2つの医療初体験、高級大病院での検査と中医の診察 ・バティックしろうとの語るバティックのお話
度重なる脱線事故を起こしているマレー鉄道の紹介されかたを考える ・ 数字で見たマレーシア その6
タイ人コミュニティーを訪ねる旅 その1、ケダー州編 ・ マレーシアにとってオリンピックとはどんな意味を待つのだろう
タイ人コミュニティーを訪ねる旅 その2、クランタン州編 ・ クアラルンプール証券取引所を見学して
売春街とMak Nyah(おかま)に対するマレーシア社会の対応
個人的な嘆きで申し訳ありませんが、この1ヶ月間ほどどういうわけか、身体のあちこちの具合が悪くなり、複数の種類の違う医者のおせわになりました。そしておまけに8月末には歯医者にまでもです。平均すれば週2回弱ぐらいの頻度で医者にかかったのです。色男金も力もなかりけりという川柳にはまあそれなりに納得しますが、健康にも恵まれなかりけりではあんまりではないかと、ベッドの上で苦しみながらこんなことが頭をよぎりました(笑)。
それはまず胃の痛みから始まったのです。7月末から胃が痛くなったので最初近所のクリニックへ行き、診断後薬をもらて帰り、2日ほど服用したのです。がやっぱり一向によくならないので、思いきって大病院の専門医を訪ねました。胃が痛いだけでなく、この何年も健康診断を受けてないからクリニックへ行っても多分よくわからないだろうなと思いながらも、費用の心配からとりあえずクリニックを訪ねたわけです。結局数日後も大して症状がよく成らないので、迷わず胃カメラの検査を受けました。
日本だと30代か40代以上の対象者には、会社や地方自治体の健康診断の診断科目に胃腸のバリウム検査が入っているのが一般的ですよね、しかしマレーシアでは健康保険制度がありませんから、会社が従業員にそういう健康診断を提供しないのが普通です。ある程度の豊かな会社なら、一部の従業員に医師の問診や血液検査程度の健康診断を負担している所があるようですが、従業員全体に健康診断を提供している会社は極めてまれのはずです。まして精密な健康診断までを会社負担で提供している会社はないでしょう。尚日系の現地会社が日本人幹部に健康診断を提供しているのは特例ですね。
また地方自治体がその住民に健康診断を提供することはありません。血圧測定や医師の問診程度ならどこかの自治体によってはあるかもしれませんが、自治体がある年齢以上の住民全てを対象に無料又はごく低料金で健康診断を提供することはありません。マレーシアで地方自治体に住人が住民登録する、その制度自体が存在しませんので、その地域の住民に健康診断を提供すること自体がないし、例えやろうとしても住民を特定できないのでできないでしょう。
もっとも赤十字がまたは地元のロータリークラブ等がある地区の住民対象にある場所で、例えば学校の体育館やショッピングセンター内で、日曜日などに血液検査とか血圧測定などの慈善プログラムを提供するような例はあります。これは無料ですが、慈善の思想からきているものであり、自治体は住民の、会社は従業員の健康管理を補助するのが義務とする発想からのものではありません。それにこの慈善活動は特定の地区の住民を一応対象にはしていますが、診断してもらおうと思えば、要するに誰でもいいのです。
尚マレーシアでは献血は赤十字社と全国血液銀行(血液銀行は赤十字の活動の一環として設立されたそうです)が行ないます、私立病院で行なっても血液銀行などの協力で行なうようです。そこで献血者にはその回数を重ねる毎に、特典が与えられます。献血の意識がまだまだ普及していないので、万が一献血を受ける必要に陥った時に献血者経験者は優先されるとかといった特典です、その他もあるが詳しくは覚えてません。尚この特典とは政府系病院だけで受けられるもので、例外はあるでしょうが、一般に民間病院では受けられません。
このようにマレーシアでは基本的にも究極的にも健康管理は個人の自覚と支出に拠りますから、やはり所得の高い層はそれなりに費用をかけて頻度多く検査を受けることができますが、低所得者層にとっては健康診断は費用のかかることから手軽にはできないことになります。これは社会保障制度が日本にはるかに遅れたマレーシアでは仕方のない面でもあります。尚筆者は以前のコラムで、マレーシアは西欧型福祉・保障思想を崇拝している国ではないから、日本型社会保障は期待できないと書いたのですから、”社会保障制度が日本よりはるかに遅れた”と決めつけるのは正しくないとも言えますね。
さて筆者はクアラルンプール近郊のスバンジャヤにある有名大病院Subang Jaya Medical Centre を訪れて、専門医に胃カメラ診断してもらったのですが、この病院を筆者はその時始めて訪れたのです。それまで行かなかった理由は、筆者のアパート宅から遠く公共交通の便が悪いこと、バスの乗り換え要で合計1時間以上は確実にかかる、それに建物の構えの立派さから想像できる料金の高さに怖気づいていたことなどです。時々お世話になる地元のクリニックや地元の華人向け中型病院は筆者にはなじみですが、そんな高級病院はとても行けないなと敷居が高かったのです。
今回ある理由から初めて訪れてびっくり、その病院内の豪華さにです、まるで高級ホテルみたいです。イスはいずれもクッション付き、床はピカピカ、建物内の壁や装飾など全てが高級イメージ、待合室は広いし、そこが人で埋まっているわけではない。第一患者の風体を眺めるだけでその患者・付き添い人の層が想像できます。各専門医の部署には受付兼看護婦が複数待機し、全てをコンピューター管理です、なるほど、評判に違わず施設と患者受け付けは一流ですね。おまけに病院の院内案内板の一部には日本語まで併記されているではありませんか、英語、中国語、そして、マレーシア語を差し置いて日本語の3語併記です。あらためて日本人の所得水準の高さを知らされましたね(言うまでもなく筆者自身は除く)。もちろんいくら器が一流でも中身が2流では見掛け倒しですが、それを筆者に評する能力と知識はありません、なにせその週と翌週、さらに月末別の件で耳鼻科に1回の都合3回訪れただけですから。もっとも当然中身も1流であろうと推測はしますが。
上記で書きましたようにマレーシアでは一般にバリウム検査はしませんので、いきなり胃カメラ検査です、それを予期して朝から何も飲食せずに診断に訪れた筆者ですので、すぐ手続き後検査を受けました。それに先だって、事故が万一起こっても訴えないという書式に署名しましたが、これはマレーシア社会では一般的なことなのでそれ自体は問題ありません。それにサインしなければ検査はしてくれないでしょう。
麻酔がさめてぼんやりした意識の中で医師から軽い胃潰瘍の初期症状だと説明され、ある意味ではほっとしたのです、薬を受け取りまたバスを乗り継いで帰宅しました。個人的な症状はともかく、こういう大病院で比較的手軽に精密検査の受けられる環境に住んでいる、つまりクアラルンプールに住んでいることはやはり利点だなと納得しました、もちろんクアラルンプールだけでなく近隣のペタリンジャヤ、スバンジャヤでも同じですから、クアラルンプール及びその近隣都市という意味ですよ。
筆者は何年にも渡ってマレーシア中を特に半島部をあちこち訪れまくっていますから、田舎の、僻地の不便さは身をもってよく知っています。こういう身体の不調な時、大都市の生活はまことに恩恵を受けますね。大都市生活を望むのか望まないかは別にして、医療面での恩恵は素直にありがたく思いました。その一方でこんな高級な病院は低所得層には全く縁がないだろうなとの思いも感じずにはにはいられませんでした、こういう有名大病院は誰でも診てもらえる病院でない分、3時間待って3分診断ということは起きないでしょう。結果として、やはり健康保険制度がないというのは病院の患者層に歴然たる違いを示すことが起きてくるものですね。
この胃痛と時期平行してぐらいに起こったのが両目の不快感でした、売薬の目薬をしばらくさしていたのですが、不快感は一向に減りません。そこで2回目に上記Subang Jaya Medical Centre を訪ねた時、眼科にも寄って診察してもらったのです、原因は一過性の眼性アレルギー性のものとのことで、やはり専門医の診療は心強いですね。
胃痛とアレルギー性眼が一息ついたと思ったら、月末に近づいた今度は風邪を引いてしまったのです。クアラルンプールでは8月は初旬からずっと、さらに後半に入ってからもしばらく夜中から明け方が結構涼しい日が続きました。筆者は1年中窓をあけて寝ているのですが、涼しいからと気をつけてはいたのにちょっとの油断で風邪をひいてしまったみたいです。まこと”注意1晩風邪1週間”ですね。筆者は風邪引くと熱でなく痰と咳で悩むタイプで、これが数日続きました。以前医者にかかった時の残り薬を飲んではみたのですが、ぜんぜんよくならない。日中ごろごろしていて夜が眠れず息苦しいなんてことになり、仕方なくまた医者の門をたたきました。
今回初めて中医に診てもらったのです。中医とはいわゆる漢方医のことで、中国語では西洋医療を基にした西医に対して中医と呼ぶのです、中医はマレーシア華人の間ではたいへんなじみある医者なのです、ものすごく主観的に捉えると、正式な統計が入手できないので非統計的ですが、華人なら3分の1から半分近くの人が中医にかかるのではないでしょうか。西医にはよっぽどでないと診てもらわないという華人も結構いるのは確かです。
筆者の居住地区はクアラルンプールの中心部に近い古い華人集中居住地区です。マレー人は日中あちこちで働いているが、住んでいるのはごくわずかで、絶対多数は華人ついでインドネシア人やバングラデシュ人の外国人労働者という、ごみごみ汚いうるさい下町です。白人や日本人は全く住んでいません。ですから華人の好む中医が街のいくつかの場所で看板を掲げています。
一般に中医は薬行つまり漢方薬屋の中に診療コーナーを設け、決められた曜日と時間に契約している中医がその薬屋にやって来て患者を診療するのが通常のあり方です。ですから中医の名前が必ず目立つように掲げてあるはずです。患者は診察を受け、薬はその薬屋で調剤してもらい家に持ち帰って煎じて飲むというスタイルですね。もちろん中医専門のクリニック?もありますが数はごく少ないです。マレーシアでも中医は一般医療医師とは別の分類に入るのです。残念ながら詳しい分類と管轄は知りません。
薬屋(華語では薬行という)はいずこも昔ながらの古い店作りです(下左の写真)、冷房などない開けっぱなしの店先にガラスケースカウンターがあり、その後ろあたりに漢方の材料がビンやタンス式の棚に数十種類ずらっと収めてあります(下右の写真)。患者が中医の書いた調剤指示書を店の人に渡すと、彼らはその指示書を見て棚やタンスからあれこれと漢方薬の材料を取り出して紙に載せ混ぜ合わせ、最後にその紙で器用に包んでいきます。医者の指示書は手書きされており、とても判読はできないくらいですが、それをぱっと読み手際よく一切名前のつけてない薬材料棚から取り出して調剤していくのは熟練芸みたいなものです。この薬屋はマレーシアだけでなくバンコクのチャイナタウンでもほとんど同じようなスタイルですよ。恐らく材料の相当部分は中国から輸入していると推定しますが、マレーシアでも漢方用の植物はたくさん生育しているようです。
以前筆者は前パートナーに付き添って地元の中医を何回か訪れたので雰囲気は知っていましたが、筆者自身はやはり普通の医者つまり西医になじんでいるので、これまで一度として中医に診察してもらったことはありませんでした。しかし今回中医を試してみたくなり、近くの中医を訪ねたのです。何年も住んでいる地元の街ですからどこの薬屋の中医が人気よさそうかはわかります。その医者に診てもらおうといつも患者が薬屋で客待ちしているのが路からでも見えるからです。
さて8月最後にかかったのは歯医者でした、歯医者に関しては以前のコラム第153回 「マレーシアで医者と歯医者にかかる」で書いたので詳しくは触れません、そちらをご覧ください。今回は前歯が突然小さく欠けたため痛くはないが不快なので、それを詰めてもらいに、いつもの近所の歯科医を訪ねたのです。痛みを伴う治療ではないので顔は穏やかでいられます、もっとも料金を考えると心はそれほど穏やかではいられませんでしたけどね。通常こういう地元の歯医者は治療の際どれくらいかかるかあらかじめ教えてくれるので、もしそうでなければ聞いた方がいいですよ、治療後思いもかけない金額を請求されることはないはずです。ただし裕福層や外国人の患者を主に対象にするような歯医者は多分違うかもしれませんね。
以上あれこれの医者通いでほぼ1ヶ月間身労(身体の調子悪さ)と心労(金銭の出費)に悩まされたおかげで、思わず個人的泣き言を表に出してしまったコラムになりましたが、マレーシア医療の一端を患者の面から多少は紹介できたことと思っております。そうこうしているうちに9月になりましたね、状況は好転してほしいものです、何はともあれ健康第一ですからね。
マレーシア土産を5種類選べといわれればその中に間違いなく入るであろうバティックは、観光客が多く集まる又は訪れさせられる土産ショップ、ハンディクラフトセンター、博物館、空港の免税ショップ、高級デパート・ショッピングセンターで容易に見つけられますね。KLIA空港やランカウイ空港のみならずコタキナバル空港でもペナン空港でもバティックを売るコーナーなり店があったと記憶しています。
高級ショッピングセンターとして代表的なKLCCにあるSuriaなら、高級なデザイナーバティックのブティックが何軒もテナンと入店していますし、ペナンのバツフェリンギやランカウイにある高級リゾートの土産ショップには必ずバティックが並べてありますね。ハンディクラフトセンターならクアラルンプールにあるKompleks Krafが種類が豊富ですね、尚そこでは訪問者が描き方を教わりながら自由に描けるバティックコーナーもあるのです(当サイトの「クアラルンプールの見所と出来事と諸事情」にある該当項目をご覧ください)。
観光客にはこれほどなじみのあるバティックですが、普通のマレーシア人が生活する都会の街、町や田舎ではどうなんでしょう。マレー女性の日常服装であるBaju KebayaとBaju Kurungの生地にバティックを見つけるのはどこでも比較的簡単ですが、男性の日常服装にバティックを見かけるのはまれですね。リゾートやホテルの従業員が制服としてバティックシャツを着ていても、それを街頭で町のレストランでバスの中で見かけないという意味です。
マレーシアを代表する衣装でありながら街角でほとんど見かけないのは日本人男性の着物に通じるところがあるのでしょうか? いや、ないですね。なぜなら一部の手作りバティックを除いて、バティックシャツは着物ほど高価ではありませんし、伝統衣装と呼ぶにはそこまで歴史がないのです。さらにバティックシャツは民族衣装というには相当意味合いが違いますから。
8月30日付けのThe Star新聞で次ぎの発言を見つけました。以下 「 」で囲った引用はすべてこの記事からのものです。
「バティックBatikはマレーシア文化と同意義だ、観光パンフレット、町の看板、広告、テレビ番組やマレー映画で見かけます。マレーシア人はバティックを着るのです。しかし企業家省大臣が、バティック産業は日の沈む産業なので、公務員は土曜日にバティックを身につけようと述べたのは驚きでした。大臣はバティック産業は外国人旅行者に多いに依存しているので、マレーシア人はこの産業を支持するべきだとも付け加えています。」
