カスティルーン王国/歴史

略史詳細史


 

略史


 前聖歴585年、現在のカスティルーン北部地域に、聖人ルーンと法の教えを崇めるルーン連盟が誕生しました。しかし、後にルーンを失った連盟は崩壊寸前の状態まで行き着き、半分近くの自治都市が南方にあったエクセリール王朝に支配されることになります。この危機を脱するため、前聖歴554年、ルーンの側近の呼びかけでナヴァール人の土着宗教とルーンの教えを融合した法教会が設立されます。その後、この地には共和制のレナト連邦国家が建国されます。レナト連邦はエルモア中央部にあったイーフォン皇国と結び、国外勢力から国土を守るようになります。そして前聖歴241年には、連邦首長のアルヌー家がイーフォン皇国の後押しを得て、アルヌー王朝カスティルーンを設立します。
 しかし、イーフォン皇国が分裂をはじめ、イーフォン、メルレイン、エクセリールの3勢力で争うようになると、アルヌー王朝も戦いに巻き込まれてゆくことになります。やがて王国内部でイーフォン皇国への不満が高まってゆくと、地方領主だったランカード家がカイテイン帝国と手を結び、前聖歴22年にランカード王朝を創始します。イーフォン皇国はランカード朝への侵攻を企図しますが、皇帝フィエルの死によって皇国の支配体制は崩壊し、その後の内乱によってわずか6年で滅亡することとなりました。
 ランカード朝は聖歴100年頃までに現在の3/4ほどの大きさになりますが、聖歴392年になると跡継ぎがなくなって断絶し、アイスター王朝がはじまります。後にこの王朝は、南方のマウロリディア公国と戦勝地の扱いで対立することになりますが、ユークレイのペルドラッド朝との戦いが重なったために、マウロリディア公国が奇跡的に勝利をおさめます。これを契機にマウロリディアはカスティルーンからの独立を図り、聖歴429年、マウロリディア王国が成立することになります。カスティルーンとマウロリディアは、後にマウロリディア王子とカスティルーン王の妹の婚姻によって、統一を目標に動きはじめます。国家統合には時間がかかりましたが、聖歴562年、2人の息子が王位に就くことで、ようやく両国は同一の君主を抱くことになりました。そして、聖歴578年には議会が統合され、カスティルーン=マウロリディア両王国として統一を果たすことになります。
 聖歴632年になると、両王国はペトラーシャ継承戦争への介入を行いますが、何の利益も得られないまま撤退することになります。それからの王国は伝染病や農民反乱の影響で衰退してゆきます。もともと人口が少なかったマウロリディアの被害は大きく、また、聖歴675年にはランカード家の血筋が途絶え、ユークレイから迎えられた血縁者がこの地を相続したことで、マウロリディア人の自治に対する意識が失われてゆきます。このため、聖歴682年には属領としてカスティルーンに臣属することが議会で決定され、カスティルーンは1人の王を戴く1つの国家として完全に統合されるのです。
 ちょうど同じ年の聖歴682年、北デール王国(現ライヒスデール)から逃げ出した領民の返還を巡って、両国の間で戦いの火蓋が切って落とされます。この戦乱はなかなか決着がつきませんでしたが、南方で起こる霧氷の詩と呼ばれる変異現象によって北デール王国は戦う前に死傷者を多数出し、結局は退却せざるを得なくなってしまいます。こうして聖歴683年に戦いは終結し、現在の国境線が確定することになります。
 その後の王朝は国内における諸問題が立て続けに起こり、王権が弱体化してゆきます。そして、カルネアで起こった人権革命の余波もあって、不満を募らせた民衆による幾つもの反乱が相次ぎました。これらの影響によって、聖歴702年に農奴解放が行われるようになりました。その後、国外との戦いもなく産業を通じて安定した発展を遂げたカスティルーンは、先進国家としての地位を確立しています。カスティルーンの名が国外で聞かれるのは、決まって霊子機関を代表とする先進技術の開発についてであり、今後も工業を主体とした国内産業で発展を遂げてゆくことになるでしょう。


◆カスティルーン年表

前聖歴 出来事

624年
 聖人ルーンの出現。聖母教会主教のセルトラーン、ルーンを神の子と認定。

589年
 聖母教会の異端派がセルトラーンのもとへ集まる。

585年
 北部地域に聖人ルーンと法の教えを崇めるルーン連盟が誕生。

582年
 セルトラーン死亡(91歳)。
579年〜  南方にエクセリール王朝が成立し、連盟への侵攻が開始される。
577年  聖人ルーン、我が身を犠牲にして魔神を滅ぼす。
554年  ナヴァール人の土着宗教との融合による法教会の設立。

548年
 聖職者と現在のライヒスデールを追われた騎士団を加えた戦士団が結成され、法教会と連盟を守護する聖堂騎士団が発足。

525年
 ベリンシャ=クロンウェルが法教会の後押しを得て、ナヴァール人を中心とした共和制のレナト連邦国家を建国。

493年
 レナト連邦と同盟を結んだスレイラール人の連合が、カイテイン帝国からの独立を果たす。
412年〜  エルモア中央部にセナイア人主体によるイーフォン皇国が成立。やがて、レナと連邦とイーフォン皇国は手を結んで、周辺国家と戦うことになる。

