・子供をインターナショナルスクールに通わせたがる親の論理 ・数字で見たマレーシアシリーズ その31
・短編コラム3題 −Rapid KLバス、多民族コミュニティーに暮らす、郵便誤配−
・短編コラム 2題 −各言語新聞間の違い、 マレーシアは第2の我が家プログラムへの日本人参加者層
・ベチャ、つまり三輪自転車タクシーに乗ったことありますか? ・大衆軽食として人気トップクラスで朝食の定番でもあるロティチャナイ
・お粥にうんちくを傾けて語る及び非グルメの語る肉骨茶(パクテー)のお話
・マレーシア(の前身)独立50周年と「今週のマレーシア」コラム掲載 500回
マレーシア国内でインターナショナルスクールに登録つまり通学している生徒数は、2005年時点で 1万人強、その内マレーシア人が約4分の1占めるそうです。つまり約 2500人 ということです。参考までに、教育省の統計によれば、2003年の時点で小学生の総数が307万人、中学生の総数が199万人です。絶対数も比率も確かにごくごく少ないですね、ただ捉える人によって、この比率が意外に多い数なのか、こんなものか、それとももっと高いべきなのか、違いはでてくるでしょう。
尚ここでインターナショナルスクールという範疇は、日本人学校、ドイツ人学校、インドネシア人学校、フランス人学校などのように、各国が政府の肝いりでそれぞれの国民向けに設置している小中学校はここでの範疇から除かれると理解しても間違いはありません。(日本人学校が形式上は私立であっても、国家が肝いりで設置していることには変わりはない)
ちなみに、マレーシアで学ぶ外国人学生の数を見てみると、2005年1月時点で次のようです:
私立の小中学校 | 公立の小中学校 | 初等と中等教育以外の機間 |
5,056人 | 3,376人 | 40,686人 |
この数字から言えるのは、マレーシアにあるインターナショナルスクールに通うマレーシア人生徒よりも、マレーシアの小中学校で学ぶ外国人生徒数の方が圧倒的に多いということですね。外国人生徒数には、マレーシアに実にたくさん住んでいるインドネシア人長期滞在者または永住者の子供が多数派を占めると推定されます。
インターナショナルスクールに通学しているマレーシア人生徒に戻ります。マレーシア人がインターナショナルスクールに登録して通える条件は3つあるとのことです:
しかしながら、この条件を拡大して解釈して子供をインターナショナルスクールに登録して通学させようとする親が少なくないとのことです。
マレーシア・インターナショナルスクール協会の議長は語る、「親たちはインターナショナルスクールを通常のマレーシア人にも門戸を開放するようにと、以前からロビー活動してきました。そういった親は子供をシンガポールに通わせたりしています、これは多量な頭脳流出です。」 もっともこの議長はインターナショナルスクールの門戸開放には注意深く対応すべきだとして、「インターナショナルスクールで学ぶマレーシア人生徒の数に制限を設けなければ、そのスクールはいつか外国制カリキュラムの下で教育を行うマレーシアの通常の学校 ということになってしまう。」 (2005年9月11日付け The Star 紙の”Education”特集の記事)
マレーシア・インターナショナルスクール協会は過去政府に対して、上記の3条件に次ぎの条件を加えることで、門戸を多少広げる提案をしてきたとのことです:
親が外国人であるといった民族上のまたは国籍上の違いからマレーシアの学制に合わない、通学できる範囲に(その親の出身国政府肝いりで設立した)国別ナショナルスクールがない、だからインターナショナルスクールに子供を通わせる、というのはよく理解できます。しかしマレーシア人でありながら多国籍企業の経営幹部だからとか、外交官であるからといった理由でマレーシアのインターナショナルスクールに通学させるという思考は、まさにマレーシア学制下における教育を受けていてはこの種の人たちの定義する”国際人”になれないからインターナショナルスクールに通わせたい、という論理と表裏一体です。
日本を含めてどこの国にもいますね、この種のエリート層に属する人間は、その国の大衆層との接触をできるだけ少なくし、エリート層同士で交流しあい、”国際語”英語の環境下で子供を教育させて”国際人”になる、という論理と行動によって、優越感に満ちた、英語を盲目的にあがめる人間を拡大生産していきます。
ジョーホ−ルバル及びその近辺では地元の小中学校を拒否してわざわざシンガポールまで毎日通学している小学生が3桁数いるそうです、つまりこの種の子供を持つ経済的に豊かな親の思考と論理は、マレーシア学制は劣ると表明しているのと同じですね。もっとも、その子供は卒業後マレーシアで暮らすのではなくシンガポールで暮らすので、初めからマレーシアの学制下で教育を受けさせる必要はない、というのであれば、それはそれで確かに説得力のある思考と論理と言えます。
