マレーシアの隣国シンガポールは、その国土面積の狭さと人口の少なさにも関わらず、国としての経済力は東南アジアで断トツの1位であり、従って国としてのブランド力も他国を圧倒していることは衆目の一致するところでしょうし、イントラアジアも同感です。1965年にできた国シンガポールがなぜこれほどまでに国として経済発展しただけでなく、国民の経済力も飛躍的に向上させたかの解説は専門書に詳しく書かれていますので、そちらにおまかせします。
シンがポールのもう1つの隣国であるインドネシアは人口2億人前後、国の西端から東端までの距離5千キロという大国であるにも関わらず、国民の経済力ではシンガポールにはまったくかないません。
ではマレーシアの場合はどうでしょうか。 シンガポールの国ブランドの強さにマレーシアはこの数十年かなわなかったし、近い将来も同じでしょう。このため日本人も、西欧人も、シンガポールとマレーシアを漠然と比較する際、このブランド性の強さに目を奪われがちになります。マレーシア、シンガポール、インドネシアなどについて詳しい知識を持っていないのですから、仕方のない現象と言えます。
人がなにかの話題である国について触れるとき、一々その国事情に精通してないと語れないなんてことはありませんから、往々にしてお門違いや勝手な決め付けやイメージだけで捉えた像が語られるわけです。それらを一々取り上げて問題視や指摘しても始まらないことも確かです。ですから、言いっぱなし、書きぱなっしが続き、読む人と聞く人は、興味がわかない限り、聞き流し、読み流しで終わることになります。これはインターネット世界でも活字世界でもその程度に多少の差はあっても基本的に同じですね。
さて発言するイントラアジア (Intraasia)ですから、たまにはこういう風潮に棹差すことをしてみようと思います。ある人、ある本、あるサイト・ブログがどんなに勝手なマーシア像を語ろうと知ったことではない、自分のサイト・ブログで人に好まれることさえ書いてればいいのだという、ガラパゴス思考は取りません。
という前書きを長々と書きましたので、それでは今回の本題に移ります。
今年1月中旬のこと、たまたま読んだ本の中で思いがけずマレーシアとシンガポールに言及した一節に出会いました。思いがけずと書いたのは、その本はシンガポールにもマレーシアにも関係ないタイトルと題材の新書だったからです。
書名:コスプレ −なぜ、日本人は制服が好きなのか
三田村 蕗子著 祥伝社新書 2008年10月初版
始めに断っておきます、この新書を批判するわけではありません。それどころか、、なぜ日本人は制服が好きなのか というなかなか興味あるテーマについて多くの現場を細かに調べて分析してある好著だと思いました。興味をお持ちになったら読んでみるのもいいですよ。
ではなぜこの新書を取り上げたのか? それは次の一節に見られるように、日本人一般が持つ典型的なシンガポール像とマレーシア像を基にした比較が書かれているからです。日本人の持つイメージとしての像が結論を導くことにつながっていることに対して、マレーシアを伝えるものとして、現象面は確かにそうだがそうならざるを得ない事情を知って欲しい、国家事情の差が現象面に現れざるを得ないことも知って欲しい、と思ったからです。この著者のような判断は巷で比較言及される幾多の例に似通ったものなので、わかりやすい例として取り上げたわけです。
第1章 制服界のクイーン、それがスチュワーデスの制服
20ページと21ページから部分的に抜粋
乗客はシンガポール航空に高い信頼を置き、あまり不安を感じることなく搭乗している。それは、安全性、信頼性の向上に努め、高レベルのサービスを提供するという全体理念の中で、制服を戦略的に使っているからだ。
シンガポールは東京23区ほどの面積に430万人が住む、人口密度の高い小さな都市国家だ。中略
資源もなく、国内の航空需要もさして見込めない国のナショナルフラッグは、世界最高レベルのもてなしで乗り継ぎ客の利用を促進する以外に活路はない。
サロンケバヤは、こうした企業戦略の延長線上に置かれている。どうありたいか、何を目指すのかという企業の意思が明確だから、サロンケバヤは魅力を放つ。同じサロンケバヤを制服に採用しているマレーシア航空があまり注目されず、制服について触れられる機会が少ないのは、「制服で客を魅了してやるぞ」という企業の意思が希薄で、そもそもどんな航空会社を目指したいのかが、こちらに伝わってこないからだろう。
以上は抜粋
イントラアジア (Intraasia)は、シンガポールが国として優れたビジネス政策を取っていること及びシンガポール航空の企業としての卓越さを疑うものではありませんので、この著者の言葉に同感です。さらにマレーシア航空には制服で魅了してやろうという意図が感じられないという指摘には、全面的ではなくてもかなり同意します。
しかしと、反論ではなく解説をせざるをえません。
マレーシアという国情はシンガポールに比べてずっと複雑です。シンガポールは華人(中国人ではありませんよ)が人口の4分の3を占め、政治と経済の中枢を握っており、統治しやすい都市サイズの面積です。少数民族としてのマレー人は政治的にも経済的にも少数派です。この状態は国策としてマレー語を国語に加えながらも現実としての重要度は英語と華語にはるかに及ばない地位であることがいわば象徴的に示しているといえるでしょう。
