「今週のマレーシア」 2008年9月から12月のトピックス


・ シンガポール華語映画をほめ、同時にマレーシア華語映画の灯がともることを願う
・ メコン川を縁にした、ラオス短期旅 −前編−、  ・その中編   ・その後編
・ マレーシア経済を国の生産と貿易面から及び個人の所得面から眺めてみる  ・ハラル(Halal)飲食品の定義とそのお話
・ マレー鉄道でイポーまでの北部路線が複線電化されて新列車運行が始まった  ・Intraasia の雑文集 −2008年後半分



シンガポール華語映画をほめ、同時にマレーシア華語映画の灯がともることを願う


9月上旬の時点でシンガポール映画 ”銭不旬多用2”が各地のシネプレックスで上映されています。 私は9月初め早速シネプレックスに足を運んでこれを観ました。かなり入っていた観客が場面場面で示す反応から、映画の好評さを感じました。この映画の監督で主演の1人でもある 梁智強、英名Jack Neo、の製作した映画は、マレーシアで公開されたものに関する限り私は全作観てきたはずです。ただマレーシアで公開されない作品に関しては全く知りません、なぜなら私は日本に住んでいた時からを含めてどんな映画も全て映画館・シネプレックスで観るあり方だからです。

シンガポールの有名監督の最新作 ”銭不旬多用 2”

さて”銭不旬多用 2” の公開直前に次のような記事を見つけました。注:”旬多”は中国漢字の1字に当たります。映画タイトルは「お金は(使うのに)十分ではない」 という意味です。

シンガポール映画 ”銭不旬多用 2” が8月27日からマレーシアで公開されます。 ”銭不旬多用2” の製作・監督は(有名なシンガポール芸能人でもある)、梁智強 であり、彼はシンガポールで最も多作で且つ利益を出す映画製作者です。この映画の前作である1998年公開の”銭不旬多用” は、梁智強製作・脚本で制作費 S$80万ながらシンガポールで最大級のヒットをして、興行収入 S$580万をあげました、同時にこの作品がこれまで彼の最大ヒット作となっています。当時シンガポールでこの映画の興行収入を上回ったのは、ハリウッド映画 タイタニックだけでした。 そこで続作が長い間期待されていました。 

8月後半、梁智強は主演俳優陣と一緒にマレーシアを訪れて、ペタリンジャヤのシネプレックスで記者会見兼マレーシア公開の前宣伝を行いました。前作の大ヒット以後も梁智強はほとんど毎年映画を製作・監督しており、今年中国正月直後時期にマレーシアでも公開された ”老師嫁老大” が最近の作品です。この映画は、”銭不旬多用”とその新作でも主演の1人を務める 李国煌とシンガポール人気女優のFann Wong(范文芳) の主演で、マレーシアではシンガポールでよりも好成績の興行収入 RM 1000万をあげました。

”銭不旬多用2”は、マレーシア人老女優(黎明)が演じる老女と彼女の3人の息子がお金を軸にして”銭不旬多用2”回る映画です。「私の映画ファンの心に響く要素を使ってその映画ファンとをつなぐ映画を作りたい。」と監督は語る。”銭不旬多用”映画シリーズはお金問題に加えてアジア的価値である親孝行も主題にしています。


社会風刺を十分に感じさせる、商業娯楽映画の佳作

結論から書きますと、”銭不旬多用 2”は私の期待に違わず優れた作品ですので、Intraasia のお勧め映画に加えておきます。優れたという意味は、商業映画としてまず大切な娯楽性に富んでいることから 2時間の上映時間が飽きません。芸術性は全くありませんが、この種の映画に芸術性を期待する人はごく少数派でしょう。社会批評をたくみに織り交ぜているところが、梁智強のいつもの強みであり、今作品も同様です。シンガポール政府やシンガポールの仕組みを皮肉った表現を嫌味なく且つ適度に織り込めるところが彼の上手さです。映画の冒頭にシンガポールの道路のERP(電子道路課金システム)を皮肉るコンピュータグラフィックを交えた映像が数分あります。これはマレーシア観衆にはあまりぴんと来ない映像なのですが、シンガポール観衆には胸がすく?思いなのかもしれません。

 そして彼の持ち味である、観客が映画に人情味を感じさせる手法と構成はさすがです。 シンガポールの医療事情、老人を抱える家庭における老人の扱い方といった、現代シンガポール事情を覗き見させるようなシーンもあります。こういった点が重なって、単なるどたばた喜劇ではなく、娯楽性に富んだ喜劇調のシンガポール社会風刺映画になっています。なお”銭不旬多用 2”は10年前の前作の続きではなく、同一の主題の下で製作された新作です。

シンガポール華語と福建語の会話が活き活きさを生み出している

この作品に関して私が目にした限りのマレーシア映画批評が触れていない点を、ここで強調しておきます。それは梁智強のこれまでと同様にこの作品でも貫かれている、台詞で複数言語がごく自然に使われていることです。”銭不旬多用 2”は分類すれば華語映画ですが、実際はシンガポール華語であり、さらに福建語会話をふんだんに取り入れています。シンガポール華人大衆の日常語である福建語を自然に且つ多くの場面で取り入れることは梁智強の作品の特徴で、それが彼の作品を活き活きとして優れたものにしている主たる理由の一つといえます。規範語といえる華語だけで生活しない華人も少なくない事情を如実に示していますね。これを解説するには、2004年に書きましたコラム第391回 『シンガポール映画の刺激を活かしてマレーシア華語映画の製作を願う』 の中で用いた表現を次に再録しておきます。

映画をより身近に感じさせ且つ生き生きとした内容に見せているのは、この台詞として福建語が主として使われている演出にもあります。英語は別格として、華語一辺倒社会と思われがちなシンガポールですが、現実には華語を補完する形で、日常生活では福建語、潮州語、さらに少数派として広東語や客家語もが使われているようです。華語は公の場、正式な場面、教育に使用する、高級な言語であり、それの対照として、”低級な言語”が大衆社会の”俗なレベル”で使われます。”俗なレベル”での主言語が福建語であり、その他いずれも漢語諸語も属する言語です。シンガポール華人界では福建人が多数派なので、福建語がその”俗なレベル”では主流言語になるのは当然です。

言語と方言の決め方に関する重要な注:
過去のコラムではこのことについて1編として書きましたので、ここでは必要知識としてごく手短に説明しておきます。
福建語、潮州語、広東語、客家語などの漢語諸語を”方言”と決め付けるマレーシアとシンガポールの教育界と支配層は、その”方言”という用語自体が彼らの権威主義を示しています。世界の言語界でこういった漢語諸語を”方言”と分類するのは中国の言語学界ぐらいでしょう、なぜか? それは華語普及のために、しゃにむに他の漢語諸語を”方言”という貶める表現によって、華語一辺倒式を作り上げたい支配層の思惑からです。方言は本来人々の母語として、尊重し末代に引き継ぐべき文化ですよね。しかし華語崇拝主義者にとって”方言”は民族の統一を阻害するものだとの意識が強い。

シンガポールとマレーシアの華人界の支配層はこの思考を取り入れて、国内では福建語、潮州語、広東語、客家語などを”方言”と分類して、華人大衆にそれを信じ込ませてきました。 政治のために学問をねじ曲げる典型ですね。 華語と広東語の違いは英語とオランダ語の関係以上はあります。マレーシア語とインドネシア語における両言語関係の方が漢語諸語間における関係よりよっぽど近似しています。しかしマレーシア語はそれよりはるかに話者の多いインドネシア語の方言などとは、誰も主張しません。一つの国の中に複数の同類姉妹言語が話されていても何ら問題はないのですが、中国の支配層やマレーシアの華語教育界と支配華人層はこのありかたを好ましくないと捉え、華語以外の漢語諸言語は”方言”だと決め付けて、それを公式化させてしまったわけです。よってほとんどの華人は福建語、潮州語、広東語、客家語などを”方言”だと自認しているという、自己へつらい現象が定着しています。


半年ほど前に公開された梁智強の前作はクアラルンプールが主舞台

この複数言語使用という手法が梁智強の作品をいずれもたいへん生き生きとした状況を感じさせている理由の一つでもあります。今年中国正月直後にマレーシア公開された彼の作品である ”老師嫁老大”では、主役の2人のシンガポール俳優を支える役割でマレーシア華人界の人気ラジオ男性DJ 2人が助演を演じていました。この作品はクアラルンプール圏で主に撮影されたという映画であり、そこで台詞中に広東語がかなり使われているという首都圏のマレーシア華人界の一面も現していました。そのマレーシア風味もあってか、マレーシアでは相当ヒットし、シンガポールより興行成績が良かったようです、マレーシア興行成績が RM 1000万とは驚きの額ですよ。通常のマレー映画は興行成績 RM 200万程度ですから。私がシネマで観たときも、平日の午後に関わらず9割がたの座席が埋まっているという光景に驚きました。

注:”老師嫁老大”とは ”先生が親分に嫁ぐ” という意味です、おかしことに英語タイトル名はこれとは全然関係ないタイトルになっています。この作品はVCD/DVD の形で販売されているかもしれませんので、興味ある方はミュージックショップなどでお探しください。


マレーシア華人界が商業華語映画を製作できる土壌はあるはずだ

こう書いてくると、コラム第391回の中で私が主張し嘆いたことをまた繰り返さざるをえなくなります。なぜマレーシア華人界にはこういう娯楽性に富み且つ社会批評・風刺を織り交ぜた商業華語映画が出現しないのかということです。 諸般の事情で製作できないのか、それとも製作する土壌そのものがないのか? 

覚えている限り2003,4年以後に数本のマレーシア製華語映画が製作され公開されました。しかしどれも印象に薄いできでした。この2年ほどシネプレックスで上映されるような、大衆観客向けの商業華語映画の公開が全くありません(インディ華語映画は製作されています)。マレーシア華人界では国内テレビ用に常時いくつもの華語または広東語テレビ番組を昔から製作しています。従ってマレーシア華語映画の歴史はほとんどないとはいえ、映画製作の土壌がないとは言えません(2004年にコラムを書いた時点よりも土壌がより育ってきたと思います)。マレーシア華人の人口はシンガポール華人の大体倍近い数である、600万人弱です。いうまでもなく、その内の全部が華語話者ではありませんが、英語教育を受けもっぱら英語話者である華人でも漢語諸語のどれかは多かれ少なかれ話せるのが普通です。さらにそういう人たちであっても、華人界慣習に従い華人的視点は当然備えています。よって華語映画の観衆期待層として、控えめに見積もっても数百万人の潜在華人観客数があるわけです。

インディ映画も良いが、大衆華人映画の出現と成長を願う

若い華人の製作する短編のインディ映画(独立系映画)は以前から国内外のこの種の映画を対象にした映画祭やコンテストに出品されていることが、時々ニュースになります。たまにインディ映画は非商業施設で公開されています。しかし短編インディ映画は、マスという大衆向けでないゆえに、インディ映画ファンとかそのテーマに興味を持った少数の人たちの間だけで観られて終わってしまう、という運命を持っています。もちろんそれが悪いというのではなく、インディ映画とはそういうものであり、そこに存在価値があるということです。

インディ映画とは違った対象である、大衆向けの華語映画(他の漢語諸語を台詞に交えることがあることを前提に)はテーマをオブラードに包み込む必要があり、何よりも娯楽性が必要です。そうでない限り商業的に成功しません。成功しなくてもよいという発想は、その後に製作されるかもしれない華語映画の将来にマイナスに作用します。つまり華語映画製作に投資する会社、個人が出て来なくなるということです。従って、人を惹き付ける脚本と手腕のある監督が必須であり、そのためには華人テレビや音楽界の人材が活用できるはずです。俳優人はテレビなどで活躍する華人芸能人がたくさんいますから、それほど心配する必要はないでしょう。 要は観客を惹き付ける作品を製作するという強い意欲と資金だと思います。 失敗は好ましくありませんが、最初から大成功作になることは考えられない以上、徐々にしかし年月を極端に空けずに製作すべきでしょう、最低限年に1本は製作して欲しいなあと思います。

梁智強の作品をシネプレックスで見るたびに私は思います、「シンガポール華人界とは違う、マレーシア華人界を映し出す、風刺する、それでいて多くの観客が楽しめる、そんなマレーシア華語映画の製作がいつになったらできるのだろうか?」



メコン川を縁にした、ラオス短期旅 −前編−


メコン川に魅せられて

東南アジアの大河といえばまずメコン川といっても間違いではないでしょう。全長4000Kmを超えるメコン川はチベット高原に水源を発し中国の雲南の地を通って、ラオス・ミャンマー国境線となり、次いでラオスとタイの国境としてずっと南下し、その後ラオス国内を短距離流れた後、カンボジア国内を南北に通り抜け、そしてベトナム南部に入り、最後は太平洋へと流れ込んでいます。日本語ではメコン川と呼びますが、タイ語とラオ語では「メーナームコーン」と言います(ただし声調は多少違う)。メーナームとは川の意味なので、コーン川ということです。

メコン川については、この「今週のマレーシア」の東南アジア旅に関するコラムの中で数回触れたことがあります(例えば2007年掲載のコラム第514回)。その一つの理由は、メコン川の川岸に立ってとうとうと流れるこの大河を見ているとある種の旅のロマンを感じるので、私はメコン川岸へ行くのが好きだからです。メコン川は、水源地域の水質のことは知りませんが、決して清流ではありません、チョコレート色の透明度ゼロの水です。よって透き通った海水と白い砂浜の離島というような南海のリゾート気分とは全く縁がありません。メコン川は近辺に住む人たちの日常生活の場であり、川で漁を通じた労働の場であり、手軽な交通の便を提供している川だといえます。だからこそその地その地に暮らす人々の日常に興味を感じる私はこのメコン川に惹かれます。10数年前ベトナム南部でメコンデルタ地帯を訪れた際、そこで人々がメコン川の支流に文字通り依存して暮らしている姿を見ました。メコン川に流れ込むカンボジアのトンレザップ湖では猟師が漁をしているのを見かけました。タイとラオスの国境であるメコン川ではタイからラオスに向けて小さなボートであらゆる物を運んでいる光景とラオス人が行き来している光景を90年代初期から見てきました。

私はイサーン(東北タイ)へ行く度に、メコン川岸の町を訪れメコン川を眺めるます。そして数百メートルぐらい離れただけの対岸のラオス側に渡りたいなと思っていました。イサーンの中ではごくたまにしか訪れない、東北タイからラオスへ最も一般的な入り口の町であるノンカイでは、メコン川に架かるタイ・ラオス友好橋の手前まで行きました。予算さえ許せばラオス入国はごく簡単になり可能なんですが、ビザ取得代 50米ドル前後という高額さにいつもあきらめていました。なおタイで取得しようとあらかじめクアラルンプールで取得しようと、入国ビザ代にそれほど違いはありませんでした。

注1:貧乏旅行者の私には50米ドルはタイでの3日から4日分の予算に当たります。つまり1日の宿泊代、食費、交通費用などすべてを含めた予算は500バーツぐらい、多くても600バーツにしていますから、その時点での為替率によってかなり違うため、この予算の3倍から4倍弱は大体50米ドルぐらいになります。よって単なるビザ取得代として50ドルは私にとっていかにも高かったのです。

注2:タイ・ラオス友好橋はオーストラリアが建設したタイとラオスとを結ぶ最初の国境橋であり、1994年にオープンしたそうです。このコラム後編で書きますように、私のラオス初訪問はこの国境橋の計画さえなかった1990年です、これは世界的に見ても自由旅行者としてはかなり早い時期になります。


ラオスという国の概略

数ヶ月前にたまたま、2008年からラオス入国する日本人の観光目的訪問の場合、15日間まではビザ免除となったというニュースを読んだことから、俄然メコン川を渡ってラオスへ行きたくなりました。幸いなことに今年AirAsia がクアラルンプール−ヴィエンチャン路線を開通させました。そこで8月に AirAsia のヴィエンチャン発クアラルンプール行き便の航空券をまず購入しておきました。こうして今回(9月末から10月初めにかけて)タイ経由でラオスに入国して小旅をしてきました。

注3:早期に購入したとはいえ、運賃 US$27、 燃料追加代 US$25, 空港税その他 US$19、合計 US$71 となります。ほんと燃料追加代はしゃくですな。

ラオスという国をごく簡単に眺めてみましょう。 まずこの 東南アジアの地図 をクリックしてその位置を確かめてください(別ページで開きます)。
ラオスは西側で長い国境でタイと接し、東側では長い国境でベトナムと接しています、狭い北側はミャンマーと中国に接し、狭い南側はカンボジアと接しています。つまりカンボジアを除いてどれも東南アジアの大国であり、且つ超大国の中国とも接しているわけです。面積 23万平方キロと中程度の国土を持つラオスですが、地政学的いえば複数の大国に挟まれた人口500万人を多少超える程度の小国なのです。とりわけタイとは言語面の近似性から昔からより縁が深く、人的にもタイへの出稼ぎとタイ物質の流れ込みはありとあらゆる段階に渡っているようです。さらに今回意外に強く感じたのはベトナムの存在感です。なお人的面は全く感じませんでしたが、ご多分にもれず物質的には中国製品が流れ込んできていました。

これまで長年東南アジアを歩いてきた私には、ベトナムとカンボジアとラオスの3カ国及びタイが構成するタイ・インドシナ世界はマレー・インドネシア世界とはかなり趣が違って感じられます。恐らくその最大の要因は主として仏教を根底に置いた社会とイスラム教を核にした社会という、基層宗教世界の違いに基づくのではないでしょうか?言語面では、マレー・インドネシア世界では広義のマレー語が共通語になっています。一方タイ・インドシナ世界には族際語的言語はありません、ただしタイ語とラオ語は姉妹言語という関係です。尚ベトナムとカンボジアとラオスの3カ国は元フランス植民地という共通歴史を持っていますので、行政や学制の仕組みとか植民地建築にその共通点を見出すことはできます。タイ・インドシナ世界にいわば共有されているとも言えるのが、上記のメコン川です。
それではメコン川を縁にした、今回のラオス駆け足旅を綴っていきましょう。

注4:族際語とはいくつかの民族の共通語的役割を果たす言語のことです。タイ語とラオ語の関係に関しては下段で手短に説明します。


イサーンの県都はメコン川岸の町

クアラルンプールを出発したその日の夜、バンコクからタイ国鉄東北線の夜行急行の寝台でウボンラチャターニーに翌朝到着しました。この路線はこれまで何回も利用しており、ウボンラチャターニーは私にはお馴染みの県都です。その足ですぐバスターミナルに向かい、冷房なし鈍行バスで3時間半かかってムクダハーンに到着し、そこでホテルを取りました。