241年
 連邦首長のアルヌー家がイーフォン皇国の後押しを得て、アルヌー王朝カスティルーンを建国する。

218年
 南方にあったエスキナ王国を滅ぼす。ルーンが没した聖地の奪回を果たす。

184年〜
 イーフォン皇国が分裂し、エルモア中央部ではイーフォン、メルレイン、エクセリールの3勢力が争う。アルヌー王朝もこの戦いに巻き込まれる。

22年
 反イーフォン勢力のランカード家がカイテイン帝国と手を結び、ランカード朝を創始する。
聖歴 出来事
6年  イーフォン皇国の滅亡。エルモア地方全土で戦乱が起こる。

273年
 ペトラーシャ連合王国に対して、現ペトラーシャ東南部を治めていたエリンプラッフ王国が、ペトラーシャ北部のテルミジア公国およびマウロリディア公国と結んで侵攻を開始。カスティルーンはペトラーシャと結んでこれを撃退し、マウロリディア公国を領土とする。

276年
 デルフィーヌ女王が死去。この時、マウロリディア公国に嫁いでいたフリーダ王女が、唯一の血族としてカスティルーン女王の座につく。しかし、フリーダが夫であるマウロリディア公子に王位を譲り渡そうとしたことから、マウロリディアとの間で戦いが起こる。

281年
 カイテイン帝国を支援したことで、カスティルーンが敗北する。フリーダは女王位を放棄するかわりに、マウロリディアの自治を獲得。カスティルーン王位には、フリーダの息子ヨシュアがつく。

293年〜
 カスティルーンがマウロリディアへ侵攻を企図するが、家臣による国王ヨシュアの謀殺により中止。公式には原因不明の突然死として発表される。

295年
 フリーダの息子でヨシュアの弟フェリクスが王位につく。

392年
 跡継ぎが途絶え、ランカード朝が断絶する。マウロリディアの力を削ぐために公国から跡継ぎが出ることはなく、アイスター朝が創始。

422〜429年
 ペトラーシャとマウロリディア公国の連合軍が、南のテルミジア公国へと侵攻を開始。これにアイスター王も加担するが、戦勝地の扱いに関して公国と王のあいだで争いが起きる。しかし、ユークレイのペルドラッド朝との戦いが重なった王家は公国に敗北。これを契機にマウロリディアは王国から独立し、マウロリディア王国が成立する。

433年
 都市国家半島で起こった火山噴火の影響で飢饉が発生。

480年〜
 カスティルーンがペルドラッド朝ユークレイへ侵攻を開始し、一部領土を失う。

539年
 カスティルーン王の妹リュアンナとマウロリディア王子ラディスの駆け落ち事件。これにより、両国の間で戦いが起こる。しかし、カスティルーン王が急死したために、リュアンナが王位を継承することになり、戦いは終結する。

547年
 リュアンナとラディスの間に、後の統一王リカードが生まれる。

562年
 リュアンナとラディスがともに息子リカードに王位を譲り渡し、両国は同一の君主を抱くことになる。

578年
 両国は議会を統合し、カスティルーン=マウロリディア両王国として統一を果たす。
632年  ペトラーシャ継承戦争への介入を行うが、何も得ることなく撤退。
650年〜  国内で伝染病が蔓延。ペトラーシャからの移民が引き起こしたものだという噂が広まり、ペトラーシャ移民への差別が広がる。この問題は法教会の介入によって解決される。

682年
 伝染病による人口減少でマウロリディアの国力が低下。このため属領としてカスティルーンに臣属することが議会で決定され、カスティルーンは1つの国家として完全に統合される。
 北デール王国から逃げ出した領民の返還を巡って戦いが起こる。しかし、変異現象によって北デール王国は戦う前に死傷者を多数出して退却。翌年には戦いは終結し、現在の国境線が確定。

702年
 農奴解放が行われる。

713年
 現在も続いているベルファティク朝が創始される。
727年  ユークレイ、ペトラーシャとの間に神聖同盟が締結される。盟主はカスティルーン。
767年  ライヒスデールとフレイディオンの軍事同盟が締結され、ユークレイに侵攻を開始する。カスティルーンは同盟の一員として後方支援。


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詳細史


○建国期(前聖歴624年〜前聖歴241年)
 
