・ マレーシアはかくも外国人労働者に依存する社会になった−前編 ・ その後編
・ マレーシア国産の有名私立大学がカンボジアにキャンパスを開設する長期的影響
・ 短編コラム3題 年月のカモフラージュ、外国人に指紋と顔写真、KLPac
・ 陸路(河川を含む)国境越えの魅力にとりつかれて -東南アジアの陸路国境越え
外国人労働者に関するニュースはしょっちゅう新聞に載ります。その内容は外国人労働者の起こす問題または取り締まりの話題のこともあるし、政府指導者、Imgresen、内務省、警察など関係省庁の高官の発言としての場合もあります。 とにかく外国人労働者のニュースは毎日とまでは言えなくても1週間に数回程度は必ず載るといえるぐらい頻繁にあります。その最大の理由は外国人労働者の絶対数の多さであり、マレーシア社会がいかに外国人労働者に依存しているかという証明でもあります。
80年代のことはよく知りませんが、90年代初めごろからすでに建設業、プランテーション農園業、家庭内住み込みメイド、ビルなどの清掃業といった業種または職種では圧倒的にまたはほぼ全面的に外国人労働者に依存してきました。例えば建設を例に取れば、KLIA空港もKLCCもクアラルンプール内外の自動車道路も巨大なショッピングセンターも外国人労働者なしには現在存在していないでしょう。この種の建築物を実際に建てる肉体労働面では外国人労働者依存は少なくても8割、時には9割を越すでしょうから、外国人労働者がいなかったら、建設が遅れるのではなく建設自体ができないことになります。マレーシアの誇るパームオイル産業、これも外国人労働者に非常に依存していますから、外国人労働者なしにパームオイル産出世界1位または2位の地位は達成できなかったことになります。
こういったずっと以前からの外国人労働者依存産業と職に加えて、90年代後半ごろからかなりの外国人労働者依存に陥ったまたは陥りつつある業種と職が増えてきました。例えば、労働力集中型の零細中小の工場や会社の現場、守衛・警備員、スーパーなどでの裏方、物売り屋台の販売人などです。マレーシアに進出してきた日系企業の工場現場では外国人労働者が数割を占める例も珍しくないはずです。このように外国人労働者は、マレーシア労働市場に相当重要な役割を占めています。マレーシア人は外国人労働者は全て清掃や肉体労働、単純労働だといってこの事実を軽視、そして時には蔑視しがちです、しかしこの種の労働者がいなくて、マレーシアの発展は達成できなかったし今後もできないのは明らかです。もちろん外国人労働者側にとっても、金の稼げる国だからこそ、マレーシアに次から次とやって来るわけです。両者持ちつ持たれづの関係にあることは否定できないでしょう。
こういう事実を次に数字から確認してみましょう。
統計庁の最新人口統計によれば、インド人人口はもはや外国人人口に抜かれました。長期経済計画下のプロジェクトが実行されていくので、外国人数は今後も引き続き増加が見込まれています。
ブミプトラ | 非ブミプトラ | 非マレーシア人 | |||||
総人口 | 区分 | マレー人 | その他ブミプトラ | 華人 | インド人 | その他国民 | 外国人・外労 |
2717万人 | 人口 | 1377万人 | 290万人 | 630万人 | 188万人 | 32万人 | 191万人 |
割合 | 50.6% | 10.7% | 23.2% | 6.9% | 1.2% | 7.0% |
マレーシアで働く合法の外国人労働者は、1980年代初期は 13万人強に過ぎませんでした、それが2000年には110万人に増えました。そして国家統計庁の報告では、2006年には187万人に達しました。
1990年 | 1995年 | 2001年 | 2003年 | 2005年 | 2007年9月 |
24万2千人 | 49万人 | 86万人 | 112万人 | 181万人 | 202万人 |
ここでマレーシア各州の中で多分州人口に占める外国人労働者・移住者の比率が一番高いであろうサバ州の場合を見てみます。次に新聞の記事を抜粋します:
上記の推定は60万人から170万人の内、どれくらいの割合がすでに”マレーシア国民化”したのか、誰にもわからないでしょうから、外国人労働者の数字も正確には当然わかりませんね。いずれにしろものすごい数の、本来は非マレーシア国民がサバ州には住んでいるまたは在留しているわけです。
なぜマレーシアはそしてマレーシア人はそれほど外国人労働者を必要とするのか、正確に言えば、外国人労働者が本当に必要でなくても雇うことを好むかを、いくつかの典型的な例を「新聞の記事から」 から拾いながら説明していきましょう。
ここで言う外国人とは、いうまでもなくインドから連れて来るインド人のことです。
時代の変遷とともに、ある業種は廃れざるをえなくなります。これは社会の発展構造上どうしようもないことであり、それをがんと拒むのも結構ですが、そのために自己負担による非経済的ビジネスとならざるを得ません。インディアン理容師になり手がないのは低給料長時間労働のために将来性がみえないからです。これを解決せずに、なり手がないからインドから移入しなければならないという論理を振りかざすわけです。インディアンバーバーは統合化するか、合理化するか、廃業するかして営業スタイルを変えて、マレーシア人の成り手をみつけることをせずに、外国人労働者を移入という安易な解決策を訴えていますね。
メイドの国籍 | インドネシア人 |
スリランカ人 カンボジア人 | フィリピン人 |
月給 | RM 400-450 | RM 500-550 | RM 750-800 |
家庭内住み込みメイドの問題はすべからくマレーシア人の人権意識にあります。住み込みメイドなどという仕事は封建制労働の流れを汲んでいるからです。相手にするのもあほらしい論者が、マレーシア人のなり手がいないから、外国人労働者を雇うしかないということを大真面目に訴えています。それじゃ、その論者の娘、姉妹、をメイドとして働かせたいのか?と仮に尋ねれば、100%の確率でメイドなどにさせたくない、という返事になりますね。そうなるのは当たり前であり、休みもまともになく朝から晩までありとあらゆることをさせる家庭内住み込みメイドという職・仕事は、単に給料が低いだけではなく、社会的評価が質的に劣る職・仕事なのです。
住み込みメイドの雇用法やメイド雇用代理店の問題などといった枝葉末節のことばかり議論されており、なぜメイドが必要なのか、メイドにむやみに依存しない家庭と意識を構築していくにはどうするべきかということが、全く論議されていません。 ここにも見られるのが、マレーシアが市民革命を経てないため封建制の残存意識を残した社会である点ですね。身障者や高齢世帯に介護人が必要であれば、そういう介護人を社会的に認められる資格化させ専門職化させるべきであり、子供の面倒を見る人が必要な場合は、育児所をもっと設け、技術職としての育児人か保育師を育てるべきです。若者の失業率が心配される折、こういう職業を専門化させることで、職としての魅力を増す必要があります。住み込みメイドの需要がいくら増えても、少々メイドの給料が増えても、マレーシア人女性は住み込みメイドなどには絶対になりません。