注5:ウボンラチャターニーのバスターミナルからは以前からラオス南部の町パクセ行きの国際バス便が運行されています。

ムクダハーンはメコン川岸にあるこじんまりとした県都です。ムクダハーン市内である川岸の一画にはその名もインドシナ市場という物品販売街があります。川岸斜面に建築された細長い建物内部にはたくさんの屋台テナントが入居しています。この建物と道路をはさんだ地上には通常の店舗式の店が何軒も並んでいます。このインドシナ市場はタイ政府またはタイの地方自治体の肝いりで開発されたもので、4、5年ぐらい前に完成したはずです。私の記憶をたどれば、90年代にも物売り店舗街はあったけど、インドシア市場などとは名売っていませんでしたね。

なぜこの地にインドシナ市場といえば、数百メートル離れた対岸のラオスの町サワンナケート(できるだけラオ語発音に似せてカタカナ表記します)の地理的位置のせいでしょう。ベトナムとの国境まで直線的距離は150Kmくらいでしょう。ただし、なんだ2時間の距離か、とはなりませんよ、道路事情がよくないからです。南北にほそ長い国ラオスは、一番狭くなっている地方ではその幅がわずか100Km程度しかありません、つまり西側のタイとの国境から東側のベトナムとの国境までの距離はその程度しかないということです。

メコン川を挟んだタイとラオスの国境検問所は現在でも4箇所しかありませんが、タイ側ムクダハーンとラオス側サワンナケート間は最も古くからある1つです。90年代前半かな、初めてその地を訪れて以来、何回かメコン川岸に立ち対岸とを結ぶボートの往来を眺めたものです。小さなボートにあらゆる荷物を一杯積んでサワンナケート側に運ばれていました。物の流れ面からいえばほとんどがタイ側からの輸出となる国境交易です。当時タイ人は国境通行証でサワンナケーとを訪れていましたね。

メコン川に日本の援助資金でできた第2の国境橋

しかしこの状況に数年前に多少の変化が生まれました。タイ側ムクダハーンとラオス側サワンナケート間にメコン川に架かる2番目の国境橋として第2友好橋が日本のODA資金で建設され、2007年1月にオープンしたからです。その後いつ始まったのか知りませんが去年からこの橋を通行する国際バスが運行されており、私もこの国際バスを利用して翌朝ラオスに入国しました。料金は日曜運賃で50バーツですから、全然高くありません。国際橋はムクダハーンの中心部から数キロ離れた地点に架かっており、且つバスの発着するバスターミナルまで行く必要があります。そこで前日夕方、営業時間の終わった時間に国境検問所兼ボート乗り場で、ボート利用をしたいと尋ねたら(もちろんタイ語で)、外国人は乗れない、橋を利用しなさいという返事が帰ってきました。いつからこの規則に変わったのか、それともその検問所係官のめんどくさそうな態度から適当にあしらった返事のせいか、確認はできませんでした。以前はこのボートでも国境を越えることはできたのですけどね。

写真でみていた第2友好橋は実際に渡ってみると確かに立派ですね。国境検問所建物はきれいでわかりやすい配置となっています。タイ側検問所を出るとすぐバスは右側通行になります。ラオスは元フランス植民地なので、車は右側通行だからです。対岸のラオス側検問所で入国検査を受けました。それ自体はごく簡単であり、入国カードに記入して提出するだけです。ただ”通行料”として「シーシップ(40)バーツ」と即座に言われましたので、ちゅうちょせずに手渡しました。なお 40という中途半端な数字は、その後為替率を知ると、1万キップになることがわかりました。言うまでもなく賄賂でしょうが、そんな場所で言い合いしたって勝ち目はありませんし、損するのは自分ですからね。その代わりにタイ語でちょっとおしゃべりを係官と交わしました。まったく悪気なく要求し、堂々と受け取るこの賄賂要求でラオス官僚機構のあり方がひしひしと伝わってくるかのようです。なおこの国境検問所係官も外国人は対岸へ渡るボートの利用はできないと言ってましたから、多分以前とは規則が変わったのかもしれません。

日曜日なのだからか、日曜日でもこうなのか、初めて通行するのでわかりませんが、橋の通行量はたいへん少ないですね。バスの乗客以外にはごくたまに乗用車の国境通行者があるだけです。ラオス側ではひまそうに出入国管理の係官が何人か集まって世間話らしきをしていました。検問所脇の銀行両替窓口は日曜日とのことで閉まっていました。ビジネスに熱意のない証拠ですな。

町郊外にあるバス発着所ではベトナム行きのバスも複数便ある

ラオス検問所を過ぎてからバスは10分ほど走ってからサワンナケートのバス発着所に到着しました。そこは国内路線バスと国際バスの発着所になっています。このバス発着所は、簡単な町地図で見ていたとおり、サワンナケートの郊外にあるので、市内中心部へ行くにはトクトクの利用となります。そこであらかじめ決めていたように、中心部に寄らずにそのままバスでターケクの町へ行くことにしました。バス発着所でちょっと驚いたことに、ベトナムのハノイ行きのバンが駐車していたことです。ベトナムのQuan Binh 行きのバス路線があることは、ムクダハーンのバスターミナルのお知らせ掲示板に去年から貼ってありましたので知っていましたが、ハノイ行きまであるとは意外でした。他にHue, Danang へ行くバスもあることがわかりました。このバスの運行はベトナムのバス会社のようであり、ベトナム路線のバスの案内にはベトナム語の表示も出ています。つまりベトナム人の利用がかなりあるということなんでしょう。少しづつベトナムとの近接感が沸いてきました。

11時半発のビエンチャン行きバスがありましたので、そのバスで途中のターケクまでの切符を買いました。話に聞いていた通り、すべてバーツ払いが可能ですので、運賃  3万キップ分を120バーツで支払いました。というかラオス通貨キップに両替する場所がないので、バーツ支払いしか手がありません。後で知った公定レートではその時点の為替は1バーツ=250強キップ、 1米ドル=8500強キップとなっています。ビエンチャンまでの運賃は85,000キップと表示されています。

バスは単に人を運ぶだけではない

定刻を少し遅れてバスターミナルを発車したバスは韓国製のかなり使い込まれた中古車輛です。ただし運転席は左ハンドルに変えてあります。冷房などもちろんありません、座席と窓ガラスの開け閉めは一応機能するので、まあいいでしょう。バスの屋根にいろんな荷物を積んでいます、その中にはバイクも含まれています。バス車輛は人を運ぶだけでなく物質輸送の役割も担っているという、第3世界の現実がそこにあります。マレーシアとタイではとっくの昔になくなったこの輸送スタイルはラオスではごく普通に存在しているわけです。ただし今回の旅を通じて一度たりとも屋根に人を乗せているバス車輛を見かけませんでしたので、ラオスではこの方式はないと思います。

昔のラオスでは乗客が生きた鶏や農産物を山と車内に持ち込んでいましたが(バスが人間と物質と動物を区別なくいっしょに運んでいた時代でした)、そういうスタイルはもう廃れたのでしょう。いやラオス国内の僻地へ行けばまだ体験できるかもしれませんから、今回の旅だけで結論つけることはできません。

片側1車線(両方向2車線)の道路はターケクまでずっと舗装されていました(その後ビエンチャンまでもすべて舗装道路でした)。ただしところどころ修理手入れ不充分で痛んでいる箇所はありますよ。この道路はビエンチャンから大体メコン川に沿って国土をずっと南下する国道13号線ですので、国の基幹道路の一つと捉えてもいいはずです。片側1車線でも自動車の通行量自体が少ないので、混雑するなんて自体には一度も出会いませんでした。日曜だからという点を割り引いてもまずトラック類がほとんど走っていません、自家用車の台数もごく少なく、対向してくるバス車輛もめったにありません。マレーシアやタイの田舎道路でもこれほど空いているのは珍しいですから、ラオス自体の自動車化時代はまだまだなと感じました(しかしビエンチャンではそれなりに車が走行していたので首都圏以外ではというべきかもしれません)。

手元にあるタイ全土の精密地図にラオスのごく一部が載っており、それにはこの13号線のルートだけが描かれています。よってメコン川に沿って北上することは知っていましたので、メコン川を眺められる箇所も出てくるのではと期待したのですが、道路が川岸からかなり離れているので川を眺めることは全くできませんでした。これはちょっと残念な点でした。

タイの鈍行中長距離バスに似ている

サワンナケートのバス発着場を半分位の座席充足率で発車しました、やはり最初の1時間くらいは客拾いのため止まってはのろのろ走りまた止まって客を乗せという超緩慢走行です。おまけに30分ほど走ると小さな町のバス発着場で延々と30分ぐらいの客待ちしました。タイ国内では中長距離の鈍行バス(全てエアコンなし車輛です)はどれも同じように客拾い走行がごく一般的なので、私はこの走行方式には十分慣れ知っていますが、いつでもなんかじれったさを感じます。タイの中長距離鈍行バスのスタイルとよく似ている点はまだあり、運転手以外に車掌兼荷物運び役が2人乗っています。若い荷物運び役は結構忙しいのです、それはほとんどの乗客たくさん荷物を持って乗り込んでくるからであり、時にはバス車輛外側の収納庫にも収まらない大きさなので、屋根の上にも載せます。はしごをかけて屋根に上り荷を引き上げるのです。

さらにタイ国内の中長距離バス車輛と同じように、走行中はずっとタイカラオケビデオVCDを映し続けました。ターケクからヴィエンチャン行きのバスでは加えてハリウッド映画VCDも1本映しましたので、まさにタイスタイルです。タイカラオケVCDはいうまでもなくハリウッド映画VCDも全てタイ語版です。つまりタイ国内でこの種のバスに乗っているのと全く同じ雰囲気です。

タイ語とラオ語の近似性さがもたらす大衆文化の”侵略”

なぜかを説明しましょう。ラオスでは昔から娯楽分野面でも圧倒的にタイ大衆文化が入ってきており(侵略しており)、国境線であるメコン川に近い地域ならそのままでタイテレビ番組が見られますし、現在は衛星放送があるので、国境線近郊でなくてもタイテレビ番組を視聴できる家庭はより増えたわけです。テレビより手軽で安価なVCD文化は、いうまでもなく海賊版コピーVCD天国ですから、多分ラオス国内至る所で広がっていることでしょう。

タイ語とラオ語は文字も違うし声調も違うので決して同一言語ではありませんが、近似した姉妹語関係にあるので、ラオス人にとっては何ら学習しなくても理解できる程度にあります。大衆の生活上細かな意味や使用単語の違い、声調の違いは重要ではありません、要するにそれなりに理解できればいいからです。よってタイ大衆文化はそのままもろにラオス大衆の生活に入ってきています。少なくとも首都圏を含めた国境に近い地方やある程度の所得層であれば、つまりVCD機もテレビも買える大衆階級であれば、タイ大衆文化はずっと以前からおなじみだと捉えても間違いではないでしょう(もちろんこういう現状を好ましく思わない人たちだっていることは想像に難くありませんが)。

タイ語歌謡ビデオがラオ語のそれを圧倒している状況は、街のVCD売り場を覗いてもよくわかります。極めてポップで若者カルチャー一辺倒な現在タイ歌謡は、なんとなくやぼったさを感じさせるラオ語歌謡を凌駕しているかのようです。ただしこのバスではなく、その後ターケクからビエンチャン行きのバスでは、車内で映していたカラオケVCDはタイイサーン歌謡曲でした。私はこのイサーン歌謡曲は昔から好きであり、現代タイポップ歌謡にはそのうるさいメロディーにいささか辟易しますな。

バス発着場の遠さとトクトクの料金の高さ

しばらくて雨が降ってきました。そして席はほぼ満席になりました。バスは午後3時少し前にターケクのバス発着場に到着しました。サワンナケートのバス発着場を出て150kmぐらいの距離を約3時間かかったわけです。さてと発着場はターケクの町中心地からかなり離れているようなので、客待ちしているトクトクに乗らざるを得ません。10数台は客待ちしてますがそれを満たすほど降車客はいません。寄ってきたトクトクの運転手数人が言うに料金は、「ローイバーツ(100バーツ)」です。これにはびっくりしました。3時間乗ってきたバス運賃が 120バーツですよ。20数年間タイ全土で百箇所近いであろうバス発着場でこの種の経験を重ねてきた私にとって、バス発着場から町中心部まで100バーツというのは法外な料金としか表現のしようがありません。タイのバス発着場なら大抵ソーンテーオがあるので、それに乗れば距離があっても20バーツぐらいで済みますし、トクトクでも50バーツぐらいが上限ですからね。

乗ってきたバスの運転手に尋ねると、町中心部はかなり遠いようであり、バスは街道を走るので全く町内に入らないとのこと。さらにトクトクしか交通手段はなさそうです。ラオス初日から予想外の100バーツ出費は痛いので、私は30分ほど決心がつきませんでした。小雨もときどき降っているし、どうしようかな? 仕方ないということで、トクトクが並んでいる場へ再度行って、最初に声をかけた若い兄ちゃんのトクトクに乗ることを決めました。値切ると、「ペットシップバーツ(80バーツ)」ということでした。それでも高いので泣きついて70バーツにまけてもらい、とにかくバス発着場を出ました。トクトクの座席で、確かに遠い、これは歩ける距離ではない、と実感しました。

その2日後ターケク町から再度バスターミナルへトクトクで向かう際でも、ゲストハウスであらかじめ聞いておいた料金である 2万キップつまり80バーツでしたので、バス発着場でぼられたわけではないことははっきりしました。つまりラオスのこの種の乗り物は物価に比してかなり高いということがわかりました。タイの町なら大小に関わらず必ずあるソーンテーオがターケク程度の町にはないことが、庶民の交通費を高いものにしていますね。

注6:ソーンテーオとは軽乗用トラックの荷台にほろをかぶせ、ベンチ式の座席を2列か3列こしらえた大衆乗り物です。観光地は別にして、タイ語だけで行き先は書かれているのが普通です。1回いくらの固定料金制であり交渉の余地なし、走行ルートのどこでも乗り降りできる極めて便利な乗りものです。タイ語ができればたいへん安価で便利な乗り物となります。




メコン川を縁にした、ラオス短期旅 −中編−


地方町の宿事情

ターケクは想像したより小さな町で、町に入ったのに中心地というべき様相が感じられない、ホテルが固まった場所もなさそうだし、市場を中心として広がっている町でもなさそうです。ということで、メコン川岸のボート乗り場付近でトクトクを降りました。ボート乗り場から数百メートル離れた対岸はタイの県都ナコンパノムです。よってタイ人がかなりたくさん訪れているから、それなりににぎやかだろうと想像していた姿と違っていました。でもそれは嬉しい推測違いであり、より自然なラオスの地方町を感じられるからです。

川岸に立つ新しそうな中型ホテルのフロントで部屋代を尋ねると、安い部屋で30米ドル、なるほどこれを基準に考えれば言い訳です。そこでその半分以下の値段の宿は近くにないかと尋ねたら、フロントの彼女は教えてくれましたので、その宿まで行きました。そこは(この町としては瀟洒な)レストラン兼ホテルというあり方の宿で、安い部屋で18米ドルです。交渉して15ドルに下げたのですが、私の想定予算は米ドル10数ドルまでです。しかし雨模様でありすでに夕方近くになっていたので、ラオス初日のこともあり、まあ仕方ないなとそこに決めました。築1年程度という新しい部屋で且つきれいなので15ドルの価値は確かにありました。

その後荷物を置いて町を散策中に数軒の宿を見つけたので、雰囲気調査を兼ねていずれも料金を尋ねました。安いゲストハウスで8万キップ、エコノミーホテルで500バーツぐらいというところです。このようにホテルというクラスではどこもタイバーツと米ドルで表示されており、ゲストハウスクラスだとキップ表示とバーツ表示です。どの通貨で払おうと受け付けてくれますが、米ドルの換算値はやや悪い。

ボート乗り場兼国境検問所の両替コーナーは日曜日でしまっており、両替はできません。しかし私の手元には20ドル札で払ったおつりで得たキップ紙幣が5ドル分ありますので、食事代には十分です。なおクアラルンプールから携帯してきた通貨は米ドルとタイバーツの両種ですが、出発前にその比率をどうするかに悩みました。タイ対岸の町だからバーツがかなり通じるとは想像していた通りです、でも米ドルはそれほどでもないですね。ゲストハウスなどではおつりのドル紙幣もないのですから。

ラオス大衆食を楽しむ

夕食は町の小さな、しかしごく普通の食品屋兼食事屋で済ましました。こういうタイプの店はマレーシアやタイにはありませんが、カンボジアにはありますね。つまり半ば食品雑貨をしながら半ばごく限られたメニューの食事品を提供する商売のあり方です。「ニーアライナ(これ何ですか?)」 と尋ねたら、「タムミー」 と言うそうで、ラオス食ですね。その店の子供はテレビでタイ番組を見ています。美味しかったし、値段も6千キップと大衆価格なので、2日目の夕食もそこで食べました。中級ホテルのレストランへ行けば話しは別ですが、夕食のできる場所は限られており、選択自体がごく少ないのです。

注7:東南アジア各国では常にその地の大衆食堂か屋台で食事します。バックパーカー向けであれ中流旅行者であれ主として外国人向けの店、つまり英語でメニューなどを書いていたり看板に添え書きしている店には一切入らないのが、私のあり方です。万が一利用してもコーラぐらいを飲む程度ですね。

翌朝(2日目)の朝食は開いてる所が少なく多少歩き探しました。朝早い時間だと食べ物どころは多いとは言えませんね。大衆食堂でいわゆるおかずご飯、つまりおかず入りのなべから1,2種選んで、それをご飯の皿に載せて食べる形式です。ラオスらしく、ご飯はカーオニアウ(もち米)でした。おかず1種と合わせて値段は7千キップです。

2日目の昼食は町歩きしていたら、混んでいた大衆食堂を見つけたので早速入りました。地元の人に人気がいいのはおいしいからでしょう。確かに、そのラオス式麺類 カウピアシンは美味しかった、値段は7千キップです。タイ大衆食麺類と同じく、かなり小盛りで、食べ方もほぼ同じですね。

翌日はゲストハウスへ移った

翌朝早速ボート乗り場へ行き、両替窓口で20米ドルをキップへ両替しました。銀行の出先といっても係の女性1人で机1つ置いてあるだけであり、米ドルのおつり紙幣をまったく持っていません。公定ルートは1タイバーツ=250キップ、1米ドル=8500キップです。実際の数字はバーツは1の位、ドルは1と10の位がゼロではないのですが、硬貨のない国ということもあって切捨てされてしまいます。