 前聖歴585年、現在のカスティルーン北部地域に、聖人ルーンと法の教えを崇める自治都市民の集合であり、軍事同盟でもあるルーン連盟が誕生しました。これはナヴァール人を主体とするものですが、聖母教会を破門となった主教セルトラーンを慕って集まった聖母教会の異端派一門が、連盟の団結に大きな影響を与えました。この集団は後の法教会の基礎となるもので、前聖歴582年にセルトラーンが死亡した後も、術法の力を用いてこの地方の発展に尽力することになります。
 しかし、前聖歴579年、南方にマイリール人によるエクセリール王朝(カスティルーン南部、ペトラーシャ東部、ルワール北部、エリスファリア、ジグラット、カイテインの一部地域を含む王国)が誕生し、連盟の領土に対して侵攻を開始します。連盟は強い結束力を保ってこれに対抗したのですが、前聖歴577年になると前線付近の都市(現在の首都カステリア周辺)に出現した魔神が付近の住民を襲うようになり、エクセリール王朝に大きな隙を見せることとなりました。そのため、ルーンは周囲の制止を振り切ってこの怪物の討伐に赴き、相討ちとなって命を落としたのです。その後、ルーンを失った連盟は崩壊寸前の状態まで行き着き、半分近くの自治都市がエクセリール王朝に支配されることになります。
 この危機を脱するため、ルーンの側近の1人であったティレジア=ヴェスターファの呼びかけで、前聖歴554年、ナヴァール人の土着宗教とルーンの教えを融合した法教会が、正式な宗教機関として設立されることになります(なお、法教会の誕生そのものはセルトラーンの死亡日となっています)。そして、前聖歴548年には聖職者と現在のライヒスデールを追われた騎士団を加えた戦士団が結成され、教会と連盟を守護する聖堂騎士団が発足されました。
 その後、前聖歴525年になると、連盟の1都市の長であったベリンシャ=クロンウェルが法教会の後押しを得て、ナヴァール人を中心とした共和制のレナト連邦国家を建国します。これが現在のカスティルーンの母体となります。レナト連邦国家は現ユークレイの地に住んでいたスレイラール人と同盟を結び、彼らを支援して前聖歴493年にカイテイン帝国からの独立を勝ち取らせることに成功します。両者は手を携えながらカイテインの侵攻を防ぎ、少しずつ国家体制を整えてゆきました。しかし、戦費がかさんだり土地を離れる民が増加したため、連邦に加盟する都市は増えても必ずしも戦力の増強とはならず、しばらくはエクセリールの軍事力に怯えながら辛うじて国家体制を維持することになります。
 こうして少しずつエクセリールに領土を奪われてゆくのですが、前聖歴412年にエルモア中央部(現ライヒスデール、フレイディオン、ルワール南部、メルリィナ、ルクレイド、エストルーク、ペトラーシャ南部)に、セナイア人主体によるイーフォン皇国が成立することで状況に変化が訪れます。これによって、ペトラーシャ北端からカスティルーン南部にかけての地域がエスキナ王国としてエクセリールから独立し、エクセリールとイーフォン皇国の双方と対立することになりました。
 これによって、エスキナ王国を挟撃するためにイーフォンとレナト連邦は一時的に手を結ぶことになるのですが、この時に台頭したのが貿易に携わっていたアルヌー家です。最終的にレナト連邦はアルヌー家に多くを依存することとなり、連邦首長の地位は世襲制へと移行してゆきます。そして前聖歴241年にイーフォン皇国の後押しを得て、ついにアルヌー王朝カスティルーンが成立することになります。


○アルヌー王朝期(前聖歴241年〜前聖歴22年)

 エスキナ王国はルーンが没した地であるディムルーン地方中部(現カステリア市)を保有していたため、法教会は聖地奪回を呼びかけて戦士を募り、前聖歴218年にエスキナ王国を滅ぼすことに成功します。そして、条約によってディムルーン地方を取り戻し、王朝は現在のカスティルーンの3分の2ほどの面積を領有することになりました。
 これが成し遂げられたのも、イーフォン皇国が親法教会の立場にあったからです。この頃のイーフォン皇帝は、政治に口を挟んでくる聖母教会を疎ましく思い、その影響力を積極的に削ごうとしていた時期でした。同時に、アルヌー王朝になってからの法教会の内部は、王朝の宮廷文化の影響を受けて世俗化が進み、積極的に権力と結びつこうとしておりました。
 後にイーフォン皇帝は独断で法教会への改宗を果たし、これを皇国の国教として布教しようとします。法教会の教皇はイーフォンおよびアルヌーの王権を神が認めた権威であると宣言し、神の名の下に戴冠式を執り行おうとします。しかし、教会の反教皇派および諸侯の反発によって皇国内部に不協和音が生じ、戴冠式の直前に起こった一部の聖堂騎士による教皇の暗殺に続いて、改革派による教会組織の大刷新が始まることになります。これにより教皇という地位そのものが消滅し、新たに法王を教主とする組織が法教会の主体となり、秩序、法、正義、公正の4つが信仰の中心に置かれることになりました。そして、アルヌー王朝とも距離を置き、独自の領地を持つ組織へと発展してゆきます。
 また、これに続いて皇国内部でも反乱が相次ぐこととなり、前聖歴184年にはカリス卜人の反乱によってメルレイン王国(現在のルワール、メルリィナ、ルクレイド)が、前聖歴155年にはヴァリュア地方(現ライヒスデール地域)の住民が皇国から離れ、北方に移動してカルネアを建国することになります。こうして、エルモア中央部の勢力は、大きくイーフォン、メルレイン、エクセリールの3つに分かれることとなったのです。
 その後、3勢力は戦乱を繰り返し、アルヌー王朝もその戦いに巻き込まれてゆくことになります。しかし、長くイーフォンと手を結んでいたアルヌー王朝内部では、関税問題や同盟と称した国境要塞の事実上の占領などが理由となって、イーフォン皇国への不満が高まっておりました。また、ちょうどこの時期には王朝の跡継ぎがなく、親戚であるイーフォン皇国筋の貴族が迎えられる可能性が高まり、国内では反イーフォンの気運が盛り上がっていたのです。ここで行動を起こしたのが陸路交易と武器生産で力を蓄えた地方領主のランカード家で、南方のエクセリール王朝と、イーフォン皇国の成立に手を貸したことで現在のペトラーシャの北部地方を得ていたカイテイン帝国と手を結び、前聖歴22年にランカード王朝を創始します。そして、地方の民衆に大きな影響力を与えていた法教会を再び国教としたり、都市に特権を与えて諸侯の勢力を削ぐといった、国内改革を推進してゆきました。