尚住み込みメイドに関して、華人社会特有の悩みがあります。
以前の「今週のマレーシア」で詳しく書きましたように、華人と中国人の民族的近接さから、ここに書かれている憂慮感は決して杞憂ではないのです。
副大臣の発言に多少の誇張は感じられるものの、なるほどと思える内容ですね。ここにも見られるのは、マレーシア人が興味を示さないから外国人を雇えばよい症候群です。日本の遠洋漁業は数ヶ月も地元を離れて航海に出ますよね、それなのに1週間程度地元を離れるだけでも漁船に乗り手がいないとは、漁業に関するしろうとでもいささかあきれます。
上でいくつかの例でみてきましたように、外国人労働者を求める国内需要は増えることはあっても減ることはないので、外国人労働者として雇用するための新規労働許可証の発行状況は年々増加しているのです。
家庭メイド | サービス業従事 | 工場の工員 | 総数 | |
2004年 | 28万人 | 9万人 | 45万人 | 82.2万人 |
2005年 | 30.5万人 | 13.5万人 | 53万人 | 97万人 |
2006年 | 31万人 | 16.6万人 | 64.5万人 | 112万人 |
90年代はごく少なかったミャンマー人が、2000年ごろを期に急増しました。これはマレーシア政府の、外国人労働者供給国の多角化政策のためであり、ネパール人やベトナム人の急増と時期を同じにしています。クアラルンプール随一の、即ちマレーシア随一の外国人労働者街である Jalan Silang にミャンマー人用の店が急増してきたのもこの頃からでしょう。あまりの店舗増加のために Jalan Silang だけではもう収まらずその周囲の道路にも広がり、ミャンマー人店舗とネーパール人店舗を双璧として外国人労働者用店舗が数十軒並んでいます。物品・食品販売の店だけでなく、稼いだ金を自国に送金する外貨送金会社、理容室、カフェ兼レストランなどもそろっています。
ミャンマー人はクアラルンプール内外のごく特定した地区に固まって住んでいます。クアラルンプール中心部では Jalan Imibi 奥界隈からPudu地区の一部にかけてです。他にもあるかもしれませんが、中心部ではそこが最大でしょう。クアラルンプール郊外では次に紹介する Selayang 地区の一画が最大集中居住地だそうです。
マレーシアでこの種の違法ビジネスはマレーシア人だって一杯やっています。クアラルンプール内外で数万人にいるであろう屋台商売人の数割は無免許だと言われています。よって路上や空き地での物品小売販売面での違法という重みはマレーシア人一般にとっても少ないと言えるでしょう。
尚ミャンマー人に限らずネパール人であれ、ベトナム人であれ、インド国籍のインド人であれ、中国人であれ、皆固まって生活しています。その共同体意識は非常に強いです。ミャンマー人コミュニティーの特徴は女子と子供が多いことです。マレーシアと歴史的に深い関係にあるインドネシア人は別にして、これは他の外国人コミュニティーには見られません。私は以前からミャンマー人コミュニティーにはなぜこれほど若い女性と子供が多いのか不思議に思っていました。なぜなら、外国人労働者は家族を帯同してくることは全く認められていないからです。インドネシア人の場合は、男女共に数が極端に多いのでインドネシア人間でカップルが生まれる可能性は十分あるでしょう。でもメイドと工場労働者としてマレーシアに入国する、インドネシア人以外の女性外国人労働者数は男性外国人労働者に比べればごく少ないのです。
それなのにミャンマー人だけはものすごく女性子供が多いのです。その理由は、ミャンマー人の中には難民がかなり多いからだとわかりました。次の記事をご覧ください。
ミャンマーの諸民族中の多数派はビルマ族ですが、いくつもの少数民族がミャンマーに住んでいます:Karen族、 Mon族、 Shan 族、Kachin族 、Chin 族、Arakan族など。ビルマ族に抑圧された状況とよく描写され、カレン族などはビルマ政府と長年戦いをしていることで知られてますね。国境を接したタイには昔からいろんなミャンマー人の組織がありますが、ミャンマーとマレーシアとの関係は疎遠ですから、一般マレーシア人にとって全て”ミャンマー人”ということなんでしょう。こうした事実から、マレーシアのミャンマー人は外国人労働者としてのグループと難民のグループに分かれます。
難民の一部は私の住む地区にも、そして我アパートにも集団で住んでいます。他の外国労働者との違いは男女混在で若い層が多く、子供連れも全然珍しくないということです。私の隣のユニットは尋ねたところ Shan 族とのことで、毎日たくさんのShan 人が出入りしています。同じ階にはビルマ族が住んでいるユニットもあります。見ている限りShan 族との交流は全くないようです。階下のミャンマー人はMon族だそうです。ほとんど全部の階にミャンマー人、何族かまではわからない、が男性女性子供が混在して住んでおり、今やミャンマー人だけでもアパート住民の3分の1ぐらいいるはずです(加えてネパール人、違法滞在の可能性大の中国女性、メイドとして住み込みインドネシア人などを加えれば、アパート住民の過半数は外国人となってしまった)。且つアパート外からもミャンマー人はしょっちゅう出入りしているので、住民実数よりも多く目にします。
2000年代初期に比べてネパール人のガードマンが非常に増えました。ビルの清掃員や肉体労働者としてネパール人の増加もそのころからでしょう。クアラルンプール随一の外国人労働者街である Jalan Silang に並ぶ店舗の2大勢力の一つがネパール人です。ネパール人ガードマン全てがグルカではないですが、グルカといえば信頼ある保安員の代名詞でしょう。私のアパートにもたくさんのネパール人労働者が住んだり働いています(いました)ので、おなじみの人たちです。次の記事をご覧ください。
ミャンマー人、ネパール人、ベトナム人、などいわば新しい外国人労働者層が大幅に増えたのですが、インドネシア人外国人労働者の数が減ったわけではありません。マレーシアに滞留する外国人労働者の最多数派はインドネシア人であることは昔も今も変わりません(比率面では下がった)。ムスリムが絶対多数を占めるインドネシア人ですから、ハリラヤ時期にインドネシアへ一時帰国またはそれを契機に帰国するインドネシア人は十万人をはるかに超える人数になるようです。そこで毎年ではありませんが、しばしば次のようなことが特別措置として発表されます。
バングラデシュ人は90年代の前半ごろから後半にかけて、かなりの数がマレーシア国内で外国人労働者として雇用されていました。その間にバングラデシュ人の起こす問題が増えたことから、1996年から2006年半ばごろまでの期間新規にバングラデシュ人を国内に連れて来ることが認められていませんでした。その禁止が近年緩和され、またバングラデシュ人の新規移入が増えたら、新たな問題が最近発生しました。
この問題の背景には、外国人労働者を許可するマレーシア官僚機構側に問題があるのは確かでしょう。騙し業者を厳しく取り締まるべきなのは当然です。 それはとして、バングラデシュ人側にも多いに問題あるはずです。彼らは互いに情報ネットワークを持っています、よって騙されることが起こっているのを知らないなんてことはありえないはずです。週6日 8時間勤務の会社で RM 2000 なんて夢のような話をまともに信用すること自体が眉唾ですね。彼らは確かに被害者です、しかし被害者になるかもしれないことを知りながらやって来る背景と思考がバングラデシュ人の中にあることを、新聞はちゃんと調べて書くべきでしょう。