正午前にそのレストラン兼ホテルをチェックアウトして、前日調べておいたゲストハウスへ移りました。部屋はかなり古いですが冷房とテレビと温水器シャワー付きの部屋代 8万キップはまあ妥当なところでしょう。東南アジアの安宿の水準から言えば、換算値約 9米ドルという値段を考慮すればまあ水準以上でしょう。東南アジアの安宿は国よって物価が大きく違うので一律に何ドルまでが安宿とはいえませんが、10ドル以下であればどの国であれ安宿の範疇ですね。この種の安宿なりゲストハウスは当たり外れが大きいものですが、この宿はフロントの男性、オーナーの息子?、が気さくでありタイ語での世間話ができたため、当たりの部類に入りました。

ラオスはマレーシアから比べれば緯度がずっと北なので、この時期暑い暑いという気温には程遠い状態です。さらにこの時期はまだ雨季の終わりらしい。よって朝夕のシャワーが水だとかなりつらいことになります。20代、30代当時と比べれば私の身体の”がまん力”ははるかに衰えているので、暑くない時期の水シャワーはできるだけ避けたいところです。幸いにも尋ねた限りどの安宿も全て温水器シャワー付きでした。これはラオス経済の発展を物語るものでしょう。いうまでもなく、僻地の安宿へ行けばそんな”ぜいたく”は敵わないことは承知していますよ。

国境風景の面白さ

町を散策しました。メコン川岸をぶらぶら歩きながら対岸のタイの県都ナコンパノムをしばし眺めます。立派な仏教寺院が3つほど、大きなホテル、いくつもの商業ビルなど、川岸の道路を走る車も見えます。こちら側とは多いに違う町の様子です。これまでナコンパノムから何度こちら側つまりターケク側を眺めて町の様子を想像したことでしょうか。それが今、逆の方向を見ています。わずか数百メートルだけ離れているだけなのに、この大きな違い、これが国境風景というものの面白さです。人を乗せたボートが1時間に1本程度川を横断していきます。加えてそのボート乗り場の横にある波止場もどきにはトラックが止まっており、その入り口には税関の小屋があります。タイ側から運ばれてくる、タイ側へ戻っていくトラック主体の車輛の入出国を管理するためでしょう。波止場から屋根なしフェリーがごく時折トラックを運んで行きます。まことのんびりとしており、何人もの税関または出入国管理の職員はいかにもひまそうにしています。人数が多すぎるのか、仕事を手抜きしているのかわかりませんけど、おー働いてるなという雰囲気をほとんど感じません(笑)。

この波止場から数百メートル離れた道路の一画に、タイナンバープレートのガソリン輸送大型トラックが何台も停車していました。あらゆる物といえるくらい多種の物質がタイ側からラオスに入ってきています。圧倒的な片方向交易をここでも実感させられました。

どこでも目に入る緑のラベルのビアラーオ

日中だけでなく最初の夜も、2日目の夜もメコン川岸を歩いてナコンパノム側を少し眺めました。川岸には水上レストラン兼カラオケ屋が2箇所あります。夜になると豆電球で飾ったその店が暗い川岸で目立ちます。ナコンパノム側から眺めていた時、レストランだろうと推測はしていましたが、カラオケでもあったわけです。川岸には屋台が並び、加えて大衆飲み屋がテーブルを屋外に並べています。夜は男たち中心にそのテーブルが案外埋まっていました。飲んでいるのは決まってビアラーオつまりラオスビールです。このラオスビールはどこへ行っても目にします。小さな食品屋、バス発着場にある薄暗い店、ビエンチャンの大衆飲み屋、看板広告などなどでです。 確かラオス唯一の国産ビールだそうで、人気商品なんでしょう。瓶ビールと缶ビールがあり、緑のラベルでなかなか良いデザインです。もっとも私はアルコール類は全く飲まないので味の方は知りません。

カラオケ文化はアジア全体に広まっていますから、ラオスのこういう場所にカラオケを楽しむ場所があるのもなんら不思議ではありません。それに貢献しているのが海賊版VCDと安価なVCD機の普及といえるでしょう。小さな町ターケクにもご多分に漏れず場末のカラオケクラブがあります。この種のビジネスがタイから伝播してきたのはずっと前からのことに違いありません。それはとして、今は貧乏旅行者の身の私にそういう場へ見学がてら遊びに行く余裕は全然ありませんな(別に歌など歌いたいのではなく、地元の女の子とおしゃべりできる場だからです)。

街を散策すればいろんなことがわかる

日中はメコン川岸の屋台でコーラ飲みながら休憩しました。こういう場がいいのは、学生やおじさん、おばさんが憩いながらおしゃべりしていることです。さすがにラオ語の会話内容を聞き取ることはほとんど不可能ですが、その振る舞いとか持ち物を間近に目にできます。中学生くらいになると、バイクに乗ってやってきたりしています。しかもまだ新しいバイクが多いのです。こういう風景はタイの地方で典型的な風景ですから、それによく似ています。

冒頭に書きましたように、メコン川を眺めるのが好きな私にとって、このメコン川岸で景色などを眺めていた時間が今回の旅でもっとも気に入ったひと時でした。チョコレート色に濁ったこの大河はこのあとカンボジアついでベトナムに流れていくと考えるとロマンが沸いてきませんか?

街を散策していると生徒の姿をよく見かけます。男子生徒の服装は別に目新しく感じませんが、女生徒の場合、ラオ民族衣装である蒔きスカートを履いているのが、タイの生徒との大きな違いだと感じます。この女生徒の民族衣装スカートは、タイのイサーン(東北地方)で映るラオステレビ局で何回も見たことがあるのですが、実際に近くで初めて見ました(その昔ビエンチャンで見たはずだが思い出せない)、いわゆるサロンタイプのスカートですね。なお普通のスカートを履いている女生徒も見かけました。
面白いのは、マレーシアの小学生は背骨がきしむほどたくさん教科書類を納めたカバンを提げたり引っ張って登下校していますが、ラオスの小学生は少なく軽そうな持ち物です。

フランス植民地時代の影響なんでしょう、街のところどころにフランス風と思わしき邸宅が残っています。住宅になったり、ゲストハウスになったりしています。ちょっと古いけどゆったりした造りで目立つこともあって、私の目を惹きました。泊まったゲストハウスもこういう邸宅の一種です。

ターケクの町はその後入手したごく簡単な地図を見ても、はっきりした中心らしい場所のない町なんですね。路地はほとんど舗装されておらず、雨後ということもあってどろくちゃです。まだまだ自家用車がごく少ないので、ぶらぶら歩きも楽です。バイクと自転車が主たる交通機関だといえるでしょう。店がいくらか集まっている一画ではラオス華人の存在が目立ちます。店先に赤い提灯や華語の張り紙があるので判別がつきます。やはりこの地も華人商業勢力が強いということで、東南アジアの一般事実となんら異なっていないことがわかりました。

もう一つターケクの町で目立ったのはベトナムの存在です。川岸にベトナム資本のエコノミーホテルがあり、看板にもベトナム語で大きく書かれています。ホテルカードにはベトナム人支配人名が印刷されていますし、ベトナム語のお知らせもロビーに掲示されています。2日目に泊まったゲストハウスでは、部屋内の注意書きはラオ語、英語、そしてベトナム語の3言語併記です。散策していたらベトナムの出張事務所らしき建物に出くわしました。ターケクのバス発着場からはベトナムの複数都市への国際バスの運行があります。ベトナムの存在感はその後ビエンチャンでも強く感じましたが、この小さな町でもベトナムの存在を感じるとは、訪問前には想像していませんでした。ベトナム戦争時代前から歴史的にベトナムとラオスは友好関係にあり、長い国境緯線を持つ隣国でもあるという知識は持っていましたが、それを上回るベトナムの存在感に少し驚いた次第です。

注8:ベトナム語は90年代前半に習ってその後まったく使ってないので聴き取り力はもうありませんが、聞き分けや読み分けはもちろんできます。耳をそばだてて聞いた結果、ごく少数ですが旅行者とは思われないベトナム人の会話を耳にしました。


再度鈍行バスに乗ってビエンチャンに向かう

3日目は前夜からの雨が止みません。早朝チェックアウトして雨の中トクトクを探し出し、それに乗ってバス発着場に着きました。ビエンチャンまでかなり時間がかかりそうなので、早朝のバスに乗りたかったわけです。7時のバスがあります。9時15分には1日1本だけという エアコン付き2階建てバスであるVIPバスのビエンチャン行きがあります。ゲストハウスで聞いていたように、且つ窓口の話ではVIPバスは客拾いをほとんどしないので到着が早いとのこと。でも2時間以上の差が縮まるのだろうか? さらにVIPバスは運賃が2万キップ高い。 ということで7時発の鈍行バスに決めました。運賃は6万5千キップです。

出発時に半分くらいしか席が埋まってないので、案の定緩慢走行で客を拾っていきます。雨はビエンチャンに着くまで全く止まず、時に強く降ります、おかげで窓を開ければ涼しすぎるほどです。道路が舗装されていることと、車自体の少なさから、雨自体による遅れはほとんど起こらなかったように感じました。

道路から眺める野山風景は工業発展度の低さを感じさせる

車窓から眺める景色は、サワンナケートからターケクまでの区間のそれとほとんど同じです。つまり、町部からひとたび離れると道路の両側に見えるのは野山と田園ばかりです。郡部の風景は野山風景がずっと続く中、時々田園風景になるという感じです。民家がぽつぽつと道路脇に立っている所もあります、しかし工場らしき建物はほとんど目にしませんでした。当然見落としもあるので皆無とは決して言いませんが、国内の基幹道路の1つであろう13号線であってもその近辺に工場がほとんどないということは、工業の勃興程度がまだ低いと捉えても間違いではないでしょう。

このことは、ラオスが細かな食品類と日常生活品から電化製品・バイク自動車までのあらゆるものを主としてタイから、恐らく中国とベトナムからもかなりの種類と量を、輸入している事情を示しています。マレーシアとタイでは軽工業から重工業まで多種多様な企業が首都圏のみならず地方でも操業しています、外国資本の工場を目にするのはごく普通の風景ですよね。それに比べると、ラオスの街道風景は数十年いや半世紀ほどの年月差を感じます。こういった面を見ても、東南アジア諸国内での工業発展格差は極めて極めて大きいのです。
誤解なきように書きますと、工業がゼロということではなく、伝統手工業や軽工業は当然あるはずですが、比較的大きな雇用を創出し労働者層が定収入を確保できるような現代的な企業スタイルの工業が勃興していないという意味です。何らかの工場だとはっきりわかる建物は、ビエンチャンに到着する1時間ほど前になって初めて目にしました、しかしそれも10箇所を越えるほどあったかどうか、という程度です。

最初から最後までタイ歌謡のカラオケビデオとその合間にハリウッド映画ビデオ1本が映される中、バスはずっと北上していきます。11時過ぎに増水した河川に架かった橋を渡りました。メコン川に流れ込んでいる川です。この道路13号線は大きな町の中心部をまったく通らないようであり、野原と田園風景、時々小さな町や村を通りぬけていきます。

店奥の暗く汚い台所とそこで売られる食品に思う

小さな町または村でしょう、客乗降兼トイレ、物買い目的小休止でバスが停車しました。木造の朽ちけた長屋式の商店が並んでいます。トイレを借りるためその店の奥へ入ります。薄暗い奥のトイレ前の一画には、その店で売る食品を料理した用具や皿などが無造作に地面に置いてあります。こういった小さな町や村に水道があるとは考えられないし、貯め式の水で洗物をするのでしょう、ということは洗い場でもあるわけです、地面上にこしらえた流し場です。あまり良い表現ではないけど、ゴミ捨て場と言っても言い過ぎではないような汚く暗い場所ですが、この種の町や村の台所や家の奥を覗けば、これはごく普通の状況だと思われます。 そんな台所用具や皿、どんぶりを使って料理され、供される食品は店の前で売られています。奥の暗く汚いゴミの溜まった台所兼洗い場を見なければ、無理すれば食べる気も起きないことはないのですが、このゴミ捨て場的状況を見たら、ただでも食べる気にはなりません。

東南アジアのインドネシア、ミャンマー、カンボジア、ベトナムの貧困地帯を旅していると、同じような場面にごく普通に遭遇します。25年以上に渡って東南アジアを旅してきた私ですから、こういった貧困地帯も数多く通り過ぎたり、時どき滞在しました。40代前半ぐらいまでは汚さ承知で時々食事や買い食いをしたものですが、身体抵抗力と機能の衰えから、だんだんとそういう行為を減らすようになり、さらにこの5、6年はこの種の店で食事したり買い食いすることは、その場しか選択がない場合とよっぽど飢えている場合以外は、避けています(最近では、カンボジアの僻地に泊まったときは毎食食事しました、選択の余地がないからです)。発展途上国として避けられない状況といえますが、この不衛生さは旅人の健康に影響を与えかねないということだけでなく、公共衛生問題は民衆の生活に直接関係する最重要事です。ラオスが今後も発展し続けてこの面でのインフラ改善と民衆の衛生知識の向上を願わずにはいられません。

バスが停車するとこの種の町の商店街(といっても通りに並ぶ木造長屋に過ぎない)やバス発着場では、たちまち物売り女性が車内に乗り込んできて売ろうとします、これも上記4カ国でお馴染みの光景です。ラオス大衆食である鳥や肉の焼き物、飲み物、菓子がほとんどですが、地元人で買う人はそれほど多くはないです、長屋街の店で買う人の方が比較的多いように見えます。今回のバス車中に乗り込んでくる物売りにしつこさは感じなかったので、旅につきものの光景と肯定的に捉えておきます。国や地方によっては、かなりしつこく、不愉快さを感じさせる場合もありますからね。

ビエンチャンのバスターミナルに到着

町並みがなんとなく都市部らしくなってきたので、首都に近づいたことがわかります。そして30分ぐらい走って、14時少し過ぎにビエンチャンのバスターミナルに到着しました。



メコン川を縁にした、ラオス短期旅 −後編−


ビエンチャンのバスターミナルでソーンテーオに乗り込む

さすが首都の長距離バスターミナルだけあって、地方のバス発着場とは違って広いし、専用の平屋建ての待合所兼キップ売り場があります。バスだけでなく比較的近い地方の町とを結ぶバン、ミニバスも停車しています。雨脚が強いため、ゆっくり観察している暇がなくてざっとみただけですが、いくつものバスキップ売り場が並んでいます。ベトナムバスのキップ売り場もあります。このバスターミナルはその昔はなかったはずで、ビエンチャン郊外にある南部バスターミナルと呼ぶそうです。

トクトクと多少大型のソーンテーオが到着したバスを囲み、客引きを行っています。トクトクは運賃が高いので最初から選択の候補ではありません。ソーンテーオの若い運転手にどこへ行くと聞いたら、タラートサオ(サオ市場) と答えました。引き続き質問した返答から判断すると、そこは市内の中心部らしく、ホテルもその近くにいくつかあるようだ。高級ではないホテルが市場に到着する少し手前にあるのでそこで降りればいいと彼は勧める。ということで、私は彼のソーンテーオの荷台に乗り込みました。

注9:タラートサオのサオとは朝の意味だと後で知りました、つまり朝市場ということです。タイ語では朝は一般にチャーオというので、意味がわかりませんでした。その時点で私は簡易地図一枚たりとも手元に持っていなかったので、ビエンチャンのどこにいるのかさえもわかりませんでした。なおガイドブック類は私は使いません、すべて自分で情報を直接取ります。

荷台座席は全然埋まっておらず、ソーンテーオは一杯になるまで出発しようとしない。次のバスが来ると、その周りへ車を回して客引きします。ラオス人のおばさんが荷物を山と持って乗り込んできたので、荷台座席の床は荷で半分埋まる。こうして2人3人と乗客が増え、最後はベトナムから到着したバスの客を拾って荷台は満員兼一杯となった。そのベトナムバスの乗客であった数人の白人と韓国人1人と日本人1人(座席で交わしていた白人との会話が聞こえてきたのでそうとわかった)が乗り込む前にソーンテーオやトクトクの運転手に英語で尋ねている。しかしソーンテーオやトクトクの地元人らの英語力はごく限られたものであるから会話にならないのはいつものことである。

この種のバックパッカー人は英語しか話せないのであり、どこへ行こうとこのスタイルだ。ベトナムでもカンボジアでもラオスでもタイでもすべてこういうスタイルで旅行している数多くのバックパッカーがいる、その大多数は東南アジアのその国々の社会慣習や言語に敬意を払わない”英語言語信奉者”だと私は思っています。誤解なきように説明しておけば、ベトナム語やカンボジア語やラオ語などを流暢に話すべきだ、英語を一言も使うななどと主張しているのではありませんよ。仮にも自由に旅行することを好みあちこちを見て回る旅行者であるのであれば、ある非英語国を訪れた時そこの人たちは当然英語を解するべきだというような、言語帝国主義者的振る舞いをするなということです。

参考:このように、英語をいわゆる”国際語”と決め付け且つ押し付けている潮流と思想を無意識に受け入れている典型として、マレーシアの場合を取り上げてわかりやすく解説したのが、コラム第347回 「英語依存症候社会の示した病状を診断し分析する」です。

ソーンテーオが客待ちしているとき、ターケクで見たVIPバスが到着しました。つまり私の乗ってきた鈍行バスとの差である2時間強遅れた出発時間の差はほとんど詰まったということです。

車中から眺めたビエンチャンの街風景に驚愕の変化を見た

このソーンテーオでビエンチャン市中心部へ向かいながら、私は景色を食い入るように眺めた。道路、建物、街の人、交通状況、もうあらゆることが違う、全てが記憶と違うのです。これが2008年のビエンチャンなのだと自分に言い聞かせた。私が始めて訪れた1990年(4月か5月)のビエンチャンの記憶とは全く違う都市が目の前にあるのです。その当時の恩影はもう跡形もなかった。わずか小凱旋門1つだけが記憶と重なる、しかしその周りの道路も建物も全てが1990年の記憶と違う。その違いの大きさは私の東南アジア旅歴の中で最大のものです。バンコク、ジャカルタ、ホーチミンティー、クアラルンプールといった東南アジアの大都市を歳を経て数多く訪れてきたことから、または記憶の中でその歳月の変化を比較できます。どの都市も大きな変化を遂げてきました、しかしビエンチャンほど変化の大きな都市はないと断言できます。その後その日を入れて2泊したビエンチャン滞在で街を歩き、見た結果この捉え方はより堅固なものとなりました。