○ランカード王朝前期(前聖歴22年〜聖歴100年)

 イーフォン皇国はもちろんこの動きを歓迎するはずもなく、ランカード朝への侵攻を企図しますが、ここで1つの大きな事件が起こります。それが聖歴元年のユナスの降臨です。彼女はイーフォン皇帝フィエル=ミュン=イーフォンの死を予言し、そして長き戦乱時代が訪れることを嘆いていたのだといいます。そして直後、ユナスの予言通りに皇帝フィエルは死亡し(心不全と考えられています)、皇国はその後の内乱によってわずか6年で滅亡することとなったのです。こうしてカイテイン、ラガン、イーフォン、メルレイン、ベルメック、フィアンの六大国時代の崩壊し、エルモア中央部は小国家乱立時代へと突入します。なお、イーフォン皇帝の死は神による天罰と人々は信じ込み、力を失いかけていた聖母教会は多くの信者を取り戻すこととなります。
 その後のランカード王朝は、しばらく外敵の脅威にさらされることなく、国家の基盤を築き上げてゆきました。聖歴24年にカイテインで火山噴火が起こり、エルモア東部地方は飢饉に見舞われますが、ユークレイを通じて食料を輸入したり、法教会が備蓄していた食糧を解放するなどして、この危機を見事乗り越えます。また、震災や内乱といった影響で瓦解状態にあったペトラーシャ北部地域からマイリール人が流れ込んで来るのですが、法教会が自らの領地を彼らに分け与えることで、国家の生産基盤としてこれを取り込むことに成功します。こうして少しずつ領土を南へと広げてゆき、聖歴100年頃までに現在の3/4ほどの大きさに達することとなりました。


○ランカード王朝中期(聖歴100年〜295年) 

 ランカード朝はその後、聖歴392年まで続きます。この間、ユークレイにあった小国家やカイテインと国境紛争を幾度か繰り返し、領土を奪ったこともありますが、産業にも農業にも乏しいこの地は大国とはなり得ませんでした。
 聖歴200年代になると、王朝はさらなる中央集権化を果たしますが、聖歴261年に生まれたとされるフリーダ王女によって、王国の運命は大きく変わることになります。フリーダは聖歴264年に女王の位についたデルフィーヌの異母妹で、彼女は10歳の時にウィッスリー地方北部にあったマウロリディア公国に嫁ぎました。マウロリディア公国はカスティルーンと南方を繋ぐ地域で、陸路交易はもちろん防衛上でも重要な地点です。ただし、公家は王家に併合されず自治を保ち続けた土地柄で、この当時も王国から独立した存在でした。
 マウロリディアが歴史において重要な役割を果たすのは、聖歴273年からとなります。この年、南にあったペトラーシャ連合王国に対して、現ペトラーシャ東南部を治めていたエリンプラッフ王国が、ペトラーシャ北部のテルミジア公国およびマウロリディア公国と結んで侵攻を開始したのです。しかしこの時、ペトラーシャは法教会を通してランカード朝カスティルーンを味方とし、逆にエリンプラッフ王国の2/3以上を領土とすることに成功します。この敗北により、マウロリディア公国はカスティルーンの支配下に置かれ、フリーダは捕らえられ牢獄へと幽閉されることとなりました。しかし、聖歴276年にデルフィーヌ女王が逝去し、弟王子たちも既に亡くなっていたことから、唯一の血統であるフリーダが女王の座に就くこととなります。しかし、彼女は未だマウロリディア公の嫡子ビョルンの妻であることを宣言し、監禁状態にあったビョルンに王位を譲り渡そうとしたのです。
 わずか15歳の少女がこのような発言をするとは誰もが思わず、王国内は騒然となりました。当然のことながら諸侯はこれに激しく反発して、ビョルンが王位に就くことを断固として拒みます。しかし、2人の婚姻は法王の下で行われたものであり、離婚は破門に該当する事項で、強引に離婚させることは法教会に背くことを意味します。そのため諸侯は貴族院での弾劾裁判を行い、戦犯としてビョルンを処刑しようと試みますが、フリーダは自らに仕える騎士の助けを得てビョルンを救出し、マウロリディア公国へと居城を移して北方への防備を固めます。
 その後、両国家の間ではフリーダとビョルンの身柄を巡る戦いが繰り広げられますが、カイテインがマウロリディア公国を支援したため、思いのほか戦いは長引くことになります。この援助はもちろん善意によるものではなく、失ったテルミジア公国を取り戻すためにペトラーシャへ侵略する間、マウロリディアにカスティルーンを押さえて貰おうという思惑があったのです。カイテインの助力と土地の利を活かして、マウロリディアは圧倒的不利な情勢にいながらも奇跡的な勝利を収めます。しかし、フリーダは争いの種になることを恐れ、マウロリディアの自治を承認する代わりに(ただし、立場は公国でありカスティルーンに臣属)、王位を放棄することを誓います。    
 カスティルーン王国はこれを承諾し、聖歴281年、王位継承者にはまだ幼いフリーダの息子ヨシュア(当時4歳)が就き、後見人の役をユーステイシア侯爵が努めることとなりました。ヨシュアは親の顔を知らずに育ちましたが、自分が侯爵をはじめとした諸侯に逆らえば、小国であるマウロリディアの運命が終わることは知っていたので、大人しく傀儡としての役目を果たし続けます。これに加えて、逆に両親が何か行動を起こせば自分の命も危ういという状況で育ったためか、いつもおどおどとして周囲を伺うような目つきをした子供だったと伝えられています。また、噂では侯爵の男妾としての少年時代を過ごしたとも言われています。
 このような歪んだ時期を過ごしたヨシュアは、やがて少しずつ粗暴で残虐な面を見せ始めます。しかし、侯爵に溺愛されていた彼は、その性格を矯正されることなく成人してしまうのです。やがて聖歴293年、彼は侯爵を暗殺して政治の実権を握ると、自分に従わない家臣の粛正をはじめます。この暴虐に耐えかねた側近のマノエル伯爵は、自身の身を守るためにヨシュアを毒殺しようとしますが、これは未遂に終わってしまいます。ヨシュアは事件の首謀者を探そうと執拗に捜査を行わせますが、伯爵は自分が信用されていることを逆手にとり、この事件は両親の仕業であると主君に吹き込みました。この時、既にフリーダとビョルンの間には10歳になるフェリクスがおり、彼らがその子を王位に就けようと企んでいるのだという話を、ヨシュアは疑うことなく信じ込んでしまいます。ヨシュアもまた育ての親のユーステイシア侯爵と同じく、少年を愛した男として知られており、後宮には何百という男妾を抱えていたものの、未だ跡継ぎを設けておりませんでした。その事実が伯爵の話に信憑性を与え、激怒したヨシュアは遂に両親のいるマウロリディア攻略に着手します。
 しかし、他国と接する土地柄であるマウロリディアおよび、王家の血筋としても重要なフリーダ一家を見殺しにすることは出来ず、諸侯は相談してヨシュアを謀殺してしまいます。歴史の上ではヨシュアは死因不明のまま葬られることになりますが、誰もが暗殺されたものと考えました。なお、この暗殺劇はフリーダたち両親が真の首謀者という歴史家もいますが、事の真偽はいまもって判明しておりません。ともあれ、こうしてマウロリディアは侵略を免れますが、王家の血を失ったカスティルーンはフェリクスを兄と同じように両親から引き離し、玉座に据えることになるのです。これが聖歴295年のことになります。