人はその子供をどこで教育させるかは親の権利である、個人の自由である、という主張。これは一見まこともっともな論理に見えますが、実質は権利と自由の殻を被った、経済的富裕層及びエリート層のエゴイズム以外の何ものでもありません。なぜなら大衆層つまり圧倒的大多数の親はそういった権利と自由を行使すること自体ができないからです。自国に住みながらその国の一般的な小中学校に通わせないというのは、皆が平等に行使できる選択の下で行われるのではなく、少数の富裕層とエリート層だけが行使できる選択 なのです。例えば、地方に住む平均的なマレーシア人家庭がその子供を大都会だけにしか存在しないインターナショナルスクールに通わせることができるかできないかは、誰だってわかることですね。
間違いなくエリート層に属するであろう Marina Mahathir女史はこう書いています:
多くの中流層のマレーシア家庭が子供を私立学校またはインターナショナルスクールに通わせたいと思う時、小学校段階でなぜ私はそうしなかったか、そうしようとしないかを説明しましょう。マレーシアの学制についての不満を正当化する多くにも関わらず、私は子供(2人)を地元の学校に通わせたいと思った、それは学業的な意味合いからでなく、社会的な理由からです。
国内には背景の違った社会出身の子供たちがいるのだ、それは単に民族が違うということではなく階層という意味でも違う、ということを、私は子供が理解してくれることを期待します。子供皆が大きな車で学校に送ってもらえるわけでも、休暇時期に海外旅行に連れて行ってもらえるわけでもない。私が住んでいる地域から考えて、私の上の娘の同級生たちはそれほど異なった背景を持っているわけではなかった、しかしそれでも娘は私立の学校へ行くよりもいろんな子供と交じり合える、と私は思った。
上の娘は(出世時の父親がヨーロッパ人のため)半分ヨーロッパ人です、しかし彼女はここに住んでいる、彼女はマレーシアで文化的ルーツを持つともいえるそういう環境に住んでいる。私は娘にネイティブのようにマレーシア語を話して欲しかった。略
こういったことを主要な理由として、私は娘をインターナショナルスクールに入れることができたにも関わらず、そこへは入学させなかった。
以上は、11月16日付け Star紙に書いた彼女の定期コラムの一文から抜粋しました。
マハティール前首相の長女という恵まれた出身と環境ながら、それに甘んじておらず、前マレーシアエイズ協会の会長として社会奉仕活動に長年励んでいる彼女らしい意識と行動ですね。といっても、私は彼女の中に見え隠れする英語崇拝傾向には全く賛同はしませんよ。
エリート層と富裕層は現実として存在する、それはそれで結構です。しかしそういう階層の人たちだけが享受できる優越性を利用して子供をインターナショナルのような、俗なマレーシア社会といわば隔絶したエリート学校に通わせれば、それは20世紀前半まで東南アジア世界に蔓延していた植民地時代の意識と、時代と背景は多いに違えど、根は変わらない。俗っぽく豊かではない一般大衆の子供との交流を子供時代から避けて、選別意識を隠せない種類のエリート層と富裕層からなる社会で育つのです。誤解なきように付け加えれば、エリート層と富裕層の全てが選別意識を持っているわけではないことは知っています。
この種の選別意識を持つ富裕層とエリート層に属する、子供がどれくらい少数さであるかを、上で示した数字で再度触れます。マレーシアの数あるインターナショナルスクールの総生徒数 1万人強の約4分の1がマレーシア人です。現在たった2500人程度のマレーシア人生徒数に、インターナショナルスクールに入れる可能性を持った予備軍 数千人を加えても1万人にも満たないというところでしょう。マレーシア人小中学生総数500万人に対する割合を計算してください。
国が発展するために少数のエリート層が必要であると時代錯誤の主張をして、この種の論理と行動を正当化する人たちもいます。19世紀の封建制国家じゃあるまいし、21世紀の民主国家たる現代国家にこの種の人間は不必要です。国が発展するために、英語を自由に操れる人間を排出しなければならないと、どこかの日本人にもいそうな英語崇拝・信奉者がマレーシアには少なくない。英国から独立して50年近く経ったにも関わらず、英語が全ての出発台であると信じて疑わないこの種の人間は決して減らない。
マレーシアが、必要であれば外国語として英語を使う社会を指向しているのではなく、国語または擬似母語として英語を必要とさせる社会に向かっている以上、英語至上主義対マレー語民族主義プラス(一部の華人にある)華語信奉主義の論争と対立はこれからもずっと続くでしょう。しかしこの種の民族至上主義思考や特定言語信奉思考からは、様々な言語を相対的に捉える言語相対主義の思想は全く育ちません。ある一つの言語が世界を圧倒するのは、国際化ではなく独占化なのです。人はごく少数またはある一つの国だけが超強大な軍事力を背景に世界を支配することに反対してきました、人々はある一つの経済体制だけが世界を支配することにも反対してきた、人々はある一つの文化思想だけが世界を席巻することにも反対してきました。それなのに、単一言語の独占化つまり言語帝国主義になぜ進んで手を貸す必要があるのか?
