「今週のマレーシア」 2009年7月から9月分のトピックス


・ラジオ聴取者が番組内で話す時マレー語各方言が多い   ・ブミプトラ政策の重要な変更をナジブ首相が発表し
かくも人は賭け事が好きである  ・ラオスの田舎町と首都ビエンチャンで、バス交通と食と町の様子を観察 - 前編  ・その後編
慣習的行為を発展度を尺度に常識と非常識の狭間で考える  ・マレーシア在住者数の統計を基にして現状を知り、分析する



ラジオ聴取者が番組内で話す時マレー語各方言が多い


はじめに

当サイトで時々触れていますように、Intraasia は昔からラジオ人間ですので、家にいるときはいつもラジオをかけています、つまり外出する時と寝る時と電話使用の時以外はかけっぱなしです。マレーシア語局と華語・広東語局を聴く比率はだいたい半分半分というところでしょう。ラジオをかけっぱなしということは、常時耳を傾けていることは不可能であり、バックグランドミュージック的な聴き方が多くなります。新聞を読みながら、サイトの更新準備をしながら、インターネットしながら、食事しながら、翻訳事しながら、などというながら族ですね。

番組内でDJ と電話で話すマレー人のマレー語種に注目する

何々しながらも時々ラジオに耳を傾けますし、または気に入った番組・DJ の時は耳を傾ける率が多くなります。そこで、マレーシア語局の場合に話をしぼりましょう。ラジオ番組の中で、DJ が聴取者とよく電話でおしゃべりをします。聴取者が番組宛てにかけてくる場合がほとんどですが、DJが抜き打ち的に視聴者の家や携帯にかける場合もあります。聴取者との会話はDJ の会話術の上手さと人気に多いに依存しますから、いろんな会話を聞いていると面白いものです。電話相手の聴取者がごく自然な調子で話すように仕向けるのが、DJの腕といえるでしょう。

このとき、マレー人聴取者は、方言的なマレー語で話す場合が多いことに気がつきます。DJ と番組にもよりますが、この場合のマレー人聴取者の方言使用率は3分の1を超えひょっとしたら 5割近い率ではないだろうか。マレーシア語局の聴取者の圧倒的多数派はマレー人であり、インド人と華人の割合がごくごく低いのは事実です。電話会話の相手に華人が現れた記憶がまずないくらい、それほど少ないですね。 多いとまではいえないが、時々会話相手に出てくるのが、マレーシア在住のインドネシア人です。

電話会話のマレー人聴取者は通常砕けた調子の口語で話しますから、Intraasia のような外国人聴取者にわかりにくいのは当然です。その上マレー語ケダー州方言、マレー語クランタン方言、マレー語トレンガヌ方言などで話すと、Intraasiaにはほとんど聞き取れなくなります。半島部南部の州、ジョーホール州やマラッカ州のマレー語方言の場合は、マレーシア語との発音、アクセントの乖離が比較的少ないので、比較的まだいいのですが、半島部東海岸部と北部の方言は、まことにわかりにくい。発音、アクセント、さらに語彙または用法がマレーシア語とかなり違うからです。 尚面白いことに、インドネシア人聴取者の話すインドネシア語の方が、東海岸部と北部の方言よりむしろわかりやすいぐらいです。この大きな理由は発音とアクセント面にあります。

注:マレーシア語は半島部南部、とりわけジョーホール州あたりのマレー語を基に、発音、語彙、文法を規範化して、国語と定めた言語です。現代言語に必要な新語造語はいわゆる国語研究所にあたるDewan Bahasa dan Pustaka が責任を持って行っています。


標準語としての機能を持つマレーシア語

方言の豊かさは失って欲しくないと、建前では多くの人が主張しますよね。しかしマレー語の各方言だけで話されては、同じ国民間でのコミュニケーションにも支障がでてきます。ですから標準語としての機能をマレーシア語は持っているわけです。マレーシア国民が学校で習うのはこのマレーシア語であり、新聞雑誌マスコミで使われる、また立法、行政、司法で用いられるマレー語はマレーシア語です。 

参考: 7月5日の新聞の記事から
国内13000人の弁護士の内、その訴訟・弁護の際にマレーシア語を用いる率は、80%であると、弁護士協会のマレーシア語委員会の議長が明らかにしました。「文法面と英語法律用語をマレーシア語に翻訳するという面でマレーシア語を使うことが難しいと弁護士は感じているにもかかわらず、マレーシア語の使用がこの5年で増えました。法律用語を日常用語に訳すことは難しいです。しかし我々はマレーシア語が司法面での使用に適していることを確信しており、近い将来はマレーシア語だけの使用を目標にしています。」  

「法律用語における意味と文法と構文は日常用語と違います。しかし我々の熟度を高めるために、Dewan Bahasa dan Pustaka と協力して弁護士のためのマレーシア語コースを開きます。」 このコースは今年末に開催される予定とのことで、弁護士がマレーシア語を法廷で正しく明確に使えるように手助けしていくことになります。「 これによって法律に関することは全て英語であるべきだと考える、考える人たちの概念を変えることを期待する。 弁護士は法廷でマレーシア語を使うことを奨励されていますが、英語法律用語をマレーシア語に訳す面で困難を感じるときがあります。そういう時な英語で意味を説明せざるを得ない。Dewan Bahasa dan Pustakaの協力でこの問題を解決したい。」

外国人が習うマレー語がマレーシア語になるのはその教材面や有用度から当然です。しかしもちろん方言を覚えればそれだけコミュニケーションに幅が出てくることになり、たいへん結構なことですが、なにせ方言はすべて口語であり、まともな教材は皆無です。聞き覚え程度しか手段がないのが現状です。

気軽にマレー方言で話すあり方に好感を抱く

さてこういう基本知識を説明した後、マレーシア語ラジオ局の話に戻ります。ラジオのニュース読み上げは全てマレーシア語です、コマーシャルのほとんどはマレーシア語です。DJが普通に話している場合は、もちろんマレーシア語が主体になっています。しかしながらラジオ聴取者の電話会話の方言使用がこれほど高いというのは、興味あることだと私は以前から思っています。 残念ながらIntraasia のマレーシア語能力では方言をそれなりに理解できるまでには至っていません。マレー語が母語の人であれば、自分の方言でなくても理解にいたる時間はかなり短くなりますが、外国語として習ったIntraasia には方言理解は相当なる障害です。聞き取れる、聞き取れないという面を別にして、マレー人聴取者が気軽に各地のマレー方言で話すありかたを、Intraasia は好ましく且つほほえましく感じてきました。 これは言語の多様性を擁護し主張してきた Intraasia の言語思想に多いに基づくものです。

何年か前のことになります。大阪と岡山に別々の時期に数週間づつ滞在したことがあります。ラジオ好きなIntraasia はよくラジオを聞いていました。日本の番組でも聴取者がDJとおしゃべりする番組や時間がありますよね。そのとき気がついたのは、日本の、この場合関西と岡山の、聴取者はあまり方言を使おうとしないんだな、ということです。Intraasia は生粋ではなくても一応東京人ですから、東京のラジオ局での様子は昔よく聞いていて覚えています。大阪、岡山にいるんだから、もっと関西弁や岡山弁での電話会話を期待したのですが、期待はずれになるくらい方言で話す聴取者が少ない、とそのとき思ったのです。 この傾向は岡山の方がより顕著でした。この思いは Intraasia のマレーシアでの長いラジオ聴取歴が多いに貢献しています。

Intraasia は残念ながら日本語の方言が全くといっていいほど話せません。子供のとき多少は話していたはずですが、完全に忘れたからです。ですから方言を流暢に話せる人をうらやましく思います。 ただ実は、若いときに吉本喜劇と関西漫才を聞いて覚えた関西弁がある程度使えるのですが、なにせ非正規且つごちゃまぜ関西弁なので、生粋の大阪人である読者の GamaHoimさんに 「どこの大阪弁でんねん!? かなんなあ、こんなでたらめひろめられたら。」 と憤慨されてしまいました。マレーシア英語が Manglish としてごちゃ混ぜ非標準英語であるのと同じように、Intraasia の関西弁も非標準なのです(笑)。

注:コラム第219回 「マレーシア英語の実例を提示して説明する」をお読みください。

現代日本の状況に疎いIntraasia なので、こういう日本語状況の変化も岡山と大阪滞在で気がついたしだいです。Intraasiaが見聞した限りは、大阪などでは市中では多くの人が関西弁で話しているのに、ラジオとなるととたんに標準語的な言葉使いになる人が多いんですね(使う人がいないというのではなく、思ったほど多くないということ)。この方言使用と非使用意識のあり方は、現代日本の文化状況と社会意識を反映したものだと思われます。 こういうことを専門的に研究している研究者はいらっしゃいますし、そういう書籍も出版されているはずですが、この20年ほど日本語書籍に縁遠いIntraasia はその面での知識がありません。

地方独自のラジオ放送局が絶対的に希少なマレーシアのラジオ界では(サバ州とサラワク州にあるのみ)、聴取者はDJとの電話会話でもごく普通にそれぞれの方言で話すというあり方です。一方地方ラジオ局が各県毎または各地方毎にあるくらい、地方ラジオ文化の盛んな日本では聴取者の番組内電話会話は標準語の方が多いあり方と思われます。この2つのあり方は対照的であり、興味深い点を示していますね。

政治と民族主義に翻弄されてきた言語と方言の関係

最後に言語学の観点を付け加えておきます。方言と言語という区別は、極めて判断の難しい点がでてきますので(化学反応用と違って明瞭に区別する線を引けない場合が多々ある)、民族主義と国家主義の道具にされる歴史を重ねてきました。本来は純粋に言語学の面からある言語またはある方言を分類・区別すべきですが、政治はそれを許しません。よって極めて近接した関係にある言語、例えばチェコ語とスロバキア語は国の独立によって別々の国語となりました。この種の現象は世界にたくさんあります。スカンジナビア言語はそれぞれ近似した言語ながら、国が違うのでそれぞれスエーデン語、デンマーク語、ノルウエー語などと確立しています。仮にマレーシアとインドネシアが一つの国であれば、マレーシア語とインドネシア語は方言の関係にされてしまうことでしょう。日本語と琉球語の関係は方言関係ではなく、姉妹語関係と捉えるべきです。

方言というには大きすぎる違いを持つ、福建語(ビン南語)、客家語、広東語(粤語)、潮州語など漢語諸語は、大中華主義の旗印の下で、すべて華語(普通語、日本では中国語と呼ぶ)から見たら方言と分類されています。1つの国内に複数の言語、または複数の公用語/国語が存在してもなんらおかしくないのに、大中華主義はこの種の発想を認めようとしません。おめでたいことに、マレーシアの華語教育界と華語規範主義者はこの「方言分類」を盲目的に支持して、華語崇拝主義を隠そうとしません。詳しくは、コラム第122回と123回 「マレーシアにおける中国語と「方言」の作られ方、前後編」 をお読みください。


ブミプトラ政策の重要な変更をナジブ首相が発表した


6月末にナジブ首相が発表した、経済政策の刷新は近年でもっとも注目される重要な政策変更です。それは長年国の根幹にあるブミプトラ政策の一部を緩和するというものだからです。

7月1日の新聞の記事から:上場企業のブミプトラ資本比率30% 保持を放棄する

(1971年に導入された新経済政策、その核がいわゆるブミプトラ政策、によって、クアラルンプール株式市場の上場企業は一般に、ブミプトラ資本が最低30%必要であるという規定が1971年以来あります。なお非上場会社の場合は適用されません)
ナジブ首相は政府の経済政策の刷新を発表する中で、このブミプトラ資本30% 条件をほぼ撤廃する方針を明らかにしました。「新しい経済モデルが必要です。外国投資委員会は実質的にはもう存在しなくなります、なぜなら委員会はその目的を達成できなかったからです。」 首相はさらに、ブミプトラのために戦略的投資を行うために民間資本ファンドである Ekutinas(Ekuiti Nasinal 会社) を設置することを発表しました。


ブミプトラの株式所有比率を30%に引き上げるという命題

ブミプトラの株式所有30% という命題は、”新経済政策”の根幹として30年近くマレーシアの政治経済面に存在してきました。しかし2009年の現在になってもこの命題はまだ達成されていません。従って、ナジブ首相も大枠としては ブミプトラの株式所有30% の命題を放棄したわけではありません。

政府の経済計画を立案する部署である、政府直属の経済計画部のまとめた数字を次に引用します。
民族別株式保有率 -上場企業対象

ブミプトラ非ブミプトラ外国人名義人
1970年
2.4%
34.3%
63.3%
-
2006年
19.4%
43.9%
30.1%
6.6%

ブミプトラの保有率は確かにずっと上昇しました、しかしそれでもまだ目標の30%までにはかなりの幅があります。非ブミプトラの範疇で百分率数字の圧倒的割合を占めるのは、いうまでもなく華人です。よって、株式保有率では華人の保有率は外国人のそれより多いということになります。

新経済政策つまりいわゆるブミプトラ政策では、ブミプトラの所得を上昇させることも大きな命題です。
民族別貧困率

ブミプトラ華人インド人マレーシア全体
1970年
66%
27%
35%
49%
2007年
5.1%
0.6%
2.5%
3.6%

民族別世帯収入 全体を100として

ブミプトラ華人インド人
1970年
65%
149%
115%
2007年
85%
132%
103%

マレーシア経済の順調な発展によって、貧困率は大きく減少しました。これはマレーシアの都市と田舎を広範囲に訪問すれば目に見える事実として感じることでしょう。ただ依然として残っている、極貧層の存在も見逃せない現実としてあります。経済が目覚しく発展してきた大きな要因の1つは、この新経済政策が成功裏に施行されたことだと言っても間違いないでしょう。 それにも関わらず、ブミプトラ全体としての資力・経済力は平均を下回ります。ブミプトラの中核であるマレー人が基本的に都市型住民である華人に経済的に敵わないのは、単に政策上だけの要因ではなく複数の要因が影響しているはずです。