○マウロリディアの発展(聖歴295年〜429年)

 フェリクスの王位継承によってマウロリディアの独自性は保たれるのですが、跡継ぎを失ったフリーダは深く悲しんだといいます。しかしそれも束の間のことで、まもなくフリーダは三男ユリアード、長女ルセットの双子を出産します。
 その後、ユリアードとミュッセ地方のエルナンディア領を所有するパヴィエル伯爵の娘との婚約が決まります。そして、パヴィエル伯爵の死後、ユリアードはエルナンディアを相続して現カスティルーン南部一帯を統一し、この地は政治的、文化的、経済的な交差点としての役割を果たすようになります。
 聖歴392年になると、カスティルーン王国では跡継ぎが途絶え、ランカード朝が断絶することとなりました。しかし、交易によって大きく発展していたマウロリディアの力を削ぐために、公国から跡継ぎが出ることはなく、有力貴族の家系であり母がペトラーシャ王の血縁となる、レイジーク=アイスター侯爵が王位に就くことになり、アイスター朝が創始します。
 その後、マウロリディア公国はペトラーシャと手を結んで、テルミジア公国を滅ぼすこととなります。ちょうどこの頃のテルミジア公国は、ライヒスデールとカイテインのルーヴィン一族との間に立ち、陸上交易で力をつけておりました。これらの国家の繋がりを恐れ、また陸上交易の支配をもくろんだペトラーシャは、聖歴422年にマウロリディア公国と手を結んでテルミジアへと侵攻を開始したのです。
 当初、カスティルーン王家はユークレイにあったペルドラッド王朝との戦いに専念しておりましたが、マウロリディア公国の発展を阻止すべく、独自にペトラーシャと同盟を結んでテルミジア制圧に手を貸します。その後、ユークレイとの紛争が終結すると南方へと兵を進め、戦いに勝利して現在のミュッセ地方の南部を得るのですが、本来この地はマウロリディアに割譲される約束がなされておりました。しかし、ペトラーシャが遠縁となる王家に義理立てして、公国がカスティルーン王家に臣属していることを理由に、この地方の処遇をカスティルーン王国に委ねることを一方的に宣言します。
 当然のことながら、この支配権に対して王家とマウロリディア公との間でもめることになります。しかし、この時にマウロリディア公と争ったアイルディーク公が変死し、それがマウロリディア公の仕業として国中で騒がれるようになります。アイルディーク公は国王の寵臣でもあっため、怒った王はマウロリディアへ軍を派遣します。これには、かつてより与えられていた自治権もこの機に乗じて奪い取り、南方との交易権を王家のものにしようという目論みもあったようです。しかし、この戦いにペトラーシャが介入しなかったことと、ペルドラッド朝との戦いが激しくなったことで、マウロリディアが再び奇跡的に勝利してしまうのです。そして、これを契機にマウロリディアはカスティルーンからの独立を図り、聖歴429年、マウロリディア王国が成立することになります。