という記事を読んで筆者もバティックについて考えてみました、筆者のタンスに入っている純粋のバティック衣装は長袖シャツ1着だけです、それももう8年ほど前にオーダーメイドしたものです。マレーシアでは何何発表会や式典などでこれが男性の正式衣装と認められているので数回着ましたが、最近はそんな機会が全くないことから何年も手を通していません。さっぱりとした着心地ですし首を締めるボタンもつけなくていいので筆者は気にいってますが、日常的に着るにはどうも似合わない、なぜならそういった柄のバティックシャツを日常着ている人はまれですから。
在住日本人男性は、筆者の知る限りこのバティックシャツを好まないようで、昔いくつかの仕事上の機会で出席した催し・会合でもほとんどの日本人男性はスーツ姿でしたね。じゃあ女性はといっても、そういう場に現れる日本人女性の姿はまことに少ないので記憶にないぐらいです。日本人と韓国人は熱帯の国に来てまでスーツ着ており、本当にスーツ姿が好きなだなとつくづく感じたものです。ただ実際は、スーツ姿でないとあいつは気取っているとか礼儀を知らない奴だなと思われるのを避けている方もあったことでしょう。しかしどこへ行こうとあまりそういうことに気を使わない筆者はバティックの着心地のよさに引かれて、少ない機会ではあったもののできるだけバティックか普通の長袖シャツを着ましたね。
さて次ぎの発言をみましょう。
国内のバティック産品の大手販売会社Batik Malaysia会社の持ち株会社の社長は、「Batik Malaysiaが販売する客の8割は外国人旅行者で、マレーシア人はわずか2割りです」と述べています。Batik Malaysiaは海外でマレーシア製バティックを販売するパイオニア会社でもあるそうです。
この数字を知るとなるほどという気になります。バティック製品を売っている場はなにも土産物ショップや観光センターの販売コーナーだけではありませんが、そういうところで見繕っている客は圧倒的に外国人が多いのは経験上からもいえますね。あ、筆者が1着しかバティックシャツを保有してないのは旅行者じゃないからです、と言い訳しておきます。それにバティックシャツってスーパーに山積みされているバーゲンシャツよりずっと高価ですから、おいそれと買うわけにはいきませんしね。
Batikという単語はインドネシアのジャワ語起源で、ろうでこしらえた斑点のある線という意味だそうです。こういう染色法はすでに2000年前からエジプトなどで存在していたとのこと、いつの時点か知りませんが、インド又は中国からこの技術がジャワに伝わったそうです。バティックは古代からマレー多島海・群島と関係しておりマラッカのパラメスワラ時代にマレー半島に伝わったようです。
地元のバティック産業がろうを使い始めたのは1913年にトレンガヌ州とクランタン州であったそうです。当時のバティック産業は水を必要とすることから川沿いにあったのです。尚現在ではバティックはスクリーン製法でも製作されています。
これらの知識はもちろん筆者の知識ではなく、上記新聞記事の単なる引き写しですから、詳しいことは専門書を開いてください。
筆者はこれまでにバティック製作現場とバティック工場を何回か訪問・見学したのですが、いまだによく作り方が飲みこめません。1種のろうけつ染なんでしょうが、自分で筆をとって描いたことがないし、そういうことに対してあまり興味がわかないので、詳しい行程の説明はここでは遠慮しておきます(ペナンのページに以前書きましたが)。よくご存知の方にゲストブックで、是非バティック論・説明を披露していただきたいものと願っております。
さらに記事からの引き写しの引用知識を書いておきます。
バティックのサロンは通常 180Cm-215Cm X 106Cmの大きさで綿100%。これらの布は3つの構成部分を伴っています。頭に巻くKepala Kain, 身体に巻きつけるBadab Kain ,下半身の Kaki Kainです。
バティックのモチーフは常に植物相、動物相、そして幾何模様からとります。イスラム教の教えからマレーシアのバティック製作者は小さな動物と小鳥のデザインを避けます(と書かれているがそうなんでしょうか)。どういうバティックを着てよい着てはいけない、という決まりはないそうです。
カルチャー専門家のAzah Aziz女史は、「マレーシアのバティック産業は100年しか歴史がないのですが、インドネシアのバティック産業はずと長い歴史を持っている。」 「さらにマレーシアバティックは普通の人々に結びついてきたが、インドネシアのそれは支配者がバティックを身に着けていたのです。それゆえインドネシアのバティックは材料は種類豊かでありデザインは美しい。マレーシアのそれは通常棉からできているのです。」 とこの記事の中で述べています。なるほどそうか。
尚現代のバティックはサティンシルクのような高価な繊維を使用しています。
筆者のバティックとの初めての本格的出会いは18年ほど前のジャワ島を放浪旅していた時です。泊まっていた安宿の一角でバティックが描かれていたのを見て、きれいなデザインだなあと感心したものです。とりたてて織物に興味のない筆者はどこを訪れようと布を買うようなことは全くありませんから、インドネシアのバティックとマレーシアのバティックを比べたことはありません、ですからどちらがどうだなどと批評などできる知識はありませんが、感覚的にインドネシアの方がバティックは豊かだなと思っていました。この専門家の言葉にやはりそうなんだと教えられました。
加えて別の専門家の見方を紹介しておきます。
マレーシアのバティックデザインはちょっと劣るという意見にUiTM大学の織物学部の長であるZaharan準教授は同意しながら、「マレーシアバティックのデザインは創造性を停止した段階だ。大量生産の圧力がまさにこの要因です、これが産業を袋小路に追い込んだ。バティック製造業者は品質を考えなくて大量生産しているだけです。」と厳しい見解を述べています。
前述のマレーシアBatihk 会社の社長は、「ある機会だけにバティックを着る人々だけに向けてバティックを生産してきた製造業者自身にも責めがある。男性用のバティックシャツに関すれば、店で入手できるのは常に大人の男性用のそれである。」 「我々の社会はファッション第一の社会ではないから、大抵の人は1着か2着のバティックシャツを購入し数年着るのです。フォーマルな催しに出る機会がなくなれば、そのバティックシャツを何年も保持しておくのです。もし皆がこういう態度をとれば確かにバティック産業は死滅するでしょう。」
筆者の場合と同じですね。フォーマルな催しにでる機会がゼロになった筆者はまさにこの人の語る例です。筆者のバティックシャツは8年もタンスにつるして飾ってあるのだ。
さらにこの社長は、「マレーシアのバティックシャツをシーズン毎に着替えるようになれば、バティック産業をあるべき姿に戻すことができる。」と訴えています。「我々はバティック産業を単なる織物産業でなくファッッション産業に転換させなければならない。」と。
バティック需要は上記に書いたように旅行者からが大半ですが、企業社会からも需要があるのです。あるバティックデザイナーは語る、「多くの人はバティック衣装を毎日の服装とは考えませんが、私のところには常に企業からの、”ユニフォーム”としての注文がある。」 「企業顧客から定期的に注文があるのでバティック産業が死滅するとは思わない、しかしバティックを毎日着ようという人は大変少ないとは言えます。」
女性に比べればバティックシャツを着る男性はさらに少ない、その彼らもバティックシャツはフォーマルな機会の衣装なのです。ハリラヤ、結婚式などには(マレー)男性はシンプルなBaju Melayuを好みます。
Baju Melayuはマレー人の正式服装に用いられる格式ある衣装で、公的な儀式、政府の儀式、マレー政党の大会、などで正装になっていますね。マレーシア外交団の人はこう説明している、「我々のナショナル衣装は男性がBaju Melayu、 Samping(腰に巻く) Songkok(頭に冠る)のコンビネーションで、女性がBaju Kebaya labuhとBaju Kurungです。長袖バティックシャツは男性外交官がセミフォーマルな催しに着るものです。」と 。こんなこともあって、海外へ留学する若いマレー男子学生が、マレーシアを紹介する文化祭典、フォーマルディナーなどで着る民族衣装として バティックシャツ共々持参して行くことが多いそうです。しかし非マレーのマレーシア人学生はBaju Melayuでなくバティックシャツを着ます、とのことです。
その現象は筆者にも容易に推測できます。なぜならBaju Melayuはマレー人の盛装として位置付けられており、非マレー人が身につけるには違和感があるのでしょう。非マレー人がBaju Melayuを身につけるのは、筆者の知る限り公的儀式でスルタンに会うとか政府や州の最高段階での儀式の時だけのようで、フォーマルな会合や催し物でBaju Melayuを身につける非マレー人は極めて少ないと思いますし、写真・映像を見た限りでもそう言えるはずです。
前出のUiTM大学の織物学部の長であるZaharan準教授は、「手書きのバティックを奨励するのは結構だ、しかしそれはあくまでも上流階級向けだ。大きな市場は低所得階層の間に作られなければならない。しなければならないことは、安いバティックとバティック模様の生地を通してバティックの意識を作り出すことです。」と訴えています。いい意見ですね。手描きの高級デザイナーバティックが売れても買える人は外国人や上流階層の限られた人、やはりマスに受けるバティックを作り出さないとさらなる普及は難しいでしょうね。
なぜならバティックがマレーシア社会で日常のビジネス服装ではないことと遊び時のカジュアルウエアーでもないことから、服飾知識しろうとの筆者でも今後バティック着用者がが飛躍的に増えるとはとても思えませんね。一般的にマレーシアの都会でのビジネス服装は男性の場合長袖シャツにネクタイ姿ですが、これをバティックシャツに替わる又は替えようとする動きはなさそうですから。ビジネス社会でバティック着用の機会はない、遊び着としてならカラー開襟シャツが一般的ですし、近所の店で一服するのにTシャツは似合ってもバティックは似合わない。うーん、やはりなかなかバティック着用の機会が増えないと思います。するとまた最初に戻って、外国人旅行者相手のバティック産業になるしかないのかな。
マレー鉄道(マラヤ鉄道ともいう)KTMBが先日また事故を起こしました、今度は東海岸線のクランタン州の内陸部Kumubu駅付近での脱線転覆事故です。「新聞の記事から」を再録しておきます。
マレー鉄道の東海岸線のKemubu駅付近で脱線事故が起こり、26人が怪我をしました。この場所はクランタン州にありコタバルから170Km離れた地点です。列車はシンガポールの駅を21時ごろ出発したTimuran号で、朝6時半頃脱線して車両が転覆したのです。怪我人のうち重症者が2人でました。
乗客に寄れば、ほとんどの乗客は睡眠中であり、「車両が2,3回転がった。人々は叫んでいた。まだ暗く、救助が来たのは20分後ぐらいでした。」 この乗客は誰を責めることもなく語っています。「こういうことは起こるさ。」KTMBマラヤ鉄道は、怪我人は病人へ送られ、その他の乗客はあとで別の列車とバスで送ったと語っています。
以上
この結果重症者1人は危険な状態で、病院のベッドに横たわる被害者の写真も翌々日載りました。何が原因かは事故翌日に報ぜられませんでしたが、物とか車と衝突したのではありませんでした。つまりマラヤ鉄道側の原因で起きた事故であるのは確かですね。
15日の新聞では、予備調査の示唆するところ、機関車と先頭客車を連結する連結器が外れたことが原因であろうと、運輸省の副大臣が述べています。機関車だけ他の乗客車両から外れた模様で、機関車の運転士は、脱線現場から500mほど走ってから何かおかしいと振り向いたら、客車がつながってなくて、その客車が脱線していた、と語っています。「シンガポールを出る時は連結器は検査してちゃんとつながっていた、それが行程の8割を走った後ではずれた。何か機械的落ち度があったかもしれない。」などと副大臣は述べてます。さらに怪我人にはKTMから賠償することも考えている、とも付け加えられています。
まあ原因の究明はここではそれほど重要なことではありません。事故に遭った者からすれば、そんなことはどうでもいいことでしょうし、乗客の立場から考えても、鉄道は事故を起こさないことが第一であり、誰かが人為的に列車を妨害したとか遮断機か信号無視して車が突っ込んできたということでもない限り、事故原因を防ぐのが鉄道側の100%責任だからです。
昨年も脱線転覆事故がありました。この事故も人為的妨害でも自動車衝突のためではなく、責任はマレー鉄道側にあります。これも「新聞の記事から」を再録します。
マレー(マラヤ)鉄道のバタワース朝8時発クアラルンプール行きのEkspres Rayatが、ペラ州のKuala Kangsar付近で脱線事故を起しました。客車5両とディーゼル気動車が完全に脱線したのです。マレー鉄道当局はまだ声明をだしていませんが、乗客60人に怪我はなかった(ようです)。近くの住民は、脱線車両から乗客を助け出し、「打ち身を追った乗客もいたが、ほとんどは大丈夫のようでした。」
以上
この事故のあったしばらく前、期日ははっきり覚えてませんが、別路線で列車が牛に衝突して脱線事故を起こしています。牛が悪いのでなく、牛を線路付近で離し飼いさせていた者が悪いのは当たり前ですが、そういうことは山間部では常に起こりえるので、牛が線路に侵入して来ないように柵などを作って防ぐのが鉄道会社の勤めですよね、起こって当たり前の事象をほうっておいてそれが原因で脱線事故が起これば、それは鉄道会社の責任であるといえると筆者は思いますし、多くの人もそう考えるはずです。
これでマレー鉄道は約1年間で3回の脱線転覆事故です、そのうち今回と10月の事故は死者が出ても決しておかしくない、転覆にも至った重大な事故です。
いかにマレーシアといえこれだけ脱線事故が起きては見過ごせませんね。大体マラヤ鉄道の事故率は結構高いのですよ、なぜかをこれから説明しましょう。
マレー鉄道全線で貨物専用列車を除いて乗客用の列車運行本数は、クアラルンプールとシンガポール間が4往復、クアラルンプールとバタワース(1本のみのハジャイ間)が4往復、東海岸線の鈍行は4往復、クアラルンプールとトゥンパット間が1往復、シンガポールとトゥンパット間が1往復、毎日たったこれだけです。クアラルンプールとバタワース間の昼間急行は週末のみの週3往復運行ですが、計算上一応毎日あることにしておきます。バタワースとバンコクを結ぶ国際列車は1往復ですが、純粋にマレー鉄道ではないので計算から除外します。これから話題にするマレー鉄道の旅とは関係ありませんから、首都圏だけを走るコミューターを呼ばれる近郊電車は除きます。
そうすると毎日の乗客列車の総本数は、14往復つまり28本です。そうすると、年間総本数に換算すれば10220本です。毎年繁忙期ごとに数日間いくらかの増発がありますが、これはクアラルンプールとバタワース間の昼間急行は週末のみ運行を毎日運行と計算したもので相殺されます。ですからマレー鉄道は長中距離列車を急行鈍行に関わらず年1万本運行するということです。そこでこの1年間に脱線事故が2、3回、この率は鉄道としては相当高いものだと考えても間違いないはずです、筆者の記憶からいっても恐らく平均して毎年1回ぐらいは脱線事故が起きています。
日本の鉄道JRが全国で1日に何本くらい運行しているか考えてみてください。ただし運行距離数十キロ程度の近郊電車を除いてです。毎日どれくらいあるのかな、千の単位であることは間違いありませんよね。1万本なんて数は、JRからみれば1週間ぐらいで達成?する運行本数でしょう。とにかくマレーシアの鉄道の運行本数なんてものはそれほど”わずかの数”なのです。それなのに1年間に2、3回の脱線転覆事故!
