略史
現在のライヒスデール北部はヴァルネル人のヴァリュア公国が、ライヒスデール南部からフレイディオン北端までの地域では、リミュール人によるエルンシュテン公国が存在しておりました。これら公国は前聖歴400年代にイーフォン皇国へと統合されますが、やがて皇国内では反乱が相次ぐようになり、前聖歴155年にはヴァリュア公国領の住民が皇国から離れ、北方に移動してカルネアを建国します。空白となったヴァリュア領では、皇国を離反した自治都市を中心としたフルド連盟が結成されます。この連盟は前聖歴64年にフルド連邦国家となりますが、皇国の侵攻を受けるうちに弱体化してゆき、西部にあったリミュール人主体のレシュタット公国に少しずつ占領されるようになりました。
その後、イーフォン皇帝の死によって皇国は崩壊し、エルモア中央部は小国家乱立時代へと突入します。この混乱期にもレシュタット公国は東へと勢力を伸ばし続け、聖歴7年にはフルド連邦国家を完全に制圧し、ブリュンヒル連合国を成立させます。連合王国は港湾都市エスワルトを通じた貿易で発展しますが、聖歴300年ごろになるとロンデニアと海上で対立するようになり、ロンデニア海軍の前に敗北を繰り返します。これにより、連合国は陸上交易に力を入れるのですが、交易で影響力を増した東部諸侯に西部諸侯が反発し、王国を離れて新たにベルラッセン王国を建国します。しかし、ベルラッセンは飢饉や戦いで弱体化し、再びブリュンヒル連合国への帰属を求めます。そして聖歴484年、統合を機会に新たにデール王国が誕生するのです。
デール王国は王権を維持するための封土を求めて、国外との戦いに明け暮れることになります。しかし、これらの戦いでデール王国は何の成果も得られず、財政は悪化の一途をたどりました。こうして王国の分裂が進むようになると、ウィンステリア公国を中心とした中西部諸侯の間で関税同盟を結成されます。同盟は加盟国を増やして発展を続け、聖歴668年、南部にライヒスデール(デール連合国家)を建国します。ライヒスデール成立後もデール王国は解体せず、やがて北デール王国と名乗るようになりますが、王国はカスティルーンとの戦いに敗れたことで国力が急激に低下し、聖歴686年にライヒスデールへの参入を決定します。
こうして統一されたライヒスデールは、しばらく国内制度の整備に時間を費やすことになります。しかし、聖歴719年、フレイディオンで緑葉革命と呼ばれる市民革命が起こると、貴族主義の崩壊を恐れたライヒスデールはこれに干渉し、フレイディオン国内へと進軍を開始します。ところが、南北の足並みが揃わなかったライヒスデール軍は、ペトラーシャの支援を受けた革命軍に破れてしまうのです。
聖歴740年代に入るとバウムアネス1世が皇帝位につきますが、彼はフレイディオンでの敗北への反動から富国強兵政策を展開してゆきます。そして、リヒトマイムを宰相に迎えて、国民国家の意識のもとに帝国内の意識統一を果たします。リヒトマイムは強固な信念の下に強引な改革を繰り返し、皇帝のもとに全ての権力を集中させてしまいました。晩年のバウムアネス1世は皇帝権の強制発動によって、聖歴767年、フレイディオンと軍事同盟を結んでユークレイの霊石鉱田を狙って戦争を起こします。この国境紛争は決着がつかないまま現在に至っています。
◆ライヒスデール年表