○アイスター王朝の混乱(聖歴429年〜544年)

 その後、聖歴433年に起こった飢饉のために、アイスター王朝は対外行動は自粛せざるを得なくなりますが、この影響から立ち直ると再び北方への侵攻を開始することになります。そして、聖歴480年代にはペルドラッド朝(ユークレイ)から領土を奪い、北へと勢力を拡大してゆきます。しかし、マウロリディアは交易では隆盛を誇ったものの、領土の拡張には至らず、強国の狭間で静かに自治を保つことになるのです。
 しかし、聖歴539年に、再びこの国を揺るがす大きな事件が起こります。その主役となったが、当時のカスティルーン国王パルロの異母妹リュアンナと、マウロリディア王の一人息子ラディスの2人です。
 この頃の両国の関係はきわめて良好でした。一方、北方ユークレイでは聖歴509年の王朝交替によって国内は乱れ、王家に追随していた諸侯の中から、現ライヒスデールの地にあったデール王国へ逃亡を図るものも現れておりました。その後、ユークレイ内部では貴族による連合体制政治が行われるようになりますが、やがて内部で確執が生じるようになり、聖歴532年にはヴェルナザ家嫡子の暗殺事件が起こります。これによってヴェルナザ家は連合を離反して、ヴェルナザ大候国の建国を宣言し、デール王国北部を治めていたローデンシェラ侯爵と同盟を結びます。ローデンシェラ侯爵の母親は、デール王国へと逃亡したペルドラッド家の外戚であり、それを理由に継承権を主張し、デール王国の北部諸侯もこれを支援しました。
 カスティルーンおよびペトラーシャは、デール王国への対抗心からラズフォード家を王位に推します。そして、カスティルーン王家はラズフォード家との婚姻を進め、そのために王妹リュアンナを嫁がせようとしておりました。しかし、婚約を祝うパーティで出会ったラディス王子とリュアンナ王女は恋に落ち、ひそかに逢瀬を重ねることになります。それだけではなく、この不義密通の事実はデール王国の諜報員の手によって、カスティルーンやマウロリディアはもとより、ユークレイ国内にも噂となって広まってしまうのです。
 違う母を持ちながらもリュアンナを溺愛していたパルロは激怒し、シュレンブル地方の王領にあるヴォーストン城に閉じこめ、軟禁状態で監視することにします。しかし、召使いたちの手引きによってリュアンナは城から逃げだし、2人は誰の許可も得ぬままユヴァス村の小さな教会で結婚式を挙げてしまうのです(なお、この脱出劇にはある人形使いが関わっていたともいわれています)。法教会では離婚は許されておりませんので、これによって2人の婚姻は公的なものとして受け入れられるかと思われましたが、2人は身分正体を偽っていたために式自体を無効とされてしまいます。これは法教会がペトラーシャ、ユークレイ、カスティルーン3国の友好を目論んだためといわれておりますが、身分を偽っての婚姻は現在でも無効とされるものですので、教会の判断は正しいといえるでしょう。
 その後、2人はマウロリディア王国へと逃亡しますが、すかさずパルロ王はこれを追撃し、国境まで軍勢を差し向けます。しかし、ラディスの父であるファラム王は息子のために徹底抗戦を決意し、そのために国境へと兵を差し向けます。それからまもなく戦端は開かれますが、マウロリディアの国民も王子を敬愛していたため士気も高く、カスティルーン軍は兵力に勝りながらも国境線を破ることは出来ませんでした。
 開戦から1か月後、再び状況を一変させる事態が起こります。パルロ王が前線で急死したため、一時停戦条約が結ばれることとなったのです。パルロ王には一人娘のカロリーナがおり、彼女が王位を継承することになると思われたのですが、ヴェネリン公爵がまだ幼いカロリーナを傀儡としようと目論んだことから、公爵に対立していた貴族がこれに反発し、リュアンナを王位継承者として擁立しようと考えたのです。そしてこれら反公爵派の諸侯は、王の娘カロリーナが王妃と寵臣の間にできた子供だという風聞を流して、その継承権を真っ向から否定します。
 思いもかけない形で王位継承者として担ぎ出されたリュアンナですが、彼女自身は王位に就くつもりは全くありませんでした。しかし、ヴェネリン公爵の手の者によると目される暗殺未遂が3度も続いて起こったため、王位に就くことが身を守る最善の策であることを思い知ります。こうして一時的に、マウロリディア王城には亡命宮廷が置かれ、2つの国の宮廷が並立する形となりました。
 その3か月後、カロリーナの母方の叔父にあたるマルムディアス公爵は、その親がペトラーシャ王家の血筋に当たる人物であり、カロリーナを支援するため国境付近にペトラーシャ軍を配備して、マウロリディアに圧力をかけます。しかし、デール王国の干渉によって、ペトラーシャは砦付近に釘付けとなり、両国の間だけで決着をつけることになったのです。
 この戦いはマウロリディア王国派の勝利に終わり、リュアンナが王位に就くことで両国の承認を得ました。同時に2人の婚姻も正式に認められたため、リュアンナの代わりにカロリーナがラズフォード家に嫁ぐことになったのですが、幽閉されている間に彼女が死亡(原因不明)したために、聖歴544年にペトラーシャ王家からラズフォード家へと王女が迎えられ、ラズフォード朝ユークレイ王国が誕生することになります。