4月に発表されたサービス業におけるブミプトラ株式保有30%原則の撤廃

ナジブ首相はこの6月末の新経済政策の変更発表に先立って、4月にも部分的にブミプトラ所有30%原則を緩和する方針を明らかにしていました。その対象はサービス産業に分類される 27種の下位業種で、この27業種においてはブミプトラの株所有率30%の必要条件を即撤廃するというものです。27の下位業種とは、保健と社会サービス業、観光事業、運輸サービス業、ビジネスサービス業、コンピュータ及び関連サービス業になります。

以下はマスコミ発表された公式文書に載っている 27業種の説明です:

コンピュータ及び関連サービス業: 6種の下位業種

保健と社会サービス業: 5種の下位業種

観光事業: 6種の下位業種

運輸サービス業:1種の下位業種

スポーツ活動及びその他レクリエーションサービス業:1種の下位業種

ビジネスサービス業: 4種の下位業種

操作者のいないレンタル・リースサービス業: 2種の下位業種

支持と補助運輸サービス業:2種の下位業種


外国資本がマレーシアに投資して上記のサービス業分野に参入する場合もブミプトラの株所有率30%の必要条件が撤廃されるということですから、これらの業種に新規参入したい外国資本会社には朗報になることでしょう。



かくも人は賭け事が好きである


どんな国または社会でも、いろんな犯罪が起こってきましたし、絶えず起きています、これは未来永劫変わることのないことだと言えるでしょう。犯罪についてまわる、というか犯罪を起こす目的で犯罪グループ・組織が存在することも、これまた過去現在未来を通じて変わりのない事実ですよね。
ということで、もちろんマレーシアもなんら例外ではありません。新聞を開けば、毎日どの新聞も犯罪関連記事がたくさん載っています。1年365日犯罪報道のない日はない、これは誰でも知っていることでしょう。

華人社会だけでなくマレー社会にも秘密結社ある

犯罪と言っても範囲は広いですから、小さな引ったくり、スリ、違法ギャンブル行為から、恐喝、暴行、強盗、殺人、まで様々です。ひったくり、、空き巣、スリといった軽犯罪行為はごく身近に起こるので、経験された方は少なくないことでしょう。また重犯罪に遭ってしまえば、取り返しのつかない結果にもなりかねません。重犯罪または凶悪犯罪にはしばしば犯罪グループが関わっていることはマレーシアでも同じです。犯罪グループは社会のいろんな組織と同じように、民族別に構成されている場合が主流のようです(そうでない場合ももちろんある)。 華人社会に秘密結社組織があることは19世紀の昔から続く、よく知られたことです。マレー社会の秘密結社は華人社会のそれほど強力ではなくてもちゃんとあるそうです。しばらく前に新聞に載った、次の記事をご覧ください。

マレー人界の私党組織
一般人の捉え方では、マレーシアの3大民族中華人界だけに、秘密結社または私党組織の歴史をもっているというのがあります。実際にはどの民族もこの種の私党グループ活動があり、マレー人も例外ではないのです。それではマレー人私党グループとは一体どんなものでしょうか? それは華人の私党組織とどんな違いがあるのでしょうか? 

最近”マレーシアイスラム教伝教福利組織”なるものの構成者が、「私は秘密私党グループのボスではない」 と発言することがありました。この行動からわかるのは、マレー社会においては、このグループは抗争性を持っています。この”マレーシアイスラム教伝教福利組織”は合法組織であり、イスラム教文化を伝承する組織です。しかしそれにもかかわらず、マレー人秘密私党のTiga line に関係しているという噂があります。わが編集部(華語紙)は Tiga line の構成員が出没する地域を密かに探りました。

1999年から2000年はマレー人私党グループが勃興した時期です。厳格に言えば、マレー人社会には真正なる私党組織はありませんでした。往々にして少数のならず者グループがその犯罪目標の下で、強盗や窃盗などを行います。それらは計画性にきわだった犯罪でも組織だった犯罪でもありません。初期段階ではこうしたグループ離合集散しました。こうして徐々に拡大して私党組織を形成して組織性を持った犯罪集団に変わっていったのです。

こうした私党組織の活動:夜店街の縄張り守り、車を停める場所での駐車代稼ぎ、生鮮市場や夜店街で業者からしょば代稼ぎ、海賊版を扱うVCD屋、違法ゲーセン、ビリヤード屋などの守り役、

勢力と地位を保つのは重要なことなので、こういったグループは拡大して地域の権力を握ります、時には他民族の同種グループとの協力もあります。こうして現在では多数の私党グループが出来上がり、また分裂も多い。マレー人私党組織の中で最大クラスには、77党、 36党、30党(Tiga line) があります。実際これらのグループは元々1つの秘密グループでした。その後意見の違いなどで分裂したのです。ある私党は華人の私党またはインド人の私党と手を組んで利益を分かち合っています。マレー人界で全国最大の私党組織 77党は推定3千人の構成員と言われています、国内の多くの地方での暴力事件や犯罪に関わっています。

”マレーシアイスラム教伝教福利組織”は私党グループに関係があるようです。同組織は入会条件は簡単であり、人員には大衆がたくさん参加しています。主要な私党グループの77党、 36党、30党の構成員がその中に多少混じっていました、そこで規則に違反したとのことで、除名を行いました。同組織は12月中頃、悪の道に迷い込んだ羊 を救おうと大型の改心コースを挙行しました。クアラルンプール圏で希望者が15000名ありました。

”マレーシアイスラム教伝教福利組織”はその組織旗の色に青色と黄色と紅色を採用しており、中にコーランとたいまつと握手が描かれています。77党、 36党、30党(Tiga line) などの私党はそれぞれグループ旗にこの三色を使っているのです。ただ描かれているものは刀などになっており違います。マレー人私党グループは華人界の私党グループに見習っている部分もあります。例えば仲間と会った時に挨拶態度や呼び方の違いで、自グループであることを示し且つ地位を示すことなどです。

こういった秘密私党グループに対して、警察は以前から監視しており、社会の安寧を害する活動に警察は決して妥協はしない、不法分子は一網打尽にするとしています。


賭け事を犯罪と捉える立場の人たち

ところである人々には犯罪とは認識されていないまたは犯罪だとは見ていない行為もありますよね。例えば、音楽や映画のインターネットダウンロードを勝手に配布する、無許可CD・VCD・DVD の複製販売といった著作権侵害に絡む行為、さらにはマージャンのような種の賭け事、です。 マレーシアはまだまだ著作権尊重への関心は低いですから、この種の行為は盛んです。ところで、著作権の過剰なる保護は世界的大企業 (Microsoft. Google、Yahoo など)による情報の独占と操作につながるということを認識すべきであり、この負の面を決して軽視してはいけないという主張を、Intraasia は付け加えておきます。 

賭け事つまりギャンブル行為に関しては民族と宗教によって捉え方が天と地ほど違いますから、賭け事のどこまでが合法でありどこからが違法かは極めてあいまいな場合がでてきます。しかしながら、イスラム教は賭け事を一切禁止していますから、境界線の問題はほとんどありません。よって唯一イスラム教でまとまった国であれば、賭け事即違法とことは簡単かもしれません。しかしマレーシアは国教はイスラム教でも、多民族で且つ複数宗教の存在が認められている国ですから、ことはそれほど簡単ではありませんし、取り締まる当局側にとっても容易ではありません。

政府公認のくじ会社の存在

マレーシアにおける賭け事の代表は、番号当てくじでしょう。3つの政府公認くじ会社がそぞれぞれ各社主催のくじを運営し、全国の自社販売店網を通じて毎日販売しています(右写真)。 政府公認くじ会社 : Sports Toto,  Damacai (Pan Malaysian Pools),  Magunam
なおこの販売店はショッピングセンター内やマレー人多数地区のような所にはありません。

マレーシアの非ムスリムとりわけ華人社会で極めて人気が高く且つ広範囲に購買されているのが、通称 4Dくじです。この 4Dくじというのは購買者がその週の4桁数字をあてる代表的なくじ種なので、一般にこの種のくじの総称としても用いられます。なお各くじ会社は他にも Lotoくじなど数種のくじを発行しています。

番号あてくじは不確定な要素に対して金を払って大きな報奨を得ることを狙う、つまりギャンブルの要素がありますから、いうまでもなく、ムスリムがこういう番号当てくじ・Lottoくじ の販売店に出入りすることは例外なく禁止されています。しかしながらこの規則を破るマレーシア人ムスリムとインドネシア人のような在マレーシア外国人ムスリムが少なからずいることが、たまに新聞で報道される、当局の取り締まりニュースからわかります。まあ別に新聞の紙面に頼らなくても、この種の店に出入りする顔ぶれを眺めていれば、ある程度わかることですけどね。

国内3箇所で開催される巡回競馬

合法なギャンブル行為として、番号当てくじ・Lottoくじ以外には競馬があります。対象はマレーシア・シンガポール巡回競馬です。馬券購入は開催日にクアラルンプール郊外にある競馬場、イポー競馬場、ペナン競馬場、ヘ行って、窓口で買う方式だけです。競馬好きが手軽に電話でまたは場外売り場で馬券を買えるような方式は全く導入されていません。これは私設ノミヤの商売繁盛につながっている一つの要因でしょう。もちろん、仮にどんな便利な方式を導入したとしても、私設ノミヤがなくなるようなことはないことはわかります。 なぜなら私設ノミヤはギャンブル好きな人の行動様式と好みに合うからです。

注:サバ州で開催されている小規模な競馬はこの巡回競馬とは関係ありません。

根強い存在の違法ノミヤ

私設ノミヤは違法ですから、その運営場所は当然隠されています。しかし新聞には私設ノミヤが手入れされたニュースが昔からしばしば載ります。取り締まられても取り締まられても、この種の組織は復活してくる例ですね。実は、私設ノミヤの存在は別に珍しいほどのことはないのです。伝統的華人地区に長年住んでいる Intraasia には、その活動光景はいわばお馴染みの光景です。 毎週末ある特定の華人大衆食堂内外に中年層を中心とした華人男性が集まってきます。その多くは華語新聞の競馬ページや、競馬小冊子(下写真はその表紙と内部ページ)1部RM 5、を見たりしながら、仲間同士でまたは携帯電話相手に大きな声で会話しています。この種の会話は華語か広東語ですから、その言葉が話せないと仲間入りできないことになります。

  

慣れた耳と目があれば、ノミヤに注文したり仲間で相談しあったりしていることがすぐわかります。つまり馬券買い人は全然こそこそと行動してないのです。もちろん私設ノミヤの隠れ家がその近辺にあることはないはずであり、ノミヤ組織はそんな危険なことはしないでしょう。携帯電話の発達した現在、胴元場所がどこにあっても全ては携帯電話で事足りるからですね。ところで、この光景を見ていつも感じるのは、携帯で参加できるとはいえ1人で人知れず賭けるのではなく、競馬仲間で集まってにぎやかな状況の中で賭けることが馬券買い人の習性なんでしょう。

唯一の公認カジノ

イスラム教国家のマレーシアには、面白いことにカジノがあります。そうです、かの有名なゲンティンハイランドです。標高1000メートルを超える山頂に建設したゲンティンハイランドには、東南アジア有数のカジノがあります。 カジノとホテルとレジャーランドを所有し運営する Genting グループはマレーシア有数の大企業であり、毎年好決算を記録し続けています。外国人としてシンガポール人が最大のお得意さんであり、香港、台湾、中国、中東などからも訪問客をひきつけています。 なおゲンティンハイランドはマレーシア人ムスリムの大好きな訪問地の1つです、ただしカジノ及び賭け事施設に入ることだけは許されていません。

上記で説明した、4Dくじ・Lottoくじ売り店と巡回競馬用馬券窓口とゲンティンハイランド、この3種以外に合法的な賭けを行う場と施設はマレーシアにはありません。 ということはその他の賭けは全て違法だということです。

違法賭け行為の代表は既に説明しました競馬対象の私設ノミヤと、次に説明する賭け機です。なお私設ノミヤは英国プレミアサッカーリーグ対象の賭け、他にはワールドカップ時のような大きなサッカーイベント、でも暗躍している(する)そうです。

ソフト入れ替えで賭けゲーム機となる

地元華人の間では一般に馬機(広東語でマーケイと発音)と呼ばれる賭けゲーム機に集まる方が、遊ぶ人の数からいえば、私設ノミヤで馬券買いする人よりずっと多いでしょう。なぜなら馬機は、マレーシアの都市部と地方町ならどこにでもあるゲームセンターに置いてあるからです。いうまでもなく、馬機を店舗に置くこと自体、それで遊ぶことは違法です。しかし違法だからといってこの種の物が消えてなくなるようなことはこれまでなかったし、一時的に増減はあろうとも今後もなくならないでしょう。それがマレーシアの風土と断定してもいいです。

マレーシアのゲームセンターは 日本にあるそれとはかなり雰囲気と成り立ちが違います。つまり若い女性の従業員が客サービスしたり、明るくきれいという概念とは対極にあるといえます。店内をわざと暗くし、外から内部が見えないような造りにしている店が一般的です。