最新の新聞の記事によれば、内務省はバングラデシュ人への労働許可証をすでに30万枚発行したそうで、新規発行は止めても既発行分のバングラデシュ人が順次マレーシアにやって来ることになります。さらに、マレーシア内務省が近年認めた、外国人労働者を外部委託する仕組みによって引き起こされる問題が多いそうです。つまりバングラデシュ人を表面上雇用したマレーシアのアウトソーシング会社がそのバングラデシュ人を各地の雇用先会社に送り込むのですが、これを不正利用する例が自体を悪化させているとのことです。結果として仕事のないケース、雇用先のないケースが続出している、従ってバングラデシュ人は稼げないということです。
違法労働または資格外労働の外国人労働者は、当局の取り締まり行動で見つかれば、その場で即拘束され、外国人一時収容センターに送られます。そこで本国送還を待つことになります。
最後に、アブドゥラ首相の外国人労働者に関する珍しくはっきりした発言を紹介しておきます。
いくらアブドゥラ首相の発言でも、マレーシア人社会の外国人労働者依存精神構造と経済構造は5年や10年では変わらないでしょう、いや変わり得ないと言ってもいいでしょう。それほどマレーシアは深く広範囲に外国人労働者に依存している社会になっているからです。
スランゴール州 Cyberjaya は新行政首都 Putrajayaに隣接しており、その建設はPutrajaya と同時並行的に行われました。従ってCyberjaya はその存在が10年にも満たない人造都市であり、ある面ではまだ建設途中の市とも言えます。Cyberjaya はその名の通り情報技術産業の育成と呼び込み及び情報技術分野での研究教育機関を目的として建設された市です。よってマレーシアが大きく掲げて進めてきた、マルチメディアスーパー回廊プロジェクトの本拠地でもあります。日本のNTT, 米国のDELL などが地域本部を置いています。尚アブドゥラ政権になって、マルチメディアスーパー回廊はCyberjaya とクアラルンプールのKLCC間の回廊に限定したこの地帯に限らず、半島部の複数の箇所に広げつつあります。
そのCyberjaya にはよく知られた大学が 2校あります:公立のMultimedia 大学と、私立の Limkokwing 大学です。創始者で学長を務める人物の名を大学名にした Limkokwing 大学は私立ではマレーシアで最も知られた国産大学と言えるでしょう。Limkokwing 大学は 情報技術分野と芸術分野がその種たる教育分野だそうで、その学生のかなりの割合を外国人留学生が占めると言われています。私は時々Cyberjayaへ行くことがありますので、Cyberjaya とを結ぶ Putrajaya のバスターミナルなどで外国人留学生に間違いないと思われる姿を頻繁に且つ数多く見かけるので、この話をなるほどなと実感しています。
Limkokwing 大学は、マレーシア政府が掲げる外国人留学生を大幅増加させる ”2010年に外国人留学生数10万人を達成” 計画の急先鋒であり、それを積極的に実践している大学と言えるでしょう。その意味では、非常に賞賛すべき大学と思います。学長は語る、「学生数 8000人の Limkokwing 大学の 60%を外国人留学生が占めます」 。海外数十カ国から留学生が来ているそうで、アフリカ圏、東南アジア、中東、中国などが多いそうです。だからでしょう、「マレーシアで最も国際化した大学である」 とその広告に謳っています。尚URLは www.limkokwing.edu.my です。
そのLimkokwing 大学は海外進出にも非常に積極的で、その活躍がマレーシアでは度々マスコミニュースとなってきました。アジアの大学として初めて英国に大学を開講しました:Limkokwing London大学キャンパスです。そして今年、アフリカにこれまたアジアの大学として初の現地大学をボツワナに設立しました。
そのLimkokwing 大学の次ぎの海外進出先は、中国とインドネシアとカンボジアだそうです(いずれもすでに具体的なキャンパス開設前段階にまで進んでいるみたい)。そのうちプノンペンに開校はもう来年2月とのことです。「我々はカンボジアが変わるのを手助けします、カンボジアの経済発展に効果的な効果的な支持を与えます、我が大学の存在によって両国の関係は増すべきです。手始めとして、カンボジアからマレーシアに学生の流入が増えることでしょう。」 と創始者兼学長は、多分自慢げに、マレーシアの英語新聞のインタビューの中で述べています。カンボジアのLimkokwing 大学のプログラムは柔軟性を持たせて、学生にはプノンペンのキャンパスで全部受講してもいいし、または一部をプノンペンで一部をマレーシアのキャンパスで勉学してもよいようにするとのことです。
中程度の規模で収まるLimkokwing 大学のプノンペンキャンパスの建設費用は約RM 5000万ぐらいだと、この創始者兼学長は語る。「Limkokwing 大学はこれまでもいくつかの政府及び産業界との良い協力関係を持っているので、カンボジアを知識基盤の経済に発展させる重要な役割を果たせると思っている。」 「マレーシアは成功を収めている発展途上国であり、カンボジアは我々をモデルにしたいと思うであろうから、我が大学は訓練するに良い状況にあります」
何から何まで、模範的にうつる言葉です。学長は次のように誇る、「我々が実行していることから、マレーシアの教育制度がより広範囲に認識されてきた。Limkokwing 大学はマレーシアブランドの教育を世界に売り込むことにお手伝いをしています。我々はマレーシアで教育を受けさせるためにより多くの国からより多くの学生を呼び込んでいます。」 Limkokwing 大学がマレーシアの高等教育機関の中で海外進出の鏡であり、且つ海外留学生呼び込みの雄でもある、と言っても言い過ぎではないかもしれません。それ自体は賞賛に値することだし、同大学の努力は多いに評価されるべきだと思います。
ところでLimkokwing 大学が、アフリカを初めとして世界の多くの発展途上国から留学生学生を引き付けている、その極めて大きな理由は 英語での大学教育の提供であり、そのおかげもあって、元英国植民地のボツワナに大学を設立し、且つロンドンにもキャンパスを設立できたわけです。経済的にも人的にも成功途上にある優等生発展途上国マレーシアは、英語教育が売り物であることは、政府及び私立大学とカレッジが常々自慢し且つ前面に謳っていることです。
マレーシアよりもはるかに搾取された英語殖民地であったゆえにその民族語での高等教育の機会がほぼないようなボツワナのことはここで触れないとして、東南アジアの一国であるカンボジアに絞りましょう。