○二重統治時代(聖歴544年〜578年)

 正式に婚姻が認められた2人ですが、両国家がこれで統合されるわけではなく、しばらくはカスティルーン領国とマウロリディア領国の連合という形で、両国の統治が行われておりました。というのは、国家統合という形になれば統一君主はリュアンナとなりますが、ラディス王子は未だ即位しておらず、その父ファラムが退位することが統一の条件だったためです。また、王家に過剰な権力が集中することを恐れた諸侯や、あくまでもマウロリディアの自治を望む国民にとって、ラディス、リュアンナの婚姻による統一の思惑は、迷惑なものでしかありませんでした。
 しかし、聖歴547年に2人の間に待望の第一王子リカードが生まれたことから、再び両国統一の意識が高まるようになります。2人は両国の経済や制度の統一を進め、統合に向けて活発に活動するようになります。そして、当時ゴットリーブにあったカスティルーン王宮をカステリアへと移し、協力して両国の内政に当たりました。
 これらの制度改革は諸侯の思惑が絡んで、最初のうちは遅々として進みませんでしたが、2人は貴族同士の党派争いを巧みに利用して互いの政治権力を減殺し、王家への臣従を得るようし向けます。しかし、そのためにリュアンナはカステリアを離れて、国内各地に出向いて統治を行う必要が生まれ、カステリアは宰相としての役割を得たラディスが治めることになりました。そして、リュアンナがカステリアに戻ることが少なくなるにつれて、ラディスも国に帰ることが殆どなくなったために、マウロリディア国内ではラディスの人気が失われてゆきます。
 その後、聖歴558年にファラム王がラディス以外の世継ぎをもうけないまま死亡したことから、ラディスがマウロリディアの王位を継承することになります。しかし、葬儀後も国へは戻らずカステリアに居てマウロリディアを治めたために、宰相のベルーシュ侯爵に人気が集まります。そして、聖歴561年にはマウロリディア王国議会でラディス退位に関する議題が挙がりますが、宰相ベルーシュが友人であるラディスを擁護したため、わずかの票差でラディスは退位を免れます。
 この事件がきっかけとなり、両国統一を理想に掲げる2人は、やがて統一王となるリカードに両国の王位を譲り渡し、聖歴562年、ようやく両国は同一の君主を抱くことになります。しかし、カスティルーン国内では統合に向けて意識統一がほぼなされたのですが、人口において劣るマウロリディアでは、統一された政府、議会における自国の影響力の低下を恐れる声が上がり、あくまでも別国家として扱うことを望みました。そのため、別々の議会を持ちながらも同じ国王によって統治される、同君連合という立場を維持しようとするのですが、聖歴565年にペトラーシャ継承戦争が起こり、その戦火がマウロリディアに及びそうになると、結局カスティルーンの軍事力を頼りにせざるを得なくなります。リカード王はこれを利用して統一の意識を高め、聖歴578年には議会を統合し、カスティルーン=マウロリディア両王国として統一を果たすことになります。


○統一王朝(聖歴578年〜682年)

 国内統合についての政治活動に忙殺されたため、リカードは母と同じように1つの土地に居城を持たず、子供も全て異なる地方で生まれることになります。後にこの子どもたちは、統一の不満を和らげたり対外関係を有利に展開するために利用されますが、これによって1つの国家という意識が保たれたことは確かです。
 彼は生涯を国内統一のためにかけ、国の中央集権体制の基礎を築いて息子ルディオンに王位を譲り渡します。こうして、聖歴601年に王位に就いたルディオン王は、即位から20年をかけて王権を強化し、憲法によって王の立場を規定します。そして、常備軍と官僚を中核とする絶対王政国家を完成させます。
 次に王位に就いたシャーロッテ女王は、聖歴632年にペトラーシャ継承戦争への介入を行いますが、カスティルーンがペトラーシャ国内へ侵攻を開始すると、隣国が力をつけるのを恐れたデール王国(現ライヒスデール)は、国境付近へと部隊を送り込んでその動きを牽制します。これに対してカスティルーンは、ユークレイの力を借りて北からデール王国へと圧力をかけます。これら後の領地割譲などをもくろんでの列強の行動は互いを牽制し合うだけの結果となり、国内の革命勢力を助けることになりました。
 その後、聖歴650年代に入ると、カスティルーン国内では伝染病が蔓延しますが、これはペトラーシャからの移民が引き起こしたものだとして、ペトラーシャ人への差別がはじまります。一部では虐殺が行われたという話もあり、当時のペトラーシャ人の待遇は非常に厳しいものだったようです。しかし、法教会がこの鎮圧に乗り出し、伝染病とペトラーシャ移民の保護に成功して、カスティルーン内での法教会の地位がさらに上がります。
 この伝染病が引き起こした人口減少は深刻な社会問題となりました。そのため議会は農民の移動を制限する政策を採って、農業労働人口の減少に対処します。しかし、税制などの改正も同時に行ったことで負担が増大したため、耐えかねた農民の不満と怒りが爆発して、幾つもの地域で内乱が起こることになります。こうして経済や農業構造に打撃を受け、社会不安から退廃的な世相が蔓延してゆきました。
 聖歴660年代になると、国内状況は少しずつ回復してゆきますが、マウロリディア王国では特に被害がひどく、もともと少なかった人口もさらに減少し、懸念していたように議会での勢力も衰えてゆきます。そして、聖歴675年には国内のランカード家の血筋は完全に失われ、ユークレイにいた血縁者がこの地を相続することになりますが、これによってマウロリディア人の自治に対する意識が失われてゆき、682年には属領としてカスティルーンに臣属することが議会で決定されます。こうしてカスティルーンは1人の王を戴く1つの国家として完全に統合されるのです。