こうして、子供をインターナショナルスクールに通わせたがる親は、そのエリート意識と経済的優位さを背景に、インターナショナルの門戸開放を主張し、それを待っているのです。19世紀後半から20世紀前半、宗主国英国は、マラヤの地とボルネオの地で英語のできるマラヤ人を育成し、登用して植民地支配を強化しました。21世紀のマレーシアでは、自ら進んで ”英語の家僕” となりたい人間が少なくありません、その先陣を切るのが、子供をインターナショナルスクールに通わせたがる親たちですね。
私のこういった論調のコラムを読まれる方の中には、これまでの言語に関する数あるコラムをお読みになっていない方も当然いらっしゃるでしょうから、そういう場合は私の意図と主張が誤解される可能性があることを感じます。そこで、付録として論旨の解説を付け加えておきます。
私は偏狭な言語ナショナリズムにも強く反対し、反発を感じます。言語ナショナリズムは、マレーシアでいえば、極端なマレー語至上主義者や、中国文化一辺倒の華語教育優越主義者に代表される人たちです。
マレーシア語ではなく、マレー性に満ち満ちたマレー語を誇る人たち、こういう人たちはマレーシア語を名実ともに国語化させる面でむしろ他民族からの反発を呼び起こしてしまうのです。彼らは、マレーシア語がマレー性に満ち満ちた言語になればなるほど、それは国語化とは反対方向に行ってしまうことに気が付きませんし、そういう事実を受け入れようとしません。マレーシア語をマレーシアの名実共の国語にするためには、マレー性を薄める必要があるのです。
マレーシアの華語教育と華語メディア界の現状を知れば、華語(中国語)の優越性を常々自負し、中国文化を尊大視する、華語教育・文化優越主義者の存在を感じざるを得ません。まことに残念ながら、巨大中国の存在感が日毎増す中、こういった勢力が強まることはあっても弱まることはないでしょう。
偏狭な言語ナショナリズムは日本にももちろんあります。「日本語は最も美しいことばである」、 「世界に比類なき優れた言語」 であるとうそぶき、一部の日本人の心をくすぐる論理を昔から流布していますね。何を持って最も美しい言語といえるか、それは基準の取り方次第でなんとでもなります。まあ、世に五万とある美人コンテストの基準みたいなものですな。
「世界に比類なき優れた言語」 ?、世界の万種近くある言語を詳細に研究した上で言うのでない限り、たかが5つや6つの言語と比較しても意味のないことです。第1、数え方に違いがあるけど5千種から1万種ぐらいもある、世界の全言語を詳細に調査することなど、古今東西どんな天才でも不可能です。よって前提自体がなりたたないのが、この世界に比類なき優れた言語 という主張です。
尚私にとって自分の母語である日本語は美しいことばだと感じます。その理由は、母語話者として、なんら学問的根拠からではなく、世界で最も美しいなどという主張のためでもなく、単なる感情として美しいと思うからです。
上記で描写した、”英語”言語帝国主義者と 言語ナショナリズム は、言語の平等性に基づく言語相対主義を毒する二大勢力・潮流です。言語は人間の最も基本的な能力且つ権利です。これを害する、または害しようとするのは、基本的人権の侵害なのです。
人は自分の母語(注:母語と母国語は直接関係ありませんよ)を大事にするのが一般的のはずですが、中には自分の母語を極めて卑下する人もいますね。こういう人たちは、言語の経済的価値だけに目を奪われて(例えば英語には非常なる経済的価値があるのは事実でしょう)、言語が人間の基本的能力と権利であることに気が付きません。
人たるもの、その母語を大切にし、その上で言語の平等性に基づく言語相対主義に立とうではないか。
これまで断続的に掲載してきた 数字で見た シリーズです。マレーシアに関する様々な統計数字を掲載しています。ここでは、数字を視点にしてマレーシアの諸面を知ってください。
中央銀行 Bank Negara が発表
2006年第4四半期 | 2006年1年間 | |
国内総生産高 | 5.7% | 5.9% |
農業・漁業・林業 | 6.5% | 6.4% |
鉱業・採石業 | 1.9% | -0.2% |
製造業 | 4.3% | 7.0% |
建設業 | 0.6% | -0.5% |
サービス業 | 7.0% | 6.5% |
マレーシアの昨年2006年の貿易収支は、記録的なRM 1兆の壁を破りました。
輸出高 10.3%伸び | 輸入高 10.7%伸び | 総貿易額 |
RM 5889億 | RM 4805億 | RM 1兆690億 |
輸出 | ||||||
その構成 | 製造製品(その内電子・電気品) | 農業産品 | 二重目的品 | その他 | ||
金額 RM | 4517億(その内 2810億) | 464億 | 792億 | 115億 | ||
輸入 | ||||||
その構成 | 中間製品 | 資本製品 | 消費製品 | 二重目的品 | その他 | 再輸出品 |
金額 RM | 3352億 | 653億 | 279億 | 122億 | 69億 | 329億 |
通産省が昨年の、外国からマレーシアへの製造業分野での直接投資額(認可額ベース)を発表しました。製造業を含めた全産業分野への直接投資認可額は RM 460億でした、合計で1077の投資プロジェクトが認可され、内653プロジェクトは新プロジェクトで、424プロジェクトは拡張または多様化です。通産大臣は語る、世界的な競争の中で、マレーシアは引き続き外国からの投資を集めています、と。
2004年 | 2005年 | 2006年 | |||
認可投資額 | RM 131億 | RM 179億 | RM 202億 | ||