ゲームセンターにはいわゆるビデオゲーム機がたくさん並べてあります。ビデオゲーム機は筐体とソフトウエアであるPCB基盤から成りますから、そのソフトを交換することで種種のビデオゲームを提供できることになります。つまりソフトであるPCB基盤さえ交換すれば、ソフトとしてギャンブルゲームも提供できるということです。ギャンブルゲームとしてごく一般的なのは、スロットマシンのような図柄あわせタイプのはずです。マレーシアのゲームセンターは、高級ショッピングセンターのようなテナント家賃の高いゲームセンターを除いて、1回20セント、40セント、60セントという低料金なので、設備自体を安く上げるために筐体は木製手作りという場合が当時は多かった、そして現在でも珍しくはないでしょう。

ギャンブルゲームはこの種の安価な筐体の場合がかなりあります。しかしこれはゲームセンターの場所と環境とオーナーの意向によって大きな違いがありますので、あくまでも傾向としてです。Intraasia はギャンブルゲームはもちろん通常の遊興ゲームもまったくしませんが、実は90年代前半にゲーム機に関するビジネスを華人女性パートナーと営んだことがあるので、この辺りには非常に通じています(いました)。詳しい内実は明らかにできませんが、現場で何十人もの店舗主と取引し、恐らく4桁数に近いであろう数の店舗例を見てきました。その体験を通じて、世の中違法なギャンブルソフトや装置を専門に供給する会社や人たちがいるだけでなく、表面は合法的な品物を売りながら、裏では違法な品物を売る業者がいる(現実はそういう業者が業界を牛耳っていた)と知ったのです。

多くのゲームセンターがギャンブル機を置いている

このゲームセンターの 4分の3ぐらい、場所によっては 90パーセントぐらいは、多かれ少なかれ賭けゲーム機(ギャンブル機)を置いています。その割合は数台程度の店から3分の2ぐらいがギャンブル機という店までさまざまです。要するに、ゲームセンターは一方で合法的な遊びゲーム機を置きながら、一方で違法な賭けゲーム機を置いて商売していました、または見せかけとしてゲーム機を多少置きながら実質は賭けゲーム機を主として営業していました。そして現在もそういったあり方は変わりません。 尚この種の賭けゲーム機を置いているゲームセンターには、いわゆるヤクザ・ならず者グループの翼下・運営下にある場合もありますが、むしろ普通の商売人・起業家がオーナーである場合の方が多いのです(多かった)。

もちろん警察や自治体当局の取り締まりに遭い、店の装置やゲーム機が没収される場合はしょっちゅうあります。それでもめげずに賭け機を置いて商売する理由は、賭け機における儲け率の圧倒的な良さと決して絶えないギャンブル好きの存在と違反に対する軽い罰です。

ゲームセンターは常に継子な存在です。なぜなら小中学校の生徒を朝から夜遅くまで引き付け且つ金を使わせる、タバコ吸ったり悪友と交際する場にもなるからです。その上ギャンブル好きが集まってきて、賭けに熱中します。学校やPTAから好まれることはない存在ですし、自治体と警察からはにらまれる存在です。それにもかかわらず、クアラルンプールだけで何百軒もの合法違法のゲームセンターが営業し続けている事実は、ゲーム遊びとギャンブルは決して絶えないという世の中の公理を示しています。なぜ違法な店が存続しまたは潰されても潰されてもまた開店するのか、合法な店がなぜ違法なギャンブル機を置いているのかを突き詰めて考えていくと、それはマレーシアという国のあり方とマレーシア人の思考と行動に基づくことであり、単にゲームセンターだけの事象ではないことがわかります。これは当サイトのコラムでいろいろと分析してきたことですね。

注:Intraasiaは都心の古い華人地区に住んでいますので、ギャンブル機を置いたゲームセンターはごく日常的存在です。地元警察署から直線距離でわずか1kmぐらいしか離れていない店内にはギャンブル機が2桁台数堂々と置かれています。尚客層は顔ぶれから判断して華人に限りません。

2000年ごろからぐっと増えたサイバーショップ

さて2000年前後からいわゆるインターネットカフェが都市部で雨後の竹の子のごとく開業するようになりました。ゲームセンターから転業するオーナーも少なからずありましたし、新規に乗り込んでくる起業家もありました。おかげで伝統的なゲームセンターはかなりかずが減りました、しかしなくなったわけでは全然ありません。

サイバーカフェと当時呼ばれていましたが実際にカフェと呼ぶような店はごくアップタウンの高級店に限られ、カフェと呼ぶような要素のある店はごく少数でした。よってここではサイバーショップと呼びます。 簡単に定義すれば、インターネットができるパソコンを何台も並べ、時間当たりいくらで利用料金を設定した店です。田舎では10台程度の店もあるようですが、都会ではそんな少ない台数ではビジネス効率が悪いので、存続していくのがまず無理でしょう。都市部とその近郊にある住宅商業地区では何軒ものサイバーショップが店を構えてかなりの過当競争状況でした、今でもそういう状況の住宅商業地区も数多いはずです。

サイバーショップでもギャンブル用パソコンを置く

そこで競争に打ち勝つために、台数面で多くの台数を揃え(大雑把に 100台以上とします)、椅子テーブルなど店内設備を快適にした大型サーバーショップが増えました。こういう大型店では通常のインターネットサーフィンとオンラインまたはオフラインのゲーム遊びがほとんどのはずです。しかし50台程度やもっと台数の少ない店は、パソコン利用のギャンブルゲームに走る傾向があるようです。これは設備的に大型店に対抗できない、台数の少なさから十分な収入を上げられない、などの理由が考えられます。もちろん、店舗主の意向が一番の要因ですけどね。

ギャンブルゲーム用パソコンを置いた店は、よく常連客かその紹介者だけにその扉を開きます。一見外から見ただけではサイバーショップとは思えないような店、監視カメラを何機も取り付けて確実な客だけに入店を認める店、店の中に扉で仕切った秘密の部屋を作って常連ギャンブ客だけに入室を認める店、などその手口が時々紹介されています。いずれも、かつての違法行為を行っていたゲームセンターが用いていた方策と似ていることを、Intraasiaは感じます。90年代当時、取締り当局の目を欺く方策はそこまで洗練されてはいませんでしたが、思考は同じですね。

Intraasiaの古い知り合いに、クアラルンプール圏に数軒の大型サイバーショップを持つ華人起業家がいます。そこでいろんな実例を知りました、大型店は出店するのに軽くRM 50万を超える資本が必要です。しかし郊外のショップハウスに構え、規模の小さな店はごく小資本で開店できてしまいます。この種の店は一番ギャンブル機を置きやすい環境にあると言えます。しかしながら都市中心部にもこの種のギャンブル主体のサイバーショップはあります。 サイバーショップはほんとどこにでもあるのです。わかりやすい例として、新聞記事を紹介しましょう。

2009年7月15日の新聞
スランゴール州政府は州内の各自治体におけるサイバーショップの数を制限することをまだ打ち出していません。州政府の委員会議長で州理事は説明する、「州政府は新たにサイバーショップを開店する許可の発行を停めています。しかしこれは効果がありません。許可を得ないサイバーショップが増えているからです。違法なサイバーショップは学校不登校・さぼり者のたまり場であり、またギャンブル者のたまり場にもなっています。この問題に取り組むために、州政府は適切な指針と州条例を設けようとしています。州内の地方自治体の権限は限られているのです、だから州政府は警察のトップとの会議をする予定です。 警察はこの問題に対処するより権限を持っています。」 州内には許可を得たサイバーショップが600店舗ほどある一方、無許可の違法なサイバーショップは1000店以上あると見られています。

2009年7月20日の新聞
スランゴール州のSubangJaya, Puchong, Serdang を行政翼下に治めるスバンジャヤ自治体の取り締まり部隊は、違法なギャンブル行為を提供しているサイバーショップの取締りを、今年半年間で230回行いました。その結果モニター 3467台、パソコン本体 3329台、マザーボード 498個を押収しました。取り締まり部の長は言う、「統計の数は実態を示していない。同じ店を何回も取り締まったことがあるからです。 この種の店は秘密グループが取り仕切っている。押収されても彼らは直ちに別のパソコンを設置してしまう。」 ある店では取締りの2日後にはもう通常に商売開始していたとのことです。

取締りの活動の中で、店側が取りつけた監視カメラを押収することもあります。こういう監視カメラは店内の様子を監視するだけでなく、外から取締官が急襲するのを監視するのにも使われています。スバンジャヤ自治体は違反店から物品を押収する以外に、最大罰金RM 1,000を課すことができます。しかし自治体の取り締まりはここまでです。「店のオーナーを追跡するのは難しい。彼らはショップハウス街で店舗を借りているだけだからです。」 「さらに押収したパソコンなどを引き取りに誰も来ません。」

違法なギャンブル行為を提供することは社会問題も生んでいます。「運営業者が賭け常連客に金を貸していることもある。借りる金が小さくてもその利息は大きいのです。多くの常連客は低所得者層だと我々は見ています。」 マレーシア人だけでなく、外国人労働者も客層になっています。

同じスランゴール州にある、ペタリンジャヤ自治体ではサイバーショップに対する取締りを今年217回行いました。そして173店を一時封鎖し、120店に罰金を課しました。自治体の広報係りは語る、「そういう店は監視カメラで入店者を限定している。どの地区でもあることだが、ギャンブルの流行がある。しかしそれを特定するのは容易ではない。」 ペタリンジャヤ自治体では合法なサイバーショップが100軒以上あります、一方違法店は200店舗を超えるとのことです。

この新聞記事からもおわかりのように、サイバーショップの数は中途半端な数ではありません、実にたくさんあります。単に規則を作ったから違法行為を締め出せるということにはなりません。例をあげましょう、クアラルンプールの露店・屋台の人の3分の1ぐらいは無免許です。ですから本来はそういう生業をしてはいけないのですが、現実は規則違反者がごく普通の存在になっています。世の中規則だけでことが片付くようなことはないのが、マレーシア社会です。

こうしたことから、ギャンブルプログラムを導入したパソコンを備えたサイバーショップは一向に減りません。インターネットを利用した国際ギャンブル団のサイトを介してギャンブルを提供している、サイバーショップの話題が、最近ニュースになりました。でもこれは馴染みのなさや中高年世代のギャンブル好きには使いづらい面を考えれば、マレーシアではまだほとんど普及してないでしょう。昔ながらのわかりやすく慣れた操作で済むパソコンでのギャンブルの方がずっと人気あるはずだと推測しています。

こうして、合法と違法な賭け行為の状況をまとめ、鳥瞰すると、あらためて人はなんてギャンブル好きなんだろうと思いますね。



ラオスの田舎町と首都ビエンチャンで、バス交通と食と町の様子を観察 - 前編


はじめに

ラオスは、東南アジア諸国10か国中で、マレーシア人にとっても日本人にとっても馴染みのない国のグループに属すると言っても間違いありません。人的または民族的つながりのある、シンガポール、インドネシア、ブルネイを除いて、マレーシア人が東南アジア諸国を訪れる理由のほとんどは、主として文化に対する興味でも東南アジア共同体意識からでもないことは、当サイトでもこれまで指摘してきたことです。 マレーシアは隣り合った大きな国であるタイの国語タイ語の学習書さえ1冊も出版されていない国ですから、ベトナム語、ビルマ語、クメール語(カンボジア)、ラオ語に至ってはその出版を考えることも愚かなことです。 

注:書店で見かけるタイ語学習書のすべては英米での出版であり、ごくわずかに中国で出版されたものがある。マレーシア出版としては、マレーシア語・タイ語の薄っぺらな単語集が1冊だけあることは確認しました。しかしこの単語集はまず書店に置いてない。要するに、日本におけるタイ語学習書籍の豊富さから見たらマレーシアでの出版状況は、月とすっぽんの差以上です。


そんな縁の薄い国ラオスへの空路をAirAsia が去年オープンしました: クアラルンプール −ビエンチャン路線。 このことはまさに賞賛に当たります。なぜならラオスが伝統的に空路を持つのは、バンコク、ハノイ、ホーチミンシティー、プノンペンとの間だけであり、加えて恐らく開始はそんなに前のことではないであろう昆明(中国の都市)路線だけだからです。 どんな意味においても縁の薄い国同士であるラオスとマレーシア間に空路が開けたというのは、いろんな意味で画期的だと思います。

そのクアラルンプール −ビエンチャン路線(週に3往復便)のおかげで、Intraasia はタイ経由でラオスに入る、ラオスから戻る必要はなくなりました。何よりも嬉しいのは、数ヶ月ぐらい前に購入しておけば、片道 US$30もかからない安価な航空運賃(全て込み)でラオスを訪問できるようになったのです。クアラルンプールからマレーシアとタイを陸路抜けてラオスに入ったとしても、片道総額US$30ドルではとても無理です。もっともタイを経由してメコン川越えして入国する楽しみもあるので、空路だけに頼る必要はないですけど。

ということで、7月下旬にこの1年で3回目となるラオスを短期間訪れました。そこで今回と次回のコラムはそのラオスのお話です。

湖に近い田舎町までバスで1泊で出かけた

首都ビエンチャンに着いた2日目、前回ビエンチャンで買った手持ちのラオス全土地図で見ると、首都の北方にかなり広大な面積を占める湖があります(実際は水力発電用にできた人造湖だそうです)。そこで多分その湖へたどり着けるだろうとの見当を付けて、地図上では湖近郊になる田舎町までバスで出かけました。片道約3時間の距離です。終点のその田舎町を散策したら、ゲストハウス 1軒と名前は立派なリゾートと名の付いた大衆向けリゾートがありました。尋ねたところ、その大衆リゾートの宿泊料は1泊 10万キップ(400タイバーツ)とのことで、それはビエンチャンでの我が宿泊代と同価格でした。ビエンチャンだけに泊まっていては芸がないので、どこか近場の町に宿泊したいなと思っていたところでした。そこでその田舎町に是非泊まってみたくなりました。その日は既にビエンチャンでホテル宿泊していたので、一旦ビエンチャンに戻り、翌日ホテルをチェックアウトして、再度その田舎町へ行き、その大衆リゾートに1泊しました。