前聖歴 出来事 540年〜 北部にヴァルネル人によるヴァリュア公国が建国される。同様に、南部からフレイディオン北端までの地域にリミュール人によるエルンシュテン公国が成立する。 460年〜 周辺公国との間に戦いが起こり、前聖歴429年にはエルンシュテン公国が、前聖歴425年にはヴァリュア公国が敗北、併合される。 412年〜 7公国からなるイーフォン皇国が成立し、それぞれヴァリュア領、エルンシュテン領として皇国に臣属。皇国はやがて隣国エクセリールと戦いを繰り広げる。 184年 カリス卜人の反乱によって、皇国からメルレイン王国(現在のルワール、メルリィナ、ルクレイド)が独立する。 155年〜 ヴァリュア公国領の住民が皇国から離れ、北方に移動してカルネアを建国。空白となったヴァリュア領では、皇国を離反した自治都市を中心としたフルド連盟が結成される。 64年 フルド連邦国家が建国され、皇国から完全な独立を果たす。やがてフルド連邦は戦いにより弱体化し、西部のレシュタット公国に少しずつ占領されてゆく。 聖歴 出来事 6年 イーフォン皇国の滅亡によってエルモア地方全土で戦乱が起こる。 7年 レシュタット公国によりフルド連邦国家が完全に制圧され、ブリュンヒル連合国が建国される。連合国は港湾都市エスワルトを通じた貿易で発展する。 300年〜 ミュンフ朝ロンデニアと海上で対立するようになる。 413年 西部諸侯が連合国を離脱し、ベルラッセン王国の建国する。 455年 セルロッタ島で鉱脈と炭田が発見され、ベルラッセン王国、カルネア、 ユークレイ間で争いとなるが、後にこの地で鬼人王と呼ばれる怪物が発掘される。3国の連合によりからくもこれを倒すが、死に際に残した呪いで生物が突然死するようになり、この島は不可侵の領域となる。 479年 ロンデニアとの戦いによる敗北から、ベルラッセン王国が再びブリュンヒル連合国へ帰属。 484年 ベルラッセン王国とブリュンヒル連合国の合併により、デール王国が誕生する。 498年 現フレイディオン北部にあったジュレーヌ=ネリル連合王国への侵攻。これにより、ベルデヒナル候国を初めとする幾つかの国を併合。 532年〜 ユークレイへの侵攻を行うが、543年には敗北し撤退。 565年〜 ペトラーシャへの干渉を行うが、他国の参入により戦果を得ることなく撤退。 668年 デール王国を離れた諸侯が、国内南部にライヒスデールを建国する。デール王国は北デール王国と呼ばれるようになる。 682年 北デール王国から逃亡した領民の返還を巡って、カスティルーンとの間で戦いが起こる。北デール王国はライヒスデールと同盟を結んで侵攻を開始するが、変異現象によって死傷者を多数出して退却。 686年 国力が急激に低下した北デール王国はライヒスデールへの参入を決定する。 719年 フレイディオンの緑葉革命に干渉するが、革命軍に敗北する。 743年 バウムアネス1世が皇帝位につき軍国主義化が進む。 767年 皇帝権の強制発動によって、フレイディオンと軍事同盟を結んでユークレイへの侵攻を開始する。 775年 バウムアネス2世が皇帝位につく。
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詳細史
○ヴァリュア公国(〜前聖歴155年)
現在のライヒスデール北部は、当初はヴァリュアと呼ばれる公国によって支配されておりました。これは前聖歴540年頃に、ヴァルネル人のリケルト=フォンベルグが武力によって平定したもので、ヴァリュア公の地位はフォンベルグ家が世襲的に受け継ぎました。同様に、ライヒスデール南部からフレイディオン北端までの地域では、リミュール人によるエルンシュテン公国が成立し、フォルティンス家の治世が続いておりました。
しかし、前聖歴500年代の初頭には、周辺の有力諸侯たちが支配域を巡って激しく対立するようになります。そして前聖歴460年には、ヴァリュア、エルンシュテン、レヴォンシャ、トーラッド、ヴァンテンデル、ソラルスキア、フゼットの7つの公国の間で、統一戦争と呼ばれる50年あまりにおよぶ戦いが始まります。
7公国の争いは前聖歴440年代に激化しますが、レヴォンシャ公王(現フレイディオン南西部)とヴァンテンデル公王(フレイディオン北部)が手を結ぶと、この両国が少しずつ領土を広げてゆくようになります。そして、エルンシュテン公国は前聖歴429年に、ヴァリュア公国は前聖歴425年に、その他の公国も前聖歴412年までに破れ、長い戦乱はようやく終わりの時を迎えます。