日本でJRがもし1万分の2前後の脱線転覆事故率だったらどうなるかです。これでこの率がどれほど高いかお分りになることと思います。幸い死者は出ていません、でていないから見逃すと言う発想は誰も持たないはずですよね。鉄道がこれではちょっと問題です。しかしこれが大きな危機意識になっていないことはマレーシアの現実でもあります。普通のバスなどの事故並に考えられてしまっており、抜本的対策は聞いたことがありません。少なくとも新聞ニュースとなるような社会的論議は起きていませんし、国会でも多いに論議されてもいなのは確かです。KTM内部でどうかはもちろんわかりませんが、毎年といえるぐらいの頻度で脱線事故が起こればその対策は効果的でなかったことの証明ですね。
こういうマレー鉄道の現状とそれに対するマレーシア社会の認識ですが、筆者は何年もの間細かに毎日マレーシアニュースを追っていますし、マレーシア人の意識を知っていますから、そんなことはもちろん知っています。しかしだからといって、筆者がマレー鉄道に乗らないなんてことは全くありません、これまで年に何回も乗ってきましたし、これからも必ず乗ります。おっと、筆者はこの事故率に満足しているという意味ではありませんよ。そうではなくて、この程度の危険度は筆者にはあきらめるしかない範囲に属するからです、いつかは事故がわが身にふりかかる、事故に遭うかもしれないが、それだからといって旅をしない、やめるというわけではありません。なにせ筆者は生涯一旅人ですからね。
さて筆者のことは別にして、日本人の旅行関係者と旅行者間にこういうマレー鉄道の現状はどれぐらい知られているでしょうか?日本語の旅行マスコミに現れる事柄から推測するに、1000人のマレー鉄道ファンがいて999人は知らないでしょう。なぜ?
マレー鉄道って、マレーシアのガイドブックはいうまでもなく旅行雑誌によく特集されるそうですし、マレー鉄道に絞った旅行単行本も出版されていますね。さらにテレビ番組で紹介されたこともあるとか。ノンフィクション、小説の題材にもなったようです。日本人旅行者にマレー鉄道はよく知られた存在且つ旅の項目であることは間違いないでしょう。だから旅行会社はそのツアープログラムに入れているところも結構ありますね。
よく知られ、売りこまれることはそれ自体は歓迎、マレーシアを伝える者としてそれはうれしいことです。で問題はマレー鉄道の紹介の仕方です。上記の事故のようなことは、これも伝えられているのであろうか。筆者の知る限り、パンフレットには書かれていない、まあそれは宣伝が目的ですから仕方ないし当然でしょう。じゃあガイドブックや旅行雑誌はどうか、テレビ番組はどうか、筆者はそれらを全部を調べたわけでもないし調べるつもりもないから自信のない書き方ですが、まず触れていないのではと推測します。なぜならこれまでの筆者のその種の本・雑誌とホームページの読みと眺めた経験から、旅行マスコミの伝え方は相当程度想像できますから。
さて、旅行者が事故にあえば、筆者を含めて誰でも怒り、その不幸を嘆きます。あたりまえですね、誰だってそうです。しかし、こういう雑誌に単行本に影響された躍らされた旅行者の不幸さ、ではちょっと納得いかないものを感じますね。マレー鉄道記事を書いた伝えたライターは、載せた編集者は、どうなのか、もちろん責任など感じないでしょうし、事故そのものの責任など負う必要も全くないし、それを責められるいわれもありません。マレー鉄道を当サイトで伝えている筆者も同じ気持ちです。
しかし筆者はそれでもこれらライター諸君と編集者にいくばくかの疑問を感ずるのです。筆者は万が一事故に遭ってもそれを晴天の霹靂などとは思いません、なぜなら上記に書いたようにマレー鉄道の現状を知っているからです。事故に遭いたくないのはいうまでもありませんよ。1万分の2前後の率で脱線事故が起こり、時刻表通りに正確に到着するなんてことはあまり期待できない、マレー鉄道はそういう列車です。これを知った上で筆者は伝えています。
だからマレー鉄道を伝えはしますが、あまりにも美辞麗句を並べたり、「エキゾチックなマレー半島が体験できる」などといった見てきたような虚辞表現はしません。ある地域や観光地点を筆者は決して誇張したりばら色の天国かのような表現はしません、当サイトの常連読者ならそれはすでにご存知か感じられることでしょう。天国みたいな所はどこにもないし、例えあったとしてもそこに生きる人間からかけ離れた旅は筆者の伝える旅とは縁遠い分野です。マレー鉄道は極めてマレーシア的性格をもった鉄道路線であり、ものすごく特別の列車でもマレーシア社会とかけ離れた列車でもありません(マレー半島版オリエント急行は除く)。
そこで筆者の言いたいことは、1万分の2前後の率で脱線事故が起こっていることを書けということではなく、こういうマレー鉄道の事実と性格を知ればそれが自ずと文章にも現れてしかるべきだということです。現状を知らずに書く、よく調べずに書く、知識不足のまま書く、そんなのは旅行者の単なる印象記にすぎません。金をもらって書くライターがこういったしろうとと同じレベルでいいのだろうか?
知識を蓄え、事実を踏まえた上で、旅行する人・したい人に読ませる記事を書くのがライターの役目です、美辞虚辞を並べ、事実関係を無視して、というよりよく調べもしないで知ったかぶりをして書いているライター、金に任せ取材という名目でちょっとマレーシアにやって来て、知名度と販売力で売っている雑誌・書籍を筆者は疑問視しますね。ばら色の粉飾旅行記事を書いてる諸君は旅行ライターとはとても呼べません、コピーライターですね。旅行社の宣伝パンフを製作するコピーライターならそれは許せます、美辞麗句を並べるのが彼らの仕事ですから。ですからマレー鉄道の行程が ”エキゾチックな列車の小旅行”などとツアーパンフレットに書いてあっても筆者はとりたてて問題にするつもりはありませんよ。
マレー鉄道は普段のマレー鉄道であり、なにか特別の鉄道でも反対に何ら変わり映えのない鉄道でもありません。毎日人々が利用し、時に事故を起こし、おうおうにして時間に不正確な鉄道です。いかにもマレーシア的であり、これからもそれが大きく変わることはないでしょう。マレー鉄道に乗れば、マレーシア人と知り合い楽しい時を過ごすことがあるかもしれません、車内で買った駅弁にマレーシアの味を発見されるかもしれません、予定した到着時間に2時間も遅れいらいらされるかもしれません。寝台車のマレーシア人乗客のうるささに嫌気がさすかもしれません。隣り合ったマレー人の親切に感激するかもしれません、さらに文字通り万が一の脱線事故に遭うかもしれません。それが普段のマレー鉄道であるのです。
本当のマレー鉄道は、美辞麗句を並べたロマンティックな文句の中やきれいな写真の中にあるのではありませんよ。マレー鉄道ファンの皆さん、こういったことを頭に入れた上でマレー鉄道の旅を味わってくださいね、筆者もマレー鉄道の旅を応援していますからね。
このコラムを書いたあとで(掲載する数週間前にすでに書き終えていた)、またマレー鉄道で脱線転覆事故が発生しました。今度はケダー州に近いペラ州のBukit Merah付近です。この事故も人為的妨害でも自動車衝突のためでもありません。皮肉なことに、バンコクで行なわれるタイ鉄道との会合のため、この列車にはマレー鉄道会長を含めて社員30名が乗り合せており、そのうち10数名が怪我したそうです。以下にその新聞記事を載せます。
マレー鉄道(マラヤ鉄道)のペラ州とケダー州の州境にあるBukit Merah付近で、列車3両が午後1時半頃脱線して転覆しました。この列車Ekspres Sinaranは朝クアラルンプールを発車しバタワースへ向かっていました。列車の運転手は、しばらく進んでから3両の列車がほかの9両から離れて脱線したことに気がついたそうです。
この列車にはマレー鉄道会長を含めて30人のマレー鉄道社員が同乗しており、うち12人が近くの病院で怪我の手当てを受けました。マラヤ鉄道はこの路線部分をちょっと閉鎖するそうです。
復旧工事の現場で新聞記者がマレー鉄道保守員に尋ねたところ、問題線路部分の古い枕木100本ほどを交換したとのことで、この線路部分は6日夜開通して列車が通過しました。
近くの村民は、この線路部分は何年ものあいだ洪水に見舞われて、砂利でできた線路の枕木基盤が弱められた、と言っています。この地域の州議会議員は、「線路に平行する運河が洪水しないように対策取るべく関係当局に申し入れる。」と述べています。運輸大臣は、「脱線の起きた線路一帯には、線路状況を改良させるプロジェクトを行なっていると」と発言し、「脱線原因の報告はまだ受けていない。」
以上
さらにおまけに数日前また脱線事故が伝えられました。
トゥンパット発クアラルンプール行きの夜行列車WAU Expressがスランゴール州のKajang とBangi間で朝6時半頃脱線事故を起こしました。脱線は10両編成の1両のみだったようで、マレー鉄道の広報幹部は、怪我人は誰も出ていませんと発表しています。尚平行しているKomuter近郊電車に多少の遅れを起こすだろうとのことです。
以上
さらにさらにまた事故の発生です。(コラム掲載開始した次ぎの日に発生)
マラヤ(マレー)鉄道のクアラルンプールとイポー間のKampar-Tapah路線部分で、貨物列車が朝6時半頃脱線転覆事故を起こしました。この貨物列車はイポー発のポートクラン行きで38基のコンテナーを積んでおり、内4両の列車が脱線転覆しましたが、怪我人はありませんでした。このため数本の乗客列車の運行に影響を及ぼしました。
運輸大臣はこの事故に関してのコメントの中で、「運輸省は線路修理と車両を増やすための購入資金の割り当てを政府に求める。」と述べました。これは、「人の輸送面だけでなく物の輸送面でもマレー鉄道の人気が増している。」からです。
一方国営通信社Bernamaは、マレー鉄道のある部分はお粗末な状態で修理が必要であると運輸大臣が認めている、と報じています。しかしながらこの修理・保全は人手不足と費用の高さから少しづつ段階的にやっていかねばならない、と大臣は述べています。
(Intraasia注:今度は貨物列車ですか。数紙が転覆した現場の写真を第一面で大きく載せています。しかし事故の度に担当大臣の談話が載るだけで、現場のKTM幹部責任者の言葉はめったに載りません。マスコミが取材しないのか単に載せないだけなのかそれはわかりませんが。さらに事故原因を追求する論調も記事も出ません、不思議な状況ですな)
以上
こういう事例を知るからこそ、はっきり言って、筆者はマレー鉄道の安全性を疑いますね。マレー鉄道は、国民の長距離移動の足であるばかりでなく、重要な観光施設でもありますから、この鉄道をこれ以上脱線事故にさらしてはいけませんね。マレー鉄道当局がこれまでとは違った態度で且つ真剣に線路保守なり列車整備に取り組まないと、いつか大事故につながる危険が生まれてくるのではないかと筆者は危惧しています。
ですから再度強調しておけば、マレー鉄道について書く・企画する・出版する一部のライター、編集者、出版社には、その知ったかぶりの態度を改めて、マレーシアをマレー鉄道をよく知った上で伝えて欲しいですな。
1999年にマレーシアを訪れた(日帰り訪問は除く)世界各国からの訪問者数は、793万人でした。前年より43%の伸びだったのです。この伸びに多いに貢献したのはシンガポール人の大きな伸びです。マレーシアへの訪問者数の伝統的上位は陸続きのシンガポールとタイで、これは当然でしょう。ついで日本だったのですが、昨年はインドネシア人が日本人を追いぬいてしまったので、98年の3位から4位に落ちました。昨年マレーシアを訪問した日本人の数は、日帰り観光客を除いて、28万6千人あまり、その前年とくらべて13%増でした。
今年2000年はこの数年急激にマレーシア訪問者数が伸びている中国が日本を追いぬきそうです、日本人のマレーシア訪問数は急激に伸びる傾向を示していませんから、残念ながらこのままでは5位に転落しそうです。読者の皆さん、日本人のマレーシア訪問増加のため協力又は応援してくださいね。
マレーシアへの国別と年別訪問者数 (数字はTurism Malaysia発表のもの)
国別 | 1999年(単位千人) | 1998年(単位千人) | 全体比 |
シンガポール | 4900 | 3000 | 62% |
タイ | 498 | 454 | 6.3% |
インドネシア | 307 | 157 | 3.9% |
日本 | 286 | 252 | 3.6% |
中国 | 190 | 159 | 2.4% |
ブルネイ | 187 | 183 | 2.4% |
台湾 | 136 | 159 | 1.7% |
英国 | 136 | 160 | 1.7% |
オーストラリア | 134 | 145 | 1.7% |
その他含めた合計 | 793万 | 555万 | 100% |
マレーシアは熱帯の国ですから雷の発生が多いことは推量できますよね。マレーシアの気象庁(Malaysian Meteorological Serviceという官庁を便宜的にこう訳しておく)によれば、マレーシアは世界でも有数の雷発生国だそうです。雷の多いことは実感からも知っていましたが、ずっと以前新聞に載った、マレーシアでは平均して年間200日以上も雷が発生する、という記事にはびっくりしました。いくら雷発生が多いとはいえ、年間200日以上は多すぎるのではと思い、なにかの間違いではないかとマレーシア気象庁に問い合わせたのです。
苦労の末ようやく正式な回答を入手できましたので、ここで紹介しておきます。
スランゴール州のSubang空港、北緯3度7分、における月毎の雷発生日数 [ 91年から99年の記録 ]
年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 合計 |
1991 25 20 27 29 31 20 20 24 28 19 29 29 301 |
1992 18 23 25 26 31 23 30 26 27 31 30 30 320 |