注:2009年7月下旬時点での通貨キップに対する外貨為替率 1 タイバーツ = 250キップ、 US$1 = 8500キップ、 日本円 100円=8900キップ、 尚ラオスでは伝統的に、米ドル以上にタイバーツがよく通用しています。といって細かな支払いはもちろんキップで行われており、外国人向けの店を除いて、通常の買い物は全てキップです。通貨事情はもうわかっているので、マレーシアでタイバーツに両替していき、ビエンチャンの両替屋でキップに替えました。

ビエンチャンのバス発着場での苦労

こう書きますと、ほとんどの読者は、Intraasia は首都に比較的近い郡部のリゾートまで気軽にバスに乗って行き、リゾート滞在を楽しんだのだなと思われることでしょう。 ところが、ラオスの現実はそんな簡単にことは進みません。まずその田舎町まで行くバスを確定させるまでが一仕事です。ビエンチャン中心部には1箇所だけバス発着場があります。市内で最も有名な タラートサーオ(朝市場)と呼ばれる市場の隣にあって、昔からあるバス発着場です。郊外バスと首都からそれほど遠くない地方行きバス、及びタイのノンカイまたはコンケーン行きの国際バスが発着しています。 首都の主要バス発着場とはいえ、他の東南アジア大都市に比べたら、拍子抜けするほどこじんまりとしたバス発着場です。

国際バス切符販売窓口とバス車輛にはタイ語とラオ語と英文字で行き先が表示されています。ということでこれはラオ人またはタイ人なくても容易にわかります。この国際バス以外の全ての近郊バスと地方行きバスは、ラオ語表示のみです。 これがまず大きな難関となります。タイ語が読める Intraasiaですから、タイ語文字の知識を当てはめながら地名を推測するのですが、確実にわかるのは文字の3分の1くらいにすぎません。

参考:右の写真は、ラオス文化省(?)が発行している、ラオ語文字とタイ語文字を比較対照しながら、その違いをラオ語とタイ語で簡単に説明している小冊子の表紙の部分です、1部 1万キップ。1行目の文章はラオ語です。2行目はタイ語で 「リエンナンスーウラーオ −タイ」と声調を付けて読み、「ラオ語文字を習う - タイ語」 という意味です。よって1行目の意味も同じ意味(のはず)です。
両文字は分類上での文字種類は同じですが、個々の文字形がよく似たものがある一方かなり違うものもあり、従って割り当てられた発音と声調にも違いがでてきます。つまりタイ文字に同等しないラオ文字がある一方、タイ文字にあたるラオ文字がない場合もあります。文字の数を比べると、タイ語の方がラオ語より多少多い。

2番目の難関は手持ちのラオス全土地図の地名が全て英文字表記だということです。全土地図はわずか2,3種類販売されているだけであり、我が手持ちの地図には結構細かな地名まで載っているのですが、全て英文字だけであり、これが地名の推測をかなり困難にします。 なぜならタイ語でも同じですが、しょせん英文字ではタイ語またはラオ語の音を正確には表記できません。タイ文字であれば Intraasiaはかなり正確に発音ができるので、英文字表記地名でも推測できますが、なにせ付け焼き刃的に覚えただけのラオ文字ではそうはいきません。地図の英文字表記名とラオ語地名との間で推測できない場合が多くなり、バスの行き先表示が一体どの地名を指しているかが、どうしても推測つかないバスが半分以上です。その中にはそのラオ語行き先自体が地図に載ってない場合もあるはずです。

こうして前回も同じでしたが、バス発着所でバス行き先表示と地図とのにらめっこでかなり時間を使います。ラオスの代表的都市、例えばルアンパバンのような都市名でなく、バスの行き先はいずれも馴染みのない地方町でしょうし、時には小さな田舎町ですから、通常の地理知識ではとても太刀打ちできません。ところでそのあたりにいるラオス人にこういうことを尋ねても無駄ですよ。基本的にごく普通のラオス人は地図を見るという体験を積んでいないので、地図で場所を見つけられません、三次元の位置を二次元に置き換えるということがすごく苦手です。加えて地図の地名は英文字表記ですから、尚更です。

ビエンチャンには、当然ラオス全体でも、書店自体がごく少ない。歩き回って探したあてた書籍を扱っている店は、いずれも市場の中にありました。それらの店で、わずか1種類だけラオ語表示の全土地図があることは確認しましたが、載っている地名の密度が非常に粗く、バス発着場のバス行き先のような地方町や田舎町は全く載っていません。 要するに、十分に役立つ地図がありません。探せないではなく、役に立つ安価な地図が本当にないのです(高価な外国製地図は我が予算では手が届きません)。ということで、ラオスを地方バスで旅行すること自体の難しさがまずこういう面にあります。

Intraasia は東南アジア旅では、日帰りで行き先の場所を確認せずに適当にバスに乗って終点まで行き、そしてまた戻ってくるという行動を、いろんな国でやってきました。タイ、インドネシア、ベトナム、ずっと以前のマレーシアです。 それはそれで楽しいことで、前回のラオス旅でもビエンチャンから同じことをしました。ただ今回はある程度狙いをつけた地に行きたいので、どうしてもバスの行き先がどこかを知りたいわけです。一体そこに停まっているバスがどこへ行くのか、わからないというのは悔しいことです。

このタラートサオバス発着場には、近郊バスに関してはバス番号と行き先の書かれたラオ語の案内表示がそれぞれ掲げてあります。初めてこのバス発着場を訪れた昨年、この案内板の解読?に頭を悩ませたものです。しかしその後気がつきました。その案内板の情報はまったく古く、あてにならず、そのあたりにいるラオス人は誰も眺めることさえしません。単なる飾り以外のなにものでもないのです。 よってラオス人のバス利用者は、自分の乗りたいバスが到着してそのバスの乗客がほぼ一杯になって発車するまで気長に待つだけです。時刻表も行き先案内も全くなく、経験的にどこどこ行きのバスはその発着場だから、そこで行って気長に待ちましょうという、原始的東南アジア方式です。 いうまでもなく、タイ行き国際バスは時刻表も案内表示もしっかりしていますよ。

困難を乗り越えてバスに乗る自由旅の楽しさ

この障害を越えて近郊や地方町へバス旅する、外国人は皆無です。タイとの間を結ぶ国際バスの乗客に白人やアジア人旅行者、バックパッカーの姿はかなり目立ち、このバス発着場でしょっちゅう目にしますが、私のように近郊バスまたは地方町へ行くバスに乗ろうとしている、または乗っている外国人旅行者を見たのは、この3回のビエンチャン訪問を通じてわずか1回だけでした。 タイ文字でさえほとんど読めない白人旅行者には、ラオ語しか通じないこの種のバス乗車はほぼ無理ですね。1回だけ見かけた2人の白人旅行者はラオス人に連れて来てもらって、目指す行き先のバスに乗せてもらっていました。

こういう外国人用に便宜を図っていない、いわば”外国人に媚びない状況”は、その国の大衆向け交通機関をごく普通に利用する旅人 Intraasia には喜びをもたらします。今や東南アジアのほとんどの大都市は、”外国人旅行者に媚びた”あり方を取り入れているので、その国の言語を覚えようとしない傲慢な白人バックパッカーを中心とした外国人旅行者が Lonely Planet などガイドブックに頼りながら、大衆交通であるバスを利用しています。一般にこういうあり方は結構に思われていますが、実は地元慣習と言語を尊重しない、21世紀の新植民地主義的な振る舞いの旅行者を増長し、彼らに何も気がつかなくさせていることになっているのです。どこへ行っても英語でことが足りるべきだと考えている、この種の白人やアジア人(英語流暢を自慢するシンガポール人とかマレーシア人に多いタイプ)のバックパッカーらとたまたま一緒になると、Intraasia はいつも気分が不愉快になります。よってこの種の外国人旅行者が皆無である、このタラートサオバス発着場の近郊バスまたは地方行きバスは、困難ながら挑戦しがいがあるわけです。

バスは日本と韓国から贈られた中古バス

とにかく地図の英文表示から推測したラオ文字の行き先のバスに乗ろうと、近くにいた運転手らしきに一応確かめた後(制服などはないので、誰が運転手かを見極めるのに時間がかかる)、その車中に乗り込んで発車を気長に待ちました。タイ行き国際バスを除いて、このバス発着場の全てのバス車輛とマイクロバス車輛は当然ながら非冷房の古車輛です。 バス車輛には韓国製と日本製が混じっており、マクロバスはすべて日本製車輛に見えました。恐らく日本と韓国のODA によってラオスに無償供与されたものでしょう。

ラオスは元フランス植民地のため、自動車は右側通行、よってバスの場合は運転席が左側に変更されています。マイクロバスはそのままですね。車輛は古く且つ手入れがされていないので、一言で言えばオンボロですが、この程度の古さは東南アジアで別に珍しい部類に入りません。もっとボロボロの車輛を使用している、国や地方は東南アジアにはいくらでもあります。

バスは単に人を運ぶだけにあらず

ラオスの鈍行近中距離バスの特徴は、バスは単に乗客を運ぶだけの交通車輛ではないということです。荷物も運ぶトラック的な役割も持っています。この意味は乗客が、通常の身の回り品以外の物を持ち込むからです。例えば市場で買った生鮮・乾物・穀物・食料品を納めた大きな入れ物とか袋、手で運べる程度の道具とか用品類、地元で取れたであろう各種産物、その他各種の小さくない荷物です。 バスの床だけでは到底納めきれないので、バスの屋根にも積みます。屋根には最初からそれようの荷物柵が取り付けてあり、バスの助手が屋根に上って荷物を引き上げ、一応ロープで縛ります。 今回帰路のバスでは、どこかの手工芸品工場で製作されたであろう、たくさんの木工品を屋根に山と積みました。バイクや自転車を屋根に積むこともあります。 要するに、手軽なトラック替りにもなるのが、ラオスのこの種の鈍行近中長距離バスです。当然ながら、大きな荷物類を持ち込む人は荷物分は何がしかの余分な金をバスに払っていますよ。

バスをこのように利用する方式はもうマレーシアではとっくに、タイではごく例外を除いて途絶えましたが、インドネシアやベトナムではまだごく普通に見られることですね。尚ラオスでは乗客を屋根に載せることはしませんし、一度たりとも見かけませんでした。

ビエンチャンには2つの中長距離バスターミナルがある

ビエンチャンには中心部にあるこのタラートサオバス発着場以外に、バスターミナルが2箇所あります。一番大きく比較的新しい南バスターミナルと古くこじんまりとした北バスターミナルです。どちらも中心部からかなり離れた場所にあり、互いを直接結ぶ交通手段は、サムロー(トクトク)しかありません。南バスターミナルはラオス南部の町を結ぶ中長距離バスターミナルです。そのバスの中で、急行バスとも言えるバスはかなり新しい冷房ダブルデッカー車両を使用しています。もちろんそれなりの切符代だということです。 新しいダブルデッカー車輛と古い通常のバス車輛が並存しているのが、なんとなく奇妙です。尚南バスターミナルからはベトナムの複数の都市を結ぶ国際バスが運行しています。運行はベトナムのバス会社です。

北バスターミナルは北部と東部への中近距離バスが発着しており、この路線のダブルデッカーバスは南部路線より少ない、その理由は南部路線の方がより長距離だからと思われます。ただ南部方面へ行く長距離バスのいくつかの路線がこの北バスターミナルを始発として、南バスターミナルを経由していきます。南部の都市名を掲げたダブルデッカー車輛が何台も駐車していたので、バス乗り組み員らしきに尋ねた結果わかったわけです。古ぼけた北バスターミナルに新型のダブルデッカーバスが駐車している光景もなんとなくおかしく感じます。

中国雲南省行きの長距離バス運行が始まった

今回驚いたことは、北バスターミナルに中国雲南省の昆明とを結ぶ国際バスが出現したことです。今年初め頃このバスターミルを訪れたときには目にしなかったので、最近オープンした路線です。ビエンチャン−昆明 間を直行するわけですからかなりの長距離路線です。運行は会社名から中国の会社だとわかります。窓口の運賃掲示には華語表示も併記されており、運賃 60万キップ(US$70)。通常のバス車輛を使っており、窓から内部を覘くと、座席でなく寝台形式になっていました。ラオスに高速道路は全く存在しません、対面交通の一般道路だけですから、ビエンチャンから国境までだけでもかなりの長時間走行になりますね。

北バスターミナルでは待合コーナーの椅子に座ってしばらく様子を眺めていました。その容貌と会話している言葉から判断して、2桁数の中国人乗客がこの昆明行きバスの発車(14時と書いてあった)を待っていました。 ここにも感じた中国の進出の姿です(このことは後編で論じます)。

北バスターミナルでは、外国人旅行者に人気あるゆえに、飛行機だけでなくバスで行く外国人旅行者もあるであろう、古都ルアンパバン行きのバスを除いて、ほとんどの中長距離バスと切符販売窓口の表示はラオ語表示だけです。ここでまた私は手持ちのラオ全土地図でその行き先の町を探しました。 限られた行き先とはいえ、英文字表示地図での特定がなかなかできない行き先もあります。残念ながら遠出するような旅の予算もないし、予定滞在日数も少ないので、北バスターミナルからはどこへも行くことはできませんでしたが、いつかまたラオスに来られれば、次回は是非遠出したいと思いましたね。ルアンパバンと昆明行きを除けば、外国人旅行者はまず乗らないであろうこれらの路線に乗ってみたいものです。東南アジアという範疇で眺めたとき、まだまだラオスの地方への自由旅行は一般化していないところが、旅人の心をうずかせます。