○農奴解放と産業改革(聖歴682年〜現在)

 聖歴682年は、カスティルーンにとってもう1つの大きな事件が起こった年です。これより14年前の聖歴668年、隣国ではデール王国から分派したライヒスデールが誕生し、北デール王国とライヒスデールが併存することになりました。この時、カスティルーンとの国境線近くにあったルッツェンドゥルフ候の領地で、どちらの国家に臣属するかについて血族同士で諍いが起こり、やがて周辺領地を巻き込む戦闘へと発展したのです。この戦いは聖歴676年まで続きますが、難民となった侯爵領の民がカスティルーンのクランベル地方へと押し寄せ、国境線付近に農村を形成して定住し始めました。
 結局、侯爵一族は北デール王国への臣属を求めたのですが、この時に逃げ出した農民の返還を巡ってカスティルーンとの間で紛糾し、ついに聖歴682年、両国の間で戦いの火蓋が切って落とされます。この戦乱はなかなか決着がつかず、カスティルーンは状況を打開するために、当時同盟を結んでいたユークレイへの支援を要請します。しかしユークレイでは、ちょうど属国のヴォルティシア大公国の独立運動が起こっていた時期であり、北デール王国との関係を悪化させたくはありませんでした。そのため、ユークレイは国境付近に兵を配備して静観するのみとなります。しかし、北デール王国もユークレイの存在を無視することは出来ず、国境防備のために兵を割かなければなりません。もともと戦力に劣る北デール王国は、劣勢をどうにか挽回すべくライヒスデールに支援を要請することを決定します。
 こうして同盟を締結した北デール・ライヒスデール連合軍は、軍勢を整えてカスティルーン領内へ進軍を開始し、いよいよ本格的な大戦へと突入するかと思われました。しかし、南方で起こる霧氷の詩と呼ばれる変異現象によって連合軍は戦う前に死傷者を多数出し、結局は退却せざるを得なくなってしまうのです。こうして聖歴683年に戦いは終結し、現在の国境線が確定することになります。
 それからのカスティルーン国内では、継承者が途絶えたりした貴族の領地の相続に関して問題が起こったり、二重結婚による領土獲得といったことが頻繁に行われるようになります。この最も大きいものがフェルマンビィク侯爵家の相続についてであり、王家や有力諸侯をも巻き込んだ政争となりました。この事件は侯爵家の傍系に当たるルースビー家が家督を相続することで落ち着きましたが、貴族たちは事態を混乱させただけで、これを仲裁したのは法教会でした。
 ペトラーシャ継承戦争では何の戦果も得られず、その後に起こった数々の問題も全く収められなかったことから、王権は弱体化して平民の不満はますます募ってゆくようになります。ちょうどこの頃は、北方のカルネアで革命が起こり、王制を打倒して新たなる政府が興った時期でした。民衆はこの影響を強く受け、地方で幾つもの反乱が相次ぎ、貴族たちはその鎮圧に力を注がなければならなくなります。
 これと同じ時期にエルリオン候国(ウィッスリー地方)では、ペトラーシャの影響を受けた領主ヴィエモント候爵が、国家の行く末を変える決断を下しました。この時期は高圧蒸気機関が誕生し、蒸気船の開発などが行われた産業の転換点であり、これらの成果を目の当たりにした彼は、産業育成こそが国家発展の近道であるとして、工業労働者の増強のためにいち早く農奴解放を敢行します。そして、産業保護のための法律制定を議会に提案したり、領内では商工業の保護育成や学校・病院の建設など、幾つもの改革を押し進めたのです。この改革が急進的過ぎたために、貴族からは強い反発を受けるのですが、彼は断固として自分の信念を曲げることはありませんでした。そして、ペトラーシャとの貿易や学問院を通じた他国との技術交流などを頻繁に行い、確実に領内の文化・産業・財政を充実させていったのです。
 他領地の住民はこの成功を見て、各々の領主に対して農奴を解放するよう強く迫ります。こうして聖歴702年に農奴解放が行われ、また、725年には三団会議に民衆代表の議員を送り出すことが出来るようになったのです。その後、国外との戦いもなく産業を通じて安定した発展を遂げたカスティルーンは、先進国家としての地位を確立しています。カスティルーンの名が国外で聞かれるのは、決まって霊子機関を代表とする先進技術の開発についてであり、今後も工業を主体とした国内産業で発展を遂げてゆくことになるでしょう。


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