レヴォンシャとヴァンテンデルの両家はそれぞれの王子と王女の間で婚姻を結び、7公国からなるイーフォン皇国(現ライヒスデール、フレイディオン、ルワール南部、メルリィナ、ルクレイド、エストルーク、ペトラーシャ南部)を誕生させます。隣国エクセリールは皇国の誕生を快く思わず、まだ戦乱後の疲弊が残る皇国に対して侵攻を行いますが、イーフォンは団結してこれを防ぐと、エクセリール領土に対して逆侵攻を開始します。この2大国の争いは数百年の間続くのですが、最終的にはイーフォンの力が上回り、エクセリール王朝は徐々に衰退してゆくことになります。
イーフォン皇国はもともとは聖母教会を国教としておりましたが、前聖歴200年代末になると政治に口を挟んでくる聖母教会を疎ましく思い、その影響力を積極的に削ごうとしました。そして前聖歴198年に、イーフォン皇帝は独断で法教会への改宗を果たし、これを皇国の国教として布教しようとします。
法教会の教皇はイーフォンおよび隣国アルヌー(現カスティルーン)の王権を神が認めた権威であると宣言し、神の名の下に戴冠式を執り行おうとします。しかし、教会の反教皇派および諸侯の反発によって皇国内部に不協和音が生じ、戴冠式の直前に起こった一部の聖堂騎士による教皇の暗殺に続いて、改革派による教会組織の大刷新が始まることになります。これにより教皇という地位そのものが消滅し、新たに法王を教主とする組織が法教会の主体となり、秩序、法、正義、公正の4つが信仰の中心に置かれることになりました。
また、これに続いて皇国内部でも反乱が相次ぐこととなり、前聖歴184年にはカリス卜人の反乱によってメルレイン王国(現在のルワール、メルリィナ、ルクレイド)が、前聖歴155年にはヴァリュア公国領の住民が皇国から離れ、北方に移動してカルネアを建国することになります。こうして、エルモア中央部の勢力は、大きくイーフォン、メルレイン、エクセリールの3つの分かれることとなったのです。
○フルド連邦国家の成立(前聖歴155年〜聖歴6年)
その後、空白となったヴァリュア領では、皇国を離反した自治都市を中心としたフルド連盟が結成されます。この連盟を主導したのは自治都市の1つエリキュエルでした。その後、エリキュエルの都市代表であったロアン=ツェルゲは、巧みな政治手腕を買われてフルドの連盟議会の議長の地位を得ると、前聖歴64年にフルド連邦国家を建国します。
皇国はこれら離反した地域に対して侵略を開始しますが、弱体化した軍事力ではこれを抑えることは出来ず、逆に撤退を余儀なくされました。しかし、皇国や周辺諸侯国との戦いを経るうちにフルド連邦の財政は窮乏し、また商人たちの中にもフレイディオン地方などへと逃げ出す者も多くあらわれるようになります。こうして弱体化した連邦国家は、西部にあったリミュール人主体のレシュタット公国に少しずつ都市を占領されるようになるのです。
その後、エルモア地方を揺るがす大きな事件が起こります。それが聖歴元年のユナスの降臨で、彼女はイーフォン皇帝フィエル=ミュン=イーフォンの死を予言し、そして長き戦乱時代が訪れることを嘆いていたのだといいます。そして直後、ユナスの予言通りに皇帝フィエルは死亡し(心不全と考えられています)、皇国はその後の内乱によってわずか6年で滅亡することとなったのです。こうしてカイテイン、ラガン、イーフォン、メルレイン、ベルメック、フィアンの六大国時代の崩壊し、エルモア中央部は小国家乱立時代へと突入します。なお、イーフォン皇帝の死は神による天罰と人々は信じ込み、力を失いかけていた聖母教会は多くの信者を取り戻すこととなります。
