに反発する黄人勢力に呼応して、他の有色人種の抵抗運動も起きはじめており、軍隊が出動する騒ぎも何度か発生しています。その背後には、植民地内部の分裂を狙うエリスファリアがいると考えられており、領内に潜伏している密偵の調査も積極的に進められています。


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