首都を抜けてからの道路風景に感じた意外さ

さて話は戻ります。タラートサオバス発着場を出発したバスは市内を抜けて北に向かいます。北に向かう主要道は1本しかありません。市内を抜けるまでの街頭風景は見慣れたものですが、ビエンチャン街並みのゆったりとした姿を感じます。決してごみごみしてないのです。道路の両側の家は、日本の規準から行ったら大きめになります。朽ちたような家はまずない。ビエンチャン市内を抜けて郊外に出ると水田のある農園風景になりますが、この風景は昨年南部からビエンチャンに向かった道路風景といささか違っていました。東南アジアの各地に見られる貧しさを感じさせません。これは良い意味での意外性でした。もちろんこれはラオスのほんの一部の状況であり、全土にこれを適用できるものでも、全土がこうだと結論付けるものでもありません(この点は強調しておきます)。

注:ラオスの国土面積は236,800平方キロメートル、そのうちの約70%が高原や山岳地帯。人口は約600万人。 参考までにマレーシアの国土面積 33万平方キロメートルでその内半島部の面積 19万8千平方キロメートル、人口は2009年で約2700万人。 

ビエンチャン市内の道路は概して良いといえます。朝夕の通勤通学時間帯には主要道路で混雑は確かにありますが、その程度はクアラルンプールやバンコクに比べたら大人と赤ん坊の差以上です。ラオス人口の1割ぐらいがビエンチャンに集中しているそうです。つまりそれでも60万人ほどに過ぎないわけです。 ですから、何よりもビエンチャンが巨大都市ではないことが道路の混雑状況感覚を薄めてくれます。 

ラオスの自動車化時代はせいぜい10数年のこと

そもそもラオスの自動車化が始まったので、90年代半ば以後のことのはずです。去年のコラム(第532回からの3回シリーズ)で書きましたように、Intraasia が初めてラオスを訪れた1990年当時は、ビエンチャンで自家用車を見かけることはほとんどありませんでした。バスは第2次世界大戦が終わった直後ぐらいに生産されたかフランス植民地時代かのそれと思われる、超おんぼろバスでした。 この状況が一変したのは、メコン川に初めて架けられた国際橋の開通がきっかけでしょう。それまでメコン川の両岸を往復する小さなボートしか交易手段のなかったので、この橋がビエンチャンだけでなくラオスの経済に非常なる影響を与えたことは想像に易しいことです。

注:メコン川に架かるタイ・ラオス友好橋はオーストラリアが建設したタイとラオスとを結ぶ最初の国境橋であり、1994年にオープンしたそうです。

ラオスの特徴はその国土面積に比して人口の少なさが特徴の一つといえるでしょう。なにせマレーシアの半島部より多少広い国土にわずか600万人の人口ですからね。この人口密度の低さは単に首都ビエンチャンだけではなく、至るところで感じます。 

北上する片側1車線ずつの道路はきちんと舗装されており、悪路はありません。通行量が多いとまで言えないがそれなりに交通はある。自家用車にピックアップトラックが圧倒的に多数を占めるのはタイと同じです。 行き交う自動車を眺めていると、ビエンチャン市内での観察とあまり変わらない結果に行き着きます。どの自動車も比較的または結構新しい車両だということです。この理由はひとえに、ラオスの自動車時代がとにかく始まったのは90年代中頃以降であり、とりわけこの10年ちょっとぐらいの期間に過ぎない、と言えるからです。 1990年ごろ以前にごく少なく走っていたであろう、20世紀中頃に生産された車輛は完全に姿を消しています。 古い車両といえるのは、上記で触れた、恐らく韓国と日本からODA供与された中古車バス車輛、及びサムロー(トクトク)、といういわば民間公共交通の車輛です。

終点の田舎町にある名前だけのリゾート

前日初めてこの路線に乗ったとき、バス車中で後ろ座席の若者と会話したら、彼言うにバスは私が最初降りるつもりでいた地で降りる必要はないとのことであった。最初降りる予定の地名はフロントガラスに掲げた表示板に書いてあり、地図の英文表示名に一致したので、とりあえずそこで降りて、多分そこからあるであろうソーンテーオで湖により近い町まで行くつもりであった。なんのことはない、そのバスはその予定として降りる地のバス発着場を出てすぐ、それまで走ってきた街道を外れて田舎道に入り、20分ほどで走ってから終点の小さな町に着いた。バスの行き先表示のラオ語をタイ語的推量で読んだ私の読み間違いであったことがわかりました。つまりそのバス終点地名は、我が手元の全土地図にも小さく出ている町でした。 ビエンチャンを出てから約3時間、地図上の距離で90km弱、運賃は1万2千キップです。

昨日訪れたリゾートに直行しました。発着場から田舎的住宅の間に続く道路を歩いて 5,6分の距離です。 透明度ゼロのお世辞にもきれいとは言えない小さな池の湖畔に建てられたリゾートです。風光明媚には程遠いのですが、静かな環境であるのは間違いない。前日はたくさんの泊まり客がいたのですが、その日土曜は極めて静かです、ほとんど泊り客がいないように思えました(そして事実そうでした)。受付の若い女性によれば、平日はセミナーなどで泊り客は多いが週末は空いているとのこと、なるほど。

ということでどの部屋またはどのロッジ室でも選べるとのことで、池に面したロッジ建物の端部屋を選びました。冷房、映りの悪いテレビ、非常に水量の少ない温水シャワー、ミニ冷蔵庫付きの部屋です。部屋代 10万キップ(400バーツ)なら悪くはないと判断しました。これまで多くのエコノミークラスホテル、安宿(ゲストハウス)、一部の中級ホテルの部屋代を調査してきた結果、程度の良い安宿またはエコノミークラスの宿泊施設は、大体10万から10数万キップがその値段の分かれ目あたりだとわかったからです。 15万キップぐらいだせば、それなりに快適に思える中級ホテルに泊まれます。私の宿泊予算は1泊400バーツまでなので、ぴったりというところです。

前回ビエンチャンの中心部にある 600バーツの中級小型ホテルに試しに1泊しましたが、そういう”贅沢”はもうできません。別に中心部に泊まる必要はないし、まあ400バーツつまり10万キップでほどほどの部屋である限り、非中心部にある程度の良い安宿に泊まることにしています。ホテルの料金はいうまでもなく場所の要因もかなり占めます。Intraasia がビエンチャンでの常習にしたつもりのホテル(上程度の安宿)は少し離れた場所に見つけました。仮にそのホテルが中心部にあれば10万キップでは到底無理でしょう。尚中心部には、いわゆる外国人旅行者とバックパッカーが好んで集まる地区があります、ちょどペナンのチュリア通りを大きくしたような界隈です。前回集中的に調査した結果、その地域の安宿もゲストハウスも割高とわかりました。 そんなことを知ってか知らずか、外国人旅行者はそういう一画を好むというのが、東南アジア至る所にひろがる現象ですね。もちろん、Intraasia はそんな場所を好みません。

湖の湖岸で見たラオス事情

チェックイン後、バス発着場に戻ってソーンテーオで目的の湖まで往復しました。 基本的にラオスのソーンテーオもタイのソーンテーオと同じで、軽四トラックの荷台に幌をかけて長椅子を置いた、固定ルートを走行しそのルート上であれば好きな場所で乗り降りできる大衆交通手段です。ただこの湖行きは行楽地行きであり、道々人を乗降ろしするタイプではない。よって運賃は比較的高く片道 1万キップです。

途中見晴らしの良い場所を少しだけ走りました。その車中から眺めた湖光景はさすがに美しい。人造湖ゆえに、恐らく元々は丘の頂上であったであろう部分が小島のように湖のあちことに浮かんでいる。海のない内陸国ラオスではこういう風景が数少なく眺められる場所かもしれない。ソーンテーオ終着場は湖岸です。その辺りにはいわゆる御茶屋が何軒も並んでいる、それ以外にも地元住民の掘ったて小屋兼物売り屋がいくつも並んでいる。みすぼらしいのが本来の地元民の小屋であり、それなりにしっかりしたお食事休憩処は外部の商売人が経営しているのでしょう。 そこからちょっと歩いた、道路の行き止まりで且つ絶好の場所にはちょっとしたレストランが建っている。間違いなくどこかの有力者が持ち主であろう。よって本来は湖の自然景観が楽しめるであろうその場所で景色を眺めるには、レストラン客にならざるをえないわけです。

このレストラン前には新車のピックアップトラックやトヨタのカムリさえ駐車していた。 こういう車に乗れるのはラオスの新興中上流層に違いない。国が発展すればこのように階層の乖離が大きくなっていく例をそこにも感じました。 湖には沖の島々を訪れるまたは周回していると推測されるボートが何艘も運航されている。尋ねると、人造島の一角に宿泊所があるとのことです。

その日泊まった宿は、名前はリゾートでもなんら施設があるわけではない。小さな屋根付きレストランがあるだけで、カフェも娯楽室もプールもスポーツ施設もありません、唯一あるのはセミナー用の広い会議室です。リゾートの庭では、近くの住民の子供たちが遊びまわっています。夜になると廻りは寂とした環境になりました。これがIntraasia のような都会人にはいいのです。ただセミナー目的以外のラオス人が果たしてこのような環境を好むかどうかはちょっと疑わしいところですな。




ラオスの田舎町と首都ビエンチャンで、バス交通と食と町の様子を観察 - 後編


朝食と昼食は市場前と内の食堂で地元食を安価に食べる

翌朝、その名前だけのリゾート内にあるレストランへは行かず、バス発着場のある村の中心地へ行きました。中心地を占めるのは伝統的な屋根付き市場です。田舎町の市場ですから決して大きいとはいえませんが、地元人の買い物の中心地といえるでしょう。前日の夕方もにぎわっていましたね。朝食を食べるところを探していたら、市場対面の大衆食堂に何人かが座って食べていました。地元人が好む場所は即試してみる価値がありますから、そこで食べることにしました。よく見えなかったので何を食べているかはっきりわからなかったけど、指差して「アンニー(これ)」 といって注文しました。でてきたのはお粥です。要するにタイでも朝食としてお馴染みのどんぶりに入ったチョーク(粥)です。

その粥もタイ的な食べ方と同じです。どんぶりの粥がテーブルに置かれると、客はテーブルに載せてある調味料で各自好みに味付けして食べます。Intraasia が食べながらその味付け様子を眺めていると、タイ人よりも味付け度が極端に思えるほどです。粥が真っ赤になるほどチリソースを入れ、魚醤油を加え、さらに砂糖をたくさん加えます。中にはたっぷりとニンニクまで加えている男もいました。私は常に軽く醤油を加え生ライム汁をかける程度で、ほぼ粥そのものの味で食べるのですが、テーブルの調味料を全種しかもたっぷりと加えて食べる人の粥ってどんな味になるんだろうと、不思議に思えます。粥に多量のニンニクを加える食べ方は初めて見ましたなあ。 この美味しい粥の値段は5千キップでした。ごく大衆値段です。これだからこそ、地元人が好む大衆食堂を探してその地元食を味わうのは、いつもわが旅の楽しみです。

チェックアウトとした後、バスに乗る前の昼食も市場内の汚い食堂屋台で食べました(実際汚いのでこう表現します)。前々日の昼と前日の昼もそこで食べ、それなりに良かったからです。人懐こい母子が経営する市場内屋台です。ベトナムのフォー(いわばうどん)をラオス風にしたラオス風フォーが一杯 8千キップ、野菜のおかず1品をつけたもち米の食事が 6千キップでした。 ラオスはどこへ行ってももち米がごく普通にあります。この村で白飯を売っている光景を1回も見ませんでした、ご飯を扱っている食堂・屋台はすべてもち米です。

注:2009年7月下旬時点での通貨キップに対する外貨為替率 1 タイバーツ = 250キップ、 US$1 = 8500キップ、 日本円 100円=8900キップ、 尚ラオスでは伝統的に、米ドル以上にタイバーツがよく通用しています。といって細かな支払いはもちろんキップで行われており、外国人向けの店を除いて、通常の買い物は全てキップです。通貨事情はもうわかっているので、マレーシアでバーツに両替していき、ビエンチャンの両替屋でキップに替えました。


夕食は市場で買って持ち帰り食

ビエンチャンで泊まっていた安ホテル(ゲストハウスではない)のすぐ近くに小さな伝統市場があります。前回もそこで夕食を買って持ち帰り食にしましたので、今回は毎夜夕食はそこで買ってホテルに持ち帰りました。その理由はこれが一番経済的だからです。ラオスはその国民所得から考えたら、食費の高い国です。大衆食の値段はタイの地方都市と同じかむしろ少し高いくらいです。つまり所得水準のはるかに高いタイと同じくらいの食費がかかることになります。大節約旅行者の Intraasia にとって、食費はいかに節約するかの重要な項目なのです。大衆食堂の麺類で今や 1碗が 1万キップ近いビエンチャンですから、おかずとご飯の食事はそれよりも高くなります。 ですから、多くの地元人がするように持ち帰り食にするのが経済的なのです。尚袋入りのままでは食べづらいですから、ホテルで皿とフォーク類を借りましたよ。

市場では容器に入れたおかずが10種類ほどテーブルに載せてあります。そのほかには焼いた各種肉類、焼魚もあります。この辺りはタイの東北部とよく似ています。その中から毎晩野菜のおかずかカレー味の野菜主体おかずを2品選びました。どこの店でもそうですが、選んだおかずを小さなビニール袋に器用に入れてくれます。 