世界的教育組織の発表によれば、カンボジアの識字率は74%、つまり4人に1人は字が読めないことになります。1970年代後半のクメールルージュの国民大虐殺とその後20年近くも続いた内戦のおかげで、経済的にも人的資源面でも近隣諸国に比べて(ラオスを除く)カンボジアはかなり遅れた状況に陥ってしまいました。カンボジアの複数の地を自分の足で訪れたことのある方なら、カンボジアの置かれた状況は、よくとはいえなくてもある程度体験的にわかることと思います。逆の言い方をすれば、どのような面においてもマレーシアはカンボジアの比ではないほど発展しています。
カンボジアはフランスの元植民地ですから、旧カンボジアエリート層とインテリ層はフランス語の教育を受けたり、さらにはフランスに留学した人たちも少なからずいました。皮肉な事実として、クメールルージュ指導層の多くはフランス留学組なのです。 フランス植民地政策のおかげというか失敗というか、フランス語はカンボジアの地に根付きませんでした。英国植民地であった旧マラヤすなわち現マレーシアの地では、英語はエリート層を超えてある程度の普及度を示し21世紀の現在益々英語志向が進んでいるのと、対照的です。
そのカンボジアの首都プノンペンに英語による高等教育を前面に押し出した、Limkokwing 大学が来年早々にもキャンパスを開設するわけです。Limkokwing 大学の理念から、さらにマレーシアという国と社会のあり方から、キャンパスを設けた当該国でその国の国語による教育を提供することはありえないし不可能でしょう、第一Limkokwing 大学自身そんなことは全く頭にないはずです(中国だけでは中国語の教育プログラムも設ける意向との記事も読みました。それは中国語の強大な影響力ゆえに別格だからです)
貿易と観光産業に関わる人たちを除いて、英語など大衆の生活に全く関係ないカンボジアで、英語教育による大学教育とはどのような意味を持つのか? 進出してきたLimkokwing 大学は、英語が国家発展の鍵であるとの”英語崇拝”言語イデオロギーを主柱にしています。本拠地マレーシアでも、進出先のボツワナでも、もちろん英国でも同じですし、今後いくつもの国に進出計画があるそうで、すべて同じ英語至上発展主義を行使していくことでしょう(中国だけは一部例外として)。
カンボジア政府筋と一握りにしかすぎない裕福層及びエリート層は、この種の大学がカンボジアに新たに開校することを歓迎しているに違いありません。カンボジアへの海外からの投資・ビジネス呼び込みに役立つテクノクラートや官僚や私企業幹部候補層を育てるという意味合いでは、Limkokwing 大学の果たすであろう役割がかなり貢献することになるに違いありません。 しかしカンボジアの国語であり、圧倒的多数の一般大衆の母語であるクメール語(カンボジア語)の発展という面では、間違いなくマイナスに作用してしまいます。
ある国において、その自国語だけで高等教育を十分に提供できるかどうかが、その言語または国語の”本当の実力”を測る一つの目安にもなります。この最適な例がマレーシアですね。いくら憲法でマレーシア語を国語と定め、マレー民族主義者が(マレーシア語ではなく)マレー語の使用を強く訴えようと、 5, 6 年前から小中学校では理科科目と数学科目を英語を媒介にして教育するように変えてしまいました、国立大学ではかなり英語での講義が増えてきたそうです、私立カレッジは昔からほぼ英語一辺倒の教育です。こういう教育界の現状を見ただけでもマレーシアでは、国語であるマレーシア語の建前と現実の乖離がかなり顕著です。
英語など日常生活に全く関係ないカンボジアで、国語クメール語(カンボジア語)の建前と現実の乖離がすぐに起こることはありえないでしょう。問題は英語による高等教育の与える長期的影響です。発展途上国特有のエリート層がカンボジアにも存在しますから、この種の英語教育を受けられる層はこういったエリート層と裕福層に多いに限られることになります。それゆえに、そのエリート層らに英語至上思考をより植え付け、結果として英語信奉主義者を拡大再生産していくことになります。マレーシアに比してはるかに少ない言語エリート層といえども、広範囲な中流層を持たないカンボジアではその影響力はかなり出てくることでしょう。
その影響とはつまり、高等教育に占めるクメール語の役割が軽視されるきっかけを作ることになり、それが長い目で見たとき、クメール語(カンボジア語)のいわばマレーシア語化現象につながるのです。中国のような国で英語教育する私立大学が5つや6つあったとしても全体から見ればなんら影響力はもちませんが、国力の小さな、よってその国語の経済価値の極めて小さな国では、英語の教育分野への進出は極めて侵略力があり、その速度が速いのです。多分半世紀もかからないでしょう、数十年の期間で見れば、学問と教育の面でクメール語(カンボジア語)による高等教育への依存度が必ずや小さくなることでしょう。
カンボジアに進出していく Limkokwing 大学にはこの種の危惧は初めからありえません、なぜなら英語至上主義者の集団ですから。マレーシアという国は英語崇拝主義が根付いているだけでなく、経済的価値の低い少数言語への無関心さで際立っています。マレーシア国内に大学教育としてクメール語(カンボジア語)を教えるような所は存在しません。タイ語でさえ専門科目としてはないぐらいですから、少数言語で経済的価値の極めて低いクメール語など見向きもされません。学問として少数民族や少数言語を教える、勉強するという風土はマレーシアの学問界にまずありません(ないとはいいませんよ)。
日本はといえば、クメール語日本語の辞書まがいさえ発行され、いくつかの大学でクメール語の単位も取れるはずでず。タイ語やベトナム語に比べれば、クメール語の専門家は格段に少ないとはいえ、二桁数はいらっしゃるはずです。さらに一般市販のクメール語学習書も数種ありますよね。ここにみられるように、日本の学問界には少数民族及び言語研究に長い歴史と厚い層があります。当サイトの訪問者で外語大卒だというあるタイ在住者によれば、東南アジア随一の少数国語であるラオ語でさえ外語大には専攻課程があるそうです。チベット語であれ、ネパール語であれ、ピリピイノ語であれ、日本の言語界には専門家がおり、そういう言語を専門にする学生もいます。
言語を経済的観点からだけ見る思考と志向からは、経済的価値の低い言語で高等教育を教授する努力は生まれてこないし、習う側は経済的価値の低い言語を高等教育使用言語として取ることを避けてしまいます。これがひとたび定着すれば、その言語の口語日常言語としてだけ存在する、非高級言語化現象です。当サイトでこれまでにも延々と述べてきたように、すでにマレーシア語は将来そうなる可能性を秘めています。
カンボジアやラオスのような経済的価値の低い国語を持つ国へ進出する教育機関が、英語圏、または英語至上主義を信奉する国からであれば、その国語(例えばラオ語、クメール語)への貢献はまずありえません、その一方ビジネス機会を求める人たち、テクノクラートや官僚志向層、エリート層にはもちろん歓迎されるでしょう。外国の資本力がある私立大学が貧しい発展途上国に進出するのは、その国の民に高等教育機会をより与えることになっていいことでしょうが、その反面その国の国語力を弱める土壌を蒔くことにもなりかねません。これを防ぐには、英語を教えるだけではなく(それ自体に反対はしませんよ)、その発展途上国の国語による教育を十分に提供することです。クメール語やベトナム語など近隣である東南アジア諸言語の専門家さえ養成できないマレーシアの私立大学にはこれを実行できる力も意欲も、さらに発想すらはなからありません。