○ブリュンヒル連合国(聖歴6年〜484年)
レシュタット公国はその後も勢力を東へと伸ばし続け、皇国崩壊後の聖歴7年にはフルド連邦国家を完全に制圧し、ブリュンヒル連合国を成立することになります。これが現在のライヒスデールの母体となる国家です。しかし、当時の諸侯たちはイーフォン皇帝のような存在をつくることを避け、王に過剰な権力を与えることはありませんでした。レシュタット公国は諸侯と主従関係を結ばないまま、あくまでも盟主として対等な関係を強いられたのです。
その後、現ライヒスデール南部から現フレイディオン北部かけての地域には、イーフォン皇家の血を引くジュレーヌ王国が誕生しますが、軍事的才能に長けたリヒター王が退位すると、ジュレーヌ王国は基本路線を平和外交に転換したため、南部の国境線が安定化します。また、聖歴221年に北方のユークレイに興ったイコローズ朝などとの戦いも経験しますが、戦乱に疲弊した都市や候国はブリュンヒル連合国への併合を選択し、領地を拡大してゆきました。
その後、2度の盟主交代が行われ、盟主はやがて国王としての地位を与えられるようになりますが、特に内部では大きな問題は起こらず、主に港湾都市エスワルトを通じた貿易で発展し、連合国は安定期を迎えます。しかし、聖歴300年ごろになるとミュンフ朝ロンデニアと海上で対立するようになると、屈強なロンデニア海軍の前に敗北を繰り返したため、陸上交易や国内産業の発展に目を向けざるを得なくなります。
このため、現ペトラーシャにあったテルミジア公国を通じてカイテイン帝国などと交易を行うようになると、国内東部の諸侯の力が強まってゆきます。もともと王権も弱かったことから、後の時代にはこれら諸侯の力を抑えることが出来なくなり、伝統的に西部貴族から輩出されていた国王が、東部のレーベンドルフ侯爵家から出ることになります。しかし、エルンスト王が東部地域を過剰に優遇したことから、西部諸侯が連合国を離れてゆき、やがて1つの政治団体を結成します。そして聖歴413年に、西部諸侯は有力貴族であったバウムガルト公爵を王としたベルラッセン王国の建国を宣言し、ブリュンヒル連合国から離脱することになるのです。
しかし、ベルラッセンはその後の飢饉やセルロッタ島を巡る戦いで多くの死傷者を出したことで、わずか50年ほどで弱体化してゆきます。逆に現ライヒスデール北部の諸侯たちが、ペルドラッド朝ユークレイから離反しブリュンヒル連合国への臣属を試みたことから、両者の力関係は圧倒的になってしまいます。
そして、聖歴479年にロンデニアとの海戦に敗れると、結局ベルラッセン王国はブリュンヒル連合国への帰属を求めることになります。統一当初は各諸侯の利権争いが激しく、一時的に国内は乱れましたが、国家の崩壊をおそれた宰相ビュッフォン侯爵の主導の下に、国内制度の改正が進んでゆきます。そして再び国家が割れないよう、国内有力7諸侯と3名の聖職者による国王選挙制度を設け、諸制度も含めた強力な中央集権体制を整えます。こうして聖歴484年、新たにデール王国が誕生することになるのです。
○デール王国の治世(聖歴484年〜658年)
その後のデール王国は、王権を維持するための封土を求めて、国外との戦いに明け暮れることになります。
▼フレイディオンへの侵攻
海への道をロンデニアによって奪われたデール王国は、現フレイディオン北部にあったジュレーヌ=ネリル連合王国がブリンテンハウラ連盟(現フレイディオン南西部)へ侵攻したことを契機に、南方への侵攻を開始します。これは、ジュレーヌ=ネリル連合王国に侵略されたフレイディオンの海洋貿易都市からの要請によって為されたもので、大義名分としては支配と圧制からの解放でした。これによって聖歴498年には、現在の国境付近にあるベルデヒナル候国を初めとする幾つかの国を併合し、領土を拡大することに成功します。このため、ジュレーヌ=ネリル連合王国はブリンテンハウラ連盟と和平を結んで侵攻を停止し、北への防御を固めることになります。