上記のことから次は重要な点です。シンガポールにおける少数民族マレー人の民族衣装である baju kebaya(サロンケバヤ)をシンガポール航空のスチュワーデス制服に採用していても、そのことにおける制約は少ないのです。
一方マレー民族が多数派であっても人口の6割に満たず、経済力では華人に劣るマレーシアでは、よく知られたブミプトラ政策が今なお続いています。マレー民族の民族衣装をスチュワーデスに採用することは、そのことにおける制約がついて回るのです。
100%ムスリムであるマレーシアのマレー人には、民族衣装の baju kebayaに関しての自由度は制限されます。その意味は法的にということでなく、慣習的に、民族感情的に、宗教的に制限を受けるということです。国策会社として発足し現在もそれが続き、資本面では国が直接的と間接的に大多数株式を保有するマレーシア航空ですから、マレー保守層やマレー界主流思考から外れるようなことはできません。(追記:エアアジアは純民間企業であり、マレーシア航空とは置かれた立場がかなり違う)
この点がマレーシアのマレーシアらしいところであり、今後も変わりえないでしょう。良いか悪いかではなく、これがマレーシアの国情であり、国の姿を如実に示している一面です。
マレー民族が少数派であるシンガポールにだってこの種の制限はありますが、マレーシアのそれよりもはるかに緩い。それゆえにシンガポール航空のbaju kebaya によりデザイン的創造性と自由度が発揮できるわけです。
シンガポール航空とマレーシア航空はほぼ同じような baju kurung を着用していても、それぞれが国情を反映しているのです。
難しい民族構成や宗教勢力間での均衡を保たなければならない国は世界に数多くあります。その一方日本は国民を構成する少数民族の比率が極めて低いため(例えばアイヌ民族は人口の0.1%にも満たない)民族間のバランスをいかに取っていくかということへの認識が育たない、さらに固有のムスリムがいない日本では、ムスリムが本質として抱く制約にたいへん疎いものです(日本にムスリム人口はありますが、固有民族のそれではない)。
日本で見かける書籍やインターネットでのムスリムとイスラム理解は、西欧のレンズを通して見たかのようなものが目立ちます。それがこの著者の思考にも見られます。ということから、典型的な日本人の捉え方の例として取り上げた次第です。
なおイントラアジア (Intraasia)はこれまでにも公言していますように、絶対無宗教主義者です(キリスト教の神を否定することで生まれた無神論者ではない)。ムスリムに対する見方において、イスラムをキリスト教文化史観で捉える西欧的レンズでできるだけ映さないようにして論を進めるように心がけています。
最後に関連知識を付け加えておきます。
サロンケバヤという呼称は Baju Kebaya(バジュクバヤ)とマレーシア語式で表記します。この方が本来の単語であり且つはるかに馴染みがありますからね。
Baju Kebaya はインドネシア、マレーシア、シンガポール、ブルネイ、タイ深南部でムスリム女性の民族衣装という形で着用され且つ認識されています。中でも一番日常的にBaju Kebaya(バジュクバヤ)が着用されているのは、恐らくマレーシアでしょう。なおインドネシアやマレーシアで非ムスリム女性がファッションとしてまたは日常着としてBaju Kebaya(バジュクバヤ)を着用するのは一般的ではなくても珍しくありませんので、ムスリム専用ということではありません。
まず歴史を振り返りましょう。 シンガポール、北ボルネオ(サバ)、サラワクがすでに独立していたマラヤ連邦といっしょになってマレーシアという国を成立させたのが1963年9月です。その2年後の1965年にシンガポールだけがマレーシアから離脱して1つの国となりました。
このマレーシアの成立に伴ってそれまでの会社名 Malayan Airways Ltd から Malaysian Airlines Limited という名称に変更しました。1965年のシンガポール離脱後も会社はそのまま存続し、1966年にMalaysia-Singapore Airlines と改称され、しばらく運行を続けていました。しかしついに1972年になって2つの航空会社に分かれ、それぞれの道を進み始めました。 1つが Malaysian Airline System 、もう1つが Singapore Airlines です。なお Malaysian Airline Systemは後年、現在の名称であるMalaysian Airlines になりました。
以前からマレーシア航空のスチュワーデスや女性地上職員は制服として Baju Kebaya を着用しています。スチュワーデスの制服に採用されたのは 1986年3月だそうで、これをデザインしたのは Institut Teknologi Mara マラ工科準大学(現在はマラ工科大学)のファッション科だそうです。
するとシンガポール航空がBaju Kebaya を制服採用したのが1972年とのことなので、マレーシア航空の方が遅いわけですね。