1993 22 21 27 30 30 26 25 27 28 28 30 26 320 |
1994 27 22 28 26 30 23 17 17 15 23 28 16 272 |
1995 25 20 22 30 29 28 22 23 24 30 28 19 300 |
1996 12 20 14 29 27 21 20 25 27 23 25 25 268 |
1997 9 20 23 27 17 20 17 7 10 19 24 26 219 |
1998 25 15 13 21 25 18 25 22 22 23 23 21 253 |
1999 20 18 20 23 20 16 17 17 21 20 26 18 236 |
|
日本の東南アジア諸国への公的援助と協力は相当なる額であることは多くの方もご存知でしょう。日本は民間の経済活動以外に、人と金を各国に送っている・贈っているのです。もちろん公的援助は民間の経済活動と全くかけ離れている訳ではありません、密接につながっている分野も多いことでしょう。こういう援助と協力の実態とあり方を論ずるのは筆者の分野ではありません、日本でいくつかの専門書・解説書が出版されているのでそちらをお読みください。
さて9月のある日ブキットビンタン街のLot10を通りかかったところ、たまたまJICA国際協力事業団とJBIC国際協力銀行が、その援助協力を紹介する展示会を行なっていました。そこに置いてあったいくつかのパンフレット類を持ちかえりましたので、それを参考にして書いて見ましょう。
マレーシアへ日本の公的援助はどれくらいつぎ込まれているのでしょうか、下記で述べる小冊子を参照すると、古い援助は別にして、「東南アジア経済危機が起きた98年以後にマレーシア政府は日本政府に経済協力を要請しました。これによって(日本政府の公的銀行である)国際協力銀行の与える政府開発援助ODAとアンタイドローン(ひもつきでないローンのこと)は、2000年3月までに総額36億米ドルに達したのです。」とのことです、日本円にして約4兆円ですか、まさに巨額ですね。
このうち、99年と2000年に調印された政府開発援助ODAローンを取り出してみると、次のようです
プロジェクトの内容 | 金額、単位は億 | 年率 | 返済期間 | 据え置き |
ルックイースト政策 | \140 | 0.75% | 40年間 | 10年 |
ケダー州のBerisダム建設計画 | \185 | 1.7% & 0.75% | 25年と40年 | 7年、10年 |
ポートディクソンの発電所改修計画 | \490 | 0.75% | 40年間 | 10年 |
サラワク大学の発展計画 | \97 | 0.75% | 40年間 | 10年 |
中小企業への基金 | \162 | 0.75% | 40年間 | 10年 |
高等教育を受ける者へのローンのための基金 | \52 | 0.75% | 40年間 | 10年 |
パハン州とスランゴール州の水資源開発への技術協力 | \10 | 1% | 40年間 | 10年 |
ポートディクソンの発電所改修計画第2 | \537 | 0.75% | 40年間 | 10年 |
汚水処理施設計画 | \484 | 0.75% | 40年間 | 10年 |
Kenir水力発電所計画第2 | \169 | 0.75% | 40年間 | 10年 |
この小冊子には上記の最近のプロジェクトだけでなく、以前からのプロジェクトを含めたODAローンの実施された又はこれから実施される全プロジェクト72件の場所を示した図が載っています。プロジェクトはほとんど全州に及んでおり、クランタン州以外の州には少なくとも1件のプロジェクトがあります。数が多いのはスランゴール州、トレンガヌ州、サラワク州、ペラ州といったところです。どういうわけか、半島部で一番開発の遅れているクランタン州だけは1件のプロジェクトもないのが不思議ですね。
ODAローンの全プロジェクト72件の累積総額は2000年7月現在 8274億円です。その分類では電力発電とガスの分野が、総額の51%を占め、ついで社会サービス分野が18%、運輸分野が14%というものです。電力ガス分野が半分も占めるんですね。
その他の援助協力の面もこの主冊子では簡単に説明してありますが省略します。
98年で日本国民一人当りのODA負担額は84米ドル相当なので、皆さん感心をもちましょうね。
次ぎに国際協力事業団JICAです
「74年に設立されたJICAが担当するのは、日本政府による2国間援助のうち贈与に当る部分で、技術協力と無償資金協力の調査・実施促進業務を担っています。JICAの協力は人が主役です。JICAは専門家の派遣、研修員の受け入れなどを通じて、人から人へ技術を伝えています」と、JICA発行のパンフレットに書いてあります。
その中で有名なのが青年海外協力隊ですよね、これはJICAの活動の中の日本海外協力ボランティアプログラムの中にあるそうです。以下すべてJICA発行のパンフレットを参照した数字です。
青年海外協力隊はもちろんマレーシアにも派遣されています、99年までに累計1051人にのぼる。2000年現在マレーシアに派遣されている人数は50人、内男21人、女29人です。派遣地内訳は半島部に27人、ボルネオ島部に23人です。ボルネオ島部の比率がマレーシア国内人口比よりずっと高い理由は、半島部より発展度が劣ることから分るような気がしますね。
青年協力隊でなく年齢層が40才から69才対象のシルバーボランティアーの場合だと、初めてマレーシアの地にシルバーボランティア−が送られてきたのが90年です。その数はぐっと少ないのですね、99年までの総計で70人だけです。残念ながら現在派遣されている人数は載っていません。これらとは別に、専門家の長短期の派遣が99年までに1919人です。
青年海外協力隊やシルバーボランティアの方又はその経験者から生の声を聞きたいものです。
マレーシアは複数民族国家ですから、常に言及されるマレー人、華人、インド人の主要3大民族に加えてサバ州はカダザンドゥスン族、サラワク州はダヤック(イバン)族を代表させることがよくあります。サバ・サラワク州はもちろんこの2つの民族だけでなく、さらに数十の少数民族が住んでいます。半島部だと先住民族のオランアスリ(約9万人)、マラッカのポルトガル民族の末裔(確か1万人前後)、スマトラからのミナンカバウ族、ジャワ島からのジャワ人、セイロン島からのシンハリ人などが比較的言及されます。しかしもっとも古い少数民族の一つであるタイ人が時としてそこから漏れることがあります。
マレーシアと何百キロもの国境線を接し、半島北部と東部のケダー州、クランタン州、ペルリス州など当時のマレースルタン領土を一時占拠したマラヤ及びマレーシアと最も縁の深い国のひとつであるタイの民族を忘れてはいけません。国境を接した国の常で、歴史上の経緯から現在の国境の両側にお互いの民が少数民族として残存居住することになりますね、ヨーロッパの多くの国、アジアの国々でもこれは同じですね。当然ですが、現代の国境は極めて人為的なものです、昔から住民はそれを無視して又は惑わされずに国境を行き来してきたし、国境は常に変化するものでした。
こうして国境の両側に互いの民族が少数民族として居住することになったのはタイとマレーシアの間でも同じです。深南部タイには民族的にはマレー族に属するであろうタイムスリムが何百万人も存在しています(これはイスラム伝播普及の結果ですが)、このことは当コラムで数回ほど書きましたね。そこで今回はマレーシアに居住するタイ民族のことを書いてみましょう。すなわちタイ系マレーシア人のことです。タイムスリムが、マレー語を話そうと話さないとにかかわらずタイ国籍であるように、タイ系マレーシア人は仏教徒であろうとなかろうとマレーシア国籍です(最近国境を超えて結婚したような人の場合を含めて例外はあるでしょうが)。尚タイ系マレーシア人はブミプトラ扱いです。
ここではタイ系マレーシア人又は簡単にタイ人と表記します、このタイ系マレーシア人は北部州のケダー州、ペルリス州、クランタン州に点在しており、ペラ州にもわずかに居住しているようです。いずれもタイコミュニティーとしてまとまって居住している場合が多いようで、タイ系マレーシア人の総数は6万人ぐらいだと言われいます。ですから数から言えばそれほど大きな少数民族コミュニティーではありませんね。
タイ国のタイ人主流はいうまでもなく南方上座部仏教を信じるタイ民族仏教徒ですね。ですからタイのマラヤ半島南下の歴史のせいでしょう、タイ仏教寺院がケダー州、クランタン州などにあります、アロースター市内中心部には立派なタイ寺院が目に付きますし、クランタン州の田舎には寝仏の寺院もあります。当然その周りにタイ人コミュニティーが存在する又はした証拠ですね。ただタイ寺院へ参拝するのはなにもタイコミュニティーだけでなく華人コミュニティーからも幾ばくかの華人が参拝します。華人は一般に混交宗教信者ですから、仏教寺院も参拝すれば道教寺院も参拝し儒教を信じるするという人が結構います。華人の本来の仏教はタイ流の上座部仏教ではありませんが、同じ仏教と言うことで親近性が高いのでしょう。だからこそ18世紀ごろから20世紀にかけて東南アジアに移住した南方中国人がその土地の民族と一番融和した国がタイですね。
こういう予備知識をお伝えしてから、マレーシアのタイコミュニティーの旅に入っていきましょう。
4月の始め筆者はケダー州のタイ国境に近い地方を訪れて、タイコミュニティーを探してみました。州都アロースターからバスで北東方向に向かって約1時間半でPadang Terap地方の中心町Kuala Nerangに到着します。この町はそこから70Kmほど離れた人造湖Pedu湖への起点になるぐらいでこれといって見所はありませんし、第一ホテルが1軒もないのです。
タイとの国境近くに位置するPedu湖には豪華リゾートもありますが、交通が不便ですからそれほど多くの一般ツーリストが訪れるところとは思えません、一度は見てみたかったのですが、そこまでのタクシー代RM50はいかにも高額で筆者にはとても手が出ず、残念ながらあきらめざるを得なかったのです。さて湖まで行くバスはありませんが、町から数十キロ離れたPedu村まで行くバスがありましたので、それにふらっと乗ってみました。タイ国境に近いからひょっとしてタイ部落でもあるかなとの淡い期待を持っていたのです。
それが見事あたりました。水田風景の中、田舎道を走っていたバスの窓からタイ寺院を目にしましたので、終点でおり返してからそこで下車してみました。タイ寺院はこの数年に改築したようで本殿などはまだ新しく、敷地も広いのです、これから想像できることは、この部落に住むタイ人ミュニティーは数十人規模ではないなということです。寺敷地外の道路際に掘建て小屋式の茶店がありました、寺の敷地内外をうろついて写真を撮り、近くをとおりかかったら、茶店の若者から声がかかったのでさっそく、その中に入っていきました。変な奴が寺内外をうろうろ何しているのだろうと思ったのでしょう、筆者は話しかけるきっかけを待っていたので、ちょうどいい機会です。
20代前半ぐらいと思える彼らの会話がタイ語ばかりなのがまず意外でした、タイ人でも普段はマレー語を話していると思ったのです、ここのコミュニティーは違います。筆者は彼らとしばらくタイ語とマレーシア語のちゃんぽん会話をして、あれこれと聞いてみました。この部落はKampung Tanjung Thai Peduというそうで、タイ人約1000人のコミュニティーとのこと、住民の多くはタイ人のようですが、華人もいます。1000人規模なので、結構立派なこのタイ寺院も維持できるのでしょう。学校は当然地元のマレーシア公立小学校、中学校に通います。「あなたたちはタイ文字も書けるのか?」と尋ねる、とそうだとの自慢げな返事です。寺の敷地内にはタイ文字で示された寺子屋がありますので、そこで習うそうです。つまりタイアイデンティティーを強く強く残しているコミュニティーですね。ですから若者でも日常会話はタイ語、もちろん南部タイ語、なんですね。
茶店の道路を挟んだ対面側にある民家あたりから、筆者にはなじみあるメロディーのタイ語の歌が音高くかかっています、時としてマイクでなんやらら話があります、そして人々がそこに集まっているので、何事かと尋ねたら、結婚式があるからとのことです。その日はこの部落で2つの結婚儀式があるとのこと、それは珍しい、いずれもタイコミュニティー人同士かと聞いたらそうだ、これは見逃せないなと思いました。
対面の農家にはまもなく新郎と新婦がやってくるそうです。「見ていてもいいかな?」 「もちろん」との返事です。
それからこの部落を少しうろついてみました。茶店から少し離れた住居街の一角では、結婚を示す装飾をしたベンツが駐車して、まとまった人たちがそのあたりで待っていましたので筆者もそれに加わりました、しばらく待つと新郎新婦が家から出てきて車に乗りこみ走り去っていきました、別の結婚カップルで、どうやらその新郎か新婦の家での儀式を終えたところでした。
そこで先ほどの茶店の対面の農家付近に戻って前をうろついていたら、数人からしきりにこちらへ来いとの手招きを受けます、さすがに躊躇しましたが、まあこの際だからと庭先に入っていきました。庭先にはテントが張られ、すでに多くに人が食事をしているのです。新郎新婦の車はまだ到着してませんが、ふるまい食の宴はすでに始まっているのです。筆者がタイ語を話すことを知るといろいろと話してきますが、もちろん全部は聞き取れません、とにかく結婚の祝いのふるまい食に加われということです。
「えー、私はクアラルンプールから来たただの通りすがりの者ですよ」といっても、「関係ない、食べろ食べろ」と数人が勧めるのです。もうこの場となれば受けましょう食べましょうとテントの中のイスに座って、見知らぬ人といっしょにタイ食をご馳走になりました。写真で示したように普通のタイ家庭料理ですね。