毎日もち米を食べていた

さてご飯はもち米だけです、白飯は市場はもちろん、泊まったホテル界隈のどこにも目にしませんでした。 最初の夜、もち米はいくらにすると聞かれたので、2千キップ分を買いました。もち米もビニール袋に入れてくれます。しかしその量は私にはとても食べきれる量ではなかったので、2日目の夜からは 「カーウニアウ ヌンパン (もち米は千キップでいいよ)」 と伝えました。そうしたら脇にいたその店の小学生の女の子が、「ヌンパン!」といって大きな声で嘲笑したのです。確かにもち米好きな地元人でわずか千キップだけもち米を買うような人はいないことでしょう。だけど、私にはもち米は千キップでちょうど十分な量なのです。 もち米自体はかなりこわばっていますが、味は悪くありませんよ。よってその次からは、もち米注文時には、「カーウニアウ ソーンパン キンマイモット(もち米の2千キップは食べきれません)」 と言い訳を加えることにしました。こういう何気ない地元人との会話を通じて顔なじみになれるので、伝統市場のような所で買い物するのは楽しいことでもあります。

こうして野菜のおかず2種で6千キップ、もち米1千キップ、となりの雑貨屋で蒸留水ボトル 1千キップ、占めて8千キップの夕食です。 ラオス人は炭火で焼いた串刺しなどの豚肉、牛肉、鶏肉、さらに塩でまぶした焼き魚、それに腸詰ソーセージが好きです。しかしその種の肉類は野菜よりずっと高いこともありますが、何よりも近年益々野菜主体食になっている Intraasia は、肉類を食べたいという気にまずなりません。ということで夕食はいつもつつましく済ませて、支出を節約しました。今回のラオス滞在ではご飯は全てもち米でしたので、1回も白飯を食べることはなかった。そうそうリゾートのレストランでの夕食では焼き飯を注文したので、それが唯一の普通米でしたね。タイの東北部の市場や大衆食堂ではもち米はごく普通に売られていますが、白飯の方が一般的です。ビエンチャンとその近郊では、むしろもち米が主体となっていることにはいささか意外な発見でした。白飯の大衆食堂がないということではありません、前回はそういう店でも数回食事しています。いうまでもなく、冷房付きレストランや外国人旅行者の多い場所の様子は多少違うことになります。

全体的にいって大衆食堂や市場内の屋台店に並ぶ食事品の種類はタイの方が豊かです。麺類にベトナムのフォーがごく普通にメニューに加わっているのがラオスの特徴のようです。ただ本場ベトナムのそれとはなんとなく違うという感想も抱きました。 フォーは店側が用意する葉っぱ類を食べる人が好きなだけスープ麺の入ったどんぶりに加えて食べる方式です。皿に盛られた葉っぱ類を食べる人が指や手で触りまくります、そして残ったその葉っぱ類は当然また他の人用の葉っぱ類盛り皿に追加されることになります。 

伝統市場の一角で見つけたラオス・タイ風デザート

ある日の昼食に、泊まっているホテルから徒歩10分ほど離れた所にある、ビエンチャン市内有数の大きな伝統的市場へ行きました。その市場は前回も何回も足を運んでいますので、様子はわかっています。市場内には食事のできる一角もありますから、そこでフォーを食べました。昼時なので狭いカウンターテーブルは近くの勤め人らしき人も混じって混んでいました。ふとその隣にある、甘いラオスデザートカウンターを見たら、トゥアダム(小豆汁、要するにぜんざいです)があるではありませんか。タイの屋台などでこれを見つけると必ず食べる私は、見逃すことなく食べました。碗1杯が2千キップです。これだから市場徘徊はやめられませんなあ。 こういう伝統市場は外国人旅行者がぶらつく中心部から離れているということだけでなく、ラオス人によるラオス人のためのラオス人市場ですから、外国人旅行者は全くやってきません。前回、今回を通じて一度たりともその姿を見かけませんでした。 Lonely Planet 頼りしか行動できない白人旅行者の姿などみたくない私にはうれしいことです。 

大衆コーヒー屋でラオスコーヒーを飲むとお茶も付いてくる

ラオスはコーヒーの産地もあるそうです。 泊まったホテルの近辺にコーヒー屋台があります。別の地区でもコーヒーを供する大衆食堂・店を少ないながらも、いくつか見つけました。メニューは掲げてないのが普通ですが、去年 ”カフェーラーオローン (熱いラオコーヒー)”とどこかの店の壁にラオ語メニューが掲げてあったので、その注文方で良いとわかりました。コーヒーだから 「コーヒー」といって注文すればいいだろうということにはなりません。 ラオコーヒーでなくネスカフェとか地元産ではない豆を使うかもしれない、だから「カフェーラーオ」 といえば間違いないのです。コーヒー粉を布に入れてそこに熱湯を注いで煎れるマレーシアでもお馴染みの方式です。コーヒーカップを使うのは多少洒落た店であり、つまり値の張る店であり、通常の大衆コーヒー屋は、背の低いグラスに濃いコーヒーを入れます。その際あらかじめ練乳をグラスにたっぷり入れてしまいますので、カフェーラーオ注文時には忘れずに伝えることにしています、「サイ ノム ニットノーイ(ミルクは少しだけ入れてね)」。 こういうグラスコーヒーの値段は最低3千キップから5千キップまでです。

ラオスのこの種の大衆コーヒー屋の特徴は、別のグラスで時にはカップで熱いお茶を出すことです。つまりコーヒー客には必ずお茶が付きます。お茶は急須に入っている場合もあり、御替りも自由にできます。お茶まで飲めて私にはお気に入りの方式です。このコーヒープラスお茶無料サービス方式は、面白いことにタイの南部でも一般的なのです。タイ南部では同じような大衆コーヒー屋がよくあります、1杯10バーツぐらいです。ただお茶用にグラスを出さずにお茶だけテーブルに置いてある店もよくありまして、お茶は自分が飲んだコーヒーグラスで飲みなさいということです。このコーヒープラスお茶サービス方式はタイ中部ではまずありません。東北部でまた復活しますが、安価な大衆コーヒーを提供する所自体が少ない。 ラオスに入るとタイ東北部より大衆コーヒー屋・コーナーが目に付くようになります。 このお茶サービス方式はベトナムでもごく普通にありますね。カンボジアにもあることを覚えています。一方マレーシアではコーヒー客に無料でお茶を出すような大衆店は全くありません、そういう発想自体がありません。コーヒープラスお茶サービス方式はどこから広まったスタイルなんだろう? と以前から不思議に思っています。

名前だけのリゾートに泊まった町でも、朝食後市場内にあるうす汚いコーヒー屋で、カフェーラーオローンを飲みました、3千キップです。こういうひと時はいいものですよ。

朝食にはフランスパンサンドイッチ食べて丸ごと1個ココナツを飲む

そうそう、今回は休憩時または朝食時にココナツも飲みました。ココナツの実を無造作に店先に積んでいる大衆食堂が何軒かあるので、そういう店でココナツ1個を買います。店が上部を削って小さな穴を開けてくれるので、そこにストローを刺してココナツ汁を丸ごと飲むのです。どの店でも1個4千キップです。ビエンチャンでの朝食は毎日路上のサンドイッチ屋で買ったフランスパンのサンドイッチです。路上の屋台や大衆食堂の一角でこのフランスパンサンドイッチを売るあり方は、ベトナム、カンボジア、ラオスで共通に見られます。どの国でも美味しいフランスパンにその場であれこれの詰め物をいれてサンドイッチにして売っています。パンだけ買う人もいます。ビエンチャンで泊まったホテル近くのサンドイッチ屋台は近所の主婦の内職ですが、結構美味しく、5千キップの小型サンドイッチで十分な量がありました。フランスパンサンドイッチはビエンチャンのお勧め大衆食ですよ。

人口密度の薄さがもたらす利点

ビエンチャン市内はごみごみしたと地区や道路が比較的少ない(ないということではない)一つの理由は、前編で述べました、人口圧力の弱さでしょう。インドネシアではどんな都市でも人が湧いてくるという感覚になりますが、ラオスではそういう感覚にはほど遠いです。 この人口の少なさは国の発展にプラスにもマイナスにも作用するはずです。プラス面はスラム化する可能性人口の少なさ、限られた資源を少ない人口でまかなうために高い失業率になることを防げることでしょう。マイナス面は経済力の発展を支える労働人口に欠く、国内経済力の小ささといえます。

注:ラオスの国土面積は236,800平方キロメートル、そのうちの約70%が高原や山岳地帯。マレーシアの国土面積 33万平方キロメートルでその内半島部の面積 19800平方キロメートル。人口は2009年で約2700万人。 


豊かな中流層の台頭を感じるビエンチャン

郊外から地方へ向かうバスから眺める風景の中に工場らしき工場を見かけません。これは2008年のコラム: 第532回からの3回シリーズ「メコン川を縁にした、ラオス短期旅」 でも触れましたように、昨年のラオス訪問時に南部からビエンチャンまでバスの乗ったときも、街道で工場然とした工場は全く見かけませんでした。実際ラオスにはまだ現代的工業力がないといえます。ところで今回街道風景のなかで気がついたのは、他産業に比して建設産業が盛んであるということです。ブルドーザーなどの工事機械を擁した建設企業の建物を時々目にしました。事実なかなか立派な家も目に付くのです。 ただ建設機械はいうまでもなく建設資材も恐らくほとんどが輸入されたものでしょう。ビエンチャン市内では新しい自動車がたくさん走り、バイクも新しいのばかり、ビルや家庭には衛星テレビアンテナも立っています。中心部から離れた地区・場所にもラオス風ブティックが何軒も店開きしています。 一見意外な豊かさを感じるのですが、一体その余裕はどうして生まれるのか? これはまだIntraasia にはわかりません。

タイ製品とタイ大衆文化の圧倒的な流入

市場や雑貨店、食料品店の店先に並ぶ品品はタイで見かけるものとほとんど変わらない。つまりそれなりに種類が豊富です。問題は、その大部分がタイ製品だということです。中国製品もあります、少ないけど日本製もある、食料品などにはベトナム製もある。じゃあ、ラオス製は? ラオスの工場で製造された製品を雑貨店や家庭用品店や食料品・調味料品店でまず見かけません。いうまでもなく電気電化製品は全て輸入品です。 食料雑貨店に並んでいる、ミネラル水もパンもお菓子もシャンプー、洗剤類もタイ製品ばかりです。 大衆食堂や市場の屋台食堂のテーブル上には必ず、ラオス食文化に必須であるチリソース、魚醤油の瓶が並べてありますが、全てタイ文字だけが印刷されたタイ製品です。こういったテーブル上の品々は、私にもタイでお馴染みのブランドです。 メコン川に架けられた友好橋のおかげで、人の往来と物の流通は極めて容易になりました。それがもたらしたのは、タイ製品の圧倒的な流入という現実です。

昔からタイ大衆文化がメコン川近辺のラオス側にテレビなどを通じて絶え間なく流入していました。ビエンチャンでは衛星テレビでなくてもタイテレビチャンネルを見ることができます。衛星テレビが結構普及しているように見える昨今、もうタイの全テレビチャンネルが映ります。タイの大衆音楽もタイの娯楽文化も直に即ラオスに入ってきます(ある意味での文化侵略ですね)。ラオ語とタイ語は姉妹語関係ながら、文字と声調が違います、そして語彙の違いも目立つそうですが、子供のときからタイ語を身近に聞いて育っているビエンチャン子や国境でもあるメコン川流域に住むラオス人であれば、タイ語の読解も困難はないでしょう。しかし逆は真ではなく、普通のタイ人はラオ語の文字に親しむようなことはまずありません。もちろん、母語がタイ語なのでラオ語の理解はその違いにも関わらずそれほど難しくないはずです。現実には、タイ語を理解するラオス人が少なくないということから、両者の会話ではタイ語を使うことになってしまうでしょう。

よってあらゆる手段で流れ込むタイ大衆文化とタイ製品類を通して、ビエンチャン子は、多少誇張して言えばラオスとタイの二重大衆文化の中で暮らしているかのようです。メコン川から遠い地方ではタイ大衆文化の直輸入はないでしょうから、ビエンチャンとの違いはかなりあると Intraasiaは推測しています。 幸か不幸か、首都ビエンチャンがかくもタイ国境に近い位置にあることから、首都ビエンチャンでこうもタイの影響力を感じるのです。

医療施設の少なさと貧弱さを感じる

新しい自動車、立派ではないけど決してみすぼらしくはない普通の民家の多いビエンチャン市内を徒歩やバスで徘徊していて気がつくのは、医療施設の少なさです。立派な病院といえるのは、市中心部にあるフランス植民地時代から続くと思われる病院ぐらいでしょう。それ以外の病院はかなり小型であり、そして街で一般医院の姿はめったに目に入らない。単に目に入らないのではなく実際数自体が少ない、といっても間違いないはずです。なんらかの専門医院など一度も見かけた記憶がない、歯科もごくごく少ない。 物質的には東南アジア水準でまあまあの豊かさを享受していると思われるビエンチャンでさえ、医療はこのお粗末さです。恐らく豊かな層のラオス人は、ちょっと深刻な病気になったら国境を越えてタイの病院へ行くことでしょう。長年タイ全国に渡って数多くの地を訪れてきたIntraasia は、中程度の町では必ず病院があり、医院がそれなりの数あることを知っています。しかしラオスの首都ビエンチャンはそのタイの中程度の町にさえ敵わない、それほど不充分な大衆向け医療施設の少なさです。 ラオスはこの面で間違いなく人的資源不足に面している、と私は感じました。