マレーシアは発展する中進国として、この20数年各種インフラ面に積極的に投資して大小の開発を進めています。その顕著な例を交通インフラにとれば、KLIA(クアラルンプール国際空港)、空港鉄道、クアラルンプール内外の高架電車やモノレールでしょう。人口規模がクアラルンプールの5倍ほどもあるバンコクよりも電車運行密度はずっと高い。
交通インフラの中で伝統的な鉄道に目をうつすと、マレー鉄道は西海岸線で複線電化工事をこの10年ほど進めています。北部はイポーまで複線電化が完成し、現在イポー以北を工事中です。南部はスレンバンまでが90年代に完成しており、それ以南を現在工事中です。先日マレー鉄道南部線でジョーホールバルまで乗ったときに、スレンバンを過ぎてタンピンあたりまで、ずっと線路沿いに新線路建設が進行している様子が目に入りました。
先週ジョーホールバルをわざわざ日帰りしたのは(帰路はバス)、ジョーホールバル駅が2010年後期に新駅舎が完成したので、それを実際に見るためです。ホームページのジョーホール州項目に新たに載せましたように、新駅 JB Sentral は確かにモダンで機能的で快適な駅ビルです。旧駅舎とは比べものにならない立派さです。これは素直に誉めるに価します。
その好評価に汚点をつけるのは、いつもながらマレー鉄道の運営のあり方です。JB Sentral の切符販売窓口の一つが鉄道案内窓口になっています。その案内窓口の前に独立した掲示板が立っており、時刻表とお知らせが貼ってあります。この3月初めにマレー鉄道時刻表改正があり、新時刻表を1部その案内窓口でももらいました。ところがです、掲示板に貼ってあるのは、古い2010年改正の時刻表なのです。
イントラアジアはクアラルンプールで新時刻表を入手していたので、その掲示板を見てすぐおかしいことに気が付きました。現在では運行されてない列車、全く違う発着時刻が載っています。そこで案内窓口のマレー鉄道男性職員にその点を指摘しました。すると彼は驚いた表情をして、その時刻表はもう古いんだと私に言い返すではありませんか。手渡した新時刻表を参照してくれと言い加えました。しかし彼は何事もなかったかのように、そのまま窓口に座ったままで、掲示板の古い時刻表を張り替えるようなことは全くする様子がありません。万事がこうなのです。20年以上マレー鉄道の職員に対応した来たイントラアジアですので、彼ら彼女らの思考方法はよく推測できます。少しでも面倒なことはやらない、乗客の立場にとって何がより大切かがわからない。
なおほとんどのマレー鉄道の切符販売窓口の常で、行き先別の運賃表も運行時間表も大書して掲げていることは全くありません。唯一小さな時刻表が窓口近辺に張ってある程度です。それさえない駅もあります。よって乗客は常に、どこまでいくらとか、何々の発着は何時かといった質問をせざるを得ないことになります。”見える化”ゼロです。
マレー鉄道の線路を走りマレー鉄道の設備と駅舎を利用し、マレー鉄道の予算で購入したはずだけど、なぜか運営体が違う ETS という電車が2010年後半から新規に運行が始まりました。ETS はマレー鉄道時刻表にも載っていません。
複線電化が終わったクアラルンプール −イポー間(一部だけスレンバンまで延長)を日に6往復しています。ホームページで昨年写真付きで既報したように、韓国製の新車両を使っており、高速電車という歌い文句です。
今回このETS 電車に初乗車してみようと思いました。イポーまで行くのは高いので(片道RM 30)、(クアラルンプール圏の周辺に位置する)スランゴール州のRawang駅 までコミューター電車で行き、そこからETS に乗ってクアラルンプールまで戻るつもりでした。 Rawang 駅はイポー発のETS 電車がクアラルンプール到着前に停車する最後の駅です。
Rawang駅に着いて、さっそく駅窓口でETS切符を買おうとしましたが、ETS の時刻表も運賃表もまったくみあたりません。ETSの張り紙1つ張ってありません、コミューター電車が発着する駅に通常ぶら下がっている、コミューター電車出発お知らせ電光掲示モニターは、ETS を全く表示しません。つまりRawang 駅に ETS が到着発車するにもかかわらず、その存在がほとんどわかりません。ETS が走っているのをプラットフォームで目にしても、その電車が何かさえわからない人の方が多いことでしょう。
切符窓口女性は典型的なマレー鉄道職員の思考と態度で、切符を売ってやるという横柄な態度です、(マレーシア語での)私の問いに短くぶっきらぼうに答えるのみです。イントラアジアはETSクアラルンプール行きの到着と出発時刻を知っていましたが、窓口で確認しようとしたわけです。窓口近辺に(駅構内も)何のETS情報もないので尋ねるしかないはずです、しかし窓口職員はいかにも面倒に対応するのです。 ETS切符窓口は KLSentralではマレー鉄道切符窓口とは別個に設置されていますが、Rawang のような途中駅ではマレー鉄道がETS切符も販売することがわかりました、だったら基本的情報ぐらい掲示しておくべきですね。
マレー鉄道はこの10数年線路インフラの向上と新駅建設にまい進して、21世紀の鉄道にふさわさしい部分を増やしてきました。この点は多いに評価するものです。しかしながらこの一文のはじめに書いたように、運営のあり方つまり職員の思考と態度は(例外はもちろんありますが一般論として)未だに1980年代のそれではと思わざるをえません。JB Sentral の例、Rawang駅の例、コミューター電車の相変わらず時刻非遵守運行など、失望点、不満点にごく普通にであうのです。この面での21世紀への道のりは遠いですな。