なぜかを説明しましょう。80年代のジャカルタもバンコクもクアラルンプールもすでに大都市でした、とりわけバンコクとジャカルタは混乱の大都市といってもいいでしょう。当時、高層ビル、道路を占領した車とバイク、排気ガスの充満、裏通りのごちゃごちゃさと路上の物売り、あらゆる大都市の姿がありました。これは2000年代になって、スマートな高層ビルがぐっと増え、電車が走り、裏通りが多少きれいになり、瀟洒な冷房バスが走るようになり、大都市は大都市のままで大きく変化しました。

しかしビエンチャンは全く違うのです。1990年のビエンチャンは閑散とした、ゆったりとした町でした。舗装されていたのは大通り程度だけでした。高層ビルはホテルを含めて皆無でした。いや大きなビルと呼べるような建物自体が珍しい存在でした。自動車はほとんど走っておらず!! 私がビエンチャン中心部をあちこち歩きまわったり、バイクベチャで散策した時、ビエンチャンで見かけた信号機はわずか数機しかありませんでした。冗談ではなくほんとうに、道路に寝転がっていても大丈夫だと思ったくらいです。政府官庁の建物はほとんど植民地建築のようなモルタルか木造建築でした。銀行?ショッピングセンター? その手の建物は1つたりとも目にしませんでした。まことにのんびりとした、喧騒も混雑も排気ガスも全くない、まさに東南アジアの田舎首都でした。 あまりの貴重な状態と光景に感激したことをよく覚えています。

1990年の時点では、タイとラオスを結ぶメコン川にかかる橋はもちろん架かっていません。飛行機でビエンチャン空港に着く以外はタイの国境街ノンカイから10数人程度のボートでメコン川を渡って入国するのが、非タイ人の唯一の入国方法でした。もちろん事前ビザ取得必須であり、当時私はバンコクで入手しました。恐らくほとんどの読者は経験ないでしょうが、入国時に所持外貨を書式に記入する義務がまだあった時代です。これは当時ラオスがソ連圏に属していたことから、70年代80年代ソ連東欧で施行されていたこの外貨申告制を当時のラオス政府は導入していたのです。ボートで着いたメコン川岸のラオス側検問所で厳しく調べられるようなことはまったくなかったのですが、建前として当時まだあった制度です。その国境検問所からトクトクで小1時間ほどかな? ビエンチャン中心部に着きました。

そのビエンチャンは上記で描写したような状況でした。この時期西側から入った自由旅行者は非常に少なく、街で見かけたのはソ連東欧圏の旅行者姿の方がむしろ多かったのではないかと記憶しています。といってもあくまでも比較の上であり、外国人旅行者自体が極めて少なかった。もちろん日本人旅行者も同様であり、当時ラオスにいたのは援助団体の方たちぐらいでしょう。現在のラオスからは絶対に想像のできない時代の状況です。この時代のビエンチャンを体験できたことが、私の長い旅行歴で最も嬉しいことの一つです。

ベトナム系エコノミーホテルに泊まる

ソーンテーオの荷台で眺める街の変化に驚いているうちに、中心部らしきところに着き、道路際で停車しました。ここがその高くないホテルだと運転手は言う、雨脚がかなりあり、躊躇しているひまはありませんので、私は降りました。運賃1万キップというのでまけさせて8千キップを払いました。早速フロントで部屋代を尋ねると、無愛想な女のフロントは500バーツだと言う、バーツの持分はもうほとんどないので、米ドルではと聞くと、15ドルだとまことに無愛想です。都市のホテルとはこういうものですね。 予算オーバーですが、こ強い雨の中歩き回って探す気は起きません。そこでちょっと迷った末にそのホテルで1泊することにして、前金で部屋代を払いました(これまでも全て宿泊は前金払いです)。

このホテルはベトナム系のこじんまりとしたエコノミーホテルである。看板にも部屋内の注意書きにもベトナム語が加わっています。建物内はかなり古そうだが、部屋内部は15米ドルの料金にまあ見合った程度でしょう。ホテルと同じ建物内に旅行代理店があり、ベトナムの代理店と連携しているようです。ビエンチャン到着後早々にまたベトナムの姿を感じましたが、その後もベトナムの存在を感じさせることを目にしました。タラートサオ(朝市場)近くの主要道路際にベトナム銀行の大きく近代的なビルが建っています。本屋にはベトナム語−ラオ語のそれなりに厚い辞書が数種売られています。

夜間商売している大衆食堂と屋台が少ない

早朝にフランスパンサンドイッチを食べて以来何も食べていないので、遅い昼食を取るため雨の中外出した。ちょっと歩くとまた別のエコノミーホテルや大衆食堂があったので、ラオス麺を食べました。この麺はなかなかいけますね。 そのエコノミーホテルで室料を尋ねると、エアコンスタンダード部屋で500バーツだと言う。どうやらエコノミークラスのホテルはこれぐらいが相場のようだ。その後も何軒かあたってみたところから判断して、500バーツつまり15米ドルがエコノミーホテルの大体の相場だといってもいいでしょう。

注10:その場でフランスパンにハムなどを挟んで作るサンドイッチを売る屋台を、元フランス植民地であるベトナム、カンボジア、そしてラオスでも町の街角で見かけます。

雨足が強く、遠くまで歩く気にならないのでホテルに戻る。夜暗くなってから夕食を食べに出かけたら、夕食を食べる場所がなかなか見つからない、ちょっと瀟洒なレストランはありますが、そんな高い所は初めからお呼びではありません。大衆食堂、屋台を探してさらにあちこち歩く。2軒ほど大衆食堂を見つけたが、誰1人店にいない、そんな時間に客がいないのはおかしいなあ、と入るのを止めた。仕方ないので、コンビニ的なミニ食品雑貨店でパンとビスケットを買う。合わせて 12000キップ、決して安くない値段です(1.5米ドル)。店の棚に並んでいる食品類はタイでみかけるもばかりでした。

ビエンチャン市内を2日目も歩いた結果から判断して、大衆食堂、屋台街というのが少ないと感じました。もちろん場所によるのは当然ですから、この短い滞在で包括的な判断はしませんが、中心部ではない大衆住宅街に屋台がどの程度出現するのだろか。

地味な内容のラオステレビチャンネル

ラオス滞在中、夕方とりわけ夜はいつもテレビを時間の多少に関わらず見ていました。ゲストハウスを含めてどの宿も衛星チャンネルです、よって実にたくさんのチャンネルが見られることになる。2チャンネルほどしかないラオステレビ局の内容は娯楽性が少なくいかにも地味な内容であることは、以前から知っていました。それはタイの東北部で宿泊すると、その宿のテレビに必ずラオステレビ放送が映るからです。タイテレビ局の音楽番組とミュージック専用チャンネルに比べるとラオスのミュージック番組は朴訥さが目立ち、これが地味だなあという印象を与えます。

タイテレビ局の娯楽番組は実にバラエティーに富んでおり、以前にもコラムで触れたことがあるように、その娯楽性の高さはマレーシアの番組をはるかに凌駕します。ですからタイテレビチャンネルに比べたラオステレビチャンネルの娯楽性のなさは際立ちます。ニュース番組を比較すると、ラオスチャンネルの政府広報的なスタイルは印象が薄くなります。タイチャンネルも政府広報的な内容を放送しているのですが、それ以外のトークショーやキャスターの個性で売るニュース番組もいくつかあり、この面でもラオスチャンネルは敵いません。こんな印象をあらためて持ちました。

テレビは各国の広報と宣伝の大きな手段であり、商業活動と文化活動の窓です。衛星放送の普及によって、ラオスでは小さな宿でさえ衛星放送を取り入れていることでしょう、ただしラオスで衛星放送がどの程度合法的に傍受されているかはわかりませんし、地方と田舎の一般家庭にも衛星放送がどんどん普及しているとは思えませんが。少なくとも昔からタイ国境線に近い地方ではタイテレビはなんら特別アンテナを立てることなく視聴できると言われていました。ラオス国境に近接したタイ側でラオスチャンネルが映ることは私はいつも確認していたので、その逆も真であるはずです。もっともタイの視聴者がラオステレビにチャンネルを回すとは考づらいです。

テレビ放送を通した各国の文化・ビジネス戦略

タイ東北部ではベトナムテレビのチャンネルがこれまたよく映ることに、私は以前から興味を持っていました。今回ラオスの宿のテレビでは例外なくベトナムチャンネルがきれいに映りました。ベトナムテレビは昔、つまり私がベトナムに足蹴く訪問していた90年代中頃、に比べれば随分と娯楽性とバラエティーが増えたなと感じます。ベトナムチャンネルの番組の豊富さはラオステレビをずっと上回りますが、どれくらいのラオス人が見ているかは疑問ですね。

こうしていろんな国のチャンネルを見比べていると、興味深い事実にいきつきます。ラオスでのテレビ観察はこれまで数多くタイで見てきて感じていた、発見していた衛星テレビ観察を裏付けるものです。まず中国のテレビ放送各局の目覚しい進出です。巨大中国ですから、もっぱら国際向けのチャンネルも複数あり、且つ国内向け番組も衛星によって複数チャンネルから流されている。チャンネル総数は5つ、6つもあるし、その番組内容は種種ありということで、まこと中国テレビチャンネルはその存在感を目立たせています。次いで韓国テレビがかなり目立ちます。なぜなら、中には音楽専用チャネルもあるという複数チャンネル提供で且つ24時間放送しているからでしょう。韓国ドラマはタイでも人気を呼んでいることからラオスにも衛星テレビでファンを獲得しているのかもしれません。中国と韓国のテレビチャンネル数に比べるとに、日本はNHK国際だけです。わずか1つのチャンネルだけというのは実に目立たないのです。

中国テレビは中国語放送を主とし、番組によって英語放送をしています。韓国テレビは英語放送の比率が高いように感じます(正確な統計はもちろん知りません)。ベトナムテレビはごく一部の番組に英語放送があります。多い少ないの違いはかなりあっても英語放送番組を自国語放送番組に加えるという、この傾向は、何もアジアのテレビチャンネルだけでなく、ドイツ、アラブ圏が発している衛星テレビチャンネルも同様です。悲しいことにそして腹立たしい英語言語独占傾向を助長し、盲目的に追随しているわけです。フランス海外向けチャンネルはさすがに英語放送は字幕以外はほとんどない点に好感を感じますね。

それでは、日本のNHK国際はどうか? いうまでもなく英語放送も混ぜていますよね(私はマレーシアで見ることはないのであくまでもタイでの視聴体験に基づきます)。少数言語を含めて世界に冠たる多言語種の言語学者・専門家を擁する日本ですから、是非ニュース番組とか文化番組ぐらいは各国言語に音声同時通訳または文字翻訳して放送してもらいたいというのが、昔からの私の持論です。1日30分間から1時間ぐらい日本の番組をその国々の言語に訳す、つまり18時はタイ語、19時はインドネシア語、20時はベトナム語、21時はラオ語などといったように、その30分間または60分間は英語ではなくその対象国の国語で放送するという方式です。

日本のアニメとマンガがなぜ東南アジアでこれほど人気あるのか?それは英語ではなくそれぞれの国の国語へ翻訳され、子供と学生と庶民層に幅広く到達できたからです(もっとも、翻訳しているのは日本語に流暢なそれぞれの国の若者たちが主体のようです)。英語だけの翻訳であったらこれほど日本アニメとマンガは東南アジア至ることころで人気になっていません。英語だけでまあ十分に到達できるのはシンガポールぐらいでしょう。英語で放送すれば幅広い国国の人たちに到達できるという幻想ではなく、対象を絞ればより効率的であるという点から、及び言語の相対性というより普遍的な観点から、チャンネル数が1つしかない日本の海外向けテレビ放送であっても、他国の海外放送にないあり方を加えて欲しいなと強く思います。

新聞が見当たらない国

文化という面から捉えると、5日間のラオス滞在で1箇所たりとも新聞を売っている所を見かけませんでした。町の食料雑貨よろず屋、各種店、キオスク、本屋、バス発着場の物売り店、ショッピングセンター内の店、などかなりの数覗いてみたのですが、売っていない、全く売っていないのです。ターケクの町のみならず、ビエンチャンでも同じです。もちろんビエンチャンのどこかでは売られているはずですから、それなりにあちこち歩いたにも関わらず私の行動した範囲という限定した判断のうえではあっても、新聞を売っている場に出会わなかったというのは、間違いなく新聞購読者数の少なさと販売する場所の非常なる少なさといえます。

ターケクでは泊まったゲストハウスにラオ語新聞が置いてありましたので、しばらくラオ文字と格闘しながら見ました。宿の責任者である若い男に、どこで買えるのかと尋ねると、街に売ってない、配達購読していると答えました。紙はなかなか良い質であり、カンボジアのそれより紙質は良いなと思いました。ビエンチャンで泊まった2軒のエコノミーホテルには最近の新聞は置いてありませんでした。1軒のホテルでは古新聞は置いてありましたが、もう1件は新聞類ゼロです。タイでも安宿に新聞がおいてない場合はありますが、フロントの人たちがよく見ていたりします。歩きまわったビエンチャンで新聞を読んでいる人を全く見かけなかったという事実も、上記の新聞購読者数の少なさと販売する場所の非常なる少なさということを裏付けています。

ベトナムはいうまでもなく、カンボジアの各地では少ないとはいえ新聞を売っている場を見つけられたのですが、ラオスではこれほどまでに新聞販売場所が少ないとは驚きました。尚ここで私が問題にしているのはあくまでもラオ語の新聞であり、在住外国人向けの英語紙のことではありません。多分英語紙は高級ホテルへ行けば置いてあることでしょう。帰路利用したビエンチャン空港内でも新聞販売はまったくありませんでした。

昔からあるタラートサオ(市場)は現在はショッピングセンター化している

2日目はそれほど離れていない場所にある別のエコノミーホテルに移りました。といっても12万キップなので、部屋代はほとんどかわりなし、むしろ部屋の程度は落ちたので、ちょっと後悔でした。 その場所はタラートサオ(英語名はモーニングマーケットとなっている)にかなり近い場所です。この市場は昔からある有名地だそうなので、18年半前間違いなく私は訪れたはずですが、思い出せない。現在この市場は伝統的生鮮市場ではなく、日用品から衣料履物、電化製品、携帯電話、貴金属などを売る店舗が所狭しと入ったショッピングセンター化していました。もちろん市場建物ですからエアコンなどはありませんが、両替所が数箇所あり商売繁盛のようです。この一画でようやく見つけた本屋で、ラオス文化機関が出版している、ラオ語文字とタイ語文字の違いを説明したタイ語による解説小冊子を見つけたので早速買いました。

注11:それまで漠然とタイ文字とラオ語文字の違いは2割ぐらいだろうと思っていたのですが、この小冊子を見て4から5割ぐらいは違いがあることを知りました。道理でこのラオス旅でずっとラオ語文字に格闘していても、タイ語の知識ではわからない場面が多かった理由がわかりました。
注12:このタラートサオの両替屋とタラートサオモールの両替所では日本円の両替もできます。円=79キップまたは80キップと表示されていました。

このサオ市場に隣接してタラートサオモールという小型のショッピングセンターがあります。5階建てかな、ビエンチャンにもこういう時代が来たということですが、夕方5時に閉めるとのことで、これはラオスらしい点でしょう。

タラートサオの隣は昔からあるバスターミナル

タラートサオ(直訳すれば朝市場)の隣の敷地は近郊バスターミナルです。近くの両替屋の兄ちゃんに尋ねたところ、昔からある最も古いバスターミナルだと彼は断言しました。ということはその昔間違いなく私はこのバスターミナルを利用したわけです。18年半前当時には、外国人はバスでビエンチャンから外へは出てはいけない規則がありました。ラオス全土が外国人に解放されていたわけではなく、ルアンプラバンのような地へ行く外国人は、飛行機利用という規則でした。遠方ではなく近郊へちょっと行きたかったので、見つかったらどうしようという不安の中、規則を無視してこのバスターミナルからおんぼろバスに乗りました。当時は、乗客と生きた鶏と農産物をいっしょに車中に積み込むという人間と物と動物を区別しないバス運送時代でしたから、恐ろしく古く汚い車両だったことを覚えています。幸か不幸か、ビエンチャン市内を出て郊外に入った頃このバスはパンクしてそれ以上すすめなくなり、私はしばらくしてやって来たビエンチャン行きのバスで、このバスターミナルに戻ったという面白い経験があります。いくら記憶をたどっても当時のバスターミナルと現在のバスターミナルの共通点は思い出せませんでした。

このバスターミナルはタイの都市であるノンカイ、コンケーンとの間を運行する国際バスの発着所でもあり、時代の大きな変化をつくづく感じました。市内見学のつもりでとりたてて行き先の宛てなくミニバスに乗って市内を走りましたが、昔とのあまりの違いに感心するばかりです。唯一同じだとはっきり思ったのは、フランスの凱旋門に似せて造ったPatu Xayの建築物です。その周りは現代的に変わってましたが、そのミニ凱旋門自体は同じだと感じました。バス1回の運賃3000キップです、まあ妥当なところでしょう。

華人商店街で見かけた高級車ベンツとタイ風化粧の女学生

2日目の朝のこと、タラートサオ市場に面した商店街で路上の屋台コーヒー屋を見かけました。この路上の屋台は金店舗前で営業しています。この一画は文字などが目に入るので華人店舗街に違いありません。屋台のテーブルに座ってコーヒーを飲んでいたら、隣の金店舗の主でしょう、中型ベンツで乗り付け、店を開けました。クアラルンプールならなんの変哲もないことですが、ビエンチャンのその一画で新車と思われる高級ベンツを見るのは意外な感じを抱きます。この種の伝統的華人ビジネス人の羽振りのよさに感心するとともに、ビジネスに長けた東南アジア華人商人の存在はここも例外ではないと思わせられました。

2日目の昼食は大衆食堂へ入りました。近くに大学があるのでたくさんの男女学生が食べていました。女子学生のなかにはラオス民族スカートを履いているのもいます。ふと近くに座った女性学生の顔を見ていて気がつきました。タイの都市部で見かける若い女性の化粧顔と同じです。さすが首都らしく、タイ的化粧法の若い女性やタイ的な服装の若い女性をよく見かけました、地方の町との違いを感じた一こまです。

ラオス人にとってマレーシアは全然知らない国

ところで日本はというと、タラートサオ(市場)横にあるバスタミナルから発着する乗り合いバスの車体に Official Development Aid  と大きな文字が書かれています。そのバス車輛がODAでラオスに贈られて来たのか、他の面での日本のODAを知らせるための宣伝文句なのか、そのどちらなんでしょうか。ODAという英文字になぜラオ語の文字を付け加えないのか、と即座に思いました。ODAなどという文句はラオ庶民が見ても意味がわからないでしょう。それはとして、ラオスにとって日本は第1か第2の援助供与国だと記憶しています。いろんな分野に援助金がつぎ込まれ、援助団体の人たちが送り込まれて働いていることでしょう。