物質的豊かさを感じさせる一方、社会規範の未確立さを感じさせる光景に出会いました。ある日大衆食堂に座ってココナツを飲んでいました。中学校の対面にある店なので、学校が終わったたくさんの生徒たちが店で時間を潰していました。その内女生徒の一団が店前に停めてあった新車のピックアップトラックに乗って去っていきました。何と運転するのはその女生徒の1人です、恐らく年齢は15,6歳でしょう。 その光景を続けざまに2回見ました。豊かな家庭の親が子供にピックアップトラックを使わせている様子です。タイでこんな光景を見たことは一度たりともありません。ビエンチャンでの路上の交通取り締まりはなきも同然です。急激に豊かになったビエンチャンの中流層家庭のあり方の一面を感じさせる光景でした。

新聞小売のない国ラオス

この1年間で3回したラオス訪問を通して不思議に思うことの第1は、新聞が売られていないということです。南部の都市で全く売られていなかったので、首都でまさかそんなことはないだろうと思ったのですが、首都でも新聞を売っている所がないのです。本屋自体が極端に少なく、その本屋でも売っていない、雑貨屋にも置いてない、街に露店の形で新聞屋雑誌を並べているキオスクもない、数少なくあるコンビニにも新聞は置いてない、伝統的市場内を歩き回っても新聞を置いている店はない。ビエンチャンの街をかなり歩き廻ったのですが、それでも新聞を売っている店や場所に全く出会いませんでした。外国人旅行者の集中する地区で洒落た本屋へ入ったら、ラオス発行の英字紙が1種置いてありました。しかしラオ語の新聞はまった置いてない、どうして売らないのかと店員に聞いてみたが、らちがあきません。その返答から、ラオ語の新聞は売らないものだとの固定観念さえ感じたのです。

茶店で、家の軒先で、車中で、その他どこであれ、新聞を読んでいる人を見かけることはまずないです。 泊まったホテルではラオ語の新聞を取っているので、フロントに尋ねたら、新聞は契約配達だけだと答えました。なるほど、確かにこれだけ新聞を読んでいる姿を見かけないということは、街売りしてないということなんでしょう。これは隣国であるベトナムとカンボジアとは非常に違う状況です。いうまでもなく、タイの新聞発行状況は非常に盛んであり、タイ語紙が見つからないなんてことはどんな田舎でもありえません。

なぜ店や露店で新聞が小売されるシステムがないのか、または育たないのだろうか? 恐らくラオスの政治体制のせいだと思われます。ラオスとタイの国境にもなっている何百キロもの長いメコン川近辺ではタイからの電波ニュースが垂れ流しで入ってくる一方、国家の統制によってここまで新聞などの出版を抑えているとしか思えません。バスで出かけた例の名前だけのリゾートのある町でも、当然ながら新聞のある光景をまったく見かけませんでした。新聞は情報の伝達だけではなく、大衆の識字率を向上させる利点もあります。 テレビがいくら普及しても識字率は上がらないのです。
参考:下左の写真はホテルでもらったラオ語新聞 ”ウエンチャンマイ”の第1面です。

  

ラオスに入り込んでいる中国の姿

前編で書きましたように、今回驚いたことの一つに、ビエンチャン−中国の昆明間の直通バス運行が始まったことです。このバスはラオス人が利用するよりも中国人の利用者の方が多いに違いありません。なぜそう思うのか? それはビエンチャン及びその近郊で目にする中国・中国人の存在です。頻繁に目にするとは決して言いませんが、中国の存在感が厳然とあります。

ビエンチャン−中国の昆明間の直通バスが発着する北バス発着場から徒歩で10分ほど離れた場所に、”三江国際商貿城” と中国語でも書記された、いわばショッピングセンターがあります。以前からその存在に気がついていたので、今回訪れてみました。 安普請のかなり広い展示場風建物です。その内部を碁盤目状に仕切ってテナント貸ししています。数百テナントある店舗の全てが中国製品を扱っている、文字通り中国製品の販売城です。中国人の投資が主体ですが、ラオス人の店もあるかもしれません。働いている従業員にもちろんラオス人はたくさんいます。加えて中国人もオーナーとして、従業員としてそこにいることが、耳にしたその中国語発音からわかりました。

ビエンチャンには伝統的市場を別にして、ショッピングセンターは小型のそれがたった1軒あるだけです。その市場規模から考えて、この三江国際商貿城はまこと大きくたくさんの店が入った中国製品専門ショッピングセンターです。電化製品から貴金属、菓子、衣服、雑貨、文具、手工芸品などあらゆるといえるぐらい様様な中国製品が売られています。ただ訪問者は多くありません、平日というせいもあるでしょうが、中心部からかなり外れた位置だからです。旅行代理店のバンと思われる車が、タイ人の観光客を送り込んでいる光景を見ました。

さらにこの展示場風建物の周囲にもショップハウスの形で中国品ばかりを売る店が何軒も入居しています。その隣には中国人訪問者向けと思われる宿泊所さえあります。 ショップハウスの上階にはこの場に投資したであろう中国人たちが住んでいる様子が伺えました。 さらこの三江国際商貿城に至る道路の一画にも、中国レストランと中国人用ホテルがあります。いずれも中国語の表示が大きく付いています。

ビエンチャンの街の至る処ではありませんが、ある特定の地区では中国語漢字を掲げた貿易店・会社を見かけることは珍しくありません。街道沿いにもぽつぽつと中国の会社らしい看板を見かけました。 中国製自動車用品を売る店もあるし、中国医のクリニックもあるし、中国料理を掲げた小さな麺レストランもあります。どんな場合でも大きな漢字名が掲げてありますから、見つけるのは簡単です。 現代的な意味合いでの製造業がほとんど存在しないラオスですから、世界の工場である中国の存在は今後も増すことでしょう。 それを示す1つが、国際直行バスの運行開始ですね。

ラオスはベトナムとの関係も深い

上記で細かく書きましたように、ラオスは民族と言語の両面で姉妹関係になる、南の大国タイとの関係が深いのは当然です。上の地図でラオスと長い国境を接している国は、タイとベトナムであることを確認してください。

ラオスは伝統的にベトナムとの関係が深い国であり、その程度は単に国境を接した隣国関係以上といえます。その理由は、20世紀前半から続くラオス人民革命党とベトナム共産党の関係に基づく面が大きいと考えられます。こうしたことから、ラオスの町、単にビエンチャンに限らない、ではベトナム国旗を掲げた建物や家屋があちこちにあります。両国は政党面ではどちらも1党独裁国家ですから、党の翼下にある政府または党機関の交友関係を示す一端だと推測されます。結構な数が住んでいるといえるほどあちこちでベトナム国旗を掲げているごく普通の家や物売り店をみかけます。その住人はベトナム人だということでしょう。つまり昔からベトナム人コミュニティーの存在があるということです。ベトナム資本の銀行やホテルや会社を見かけることは珍しいことではありません。

ということでベトナムはラオスの中に入り込んでいます。両国の学術・政治的密接さを示すものとして、ラオ語 - ベトナム語辞典の立派さをあげておきます。分厚く非常にしっかりした辞典に見えます。その辞典としての充実度はラオ語 - 英語辞典をずっと上回るように感じます。それなりの厚さのラオ語 - 中国辞典もあります。これは中国出版でしょう。 ラオ語 - ベトナム語辞典の立派さが意味するのは、それだけ長年ベトナムが政府関係と投資面においてラオスに入れ込んできたことを意味する、と捉えてもいいでしょう。

日本の存在もラオスにありますよ。ビエンチャンの国際空港の敷地内には日本のODAで建設されたことを示す碑が立ててあります。もっとも利用者のどれくらいの比率の人がこれを目にするかですけどね(笑)。市内を散策していたら、主要な電話局建物の外に日本のODAによって交換システムが導入されたことを示す、銘文が張ってありました。 市内バス発着場から発着する近郊バスのなかには日本のODAで供与された車輛があることは前編で述べました。他にも日本のODAの存在を示す看板なども見かけました。 
ということで、こじんまりとした首都ビエンチャンには外国の姿を多分に感じるのです。



慣習的行為を発展度を尺度に常識と非常識の狭間で考える


はじめに

東南アジア世界という範疇で捉えた時、マレーシアは間違いなく発展上位3カ国に入ります。 発展という意味が、単に国民所得や1人当たり国民総生産高の高さではないと仮定すれば、マレーシアでその発展度に不十分なまたは見合ってない状況・状態に出会ったり、見かけたりします。発展の捉え方をわかりやすい例を出して言いますと、屋台や露店の衛生度にどの程度を許容を認めるかは、国の発展度によってかなり違いがある、出てくるということです。 シンガポールでは許容できなくても、タイやマレーシアでは許容できる事例があります。マレーシア、タイでは許容できなくても、インドネシアやラオスやカンボジアでは許容できる場合も当然でてきます。つまりシンガポールの衛生許容観念をそのままラオスやカンボジアには当てはめられませんし、何よりもそれはかなり実行不可能なことでもあります。 

このことを承知しておれば、例えばインドネシアを訪問した人が、シンガポールよりはるかに劣るからとても露店や屋台で食べられないという、態度や思考は一方的非難以外のなにものでもありません。ある人がその国で普通に暮らしたり、普通に自由旅行する場合は、各国の発展度に相当程度合わせて行動する、思考する(なお 100%合わせろ、と主張しているのではありませんよ - 誤解なきように)ことも必要なのです。 それができない人、嫌な人は4星、5星ホテルに泊まって、VIP待遇で行動するしかないですな。

スーパーマーケットの備え付けカート内に幼児を乗せる行為

という前提をお話した上で、最初の命題に戻ります: マレーシアでその発展度に不十分なまたは見合ってない状況・状態に出会ったり、見かけたりすることがある
いうまでもなく、人によって「発展度に不十分なまたは見合ってない状況・状態」 の具体的な点に違いが出てきます。ですから、ここで書くことは Intraasiaの捉える具体的な点です。

一部の高級スーパーを除いて、多くのスーパーマーケットやハイパーマーケットで、親たちが買い物カート(店に備わった、買い物品を入れる手押し車)に小さな子供と幼児を乗せている光景は、ごく日常的に見かけることですよね。歩ける程度の赤ん坊から小学校の低学年程度の子供が買い物カート内に靴履きのまま入って、座ったり立ったり、時には居眠りしています。 この行為に文句を付けている人や現場を見かけたことは、長いマレーシア滞在を通じて記憶にありません。つまりマレーシア人大多数には受け入れられている行為と言えるでしょう。

しかし衛生面から見れば、生食品を含めて食品類を入れる買い物カートに小さな子供を乗せる、しかも靴履きで乗せる行為は、決して誉められたことでも、推奨することでもないのは当然です。試しに日本で同じことをやったらどういう反応出るか見ものですな。 Intraasiaには、こういう行為をほほえましいと見なしたり、親にとって店内での子ども扱い・管理が楽だからという発想には到底納得できません。なぜなら、マレーシアの発展度から考えて、こういう不衛生行為を見て見ぬ振りすること、または不衛生行為と見なさない思考は、もはや改めるべきだと考えるからです。 

いつになったらこの買い物カート子供乗せ慣習が社会の話題になるかと思っていますが、いまだに社会で真面目に論議された例を知りません。 露店や大衆食堂の非衛生な行動と扱いを批判する都会人からの主張・発言は、各種新聞にしょっちゅう且つたくさん現れています。都会の意識の高いマレーシア人にとって、その種の不衛生な屋台や大衆食堂はもはや許せないという好例です。 じゃあ、土足履きの小さな子供や幼児を食品を入れるカートに乗せる行為は、なぜ非衛生に捉えられないのか? 不思議なことですなあ。

食事用テーブルで歩けない幼児を遊ばせる行為

同じように大衆の慣習的行為に関連することです。大衆食堂や屋台センターでごく普通に見かける行為に、不衛生感を抱かせるものがあります。その行為を非常識と呼ぶかどうかですが、これはそういう例が多すぎて、非常識とは呼びがたいので、不衛生感を抱かせると分類します。その典型的な例を出しましょう。

店やセンターにあるテーブル、つまり客が席について飲食物を載せるテーブル上に、濡れた傘や日傘を平気で置く人をよくみかけます。手提げ袋やカバンをテーブル上に置くまでは許容できても、濡れた傘や日傘をテーブル上に置く行為はどうも許容できませんな。 こういうことをする人は一般に 1人客か2人客ぐらいの場合です、つまり自分の座ったテーブル上に空いてる部分が多い場合です。4人、5人がテーブルに着けば、食器や食品がテーブル面積の大部分を占めるから、必然的に傘を置く場がなくなりますね。

さらにまだ歩けないぐらいの幼児をそういうテーブル上で遊ばせるまたは寝かせておく行為を時々マレー人客の間に見かけます。夫婦で食事などに来て、連れてきた小さな幼児をテーブル上で寝転ばせながらまたは遊ばせながら食べているわけです。こういう行為をしている夫婦は、自分の家と屋台センターや大衆食堂における行動に差をつける必要性に気が付かない、または気にしない人たちですね。その人たちがそういう行為をなんら疑わないところに、根は結構深いものを感じます。なおこの行為は小さな子供がテーブル上に自分で上がってしまうことを許している、つまり親が子供を甘やかしている行為とは違います。

これは、幼児や小さな子供の行為は許されてしかるべきだと捉える、子供たくさん社会の一般通念がその下地にあると感じます。 親の身勝手な行為と捉えるのではなく、親の幼児に示す愛情行為である、家でやってるようなことを外でもそのまま行うことはなんらおかしいことでないという伝統的または慣習的な捉え方が根強い行為といえます。だから根が非常に深いものだと上記で描写したわけです。