Limkokwing 大学のカンボジア進出は、経済的価値の面で歓迎され賞賛されることは間違いないでしょう、しかし経済価値の低い国語の発展を願う人たちにとっては、諸刃の剣となることでしょう。私のこの主張がマレーシア人にはいうまでもなく、日本人読者の多くにも届かないことは承知しています。それでも Intraasia は、ある一つの言語が独占する風潮に反対し、言語の相対性を訴える者として、英語の少数言語侵略性を説くことを止めません。
次ぎの3編は9月と10月に 「ゲストブック」 に書いたものです。ゲストブックの書き込みはいずれ消えてしまうので、短編コラムとしてこの場に収録しておきます。
今日の新聞の外報ページに、カンボジアで元クメールルージュ最高指導者の一人が政府に逮捕されてプノンペンに護送されたというニュースが載っています。当サイトをご覧になる方のどれぐらいの方がかつてのカンボジア虐殺に興味をお持ちだろうか? 若い読者にとってカンボジア大虐殺(1970年代後半)は、生まれる前のできごとで歴史の本の中だけのことなので、世界の歴史の大虐殺の一つに過ぎないかもしれませんね。またそれ以外の方でもマレーシアに興味あっても東南アジア全体に興味ある方はあまり多くないでしょうから、カンボジアまで興味が及ばないのも仕方ないことでしょう。
といって私は大虐殺が明るみにでた、1980年代前半からカンボジアに大きな興味を持っていたわけではありません。1980年代前半当時は世界の別の地域と東南アジアではインドネシアに興味がありました。インドネシア語を習ってインドネシアの旅に出た頃です。その後決して大きくはなくてもいつも多少はカンボジア大虐殺には関心を持っていました。その後最近ともいえる、数年前にクメールルージュ(日本ではポルポト派と呼ぶ)の最後の拠点を訪れた旅記は、「今週のマレーシア」に書きましたね。
今回プノンペンに護送されたのはかつてのクメールルージュのNo.2? No. 3?といわれる人物です、80歳を過ぎたこの人物の現在の写真からは、当然ながら昔の面影は全く感じられません。カンボジアの地方で悠々自適の後生を送っていた、単なる身体の弱った老人に見えます。長年の年月は歴史の負の演者であった者の表面の姿を変えてしまい、まるで違った人物かのように見せてしまう例ですね。例え、200万人前後のカンボジア人を虐殺した指導部の最重要人物であったにも関わらず、です。大虐殺を裁く国際法廷が開かれるようですが、もう下手人は数少なくなってしまって、時間との戦いですね。
年月を経るとかつての独裁者もその姿が一見穏やかになってしまい、その独裁当時の負の圧政を感じさせなくなると、つくづく思います。たまにニュースに載るインドネシアのスハルト元大統領の写真姿はまさにそれです。、家族に支えられた姿の写真からは、弱弱しい好々爺としての姿しか感じません。彼の本当の姿は隠れてしまっています。1960年代中ごろ、スカルノ大統領を追い落としてインドネシアの全権を握ったスハルトは何十万ともいえる、インドネシア共産党員ら反スハルト陣営を抹殺した過去は、歴史の本が書いているところですね。
年月は人を変えることもある、同感です。年月は負の歴史を引き起こした人物の本性を見えにくくする、これも同感です。年月が経ったからある程度水に流してもいいではないか? これには同感いたしませんね。
今日の新聞の外報ページを見ていて、驚いた記事があります。それはロイター外電発の「日本が入国する外国人に指紋と顔写真を来月から義務付ける」というものです。その理由として反テロリズムの目的であり、外国人居住者と人権活動家から強い怒りを買っていると書かれています。米国の仕組みと違うのは、旅行者と在住外国人の両方に日本に入国する度にその都度指紋と顔写真を義務付けることである、この規定から除外されるのは、(いわゆる)特別永住許可者である、在日韓国・朝鮮人と在日中国・台湾人、及び16未満の者である、とのこと。
外電記事なので100%正確であるとは思いませんが、全く間違った記事を発信しているとも考えられません。ここでは一応この外電記事のほとんどが正しいという前提で感想を述べます。
当サイトでは数多くの回数及び相当なる文字量で、マレーシアにおける外国人とその抱える問題を伝え、解説し、見方を書いてきました。それだけ私の関心の高いことであるだけでなく、マレーシアにとって外国人は極めて不可欠の存在だからです。エクスパトリエイトを含めた外国人労働者の合法人数は政府発表ですでに200万人を超えました。いうまでもなく、非合法外国人労働者の数は、推定数十万人から100万人を超えるというかなりの数になることは常識です。 加えて永住権を得た外国人が36万人います。
この3種類の外国人の合計人数を、純国民の人口である約2500万人と比べてください。単純に計算しても、10数パーセントを占めます。重要なことは大多数の外国人は労働人口だということです、つまり1200万人弱しかいないマレーシア国民労働人口に比して、外国人労働人口の占める割合は軽く2割を超えているのです。マレーシアはかくも外国人の労働に依存した国になっているのです。外国人居住者に対して、エクスパトリエイトを含め、その身分証明書に顔写真と指紋を義務つけています、または現在それを施行開始したところです。この措置に対して、私はある程度理解はできます。 この膨大な数の在住外国人を効果的に管理する方法として、褒めることではないけど次善の策として仕方ないのではと思います。昔からマレーシア国民は顔写真と指紋付き身分登録は必須の義務です。
でも旅行者にそんなことを義務つけるような考えは提案されていません。これはいかにも当然だといえます。旅行者にいちいち顔写真と指紋を義務付けるのは、個人尊厳を傷つけるかのように感じます、私が仮にそれを強制されたら当然反発しますね。
日本の外国人数は、在日韓国・朝鮮人と在日中国・台湾人を除外すれば百数十万人だそうですね、1億2000万の人口から見たら、90年以降急激に増えたとは言え、まだまだ低い率でしょう。その比較的低率の日本で、出入国する外国人に、指紋と顔写真をその都度義務付けるなんて考えはどこからでてきたのでしょうか? 世界中にビジネスで進出しまくり、貿易のおかげで繁栄している日本なのに、「自国だけは聖域である」 「日本は純粋な日本人だけの国であるべきだ」 という一部の島国根性に満ち満ちた外国人非歓迎主義者が未だに力を持っているのですね。驚きます。
テロ対策などというのは世界の多くの政府が錦の御旗に掲げていますが、イラクやアフガニスタンならいざ知らず、一体日本やマレーシアに深刻な危機を及ぼそうとしているなんて、単に政治家と国家機構の統治上の名目に過ぎません。一体日本でこれまでテロが起こったことがあるのか? 以前起こりました、そうオーム真理教徒の地下鉄サリン事件とか、その昔の三菱重工ビル爆破などですね、でも全て下手人も組織も日本人です。テロ予防という名目のためになんであれ許されるのか? 別に日本に全然限りませんよ、私は国家の権力機構による統治の名による 個人への侵害 には強く反発を覚えるものです。