投資最大国 | 日本 | オランダ | オーストラリア | 米国 | シンガポール |
2006年認可額 | RM 44億 | RM 33億 | RM 26億 | RM 25億 | RM 19億 |
2005年認可額 | RM 37億 | RM 17億 | RM 1.6億 | RM 52億 | RM 29億 |
産業別 | 電子・電気 | 化学 | 金属 | 非金属 | 食物 |
多い順 | 42.6% |
国名 (2005年の順) | 2006年の総人数 | 2005年の総人数 | 増減変化率 |
シンガポール | 9,656,251 | 9,634,506 | 0.2% |
タイ | 1,891,921 | 1,900,839 | -0.5% |
インドネシア | 1,217,0 24 | 962,957 | 26.4% |
ブルネイ | 784,446 | 486,344 | 61.3% |
中国 | 439,294 | 352,089 | 24.8% |
日本 | 354,213 | 340,027 | 4.2% |
オーストラリア | 277,125 | 265,346 | 4.4% |
英国 | 252,035 | 240,030 | 5.0% |
インド | 279,046 | 225,789 | 23.6% |
フィリピン / 台湾 | 211,123 | 172,456 | |
韓国 | 189,464 | 158,177 | 19.8% |
各国からの総合計 | 17,546,863 | 16,431,055人 | 6.8% |
1−5位 | Kurnia | AM Assurance |
Malaysia Assurance Alliance | Uni. Asia General | Allianz General |
6−10位 | CAB | Aviva |
Homg Leong Assurance | Mitusi |
Mayban Geneal Assurance |
マレーシア人全体 | マレー人 | 華人 | インド人 | |
男性 | 71.5才 | 70.4才 | 73.6才 | 67.4才 |
女性 | 76.2才 | 74.8才 | 78.8才 | 75.4才 |
車両種類 | 交通事故 | 2003年 | 2004年 | 2005年 | 2006年9月まで |
自動車 | 発生数 | 351,832 | 373,536 | 376,061 | 298,382 |
死者数 | 1,187 | 1,216 | 1,240 | 920 |
|
バイク | 発生数 | 95,545 | 98,075 | 97,072 | 79,699 |
死者数 | 3,548 | 3,487 | 3,548 | 2,736 |
|
貨物トラック | 発生数 | 33,702 | 35,189 | 32,657 | 25,277 |
死者数 | 226 | 233 | 197 | 174 |
|
バン | 発生数 | 20,277 | 19,215 | 19,031 | 15,035 |
歩行者 | 死者数 | 683 | 675 | 601 | 438 |
中長距離バス | 発生数 | 1,963 | 4,874 | 1,836 | 1,483 |
死者数 | 67 | 69 | 48 | 26 |
Trannasional とかPlusliner、のような大手、シンガポール路線に特化しているAeloline のようなバス会社はまあ問題ないでしょう。中小バス会社の中には、態度の悪くいい加減な運転手がいるのは、多くの常連利用者が知っている事実ですね。
2003年 | 2004年 | 2005年 | 2006年 | |
死者数 | 3,548 | 3,500 | 3,591 | 4,143 |
重傷者数 | 5,656 | 5,820 | 6,208 | 5,929 |
軽傷者数 | 25, 044 | 26,407 | 21,423 | 12,789 |
分類 | バイク乗り | 自動車乗り | 歩行者 | 自転車乗り | その他 |
割合 | 57.6% | 19.6% | 10% | 4% | 8.8% |
2004年 | 2005年 | 2006年 | 合計 | |
16−20才 | 761 | 1123 | 843 | 2727 |
21−25才 | 929 | 1125 | 1148 | 3202 |
26−30才 | 1033 | 787 | 868 | 2688 |
31−35才 | 1137 | 482 | 711 | 2330 |
6228人 | 6200人 | 6287人 | 18715人 |
産業界が広告に支出する費用は昨年1年間で RM 47億でした、前年比4%の伸び。メディア産業における総広告費においては、新聞界が最大です。テレビ界では、TV3局が圧倒的に多くテレビ界の40数%も占めています。
メディア別 | 2005年の割合 | 2006年の割合 |
テレビ | 28.7% | 31.2% |
新聞 | 60.9% | 57.9% |
ラジオ | 3.9% | 4.1% |
雑誌 | 3.5% | 3.3% |
シネマ | 0.4% | 0.4% |
戸外広告 | 1.7% | 2.1% |
ポスター | 0.9% | 1.0% |
合計 | 100% | 100% |
総額 | RM 45億 | RM 47億 |
分野 |
テレコミュニ ケーション |
洗面・ トイレ用品 |
金融・保険・ 不動産 | 飲料品 | 自動車 |
全体に占める割合 | 13% | 9% | 8% | 6% | 6% |