ですからこうした行動は、やっている人たちには恐らくごく日常の行為なんでしょう。全く悪びれたそぶりもないし、ごく普通に行っていますからね。 社会慣習の違いといえば、それで終わってしまいますが、社会が発展すればこういう行為に対して、親は内と外を区別する行動をしなければならない、テーブル上に幼児を置くのは非衛生感覚を抱かせる、という捉え方が増していかなければならないはずです。 

マレーシアといえど、仮に濡れた傘をテーブル上に置いたり、テーブル上で赤ん坊を遊ばせておく行為を高級レストランで行えば、当然 「おやめください」 となるはずです。 一方大衆食堂のようなマナー・規範がかなり寛容な場所、衛生基準が緩い場所では、こういう行為はまだまだ社会的に許容されれている現象だと、捉えることができます。 

電車座席に靴履きのまま幼児を立たせる行為

高架電車、モノレール、コミューター電車内で、靴を履いた幼児や小さな子供をその靴履きのまま座席上に立たせている行為も、これまたごく普通に見かけます。朝夕の通勤ラッシュ時にはさすがにそんなことはないでしょうが、日中や週末のあまり混んでない時間帯に電車に乗ると、この幼児の靴履き座席立ちを見かけます。 こちらは、極めて親の身勝手行為に感じます。なぜなら、そういう幼児の靴履き座席立ち行為を自分たちの家でまたは訪れた知人や友人宅で行わせているとは思えないからです。華人界でもマレー人界でも家の軒先で大人も子供も靴を脱ぐ行為がごく一般的です。ですから大多数の家庭では、家の椅子やソファ上で小さな子供といえども靴を履かせたまま遊ばせるようなことはしないはずだからです。

従って、各種電車内でその座席上に靴を履いた幼児や小さな子供をそのまま立たせる行為は、まさに親の身勝手行為であり、衛生観念の低い行動といえます。高架電車の運行会社は、してはいけない行動集をイラストで図示して駅内と車内に掲示しています。 つまりそれだけ車内マナーに気を使っている会社であり、交通機関です。高架電車は発展するマレーシアを具体的に代表する施設・機関といえます。その代表的発展施設で、20世紀中葉のバス車中での行為ともいえる子供の座席靴履き立ちは、社会慣習の捉え方の違いではなく、不衛生で且つ親の身勝手行為に過ぎませんね。

要するに

それではこの行為を例えばラオスの一般バス車中やインドネシアの地方バスで見かけたら、どう捉えるかです。 ラオスの一般バスもインドネシアの地方バスも車輛自体のおせじにもきれいとはいえない状態と乗客の行動を知れば、小さな子供が靴履きで座席に立った程度のことをどうこう言うことにはとてもなりません。最上段で述べました、ある人がその国で普通に暮らしたり、普通に自由旅行する場合は、各国の発展度に相当程度合わせて行動する、思考する、必要があるということです。



マレーシア在住者数の統計を基にして現状を知り、分析する


先日ものすごく久しぶりに日本大使館のホームページを見たら、在留邦人者数調査の結果が載っていました。長年 Intraasia は日系企業を含めた在留日本人社会とは全く関わりなく暮らしていますので、在留日本人社会の動向には極めて疎い人間です。そこでその調査結果に、ほーという思いと共に興味を抱きました。 マレーシア在住者を除いて、日本などから閲覧される当サイトの読者の方にもこの在留邦人者数調査結果は初見の場合が多く、また興味を起こさせることではないでしょうか。ということで、今回のコラムは、マレーシア在住日本人在住者の数を巡る論評です。

マレーシアにおける在留邦人者数の内訳と近年の推移 

統計の出典: 在マレーシア日本大使館ホームページ

マレーシア全土の在留邦人数  (毎年10月1日時点での数)

1998年
1999年
2000年
2001年
2002年
2003年
2004年
2005年
2006年
2007年
2008年
在留邦人総数
11,726
11,545
11,625
11,653
11,237
10,769
10,208
10,347
9,928
10,231
9,330
対前年比増減数
241
-181
80
28
-416
-468
-561
139
-419
303
-901

2008年の減少数は近年では最大であり、2008年から始まった世界不況の要因を考慮しても900人減というその多さにいささか驚きます。さらにこの10年間の微減傾向をこの統計から確認できますね。 なお1998年はこの10年間だけでなく過去最高の邦人者数の年になります。

州別在留邦人数 (毎年10月1日時点での数)
スランゴール州
クアラルンプール
ヌグリスンビラン州
マラッカ州
ジョーホール州
パハン州
ペナン州
ケダー州
-
2006年
6059
66
156
1069
67
1550
143
-
2007年
6264
112
181
970
80
1579
140
-
2008年
5275
78
138
944
88
1655
133
-
ペルリス州
ペラ州
クランタン州
トレンガヌ州
サバ州
サラワク州
ラブアン
合計
2006年
16
209
25
25
323
210
10
9,928人
2007年
20
225
32
28
362
224
14
10,231人
2008年
18
245
33
22
380
212
5
9,330人

注:2008年時点で永住者は990人とのことで、この統計の数字には含まれていません。
注:スランゴール州にはプトゥラジャヤも含まれます。

上表では同一項目に分類されている、首都クアラルンプール及びスランゴール州は常にマレーシア国内で日本人在住者が一番多く集まる地方です。その最多地方で2008年に対前年比 1000人ほども減少したことが、2008年の大幅な減少の最大貢献要因となっていることがわかります。Intraasia の記憶にある限り、2番目に多い地方は常にペナン州であり、次いで3番目がジョーホール州という順番は変わっていませんね。 この3年間を見ると、ペナン州の微増傾向とは対照的に、ジョーホール州の微減傾向に気がつきます。 半島部東海岸州(クランタン、トレンガヌ、パハン)に日本人在住者が少ないのはずっと昔から変わらないことです。 

サバ州、その大多数はコタキナバル在住、では漸増傾向ですね。その主たる貢献者はマレーシアマイセカンドホームプログラムの参加者なんだろうか?

次に都市別に在住者数を見てみましょう。日本大使館ホームページには11の都市名が載っていますが、ここでは在住者100名以上の都市のみを抜き出しました。
主要都市における在留邦人数 (毎年10月1日時点での数)

クアラルンプールペタリンジャヤジョーホールバルマラッカペナンコタキナバル
2006年
4823
441
933
156
1550
260
2007年
4903
490
888
181
1579
293
2008年
4123
400
859
138
1655
306

注:ペナン州も他州と同様に複数都市と郡部から構成されています。しかしどういう理由かは知りませんが、日本大使館ホームページではペナン即ペナン州という分類になっています。

2001年にクアラルンプールの日本人在住者数は5815人でしたので、その年の全国の在住者総数に対する割合は 50%でした。その比率が 2008年には44%に下がりました。
ペナン州の場合を見ると、2001年には全国の在住者総数に占める割合は 12%でした。その後数年間ペナンでは在住者数が減ったのですが、2005年からは反転して毎年少しづつ増加しており、2008年には全体に対する割合で 18%弱に増えました。 この2点が最も目立つ点だと言えるでしょう。

日系企業数と近年の推移 

統計上の定義:日本企業が海外に設立した現地法人あるいは日本人が海外に渡って興した会社
統計の出典: 在マレーシア日本大使館ホームページ

それではマレーシア在住日本人の人口に最も大きな関係がある、日系企業の推移を見てみましょう。
マレーシア全国における日系企業数  (毎年10月1日時点での数)

1998年
1999年
2000年
2001年
2002年
2003年
2004年
2005年
2006年
2007年
2008年
総数
1438
1419
1469
1455
1439
1329
1258
1210
1199
1233
1183

2003年以降の減少傾向が定着したかのような数字ですね。2001年の企業数に比べて、2008年のそれは約 20%減となっています。企業規模内容は不明ですが、数の面ではかなりの減少と捉えてもいいでしょう。 

日系企業の業種別企業数 (主たる業種のみ)

建設・プラント業製造業運輸・倉庫業サービス業商業その他
2006年
80
744
67
71
158
省略
2007年
83
755
59
77
171
省略
2008年
75
711
66
99
136
省略

日系企業を業種別に見ると、昔から圧倒的に製造業が多数派を占めてきました。その製造業にとって中国とベトナムが拠点になりつつあるという、世界経済の大きな流れに沿ったものだと思われる傾向を示していますね。ただ企業規模が不明なので、数だけではこれ以上の分析は無理です。

マレーシアマイセカンドホームプログラム参加者が日本人在住者総数に占める割合を考察

近年話題になっている、興味を呼んでいるのは、定年後または引退後ある特定の外国に長期滞在するという暮らし方ですね。このためにマレーシアが国として提供しているプログラムは”マレーシアマイセカンドホーム”と呼ばれています。当コラムでは今年の第 543回でこのプログラムを分析しています。
ではそのマレーシアマイセカンドホームプログラムの参加者は、一体日本人在住者のどれぐらいの割合を占めているのでしょうか? 次はその点に目を向けてみましょう。

次表の統計の出典:マレーシアマイセカンドホーム公式サイト
マレーシアマイセカンドホームと改称された以後の国民別承認人数

2002年2003年2004年2005年2006年2007年2008年 7年間の
合計人数
2009年
4月までの計
中国
241
521
468
502
242
90
120
2,184
24
バングラデシュ
0
32
204
852
341
149
68
1,643
20
英国
108
159
210
199
20
240
208
1,333
54
日本
49
99
42
87
157
198
210
842
57
シンガポール
96
143
91
62
94
58
48
592
17
台湾
38
95
140
186
63
31
16
569
インド
45
123
118
80
51
46
32
495
14
その他国々
-
-
-
-
-
-
-
-
-
合計人数
818
1,645
1,917
2,615
1,728
1,503
1,512
11,738
510

注:シルバーヘアープログラム時代の参加者はごく少ないので、ここでは無視して考えます。



2006年
2007年
2008年
在留邦人総数
9,928
10,231
9,330
プログラム参加の承認を受けた人の累計
434
632
842
その割合(あくまで計算上の数字)
4.4%
6.2%
9.0%

上記の統計数字におけるマレーシアマイセカンドホームプログラムの承認を受けた人というのは、プログラム参加の申請をして当局から承認を受けた申請者だけを指します、つまり配偶者を連れてくる場合でも申請者は 1人だけです。日本人の場合は承認を受けた人の 3分の2ぐらいは配偶者といっしょに居住されていると推測されますから、 434人、632人、 842人というそれぞれの人数に 60%から70% 割り増して考える必要があるでしょう。
一方、在留邦人総数は世帯数ではなく実人数です。 従って上表の”その割合”は各数字に 60%から70% 割り増して捉える必要があるはずです。

ところが、日本大使館の上記掲載の調査では次のような注が書かれています:

2008年10月1日現在(在留届ベース)の調査結果ではマレーシア全地域のマレーシア・マイ・セカンド・ホーム・プログラムの資格で滞在している邦人数は603人(前年比 10.8%増)となっています。

要するにマレーシアマイセカンドホームプログラム承認を受けた人の中には、通年マレーシアに住んでいるわけではない方、またはマレーシアにもう住んでいない方がかなりいらっしゃることがわかります。2008年の例で言えば、プログラム参加の承認をうけた累計人数の約半分 420人 プラス その配偶者 = 約600人
2008年の在留邦人数 9330人から見ると、マレーシアマイセカンドホームの参加者総数 603人は 6% 強にすぎず、まだまだそれなりの割合を占めるまでに至っていないと見なしてもいいでしょう。

では今後はどうなるかです。推測してみましょう。 
いろんな経済見通しと経済環境及びマレーシアの社会発展状況を考えれば、マレーシアにおける日系企業がこの先大きく増える可能性はないと断言してもいいでしょう。もっとも一時的に漸増することはありえるでしょうが。 従って企業活動を基にした日本人在住者の数が大きく増えることはありえません、むしろ停滞か微減するのではないでしょうか。 

一方マレーシアマイセカンドホームプログラム参加の被承認者の累計人数は、恐らく毎年 200人弱から多くて300人ほど増えていくものと推測されます。従ってこのプログラム参加による在住者数が年々微増していくことになります。 尚累計人数の全てがマレーシアに通年滞在することにはならないのは、大使館ホームページの注から明らかですね。ということで、2008年時点では在留邦人数の 6%強に過ぎなかった割合もゆっくりと上昇していくであろうと、推測されます。数年以内には、マレーシアマイセカンドホームプログラム参加者が全在住者の 1割ぐらいを占めることになるでしょう。

統計数字の精度を考える

日本大使館の在留邦人数はあくまでも、大使館に届けられた在留届を基にしています(そう書かれています)。あらゆる統計には誤差があるように、「マレーシアにおける在留邦人者数の内訳と近年の推移」統計と実際のマレーシアにおける在住日本人総数の間には当然誤差が出てきます。 つまり在住届けの提出義務はあっても罰則はありませんから、提出しない人がいることは想像できます(Intraasia は90年代初期に在留届を出しました)。さらにマレーシアから国外転出しても転出届を出さない人も出てくることでしょう。しかしこの誤差は無視してもいい程度の低い数字だと見なしてもいいのではないでしょうか。その理由をあげてみます:

尚在住届けを出した後、マレーシア国内での転居届けを出さない人は結構いるのではないかと推測されます。とりわけ大使館や領事館から遠方に住んでいる方にはかなりの手間がかかりますから。 しかしその場合でも、マレーシアにおける在留邦人数の数自体には影響はありませんね。

ということで、統計数字を基にして考察しても実情と大きな違いはないので、考察結果にほとんど影響を与えないと Intraasia は考えます。



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