「ゲストブック」 には随時様々な題材で書き込んでいます。しかしその書き込みはいずれ消えてしまいます。そこで2011年上半期に Intraasia が書き込んだ中から主なものを抜粋して、コラムの1回分として収録しておきます。ごく一部の語句を修正した以外は、書き込み時のままです。
マレーシアでは人口や家族問題の専門家、マスコミの一部、さらに政府や政党のごく一部の幹部らが、マレーシア社会も高齢化しつつあるのでそれにそなえた政策を立案して、実施していかなければならない、といった論調のニュースが時々載ります。
1963年に成立したマレーシアも1960年代、70年代に比べれば、21世紀の現在ははるかに中高年者層の比率が高まった社会になりましたから、確かに高齢化しつつあるとはいえるでしょう。
2000年代中ごろの国民の平均寿命:男性 71才、 女性 75才
世帯の平均家族数: 1991年 4.8人、 2006年 4.2人
2006年時点における60歳以上の人の総人口比は約6%だと発表されていた。
何よりも高齢化社会に向かう切迫度の薄さを示す数字は、推定総人口3000万人ぐらいの現在でも 0歳から15歳までの子供人口が総人口の約3分の1を占めているという事実でしょう。いわゆる子供が多いなという感覚は、都市の街中で、地方の町で、田舎でというように、マレーシアのどこでも肌で感じられます。
こういった統計数字のどれをとってもマレーシアが高齢化社会になりつつあるという深刻さではまだまだ低いと感じていたのは、イントラアジア (Intraasia)がこの面である程度は日本社会の実情を知っていたからです。
今回の日本滞在ではその昨年まで持っていた我が知識が驚きとともに深まりました、同時に我が身に迫りつつある不安さが頭から抜けませんな。
12月のある週末図書館で新聞を見ていたら、国立社会保障・人口問題研究所の統計を基にした記事がありました:
2010年時点での単身世帯率は 31%で今後も増加する。
2010年時点での世代別単身世帯は 60代で236万世帯、70代で210万世帯、 参考として20代で305万世帯、30代で248万世帯だそうです。
つまり単身世帯の山は2つあり、1つが20代と30代で、もう1つが60代と70代だそうです。60代と70代の数はまことに重い数字ですね。
もちろんマレーシア社会にだって高齢者単身世帯はありますから、そういう高齢者の中で不遇な目に遭っている人たちのニュースが紙面に現れます。ただそれはその不遇さに光をあてた故のものです。マレーシアでは20代30代の単身世帯数に匹敵するほど高齢者の単身世帯数が多いことなどありえないので、あくまでも不遇な単身老人のケースとして市民の関心を引くというものです。
一方日本社会では現在すでに60代70代の単身世帯が450万世帯もあるんだ。日本の高齢者単身世帯は、経済的に貧困である、普通程度である、富裕である、そういう3つのグループから成っている中で、貧困ではない層に分類される人のほうがずっと多いように感じます。つまり日本の高齢者単身世帯問題は数や比率面だけでなく質面でも、マレーシアとは違うことがわかります。
生涯未婚率の上昇もこういった現象の背景にあると分析されているそうですね。
別の新聞の年末紙面には 2010年に行われた国勢調査の結果が来年発表されると、1人世帯が”夫婦と子供から成る世帯”を上回ることが研究者によって確実視されている、と書いてありました。2030年には生涯未婚率が男性で3割、女性で2割を超えるとのこと・・・・・ うーん、けっこう高い数字だなあと思いました(主義として未婚という生き方を選ぶのであれば、それ自体は個人の自由で尊重すべきことですが)。
今回の日本滞在を通じてです、急速に進む少子高齢化、それにともなう生産年齢人口の減少、単身世帯の急増、格差社会の深刻化といった、実に重い話題が社会的にいつも取り上げられていることに気がつきました。そこで図書館でそういった題材を扱った書籍を何冊か借りて読んでみました。
この20年間の変化において、日本社会の問題は私が覚えている80年代当事のそれとはかなり異なっている面があることを改めて知らされたしだいです。マレーシアに住んで東南アジア社会だけにもっぱら関わっていると、この場で取り上げたようなことに関してある程度の情報は得ていても、やはり日本に来て住んでみないと実感を伴った当事者感は沸いてきませんね。
日本及び日本人とはかなり縁の薄い北アフリカでのニュースが続いています。ただエジプトでの大統領追放劇は一般日本人にも興味を起こさせたようですね。もっともそれは、エジプトにピラミッドがあるゆえに日本人にもエジプトという国の存在がよく知られているからだと思います。
チュニジアとなれば、専門家などごく少数の人を除いて、まずほとんどの人は国情はもちろん位置さえも知らないでしょうし、単なる外報ニュースで終わったことでしょう。内戦進行中のリビアも似たようなものでしょうが、奇行で知られる独裁者のためか、日本ではチュニジアよりはニュース度が上がっているみたいですね。
いずれにしろ一握りの人物による独裁と権力者一族及び取り巻き連中による汚職が北アフリカの政治と経済を特徴付けるもののようですが、その内容を論じるほどの知識をイントラアジアはもっていません。