▼ユークレイへの侵攻
ジュレーヌ=ネリル連合王国が防備を固めたため、デール王国は南方への領土拡大を諦め、逆に北のユークレイへの侵攻を企てるようになります。ちょうど、聖歴500年代初頭のユークレイは王朝の交代によって国内が乱れており、王家に追随していた諸侯のうちデール王国へ逃亡を図るものも現れました。その後、ユークレイ内部では貴族による連合体制政治が行われるようになりますが、やがて内部で確執が生じるようになり、聖歴532年にはヴェルナザ家嫡子の暗殺事件が起こります。これによってヴェルナザ家は連合を離反して、ヴェルナザ大候国の建国を宣言し、デール王国北部を治めていたローデンシェラ侯爵と同盟を結びました。ローデンシェラ侯爵の母親は、かつてデール王国へと逃亡したペルドラッド家の外戚であり、それを理由に継承権を主張しました。デール王国の北部諸侯もこれを支援しましたが、連合は最有力貴族であるラズフォード家を中心に結束してこれに対抗し、11年後にヴェルナザ家を打倒してこの争いに終止符を打ちます。
▼ペトラーシャへの干渉
聖歴565年になると、隣国ペトラーシャで継承戦争が勃発します。これは世継ぎをつくらないまま王が急死したために起こったもので、数多くの勢力が入り乱れて70年余りの長いあいだ継続しました。主な勢力として王母派、王妃派、王妹派の3つがあり、女性を中心とした争いだったので、これを女継戦争と呼ぶこともあります。
この間、ペトラーシャ西部では地方領主によるアイマーン連盟が成立し、新たな議会を設けて独自の政府を樹立します。デール王国はこれを支援して継承戦争に干渉するのですが、カイテイン軍が出兵を開始したため、しばらく情勢を見守ることになりました。その後、カイテイン軍が遠征に失敗して撤退すると、デール王国はペトラーシャ国内への侵入を開始しようとしますが、これを警戒して王母派が国境付近へと兵を配備します。すると、すぐさま王都付近で民衆の蜂起が起こり、アイマーン連盟内部でも民衆による反乱が発生したため、デール王国軍はその鎮圧に借り出されることとなったのです。しかし、反乱は思いのほか長く続き、補給部隊が民衆に襲われるといった事態が発生するようになると、無益な消耗を防ぐために国境付近まで兵を引くことを決定します。また、後にカスティルーンがペトラーシャ国内へ侵攻を開始したため、ライヒスデールは隣国が力をつけるのを恐れ、両国の国境付近へと部隊を送り込んでその動きを牽制するのですが、カスティルーンはこれに対してユークレイの力を借りて北からデール王国と圧力をかけるようになります。これら後の領地割譲などをもくろんでの列強の行動は互いを牽制し合う結果となり、国内の革命勢力を助けることになりました。最終的にこの内乱は民衆の革命勢力が勝利をおさめ、ペトラーシャの政治は民衆の手に渡ることになります。
○ライヒスデールの成立(聖歴600年〜668年)
このように、他国へ干渉しようとするものの、デール王国は何も戦果を挙げることなく、いたずらに時を費やすばかりとなります。しかし、戦闘はせずとも戦費はかさむもので、聖歴600年代に入ると軍の維持費の捻出も困難な状態へと陥りました。これによって、聖歴630年代には既に国内では厭戦気分が蔓延し、国王に対する反発の声は日に日に増すばかりになります。しかし、王政を維持するためには領土の拡張は必須であり、戦いを止めるわけにはゆきませんでした。