21世紀になり、インターネットに代表される情報技術の飛躍的発展によって、人間は情報収集と通信と広告メディアの革命的拡大を得ました。その一方、人間個人がデータというデジタル情報化されて、いとも簡単に収集され取引され悪用されることにもなりました。外国人の指紋と顔写真は、それ自体が個人の強制管理化であり、同時に知らぬ間に流布されまたは改ざんされまたは盗まれる、そういった対象にもなりかねませんよね。
結論としていえば、外国人の指紋と顔写真義務化は、外国人非歓迎の排他主義思想の残存と、個人をデジタルデータ化してその情報を国家機構が勝手に取引するという2つの面を持っています。
国際不動産連盟 マレーシアは、国内不動産業界の誰もが受賞したいといわれる”マレーシア不動産賞”を15年間に渡って授賞発表してきたとのことです。この賞は、毎年不動産業界の部門別で最優秀な評価を得た社・者に与えられてきました。尚国際不動産連盟 マレーシアの会員は、デベロッパー、不動産調査者、不動産コンサルタント、インテリアデザイナー、建設業者、不動産代理店、不動産オーナー、複合ビルマネージャー、銀行家などに開かれていると、書かれています。
さてその”マレーシア不動産賞2007年”が発表されて、8つの部門でそれぞれ受賞者が選ばれています。その中で私の興味を最も引いたことに、国家への貢献への特別賞として、KLPac の授賞があります。KLPac とはKuala Lumpur Performimg Arts Centre の略称です。これに関しては、以前から当サイトの『クアラルンプール(KL)の見所と出来事と催し』ページの 「クアラルンプール及近郊にある博物館と文化施設」項目で紹介していますよ。
といっても目立たない項目であり且つ比較的地味な文化施設なので、多くの読者がご存知とはならないことはわかります。クアラルンプールの古い地区である Sentul にある KLPacを実際に訪れると、まずその位置する環境の良さに驚きます。Sentul という名は、日本人にはほとんど馴染みない地区ですが、YTL グループが2002年以降この地区の一部、といっても実に広大な面積です、を一大開発している最中なので、今後地区名価値が上昇していくことでしょう。
YTL グループとは、よく知られた点で言えば ブキットビンタン街の JW Mariotホテル、StarHill ギャラリーショッピングセンター、LOT10 などを所有し運営するマレーシアの有名な多分野大企業グループです。
そのSentul 大開発プランの中の一つとして、この KLPac ができあがりました。基になった建物は、なんとマラヤ鉄道の修理工場だったのです、それを大改造して劇場に仕上げました。周囲は大整備された広々とした公園となっており、劇場が風景に溶け込むように建っています。総工費 RM 3000万だったそうです。夜間にバス通りから徒歩で行き来するのはちょっと不便な場所です。 尚 KLPac はYTLグループが運営しているのではなく、その分野で有名な The Actors Studio とYayasan Budi Penyayang 団体が運営しています。よって素人運営の劇場ではありませんし、KLPacへの改造時点から芸術分野の専門家がかかわったそうです。
このKLPacでは2005年中ごろにオープンして、最近では頻繁に公演が開かれていることが、ニュース、お知らせからわかります。公演には、演劇、ダンス、音楽主体イベント、外国の民族芸能、パフォーマンスなどのようです。日本の太鼓グループとか舞踏グループもそこで公演しましたね。尚音楽といっても有名歌手のコンサート会場とはなっていません。いわゆる芸術志向の催しが主体のようですね。
私はオープン前からこのKLPac を何回か訪れましたが、実は1回として公演をみたことがありません。私は決して芸術志向の催し愛好家ではないのですが、プログラム案内をマスコミの記事で読むと見に行きたいなあ、と時々思うことがあります。しかしまことに残念ながら、その入場料金に躊躇してしまいます。医療費にも事欠く状況がこの1年半ほど続いており、文化公演鑑賞までとても手が回らないというところです。人間ここまで余裕がなくなるということはよくないですね、つくづく且つ痛切にこのごろ思いますよ。
旅行者、在住者に関わらず、当サイトをご覧になってKLPacに興味をお持ちになられた方またはこういった文化公演がお好きな方は、一度 Kuala Lumpur Performimg Arts Centre に足を運ばれるといいですよ、日中なら気持ちのよい公園とユニークな建物を愛でることもできます。
コラム第 497回 ではベチャ・シクローの魅力を書きました。そこで、今回もいわば東南アジア旅の魅力をテーマにしたものといえます。ただし今回のテーマはかなりの自由旅行好きでないとかなえられない面が強いでしょう。年末の軽く楽しいコラムとして、そして我が旅人生のメモワール(思い出)として書きました。
日本は”陸国境を接しない島国”ですから、外国に渡る手段のほぼ全てといえるくらい圧倒的割合が飛行機になりますよね、船で韓国やロシアや台湾へ渡航する旅行者の割合は微々たるものでしょう。豪華クルーズ船で出かける人が昔より増えたそうですけど、その数はさらに少ないのではないでしょうか。ですから”国境を越えるという感覚”はまずわいてきません、外国へ飛ぶという感覚をほとんどの日本人は持っていると言っても間違いではないでしょう。
”陸路国境を接しない島国”ではない国々では最低でも外国1カ国と陸地でまたは河川を境にして国境を接していますから(島国でも陸路国境のある国は珍しくない:東チモール、キプロスなど)、そういう国の人たちの感覚の中には、文字通り ”国境を越える” という感覚が多かれ少なかれあります。世界の国の中には、5, 6 カ国以上と国境を接している国も少なくありませんから、そういう国の人には国境超えの感覚はより馴染みあるはずです。東南アジアのほとんどは複数国と国境を接する国です、ヨーロッパも同様ですし、アフリカも南北アメリカ大陸も同様ですよね。
私は30数年に渡る世界旅経験の中で、国境を全く接しない島国、例えば南太平洋のトンガや南アジアのスリランカ、の訪問に比べて、複数国境を持つ国々への訪問種類と回数の方がはるかにはるかに多いです。そして島国日本人ゆえなのでしょう、河川渡りを含めた陸路国境超えに非常なる興味を持ち、それに魅力をずっと感じてきました。この興味心を植えつけてくれたのが、ヨーロッパであり、国境という名の人工的な境界線を越えるだけでそこはもう別の国である、という不思議な感覚にしばらく魅せられたものです。この感覚と興味心は、当時のヨーロッパが東西冷戦時代という国際情勢のせいによって倍加されたと思います。
1970年代後半から80年代中ごろにかけて、中東欧に打ち込んでいた私は東ヨーロッパ諸国間で、西ヨーロッパ諸国間で、及び西ヨーロッパと東ヨーロッパ間を数多く行き来しました。例えば、ハンガリーからオーストリア、西ドイツからチェコスロバキア に入れば、その違いは単なる民族と言語の違い以上のものでした。つい100メートル後方の地と越境した自分がいるその地の違いに当惑し、興奮し、魅せられたものです。その大きな要因の一つは東西冷戦時代が生み出したものです。
