■プロフィール■ | |
名前 | 嶋 重宣(しま しげのぶ) |
生年月日 | 1976年6月16日 |
身長・体重 | 181cm 95kg |
投打 | 左投左打 |
血液型 | A型 |
出身 | 埼玉県 |
趣味 | ゴルフ |
特技 | 英会話(小学生から英会話スクールに通う) |
家族 | 美紀夫人、実家は両親と兄と弟。 |
推定年俸 | 5000万円(540→540→500→500→460→760→760→760→700→700→4550→5650→5200→5500→4500→5000(2年契約)) |
経歴 | 東北高校から94年ドラフト2位(契約金8000万円、年俸540万円)で入団。 |
背番号 | 34(〜1999)→00(〜2003)→55(2004〜) |
入団までの経緯 | 元巨人の小野と並び東北の2大サウスポーとして恐れられ、甲子園は2年春・夏、3年春に出場。3回戦まで進出した。2年秋の神宮大会では優勝。入団前は高校通算28本塁打の打撃も買われ、野手としての誘いもあったが、投手へのこだわりからカープへの入団を決める。その期待の高さから川口から左のエースの称号である背番号34を引き継ぐ。 |
一軍デビュー | 1997年6月29日 対ヤクルト13回戦 倉敷マスカットスタジアム |
入団後 |
怪我などがあり、投手として活躍することはできなかったが、プロ5年目の99年に打者転向し、いきなり一軍で打率.280を残すなど活躍。私生活では2000年7月に唐木田美紀さんと結婚し、公私ともに順風満帆に思えた。しかし2001〜2003年は主に二軍生活の低迷期を送る。二軍ではレベルの差を見せつけ、3年連続打率3割をマーク。2002年は規定打席に到達した選手中打率トップで最高出塁率のタイトルにも輝くが、一軍で陽の目を見ることはなかった。これに発奮した2002年秋季〜2003年春季キャンプでは内田コーチとの出会いでさらに打撃開眼。オープン戦でも持ち前の選球眼と粘りでアピールし、マスコミもプッシュするが、一軍では結局最終2試合の出場のみに終わった。そんなことからファンの間でも、決して層の厚くなかった一軍陣が不甲斐ない時によく名前が挙がっていた。「なぜ嶋を使わない!!」…と。ついに2003年オフにはトレード候補の筆頭に名が挙がったが、内田コーチの後押しにより、踏み留まらせた。 2004年の今年は三村ヘッドコーチの就任により多くのチャンスを与えられ、紅白戦で大活躍。キャンプの最優秀監督賞を獲得。オープン戦でも好調を持続し、ついに開幕一軍、開幕スタメンの座を手中にした。開幕前から背番号55ということもあってマスコミの間で“赤いゴジラ(後の赤ゴジラ)”とあだ名され、開幕後は周知の通り、三冠争いに絡み、首位打者をキープ。開幕から15試合を経過した時点で5割を維持し(歴代3位)、さらに月間42安打のリーグ新記録を樹立。この活躍に多くの野球ファンや関係者に驚かれたが、今まで嶋をちゃんと見てきた者にとっては不思議ではなかった。2003年度にも十分に期待できた活躍だったからだ。 そして、規定打席初の到達で首位打者・最多安打・ベストナインのタイトルを獲得し、リーグ歴代2位の189安打を記録。背筋痛がなければリーグ記録は確実、イチロー以来の200安打も狙えたので悔やまれるが、塁打でもミスター赤ヘル山本浩二の記録を破ってチーム記録を達成。センター中心に左右に打ち分ける高いバッティング技術と長打力は通算安打日本記録の張本勲にも匹敵、まさに「安打製造機」である。 2005年シーズンはへんとう炎などで出遅れたが、まずまずの成績。2006年シーズンは前半は苦しみ、後半になって復調の兆しを見せ、打率も一時.280台まで上げたが、怪我で離脱。不本意なシーズンに終わった。 2007年は体を絞るなど入念なトレーニングをしたが、右肩の怪我などで年間を通して不調に終わった。2008年シーズンはレギュラー争いからの出発になったが、内田コーチの復帰をきっかけに規定打席未満ながら打率.309をマーク。復活の年になった。 2009年は再び故障などで低調に終わったが、2010年は栗原の離脱中に4番を務めるなどチーム2位の14本塁打をマークした。 |
■2004年度の結果■ |
打率、安打、塁打の三冠。安打と塁打はチーム記録。 タイトルは打率、安打、ベストナイン(外野手部門1位)を獲得。 打率.337(1位) 本塁打32本(9位) 打点84(11位) 得点圏打率.350(5位) 安打189(1位) 得点94(5位) 出塁率.389(6位) 長打率.560(12位) 塁打314(1位) 四球48(12位) 盗塁6(11位) |
【一軍】
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【二軍】
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【一軍】
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【二軍】
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