北アフリカに詳しいわけでも、取り立てて大きな興味を持つわけではないイントラアジアですが、1月29日のゲストブックに書きましたように、個人的にちょっとした縁があったことから、さらに当サイトの訪問者の中でも北アフリカとなると旅行された方はずっと少ないことでしょうから、雑談読み物としてまた書いておきます。
イントラアジアにとって2回目の北アフリカ訪問は1990年でした。パリからチュニジアに着いて国内を少し旅した後、次の旅行地としてリビアとアルジェリアを考えました。漠然と行きたいと思っていただけで、両国に関する十分な予備知識はありませんでした(ガイドブック類は全然とはいいませんがあまり使いません、インターネットはまだ大衆には”使えない”時代です)。
ただどちらの国も入国が難しいだろうことはわかっていました、とりわけ陸路で入国するため、難度はさらに高いことは予測がつきました。首都チュニスで、苦労してリビア大使館を探し出し(簡単ではありませんよ)、訪れました。大使館で突きつけられた条件は個人自由旅行者には不可能なものばかりであり、リビア入国をあっさりとあきらめました。リビアは聞きしに勝る入国難度の高い国でした。
(現在のリビア内戦のため、外国人労働者として働くインドネシア人やフィリピン人が脱出を目指して国境にたどり着いているという記事を読むと、彼らのたいへんさにまこと同情の気持ちがわきます。)
そこで次はアルジェリア大使館を探し出しました。こちらは面倒な条件を提示されましたが、個人旅行者でもなんとか入国できそうな条件です。そこでチュニスの日本大使館を探し出して、日本人旅行者であることの証明みたいな一筆を書いてもらい(確かアラビア語文という要求でした)、それを持って再度アルジェリア大使館へ行ったのです。日本国パスポートだけでは不十分だという理由付けです。この種の要求に対して質問してもらちはあきませんから、とにかく言われた条件を満たすしかありません。
初めて滞在したチュニスの町で複数の大使館間を探し出し何回も行き来したので、かなり手間暇がかかったことを覚えています。フランス語がかなり通じるチュニジアとはいえ、基本はアラビア語の国ですから、何事にも困難がつきまといます。イントラアジア (Intraasia)のフランス語力は70年代末頃が最もあったので、90年初期ごろにはかなり落ちており、チュニジアといえどかなり言語面で苦労したと記憶しています。でもその困難さは次に入国したアルジェリアで頂点に達しました。
アルジェリアは1991年にイスラム組織が選挙で大勝しましたが、イスラム勢力の伸張と影響力を嫌ったアルジェリア軍部に非合法化されました。そのために90年代前半から後半にかけて国内がいわば内乱状態に陥ったと報道されていました。イントラアジア (Intraasia)の入国時期は幸運にもこの混乱期の直前だったと後年わかったのです(アルジェリアは混乱期に外国人の入国を禁じていた)。
アルジェリアの旅は、イントラアジアの長い旅歴の中でも3本指に入る困難な旅でした。それまでにすでに15年ほどの世界旅歴を持っていたのですが、言語コミュニケーション、交通手段、宿泊、社会事情と慣習、飲食などもうあらゆることに困難のつきまとったアルジェリアの旅は、そういう意味で忘れられない旅の一つです。サハラ砂漠の真ん中ではなく淵(ふち)を旅しただけですが、それでも砂漠のすごさは掛け値なしに強烈です。あんなところにも人が住んでいるなんてと、我が目で見て驚きました。
2007年に載せた今週のマレーシア 第514回の中で、エピソードとして書いた部分を再録しておきます。
「とりわけアルジェリアからチュニジアへの国境超えは、私の旅人生で最も記憶に残る国境超えです。なぜか、それはミッシェラン地図に目立たなく載っていたサハラ砂漠の端に位置するごく小さな国境検問所であり、そこに到達して確認するまで、日本人が出国できるかの自信はなかったのです (当時は情報あふれる 21世紀の現在から想像もできない情報寡少の時代です、しかしそれを克服して旅するのが旅人の誇りとするところでした)。その両国の検問所間となる国境地帯を歩いて渡ろうとして途中であきらめたからです。
アルジェリア検問所係官がこともなげにフランス語で、「チュニジア検問所までは数キロ」 といった言葉を信じて、砂漠の中を自動車の轍(わだち)に沿って歩き出した私は、灼熱の太陽と焼けつく砂のために、文字通り焼け焦げるのではないかという状態になりました。アルジェリア検問所が振り返ると小さく見えるぐらいまで歩いた私は、死に物狂いでアルジェリア検問所まで戻ったのです、そのまま歩いたら間違いなく倒れて干からびて死んでいたことでしょう。砂漠の厳しさは筆舌にし難いというのは、まさに本当です。1.5リトルのミネラルボトルなど20分でなくなります、帽子をかぶっていても照り返しの熱で身体は焼けます。徒歩をあきらめた私はそこで長い間待って、国境を越える民間自動車をヒッチハイクしてチュニジア側検問所まで到達しました。たかが数キロであれ、砂漠の数キロは通常の道の数百キロに値することを身を持って体験したのです。」
以上