恐らくラオス人にとって日本の方がマレーシアより感覚的に馴染みある国ではないだろうかと思えてきます。なぜなら、一般ラオス人にとってマレーシアは知らない国だからです。私は東北タイへ行くと、尋ねられればいつも、尋ねられなくても時々次のように言ってきました、「マージャーク プラテートマーレーシア。クンルー マーレーシアーユーティーナイカップ?(マレーシアから来ました、マレーシアがどこにあるか知っていますか?)」 それなりに合っている位置を答える人にまず出会いません。ほとんどの人にはマレーシア像が浮かびませんので、会話が続きません。この質問は長年数多く行ってきたので、マレーシア知名度の低さに関する私の判断はかなり正確ですよ。今回のラオス旅でも同じ問答を行いました。誰1人知っている人に出会いませんでした。大抵はそこで会話が終わってしまいます、なぜならマレーシアのことなど知らないからです。ターケクのゲストハウスの責任者は、ああ、あの小さな島国かと答えました、つまりシンガポールを浮かべたわけです。このようにシンガポールの方がマレーシアよりも知られているのは事実でしょう。

注13:同じようなことは以前カンボジアでも体験しており、コラムにまとめました。第299回「カンボジアに見つけたマレーシアの姿と存在感のないマレーシア−」をご覧ください。

一般マレーシア人のラオス知識などゼロに近いと断言できます。マレーシアは、タイ語−マレーシア語辞書さえ出版されていない国ですから、ラオ語などゴミみたいな扱いでしょう。少数とはいえラオ語学習書やラオス案内書籍が出版されている日本とは比較すらできません。マレーシアはこの種の隣国対応は全て海外の英語出版物に頼ります。東南アジア共同体など幻想以外の何ものでもないと私はいつも思います。

ビエンチャンはAirAsia で2時間半の距離にある

こうして5日間の短いラオス旅は終わりました。帰路は空路なので、ビエンチャン空港までトクトクで行きました。市場前で交渉して2万キップという料金、妥当なところでしょう。まだ建築されてそれほど年月が経っていないことを感じさせる、こじんまりとした空港はタラートサオ市場から20分もかかりませんでした。つまり市中心部から遠くないということです。朝まだ早いためでしょう、空港内は極めてがらんとしています。その大きな理由は1日の国際線発便が10数便しかないことのようです、つまり国際便発着数は30便にも満たないわけです。10時10分発のAirAsiaのクアラルンプール行きの乗客の過半数以上はマレーシア人のようでした。2時間半あまりの飛行を終えると、マレーシアの現実に戻りました。



マレーシア経済を国の生産と貿易面から及び個人の所得面から眺めてみる


マクロ経済は好調

マレーシア通産省と統計庁発表の統計を引用して、マレーシア経済をマクロレベルから眺めてみます。
産業別国内総生産高(GDP) −2000年の値を定数にした場合-

変化率 %
GDPに占める割合 %


2007年2008年見込み2007年2008年見込み
農業
2.2
3.6
7.6
7.5

鉱業
3.3
2.8
8.4
8.2

製造業
3.1
4.7
30.1
29.8

建設業
4.6
4.0
3.0
3.0

サービス業
9.7
7.1
53.6
54.3

補正を差し引く
-7.5
-7.2
-3.9
-4.0

輸入関税を加える
+4.4
+11.3
+1.1
+1.2

国内総生産高
6.3
5.7
100%
100%


国内総生産高(GDP)の伸び率、つまり国の経済成長率は2005年:5.3%、2006年:5.9%、そして2007年は上記の6.3%でした。こういう数字をみると、国内総生産高の面でマレーシア経済は引き続き好調といえるでしょう。そして貿易面でも好調です、次の統計をご覧ください。

マレーシアの2007年経常収支は RM 1005億の黒字でした。これで10年連続黒字です。この額は国民総生産高GNP の16%に当たります。黒字に大きく貢献しているのは、貿易黒字と旅行者のもたらす観光収入です。旅行会計だけを取り出せば、2007年はRM 291億の黒字でした。マレーシアの国際通貨準備高は引き続き余裕があり、2008年8月の時点でUS$1230億となっています。国民総預金高が国内総生産高に占める割合 2008年で38%の見込みです。

輸出内容

総貿易高は 対前年比 3.7%伸びてRM 1兆1097億でした。RM 1兆を超えたのは2年連続2回目です。マレーシアの輸出高増加に貢献したのは、中国、日本、オーストラリア、インドネシア、オランダ、ドイツ、アラブ首長国連邦、韓国、ベトナムなどでした。ただ対米国輸出は 15%の減少を見ました。輸出高の 63%はアジアが貢献しています。
2007年輸出構成 総額 RM 6051億  (通産省の発表から)
品目 電気・
電子製品
化学薬品・
化学製品
パーム
オイル
原油 液化
天然ガス
機械
器具
精製
石油製品
木製品 金属
製品
光学
機器
その他
割合
44.2%
6.9%
6.9%
5.4%
4.3%
3.8%
3.7%
2.7%
2.7%
2.3%
18%

上表を大分類すると次のようになります

製造品農業品鉱物その他総輸出
対前年変化率
0.6%
22.6%
7.1%
5.5%
2.7%
構成比率
79.7%
7.7%
9.9%
2.7%
100%
金額 RM
4824億
468億
598億
160億
6051億


輸出統計表で見る輸出先依存率の変化

それでは、輸出先方面別に分類した表を示しましょう。11ヶ月間の統計ですが、傾向に変化はありません。
総輸出額に占める地域・国の割合  (政府データを基にして)
輸出先地域・国米国アセアン全体欧州連合日本中国
1990年
16.9%
29.1%
15.6%
15.8%
2.1%
1995年
20.7%
27.7%
14.7%
12.7%
2.7%
1998年
21.7%
24.4%
17.0%
10.5%
2.7%
2000年
20.5%
26.5%
13.7%
13.1%
3.1%
2003年
19.6%
24.8%
12.1%
10.7%
6.5%
2006年
18.8%
26.1%
12.7%
8.9%
7.2%
2007年11月まで
15.7%
25.6%
12.9%
9.0%
8.7%

統計が見事に示しているのは、米国依存の多少の減少ということよりも、中国の台頭そして遠からず日本を追い抜く流れの強さでしょう。日本とマレーシア間では自由貿易協定が締結されて、昨年2007年は日本からの投資が増えましたが、これが永続的に続くことは難しいでしょうから、この流れは変わらないといえそうです。ただこの数字の表面には現れませんが、日系企業が在中国の日系企業に向けて輸出増加という部分もあるはずです。 

国民の個人と世帯の所得

それではミクロ経済として、マレーシア国民レベルでの所得面から眺めてみましょう。

2008年8月末に国会で発表された2009年度予算案に関連して、2008年経済報告書が公表されましたので、その中から数字を拾ってみます。尚2009年の予想値も報告書に載っているのですが、その後10月に発生した国際金融危機による2009年世界経済の停滞確実化を当然ながら全く予想していないので、そこに現れた数字はほとんど大きな修正が必要となるはずです。従ってここで2009年の予想数字は省きます。

こういう平均値だけではマレーシア大衆層の実態があまり見えてきません、とりわけ換算して”米ドルでいくら”という手法はその国国の物価を全く反映しない比較法だといえます。そこで以前コラムで掲げた世帯所得分布を再度示しておきます。
マレーシア人家庭の月間世帯収入額とその割合
収入額
RM 1千以下
RM 1001 - 2000
RM 2001 - 3000
RM 3001 - 4000
RM 4001 - 5000
 RM 5001 - 10,000
RM 1万以上
割合
8.6%
29.4%
19.8%
12.9%
8.6%
15.8%
4.9%

この月間世帯所得に基づいた階層区分表はマレーシア社会を非常によく映していると捉えても間違いではないでしょう。6割弱の世帯が月間所得RM 3000以下であることを注視してください。確実に豊かな階層といえる人たちは全体の約 20%ということもわかりますね。

追加資料 (08年11月中旬)
マレーシア統計庁による 2007年世帯収入調査
世帯収入額 RM マレー人華人インド人カダザン人オランアスリその他
1,000以下
301,000
50,900
29,000
29,300
7,500
78,800
1,001 - 2,000
976,500
338,300
125,300
38,800
9,800
207,200
2,001 - 3,000
614,700
300,800
121,500
15,300
2,500
89,900
3,001 - 4,000
380,500
234,700
73,300
8,900
1,000
44,600
4,001 - 5,000
254,700
166,600
44,800
6,900
200
24,600
5,001 - 10,000
419,200
368,400
76,800
13,400
-
36,500
10,001 - 20,000
85,700
118,700
23,400
800
-
6,700
20,000を超える
16,500
27,900
3,600
-
-
1,500


労働人口の分析

ここで関連上少しだけ労働人口に触れておきます。
2007年に新規に創出された職の数は約20万人分でした。被雇用者人口は約1140万人、15歳から64歳までの労働年齢は人口の67%になります。その内20歳から29歳が労働人口の31%を占めます。つまり若年労働力の供給に不自由していないということですね。男女の労働参加比率を見ると、男性で87%、女性で46%となります。被雇用人口を業種で分類するとサービス業が全体の52%、 製造業が29%、農業が12%、建設業が6.5%、鉱業が0.4%を占めます。

65歳以上の高齢者の労働人口(15歳から64歳)に対する比率を見ると、2007年は6.45% となります。

国庫の税収内容

税金一般は、国庫の主要な収入源という面だけではなく、国民階層間の所得差による格差を是正するまたは拡大させないという役割も果たしています。そこで、税収入面に光をあててみましょう。


RM (億以下は四捨五入)
変化率 %
全体に占める割合 %

2007年2008年見込み2007年2008年見込み2007年2008年見込み
税収入
951億
1077億
9.9
13.2
68.0
66.7

その内で直接税 注1
694億
776億
12.7
11.8
49.6
48.0

法人
321億
333億
21.4
3.7
23.0
20.6

石油収益税
204億
245億
-1.1
19.8
14.6
15.2

個人
116億
146億
14.4
25.1
8.3
9.0

その内で間接税 注2
258億
301億
2.8
17.0
18.4
18.7

関税
90億
104億
4.8
15.3
6.4
6.4

売上税
66億
76億
1.7
14.1
4.7
4.7

非税金収入
447億
538億
21.1
20.4
32.0
33.3

免許・許可代 注4
94億
118億
2.4
24.9
6.7
7.3

投資収入  注3
324億
389億
30.7
20.0
23.2
24.1

総歳入
1399億
1616億
13.2
15.5
100%
100%

国内総生産高に占める割合
21.8%
22.6%






注1:直接税は上記に表示されている3種以外に、印紙税 RM 36億、源泉徴収税 RM 12億、協同組合収入税 RM 2億、があります
注2:間接税には上表に載せられていないものもあります
注3:非税金収入の投資収入というのは、主として国策石油ガス会社 Petronas からの配当金 RM 300億が多くを占めます。
注4:免許・許可代の約半分は石油ロイヤリティーであり、自動車保有者が納める道路税が12億ほど占めます。
注5:法人税の最大の貢献者は石油ガス関連企業です。石油収益税は法人税とは別立てです。こういったことは「今週のマレーシア」 第527回のコラムで詳細に説明しましたので、それを参照してください。


国庫歳入は赤字

国庫歳入は税金と非税金収入だけでは不足しているので、政府借り入れを毎年行っています。2008年はRM 605億と見込まれています。その内RM 600億は国内からの調達であり、外国からの借り入れはRM 5億に過ぎません。借入額の内、RM 250億をすでに借款したものへの返済にあて、残りを予算の赤字埋め合わせに使います。2008年度国家予算において、政府借入額が占める割合は 13.7%になる見込みです。累積借入額は、2007年度でRM 2670億、2008年度はRM 3030億に増えます。
予算の赤字を図る別の指標である、国内総生産高に占める赤字額の割合は次第に増えており、今年は 4.8%になるのではと予想されています。

個人所得税納税者の少なさ

2007年末に税務署に登録されている個人と法人数は634万となるそうで、その内9割が個人です。しかし所得・法人税申告申告の対象となるのは法人 139, 460 社、 個人 1, 894, 000人に過ぎません。申告したからといってその189万人中の全員が納税することにはなりません、つまり各種の控除を合計し、さらには戻し税の対象になって最終的に課税所得が最低課税額以下の人が数十万人にもなるからです。私の記憶に間違いなければ、実際に所得税を納める人の数は100万人強というところです。 この数は総人口2600万人からみたら、かなり比率が少ないことになります。人口のわずか 4%, 5% しか所得税を納めていないということです。よって国家歳入に占める個人所得税の割合は2007年で 8.3% というのも無理もありません。

富の不平等是正を目指していない税制

この事実は私が長年主張している、マレーシアの社会構造は富みの平等化に重点を置くよりも、全体的底上げの中で所得と富の格差を拡大させる方向にある、ということを如実に示しています。間接税は貧者にも富裕者にも平等に課される、よって貧者にとってその負担度はぐっと大きくなることは誰でもおわかりのことでしょう。 このため富の平等化の最も有効な方法は効果的な直接税を課すことです。しかしマレーシアの直接税の中には相続税というもの自体が存在しておらず、このことが富の格差を維持または拡大させることに多いに寄与することになっていますね。

不動産売買利得税は今年ほとんど撤廃されてしまいました。株式売買のような源泉徴収税は貧者にはまず関係ないですが、源泉徴収税はRM 12億程度という全体から見たらごく低い割合です。 よって直接税として富の平等化に貢献するのは所得税しかないということになります。しかながらその所得税を納めるのは人口のたった 5%弱! という少なさ。

マレーシア社会はフローの形をした富(つまり所得)に税金を課す思考はもちろんありますが、ストックの形を取っている富(つまり相続の対象になるような不動産などの財産・資産)に税金を課すという思考がほとんど育たない社会といえます。これはマレー社会にも華人社会にもインド人社会にも共通しており、このことが 富みの平等化に重点を置くよりも、全体的底上げの中で所得と富の格差を拡大させる方向にある という社会構造の土台になっています。

この小論では、国家の経済面と国民の所得面の分析を通じて、マレーシアという国と社会の見方の一つを紹介してみました。日本語を含めて多くのマレーシア論は多民族と複数宗教を軸にした紹介や分析ですが、そういう観点だけでは不充分であるという Intraasia の主張でもあります。



ハラル(Halal)飲食品の定義とそのお話


マレーシアでスーパーマーケットに入って食品棚や飲食品コーナーに並んでいる製品を丁寧にご覧になれば、多くの製品に Halal (ハラルと発音)マークが印刷されていることに気が付かれることでしょう。また街の屋台センターや飲食店の中には、看板に Halal マークを付けているところがあります。ただ店・屋台の看板案内に Halal マークを付けているのは、製品の場合には比べればはるかに少ない。数多くある華人大衆食堂(コーヒーショップとも呼ばれる)は最初から halal の範疇ではないし且つ halal になることを期待しているわけでもないので、この種の食堂の食物が halal マークを付けることはありえません。さらに屋台のような商いではムスリム店主であってもいちいち Halal マークを申請することはごく少ないでしょうから、Halal マークを見かけることが少ないといえます。

ハラルの意味

マレーシアに関心をお持ちの方なら恐らくすでにご存知のように、Halal マークはイスラム教の定めるところに従っているのでムスリムが飲食しても差し支えないという公式な表示なのです。従って管理当局の許可なしに勝手にこの Halal マークを製品に印刷したり、店の看板案内に付けることはしてはいけないことになっています(無許可でやる人や店・会社がいるので問題になるわけです)。なお halal の反対語を haram と言います。 haram マークというのはありませんよ。

非ムスリムのマレーシア人を含めて多くの人の間に、豚肉またはアルコール類が含まれていなければ halal となるという間違いった捉え方がよくあります。halal の指針はそんな単純なものではないことは次の詳細な定義をご覧になればおわかりになるでしょう。

マレーシア当局の定めるハラルの指針と定義

次の項目のものはどれも halal にはならない:

この指針・定義はマレーシアイスラム教発展庁(通称Jakim)及びHalal 産業発展公社が定めています。

ハラル認証マークを得るための条件

多方面且つ詳細な指針・定義ですね。ですから認証を受けなくてもそのままでも halal じゃないかと思われるような、豆乳やシリアルなどの製品にもHalal マークが印刷されています。豆乳や牛乳には多少に関わらず含有・添加物が含まれていますから、その添加物もhalal である必要があるわけです。上記の定義から明らかなように、製品に使われる材料と含有・添加物だけではなく、その製造過程も halal 指針に合致しなければならないことになります。

西洋料理やケーキ作りでは味付けの一つとしてワインなどが用いられますよね、また日本料理では味付けとして日本酒やみりんを使う場合があります。こういった料理はそれだけですでに halal とはならないことがおわかりですね。マレーシアに実に数多くある中華レストランは、上記の定義に当てはめればいうまでもなく halal にはなりませんが、ごく少数の中華レストランはhalal マークを看板に掲げています。材料、調理法の全てで当局から halal 認証を得て、ムスリムの利用客を期待しているわけです。

食品への化学調味料として使われるグルタミン酸ナトリウムは、その製造過程で豚脂肪から抽出した酵素をしばしば使うとのことです、つまりこういう食品添加物も厳しくhalal から除外されることになります。

こうしたことから、Halal食品に関するマレーシア基準は加工食品の halal必要条件も含んでいます。食品製造業者は製品の細かな情報を Halal 認証団体に提供する必要があります: 全ての原材料内容、加工過程、包装、食品安全、工場の衛生規定

Halal 監査官は定期的に認証した工場の検査を実施します。その際、工場施設、材料と添加物を含めた製品、装置機械、倉庫が基準に準拠していることを確認します。運送も検査され、Halal 認証の前後にその基準に否定的な影響を与えることが起きないようにします。 

以上のようなことが halal に関する特集記事に載っていますので、ここで halal に関して少し詳しく紹介しておきました。

非halal 食と halal 食の混在は防がれている

こういったhalal に関する知識を増していくと、身近な例で言えば、halal でない肉類や材料を料理した調理具をそのまま使って halal 食品を調理したらその料理は halal にはならないということがわかりますね。ですから、ある店でまたはあるレストランで、 halala 料理と非halal 料理を作る調理場の共有というようなことは理論的には起きえないわけです(現実は個々の例を検証する必要がありますが)。もちろん調理した、料理した非halal 食の容器を halal 食の容器と隣り合わせて売るようなことはしていけないわけであり、よってこの料理の作り手である店と屋台が非halal 食も halal 食も両方作って売るという例は理論的にはありえないはずです。なおスーパーのような大きな店では、肉販売部門においては 非halal 専用の一画が別途設けてあります。つまり決して混在しないようになっています。

