黒部別山・大タテガビン南東壁正面壁露草ルート

黒部別山・大タテガビン南東壁正面壁露草ルート

京都・左京労山/伊藤達夫・野村勝美・京都府大/富澤隆一郎


< 記 録 > 野村 勝美



1996年10月10日〜12日

黒部別山・大タテガビン露草ルートの巻      左京労山 15.OCT.96

<決して知ってはならない禁断の果実>

伊藤 達夫・富沢隆一郎(京都府大)・野村 勝美

10月10日(木) 快晴

7:55ダム駅発−8:55鳴沢出合岩小舎前9:05−10:00南東壁沢F1−(アンザイレン8P)
 −12:10正面壁基部岩小舎12:40−(2P目終了点までFIX)−17:40岩小舎

10月11日(金) 晴れのちくもり、夕刻よりにわか雨

 6:05岩小舎発−7:103P目スタート−11:404P目スタート−15:00同終了、15:30下降
 開始−17:00岩小舎発−18:50南東壁沢出合−19:05鳴沢出合岩小舎

10月12日(土) 晴れ時々曇り

 8:10岩小舎発−9:50ダム駅着
 嫁さんのかけるモップの後を追って、うちのカメ("ワタヤノボル"といいます)さんが駆け回っている。
そんなありふれた光景が、なんとも穏やかでいいもんだなあなんて、今日はふと思ってみたりした。

 「日本三大ぼろ壁」というものがある。しばらく前のアルパインクライマーで藤原某という人がいて、
その人によれば、「それらを登らねばでクライマーに非ず」という。

 これらの壁、とにかく「ぼろぼろ」らしい。これを登り切るだけの強さがなければ真のクライマーと
は呼べぬ。また、これを登れれば、あらゆるルートのどのような場面でも対処できうる − という意図
であったと思う。

 大タテガビン南東壁沢正面壁とは、まさにその筆頭と目される壁である。

  今回はちょっとした事情から自分の企画が実行できず、正月の計画の偵察にも都合がよさそうだった
ので、実に軽い気持ちで達夫さんのプランに合流した。が、待てよ、ガビンって例の「三大壁」だよな、
露草ルートって、以前「悪すぎる」って達夫さん自身敗退したところじゃなかったっけ?!とりあえずルー
ト紹介にすらなっていない登山体系の記述を読んではきたが、いざ扇沢へと向かう車中の人になって初め
て、単純ではなさそうな状況に気が付いた。当の達夫さんはといえば、後から思えば、どうやらしらばっ
くれていた様子。

そしてそして、実際はどうだったか … 曰く、「凄すぎる!」。僕自身、そこそこ場数は踏んできたつ
もりだが、それらによって形成された"岩登り"という既成概念がここでは全く通用しなかった。何故かっ
て?グレードシステムが全く無意味なんです、ここでは!「ぼろ壁」のなかに隠された堅いホールドを如
何にして獲得していくか。これをしくじれば、ホールドは際限なく空を掴み足元はスタンスを蹴ったそば
から崩れ落ちる。

 2P目などは、実際、ルート自体崩壊していて初登時の痕跡は消失していた。こんなところでの達夫さ
んの強さは際立っていた。

 それは「うまい」とか、「(体力的に)強い」とかいうものではない。「凄い」としか言い表せられない
もの、それは精神的な強さというより、"執念"いや殆ど"怨念"と言ってもよさそうな、理解不能の鬼気迫
るものだ。僕の範疇からは鼻から飛び出したものなんだと今回思い知らされた。だからといって、それを
見習いたいとか、素晴らしいとかは正直思わないし、羨ましいとも思わない。

 ジリジリと前進し続ける達夫さんをビレーしながら思ったのだ、あぁ僕とは詰まるところ発想が違うん
だな、僕にはこれは苦痛でしかない。ここには二度と来ないだろうな−と。
 行動中、それをちょっと露骨に表明しすぎたのは達夫さんにすまなかったと思う。僕は常に、「どうし
ます」「無理ちゃいます」と言って達夫さんの気持ちを萎えさせてしまった。3P目まではトップにも立
たなかった。

 4P目、とうとう達夫さんも戦意を喪失した。僕はようやくトップに出た。出だしさえクリアすれば何
とかなりそうに思えたのだが、しばらくはホールド・スタンスにしたい岩すべてを事前にハンマーで叩き、
音を聞いてみなければ恐くて容易に進めなかった。

 人工の部分に入ってからも超浅打ちのボルトに肝を冷やした。利己的かも知れないが、この場面では「
初登者の意思」云々をとても尊重してはおれず、初めて本番でボルトを打ち(少しはマシだがこれまた浅
打ち)、フック(!)まで繰り出した。

 自分でピトンが打てる部位になるとようやく自信を持ってあぶみに乗り込めたが、それは最後の5M。
25Mに4時間半かかった。そこからもう1Pでビヴァークできる場所に届きそうだ。これまでに比べる
とやさしくはなりそうだが、しかし依然として傾斜は強く、出だしが破砕帯である上、見える範囲10M
少々の中に残置がわずか2本しか確認できない。
 ここまでの経験からしてこのピッチも先行きどうなるか分かったものではなく、時間的に無理を強いら
れそうなこと、また決定的なことはパーティー全体の士気が失せてしまったため、ここで敗退を決定した。

懸垂3Pで取付きに降り立ち、そのまま南東壁沢を5Pの懸垂を交えて一気に黒部川まで下降した。そ
の夜の宿となった鳴沢出合の岩小舎では前夜に引き続き豪勢な焚火を囲む。

 火を見ていると不思議と心は和むものだ。その火を見ながら僕は達夫さんをビレーしながら思ったこと
と全く違うことを考えている − 時間があったら5P目は行けそうだったな、朝もう少し早目に出発して
おけばよかったな − このルートにはどういったタクティクスが必要なのだろうか、来年は毎週通って中
央バンドまでFIX張りまくるべきか? − 上部破砕帯からいかにも悪そうな核心部を通過する上部壁で
は、一体何が待ち受けているのだろう、この壁を抜けきるには果して何年かかることになるのだろう … 。

 快晴の日には米軍機の爆音が轟く黒部。この地の"巨人"と称される丸山についてはやりたいルートはす
べて登り切ったが、通い詰めている間に黒部への愛着はひとしおとなった。そんな中で僕はガビンに出会
った。開拓以来二十余年、再登を許していないからというわけではない。こいつに取り付くにあたっては、
ルート図が書き込まれた他の岩場ではまず要求されることのない「絶対的な意思」が必要となる。それは
「ド根性」と言い換えてもよいだろう。今回の30歳最後の山行はまたしても敗退となってしまったが、
そう、僕はそれ以上に今までにない凄いものを見つけてしまったようだ。<禁断の果実>、この壁は断じ
てこれである!


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