東南アジアのイスラム国であるインドネシア、マレーシアを80年代にすでにかなり旅経験していたのですが、北アフリカのイスラム国はその経験があまり適用できないほど違います。北アフリカのアラブ国と東南アジアのイスラム国の間には、イスラム教という共通面がありますが、民族性と行動様式と慣習と社会基盤があまりにも違う、加えてアラビア語の壁が立ちはだかります。それ以前にイントラアジアは数ヶ月程度アラビア語をかじったことがありましたが、文字認識ができる程度で会話などほとんどできません。多少頼みの綱にしていたフランス語も地方では通じる程度がぐっと落ち、且つアラビア語なまりで聞き取れない、こういうコミュニケーションの困難はアルジェリアの旅中ついて回りました。
現在、世界のニュースになっているアラブ圏のいくつかの国で起きている政情不安問題を、イスラムという単語で東南アジアのイスラム圏までをくくってしまうことは大きな間違いだと主張しておきます。
日本もその一部である西欧マスコミが何かの期待を込めて報道している、一部のアラブ諸国で進行している民主化要求運動と内乱は、(西欧とアラブ諸国にとって)かなり同床異夢ではないかとイントラアジアには思えます。イスラム教という普遍的な結びつきがあっても、世界のイスラム諸国の間には越えがたい違いもまたあるというのが、イントラアジアの体験的観察から得た見方です。
11日金曜日の午後から今日までの10日間は誰にとっても怒涛の日々でしたね。その怒涛はもちろんまだ終焉していない、それどころか津波による壊滅に続く第2の壊滅シナリオさえささやかれている。このささやきは海外でははっきり聞き取れる声となっているようだ。地震後2日目に海外のニュースサイト、外国通信社サイトにそれが現れていることに気がついたので、イントラアジアは喫茶ツイッターで次のようにつぶやきました。
「ネットで世界の有名通信社、米国メディア、オーストラリアメディアが発信しているニュースを使った動画がたくさん流れている。映像自体は日本のメディアのものだが、コメントや解説はそれぞれ彼らの視点で伝えている。福島原発の事故に関しては、はっきりメルトダウンの可能性に早々と触れていますよ。」
以上
世界の有名通信社や米国メディア、オーストラリアメディアにとって、日本の大震災は所詮他国でのできごとである以上、言いたいことは遠慮なく言えるし、国民の心情を思いやる意識は低い。これに反発を感じようと、同感しようと、彼らがこのように報道し発言している事実にかわりはない。
ある国である大災害が起こると、世界のマスコミを牛耳る西欧メディアは被害を徹底的に報道する。現在はインターネットと携帯電話の時代、その伝わり方の速さと広範さは20年前と比べものにならない。 こういった報道を受ける側つまり見る側は、ごくあたりまえのこととして過剰に反応する。(もちろん大きな同情や援助行動があることは知っています)
2004年のスマトラ沖大地震の時、日本と日本人を含めて多くの国々とその国民が、津波被災地はその国の一部にすぎないにも関わらず、インドネシアやタイへの渡航自粛勧告、一時脱出・避難、旅行取りやめなどを行った。イントラアジアはこの種の過剰反応をにがにがしく思って、少し発言したことを覚えています。
所詮他国からみれば、被害国の本当の状況や国民感情はわからないものであり、人間の本能ともいえる心配心主導行動に至るということでしょう。それを煽り、助長するのが世界のメジャーなマスコミであり、加えてインターネットや携帯で多量に流れる映像だと思います。
この大震災で、日本から脱出する外国人が続出していると報道されている。本社機能を一時大阪に移す外資の企業もあるとか。さらにルフトハンザに代表されるいくつかの航空会社は東京へのフライトを大阪に迂回させるなどとも伝えられている。これらの報道が100%正しい、正しくないということを論じるのではなく、その背景と根元にある彼らの思考をみようではないか。
これは津波被害と放射能汚染という違いはあっても、スマトラ沖大地震による震災とこの三陸沖大地震による震災に共通の思考と行動だと言えます。所詮他国からみれば、被害国の本当の状況や国民感情はわからないものなのです。日本人も例外ではない。
しかし他国人がなんと思うと、どんな行動をしようとあまり重要視しない、国民にだけ通じる思考を基調にして対応しているのは、これまた愚の骨頂とも感じます。原発危機の対応と情報発表のあり方に不満を感じる日本人は決して少なくないはずです。イントラアジアもその1人です。
ある国である大災害が起これば、他国と他国民は過剰に反応する、これは経験則でわかっていることです。日本から今輸出されている品に対して放射能検査する国がもう現れているといったことなどその典型ですね。政府はこういうことも念頭において、国外に向けて説得力あるメッセージも積極的に発していくべきです。
原発事故が起こればまず国民に、次いで影響を受けるかもしれない国々の間に疑心難儀が生まれるのは当然であり、それを批判すること自体間違っている。だからこそ自国民に隠しだてしないのは最低限のことです。それが結果として、外国への積極的なメッセージの基盤にもなる。
メルトダウンという可能性につい最近まで触れようとしなかった東電と政府のあり方は、残念ながら疑心難儀を増幅してしまったかのようです。事故対応に手を抜いているなどと誰も思ってないだろうし、命がけで現場作業している人たちには頭が下がります。国や企業のトップは、その権力に見合った批判を受けるのです。結果よければ全て良し、などということは原発事故にはありえない。