それにしてもナンと言うことでしょう、タイ人コミュニティーとは全く関係ないし、しかもその村人の知り合いでもない、ただのものめずらしさに曳かれてやってきた者をふるまい食に招いてくれる心理、いや驚きました。これはつながり意識の強い田舎の小さなコミュニティーの特徴なんでしょうね。めでたいことは誰でもいっしょに祝おう参加しようということなのか、来る者は誰であろうと拒まずということなのか、そいう心理はよくわかりません。しかし日本でもずっとずっと昔はあったように、村人の祝いをあまり関係ない人までもがその祝いに参加するという村の慣習、しきたりなのかもしれません。サラワク州の山間僻地に住む少数民族の祝い毎に、たまたまそこを訪れた外国人が参加した記事を読んだことがありますが、そういうのとはまた違いますね。筆者は旅行者としてそこを訪れようとして訪れたわけでもないし、ガイドに連れられていったわけでもありませんから。
その結婚する家の知人、親戚関係の人であろう、10人ぐらいが食事の世話と食器の準備と後片づけをしています。このテントにやってくるのはほとんど村の人のようで、普段着でやってきます。彼らは別に取りたてて挨拶もせずにやってきて、イスに座って食べ始めます、食べ終わるとさっと去っていく者も、庭先の小屋でいろいろと話し込む者と様様です。この結婚の祝いで特徴的なことは、やってくる、ふるまい食に参加する人は見ているとだれも手土産など一切持ってきません、つまり振舞う方は、最初から何も見かえりを期待してないのです。
そうこうしているうちに結婚装飾を施した車に新郎と新婦が乗ってやってきました。家の前に停まると、庭先の皆に大した挨拶もせず家の中にそくさと入っていきます。ちょっとあっけない感じです。家に入る際、その家の母親であろう、その女性がおはらいの儀式をして、つづいて家中に入っていく友人親族におはらいの儀式を続けます。
ちょっとのあいだそれを見ていた人たちもまた話しと食事に戻ります。しばらくしてタイ寺院の僧侶一行が4,5人やってきました、例の黄茶色基調の僧衣を身につけた僧侶です、周りの人に彼らはタイから来た僧侶なのかと聞けば、地元の僧侶だとのことでした。その後家の中から呪文?お経?が家の外に置いたスピーカーから聞こえてきます。マイクを通して外にも聞こえるように実況中継というところです。
周りの人が家の中に入ってもいいよと私に勧めましたが、さすがにそれはしませんでした、いくら何でも全くの見知らぬよそ者が、結婚儀式中の家に入ってその写真を撮るのは礼儀に反すると思ったからです。
新郎がこの家の者で、新婦は(この村から50Km以上は離れているであろうケダー州の町)Jitraのタイコミュニティーからだそうです、偶然初老の男が私に話しかけてきて、新郎の父親だと言いました、そこで2,3質問したらわかったことです。あらま!取りたてて盛装もしてないのでまったく気がつきませでした。そこで関係もないのに食事させていただき且つうろつかせてもらってます、コックンマークとお礼を伝えたのです。
しばらくして僧侶が家から出てきて儀式は終わったようです。ふるまい食の祝いは続きます、新郎新婦が何していようと、やってくる村人にはそれほど関係ないようで、普段着の村人、老若男女幼児がやってきてテントの食にありつくのです。新郎の親に挨拶する人もいれば関係なさそうな顔してる者もいます、不思議ですね。村のコミュニティー人以外にも、友人や親戚らしき他所から来た人がいるようですが、よく見分けがつきません、マレー人らしきも数人みかけましたが、すぐ立ち去るようで且つ食事はしなかったようで、聞こえてくるのはくほとんどタイ語の会話です。つまりやってくるのはタイコミュニティーの人ばかりということでしょう。ただこういう中で暮らしている華人はタイ語も話すはずですから、華人も混じっているのかもしれません。
筆者はこれまでタイの田舎をたくさん歩いてきたので、そういう所でタイ人たちと会話してひとときを過ごすのは慣れていますが、結婚の祝いをマジカに見たのははじめてでした。ましてやその振る舞い食に参加?したのはです。筆者はこれまでに外国で見知らぬ人の結婚の祝いに参加したことはあります、でもその時はその国人の友人が結婚式に招かれていて、それに連いて行った場合ですから、今回とは少しきっかけが違いました。
テント内外でおしゃべりしている、食事しているタイ人も家の周りでつどんでいる男女若者も、やはりタイ風の物腰ですね。若い女性が連れ立ってやってくる、その服装はタイの田舎で見るそれとかわりません、若者らが男女混じってつどんでいる、保守的なムスリム社会ではとんと見かけない光景ですが、ここはタイコミュニティー。バイクに乗ってやってくるおばさん、これもタイの田舎の普通の光景、子供を連れてやってきたサロン姿のおばさん、これもタイの田舎ファッションです。時折道路をムスリムのバイクが通りすぎる以外、そこはタイのどこかの村であるかのような錯覚に陥ってしまいました。かれこれ3時間近くこの部落で過ごし、またバスでK.Nerangに戻りました、バスが来なくて延々と炎天下でまたされたのがつらかったな。
ケダー州のタイコミュニティーはこのPeduにある1部落だけではありません。Jitra、Balingにもあるそうです。マレー凧Wauの件で訪問したTualang村(コラム第186回を参照)でも少数のタイ人がいるのですね。そこで筆者がアロースターへの帰りバスを待つ間茶店で食事していたら、マレーシア語に混じってタイ語の会話が聞こえてきたので、その男たちに尋ねたら、「我々はマレーシア人だ、でもタイ語を話すのだ」と言ってました、「でもタイ民族だろう?」と聞いたら、「そうだ」と。つまり彼らはタイ深南部ムスリムと同じカテゴリーにはいる、マレーシア国籍のタイムスリムでしょう。
このようにケダー州ではいくつかの地方に中小のタイコミュニティーがあるようです。
シドニーオリンピックが終わって、日本ではスポーツ観戦の季節はしばらくお休みなんでしょうか。それとも、以前よくあったようにオリンピックに参加した有名外国選手を呼んで来て顔見世イベントをしているのでしょうか。
マレーシアへは間違ってもそいういうオリンピック級選手が競技会という名の顔見世イベントにやってくることはありません。マレーシアの状況を知っていただくためにオリンピック開幕後に当サイトの巻頭に掲げた短文をここに再録しておきます。
オリンピックのニュースと感動が恐らく日本のマスコミを席巻し家庭にも及んでいることでしょう。日本は数回もオリンピックを開催したぐらい国民全体の関心が高いし、参加競技と選手の数も世界有数の多い国ですね、だからオリンピックフィーバーはいわば当然のことなんでしょう。しかし世界多くの国で同じようかといえば、いうまでもなくそんなことはありえないですね。貧困、内乱、政治的混乱、宗教的理由からスポーツの禁止などからオリンピックフィーバーなどほとんどない国も多いことでしょう。
さてマレーシアはどうか、貧困や政治的混乱に悩んでもいるわけでももちろん内乱やスポーツ禁止が出されているわけでもありません、経済的には中進国として優等生ですし、社会はそれなりに安定している。しかし街に家庭に(マスコミの中継・報道はあるけど)オリンピックフィーバーがあるとはとても思えません。無理もないでしょう、参加競技も10種類以下選手数も数十人規模で(8競技に39人の選手)、唯一のメダル期待のバドミントンもメダルなしに終わりました。ほとんど華人選手ばかりの水泳チームも国内新記録を出しても予選で落ちるなど、とても世界の1流どころの相手になるレベルではありません。まあそれもいいでしょう、オリンピックは参加することに意義があるようですからね。
でもそれもしかたありません。何よりもマレーシアはスポーツ大国でもスポーツ大愛好国家でもありません。もちろんスポーツ施設はあちこちにあるし学校でも会社でもスポーツ活動はある、建前としてスポーツは奨励されている。しかし現在のオリンピックがほぼ実質的にプロ化している状況から、マレーシアではバドミントンを除けば各競技のレベルが低いので、プロとして又はプロ並にスポーツをして暮らせる選手は極めて極めて少ないし、例えトップレベルでもスポンサーが見つからないということになります。
もっと大きな理由はいうまでもなくムスリムが人口の6割弱を占めるということですね、ムスリムであれば当然行なう競技に制限がある、女子が、個人的に趣味で行なうのはごく例外として、体操や水泳や陸上競技などに参加することなどありえない。マレーシア選手団にマレー女子選手の名は極めて少ない、こうしたことから必然的に一般人の1流スポーツへの関心は日本や欧米諸国ほどには育たないことになります、都会の一部にはあってもです。オリンピックを日本や欧米からでなく、オリンピックフィーバーのない国・地域から眺めるのは世界観を広めることになりますよ。スポーツは文化・宗教から決して完全中立ではないのです。
シドニーオリンピックにおけるマレーシア選手団の成績はメダルゼロという結果でした。だからといって国民から選手団にごうごうたる非難が起こっているわけでもありませんし、多くの国民が、バドミントンの不成績を多少例外として、心から落胆したわけでもありません。上記にも書いたように、所詮マレーシアはスポーツ国家でもスポーツ大愛好国民でもありません、オリンピック選手団が不成績であったぐらいで、いやそういう不成績は当然最初から予想されていたはずですから、国民的論議にはなりっこありません。
オリンピックのメダル獲得数を見れば一目瞭然と分るように、西欧の先進国が圧倒的にメダル獲得数を独占しています。もちろんごく特定の競技で、キリギスチャンとかカタールとかコロンビアといった国が各1個のメダルを獲得はしていますね。でも大勢の傾向は裕福な西欧文化の国とロシア、西欧文化ではないが国家あげて支援応援する中国や日本などの東アジア諸国、がメダル獲得上位国家ですね。ついで西欧文化でも裕福な国家でもないアフリカ諸国が続きます、さらにイベロアメリカ(ラティンアメリカ)の数か国ですか。
で東南アジアはメダル獲得でどんな位置にあるのでしょう? インドネシア6個、タイが3個とベトナムが1個メダルだけですね。メダル獲得数を基準にして世界を地域別に分けたら東南アジアは低レベル地域に確実に入りますね。もっともメダルはスポーツ選手水準の一基準に過ぎませんから、メダルなんて獲得しなくても国民のスポーツ全体の水準が高ければいいという議論も十分成り立つことは理解しています。筆者は決してオリンピック万万歳ではありませんからね。
さてメダル獲得には選手養成に当然膨大な金がかかりますから、メダル多数獲得国家になるためには、それを可能にする資力がまず必要ですよね、豊かな米国や西欧やオーストラリアが当然この位置にあるのは誰でも知っています、だからメダル多数獲得した結果はその証明でもあります。
メダルを1個でも獲得した国は90カ国弱ですが、一帯このうち明らかなる又はムスリム人口多数のイスラム国家はどれくらいあるかと数えてみたら、全体の1割強である10カ国ほどですね、ただそのうちの半数はかつてのスポーツ超大国旧ソ連邦の一部であった中央アジア諸国です。イスラム国家中一番獲得したインドネシアでさえ合計6個です。
詳しい分析は全くしていませんが、こういったイスラム国家のメダル獲得者のほとんどが男性選手です、例外的に陸上でアラブ女性が金メダルを獲得しましたが。でマレーシアはどうか、他のイスラム国家の傾向と大体同じですね。選手団にムスリム女性の名は、射撃みたいなのを除いてほとんどない、ムスリム男子もホッケー以外には極少ない、総人口の4分の1を超える程度に過ぎない華人の選手が選手団の過半数をずっと上回るという構成です。
ここまで書けば大体の見方はおわかりですね。理論上でなく現実のイスラム教とスポーツは基本的に両立が難しいことです。いやそんなしろうと解釈は間違っているとかそれは違う、イスラム国家で十分良い成績を残している(中央アジア諸国)といった反論はわかります、しかし他の非イスラム国家に比べれば、イスラム国家は一般にいずれもその程度は下だということです。スポーツとイスラム教は両立が不可能とか、イスラム国家はスポーツ奨励を全くしないという意味ではありませんよ。いずれにしろイスラム教義解釈論は専門家にお任せして、筆者がみる・考察するのはそれが現実生活にどう現れているかという現象面です。示されたメダル結果と現象からいえば上記の見かたは間違っていません。
日本人の好きな「スポーツは国境を超える」、「スポーツは人類融和の最良のものである」などといった美辞麗句は、全然とはいいませんが、あまりあてはまらないのです。オリンピック賛歌に冷や水をかけるつもりはありませんが、多くのスポーツは決して民族と文化を超越しません、なぜなら民族は強く深く宗教に結びついているからです。21世紀のオリンピックがこの現実から大きく変わる、離れることはありえないでしょう。
さて、マレーシアが2008年のオリンピック開催地にとりあえず立候補したことをご存知の方はいらっしゃるでしょうか? 最初これを聞いたとき筆者はまさか、冗談だろうと思ったぐらいです。もちろん最初の予選なり選考でマレーシアは落ちました。マレーシアのオリンピック開催への夢は、2年前に開催した英連邦スポーツ大会とF1グランプリレースの開催などを無難にこなしていることに相当程度あります。もちろん一番の動機はいうまでもなく国威発揚です。F1グランプリなどその観客と関係者の大多数が外国人であり、経済的恩恵・効果は相当ありますが、一般国民がかかわる場はほとんどありません。英連邦スポーツ大会はオリンピックに比べて規模は相当下ですし、ここでもマレーシア選手団の成績は決していいことはなかったと記憶しています。
一帯全体オリンピックを開催して国民の大多数はそれを熱烈に支持するであろうか、全州が協力するのであろうか、観客として種種の競技に熱狂、興奮するであろうか、などの疑問が湧きます。
こんな私の疑問に答えるかのように、シドニーオリンピック閉幕の直前に英字紙Starに短い記者のコラムが載りました(10月1日付け)。抄録してみます。
マレーシア選手団の成績は全く優れたものではなかった、ここで希望的思いにちょっとふけってみよう、クアラルンプールオリンピックは本当に現実になるのであろうか?