その後の王国は、まず国内経済の立て直しから始めなければなりませんでした。そのため、デンシェンベール侯国の知事デミット=オーフェンベルガーが、新たな宰相に任命されます。彼は下級貴族出身でしたが、短期間で侯国の財政を立て直した実績があり、国民はその手腕に大きな期待をかけていました。しかし、貴族への課税問題に抵触するようになると諸侯は彼を疎み始め、彼の提案をことごとく却下してしまうのです。また、王は意志薄弱な人物で、女王に何か言われるとあっさりと自分の意見を翻してしまうので、オーフェンベルガーは自分を抜擢した王さえ頼ることが出来ませんでした。こうしてオーフェンベルガーは失脚させられ、改革は中途半端な状態で終わることになります。
その後、王は独自の判断で公債を発行するなどの対処法を取りますが、これは借金を増やすだけに過ぎませんでした。この失敗によって王はますます求心力を失い、王国内部は政治的な分裂状態に陥ります。
王国政府を頼ることが出来ない以上、諸侯は自分たちで対策を立てるしかありません。やがて国外で先進的な教育を受けた貴族たちが1つの派閥を作り上げ、いち早く工業改革に目を向けたウィンステリア公国を中心として、中西部を中心とした関税同盟を結成します。彼らは関税の廃止と穀物取引の自由を成立させ、同盟内での経済的な統一を果たしました。また、戦争から逃れてきた国外の熟練労働者などを積極的に受け入れ、優秀な外国製品に対抗するための国内産業の基盤を形成することに成功します。これに伴い、工業生産力を向上させる目的で農奴解放を断行したため、貴族主導の改革でありながら国民の強い賛同を得ることが出来ました。しかし、これによって他諸侯からの反発は一層強くなり、やがて同盟から離反する者もあらわれるようになります。しかし、工業力によって明らかに力をつけてゆく関税同盟を見て、後に東南部の諸邦国もこれに同調するようになり、新たなる秩序がデール王国の南半分を覆うようになります。
こうして聖歴668年に新たな議会が結成され、ライヒスデール(デール連合国家)が誕生しました。ライヒスデールでは選挙王政は廃止され、ウィンステリア公国の王がライヒスデールの皇帝を兼任することが憲法に明記されました。
○国家統合(聖歴668年〜686年)
ライヒスデールが成立した後もデール王国は解体せず、やがて北デール王国と名乗るようになります。この時、国内ではどちらの国家に臣属するかで諍いを起こし、実際の戦闘にまで発展する領地も存在しました。カスティルーンとの国境線近くにあったルッツェンドゥルフ候領もその1つで、血族同士の諍いはやがて周辺領地を巻き込む大きな戦いへと姿を変えてゆきます。この戦乱は聖歴676年まで続きますが、難民となった侯爵領の民がカスティルーンのクランベル地方へと押し寄せ、国境線付近に農村を形成して定住し始めました。
結局、侯爵一族は北デール王国への臣属を求めたのですが、この時に逃げ出した農民の返還を巡ってカスティルーンとの間で紛糾し、ついに聖歴682年、両国の間で戦いの火蓋が切って落とされます。この戦乱はなかなか決着がつかず、カスティルーンは状況を打開するために、当時同盟を結んでいたユークレイへの支援を要請します。しかしユークレイでは、ちょうど属国のヴォルティシア大公国の独立運動が起こっていた時期であり、北デール王国との関係を悪化させたくはありませんでした。そのため、ユークレイは国境付近に兵を配備して静観するのみとなりますが、北デール王国もこの存在を無視することは出来ず、国境防備のために兵を割かなければなりませんでした。
もともと戦力に劣る北デール王国はこの劣勢をどうにか挽回すべく、敵対していたライヒスデールに支援を要請します。こうして同盟を締結した北デール・ライヒスデール連合軍は、軍勢を整えてカスティルーン領内へ進軍を開始し、いよいよ本格的な大戦へと突入するかと思われました。しかし、カスティルーン南方で起こる霧氷の詩と呼ばれる変異現象によって、連合軍は戦う前に死傷者を多数出し、結局は退却せざるを得なくなってしまうのです。こうして聖歴683年に戦いは終結し、現在の国境線が確定することになります。
