ヒマラヤ/チョラツェ峰

<報告者> 甲府/望月


<遭難事故日>    2003年10月7日(火)

ACMLの皆さんへ
大阪労山 凍稜会の宮本俊浩です。

昨年10月ヒマラヤ チョラツェ峰6440m南西稜へ二人で挑み、
岩壁の崩壊でパートナーの榊原義夫さんを失いました。
敗退しても楽しい報告をするつもりが最悪の結果になってしまい、
投稿にあたりましてはいろいろ迷いがありましたが
事故を正直に報告して安全登山を期する思いと
お知り合いの方や皆さんと榊原さんの冥福を祈る気持ちでお送りします。

その後
榊原さんの遺体はアマダブラム登攀後の平岡プロ(チーム84)はじめ
コスモトレック の皆さんのご尽力で搬出後カトマンズで荼毘に付され
11/29 、50歳の誕生日の日の追悼会(大阪労山カランクルン山の会主催)
に間に合いました。


チョラツェ報告

10月3日 チョラツェ湖畔にキャンプ適地を発見、ロブジェイーストからは少し距離
が離れてしまったことと短時間で高度がかせげることからこちらのルートで高所順応
も行うことにした。9/27の入山以来、榊原は好きなタバコを欠かしたことなく宮本は
ビールを欠かさずおおむね快調なBC入りとなる。
10月6日 チョラツェ岩峰群の下見をするべくBCを出発。モレーンを登って5400mの
雪線直下にHCを設営。
10月7日 昨夕の高曇りの天気が大いに案じられ、それはここ7日続いた晴天期間の
終わりを告げていた。早朝はガス濃くHC出発は7時過ぎとなった。タウツェとチョラ
ツェのコル5700mを目指して登高、3級ミックス圧雪氷壁20-30mをフリーで登って
ロープをFIX. その後50-60度のヒマラヤヒダのラッセルにあえぎ9:30ごろコル着、
稜線のきのこ雪を払ってゴーキョ側に首を出すと1000m以上切れ落ちる生唾物のナイ
フリッジになっていた。
少し休んで榊原はコルからの岩壁3級20mをすたすたフリーで登高その後雪稜となり
雪質不安定でスノーバーでビレーをとってスタカットで登攀、2P目60度40mの雪壁
は雪団子となってステップが崩れて肝を冷やす。スノーバーは十分にあるものの利き
にくい。このピッチのリードに順応不足の宮本は消耗。さらに雪稜を水平移動して立
ちはだかる岩塔は直下から見て4つあった岩壁の2つ目と思われる。肩で息する宮本
を追い越し榊原はリードの準備をタバコを吸いながら行っていた、別に疲れた様子も
難しそうな様子も無く宮本が目で追ったとうりのルートをナッツ3-4本で中間支点を
取って40m程の最上部にさしかかりしばらく考え左のオオガバ?に手をかけた瞬間 
カタカタカタ とほんの小さな衝動があったか?と思ったら徐々に上の大岩から動き
出しそれはやがて榊原の乗る大岩にまで伝達 ガラ ガラ ガラと総崩れ(連鎖崩
壊)を起こして榊原はセットした支点とともに宙に舞い悲鳴と地鳴りが響く。20mく
らい落ちてバウンドするのを見るが早いか大型冷蔵庫大の岩が目前に迫ってきた。宮
本はこのとき二人の死を予感。スローモーションのように感じられる目の前の大岩を
右によけるか左によけるか直前まで思案の末、右によけて大正解 左肩をかすった大
岩はゴーキョ側に消え小落石を肩背中にうけ顔面鼻下を強打。
自分の無事を確認したあと気がついたのは榊原のうなり声。ロープは1本切断、残っ
た1本にはそれほどのテンションかからずFIXして鼻血出しつつ救出に向かう。45-50
度の雪壁に大岩が削った穴で止まったようで意識ははっきりしており 左手 腰 左
足の異状を訴え、左手の鋭い切り口から露出した骨を力づくで中に入れタオルでしば
る。痛むから触るなという榊原を雪面から岩場に移し上着を着せようとしたところ、
あとは自分でやる、動けないから早くヘリを呼んできてくれと強く頼まれ、水食料を
リュックから出し、ハーネスを再びロープにつないでその場を後にした。
切れたロープを使って下降、HCより林さんからお借りした衛星携帯電話を使って日本
には連絡できたもののカトマンズにはさっぱり通じず、走って下山、1時半ごろBCに
降りて電話のあるタンボチェ村へメッセンジャーを走らせた。コックのヌルブは2時
間でつきます今日中にヘリが飛んでくるかも!と期待させたが夕方になるとガス濃く
霧雨状となり5000mでは降雪を思わせ案じられた、眠れぬ夜をすごし
10月8日この日も晴れて9時ごろヘリが飛んできた。驚いたのはメラピークに登るは
ずの林さん(カランクルン)が降りてきたこと。大いに安心して現場へ案内するもパ
イロットの口からこの高度でのピックアップは不可能との言葉に絶望。
榊原を発見したが手が動いたようにも見えず瀕死状態であると思われた、寝袋もない
状態で二晩過ごすのは難しいと思われた。その後すぐにBCにブルースカイのバサンタ
がヒマラヤレスキューサービスに出動依頼を出したから4時間後に救出に来るといい
にやってきたがやはり午後のガスでヘリは飛ばず、林さんが地元のシェルパと装備を
かき集めてくれアイランドピークから杉山(ぽっぽ会)さん、佐々木さんも合流して
いただいた。宮本はすぐBCより防寒装備、飲食料を持って出発、ナイフリッジをソロ
システムで登攀6時?暗くなるころ榊原に合流するも顔に積もった雪を見て愕然とし
た。  硬直はなはだしくすでに死後かなり時間がたった様子で事故後短時間での死
亡と思われた。
遺髪を採取パスポート等回収して合掌し、心を無にしてその場を後にした。
再び稜線に出たら風雪激しくナイフリッジにヘッドランプでやじろべえ状態の下降を
行いコルからの下降は2度のチリなだれに手足が埋まり冷や汗をかく。ホワイトアウ
トに悩まされながら8時半?のHC帰幕となった。
我々が選んだHCはプルバ(ガイド)がカタコトの英語でテントの設営を拒むほど降雪
時には雪崩のターゲットになりそうな場所だった夜どうし雪が降り続き雪崩の音を聞
いては飛び起きた。
10月9日朝30-40cmの積雪となりいったん下山。その後も雪は降り続きシェルパが回収
に上がったときは腰下の積雪だったらしく、とても再入山できる状態でもなくなり、
シェルパを危険にさらすのも忍びなく搬出断念。
10月10日肩をおとして下山。

我がヒマラヤ登攀の師匠であり人生の目標、楽しい酒飲み友達であるパートナーを目
前で失い、抜け殻状態となってときおり濡れる宮本に空はどこまでも碧く、切ないほ
ど爽やかな風や明るいシェルパたちを前にヒマラヤ山登りなんて止めようと思う決心
もルクラにつくころには再びこの地に戻り榊原さんに再会の決心に変えてしまう。
不思議の国ヒマラヤである。

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