マレーシアがオリンピックを開催したいということに議論の余地ない。結局の所我々は2008年開催に立候補した、もちろん第一予選を通過しなかったが。我々がインフラストラクチャー面を準備できないと思うものはほとんどいない、又は世界的イベントを開催する能力を疑う者はほとんいない。
中略
しかし我々がオーストラリアでの出来事を観察したように、現代オリンピックがどんなものであるか十分に知ろうではないか。選手は規則に従いそれを尊ぶと宣誓はするが、ドーピングテストは必須です。
オリンピック会場外での活動は、選手たちのますますきらきらとひかり人を興奮させるユニフォームと同じくらい多くの色をゲームに加えています。かつてアマチュア精神の厳格なスポーツは、現在では百万長者の選手が、明日の食事も確かでない選手と戦うのです。
中略
そこでマレーシアはこの広範囲な事業計画のどこにたつべきであろうか。
当新聞社の調査ではマレーシア人の多くはオリンピック開催を望んでいないかむしろアジア大会開催を好む。
これらの気持ちのほかに、我々は基本的疑問を呈する必要がある。先ず初めに、マレーシアはオリンピッククラスの選手を擁しているか又は持てるであろうかというものです。その選手とは名誉で参加するのでなくそれ以上の活動するということです。
次ぎに、マレーシアは世界の全ての選手、全てのスポーツ、全ての国を広い心をもって受け入れられるだろうか?
(マレーマスコミで非難された女性歌手)ニンバイズラの性的ファンタジーを語ったインタビュー発言に腹を立てた人がいるが、そういう彼等は売買性産業者の流入に、無料コンドームの配布に、水上ポロ競技での時としたトップレス状態にどう反応するのでしょうか?
本当に我々はオリンピックを開催したいんだろうか、それとも単にテレビで観戦しているべきであろうか?
以上
オリンピック開催なんてマレーシアにとって、非現実的でそして不適当なことですね、それはここで説明したようにいくつかの意味においてです。その理由は、決してマレーシアにその能力がないとかマレーシアが嫌いだからなどという卑下観や嫌悪感からではなく、オリンピック開催はマレーシアには向いていない、そんなことに金と労力を使うよりもっと国民のためになることに使って欲しいという、お世話になっているマレーシアへの”愛情心”からですよ。
このオリンピック開催立候補はいささか人民の心から離れた行動をしがちなマレーシア指導層の残念な思考法が見えていると筆者は思います、そしてはっきりとものを書けない立場のこの新聞のコラムもそんな思いであるのでしょう。
クランタン州はマレーシアと最もタイとの関係が深い州といってもいいでしょう。19世紀以前にはパッタニーあたりにある南タイの権力者・支配家の間接支配と影響を受けていたこともあります。英国のマラヤ半島進出に伴って、1909年の英シャム条約でクランタン州は英国保護下に入りました。現在でもクランタンのスルタン家はタイ王家と親密であると言われており、スルタンの誕生日祝典にはタイ王家から使者が派遣されるそうです。
半島部の中心部から離れた北東端にあるというその地理的位置とタイ南部との宗教的と文化的繋がりから、クランタン州はそのユニークさで知られています。例えばクランタン州は、構成民族的に言えば95%がマレー人の比較的同質社会、産業的に言えば半島部で最も工業化が遅れている州、経済的に言えば半島部で平均個人所得が一番低い州、政治的に言えばPAS党の牙城、従ってイスラム色の非常に強い州、スルタンが州政治に影響を与える力が他州に比して大きいなどと違いを上げていくのは簡単です。
さて今回のコラムの主題であるタイ系コミュニティーの存在は、早く言えばタイ深南部に存在するムスリムタイ人と表裏の関係にあるといっていいでしょう。クランタン州はその北端をタイと接しているだけでなく、宗教つまりイスラム教を通してタイ深南部との結びつきをより深いものにしているのです。タイは仏教国です、がタイ深南部のタイムスリムは民族的に言えばマレー系で少数派に属す、だからイスラム国であるマレーシアは宗教面では兄貴的存在且つクランタンマレー人と民族的一体感もあることになります。一方マレーシアに住むタイ系マレーシア人は仏教徒が主流で、その故郷且つタイ仏教本家であるタイとの関係を大事に保持しているわけです。
こうしたことから昔からタイ深南部の民とクランタン州の民の往来は単に交易と宗教交流だけでなく、人的交友関係も盛んだったようです。つまり婚姻関係を結んできたわけです。ですから今でもタイ深南部に親族がいるクランタン人は多いし(南タイのムスリムから言えばクランタンマレー人の親族がいるということですね)、今でも国境を超えての婚姻は珍しくないようです。同じマレームスリム同士ですし、タイ深南部のマレー語(パサームラユタニ)はクランタンマレー語とほぼ同じですからね。
こうしてクランタン州の概略を知っていただいてから、タイコミュニティーについて述べていきましょう。
州内のタイコミュニティーは人口は1万数千人とか、とりたてて多い数ではありません。その多くがTumpat郡、Masir Mas郡などの国境近くの一帯に固まっているようです。当たり前と言えば当たり前でしょう。クランタン州とタイを分ける国境の大部分はクランタン川です、上流はJeli あたりから流れ出し、河口の村であるP.Kuborで南シナ海に流れ出しています。現在このクランタン川のどの地点を国境線に確定するかを決めるため、両国からの専門家が測地をしながら協議を続けています。まだまだ年月がかかるそうですが、タイとマレーシアの関係は友好的なのでこれが紛争になる可能性は全く無いのです。
筆者は4月のある日クアラルンプールからの夜行列車でクランタン州にはいり、タイ人コミュニティーを求めて、とりあえずTumpat郡を訪れてみようと考えました。これは以前そのあたりを旅した経験からだいたいのめぼしをつけたわけです。Pengkalan Kubor行きのバスに乗っていて街道際にタイ寺院が見えたので、その付近で降りました、(この件に関してはコラム第187回に書きましたね)。
タイ寺院のある村をTumpat郡のKubang Panjang と言います。寺の敷地は十分広く、寺もよく目立つ大きさです。寺の名前は入り口の門にタイ語とマレーシア語でWat Sukhontharanと書かれています。本堂や小さな祠もある僧侶の宿泊所もある本格的タイ寺院ですね。境内の地面も砂地です。
何よりも印象的だったのは、敷地内に新しく建築された(と見える)タイ語学校です、その学校名自体がタイ語学校なのです。この種の学校で恐らく相当立派であろうと推測される二階建ての校舎で教室数も10室ほどあります。筆者の訪れたほんの数日前に竣工式なり新校舎オープン式典が行なわれたことが、残された式典飾りと幕でわかりました。
貼られていた名前と写真入りポスターから、この式典に有名なNik Aziz州首相が出席したようです、つまりこのタイ語学校はPAS党州政府も公認して祝ったということでしょう。その原理主義的イスラム教解釈と方針で知られたPAS党ですが、州内の少数コミュニティーであり且つクランタン州と縁の深いタイ人仏教コミュニティーには、その独自の文化と宗教と言語を保護するということですね。
筆者が訪れたのは月曜日なので州の平日になります、しかし校舎内には全く人気がなく、おかしいな。誰かに尋ねてみようと探すと、寺の食堂がある建物に人影を見たのでそこで働いていた女性に尋ねてみた。州の休みである、つまり学校の休みでもある金曜と土曜日の週2回だけこのタイ語学校は開かれるそうです。もちろんタイ系マレーシア人の子弟が生徒であろう、彼等にタイ人としてのアイデンティティーを保持させるためにタイ語は最重要であるから、マレーシア小学校及び中学校で公教育を受けるのとは別に、こうしてタイ寺院内のタイ語学校でタイ語を習わせるのであろう。
教師も地元のタイ系マレーシア人だそうである。その日はつまりタイ語学校は休みなので、いくらここで待っていも生徒も教師も来ないであろう、話しを是非聞きたかったのだが残念だがしかたない。タイ僧侶が宿舎から昼飯に出てきた、その宿舎の壁にはタイ国王の古ぼけた写真が貼ってあった。
寺院敷地内に犬が何匹も寝そべっている、イスラムモスクでは絶対にありえない光景に、この寺敷地内がいわばミニミニタイなのかな。もうすぐやってくるタイ仏教の新年ソンクラーン祭りのお知らせの紙が張られていた。マレーシア語で書かれている、村のマレー人も参加して欲しいとの意味であろうか、それともタイ文字をよく読めないタイ人向けだろうか。この村や近隣の村にどれくらいのタイ人が住んでいるかはわからないが、少なくとも一千人は超えるのではないかと推測されるほど敷地の広い寺院だ。
この寺院から徒歩5分ほど離れたタバコ乾燥工場でマレー人としばし談話していた時、やってきた数人の男たちがそばでタイ語の会話を始めた、このようにこの近辺には至る所にタイ人はいるのであろう、ただ土地に解けこんで暮らす華人がそれに混じっている可能性もないとはいえないが。
また筆者がタバコ工場前の茶店で休んでいた時、集まっていた又はやってくる土地のおばさんとおじさんを眺めていると、バジュクルン姿でなくサロン姿のおばさんをわずかに見かけた、彼女等はひょっとしてタイ人かもしれない。話してみなけらばもちろんそれだけではなんとも言えないが。こういう村ではタイ人もマレー社会に溶け込んでいるので、よそ者には見分けが難しい、姿だけでは確実なことは言えない例だ。一番いいのは、タイ系マレーシア人の家を訪問すればはっきりわかるはずだ、なぜなら当然仏像などが飾ってあり、時にはタイ国王の写真も飾ってあるからだ。
さて次なるタイ系マレーシア人のコミュニティーを求めて、筆者は再度バスに乗りました。バスに乗る前に数人に聞いたところ目的のタイ寺院のWat Phothivihanへ行くには、Cabang Empatという所で降りればいいとのことであった。でバスを降りたはいいが、その寺院のある方向へバス路線そのものがなく、タクシーもまずないことがわかった。仕方ないので、昼飯を食べた茶店で、自家用の白タクのことを聞き出し、それで寺まで行きました。寺のある地をKampung Jambu村というが、ぶらり旅行者には非常に不便な所だ。
このタイ寺院Wat Phothivihanはその不便さにも関わらず一般にも割合と知られているのは、そこに寝仏像があるからでしょう。その紹介と写真は、旅行者ページの「クランタン州」の該当項目をご覧ください。寺の規模と寝仏の大きさから推測すれば周辺地区にはそれなりのタイコミュニティーが存在するのは間違いないだろう。
筆者は元来寺院とか仏像にはたいして興味がない、そういう所を時々訪ねるが、歴史的建造物としてとか有名建築物だからまあ見ておこうかとか、タイならその村の中心だからとりあえず歩いてみるかぐらいの気持ちで、寺院とか仏像その物への興味はないのです。今回この寝仏像寺院を訪れたのも、そこに存在するであろうタイ系コミュニティーに興味があったわけで、だからこそ不便な場所にもかかわらずそこまで行きました。簡単に寺院内を見物した後、寺の前で通りかかった地元人に、タイ系コミュニティーのことを尋ねると、寺のすぐ周りにはタイ人はほとんどいない、しかしちょっと離れた所にタイコミュニティーがあると教えてくれました。
寺の周りにないのか、残念、しかたない、それならそこへ行ってみよう、と炎天下の水田が続く田舎道を歩き出しましたが、少し歩いてやめました。とても炎天下をそれ以上歩く気にはなれません、もちろん歩いてる人なんか誰もいませんよ、バイクか車、最低限自転車ですね。タクシーは全く通らないし、そこでヒッチハイクを狙ったけどこれもだめ、結局あきらめたのです。このようにバス路線からはずれた場所にある田舎のタイ系コミュニティーを訪ねるのは費用もかかるのです。相当なる労力だけで片付くならそれも致し方ありませんが、タクシーをチャーターするようなことは筆者には手が出ませんから、あきらめました。
いずれにしろこの地もTumat郡に属するようで、その朝訪れた寺院の例に見られるように、この郡にはある程度のタイコミュニティーが散在することをよく実感できました。この寝仏寺院からタイとの国境までの直線距離なら数十キロ以内でしょうね。
次なるタイコミュニティー探しの場所は、Rantau Panjangです。クランタン川を挟んだ対岸が娯楽でよく知られたタイの町Sungai Golokです、クランタン州の代表的な国境の町です。ここに滞在したことはないが通りすぎたマレーシア人は多いことでしょうし少なからずの外国人もこの町を通過しますね。クランタン川の国境検問所ビルは99年に新しくなり以前よりも大きくなりました。それだけ人と車の通行料が多い証拠ですね。
さて今回はスンガイゴロックに渡るつもりは全くありませんでした、このRantau Panjangを探る目的で滞在するつもりで、夕方早く町にバスでつきました。ここまでは何の変わったこともありません、これまでも何回も訪れた場所ですからね。町は商店街がメイン道に沿って細長く続いています、タイ語の看板を添え書きした看板もありますが、ランタウパンジャンはタイ人旅行者が大挙してやってくる町ではなく、反対にマレーシア人が休みなどには大挙してスンガイゴロックやその近辺へ遊びに行く時通りすぎる町なのです、だから町にホテルと言えるのは1軒だけで、あとは旅社です。