麻薬中毒者が1番多いのはクアラルンプールという先入観が一般的ですが、それは間違いです。以下は反麻薬庁の長官が明かにした、反麻薬庁の2006年統計数字からです。国内で麻薬中毒者が最多なのは、ペナン島のジョージタウン市で、2147人。そのペナン州自体非常に多くて、5127人です。
州 | クアラルンプール | ケダー | ペラ | ジョーホール | クランタン |
中毒者数 | 2017人 | 2634人 | 2545人 | 2243人 | 2243人 |
民族別 | マレー人 | 華人 | インド人 | その他 |
人数 | 15849人 | 3632人 | 2427人 | ? |
割合 | 70% | 16% | 10.6% | ? |
クアラルン プール |
ペタリン ジャヤ | マラッカ |
ジョーホ ールバル | ペナン | コタバル | クチン |
コタキ ナバル |
|
KFC | 52 | 17 | 12 | 17 | 14 | 4 | 12 | 15 |
MAC | 42 | 13 | 5 | 16 | 11 | 3 | 2 | 4 |
P Hut | 26 | 19 | 5 | 10 | 10 | 2 | 5 | 3 |
KFC:ケンタッキーフライドチキン、 MAC:マクドナルド、 P Hut:ピザハット |
ブミプトラ | 華人 | インド人 |
||||
2004年 | 2005年 | 2004年 | 2005年 | 2004年 | 2005年 |
|
医学 | 439 | 544 | 297 | 321 | 43 | 45 |
歯学 | 123 | 115 | 79 | 62 | 7 | 13 |
薬学 | 89 | 135 | 174 | 143 | 7 | 6 |
電子工学 | 1113 | 1116 | 357 | 516 | 60 | 69 |
化学 | 489 | 494 | 259 | 346 | 24 | 41 |
法律 | 47 | 142 | 145 | 105 | 48 | 47 |
会計 | 845 | 478 | 573 | 593 | 51 | 50 |
不動産売却益税は固定資産売却益税の1種です、取得した不動産をある期間保有した後売却した際、発生した益に対して課税される税金です。課税対象がマレーシア企業・人の場合と、外国人の場合では違いが設けてあります。
ところがこれが、今年4月から廃止されることになりました。
取得時点から売却した時点まで どのくらいの期間経っているか | 売主が企業 | 売主が個人、その他 |
2年以内 | 30% | 30% |
3年目 | 20% | 20% |
4年目 | 15% | 15% |
5年目 | 5% | 5% |
6年目及びそれ以降 | 5% | 0% |
外国人・企業の場合 |
||
売主に企業と個人の区別なし | ||
5年以内 | 30% |
|
6年目及びそれ以降 | 5% |
月収別階層 |
銀行ローン 平均額 |
平均ローン額/ 平均月収 比率 |
月平均 返済額 |
RM 1750未満 | RM 86480 | 59 | RM 555 |
RM 1750- 2750 | RM 115049 | 46 | RM 730 |
RM 2750- 4500 | RM 161639 | 47 | RM 1035 |
RM 4500を超える | RM 214474 | 31 | RM 1326 |
「新聞の記事から」 に載せたり、旅行者ページの「クアラルンプールの交通機間案内」 のページにたまに追加しているように、クアラルンプール圏内外を運行する、いわば公共バス網である Rapid KLバス網は去年に続いて今年も多くの路線改定と新型車導入を行いました、尚新型車導入はまだ引き続いて行われています。
路線改定は去年の大改定ほど広範囲で大規模なものではありませんが、その大改定の欠点を修正したものであり、起点となる発着地点の新規創設または変更と2桁数の路線の変更が行われました。路線改定に限れば、去年の大改定に対する利用者の苦情を取り入れたこともあり、その面では利用しやすくなったと言えるでしょう。
しかし運行への不満は決して減ったとは思えません。この2ヵ月ほど用事でPutra Jaya・Cyberjaya 方面へ Rapid KLバスを毎週数回利用しました。クアラルンプールのバス網に関しては10数年に渡ってほぼ全域を数千回乗りまくってきた”マレーシア人も驚く大のバス乗り”を自任する私ですから、バス利用そのものは全くの日常時です。ただその方面にこれほど集中的に乗ったのは初めてです。
あらためてクアラルンプールから新行政首都である PutraJaya までの遠さを感じました。もし自家用車があれば高速道路利用で距離はあってもそれほど時間はかかりませんが、バスだけの利用でクアラルンプール中心部からPutra Jaya・Cyberjaya を行き来するのはかなりの時間がかかります。私の場合は住居地から合計 3本のバスを乗り継いで往復4時間半平均です。運が悪ければ5時間、良ければ4時間という長時間です。尚全てバス利用ではなく空港鉄道を混ぜて使えば、所要時間はかなり減りますが、運賃が倍以上かかりますので、我選択から外れます。
なぜこれほど時間がかかるかといえば、ひとえに待ち時間の多さです。平均4時間半の半分はバス待ち時間なのです。これはまこと忍耐を要します。いうまでもなく、クアラルンプールを含めてマレーシアの都市内外を運行するバスに時刻表はありません。Rapid KLバスは歌い文句として、例えば平日のピーク時間は20分、その他は30分などと表明してますが、それは単なる歌い文句であれ、これを信じたらバカを見るだけであり、常連利用者なら誰もこんな歌い文句を当てにしないはずです。要するに、”来るまで待とう Rapid KLバス”なのです。
