ソロクライマー/山野井泰史 |
朝日新聞に山野井泰史氏の記事が掲載されていたので紹介します。
「日本最強のクライマー」と呼ばれる。いや「世界最強だ」と言う人もいる。だが偉 業の割には山野井泰史(34)の名はあまり知られていない。南米パタゴニア・フィッ ツロイ、ヒマラヤ・チョオユー、ヒマラヤ・クスムカングール。最も難しいとされる ルートを単独で初登頂した。パーティを組み、大量の物資をポーターとともに運び揚 げ、頂上までいくつものキャンプを設営していく「極地法」。山野井はこの一般的な 方法を採らない。ベースキャンプから立った一人で頂上にアタックする「ソロ(単独 )クライマー」である。
酸素ボンベはない。食料はブドウ糖の錠剤だけ。コンパクトカメラと最小限の岩登り の為の用具、寝袋、小型コンロ。装備は5キロ程度にとどめる。登山隊が過去にのぼ り、ロープが残っているようなルートには見向きもしない。世界のクライマーを跳ね 返してきたルートばかりを選んできた。「F1レーサーより危険」という山野井地震 の表現も、決して大げさでは無い。これまでに、多くのソロクライマーが遭難死して いる。同年代のクライマーも、すでに10人ほどが命を落とした。山野井が最も危険な 体験の一つとして挙げるのは、ヒマラヤ・チョオユー(8201メートル)の南西壁だ。 高山病にかかりながら、大岩壁に挑んだ。岩から両足が外れ、両手だけでぶら下がっ た。「恐怖を感じなかった。外れたかな、ぐらいの感覚だった」無酸素なら必ずかか る高山病と折り合いを付けながら登る。意識が鈍り、恐怖を感じなくなると、危険へ の対処も遅れる。7〜8千メートルからの墜落者の多くは、落ちていることも知らずに 死んでいくという。恐怖は山野井にとって敵だ。その半面、登り切るために必要な装 備でもある。チョオユー峰の南西壁でも、ぼやけた意識の中で、恐怖を取り戻し、す ぐに足場を探し当てた。頂上にたどり着いて下山したとき、体重は3日で10キロ減っ ていた。
少年時代を千葉市で過ごした。踏切で列車の下をくぐり抜けてみたい。ビルの谷間を 飛び越えてみたい。そんな冒険への衝動に取り付かれながら成長した。テレビで、冬 山の岩肌に取り付く男達に一目惚れしたのは、小学校5年の時だった。石垣にセミの ように張り付くようになった。中学高校と山三昧の生活を送る。卒業後米国に渡り、 働きながら腕を磨いた。20代から本格的に未踏の壁を目指した。生活の全ては、山の ためにある。国内有数の登山家である妻の妙子(43)と、岩場が多い奥多摩町の谷間 に住む。富士山の測候所に30キロの荷物を徒歩で揚げる強力を、半年間やって稼ぎな がら、高所に身体を慣らす。体重を57キロに抑えるため、肉は食べない。身長166セ ンチ。小柄な身体を少し丸めて歩く。
スポンサーを付けたことは、一度もない。自分の為だけでなくなるのが、嫌だからで ある。「若い頃の自由なときの植村直己さんが好きでした」と語る。植村がマッキン リーで遭難死したのは、知名度とスポンサーを背負ったことで、無理をしたからだと 考えている。なぜ危険な「ソロ」を選ぶのか。押しつぶしてきそうな壁に、一人だけ で向き合うとき、自分の存在と力が分かる。「大自然対自分」だからと答えた。
3年前、ヒマラヤのマカルー西壁に挑んだとき、山野井は無線機を携行した。敗退し た。「下界とつながりを持とうと考えたことが、失敗の始まりだった」。以来無線機 も持たない。山では完全に一人になる。他人には言わない目標をいくつか持っている 。「夢に向かっていないと落ち着かない。夢を見なくなっちゃう自分が一番怖い」9 月26日、山野井はまたヒマラヤへと旅立った。=敬称略(9月27日 朝日新聞 朝刊)
ACHP編集部