さてこの町で遭遇した出来事は、コラム第188回で書いた通りです。
なぜそういうことになったかという理由はタイとマレーシアの関係にも及びますのでここで述べておきます。クランタン川は上流のJeliまで数十キロ続いており、これがタイとマレーシアの国境線になっています。川ですからその水面上に鉄条網を張るわけにはいきませんし、また川幅が、特に水の流れる部分は狭く且つ穏やかな流れなので、小さなボートで簡単に渡れるとのことです。事実ランタウパンジャンから見える部分のクランタン川の部分でさえ川の水流幅は10m前後でしょう。このため川沿いの民は昔から検問所までわざわざ足を運ぶことことなく、気軽に相手側へ越境して来た行ったことでしょう。しかし現代はもうそんな時代ではありませんから、法律上は当然この川を渡るのは違法です。誰であれランタウパンジャンの橋前に設けられた国境検問所を通過しなければタイへ出国又はタイからマレーシアに入国できません。
いくらスンガイゴロックに親戚があろうと友人が住んでいようとマレーシア人はもうこの検問所を通らないと罰せられることになっています。ただタイ人はちょっと違うようで、地元の民用渡しボートでランタウパンジャン側にやってきます、物売りであるとか日帰り労働目的、さらに通学のためですね。これはそういう慣習を大目に見ている面もあればマレーシアとタイの利害が一致している面もあるのでしょう、第三者がどうのこうのいう問題ではないですね。ですから筆者はこうことがあるというのをこの目で確認したかっただけです、
ただ昔からのこの交易・交流面を悪用して、密輸グループが常時このクランタン川のここかしこで暗躍しているようですから、このランタウパンジャンの町から上流にかけて、マレーシア国境警備隊の警備が厳しくなされています。町をしょっちゅう警備隊の車が往来していますし、川岸では警備隊が監視しています。町郊外を警備隊が徒歩パトロールしているのも見かけました。密輸を防ぐにはこうした苦労が伴うのは誠無理もないことだと思います。尚たまに新聞記事になるのが、この警備隊に見つかった密輸団のニュースですね。
さて川向こうから農産物や海産物がが運ばれてきてランタウパンジャンの市場に並ぶこともあれば私的に交易されることもあるのでしょう、道路際でそれを商っている人も見かけました。このようにこの両町の人々はきわめて密接に且つ日常的に繋がっているようです、事実タイナンバーの車が走っていたり、あちこちでタイ語が聞こえてきます。一休みしようと入った茶店では店の人たちがクランタンマレー語とタイ語のちゃんぽん会話をしていました、私が尋ねるととマレーシア国籍のタイムスリムのようです。このように町でこういう人を探していけばいくらでも見つかるでしょう。翌朝入った別の茶店でもタイ語が聞こえました。タイナンバーで乗りつけたタイ人夫婦が、町の公立病院へ入って行くのを見ました、見舞いなのかそれとも診察を受けるのか、朝10時ごろだったので多分診察でしょう。
もう少し例をあげましょう、朝スンガイゴロックからタイムスリムの子弟が川をボートで渡って通学してくることです。眺めているとその数は半端な数ではありません、何でも町の小学校と中高校の生徒数の数割を占めるとか。学校当局も生徒がタイ国籍であってもマレーシアの出生証明書を持っていればほとんど気にしないとか(これは新聞の記事による)。それぐらいタイムスリム人はこの町では普通の存在であり、マレー人と交流しているように見えます。歴史的且つ宗教的つながりの絆のつよさでしょうね。
以上クランタン州のいくつかのタイコミュニティーに目を向けてみました。探せばまだまだ見つかるでしょうが、時間と金の制約からこれで止めておきます。他の州つまりペルリス州とペラ州のタイコミュニティーもいつかは探ってみたいなというのが筆者の希望ですが、それはいつのことになるかは全くわかりません。
マレー鉄道Wakaf Bharu駅からPasir Mas寄り数分の所の線路際に、タイ寺院が建っている事に前から気づいていたので、今回(2001年10月15日)訪れてみました。駅から歩いて行ける近道として、線路際の小道を5分間ほど歩きさらに最後の5分間ほど線路内を歩いて、この寺院に到達しました。タイ寺院の敷地は線路から10数mほどしか離れておらず、列車の窓からもその寺院が小さなものでないことはわかりましたが、実際に訪れて、マレーシア国内の田舎村のタイ寺院としては十分な大きさであることにいささか驚きました。(下2枚の写真)
寺院の敷地内では黄色いけさ姿の小僧坊主らが物運びして働いていましたが、マレーシア語で話しかけても言葉がわからなかったようで、年上の責任者が出てきました。敷地内に入ってもいいこかとの許可をこの男から得て、筆者は少し歩き回りました。タイのタイ寺院となんら変わりません、寺院関係の建物の表示はすべてタイ語で書かれており、タイ系マレーシア人のタイ語学習コーナーであろう一画もありました。敷地内の建物の一つに華語の添え書き Kampung Kulim(吉林)があったことから、この寺院が地元華人の集まり場所である事も推測できました。吉林とはクリム村(Kampung)の華語表記ですね。
世の中には運のついている方、要領のいい方、気を見るに敏い方がいらっしゃるもので、最近何でも仕事の合間に職場のパソコンを使って、インターネットで株を売買してもうけた金でマンションを購入した、と伝えてきた読者がいらっしゃいました。金がないばかりでなく運もなく要領も悪く機を見るに敏でない筆者はただただ感心するばかりでした。(ところでこういう方の上司にはなりたくないですなあ、笑)
株とか証券といったテーマはIntraasiaに程遠いと思われる読者がいらっしゃることでしょう。まあ確かにそうで、この種の有価証券は一度足りとも購入したり所有したことがありません。じゃなぜそんな超貧乏Intraasiaが株に関係するコラムを書くかと言えば、それはこの間マレーシア唯一の証券取引所であるクアラルンプール証券取引所の一般公開日にそこを訪れて見聞してきたからです。
クアラルンプール証券取引所、KLSEと呼ぶは中心地区の1画にあり、その地区の目印としてよく知られたMAY Bank本社のすぐ横又は裏の新高層ビル、ExchageSquareにあります(右の写真でKLSEの横に見える白っぽい建物がMay Bank)。
場所はPudu Rayaのロータリーから徒歩5分の便利な場所です。ただこう書きましたが、筆者はそのビル自体は以前から知っていましたが、今回初めてそのビル内にKLSEがあることを知ったぐらいです。
さてこのKLSEが初の試みとして、投資家非投資家に関わらず一般市民にその活動を紹介する一般公開週間Invester's Week 2000を9月中旬催しました。そこで筆者もさっそくこの機を捉えてクアラルンプール証券取引所見学に訪れたわけです。
証券取引所といえばテレビの映像で見るように、証券会社や引所所関係者がコンピューターを前にして様様な手サインで取引する活気ある光景を想像しますよね、筆者ももちろんそれを期待して、クアラルンプール証券取引所ではその商いの模様が見学できるのではと思ったのですが、全くの期待はずれでした。なぜならKLSEには取引ルームなり取引ホールが存在しないとのことです、つまりKLSEの親コンピューターが各証券会社の端末を結んで全て株売買がこのKLSEコンピューター上で取引される形なのです。なーんだと、ちょっとがっかりしたのです。
筆者は1978年いや79年だったかな、米国旅行している時あのウオールストリートにあるニューヨーク証券取引所を見学したことがありました。今でも一般人が見学できるかどうかは知りませんが、見学ロビーから覗いた活気ある光景はうっすらと記憶にあります。KLSEの取引規模はその数百分の1あるいは数千分の1でしょうが、証券取引所といえばやはりああいう光景を想像するのが普通ではないでしょうか。
証券会社協会の展示ブースの係員は、全部コンピュータの端末で取引できる最新の仕組みだと自慢しておりましたが、筆者が推測するにマレーシアの証券取引業界の規模はごく小さいので、ああいった取引ホールを維持する必要性が余りないのかもしれません、又そういう要求がないのかもしれません。もちろんこれは筆者の単なる勝手な推測ですよ。このコンピュータシステムによる全自動取引システムが実施されたのは92年で、95年までに全ての証券会社はこのシステムを導入したそうです。
株はやらなくてもマレーシアの経済ニュースは毎日追っている筆者は以前から知っていましたが、マレーシアの証券会社はどこも極めて小規模でその小規模さのため、現在中央銀行と政府の指導で証券会社間の統合合併が計画されています(ただなかなかスムーズに進まないようです)。その日KLSEで入手した資料から書きますと、マレーシア全土で証券会社数は63社、多いか少ないは別にしてこれだけの数です。でこのうち全国に支店を展開するような証券会社は皆無、それどころかほとんどが本店だけの証券会社で、支店をもつ証券会社はわずか4社でそのいずれも支店数わずか1店舗だけなのです、要するにマレーシアの証券会社は日本の基準から言えばすべて極小又は小証券です。
証券会社も首都圏とペナン州、ジョーホール州に固まっており、サバ州とサラワク州は各1社だけです。投資家はもちろん、住所地の証券会社ではない会社を選んで取引できる選択の自由があります。KLSEの取引日と時間は、祝祭日を除く月曜日から金曜日で、前場が9時から12時半、後場が2時半から5時までです。
投資家は株の売買に際してはまず証券会社に口座を開設することになりますが、同時にその証券会社を通して、中央供託金システムCDSを運営する中央供託所会社にCDS口座を開設しなければなりません。18才以上なら誰でも開設できるとの事で、外国人ももちろん開設できます。必要な書類は申し込み書類別にしてパスポートのコピーだけですから簡単そうに思えました。費用RM10でCDS口座開設できるそうですが、これは証券会社が投資家に与えるクレジットレベルとは関係ありません。外国人投資家へ証券会社がどれくらいのクレジットラインを提供するかは、投資家個々人によって違うでしょうし、具体的なことは筆者は全く知りません。
ただ筆者が意外に思ったのは、この中央供託金口座CDSは投資家が利用する証券会社毎に開く必要があるそうで、つまり証券会社2社を利用して投資する人は2つのCDS口座を持つことになりますね。それならどうやって投資家の名寄せを行なうのか、そういう必要性がないのかといった疑問が湧きましたが、答はわかりませんでした。
ここでもらったKLSE発行の株の売買手続きと流れを簡単に図示したパンフレットから抜粋翻訳しておきましょう。
とこのうように株売買は進むのです。
株を売る人と買う人はそれぞれ取引高に応じて手数料を証券会社に支払わなければならないのはマレーシアでも同じですね、でその率は、1回の取引高がRM10万以下の場合が、その額の0.75%で、RM10万を超える場合は、交渉によって決めるとKLSEの規則に述べられています。
で気になる税金はといいますと、売買者とも株RM1000につきRM1の印紙税が賦課されます。
クアラルンプール証取引所KLSEは第一部市場と第二部市場から構成されています。それぞれの市場に上場されるためにはKLSEの決めた必要条件を満たさないといけないのは当然です。例えば第一部市場上場企業は、払いこみ資本RM6000万以上、その会社の総発行株数の最低25%は一般投資家が所有していることなどの諸条件です。
第二部市場上場企業は払込資本RM4000万以上で、その会社の総発行株数の最低25%は一般投資家が所有しているなどです。いずれもさらに細かい条件が決められていますよ。
第一部市場は産業別に12の部門に分けられ、第二部市場は5部門に分けられています、がその部門数がずいぶん少ないように筆者には感じます。日本の場合、もっとたくさん部門数があったと記憶してますが。
一部市場の状況を鳥瞰するために用いられるいわゆる株価指数を、KLSE CIと呼び、1986年以来使われ、95年に多少改良されたと説明書に書かれています。これは上場企業の発行株状況を加重平均したもので、毎分毎に発表されているそうです。
クアラルンプール証券取引所KLSEの前日の株価とごく簡単なデータは一般新聞各紙に全銘柄載っています、もちろんインターネットならオンラインで知ることができます。これらを含めてKLSEをより詳しく知りたい又はさらなる情報をお求めの方は次ぎの公式サイトをご覧ください。証券取引所の様様な情報と諸データが載っていますよ。 KLSEの公式サイト: www.klse.com.my
尚インタ−ネット上で株取引に興味ある方には次ぎのサイトを記しておきます、ただし推薦とかこれが唯一という意味では全くありませんよ、たまたまその公開日に展示ブースで入手したパンフレットが次ぎの両社のものであったというだけです。Jet FM : www.jetfm.com.my、 Dragonshare: www.dragonshare.com