ヨーロッパ諸国間の越境移動は、70年代と80年代を通じて、何百回超えたのかとても多すぎて覚えていません。フランスと西ドイツ間や、オランダからオーストリアへなどとそれぞれ数十回は移動したはずです。こうしたことができたのは、当時いつも使っていたユーレイルパスのおかげですが(当時は西欧だけで通用)、日中車窓を楽しみながら、一方夜間は寝ながら国境を越えてしまうという、この面白さと経済性は私をとりこにしました。
そのヨーロッパ時代の究極の陸路国境超えは決して楽しいものではなかったですが、ソ連東欧圏の入出国でした。それは当時の入出国時における非常なる厳しさのゆえからです。 現在からは想像もできないことでしょうが、ソ連から東欧諸国へ、または東欧諸国から西側へ出国する国際列車内での検査はいつも厳しかった、とりわけ70年代は特に厳しかった。
国境警備隊や出入国検査官の乗客に対する態度は概して高圧的で横柄です、中でもソ連官憲は最悪でした。彼らは列車のトイレ室上部の天井を調べ、車両の下まで1台1台覗いて、人が隠れて密出国できないようにしていました。数ある体験の中で一つだけ取り出せば、1978年ソ連から1人国際列車に乗ってハンガリーに出る国境駅の車中で、ソ連官憲に徹底的に調べられた経験は忘れられない思い出です。国境を越えるというのはこれほどたいへんなことだという経験をしたものです。こういった一連の体験も、もう二度とありえない、そんな東西冷戦時代の生み出した負のできごとです。
陸路国境超えの中で最も印象強く覚えているのは、東西ヨーロッパ間のそれと並んで、しかし回数と種類ははるかに少ないアフリカ諸国間での国境超えです。とりわけアルジェリアからチュニジアへの国境超えは、私の旅人生で最も記憶に残る国境超えです。なぜか、それはミッシェラン地図に目立たなく載っていたサハラ砂漠の端に位置するごく小さな国境検問所であり、そこに到達して確認するまで、日本人が出国できるかの自信はなかったのです (当時は情報あふれる21世紀の現在から想像もできない情報寡少の時代です、しかしそれを克服して旅するのが旅人の誇りとするところでした)。その両国の検問所間となる国境地帯を歩いて渡ろうとして途中であきらめたからです。
アルジェリア検問所係官がこともなげにフランス語で、「チュニジア検問所までは数キロ」 といった言葉を信じて、砂漠の中を自動車の轍(わだち)に沿って歩き出した私は、灼熱の太陽と焼けつく砂のために、文字通り焼け焦げるのではないかという状態になりました。アルジェリア検問所が振り返ると小さく見えるぐらいまで歩いた私は、死に物狂いでアルジェリア検問所まで戻ったのです、そのまま歩いたら間違いなく倒れて干からびて死んでいたことでしょう。砂漠の厳しさは筆舌にし難いというのは、まさに本当です。1.5リトルのミネラルボトルなど20分でなくなります、帽子をかぶっていても照り返しの熱で身体は焼けます。徒歩をあきらめた私はそこで長い間待って、国境を越える民間自動車をヒッチハイクしてチュニジア側検問所まで到達しました。たかが数キロであれ、砂漠の数キロは通常の道の数百キロに値することを身を持って体験したのです。
さて本題の東南アジアに目を向けましょう。当サイトではホームーページ開設して比較的早い時期からマレーシアとタイ間の国境超えの情報と体験を詳しく掲載してきました。「隣国との国境の超え方と情報」 ページを開いてご覧ください。当時のタイとマレーシア間の全国境検問所地点を足で調べたものです。99年前期に日本の旅行雑誌にも数回掲載したように、マレーシアータイ間で河川を含む陸路国境超えだけに絞ってこれほど詳しく書いた情報は初めてだったはずです。その後日本で、国境情報に絞ったマニア向けの旅行本が出版されたり、インターネットでも同じような情報を載せるところが現れたようですが、当サイトがこの面での先駆だと思っています。
地元人しか利用しない小さな国境検問所を探していくのは相当手間暇かかることです、マレーシアで探してもその種の情報は見つかりませんよ。一般マレーシア人にも用が全くないからです。マレーシア−タイ陸路国境の内、自由旅好きなら利用したいと思うであろう、Rantau Panjang - Sungai Golok 間の例を取り上げてみましょう。この両国間の検問所は数百メートル程度しか離れていません。国境であるクランタン川にかかる橋をぶらぶらと歩いて渡れば、タイ側またはマレーシア側の検問所です。2000年以降マレーシア側 Rantau Panjang 検問所は立派な近代的ビルになり、今でも小屋に過ぎないタイ側の検問所とは対照的です。
私がこの橋を最初渡ったのはもう17年ぐらい前のことです。川にかかる橋を自分の足で歩いて渡る越境は、とりわけその越境地点を初めて通る時は、自由旅好きにはなんともいえない満足感を与えてくれます。尚タイ人のバイクタクシー屋の客引きが盛んですから、バイクの後ろ座席に乗って越境もできますが、ぶらぶら歩いてたかが数分ですから、歩いたほうがはるかに気分がいいですね。タイとマレーシア間の最大国境検問所は、Bukit Kayu Hitam − 通称Sadao です、かなり大きく且つ忙しい国境であり、とりわけタイ側は歓楽街なので越境の風情はゼロですね。
次いでよく知られているのは、マレー鉄道の利用者にお馴染みの、Padang Besar - Padan Besar(タイ側も同名) 国境です。鉄道駅のすぐ隣が自動車及び歩行者用の検問所ビルがあります。鉄道駅内の検問所は1日2種の越境列車、つまりタイ鉄道1本とマレー鉄道1本、往復合計4便、の到着時のみに検問所カウンターが開くという暇な検問所ですが、初めての利用者にはわくわく時にはちょっと不安にさせることでしょう。
他のマイナーな国境検問所は、上記の「隣国との国境の超え方と情報」 ページを参考にしてください。小さな荷物積み兼用ボートで渡るとか、歩いて渡るというマイナーな越境は、真の自由旅好きだけが感じられる喜びだと言えます。尚最近ケダー州の Durian Blong に新しい検問所が開設されたという情報を得ましたが、現地を訪れて確認していないので、よくある観測的推察情報なのかなんともいえません。
マレー半島部の国境に本当に通れるのかなといったような、疑いを抱かせる検問所はマイナーな検問所でもありませんが、サラワク州とインドネシアのカリマンタン間に複数ある検問所は、いかにもそんな気分を抱かせます。サラワク州の僻地とカリマンタンの僻地を結ぶ越境地点であるからこそ、そういう感覚になります。インドネシアは数年前に、到着時ビザ発給機能を主要出入国地点だけに設置しました。サラワク州に接するカリマンタン側検問所はどこもこの機能がないようなので、事前ビザ取得以外はインドネシアへ入国できないことになります。マレーシアへの入国も地元人の交易と日常活動のための国境であるかもしれないので、果たして外国人がビザなしで入国できるかはっきりしない点もあります。これらのことからカリマンタンとサラワク州間で出入国を繰り返すようなことは、両国人を除いてまず不可能に近いと思われます。ずっと前からいつかこのルートを調べてみたいと思っていましたが、いまだに手がつかずです、サラワク州僻地は費用の面で行くこと自体がまずできないからです。