ですからバス停でひたすら気長に待つしかありません。運が良ければ5分で対象番号のバスが到着するかもしれませんし、悪ければ40分50分と待つことになります。これを1週間に何回も繰り返すのはまことにつらい、毎日複数バスを乗り継いで通勤している人の苦労がほんと身に染みます。マレーシアの都市バス網の実態をご存知ない方は、それは渋滞のためであろうと思われるかもしれません。もちろんクアラルンプール中心部や郊外と市内を結ぶ道路で毎日起っているひどい渋滞によるバスの遅延は、常態です。よって渋滞による遅延は2大原因の1つであるのは事実です。
しかしバスの不定時間運行はもう1つの大きな原因があります。それは運転手の起点地からのきまぐれ発車です。一定の分間毎に起点地を出発しておれば、これほどバスの不定時間運行は起きません。渋滞など一切起らない Putra Jaya・Cyberjaya内でバスが40分も来なかったりするのです。Putrajaya を結ぶ起点の一つであるSerdang や Putrajayaのバスターミナルなどでバスを待っているとこれがよくわかります。何分間隔毎に出発することが一応決まっているにも関わらず、運転手によってはまったく守らない。それが渋滞で到着したから休み時間が減るためその分長く休むのか、昼飯やお茶飲み時間を十分に取りたいのかわかりませんが、とにかく発車間隔は守られていません。起点には一応運行管理する現場管理者がいますが、マレーシアバス会社コミュニティーの常で厳しい運行管理はなされていません。だから時に5分間隔ぐらいで起点バス発着所にバスが到着したり、発車したりすることも起るのです、そういう時はその次の間隔が異常に長くなりがちですね。
起点地を出発してから渋滞で運行が乱れるのは仕方ないことであり、渋滞による遅延は Rapid KLバスの責任ではありません。しかしせめて起点地からの定期間隔発車は、サービス改善をしきりに打ち出している Rapid KLバスへの利用者の素直な期待でしょう。民営バスのMetro バスにそんなことははなから期待できませんからね。
こうして各乗り継ぎ地つまり起点バス停またはバスターミナルで時に10分、時に40分といつ到着または出発するかもしれないバスを待つわけです。Putra Jayaバスターミナルはビルの地上階ターミナルなので雨や太陽の日にさらされることはなく、且つ一応ベンチもありますが、Serdang バス停はお粗末なものです。強雨の場合は確実に濡れるバス停であり、そのバス停の長イスは7、8人で座ればもう一杯です、よってバス停の外で多くの乗客が待ちます。さらにクアラルンプール方向行きのSerdangバス停では未だにバス停が完成してない、屋根もないのです。
LRT高架電車の Pasar Seni 駅前は今回のバス路線改定で発着起点に復活したのですが、バスの発着台数から見て起点としてはいかにも雨宿り場所が少ない。Bandar Utama から Putrajaya を結ぶRapid KLバスがあります、この途中の主たる経由地であるバス停の Puchong も不充分なバス停です。バス乗りはつくづくこの面で冷遇されていると思います。全部のバス停を拡大しろとまでは思いませんが、せめて起点バス発着所と主要バス停は充分なる雨宿り場所ととにかく座れる場所があるべきですね。
Rapid KLバス網は運行区間の2回に渡る改定、新型車両の導入、1日乗り放題料金制導入といった改良策を取りいれてきました。よって数年前の Rapid KLバスよりはサービス向上したと言えるでしょう。これは称賛すべきことであります。例えて言えばハードウエアはかなり良くなった、ソフトウエアもそれなりによくなった、そして最後に残るのが、バス停の設備改良とバスを現場で運行する人たちの運行スタイル・意識の向上ですね。
マレーシアは多民族国家と呼ばれています。その呼称通り、確かに多民族です、人口比で言えばマレー人、57,8%、華人 25%、インド人 8%、そしてサバ州サラワク州の先住民族が残りのパーセントのほとんどを占めます。ただ圧倒的に多くの場合、例えばサバ州のカダザンドゥスン族は何パーセントと細目化されることなく、”サバ州サラワク州の先住民族” という一括数字にされてしまうか、またはもう少し広い範疇であるブミプトラという単語が使われます。しかし半島部に関する限り、ブミプトラという範疇はサバ州サラワク州の先住民族が多数派マレー人に飲み込まれてしまうかのような響きがあります。
多民族といっても、日々満遍なく5つ以上もの多民族と付き合う人はごく少ないでしょう。せいぜい自民族とは違う他の2民族程度と多少というぐらいの人が多いはずです。マレー人の圧倒的に多いマレーカンポン、華人の圧倒的に多い華人漁村などではほぼ純粋な日常交際範囲となりかねません。
さて都会の古い華人地区である下町に立つアパートの住民である私も多民族社会の中で長年住んできました。ただ多民族という意味が上記で書いたのとちょっと違います。華人地区とはいえ、アパートの近くにヒンヅー寺院があるので、インド人も少なからずいます、モスクのスピーカーから流れる声が幾分聞こえてきます。もちろんマレー人は昼夜を問わずたくさんいます、しかし働いている方が多く、夜は他地区に帰るマレー人が圧倒的に多い。なお我地区は日本人と白人は昔から皆無です。