株などというよく知らないことを書くのは骨の折れることです。この一般公開日にもらった資料を読んでもピンと来ない部分が結構あります。ですから詳しくここで説明できませんでした、誤理解を書いてもいけませんからね。こういうことは日本で株投資になじんでいる方ならよくご存知又はそうでなくても容易に推測できることでしょう。
以下の部分は本題に関係のないおまけのお話です、読み飛ばされても構いませんよ。
ずっと昔、70年代中頃の一時期かな、筆者は毎日東京は茅場町に通勤していました、勤務場所はあの東京証券取り引き所でした。えーうそっ、と驚かないでください。筆者は別に証券会社の社員でも取引所の職員でもありませんでしたよ、当時取引所の仕事を請け負っていた下請け会社でバイト生活していたのです。でその仕事が第二部市場で株価の黒板書きというものでした。取引所職員が手サインで知らせる株銘柄と株価を取引所の二部市場の黒板に書き込んでいくのです(もちろん手サインを読め数字が書けるように練習してからでないと、本番の黒板書きには上がらせてもらえなかった)。
第一部と違って二部の商いは閑散としていましたから仕事は忙しいことはなかったのですが、取引所の中を多少歩き回ったりできたので、証券取引の雰囲気はよく実感できた面白い経験ができたのでした。現在では取引類は全てコンピューター化され保安も強化されて、部外者の入る隙間はもう東京証券取引所には全くないのでしょうが、当時はそんな形であったのです。
その当時筆者は仕事柄から株に興味を持って、閑な時間を利用して株入門書をいろいろ買って読みまくりました。株価を黒板に書いていて、こんなに株価が上下するなら二部株を多少でも買ってみようかなと本気で思ったものです。でも結局買わずに終わりました、働いた金はすべて旅につぎ込んでいた時代ですから、株に回せなかったのです。それ以来株とは全く縁がないので株取引の専門用語とか仕組みなどもすっかり忘れてしまいました。
このコラムを書いていてそんな遠い昔を思い出しましたのでちょっと付け加えておきました。
クアラルンプールはブキットビンタン街の元プドゥ刑務所に近い方のはずれにある路地は(すぐ近くにCentury Hotelがある)、チキンハウス(売春宿のこと)が数軒固まっていることで知られています。一応旅社とか旅店の看板がでている建前上は安宿ですが、実態はどこも”大衆”売春宿です。この短い路地はずっと昔から土地の人にはよく知られた街です。宿の数は昔に比べていくらか減ったものの、そのビジネスは一向に落ちてないようで、実態はもちろん知りませんが、少なくとも”部外者にはそう見えます”。詳しい場所を知りたい方は、当サイトの「クアラルンプールを本気で歩き回る」内のブキットビンタン街の地図をご覧ください。
皮肉なことにこの路に並行する表大通りJalan Pudu側の対面にはクアラルンプール市警察本部の高層ビルがそびえています、互いの距離は直線距離にすれば数十メートルでしょう。警察本部の上階からなら間違いなくこのチキン宿街の建物が見えるはずです。この路地の売春宿はもちろんしょっちゅう警察の取り締まり対象になっていますが、しぶとくというかあたりまえというか、未だに消滅していません、午後遅い時間から夜にかけて又は日曜日などにこの路地を歩けば宿の裏扉にはポン引きやその種の女性、一部はおかまでしょう、が顔を覗かせています。夜は街灯もなく薄暗いですから顔がよく見えないでしょうが、夕方から人のうごめきが増えます。物売りや屋台もやってきます。
この路地での様子で昔と比べての違いを言えば、マレーシアで働いている外国人労働者の姿がものすごく目立つようになったことです。ここにも下層労働者としての外国人労働者の姿が見えてきます。もちろん筆者は正確なことは知りません、筆者の居住地区とブキットビンタン街は近いので、そのルートの一つとして、筆者は何百回もこの路地を朝、昼、夜の時間帯に通ってきましたから、あくまでもその観察からの推量ですよ。歩いているとたまに筆者にも声がかかります、そういう時、Mu Oi la(要らないよ) などと広東語で返事して歩き去るのです。こういう通りを歩いたからといって別に危険は全く感じませんが、すぐ外国人とわかる旅行者・在住者の方は夕方からはまあ通らない方がいいでしょう。
尚ブキットビンタン街の表通りの一部でもポン引き活動は結構あり、筆者など歩いていると時々声がかかります。ポン引きはうるさい不愉快な存在ですが、無視すればいいのです。所詮この種の活動はどう取り締まろうと根絶できないのはお分かりですよね、こういったビジネスにはある一定の需要がありそして供給がある、従ってそういうことで暮らしている男たちがいる、彼等はいずれにしろそういう商売から去る気は全くないのです。尚、中上流階級相手や裕福旅行客相手のコールガール組織の活動ももちろんあります。ごく最近マレースターを客への”商品”提供した疑いのコールガール組織の裁判が結審しました。もちろん親玉とみられる女性を含む被告は容疑を否定して控訴しています。
クアラルンプールにはもう一つこの種のよく知られた”大衆”売春街がありまして (よく知られてない所・建物は他にもあるでしょうし、”ヤングレディー配達組織”もある、それを暴露するのはここでの目的ではありません)、それはいうまでもなくチョーキット界隈です。しかしチョーキット一帯は警察と市と地元の環境美化運動の結果、5,6年前に比べてはるかによくなりました。以前はチョーキット界隈のHaji Taib通りの路地を歩くだけで、よく声がかかったものですが、最近はごく少なくなりましたね。売春組織の活動が減ったのは確かですが、もちろんチョーキット界隈から根絶されたわけではありません。去年ハジタイブ路地に交番もできたのですが、警察官の警らはあまり頻繁ではないようです。
この2つの”街”に共通するのは陰湿なイメージが極めて強いことです、見るからに汚く古い戦前からのショップロット建物が彼ら彼女等のビジネス場です。クアラルンプールのこの両”街”には、シンガポールの売春街であるGeyland地区の様子:改装したか建てたばかりのショップロット建物に灯りをこうこうとつけ待合室は冷房付き、のあっけらかんとしたあかるさは全くありません。またネオンサイン付きでその存在を誇示するもっとビジネスに徹したタイのその種の宿・街とも比べものにならない陰湿さを持っています。
誤解を招きそうな表現をしていますが、明るい方がいいとかビジネスライクにやれと言ってるわけではありません。そうでなくその陰湿で暗いイメージ・あり方が下段で触れる おかまの差別・偏見を生む原因の一つでもあるということを説明したわけです。マレーシアは極めて建前の強い社会、こういった宿、街、施設を建前上は全否定です、ですからそういうビジネスが極端に陰湿で暗くなりやすいのです。陰湿で暗くなったからといってこういうビジネスが消滅することはありえないことは、誰でもおわかりですよね。
チョーキットといえばすぐ麻薬汚染地区の言葉が出るように、界隈のいくつかの路地には麻薬常習者がうごめいています。これは秘密でも何でもないことで、市当局も警察も認めていることです。尚上記のブキットビンタン街はずれの路地でもそれらしき姿を見かけますし、筆者の居住地区にも日常的にいます。筆者はマレーシアに来た当時、チョーキット市場近くのエコノミーホテルに長期滞在していましたので、何十回とこのハジタイブ通りの路地を夕方や夜間歩きました。その後も今になるまでもたまに界隈を訪れて観察しています、ですからその当時に比べればはるかに界隈はきれいになり且つ安心感をもって歩けるようになりました。しかしそれでも界隈は今でも下層階級と外国人労働者の徘徊、買い物、遊ぶ街であることに変わりはありません。白人や日本人旅行者の姿を見るのはまれですね。
筆者は東南アジア世界のこういった裏通りと下町を歩き慣れているので、別に不安感など感じませんが、読者の方は日中でも夜は特に路地には立ち入らない方がいいでしょう。でもチョーキット界隈の主なる表通りは歩いていただきたいい場所でもあります。そこは猥雑でエネルギッシュで庶民的であり、マレーシアのある種の姿を覗く事ができます、さらに外国人労働者に依存したマレーシアの姿をよく感じる場所でもありますからね。
クアラルンプールがKLCCや独立広場やチャイナタウンやブキットビンタン街やバンサだけではないことを伝えるのがIntraasiaです、といってそういうクアラルンプールの暗部だけをほじり出してマレーシア批判をするつもりもないことは読者の方ならお分かりですよね。私の意図はあくまでもありのままのマレーシア、クアラルンプールを紹介/解説することですから。尚マレーシアの売春状況などのルポを書くつもりは毛頭ありません。こういったことに深入りすると我身に危険が直接およびますので。売春組織を操るのはどの国でも同じですが、アンダーワールドですからね。
さて本題に戻って、チョーキット界隈の一部の路地では、ブキットビンタン街のはずれの上記の路地でもですが、よくおかまの姿を見かけます。おかまであること自体それは個人の勝手でしょうから、別にどうのこうの言うことではありません。ただムスリムにとっては、Mak Nyahとマレーシア語で呼ばれるおかまになる又はおかまでいることは、イスラム教に背くことになるのです。つまり性倒錯者・性転換者は許されない存在です。「教義によれば、男が女性の衣装を身に着けることは許されませんし、性転換の手術を受けることもイスラム教に反します。」 とはイスラム教発展庁JAKIMの係官の説明だそうです。ムスリムおかまの女装はシャリア法によって罰せられます。
尚非ムスリムであれば性転換手術は許されるそうで、実際に行なわれているそうです。
でこのおかまに関する総合的な調査をマレーシアで初めておこなったことことを紹介し、マレーシア人の性倒錯・転換者の声を紹介している記事が Star新聞の10月2日に載っていましたので、以下はその記事からの引用と参照した記述です。
科学技術環境庁が資金を出したこの調査を行なったのは、UUM大学準教授であるTeh女史と性転換・倒錯者への支援活動しているNGO団体の前幹部で、調査対象者数は全国のMak Nyah(おかま)500人以上にのぼりました。一番年下の者が16才で最年長が70歳だそうです。
この調査によって、悲しいことにおかまの半数以上がセックス産業に関わっていることがわかりました。Teh女史は、「性転換・倒錯者は社会から疎外されており、社会悪の根源だと批判されている。性転換・倒錯者を人々が差別する理由の一つは、人々がそれに無知だということです。私の調査がこのことにいくらかの光をあてることができればと願っています。」と述べています。保守的なマレーシア社会でこういう調査をしたことは賞賛に値しますね。
ある人がおかまであるのは、生物学的に言えばそういう装置を身体内に持って生まれてきた人が多いそうですが、いずれにしろ筆者には、それに多くの日本人にとってもでしょうが、個人のありかた・自由だから知ったことではないのですが、つまりnone of my businessですが、マレーシア社会はそうはいきませんね。ほとんどの民族が強い宗教観を大事に抱いている社会ですから、おかまは宗教面からまず拒否されるのでしょう。だからこそこういう調査の結果をもとにして社会の偏見なり差別を減らす努力が必要なのでしょう。筆者の知識からいって、マレーシアのテレビにはタイのようにおかまの俳優が堂々と出演することはありません、ないはずです。
調査結果から、調査対象者の55%が警察に逮捕されたことがあり、その多くの理由が小さな違反である、つまり女装をしていたことだそうです。女装はみだらな態度と解釈されます、逮捕された者の多くは初回であればRM25の罰金を払い、次ぎに逮捕されると最長3ヶ月の懲役の場合もありえるとか。この調査を元にして、女史は支援NGOを交えて福祉庁、イスラムセンター、警察と懇談会議をもったのです。その結果警察幹部は、そういうった逮捕が起こらないように約束しました。この懇談会議はいい結果を生み、ある20回も逮捕されたおかまは、「警察はこれまで女装していただけで我々をつかまえたがもうそんなことはありません。今は非ムスリムであれば何か犯罪行為をしなければ逮捕されません。」と述べています。
現在福祉庁がおかまに提供する援助プログラムはありません、しかし福祉庁は、もしMak Nyah(おかま)から援助が欲しいとの申し入れがあれば断るようなことはしない、と述べています。
この調査をしたTeh女史は、「社会が異常だとレッテルを貼っているホモ、性転換者、両性愛主義者を理解したいからこの調査を始めたのです。これらの人々はそうなることを望んでそうなったのだという社会の解釈を私は受け入れられません。」 「私の調査が最終的には、社会が性的少数者に同情心と寛大な心を持つようになることに役立てればと思います、性的少数者は人間社会の多様な一部なのです。」と語っています。
素晴らしい目的意識ですね。マレーシア社会は多民族社会です、それを争いに持って行かずに各民族間で互いに許容し合う態度と思考はマレーシア社会の大変優れた且つ誇るべき面です。一方自国内の民族に基づかない少数コミュニティーに対しては、極めて寛容性の低い社会であり、よく偏見と差別が目立ちます。それがこの性転換・倒錯者つまりMak Nyahおかまに対する一般社会の対応にも見えていますね。