この敗戦によって国力が急激に低下したことから、聖歴686年、北デール王国はライヒスデールへの参入を決定します。しかしこれは臣属ではなく、王家は1つの王国としての自治権を要求しました。こうして帝国内には2つの秩序が生まれ、北デール王国内では諸侯の自治が約束され、南方では1つの憲法の下で活動する大きな自治体が存在するという、複合制度の大国家が生まれることになります。なお、北部の統治方法を小デール主義、南部の統治方法を大デール主義と呼ぶ場合もあります。
○軍国主義時代(聖歴686年〜現在)
その後の20年間は、国内制度の統一などに時間を費やすことになり、国家全体として対外行動を取ることはありませんでした。しかし聖歴719年、フレイディオンで緑葉革命と呼ばれる市民革命が起こると、貴族主義の崩壊を恐れたライヒスデールはこれに干渉し、フレイディオン国内へと進軍を開始します。ところが、北デール王国と南部貴族の間での統率が取れず、ペトラーシャの支援を受けた革命軍はこれを撃破し、市民による共和制政府を成立させてしまうのです。
その後、フレイディオンでは六月議会と呼ばれる国民議会が開かれ、王制廃止と憲法の発布を行いました。しかし、この革命は都市の有産市民が中心となって行なわれたものであり、選挙権を有産市民に限るなどの決定を行ったために、後には農民階級との意見の食い違いが起こり、国内に乱れが生じます。また、貴族制度を廃止できなかったために、力を残していた貴族の意見を抑えることが出来ませんでした。貴族たちは立憲君主を唱えていたのですが、主流であった共和主義のパウエル派の意見を覆すことが出来なかったために、後にライヒスデールやソファイアと通じるようになります。
これら貴族の要請によって、ライヒスデールはフレイディオンへの再度の軍事介入を試みるのですが、フレイディオン国内の反乱鎮圧などで活躍したアレイスラー=カヴァリア将軍によって、再び敗北を喫してしまいます。なお、カヴァリアはこの戦いで国民から英雄として祭り上げられ、後にフレイディオン国家元首の地位に就くことになります。
聖歴740年代に入るとバウムアネス1世が皇帝位につきますが、彼はフレイディオンでの敗北への反動から、軍事力の増強と国内の統一意識を高める必要性を感じ、強いライヒスデールを目標とした富国強兵政策を展開してゆきます。バウムアネス1世はロンデニアやペトラーシャを模倣した徴兵による常備軍を完全に整えると、聖歴751年には北デール王国を武力で制圧し、大デール主義による帝国内の完全統治を完成させます。そして、ロンデニアで先進的な教育を受けたリヒトマイムを宰相に迎え、国民国家の意識のもとに帝国内の意識統一を果たします。その後、リヒトマイムは強固な信念の下に強引な改革を繰り返し、皇帝の独裁色の強かったライヒスデールをさらに民主化から遠ざけ、皇帝のもとに全ての権力を集中させてしまいました。
その後、晩年の聖歴767年には皇帝権の強制発動によって、フレイディオンと軍事同盟を結んでユークレイの霊石鉱田を狙って戦争を起こしました。この国境紛争は決着がつかないまま現在に至っています。
バウムアネス1世の子、バウムアネス2世の治世になると、帝国は極端な選民思想のもとに少数異民族の排斥を行うようになります。皇帝はリミュール人を最も優秀な民族であると宣言し、それ以外の民族の地位を低いものとしています。彼は奴隷の存在すら認めておらず、最近では古くからこの地に住んでいた民族でさえも、国外へと移住する姿が目立つようになっています。これは国家全体にとって見れば不利益になりかねないやり方ですが、彼を止める存在は未だこの国には現れておりません。
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