じゃあ、アパートの住人は華人ばっかりだと思われるでしょうが、それがかなり違うのです。その理由は外国人労働者層の多さです。この地区で働く、住む外国人労働者層はインド人よりはるかに多い、住んでいる人数はマレー人をはるかに抜いています。よって私が長年多民族社会の中で暮らすという意味は、この意味合いが大きいのです。我がアパートには多種な外国人労働者層と非法居住者が入れ替わり立ち代り住んでいます。年代によってその構成も違います。
家庭内住み込みや掃除人や屋台の手伝いなどの主たる層がインドネシア人ですから、インドネシア人はいつの時点でもアパートに2桁数住んでいます。90年代中ごろは、外国人労働者としてバングラデシュ人が多かったので、当アパートにも数十人が住んでいました。その後短期間ベトナム人が多数いましたが、すぐどこかへ移っていきました。 なおフィリピン人は当地区にはほとんどいません。シンガポールや台湾人もいつもではないが時々数少なく住んでいました。外国人労働者としてではなくタイ人は数少ないけどいつも住んでいるようです、エレベータなどでタイ語をたまに耳にしますから。
21世紀に入ってから、外国人労働者または非法滞在者としてぐっと増えたのが、ミャンマー人、ネパール人、そして中国人です。彼らは1ユニットに多人数で住んでいるので数はかなりになります。今ではミャンマー人は多分華人についで多いはずです。中国人はかなり違法滞在者の可能性が高い、彼らというより女性がほとんどですが、華人と話ができる利点を生かして他の外国人労働者民族とは違った行動を示しています。マレーシアといろんな面で近い関係にあるインドネシア人は別として、それぞれ民族はほとんど互いに交流どころか口をきくこともあまりなく住んでいますね。これは数が多くなればなるほどその傾向は著しい、なぜならその民族だけの間で暮らしていけるからです。外国人の中で今や最大民族となったミャンマー人はこの傾向が強い。大衆食堂にはミャンマー人の屋台があり、いつもそこにたむろしているミャンマー人の姿を見ます。尚ミャンマー人の場合、外国人労働者としてのグループと難民としてのグループに分かれます。
いつも多民族j住居人が混在しているアパートは、まあ規則もへったくれもないかのようなこともよく起こります。深夜を通しての大声やテレビ・ビデオは年中のこと、ゴミ捨ては全く守らずなどなど。もちろんマレーシア人自身の行動が夜中にマージャンやカラオケしたり、犬を飼ったり、という人も少なくないので外国人だけの特徴とは言えませんが。それにしてもこれだけ多種の民族がそれぞれ自民族のスタイルをそのまま持ち込むと、迷惑に感じることが多いのです。多民族社会に住むということは、いろんな姿を観察できるという面白さもある反面、生活において忍耐と諦めが必要だということです。
先日たまたまエレベータに生きた鶏を手提げ袋に入れて乗り込んだミャンマー女性を見ました。近くの伝統的市場で買ってきて、家で料理するわけでしょう。マレーシアでは伝統的市場で生きた鶏を売っていますから、都会でも生の鶏を殺して料理する人はいますが、生きたまま買っていく人はごく小数であり、ほとんどは市場のその鶏屋で殺して羽をむしりとってもらうのが一般的です。生きた鶏をそのまま買ってきて自分で料理するような環境は田舎か都市部なら郊外の非共同住宅つまり土地付き住宅に住むひとたちなら珍しくないでしょうが、都市部の中心部でしかもアパートの部屋でそんなことをするのは、マレーシアでは非常識行為です。生きた鶏をアパートのユニットに持ち込む行為は、アパートの最も古い住民の1人である私でも初めて出会った光景でした。私の住むアパートのような環境ではマレーシア人は絶対にやりませんね。血などで生臭くなるし、そんな生ゴミには虫がすぐ寄ってくることは熱帯の常識です。
しかしその女性の育ったミャンマーの地方では生きた鶏を殺して料理するのは間違いなく日常行為だったのでしょう、だからまったくわるび気なく、鶏を買って部屋に持ち帰るのです。もちろん彼らは悪気あってやってないはずです。しかしマレーシア社会に住みながら、マレーシア人と没交渉で住むミャンマー人の一群らしい行動とも言えます。
多民族混在コミュニティーというのは、何かの弾みで問題が起こることもありえます。それはこういった無意識の行動に端を発する可能性が少なからずあるのではないでしょうか。
税務署からの所得の確定申告用紙、役所からの戸口税(不動産評価のため)、警察からの交通違反通知書など公的な機関からの郵送される手紙書類が届かなかった、という苦情が珍しくないことは、マスコミの投書などでしばしば目にすることからわかります。マレーシアの郵便が非常に信頼できないとは思いませんし、そうではないと他国人にも言えるはずです。しかしその一方遅配誤配が案外あると、私自身の長い経験を通じて言えますね。ですから、上記の役所からの書類が届かないという苦情にはなるほどと思います。もちろん送る側の役所に落ち度がある可能性及び受領者側が住所変更などしてないという落ち度もあることは否定しませんが、やはり主たる理由は郵便つまり Pos Malaysia にあるのではと感じますね。
私自身の例で言えば、毎月銀行から送られてくる口座取引明細書 2種が何回か届かないことがこれまで毎年起こってきました。普通口座と小切手用口座の2つありますから、年間合計24回受け取ることになるはずですですが、毎年数回は届きません。長年口座を保持しているので、これは単なる記憶でなく事実です。銀行側がその時だけ発送してないとはどうも考えづらい。2001年以降ぐらいからはインターネットバンキングがあるので口座取引はチェックはできるのですが、それでも毎月届かない重要な書類が届かないのはとうも腑に落ちません。今月はクレジットカードの取引明細書が未だに届かない、これは銀行口座明細書未着よりは珍しいことです。クレジットカードは毎月使うことはないのですが(使わない月の方がずっと多い)、その利用ゼロの月でも明細書は毎月送られてきます。