インドネシアとの陸路国境はボルネオ島部に限られてしまいます。半島部はマラッカ海峡を経たスマトラ島またはその属島へ入国することになりますので、陸路または河川渡航での越境とはなりません。
東南アジアという視点にたてば、複数国との越境の基点ともいえるのは、やはりタイをおいて他にありませんね。タイはその地理的位置と地政学的位置の両面から、昔も今も東南アジア旅の基点となります。タイは西部と中部でミャンマー、北部と東北部でラオス、東部でカンボジアと接し、南部はいうまでもなくマレーシアと接しており、ベトナムさえもラオスの一番幅狭い地区を経由して陸路到達できますから(その道路距離は100Km弱にすぎない)、まさにタイは東南アジア自由旅の基点です。上記5カ国へ陸路国境を越えるのは必然的にタイ経由とならざるをえません。空路もバンコクが早くから基点の位置を確立していましたね。ベトナム戦争時代、世界のマスコミ各社の基地とフリーランサーの集合地がタイになったのはこんな理由からです。80年代からタイを旅してきた私は河川渡航を含めて陸路経由で隣国へまたは隣国からタイへと何回も国境越えしてきました。ミャンマーとは複数個所で、ラオスは河川渡航で、カンボジアは複数個所で越境しました。
カンボジアの内乱がほぼ終わりにかかった90年代末、カンボジア間の越境は当時唯一の陸路検問所が開設されていたアランプラテート以外の新規オープン予定の検問所箇所を求めて、私はタイで待機しながら探したことがあります。これはマイナーな陸路越境の魅力に取り付かれた旅人だけの世界ともいえます。つまりなんら観光施設もないし、不便で且つ情報のほとんどない、知られてないまたはオープン間もない国境地点を自分の足で超えるのは、旅人としての喜びを感じるからです。
マイナーなまたはオープンしたばかりの小さな陸路検問所はなぜ面白いか、国際空港での検問と違って不確定性があります。24時間開いているわけではないので、開いてる時間に通過しなければいけない、そういう風に自分で旅程を組む必要がある。パスポートを差し出せばほぼ無条件に入国なり出国のスタンプを押してくれるのか、そのはずだと思いながらも一抹の不安も感じます。通行料という名の金を要求されるのではないか、何らかの入国条件を突きつけられるかもしれない、などという心配です。奇妙なことにこの種の一抹の不透明感があるからこそ、マイナーな陸路国境越えはやりがいがあるのです。
現に、90年代の終わりごろ、今は大国境検問所となっているタイのアランやプラテートからカンボジア入国時には、カンボジア側でちゃんと通行料という名目の金を取られました、US$5ぐらいだったかな。ミャンマー入国の場合では、2000年前後に陸路入国した際と 海峡路入国した際のどちらの場合も、ミャンマー側で通行料を係官に払いました、というより払わざるをえませんでした。まあUS$5−10程度とはいえ、もちろん好んで出すわけではありませんよ、払わなければ入国スタンプを押してくれませんからね。 今でも変わらない規則だと思うのですが、タイからミャンマーに陸路または海峡路入国した場合は、その国境町だけに滞在できますが、他の町へ行くことは禁止されていました。検問所ではどんな外国人であれそのパスポートを預かってしまいます。国がミャンマーですから、その規則を破るのは危険に思い、私は許された範囲外へは出ませんでした、この仕組みは多分今でも同じではないかな。
海峡路と書いたのは、タイ南部のRaong 県の県都の波止場から海峡を隔てたミャンマーの町までボートで渡る国境越えです。名前を忘れてしまったその町はミャンマーの最南端の町になります。タイの中部が一番狭くなっているあたりの西側はミャンマー領ですが、そのあたりには国境検問所は1箇所もなく、(昔私は国境線に沿ってずっと探し回った)、このラノンから海路入出国するルートしかありません。海路といっても船で渡るのでなく、船外機をとりつけた屋根もない小さなボートです。荷物運びボートと混在した波止場には人も乗せるボートが何艘も客待ちしてます。ただし観光客主体でなく国境交易主体の地ですから、いわゆる観光ボートを期待するとがっかりしますよ。1人いくら、また1艘いくらで交渉して乗ります。海峡ゆえに波は結構荒いのですが、ボートはそんなことお構いなく走行します。救命具などといったものは一切積んでませんので、転覆すれば溺死という運命の危険なボート渡航です。帰りのボートは途中でエンジンの調子が悪くなって海上で立ち往生し、海峡の真ん中でボートを乗り換えさせられたのです。当然ながら乗ってた者皆不安な顔になりました。
このようにマイナーな場所での越境には危険も覚悟する必要がある場合があります。ミャンマーとの越境といえば、タイ西部の町 メーソットから越境するルートも以前試しました(東部のメーサイ、いわゆるゴールデントライアングルの地とは違います)。両国間を流れる川が国境になっており、その川にかかる橋を歩いて渡ると、タイ側とははるかに違う経済発展度を感じさせるミャンマーの小さな町です。観光資源は全くありませんし、ミャンマー内陸部へ行くことは許されていませんから、単に越境するということを味わうための日帰り越境です。タイバーツが通用するので、飲食は問題ありません。
カンボジアとの間での越境に関しては、このコラムで 第459回から3回連載した、「カンボジアの辺境地訪問の旅 − 前中後編」 の中で詳しく触れているのでご覧ください。
ラオスとの間での越境は第 497回のコラムでちょっと触れました。現在はメコン川に、日本のODA援助で2本目の橋が昨年末完成し、タイとラオス間には2本の橋が架かっています。つまりトラック、バス、自動車、バイクがどんどん通行しているということで、今年現地を訪れた私は、タイ国境の町とラオス国境町の間で冷房付きのきれいな国際バスの運行が始まったことを知りました。もっとも見ている限り、乗客はほとんどなくがらがらでしたが。さらにもう1箇所 川を国境としない地点でタイとラオス間の国境が昔からあり、その区間でも冷房付き国際バスの運行が始まっていました。去年はなかったことです。タイとラオス間の国境越えに関してはまこと時代は変わったものです。
ただし、ラオスとタイの国境交易と地元の人の往来は昔ながらのメコン川を横断するボートで行われています。メコン川の川岸で何回もこの光景を見てきた私は、今年訪れた時、遠くにかかる大きな新国際橋を時折見やりながら、この昔ながらのボート交易と渡航を安堵感を感じながらしばらく眺めていました。チョコレート色の水がとうとうと流れる東南アジアの大河メコン川を眺めていると、その先に広がるラオスと下流にあるベトナムの地が頭に浮かびます。まだまだ観光開発されてない地であるだけに旅のロマンを感じさせてくれます。便利で経済効果はきわめて高い近代的な橋を眺めていてはこういう旅のロマンは浮かびませんね。
東南アジアでの陸路国境越えは、手間暇かかる面倒さを時に楽しみ、時に辟易し、しかも一抹の不安感に見舞われながら、一方で旅のロマンを感じます。それが30年近く世界各地で陸路(河川を含む)国境越えの魅力に取り付かれてきた、Intraasia の最も Intraasia らしい旅の一つです。