福島原発の原子炉危機状況はマレーシアの新聞各種に多少に関わらずほぼ毎日載っています。世界の大多数の国のメディアと同様に、マレ ーシアメディアが独自に取材しているわけではありません。つまり世界の有名外報通信社の配信記事をそれぞれ載せて(翻訳を含めて)い るわけです。華語新聞の中には、台湾の新聞の該当記事を引用している場合もあります。
ですから日本のマスコミが伝える記事やニュースと多少またはかなり違った調子になることは避けられません。先日のゲストブックに書き ましたように、外報通信社は日本国民の感情を考慮する必要はないし、日本のマスコミから得た情報に彼ら独自の取材を加えて、彼ら(外 報通信社)の観点からニュース記事を書いて配信するわけです。このことを日本に住み日本のマスコミだけに接している大多数の日本人の 方々に強調しておきます。世界に配信される記事内容は、必ずしも日本国内で接する日本のマスコミの論調と同じではないし、決して日本 のマスコミ並にきめ細かに報道されることはない、ということです。
その記事内容が事実と異なっている、間違ってはいないということはまた別の問題です。そして仮に間違っている場合でも、その間違いを 各国の読者が納得できるように正すことはほとんど不可能に近いといえます。なぜなら日本のマスコミ記事を常にそのまま載せるような世 界各国のマスコミは稀有だからです。もちろんインターネット上での報道もしかりです。
こういったことは何も今回の原発危機のケースに限りません、例えば2004年のスマトラ沖巨大地震の際、タイやインドネシアなどで起きた いくつかの”テロ”や”暴動”の際でも、それぞれの国の実状況と外報通信社が世界に配信するニュース記事内容から得る印象との間には かなりの違いがあります。ある国で起きた大事件や大災害に関してその実情や国民感情は他国へは正確に伝わらないということは、ほとん ど公理だといえるでしょう。
以上のことを前提に次の一文をお読みください。
東京電力が放射能に高度に汚染された冷却水を多量に海に排出したという記事がこの数日載っています。多量の排出によって放射性物質が どれくらい拡散していくのか、放射線濃度が薄まったとはいえ海水と魚貝類にどれほどの影響を将来及ばすかについて専門家の間でも食い 違いがあるようですね。 そういった論議は科学者にまかせておくとして、日本以外の国々の一般市民の立場でこの事実を捉えれば、日本 は原発危機の中で高度の放射能に汚染された水を多量に海洋に捨てたということです。韓国と中国がこの排出行為に抗議と不満を表明した と報道されていることに、ほとんどの人は納得するでしょう(放射能汚染は非常に薄まるから大して問題ではないという説明または詭弁は 説得力を持たない。一般市民は専門知識を備えた科学者ではない)。
日本が営々と築いてきたはずの、日本は環境問題に敏感でありエコな生活スタイルを評価するという、他国民からの漠然とした捉え方・見 方は相当程度崩れ去ってしまうことになりそうです。化学的事実であろうなかろうと、放射能は最も危険な物質であると認識されています 。その放射能を多量に海に排出する行為は、危機回避の切羽詰った手段とはいえ、他国人の目には”危ない・汚い物は海に捨てる”という ことに映ることでしょう。
イントラアジアが日本を離れる前に、新聞やラジオで、多量に溜まった放射能汚染水を除去する手段として、タンカーに注水して永久収納 するという手段があることが伝えられていました。そのタンカーはもう二度と使えなくなるが実行意思さえあれば技術的には可能だとも聞 きました。なぜ、この案が取られなかったのだろう?
東北地方の漁業にこれ以上の打撃を与えないためにも、世界の海洋に今後長年与えることになる放射能汚染物質の拡散と沈積の問題回避の ためにも、環境に敏感でエコを大切にする国という捉え方を守るためにも、政界と経済界は万難を排してこの方策をとるべきであった。
放射能に汚染された冷却水をこれほど多量に海に捨てたことは、多いに遺憾なことと言えるのではないでしょうか。これは、この1週間日 本のマスコミにまったく接していないイントラアジアがマレーシアマスコミから得た情報を基にした思いです。
2010年にマレーシアを訪れた外国人旅行者の数は2460万人でした。対前年比 3.9%の伸びです。その数が1270万人であった2001年から 毎年増え続けており、10年間で約2倍になったことになります。なおこの場で使う統計は、マレーシア観光省の公式サイト Tourism Malaysia で公表されているものです。旅行者(ツーリスト)とは1泊以上1年未満滞在の訪問者で、レジャー、ビジネス打ち合わせ、会議参加などを目的とし、商売や労働を目的としない訪問者のこと。 以下は2010年の統計です。
実質的には陸続きといえそうなシンガポールからが最大の訪問者数で 1304万人、2位がインドネシアから250万人、3位がタイから 146万人。ここまでと 5位のブルネイはマレーシアの隣国ですから納得がいきます。4番目に多い国は中国で113万人でした。2年連続で100万人の大台を超えています。5位は僅差の112万人のブルネイ。Intraasia は例年この外国人訪問者数統計に関して、コメントやコラムを書いてきました。あらためて中国人の存在が旅行面でもますます大きくなっていることを指摘しておきます。もっともこれはマレーシアに限らず東南アジア全体における潮流ですね。
