交通量の多いバス通りであるLebuh Chuliaチュリア通りを境にして、北側の一帯と南側の一帯に分けて考えるとわかりやすい。このページに関係する地図は「ジョージタウンの歩き方 その3 −手書き地図−」 で掲載しています。チュリア通りの北側一帯の案内は、「ジョージタウンの歩き方 その1」 をご覧ください。 2005年1月20日最終更新
Syed Mohamed Alatas サイドモハメッドアラタスの元住居 (下左の写真)
場所: Lebuh Armenia
建物は1860年から75年にかけて建てられたとのこと。富裕なアチェ人商人で且つスマトラ島アチェの反オランダ活動の主要人物であったSyed Mohamed Alatas が住居としていた。以前ここにペナンの歴史建造物を守り一般にそれを啓蒙する組織であるThe Heitage Centreが置かれていたが、すでに転居した。現在一般訪問用に開放し、Islam博物館を兼ねている。入場料 RM 3, 訪問時間 9時半から18時
19世紀に中国の同一地方時には同一村からマラヤ(ここではペナン)に移住してきた人たちの先祖を奉り、同氏族であることを絆を確かめ強める目的を持って設立した、氏族会館がペナン州にたくさんあります。ペナン州には大小 140もの氏族会館 があるそうです。この内 Cheah, Yeoh, Lim, Tan, Khooのそれぞれの氏族がペナンの福建華人コミュニティーの5大氏族だそうです。 尚Kongsi とは漢字で書けば公司 となり、同族同氏の先祖を祭る廟(宗祠) 祠堂とも表されるようだ。
Yap Kongsi ヤップコンシ (上右の写真)
Lebuh Armenia, Canon Street とのコーナー
ヤップコンシは19世紀後半に設立された。左の建物が寺院で右の建物は会館。
Khoo Kongsi クーコンシ
ジョージタウンの数あるKongsi の中で最も有名で、観光客には定番の場所ですね。数年前(2001年)に美化維持改装工事が終わった。このコンシのある場所をCannon Square という。Lebuh Canonnキャノン通りから入るのがわかりやすい。現在は敷地内に入る地点から有料となった。
Cheah Kongsi チア(謝)コンシ
Lebuh Armenia
チアコンシはペナン華人の最古の公司 の一つ。この寺院は1873年に建設された。マレー、中国、ヨーロッパの要素を取り入れた典型的なマラヤに移住した中国人の伝統を示している。(右の写真は見事な入り口門の様子です).このメンバーは先祖が福建省のhai teng郡の ある村の出身者に限られるというように、姓がCheahなら誰でもいいということではありません。
Lim Kongsi
Ah Queen Streetにある。
Lebuh Achehアチェ通り
下記のアチェ通りモスクが目印です。18世紀終わり頃からから19世紀の間、スマトラのアチェ人、とマレー人商人でにぎわっていたとのこと。当時のムスリムのメッカ巡礼は船でなされていたので、この通り地区ではそのメッカ巡礼用のビジネス活動が盛んでした。 現在では静かな通りであり、石材彫り・加工業を営む店がいくつかある。
Masjid Acheh アチェ通りモスク、マレーモスクとも呼ばれている (下左の写真)
Lebuh Acheh
インディアン囚人を使用して1808年に建設された。施主は当時のアチェ支配者の一族。このモスク周辺の家屋は19世紀中期の様子を残しており、その頃の町のマレー人居住者の家屋を伺い知ることができる。
チュリア通りがペナン通りに交差するあたりにSam's Batik店があり、その隣に3軒のインディアンムスリムの店舗と路上店が集まっている、いずれもナシカンダールNasi Kandar、ロティRotiを主メニューにしている。
ロティもナシカンダールもどの店でもいいが、しいていうなら3軒の真ん中の店、Line Clearがいい。この店は路地にこしらえたテント式仮設店形式なので店名が外から見にくく、すこし薄暗いためであろう、外国人はきわめて少ないが、たいへん人気がある。ここのナシカンダールの濃いカレー味は絶品。Tukur Ikan RM2,Ayam RM3、Kambing RM1.8 などケースに並んだ鶏、羊肉、野菜などの好みの料理を指差して注文する。 チキンと白ご飯でRM4、ブリヤニライスならRM5ぐらいから。
尚他の2店もいづれも人気あり、店舗なので時々外国人旅行者も食事している。
ペナン通りのはずれContinentalホテルの対面にある インドレストランSup Hameedは、夕方から店隣にスープ専門の屋台を出します。このスープ屋台は長年この場所で営業しておりよく知られています、もちろん味もいける、1碗 RM 3から。
Nasi Kandarナシカンダールはマレーシアに移住してきたインディアンムスリムがもたらした大衆料理で、1930年頃までにはきわめて一般化したそうです。ナシカンダールはもともとご飯とおかずをいれた籠を天秤棒でかついで売り歩いた。しかし今ではもうその姿は全く見られない。
ペナン通りから入る路地にはいずれも多くの飲食店がある。夕方からは屋台がでるし、チョーラスタ市場の周囲にはいくつかの屋台または仮設の飲食店が朝からたくさん並んでいる。
