修験道、宿坊を復活 畏敬の霊山、今再び 雄山神社神職・佐伯さん
毎年多くの観光客や登山客を迎え入れる立山は、かつては人を寄せ付けない厳しさと
神々しさを持つ信仰の山だった。16歳の少年佐伯有頼(さえきありより)が、立山
を信仰の山として切り開いたのは、ちょうど1300年前の701年(大宝元年)と
伝えられる。立山開山1300年を迎える今年、修験道復興に取り組む神職や有頼の
少年像建立など、立山の「原点」に立ち戻ろうとする動きを紹介する。
剣岳山頂付近で、ほら貝を響かせる佐伯史麿さん
江戸時代に庶民に広まった神仏混淆(こんこう)の立山信仰。立山のふもと、芦峅寺
(あしくらじ・現富山県立山町)には江戸時代、登拝に訪れた人々が泊まった宿坊
が、33坊5社人あった。この宿坊を中心に立山信仰は全国に広まり、多くの修験者
たちも訪れた。しかし、明治維新後の神仏分離によって、立山信仰も修験も急速に衰
退した。雄山神社の神職、佐伯史麿(ふみまろ)さん(33)は3年前から白装束に
ホラ貝という修験者のいでたちで立山登拝を行い、芦峅寺に宿坊を復活させるなど、
修験道復活に挑んでいる。
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芦峅寺には、1941、2年まで、4つの宿坊が残っていた。その一つ「大仙坊」
は、史麿さんの大祖父の代まで続いた宿坊だった。
地元テレビ局のサラリーマンだった史麿さんは6年前、子供のころからの「民宿を開
きたい」という夢を実現させるために、仕事を辞めた。修験道にのめり込んだのは、
民宿を宿坊の形にしようと考えたからだ。
立山信仰を理解し直すために、国学院大学で神道を学び、修験道や宿坊が残っている
出羽三山(山形県)、修験道発祥の地と言われる大峰山(奈良県)などを訪れ、修業
もした。
芦峅寺に戻ると、立山での修業を開始する。99年に浄土山、雄山、別山の立山三山
を巡り、昨年は大日岳、剣岳を登拝した。白装束で、ほら貝を響かせ、「錫杖(しゃ
くじょう)」と呼ばれるつえをつきながら山を登り、「碑伝」という木札を岩や巨木
に置いては、神仏が宿る場所に見立てて拝んだ。
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宿坊「静寂庵」で行われた曼荼羅絵解き
「本来の修験道とは違うかも知れないが、山に飛び込み、同化することで生きる力が
もらえるはず」。史麿さんは話す。
立山信仰も元々は、山や滝、岩や巨木などの自然を崇拝する日本古来の自然信仰に、
仏教の一派である密教などが加わり、自然を仏に見立てて拝む形となった。「山は、
草や木、動物など生命のエネルギーが満ち溢れている所。歩き、拝むことで山と一体
化できればいい」。立山信仰とは、立山の自然への畏敬(いけい)の念だという。
入山3年目となる今年は、薬師岳を登拝するつもりだ。「立山信仰のエリアは、剣岳
から薬師岳までだった。ひとつの区切りとして、薬師岳に臨みたい」と話す。
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史麿さんは今年1月、芦峅寺の閻魔(えんま)堂に隣接する民家を購入し、宿坊「静
寂庵(せいじゃくあん)」を開いた。長年の夢だった民宿経営と修験道探求を同時に
満たす形となった。
静寂庵では、朝のお払いや座禅の体験、かつて宿坊の主人たちが全国を回って地獄・
極楽などの立山信仰を説いた時に行った「曼荼羅(まんだら)絵解き」も聞くことが
できる。
宿坊が消えて約60年。江戸時代に年間6、7000人が訪れた信仰の山は、いまや
年間100万人以上が訪れる観光と山岳スポーツの山へと変わった。「信仰の山」と
しての立山を、史麿さんは探求し続ける。
2001年4月17日朝刊に掲載 (Yomiuri On-Line北陸版)
ACHP編集部
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