6位がインドで69万人、7位がオーストラリアで58万人、8位がフィリピンで48万人(サバ州だけへの入国が多いはず)、9位が英国で43万人、10位にようやく日本です、41万5千人(2009年は39万5千人)。 1990年代はマレーシア隣国を除けば常時トップトップまたは準トップの訪問者数であった日本はいくつもの国に抜かれてしまった。以前にも書きましたように、数で競うことはあまり意味がないけど、マレーシアを長年伝えるものとして一抹の残念さは感じます。 AirAsia が日本就航を開始し、羽田空港も使えるようになった。日本人旅行者のマレーシア訪問の増加を期待したいですな。
マレーシア人の命名法つまり名前のつけ方については、当ホームページの「今週のマレーシア」で載せています。1998年と2004年に書いた数編のコラムにおいて、総字数数万字に及ぶ詳細なものです。
命名法は世界の民族と国の間で違いがあり、いくつかの種類があることはなんとなく知られているでしょうが、具体的にはほとんどご存知ない人たちが多いことだと推測されます。
マレーシアに限れば、最大民族であるマレー人の命名法は 名+父親の名前(父称) というやり方です。
例:Hazlinda Mohamad Hashin という娘は名が Hazlinda で父親の名前がMohamad Hashinです。又 Shariff Yusofという父親はその息子に Zabidiと名を付けると、息子はZabidi Shariff という名前になります。
また身分証明証のような公的書類上では、名+父親の名前の+の所に、アラビア語起源単語である、息子なら bin、 娘なら binti を加える必要があります。つまりMahathir bin Ibrahim`なら Ibrahimの息子Mahathirという意味を明確にしているのです。これは中には男にも女にも使える名前があるのもその理由だそうです。
1998年当時イントラアジアは、100%ムスリムであるマレー人のこの氏名法を解説する際、「イスラム教世界で多数派 (だと思うのですがちょっと自信ありません)の氏名法を取り入れています」と書きました。今でもこれは間違いないと思っています。ただ多数派だけどどの程度の割合なのかは根拠になる統計を目にしていないので、依然として知りません。
自分の名+父親の名前(父称)またはその逆である 父親の名前(父称)+自分の名 という命名法・氏名法は、何もムスリム世界だけに限りません。マレーシアインド人の間でも 子供の名+父親の名 方式が多数派を占めます。ですからこの父称を付ける氏名法はムスリム界だけのものではないことが、このことだけでもわかります。
父親の名前(父称) を付けるのはイスラム世界に限りません。コラムを書いた当時、どの民族またはどの国が”父称を付ける氏名法”を用いているか、具体的にすぐ頭に浮かびませんでしたので、当時のコラムではそのあたりの例は省きました。
最近読んだ本の中に、モンゴル人とロシア人の命名法の話がその本の主題とはあまり関係ない形で載っていました。そこで多少の訂正追加をこめて、しっかりとした父称を使っている事例を引用の形でここに示しておきましょう。
モンゴル語学者 田中克彦氏の著書 「ノモンハン戦争 モンゴルと満洲国」 岩波新書 の一節です:
姓をもたないモンゴル人は、近代になってから、パスポートなどで、国際基準に従って公式に姓を示す必要が生じると、父親のを前につけて「・・・・・の子」誰々と名乗るようになった。たとえば朝青龍の名は、ドルゴルスレンギーン・ダグワドルジである。
父親がいない場合は母親の名がそこにくる。
中略
ロシア語では、人の名には姓のみならず、必ず「父称」というものが要求される。たとえば父がセルゲイであれば、セルゲーイエヴィッチという父称を用いる。ロシア領に入ったモンゴル族、たとえばブリヤート人は必ずこの父称を製造して用いなければならなかった。
以上
Intraasia注:ロシア語では単語が格変化するので、セルゲイがセルゲーイエヴィッチのように変化します。これは単語の意味の変化ではありません。
自分の名+父親の名前(父称)またはその逆である 父親の名前(父称)+自分の名 という並び方の違いは、世界の言語は 修飾語が先で被修飾語が後、 被修飾語が先で修飾語が後、という2種類に分かれるからです。
たしかスペイン人の世界でも父称がついたと記憶しているので、インターネットで調べたら、「スペイン人のお名前は 名前+父方の父姓+母方の父姓 で成り立っているのだ。」という記述を見つけました。
このように 名前に父称を加える命名法は珍しくはない(むしろ多い?)ことがわかります。しかし本来の父称の代わりに母称を加えるのは、父親がわからないなどの理由からの場合が多いようです。そしてそうなると、ある文化圏ではなんらかの差別観が潜み込む可能性を否定できないようです(イントラアジアも同感ですな)。
命名法は比較文化の面で面白い題材であり、且つある社会・民族における男女関係の歴史とあり方を考える上で、重要な要素でもありますね。例えば日本人女性が婚姻によって姓を変える慣習と法律のように。余談ですがこれに対しては、イントラアジアはずっと昔の1970年代から批判的立場を取っています。