Kampung Malabar通りは華人屋台と大衆食堂ばかり、チョーラスタ市場に面したLebuh Tamilは名前が示唆するようにインド系とマレー系屋台のみ。さらもう1本先のLebuh Kimberley通りは夜間 華人屋台街となる。
ペナン通りのKomtarに近い方の陸橋の近くの大衆食堂 Jooi Hooi Cafe 内の Asam Laksa (夜は閉まる)、そのすぐ近くの路地に出るTeochew Chendol など。
そこから結構離れた Lorong Swatow にある Lee Brother's Ais Kacang
ペナン通りにあるMalaysia又はContinental Hotelのすぐ裏の通りLebuh Leithにある青色の歴史的建物にレストランとビストロが入居している。(右の写真)北インド料理の20 Jaipur Courtとその隣はJapanese Bistro。
Cititelホテル前にトライショーがずらっと客待ちしている。1時間RM20からRM25くらいとのこと。乗る前に必ず交渉すること。
ペナン通りのCITITElホテル前からContinentalホテル前にかけてはタクシースタンド兼乗り場なので常時タクシーが客待ちしている。メーター制ではないので必ず料金を確認してから乗る事。長距離もあり、その場合は1台いくらと決められており、例えばタイのハジャイなら一人RM30ほど。
上記Lebuh LeithにあるのがUNESCOの保存賞も受賞した歴史的建物として有名なCheong Fatt Tzeマンションです(左写真)。マンションといっても現代的なそれではなく、19世紀に中国からやって来た客家系の商人Cheong が、その大家族のために1880年代に建てたものです。
当時の清朝のペナンにおける副領事も務めたCheongは、有名な資本家でもあり、なんでも8人の妻をもちそのために大きな住宅が必要だったとのこと。その後彼の子孫が亡くなった1990年に、Straits Indigo 会社が購入し手を加えて保存しています。
この38室ある由緒あるマンションの16室を、この会社がホームステー用に解放することを2001年4月頃から始めました。12室あるStandaradがRM232、2室あるStudioがRM300、2室あるSuiteがRM600です。いずれも1泊の部屋料金。それぞれの部屋は異なったアンティークの家具で調度されているそうです。さらに中国陶磁器、ビクトリア朝の建物内装飾など生きた博物館と説明されています。
宿泊者とは別に、このマンション見学を一人あたりRM10で毎日1、2回提供しています。宿泊・見学予約などは04-2620006宛て
チョーラスタ市場のペナン通りに面した数軒の食料品店は数々のマレーシア食品販売しており夜遅くまで営業している。Chowrasta市場とは、ウルドー語で 4点で交差する という意味だそうです。チョーラスタ市場周囲の通りの中で、Jalan Kuala Kangsarは最も人出が多い、そこでは路上の市が毎朝立ち、大変にぎやかである。路上市は地元の人の日常生活の直結した食品などが中心であり、通りの両側に居を構える飲食店につどう地元人の様子と相俟って、長年で続いてきたであろうペナン華人の自然な姿の朝市風景がうかがえる。クアラルンプールのチャイナタウンの屋台市はあまりにも観光客中心であり、地元人でないどこかの若い兄ちゃんが横柄な態度で商売をしており面白みに欠けるが、ここは違う、観光化されていないチャイナタウンの面白みが残っているのである。
この通りはジョージタウン市庁が美化舗装工事を完成した通りなので、この一帯の古い通りとは外見が随分違う。車道の両側がきれいな敷石の歩道である、もっともバイクはそんなことに構わず歩道上を走行しているが(下左の写真)。
Lebuh Campbell は美化されて変わったといってもそこに並ぶ店の商売までもが変わったわけではなく、昔からここで長年商売を続けてきたであろう金宝石店(下中の写真)、中国薬の薬屋、繊維製品の店、靴屋などが相変わらず多い。
この通りに交差する路地通りであるLebuh Cintraには数軒の点心の店がある(もちろんこの地区の他の通りにも点在している)。午前中営業の古い店構えの店内では地元人や華人系の旅行者で混んでいる。茶楼と表記されているが点心を供しているこういった店に、白人や日本人旅行者の姿を見かける事はまれだ。庶民的な値段のこの種の店で朝食するのはお勧めですよ。
上右の写真はLebuh Cintraにある中国寺院前に飾られていた巨大線香に火を点けているいる様子です。この日は旧暦の9月14日に当り、旧暦の9月は華人にとって九皇爺を祝う月であり、15日はその中でも大切な日なのでしょう、だからその準備ですね。ジョージタウンは華人人口の多い都市、こういった民族行事が盛んなのです。
JettyバスターミナルからKomtarコムタールバスターミナルに向かう多くのバスがこのペナン通りを経由するので、ペナン島のほかの地域へいく場合、通りにある本屋の前で乗ればわざわざコムタールまで歩いて行く必要がない。