ファーストフード店はどうかといえば、名の知れたファーストフードチェーン店は全て halal 認証を得ています。つまり マクドナルドやケンタッキーフライドチキン店は全てhalal 食品だけを調理販売していますから、ムスリムにたいへん人気あるわけです。特定の非ムスリム客だけを相手にした非halal ファーストフードスタイルの店が全国的チェーン展開することはほぼ不可能であることになります。マレーシア人口の6割強はムスリムです。

マレーシアにおける halal

私がマレーシアに来て住み始めた当時の90年代初期のことです。夜間マレーシア語を習っていた私は、日本へ出張で帰った際に手土産のお菓子を買ってその語学院の先生たちにあげました。そうしたら、それはhalal ではないので食べられませんという申し訳なさそうな返事が返ってきて驚いたことが、Intraasiaのハラルとの真面目な出会いとなりました。言うまでもなく halal にこだわる必要のない私ですが、その後マレーシア生活を続けていく中で halal はマレーシア社会を考える一つの題材にもなってきました。

マレーシアのイスラム教は、世界的なイスラム教潮流の高揚を反映して、この数十年間徐々に教義・解釈の厳密な実践化方向に進んできたことは、多くの事象が示していることです。さらにイスラム教がその宗教性として極めて厳密な決まりを範としてしていることから、今後こういう halal に関する認証とその実践がないがしろにされていく可能性はないでしょう。



マレー鉄道でイポーまでの北部路線が複線電化されて新列車運行が始まった


実に長引いたイポーまでの北部線の工事

マレー鉄道(正式にはマラヤ鉄道と呼ぶべきでしょう)の Rawang と Ipoh区間(約180 Km)で90年代終わり頃始まった複線電化工事は、何年もの間工事停止と工事遅延が起こりました。そのため度々の完成スケジュールの後方修正を経て、ようやく2008年前半にイポー駅改装工事を含めて竣工となりました。この工事が始まったことでマレー鉄道のクアラルンプール以北の運行に大きな影響が出て、2001年6月末以降はクアラルンプールと半島北部方面を結ぶ列車は1日わずか1往復に減りました。90年代は日に3往復あったことと比べて激減しました。

数年の間この北部路線は、ハリラヤなどの休暇時期の臨時列車を除いて、クアラルンプール−バタワース経由 −ハジャイ 路線であるランカウイ夜行急行の往復1便だけが運行されていました。クアラルンプール以北の長距離列車がわずか1日1往復だけというのは、貴重な鉄道施設が十分に活用されていないとの思いを強く感じました。しかし一般国民には、工事のためという理由から致し方ないと捉えられていたようですが、そういう捉え方自体が、いかにマレーシア国民は鉄道の依存性が低いかを示すものでした。

マレー鉄道利用者像を推測

ところでマレー鉄道の利用者は一部の人たちに偏在していることがわかります。つまりマレー鉄道利用者は常連利用のマレーシア人と鉄道好きの外国人に偏っていると言っても間違いではないでしょう。マレー鉄道に乗ったことのない国民は全然珍しくありませんよ。東海岸州へ帰郷する人と訪問者はマレー鉄道利用者の中心利用者の一つといえそうです。クアラルンプールを真ん中として西海岸州間を行き来する人たちは、自家用車族に加えて、ハイウエーを走行する長距離バスに多大に依存しています。数十のバス会社が運行するバスの本数は鉄道便数よりかなり多いという段階ではなく、比較自体にならない多さですから、移動者が中長距離バスに頼るのも無理ありません。

そしてもう一つの大きな要因は鉄道便の所要時間が長いことです。鉄道便はバス便よりも大雑把に言って5割近く余計に時間がかかります。実際には鉄道旅はかなり快適なのに、こうした現実の下で、鉄道を利用しようと考えない人が非常に多いことが容易に推測されます。こうしたことから、マレー鉄道の利用者は常連利用者に多いに偏っていると私はみています。

注:例えばジョーホールバルとクアラルンプール間の所要時間を見ますと、長距離バスでは大体4時間半ぐらい、マレー鉄道では約6時間強です。

西海岸路線の複線電化プロジェクト

西海岸線の複線電化計画は、政府決定として2004年に一時中止が発表されましたが(Rawang とIpoh区間は停止とは宣言されなかった)、昨年終りごろかな、それとも今年初めぐらいかな、計画再開が政府決定されたことで、今年からゆっくりしたペースで工事が始まりました。ただし、まずイポー以北の北部路線での工事が優先されているようです。環境への影響とエネルギー効率からいえば、鉄道の方が自動車よりずっと優れていることは、日本人であれば誰も知っていることでしょう。しかし電車・鉄道網の極めて粗いマレーシアで、国民にそういう考えを植え付け且つ捉え方の転換を図るのは至難の課題といえます。

そのためには、まず複線電化した区間で運行本数を増やし、バス並みの所要時間を達成し、加えて時間に正確な運行を示すことが、必須だと思います。実績を持ってマレーシア国民に示していくことが、マレーシア人の鉄道に対する捉え方の転換を図っていく鍵になるはずです。

注:ごく最近この北部路線工事でペースが落ちているとの小さなニュースを読みました。景気済停滞から景気後退にもなりかねない現経済状況下では、この種の急を要さないプロジェクトは、施主側と工事請負側の双方が工事遅延を求める可能性は少なくないようです。

今年久しぶりに北部路線が増便された

マレー鉄道(マラヤ鉄道)のRawang - Ipoh 間の複線電化の完成よって、今年春頃から、クアラルンプールからの北上路線では便が1便または2便増えています(2007年にはごく限られた休暇時期に臨時便が運行されたと記憶しています)。2008年12月時点の時刻表を載せておきます。なお停車駅は主要駅のみ表示しました。

マレー鉄道北部路線
列車便名 Ekspres
Sinaran
XS.4
Ekspres
Khas Utara
1004
Ekspres
Rakyat
ER2
Senandung
Langkawi
列車便名 Ekspres
Sinaran
XS.3
Ekspres
Khas Utara
1003
Ekspres
Rakyat
ER1
Senandung
Langkawi
Kuala Lumpur
0910
2230
1423
2000
Haad Yay (タイ)
---
---
---
1320
Ipoh
1235
0151
1733
2328
Butterworth
1000
2230
0700
2024
Taiping
1455
0355
1925
0202
Taiping
1216
0102
0902
2314
Butterworth
1710
0610
2145
0439
Ipoh
1424
0247
1048
0119
Haad Yay (タイ)
--
--
--
0950
Kuala Lumpur
1800
0556
1400
0520

土日
運行
金土日
運行
毎日
運行
毎日
運行
 
土日
運行
金土日
運行
毎日
運行
毎日
運行


クアラルンプール −イポー間のシャトル列車が運行を開始

以上に加えてつい最近の12月初めから、クアラルンプール − イポー間を運行する便を開始しました。月曜日から金曜日まで週5日で日に5往復便運行するので、マレー鉄道はシャトルサービスと名づけています。

クアラルンプール −イポー間のシャトルサービス列車
下り便 Tren
52
Tren
54
Tren
56
Tren
58
Tren
60
KLからの
運賃
上り便 Tren
51
Tren
53
Tren
55
Tren
57
Tren
59
Kuala Lumpur05000900130017002145
Ipoh05000900130017002100
K. Kubu baru06041004140418042249
Kampar05340934133417342134
Kampar07271127152719270012
K. Kubu baru06551055145518552255
Ipoh08001200160020000045RM10/ 18Kuala Lumpur07561156155619562356


学校休暇時期もあって、思った以上に人気が良い

シャトルサービス列車の運航開始を聞いた私は早速乗ってみようと思っていました。そこで学校休暇時期なので多少混んでいるかもしれないなと思いながら、12月第2週平日の8時半にKL Sentral駅の切符窓口へ行きました。なんと列車は多少ではなく大変混んでいて、宣伝文句である 運賃 RM 10 のEconomy席は売れ切れでした。2等席である Superior 席も残り少ないとのことで、RM 18でそのSuperior席切符を買いました。帰路も列車で戻ろうと予定していたので、帰路列車の切符状況を聞いたら、13時発は満席、17時発はSuperior 席だけわずかに残っているとのことでした。そこででバスで戻ることにして、帰路切符は買いませんでした。

学校休暇時期の影響はまことにありますね。さらにオープンしたてのものめずらしさも加わって、クアラルンプール − イポー間はどの便も混んでいます。E-Ticket であらかじめ購入するまでもないだろうと思っていた私の予測は間違いでした。1月初めに学校新年度が始まるまでは、乗る日と時間が確定していれば、E-Ticket であらかじめ購入しておいたほうがいいでしょう。

さて列車はマレー鉄道でお馴染みである通常の車輛が使われています。つまりシャトルサービスはKomuter のような電車輌ではありません。列車編成はEconomy車輛が1輌、Superior車輛が2輌という短いものです。Superior 席はゆったりしているので、RM 18の価値はあります。キャンペーン期間中、始発と最終に限って、(旧)Kuala Lumpur 駅で乗るエコノミー席切符だけはRM 1という特別サービスを行っています(ただし期間と数が限定されています)。もっとも朝5時はバスも電車も運行してないので、駅まで行くのに深夜割り増しのタクシー代という余計な金がかかりますので、私を含めて多くの人には全然得になりませんが。

ご覧のように時刻表上の所要時間は3時間です。帰路のバスでの所要時間もほぼ3時間でしたので、列車が特に遅いということにはなりません。バスの場合はイポーのバスターミナルMedan Gopeng  -  クアラルンプールのPudu Raya となり、運賃は約 RM 17.5 です。イポーまでの所要時間は確かに3時間でしたが、列車に乗り込んでからクアラルンプール出発が30分遅れました。列車に乗り込む前も座席に着いてからも、一切なんのお知らせも全くなかったところが、これまでとなんら変わりのないマレー鉄道らしさですな。せめてどれくらい発車が遅れるのかぐらいは乗客に知らせるべきであるという、公共交通機関としての常識がマレー鉄道職員間と組織の常識になる日が果たして来るのでしょうか? 

延々と続く携帯電話会話にいらつかされる

クアラルンプール出発時には、Superior 席車輛には空席が目立ったのですが、途中停車駅で次第に乗客が乗ってきたので、途中から8割がたの席が埋まった状態になりました。学校休暇時期のためでしょう、平日ながら親に連れられた子供が目立ちます。子供が通路を走り回ったりするうるささよりも、乗車3時間中の半分くらい携帯電話で会話していた前の座席乗客にはいらいらさせられましたね。マレーシア人の常で、携帯電話会話で特に声を落とすというような行為はしませんから、その声が耳につくわけです。長距離バス車中であれ、鉄道車中であれ、こういう携帯電話偏執者に付近に座られたら乗車が不愉快なものとなります。なにせマレーシアは、車中では電話会話を控えるべきであるとか、声を落とすべきだという社会通念が全く存在しない社会ですから、会話している者はなんら恐縮なり遠慮するそぶりさえ見せません。

日常携帯電話会話の騒音は至る所から聞こえてきます。携帯電話禁止マークが目立たなく貼られている病院で、医院で、銀行で、郵便局で、役所内でも、従わない者は全然珍しくありません。市内乗り合いバスの運転手が運行中にとか、シネマの上映中でさえ観客が携帯電話会話をしていますから、社会におけるこういう公衆マナー教育はマレーシア社会の最も苦手なことの一つです。

複線電化がもたらしたプラットフォームと駅舎の改装

Rawang 駅 まではすでに90年代中頃から、近郊電車路線であるKomuter 電車が運行されている複線電化区間です。シャトル便が運行できるようになったのは、Rawang駅からイポー駅までが複線電化されたからですが、Rawang 駅以北にある小さなRasa 駅までの短い区間は1年半ぐらい?前にKomuter電車が開通していました。Komuter 電車が運行されている区間の駅は、昔ながらのマレー鉄道駅とは違った現代風のプラットフォームに”格上げ”されています。とりわけ2000年以降に新設されたKepong Setral 駅はいかにも新しい感じのするプラットフォームです。

Rawang 駅以北でイポー駅までの間で停車したKuala Kubu Baru 駅、Kampar 駅など6つの駅はKepong Setral 駅のような新プラットフォームであり、車窓から見る限り、それぞれの駅舎もかなり改装されているように見えました。まさに”ぴかぴかの駅”ですね。なおシャトル列車はなぜかRawang 駅には停車しません。

10年ぶりぐらいに昼間の沿線風景を眺める

マレー鉄道北部路線が夜行であるランカウイ急行1本だけに減便されたのが2001年です。私はその後もランカウイ急行に乗ってきましたが、北部路線の昼間列車に最後に乗ったは確か90年代の終わり頃です。夜行に乗ると、風景はいうまでもなく、停車する駅の様子もほとんどわかりませんよね。私はランカウイ急行の場合は常に寝台車輛の上段に乗るので、駅の様子さえもわかりませんでした。ですから今回シャトル列車に乗ってRawang 駅以北の沿線風景と駅の様子を眺めたのは、ほとんど10年ぶりぐらいのことです、車窓風景がいささか新鮮に見えました。

Kepong Sental 駅を過ぎてから Sungai Bloh 駅あたりまでの線路際は不法ゴミ投棄の場所と思われる光景がしばしば目に付きます。いわゆる不法無断居住者のバラック小屋も線路に近接してぱらぱらとあります。都会の近郊に属するそのあたりは、数十年と変わっていないであろう、また別のクアラルンプール圏の様相を示しています。10時半ごろ、列車はKuala Kubu Baru 駅に着きました。ぴかぴかの駅舎です。Kuala Kubu Baruはフレーザーヒルへの起点となる田舎町なので、私は何回もバスで訪れていますが、鉄道駅のあるあたりは一度も訪れたことがありません。町の中心部から多少離れているはずです。多分乗り合いバス便もないでしょうから、または例えあってもごく便がすくなそうですから、旅行者がこの駅で下車しても行動しにくいのではと思いました(検証してないので100%確実ではありませんよ)。

その次はTanjong Malim駅です。この駅もぴかぴか駅です。わずかの下車乗客がありました。Tanjong Malimはスランゴール州に隣接したペラ州のそれなりににぎやかな町です。これまでに1,2回ほどバス乗り換えのついでに立ち寄ったことがありますが、観光という面からは特に見所といったようなものはない町ではないでしょうか。ただし、いわゆるProtonタウンへはTanjong Malimが至近距離になるはずです。Tanjong Malimの町が現在ではバスターミナルのあるあたりを中心にして栄えています、マレー鉄道駅のあるあたりはどの程度そこから離れているまたは近接しているのか、私は知りません。

その後列車はペラ州内をイポーへと向かって北上していきます。
列車の車窓からの眺めは、半島部南北縦断ハイウエーからみる風景とは多少違う風景となります。西海岸線の場合、鉄路が架設されたのが第2次大戦前という古いことから、今では線路が比較的町部に近いところを走っていることになり、樹木の生い茂るジャングルまたは山野風景はありますが、それほど多くありません。車窓から眺めていると、パーム農園も時々目に入ります、しかし延々と続くといった形容はふさわしくありません。

一方南北縦断ハイウエーは山野を切り開いたのが80年代であり、さらに町部からからかなりはなれた郡部を走る割合が多いことから、山野風景とオイルパーム農園風景が延々と続く区間がたくさんあります。南北ハイウエーではイポーに近づいていくあたりの渓谷や山野風景は見ごたえありますが、マレー鉄道の車窓風景はこの点では多少敵いませんね。

改装されたイポー駅はモダンな駅構内

こうして列車はKampar 駅、Batu Gajah 駅を過ぎ、都市部に入ったことを実感する風景になってまもなく、イポー駅に到着しました。クアラルンプールの Sentral KL 駅を出発して3時間後の12時半でした。イポー駅のプラットフォームは現代風に大きく改造され、駅構内及びプラットフォームの上方に新しく作られた屋根はいかにも最新式であることを示すデザインです(当サイトの『マレー鉄道の案内と旅』ページに写真を載せています)。改装されたイポー駅舎内はまだテナントが入ってないようです。切符売り場の前に長い列ができていたことに、クアラルンプール −イポー間のシャトル列車の人気を感じました。学校休暇が終わってもこの人気が続いて欲しいものです。

旅行者、在住者の方で、鉄道好きな方にはイポー日帰り旅行もいいかもしれせんね。数時間街歩きが楽しめます。もちろん1泊してイポーの夜を見てみるも良し、 その夜または翌日ペナンへ鉄路行くことができます。さらにバスターミナルからバスでキャメロンハイランドへ行くこともできますよ。



Intraasia の雑文集 −2008年後半分


はじめに

「ゲストブック」 には随時様々な題材で書き込んでいます。しかしその書き込みはいずれ消えてしまいます。そこで2008年下半期に Intraasia が書き込んだ中から主なものを抜粋して、コラムの1回分として収録しておきます。ごく一部の語句を修正した以外は、書き込み時のままです。

【 You Tubeで聴いたフランス大統領夫人の歌に触発されて書きました 】

今日はマレーシアにも東南アジアにもまったく関係ない話題です。でもこの「ゲストブック兼 Intraasia からのお知らせと雑記」 ゆえに、雑記としてそれは許されます(笑)。

今朝新聞を読んでいたら、またまたフランス大統領の妻がアルバムを出す話題が載っていました。もちろんマレーシアの新聞ですから、いつも全て外報ページの記事です(フランス語を解する記者がいるとは想像できないので、英語紙などからの引用や参照では書けても自ら調べて記事を書ける記者がいることはまずありえないからです)

このヨーロッパの有名女性のことは以前からマレーシアの新聞にも時々載っていましたが、私は特にそれ以上に興味が沸くことなく、記事を読んだだけで終わっていました。ところが今日の記事でまた新アルバムの話題が書いてあったので、60年代フォーク調のフランス語アルバムという記述に引かれて(仮に英語だったら興味は全く沸きません)、インターネットで検索してみました。You Tube ですぐヒットして、彼女 Carla Bruni のビデオがいくつか表示されました。新発売するアルバムの曲のビデオはさすがに載っていませんでしたが、いずれも数分から10分ぐらいのビデオです。パソコンの小さな暗い画面で且つノートパソコンのスピーカーという音質の悪さを前提に、 Quelqu'n m'a dit (誰かが私に言った)というビデオなど彼女の歌声を録音したビデオをいくつか聴いてみました。その歌声はなかなか素敵ではないですか。そして写真でしか見たことなかったけど、外報記事が描写していた”美人”というのは確かにそうだな、と思いました。(といってこの女性のファンになるようなことはありませんよ)