安宿街として有名。ペナン通りに交差し、その反対側に廃墟になった映画館のOdeonがあるのでわかりやすい。
華人系の酒屋、薬屋店、大衆食堂、占い師の家(左の写真)などが並びまた旅行代理店や白人の好むカフェスタイルの飲食店が何軒もある。
この通り沿いとそこから中に入る路地にはいくつかの安宿、旅社とかHotelの看板を出しているが安宿にかわりはない、が並ぶ。いずれも建物は年代を感じさせるものばかりで、多くはトイレ、バス設備は共同使用になる。
その中に永安、スイス、Blue Diamandなど外国人向け又は外国人宿泊客が多い宿が数軒ある、フロントに旅行情報の張り紙がべたべた張ってあり、白人がうろついているのですぐわかる。
アンティークショップは、このチュリア通りとペナン通りと Rope Walk に集まっていると言われています。
どこへいってもいつも同じスタイルを通し、英語の話せる人間ばかりを相手にしている白人バックパッカーが集まる宿は決まっている。この地区でも同じ。
旅する人の好みの問題ではあるが、上記の白人バックパッカー相手主体又は専門の宿は地元の人間がほとんど泊らない。中には地元の人間をあまり好まないかの態度を示す安宿もある。宿内外のカフェで白人がビールを飲み、ハリウッド映画ビデオなどを見ながらたむろしているが、こういう所ばかりにひたらずに是非普通の料理店・大衆食堂とか屋台で食事をとって欲しい。外人好みの味に妥協しない本当のローカル料理がたいへん手ごろな価格で味わえ、安宿や旅行代理店以外の地元の人と話す機会も出てくる。
安宿より多少値段が高く程度のいいペナン通りのFederalホテルとかチュリア通りのHong Ping、ライス通りのCatheyホテルは地元の人も多く、このクラスとしては設備も整っている。
ペナンのジョージタウンの老舗の有名ホテルであったE&Oホテルが、5年近い営業停止と改築改修工事をほぼ終えて、4月初めに再オープンします。ただ全館でなく半分ほどのオープンで、次第に増やしていくようです。
115年の歴史を持つこのE&Oホテルは、昔シンガポールのRaffles ホテルを建設したSarkies Brothersの遺産として知られいます。再開するホテルは20世紀初頭のイメージの建物で101室のスイートからなるそうです。
以上
筆者は1月中旬にペナンを所用で訪れた際、わずかに時間がありましたので、その写真を撮りました(下の4枚)。まだ外側の一部とは工事中でしたし、内部の装飾がどのくらい進んでいるかはもちろんわかりませんでした。それでもオープンはまじかだなとは感じました。下の左は正面です。
ほとんど語られない歴史というものはどこの国・地方にもあるもので、そういった事は通常の旅行ガイドや雑誌、サイトだけを見ていてもわからないものです。研究者ならこういうことだけを追うのでしょうが、一般旅行者・在住者はそうはいきませんし、その必要はないでしょう。でも知識として多少は知っておいてもいいではないでしょうか。
以下は筆者翻訳部分です
ペナンはジョージタウンのCampbell 通りはCintra通りと Kimberley 通りと並んで、19世紀から1940年代後半まで第一級の赤線地帯でした。Campbell 通りは別名として、福建語で新しい通りを意味するSin Kayとも呼ばれていました、この通りが19世紀半ばに新しく造られたからです。その当時この別名は語路合せにもなったのです、なぜなら福建語Kay は鶏にも通じ、鶏は俗語で売春婦を意味するのはいうまでもありません。
Sin Kayはこうして最終的に新しくやって来た売春婦の通りとして知られるようになった、やって来たのは19世紀後半マカオからやってきた広東語を話す売春婦です。地元のマレー人はこの通りをJalan Makau(マカオ通り)と呼ぶようになったのです。
この近くのCintra通りには日本人のからゆきさんが集まっていました。(複数の)日本人売春宿は19世紀の終わり頃に成立したのです。また多くの日本人売春宿はKimberley通りにもありました。そこは意味ありげな名前の Ji Pun kay つまり日本通りとの名を得ました。
以上は2月5日のThe Star紙の「悲哀の生活」という歴史解説記事から抜粋したものです。
数年前筆者はジョージタウンの下町をあちこちふらついて調べていたとき、確かCintra通りだったと思う、古いサインボードに”日本横街”と書かれているのを見つけ、いぶかしく思って近くの住民に尋ねたことを覚えています。福建語社会のペナンでは珍しく多少広東語の通じる場所でもあったのですがそんな理由だったのですね、筆者はその後何かの文献でこの付近が日本人売春街であったことを知りました。
上記記事の3本の通りはいずれも、有名なPenang通りと Chulia通りに囲まれた狭い地区にある通りで、現在は主として民家と商店街でレストランや安宿などが散在しています。街歩きする自由旅行者なら比較的なじみのある地区でしょう。こんな歴史の暗い面も思い浮かべながら、ジョージタウンの下町を歩くのもまたいいかもしれません。尚現在も売春宿らしきはChulia通り付近に多少ありますが、もう中国人ともちろん日本人の”鶏”が住みついていることはありえないはずです。