ものすごく久しぶりにフランス語の歌を聴いたことと、その歌声がギター中心の歌であったことから、なんとなく懐かしさと日ごろ耳にしない珍しさを感じたわけです。Intraasia は特に音楽ファンではないので、レコード、CDの収集は昔からほとんどありません。ただ昔からラジオが大好きなのでマレーシアでも家にいるときは例外なくかかっており、音楽が流れています。マレーシアですから、マレーシア語局なら当然マレーシア語歌謡ばかり、華語広東語局なら華語か広東語歌謡ばかりです。尚英語局には一切ダイアルを合わせません。こうしてもう何年も何年もマレーシア語歌謡と華語と広東語歌謡ばかりプラスたまにかかる英語歌謡を聴いてきたわけです。マレーシア国外の近隣諸国に旅してそこでテレビなどで耳にするのが、いわば例外的に聴く他言語音楽世界です。(よって他言語の歌、とりわけ昔よく聞いていたヨーロッパ語の歌が懐かしいという感慨になるわけです)

それゆえ、ものすごく久しぶりに聞いたフランス語曲、それもギター主体の音調にしばし引きつけられたわけです。70年代後半から80年代前半にかけて、すごく断続的に4,5年は勉強したフランス語です、もう20年ぐらい音としては全く使っていない衰えたフランス語力とはいえ、意味がわからなくても単語自体は聞き取れます。ビデオを聞いていると、フランス語のリズムの良さが耳に心地よく響きました。フランス語は私にとって、いくつか手がけたヨーロッパ言語の中でドイツ語に次いで力を注ぎ、当時はそれなりにコミュニケーションできた言語ですが、20年を超える空白は言語力をとことん低下させてしまいます。数千時間を費やした学習が無駄になったかのようです。でもそれはどんな言語にも言えることであり、人間について回ることですから、仕方ありませんね。

アングロサクソン世界にはあまり興味を持たなかった青年時代のIntraasiaにとって、70年代後半から80年代初期の数年間 フランスは大きな興味を感じた国の一つです(他にもあったのであくまでもその1つです)。その一環としてフランス語を時々自習していました。80年代半ばから私の興味と言語はドイツ語圏中心に移りましが(その頃は東南アジアと掛け持ちしていた時代です)、非アングロサクソン文化・世界の筆頭としてのフランスへの興味が全くなくなったことはありません。 ドイツがアングロサクソン文化世界の容認をより示しているのと対照的に、フランスはそこまで踏み込んでいません。例えば、両国の外国でのテレビ放送局(衛星放送)を比べてみれば一目瞭然です。ドイツ語海外局である Deutsche Welle は英語放送番組が数割を占めます、しかしフランス語海外局である TV5 はほとんどフランス語番組ばかりです。 反英語ではなく、反・英語独占主義者としての Intrasia は、フランス語的あり方により好意を感じます、もっとも言語としてはドイツ語の方が好きですけど。

さてCarla Bruni の歌声はちょっとハスキー声ですね、そのはっきりしたフランス語音はいいなと思いました。マレーシアでは、毎週日曜日広東語ラジオ局で、J- Popsヒット曲を紹介する番組が10年続いており、家にいるときは聞くともなく聞いています。その時 J-Popsヒット曲に対して、「どうして日本語の音調を崩してしまうの」 という感想がよく私の頭に浮かびます。 英語歌詞を日本語歌詞に挿入したり、日本語のリズムを崩すような音調を残念に思います。 長年言語問題を論じてきた1人の言語論者としてIntraasia は、言語は変化するものであり、規範通りに発音することだけが美しいということはない、という立場に立っています。それを示すのが、方言の美しさであり良さなのですが、単なる英語借用のあり方と精神には、強く反感を覚えるものです。

フランス大統領夫人としてのCarla Bruni がフランスマスコミなどをにぎわせているというようなことは、私にはどうでもよく、You Tubeで少しばかり聴いただけの段階とはいえ、ものすごく久しぶりに聞いたフランス語曲の音調と、なんとなく懐かしさを感じるギターを抱えた歌い方に好感を覚えました。

その音楽性とは別に、マレーシア政界の指導者陣の夫人が現れる退屈なニュースの調子と”良い女性像”を振りまくスタイルにあきあきしているので、 Carla Bruni のような”貞淑で良い女性”ぶらないあり方に、ある種の清涼感を感じたことも事実です。たとえそれが、マレーシアのような保守的な世界ではありえないことだとしてもです。 最近の日本のトップ政治家の夫人像はどうなんでしょうか? 私は日本語マスコミを全く目にしないので、90年代以後のことはよく知りません。昔は奥に隠れた夫人像がほとんど全てでしたよね。 最近の日本政治指導者層では”貞淑で良い女性”ぶらない夫人が現れているのでしょうか?

女性宰相であるドイツ首相の夫は、ほとんど公式的な席には出ず、もっぱら本来の学者として暮らしているとのニュースを読んだことがあります。良いあり方ではないですか。 妻または夫の内助の功を大きく期待する米国大統領制のあり方とか、内助の功を良妻の鏡のように扱った日本の(以前の)政界指導者像になんら同感を覚えないIntrasia としては、わが道を行くドイツ首相夫にも清涼感を覚えるものです。

たまたまYou Tube で聴いた、フランス大統領夫人Carla Bruni の歌声に触発されて、Intraasia の過去を懐かしむ気持ちと言語思想の顕示が混じった雑記となりました。まあたまにはこういう内容もお許しください。


【 国境の検問に思う 投稿者】

私は先週末シンガポールを訪れました(日帰り)ので、その時忘れていたことにふと気がついたわけです。 マレー鉄道でシンガポール入国する場合、マレーシア人及び外国人の出国手続は車中で、乗り込んできた Imigresen 係官がその所持パスポートを見て、ページに書き込みするだけです。 マレーシア人の場合はいいとしてここでは取り上げません。ジョーホールバル駅より前の区間からその列車に乗ってきた外国人の場合、どのような滞在パス(許可証)であれ、その記録がImigresenのコンピュータに残ったままになってしまいます。なぜならImigresen係官はパスポートの名前も番号も一切メモしないからです。 これは考えてみれば、まことおかしなやりかたです。

合法的に許可期間内に出国した外国人旅行者の記録が、Imigresenのコンピュータシステムに永久的に出国無しとなってしまうのですからね。仮にその同じ旅行者がまた同名で且つ同番号でマレーシア入国すれば、その時点で記録は訂正されることにはなるでしょう。しかし仮に5年後にまた入国する訪問者はそのときまで、滞在記録上はマレーシアにいることになってしまうはずです。 私は係官に "ganjil(おかしい)”と言ったのですが、彼はそれに答えてくれませんでした。

8月から出入国カードが再導入されて、出国カードが回収されて且つそのカードの記録をきちんとシステムに入力すればこの問題は解決できることになるでしょう。しかしあくまでもきちんとやるという前提ですね。シンガポール側の場合、列車の乗客を全員降ろして、検問所で出入国検査をします。ある意味では当然の手続きと言えます。

マレーシア側の出国手続がなぜ、ある意味ではいい加減なのか、よくわかりません。マレー鉄道でPadang besar 駅の場合をみましょう。このとき全員列車を降りて、マレーシアImigresenのカウンターでコンピュータ入力のある出国検査を受けます。 その後タイ側のカウンターで同種の検査です。

この事実からわかるように、シンガポール国境とタイ国境における列車での出国手続に違いがあるという点ですね。

ところで同日午後私はCauseway経由でマレーシアに戻りました。日曜日のせいなのかどうか知りませんが、Woodlandsのシンガポール検問所は長蛇の列でした。実に1時間も並びました。シンガポールImigresen は出国全員に電子式の指紋照合まで強要していますね。入国時にはそんなことしてないのにです! なぜあんな人権軽視的なことを強要するのだと不愉快に思いました。日本も外国人に入国時指紋登録を強要始めたようで、テロ防止という国家の勝手な理屈によって、すべての入国者の身体データまで登録管理する(いつかそれが漏れていく)、今後ますますこの面での人権軽視の論理が世界を席巻していくことになるでしょうね。


【 このごろのブキットビンタン街でよくある光景】

クアラルンプールのブキットビンタン街という呼称は一般に、単に Jalan Bukit Bintang という通りだけのことをいうのではなく、その通りを含めた界隈を指します。自他共に認めるクアラルンプールのそしてマレーシア随一の商業兼観光地区です。巨大なBerjaya Times Square が数年前に開業したことで界隈が広がり、且つこの1年以内には 高級ショッピングセンターの Pavillion がオープンしたことで、高級志向場所が増えました。80年代から建つショッピングセンタ用建物自体はかなり古い Sungei Wang Plaza が今なおダントツの人気を集めているという事実は、誇るべきことですね。宿泊場所に目を向けると、5星から星なしまで様々なホテルの揃うブキットビンタン街で最近の変化は、この地区の老舗のRegent Hoelが新オーナーになって改築され、その近くに新しく ブティックホテルもオープン予定です。

Intraasia にとってブキットビンタン街は我がアパートから徒歩で到達できる距離なので、これまで数千回位ブキットビンタン街の一画を訪れたり通り過ぎています。そのほとんどは歩いてです。よってブキットビンタン街のあちこちで常に起こってきた、起こっている変化を感じ続けてきました。

今日夕方ブキットビンタン街へ銀行とスーパーでの買い物用事に訪れたら、Jalan Bukit Bintang と Jalan sultan ismail の交差する交差点に面した歩道の場所で(MayBank の前)、数百人のマレー人子供が群れていました。この光景は毎週土曜日午後にここしばらく見かける光景ですが、ずっと前から続いていることではありません。小学校高学年から中学生が中心の子供ばかりです、ごく少数女の子も混じっているようです。彼らはブレークダンスなどを披露し合いながら、雑談したりふざけあっています。

彼らは地元の子供ではなくクアラルンプール近郊などからやって来る子供がほとんだそうで、こうした場で仲間意識を共有しあうことに喜びを見出していることでしょう。ちょうど、東京の新宿や渋谷に近郊からたくさんの10代半ば前後の男女が集まってくるようなものと見なしても、間違いとは言えないでしょう。ただ多民族国家であっても、彼らは見事にマレー人だけというのが、現代マレーシアの都会の光景の一部であることを如実に映しています(ここではこのことには触れません)。 この子供たちの群れはSungei Wang Plazaなどにも及んでおり、食堂階に集まったり、階段でタバコすったりしています。精一杯大人気分を味わいたい年頃ですね。

Jalan Bukit BintangのFederal Hotel 方向に向かう商店街にはもう何年も前から 足マッサージの店が群発しています。一部はJalan sultan ismail との交差点付近にも広がっていますね。足マッサージ師なんていう認証された資格などありませんので、誰でもちょっと訓練を受ければ働けるし、この種の店の開店は容易らしく、まこと過当競争です。よってうるさい客引き行為が何年も続いています。法的整備をして少しぐらい取り締まれと思いますが、そんな気配はまったくないですね。通りすがりに聞こえた客引きの声から中国女性も働いていますね(華人じゃないことはその発音ですぐ私にはわかります)。 その通りを行き交ったり、ショッピングセンターを徘徊するアラブ人旅行者の多さは、この数年夏になると常態の光景です。ブキットビンタン街にはアラブ料理とイラン料理のレストランが目立ちます。 90年代を思い出すと、果たしてアラブ旅行者の姿をどれくらい見かけただろうと思うほどの大きな変化です。

土日のブキットビンタン街はまことにぎやかです。クアラルンプール郊外と非中心部に巨大なショッピングセンターが次々と出現してもう10年は経ちますが、それでもブキットビンタン街の人出は減りません。やはり人々は繁華街を求めて集まってくるのです。そして外国人旅行者のマレーシア訪問数が好調に増加していることを反映して、ブキットビンタン街を訪れる、そこに泊まる旅行者は減るどころか増えているということの現れでしょう。ちょっと高級観があるけど割安な買い物地として買い物客はブキットビンタン街を好むのです。

買い物といえば、先月7月の初めに日本から知り合い(当サイトに以前寄稿してくれた若奥さん)がクアラルンプールを短期間訪れました。手ごろなシューズを買いたいという彼女の買い物に付き合って、Sungei Wang PlazaやBerjaya Times Square などを巡りました。いやあ、驚いたのは女性向けシューズショップの多さとそこで売っている女性シューズの種類豊富さですね。値段は1足  RM 20ぐらいから 50ぐらいまでという手ごろな値段で、デザインもかなり洒落ています。これほどたくさんの店が出現し種類も豊富ということは、現代マレーシアヤング女性に人気あるといって間違いないでしょう。私は Sungei Wang PlazaやBerjaya Times Square などこの1年間だけでも数百回は通っているのですが、これほどこの種の店、軽く20軒以上はある、が増えているとはほとんど気がつきませんでした。 これはショッピングセンター内をぶらぶら歩いていたり、通り過ぎているだけでは気がつかないことの一つかもしれません。やはり、自分で買い物しなくても他人の、できれば女性の、買い物に付き合うことが必要だなとつくづく思った次第です(笑)。 今夕ブキットビンタン街へ行った時、ショッピングセンター内のシューズショップを外から眺めてみました、土曜日夕とあってどこもよく買い物客が入っていましたね。日本から旅行で訪れる女性の皆さん、一度はシューズショップを覗いてみるのもいいかもしれませんよ、とマレーシア買い物を応援しておきます。


【インドネシア人看護専門員の日本到着ニュースを知って、これまでの我が主張を展開します】

当サイトを数年以上に渡ってよくご覧になられる方であれば、「新聞の記事から」と「今週のマレーシア」で、そしてこのゲストブックでも、数多くの回数且つかなりの文章量(10万字をはるかに超えます)を費やして外国人労働者のことを伝え、書いてきたことにお気づきのことだと思います。その理由はまず、いわゆる外国人労働者のことは、ヨーロッパ時代からを含めて Intraasia の長年に渡る主たる関心事だからです。そして、マレーシアという国を論じる時に外国人労働者に触れないのはもはや意味をなさないほど、欠かせない存在であることと、及び私自身の暮らす地区はもう何年にも渡って外国人労働者と国連避難民と違法外国人の集中地区ゆえに極めて身近な存在であることです。例えば私の住むパートの住民の過半数はもはやこの種の外国人です(日本人、白人、韓国人は昔から全く住んでいません)。

外国人労働者や難民や違法滞在者が身近に住んでいる、地区を日常的に徘徊していることは、往々にして住環境になんらかの緊張感を生みます。なぜならその人たちの生まれ育った国、地方の慣習をそのまま持ち込んでくるからです(バングラデシュ、ネパール、ミャンマー、ベトナム、中国、インドネシアなど)。外国人労働者や難民や違法滞在者は、私のように単独で住んでいません、全てグループ、家族、かなりの集団で住み、また寄り集まってきます。よってその行動は極めてその集団の地のままの行動を示します。多くは悪気があってそう振舞っていないとはいえ、深夜騒音やゴミ散らかしやその他マナーの悪さはかなりのものです。(マナーの悪さというのは私の感じるそれであって、彼らにはそれが普通という場合も多いはずです)。 

我がアパートに外国人労働者や難民や違法滞在者が急増して10年強ですが、この文化観と慣習の違いに我慢することは時に耐えがたい気分にもなります。 互いにほとんど交流のない、モザイク状態の多民族混合社会の中で暮らすのは、決して気楽なことではありません。薄っぺらな国際交流主義を無邪気に奨励したり賞賛する人たちが世の中にいますが、こういう人たちは現実のあつれきを実生活の中で経験したことのない人たちなのでしょう。

しかしそれでも私は、多民族混在を一方的に嫌うわけではありません。むしろ多くの場合は彼らの存在を興味深く感じ、できるだけ多民族混合社会を経験することに意味を見出そうとしてきました。
以上のような前提をまずお知りください。そうでないと、これから私が主張することが曲解されてしまう恐れがあるからです。

今日の新聞の外報ページに外電発ニュースとして、「日本は外国人労働者に門戸を開き始めた」 と題し、初めてのできごととしてインドネシアから看護婦と介護または看護専門者の200人が日本に到着した、日本は今後2年間に最高1000人までインドネシアからこの種の人材を受け入れるという内容の記事です。最初のグループである2百人は6ヶ月の日本語学習を得てから現場に配置される、契約期間は3年、今後フィリピンからも同様の人材が来る予定もある、などなど・・・

そこでインドネシアのマスコミの伝えるニュースをインターネットで探してみました、すぐ見つかりました。抜粋しますと:
JAKARTA (Pos Kota) - Mau bergaji Rp17 hingga Rp20 juta perbulan? Jadilah TKI ke Jepang.
Kini masih dibutuhkan 1.000 perawat dan pendamping usia lanjut (orang jompo) dari Indonesia ke negeri Sakura itu. 以下略
このインドネシア語新聞では、給料は20万ルピアという相当なる高額ですよと、前書きしてます、2つの職種で1000人という説明もあります。全体に好意的な調子の記事です。

いつも書いてますように、私は普段日本語メディアの伝えるニュースはまったく目にも耳にもしないので、この記事の内容は非常に新鮮なニュースでした。日本の若年労働力不足と高齢化社会は私でもよく知っていますから、まず正直な感想として、良い試みであると思います。そして彼ら彼女らインドネシア人看護労働者が、外国人移入の良いさきがけになってくれればなと願っています。3番目に日本社会が寛容さで彼ら彼女らを受け入れて欲しいなと希望します。

日本民族だけの日本ではその躍動性はもう続かないことを日本人は気づく時期だと思います。人口停滞からだけでなく、現代日本人の思考と人生観の変化によって、例えばかつての1960、70年代の高度成長期はもうありえません。中国の益々強大化に備えてという対外論からではなく、自らのあり方に変化が出た以上、日本社会の構成にもそれなりの変化を受け入れる必要があるというのが私の主張です。その変化とは、徐々にしかし確実に開かれた日本社会への方向性です。ただし無節操な外国人開放は、社会の混乱をもたらすことは、西欧諸国やマレーシアの経験から明白です(ドイツ、フランスなどはずっと早くからこれを経験している)。 日本には日本的な外国人労働者受け入れ策が必要であるのはいうまでもありません、例えば日本語学習の必須化です。英語でコミュニケーションできればよいといった英語を話せる外国人労働者をありがたるようなあり方が仮にあるとすれば、それは単に英米流の猿真似、英語言語独占論者を喜ばせるだけですね。

外国人労働者に正式に門戸をオープンしていけば、必ずや住民としてのあつれきは生まれます、さらに職く場でも問題がでてきます。それはこの一文の最初に我が経験として書いた通りであり、決して軽視すべきではありません。だからこそそれを最小限に抑えるためにも注意深い計画が必要です。 同時に、閉鎖的な唯一日本人主義・意識を徐々に変化させていくという強い国民合意も必要ですよね。 外国人労働者を何としても抑えるのではなく、どのように日本社会が受け入れ、いかに問題発生を少なくしていくかに国民の合意を持っていくことに力を注ぐべき時ではないでしょうか?

インドネシア人看護者の日本到着を伝えるニュースを知ったことを契機にここに書いておこうと思いました。民族純度のかなり高い日本社会も変化の必要な時代になりました、限定されたとはいえ多民族社会共生を基にした(つまり使い捨て意識ではない)外国人労働力の有効利用は今後の日本の進めていく方向だというのが、Intraasia の主張です。


【マレーシア人バドミントン選手の金メダル獲得を応援し北京オリンピックの現状に思う 】

昨日夕方帰宅する時、テレビが置いてある大衆食堂・店の前を数箇所通り過ぎた時に気がつきました。どこもテレビ前には路にはみ出す形で多くの人が集まっていました。バドミントン競技の中継が行われていたからです。今日の「新聞の記事から」に載せましたように、男子シングルで  Lee選手が決勝進出をかけて試合をしていました。夕方の試合だと私は知っていましたので、人だかりを見てぴんと来ました。

マレーシア選手団で決勝進出は多分この試合しかチャンスはもうないでしょうし、マレーシアスポーツ史上初の金メダル獲得のための大事な試合ですから、人々が期待するのも無理もありません。もちろん私も是非、彼に勝って欲しいと思っています。 華人店は別にして、マレー大衆食堂のテレビに集まった集団の顔ぶれをみて、多くのマレー人が混じっていることにある意味でのうれしさを感じました。最近のバドミントンは華人選手がぐっと多く、このオリンピック派遣でも同様です。しかしテレビ前の観衆は華人選手、マレー人選手としてみるのではなく、そのバドミントン選手をマレーシア人選手として応援している気分を感じたからです。日曜日が決勝です。

それにしてもマレーシア選手団の内、マレー人選手は人口比より少なく、とりわけマレー女性は極めて少数です。世界のムスリム国家の傾向を反映して、マレー女性の取り組むスポーツは限られています。且つマレー界にあるスポーツへの捉え方が、世界の一流は無理でも東南アジアでの一流半程度の女性選手層を生み出す可能性に至ってないことが大きな理由でしょう。よって今後もマレー女性スポーツ選手の世界舞台での活躍はまず期待できませんね。マレーシア自体スポーツ国家でないのは誰でも自覚していることです。プロリーグのあるスポーツは世界ランキング百数十位のサッカーだけです、しかもマレーシアサッカーリーグの観客はマレー人主体であり、国民スポーツになっていません。 バドミントンの方が国民スポーツといえるかもしれませんね。

ところでオリンピックに戻りますと、これまでと同様に、私はオリンピックに熱中していることはまったくありませんので、各種競技のニュースを翌朝の地元紙で読む程度です。新聞自体はかなり丁寧に読むので、スポーツニュースもそれなりに読みます。それにしても中国のメダル獲得数はすごく多いですね。開催国であり且つ人口の多さからある程度は当然ですけど、序盤からこうも大量獲得では最終的にはどうなることやら・・・。  たった1個、それも初めての金メダルを夢見ているマレーシアなど足元にも及びませんね。

オリンピックはどの時代を通じても国威発揚の最高の場ですから、国家が力をいれることはわかります。そうはいうものの、中国の異常な国威発揚とがんばり精神にはあきれます、まあ正直って辟易します。私は以前から述べているように、反中国でも親中国でもありません、正確に言えば大国好きでない者です(米国もロシアも中国もインドもこの意味から好きではありません)。

基本的に国家の権威と国家のためという思想を嫌うコスモポリタン主義なので、オリンピックにおける国旗掲揚と国歌斉唱など止めるべきだというのが、私の昔からの主張です。スポーツの祭典はたいへん結構なことですが、国威発揚の場から離れて個人やグループで世界的レベルの競技を争う場にすべきだと思いますね。言うまでもなく、核廃絶の可能性のなさと同じで、そんな時代が21世紀中に来るとは思えませんが、主張とそれを反映した運動は絶やすべきではないのです。


『日本就航予定の格安航空AirAsia X の日本での発着空港はどこが最適でしょうか?』 投票結果

格安航空 AirAsia 翼下の長距離国際航空会社 AirAsia X は昨年発足し、徐々に路線を増やそうとしています。早ければ来年2009 年中には日本就航を予定しているそうです。しかし発着空港はまだ選択兼交渉過程にあり、決定していません。なお、格安航空ですから、発着利用料の高い成田空港、関西空港に就航する可能性はまずありませんので、選択項目に入れてありません。マレーシア専門ホームページであり、少しでも安く旅行されたい読者が少なくない当サイトとしては、就航時期と空港に非常に興味あるところです。そこで読者の皆さんからの声として、最もお勧めである発着空港を投票の形で選んでみようと思いつきましお1人につき一箇所を選んでください。

という前書きで、7月後半と8月後半の合わせて18日間ぐらい実施しました、 『日本就航予定の格安航空AirAsia X の日本での発着空港はどこが最適でしょうか?』 投票の結果を載せておきます。 途中で一時AirAsia X就航を危ぶむニュースが流れたので投票を中断した結果、2回に渡ったわけです。 投票数 149人 が私の期待より残念ながらいささか少なかったのですが、まあ、訪問者全体のごく一部しかこの種の試みに参加されないのはどこでも同じでしょうから、仕方ないですね。私自身もそうですから(笑)。

首都圏の羽田空港と関西の神戸空港がダントツに多かったという結果です。でも地方の空港もそれなりに票を集めましたね。 

燃料費追加代のおかげで、もうなんとかしてくれというぐらい、航空券総料金が上がりましたね。年に数回催されるマレーシア航空やシンガポール航空の割引サービス期間でさえ、マレーシア発日本往復エコにミーは、もうRM 2000を切る値段は難しくなりました。通常期はRM 2500を越えるぐらいです。
この先燃料費追加代が下がるような気配はありえませんから、できるだけ早く AirAsia Xの日本就航を多いに期待したいところです。当サイトの訪問者の皆さんもきっとそんな気持ちではないでしょうか?


【マレーシアでは多分ほとんど注目されない記事でしょうが】

このところ何回か『新聞の記事から』 で、「華人は外来者であるから、同等の権利を得るのは不可能だ」という民族差別内容の演説をしたペナン州のMNO 地方支部長が引き起こしている話題を載せていますよね。この件に関して華人与党の馬華公會(MCA)の書記長が、華人も国のために戦って死ぬなどという発言したことを伝える記事を先週末Star 紙で見かけました。まあ、マレー民族主義者の愛民族論に対応するためのレトリックの一部でしょうから、特に気にもしませんでした。

ところが昨日ある事務所のロビーに置いてあったマレーシア語紙 Utusan Malaysia を見ていた時、ちょっと見逃せない記事が載っていることに気がつきました。それはこの人物が、第2次大戦中マラヤでは中国人は国を守るために当時の日本軍・日本殖民政府に抵抗して30万が殺されたなどと発言した、と書いてあるではありませんか。 現在のマレーシア華人になる前の段階である当時は、華人ではなく中国人または華僑です(当時その人たちの国籍は英領マラヤではない)。

マレー半島つまりマラヤを占領した日本軍と日本占領者がその人たちを虐殺したのは事実ですから、それ自体を否定したり、目を向けないことは愚かなことです。 どれくらいの数だったかはっきりわかりませんが、数万人? でも30万人などというような数になりえないのは確かです。といって数のことを問題にしているのではありませんよ。当時の中国人または華僑は、国のためつまりマラヤの地を守るために戦ったのではなく、当時すでに中国と戦争している日本に対する反感のためもあって、日本軍と占領政府に敵視されたり弾圧されたからであり、且つ少なからずいたマラヤ共産党の支持者による抗日運動の結果でもあったわけです。

ですから当時のできごとを現代にあてはめて、 華人は国(ここではマレーシアを指す)のために戦って死ぬ などというレトリックは使えませんし、使うべきではありません。そのマレーシア語紙では、マレー人学者数人が新聞社の問いに答えて、馬華公會(MCA)の書記長のその発言はおかしいという、意見も載せてありました。常識的にみて当然の意見でしょう。

記事の詳細まで覚えてなかったし、手元にその新聞がないので、昨日の「新聞の記事から」にこの件を記事として掲載しませんでした。(上記の私のあらまし説明の一部に多少の記憶間違いもあるかもしれません)。 政治家の中にはこの種のレトリックを使う者が、日本であれマレーシアであれ米国であれ、どこの国にもいますから、受け手つまり市民はそういうことに気をつけなければなりません。 英語紙の Star は馬華公會(MCA)が筆頭大株主となっていますので、こういう記事は全く載せないかもしれませんね。 またマレーシア語紙 Utusan  Malaysia はUMNOの保有する新聞です。よって極めてUMNO 寄りの論調と記事で知られています。 ただことが意図したわけでは全くないでしょうが、たまたま日本占領にまつわることだったので、比較的大きな記事となって印刷されたのでしょう。

マレーシアで、マレーシア市民の間でこの件が特に問題や議論になることはないでしょうから、単なる、数ある中の目立たないニュースで終わってしまうことでしょう。しかしマレーシア情報の発信者として、こんな記事があったことはこの場で触れておきます。そしてこの種のレトリックを行使する政治家がいるということも知っておきましょう。


【 Hotmail 側に迷惑サーバーと一方的に見なされてしまったJaring 】

Jaring の話題が出ましたので、1つ加えておきます。
プロバイダーJaring はマレーシアの老舗であり、且つ現在でも国内第2位のプロバイダーです。Intraasiaは90年代中頃のダイアルアップ接続時代からずっと加入しています。以前からそして現在はマレーシア第1位のプロバイダーTMNet のブロードバンド接続ですが、Jaringには今でも加入しており、主に個人メールとして使用しています。

ところが先週この Jaring メールを使って友人2人にメール送信したら、受けてサーバー側の Windows Live Hotmail から 「送信できません」と言うことで返信されてしまいました。いずれもその理由は、「 550 SC-001 Mail rejected by Windows Live Hotmail for policy reasons. Reasons for rejection may be related to content with spam-like characteristics or IP/domain reputation problems.」  となっています。つまり、「Jaring は迷惑メールを大量に送信するサーバー(SMTP)だと判断されるので、 Windows Live Hotmail は拒否します」 ということです。

友人2人のうち、1人は @hotnmail.com で、もう1人は @hotmail.co.jp のドメインです。これまで長年両者あてに Jaring から送信してきました、今月上旬に送信した時まではなんの問題はなかったのに、なぜ? と即座に思いました。どうやら マイクロソフトのHotmail 側 が最近プログラムを変えたようですが、 その際 迷惑メールプロバイダーにマレーシアのプロバイダーJaring を勝手に加えてしまったと理解しました。 それが上記のメッセージになっていますね。

大量迷惑メールの発信プロバイダーまたは送信サーバーは世界に数多くの基地があり、そこから日々大量に発信されているようです。有名無料メール提供会社はそういう行為をできるだけ防ごうとしていることはよくわかります。ですから今や大抵のメールプロバイダーまたはメーラーには迷惑メール防止機能がそなわっていますよね。でも完全に機能しないのはいたし方ないところで、あまりに厳しく設定すれば、非迷惑メールまで届かないことになってしまいます。これは現代のメール界の事情であり、我々利用者もしぶしぶと受け入れざるを得ない現況でしょう。

とはいえマレーシアの老舗且つ第2位のプロバイダーがマイクロソフトのHotmeil 側に迷惑メールサーバーだと判断されてしまったことは、いかにも納得できないことです。長年使ってきた利用者として、腹立たしい決め付けです。仕方ないのでYahooメールを使って友人2人には再送しました。一昨日再度別のメールを送ったのですが、またLive Hotmail が拒否してしまいました。 Jaring はインターネット世界では迷惑メールサーバーだとレッテル貼られているのだろうか? それともLive Hotmail側の過剰な対応なのでしょうか?  プロバイダーのドメインを一括してブロックしてしまうあり方は、この種の不便なまたは不愉快なできごとを起こしてしまうのです。


【クリスマスの伝え方を例にしてマレーシアを捉える 】

クアラルンプール圏の有名なショッピングセンターには大きなクリスマスツリーを中心にいろんなクリスマスの装飾が飾られています。もちろん多分に商業的な意味合いですが、イスラム教のハリラヤ祝祭のときも、ヒンズー教のデーパバリ祝祭のときも、華人が祝う中国正月の時も同じように、それぞれのモチーフを題材にした装飾を大きくまたは多いに飾ります。こういったことはマレーシアの風物詩となっています。Berjaya Times Square ショッピングセンターにある巨大なクリスマスツリーの前では、非ムスリム民族だけでなく、一目でマレー人とわかる若者男女が写真を撮っているのを、今年も何回も目にしました。これもマレーシアの都市部らしいところです。

昨日は家にいた時間が多かったので、人気マレーラジオ局 Sinar FMをずっとかけていました、合計して10時間以上は聞いていました。しかしながら、ラジオかけていてもその間中いつも耳を傾けているわけではないので、100%確実とまでは決して言いませんが、DJ が”クリスマス”または”クリスマスイブ”という言葉を発してクリスマスを話題にするのは実に少ないなと感じました。私が耳にしたのはわずか2回だけでした。マレーシアのラジオ局は曲を流す時間以外は、DJのおしゃべりが圧倒的に多く、次いでDJ と聴取者との電話会話が多いのがほとんどのラジオ局のありかたです。

つまりクアラルンプールの中心街やショッピングセンターなどで目にするクリスマス雰囲気を、ラジオ番組内のお喋りと会話に感じなかったということです。聴取者は何も都市部の聴取者に限りませんから、郡部における商業的なクリスマス雰囲気は非常に薄いこと及びマレー人が圧倒的な聴取者である事実を考えれば、マレーラジオ局 Sinar FMでは番組にクリスマス雰囲気がごく少ないのは当然といってもいいかもしれません。

今日の英語紙を見ると、第1面からしてクリスマス関連の写真を掲げ、いくつもの違った部門ページでクリスマスの話題をかなり大きな写真付きで載せています。この数日クリスマス特集記事もありました。このあたりはムスリムを含めて多民族読者を対象にしている、つまり読者が複数の宗教徒から成る、英語紙らしいところでしょう。一方あるタブロイド版のマレーシア語紙を見ると、第一面にあまり目立たない活字で "Selamat Hari Krismas     Kepada Semua Pembaca " (「クリスマスおめでとう。 全読者に」という意味です)及び小さな漫画的サンタクロースの写真が載せられています。内部は広告ページを含めて全63 ページある中、3ページがクリスマス記事兼写真を載せています。ざっと見た限りでは広告ページにクリスマス関連はないようです。

さてこうした事象をここで紹介しました理由を説明しておきます。私自身は絶対無宗教主義者ですからクリスマスになんら感慨はありませんが、多くの人がクリスマスを祝いまたはそれを楽しんでいるのは結構なことだと前から思っています、ヨーロッパ滞在時代は友人たちに招かれていっしょに楽しんだまたは過ごしたことが何回もあります。ここではマレーシアのクリスマス風景を評するのが意図ではなく、クリスマスを祝うのは国内の地方・地域によって多いに違うのは当然として、ここで描写しましたように、言語別メディアによってその報道調子が非常に違うということを感じ取ってもらいたいという意図なのです。

ある地方、例えばクアラルンプールの中心部だけ、を訪れてそれがマレーシアに共通のような認識を持てばそれは間違いであり、ある言語メディアだけをもっぱら読んだり聞いたりして、それを基にマレーシア像を構築するとそれも間違いだということです。マレーシアはタイより人口も国土も小さいのですが、多様性という点ではかなりタイを上回るという点に、この両国が共に好きで且つ長年関わってきた私は、興味を今も感じています。


【年雰囲気を凌駕する農暦新年前の雰囲気 】

明日12月29日はイスラム教の新年である Awal Muharam なんですが、うーん、街にそれを感じさせる物を見かけないし、雰囲気を感じません。これは多くのショッピングセンターでも同じではないでしょうか? ショッピングセンターはつい数日前まではクリスマス装飾が多いに目立ちました、少なくとも私はAwal Muharam の装飾は全く目にしませんでした。この理由はイスラム教新年は大騒ぎしたり、商業宣伝にまみれて迎えるものではないと言う、既定のまたは暗黙の了解があるからなんでしょう。今年は偶然にAwal Muharamが太陽暦の新年にごく近接しています、これはイスラム教歴が太陰暦であるため、毎年太陽暦の中を逆行しているからです。

もう1つのマレーシアに多いに関係ある太陰暦は、いわゆる中国歴(農暦という)ですね。世界人口の数割も占める中国人界と華人界が(加えてベトナム人なども)祝うこの旧暦における、2009年の正月は太陽暦の1月26日に当たります。つまり2009年の農暦新年は太陽暦の新年と比較的近いことにもなります。

このため華人の多い地区ではクリスマス前からすでにあった、農暦新年に向けのて商戦と雰囲気が、一気に本番に入りました。 華語や広東語主体の地元華人の会話では、「過年 (農暦新年を迎える)」という言葉が多くなります。都会の各民族若者は太陽暦の大晦日に特定地に集まって新年カウンダウン集会やパーティーに参加するのが大好きですが、若者世代ではない華人の多くはそういうことはまずしません。そういう華人にとって概念的に新年とは農暦新年なのです。太陽暦の新年はあくまでもカレンダーが新しくなる、西暦の新年という捉え方ですね。

ということで、ミュージックショップでは旧暦新年ビデオが映され、ショッピングセンターの一角には旧正月飾りと旧正月賀状の販売店や屋台が出ています。 チャイナタウンの華人用装飾品・文具店はその種の品が山と飾られています。色が派手であり、デザインもかなり目立つため、まこと目を引きます。飾りの像にドラエモンやハローキティーを模ったものも珍しくありませんよ。我が経済がもし許せば、装飾品をいろいろと買って飾るなり、写真に撮ってみたいものです(いつも単なる希望に終わってます)。こういった農暦新年飾りの多くは、恐らく中国製がほとんどだと思われます、値段は下は数リンギットから上は100リンギットを超すものまで様々です。

このように太陽暦の新年前雰囲気をはるかに凌駕する農暦新年前の雰囲気は、来年は2つの正月が近接している分、より顕著ですね。いうまでもなく、こういうことはマレーシアの地方と民族居住地区によって多いに違いがあり、決して全国どこでも同じようだということにはなりません。



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