銀行口座の明細書には住所氏名と口座番号が全て省略されることなく掲載されています。銀行口座の明細書を他人が見てもそれによって引き出されるような危険性はないですが(ほとんど残高もないし)、それでも個人情報が勝手に見られてしまうまたは盗まれるのは気分的に良くないですね。問題はクレジットカード明細書の場合です、これはいささか心配です。省略なく記載された住所氏名及び番号などの情報を悪用されるのではないかという心配です。クレジットカード利用のインターネット取引では今では暗証番号認証過程が追加されていますから、カードの番号だけでは取引はできないはずですが、しかし偽造はできるだろうし・・・・・・
もちろん未着となった銀行明細書やクレジットカードが悪意の他人に渡る可能性は少ないとはいえ、本来は本人だけしか受領できないはずのこの種の個人情報がどこかへ行ってしまうのは、不安です。POS Malaysiaの区分け間違いで誤配されたのか、それとも住所地までは一応来たが最後の段階で誤配されたかはわかりません。ただ可能性としてはアパートのずらっと並んだ郵便受け箱の段階で誤配された可能性の方が高いと私は思っています。なぜなら私の郵便箱に紛れて入っている他者の郵便は珍しくないからです。もちろんすぐ入れなおしておきます。
都会の雑居アパートの運命というか、誤配された郵便をそのまま正しい箱に入れ直してくれる住民ばかりとは思えません。しょっちゅう借り手がかわっているようなユニットもあるし(ごみ箱に捨てられた郵便物を目にします)、空き家になって久しいユニットもありますから、そのままゴミ箱に直行の可能性やいつまでもその間違った郵便箱に入っているかもしれない。まあその方が、悪用されるよりも不幸中の幸いですけど。
根本のところは、POS Malaysiaつまり郵便局の誤配を限りなく少なくしてほしいというのが願いです。これは私だけでないことは上記で書きましたように、少なからずのマレーシア人も願っていることです。
マレーシアの新聞は4種の言語で発行されています: マレーシア語、英語、華語、タミール語 です、この言語別の新聞発行部数などに関しては、これまでも何回か 「今週のマレーシア」の 『数字で見たマレーシア』 シリーズの中で紹介しています。なおサバ州ではカダザドゥスン語で、サラワク州ではイバン語で数ページの紙面が印刷されて、地元発行の英語紙またはマレーシア語紙に挟み込まれていますが、ここでは触れません。またタミール語紙はもともと発行数が他の3言語紙に比べてかなり少ないことだけでなく、販売される地域・地方の面でも限られているので、全国的新聞とは言いがたい面があります、とりわけサバ州とサラワク州ではごくごく限られた場所でしか発売されていないようです。
さてマレーシア語、英語、華語 の3紙を読み比べていると、いろいろ興味深いまたは意外な面に気がつきます。いうまでもなく毎日3種の言語紙を読み比べるなんてことは、時間的に不可能であり、費用もばかになりませんから、これまでに3種の言語紙を読んできた体験から言えるまたは推測するということです。英語紙は毎日丁寧に読みます、加えてある日は華語紙を買い、その翌日はマレーシア語紙を買うというようにして、できるだけ 1日に2言語紙に目を通すようにしていますが、これを毎日実行するのはかなり難しいです。私も他にやることがありますから、新聞読みに費やすことのできる時間には限りがあります。なにせマレーシア語と華語に関しては高度の語学力に欠けるところにきて、ほとんどのページに一応目を通す以上かなりの時間を要するからです(1,2時間では終わりません)。 尚日本語の新聞類はインターネットを含めて一切、例外なく見ません(日本へ行った時はもちろん見ますよ)。
言語紙毎にはっきりとした特徴があります。例えば、マレーシア語紙はイスラム教に関する知識及びムスリムが面する問題をほとんど毎日且つ詳しく載せています。しごく当然でしょう。よって非ムスリムにはイスラム教の知識不足からよくわからないまたは興味をほとんど払わない内容も力を入れて載せていますね。華語紙は華人コミュニティーの話題と面する問題を州別ページにして、実に細かく毎日載せています。英語紙ではわからない、ある地方・地域の華人コミュニティーの話題と問題を伝えるのは華語紙ならではの報道網でしょう。
芸能娯楽ページはどの言語紙も毎日数ページを割いていますから、マスコミとして必要不可欠な分野です。マレーシア語紙がマレー芸能界を細かく伝えるのは当然であり、ベテランから新人まで歌手、俳優、音楽・映画関係者の話題やインタビューが毎日載っています。これらに出てくる名前の半分でも知っていたら、かなりのマレー芸能界通といえるでしょう。さらにしばしばインドネシア芸能人の話題またはインタービューが載るのがマレーシア語紙らしい特徴といえます。尚インドのボリウッド映画がマレー人の間で以前から人気が高いので、ボリウッドの話題もよく載っていますね。
華語紙はというと、伝統的に香港と台湾、加えて中国の芸能人の話題の方が量的にはマレーシア華人芸能界の話題より多いような印象を受けます。この理由はマレーシア華人芸能界の規模自体が小さいからですが、2000年以降ぐらいからマレーシア歌手の台湾進出が増え、人気も十分あるようになったことで、華人歌手の報道がかなり増えました。
尚マレーシア語紙も華語紙も、欧米人気歌手グループの話題とハリウッド映画界の話題は娯楽紙面の欠かせない一部となっています。
さてこの各言語紙別の特徴を細かく解説していくには、相当なる考察時間と多大な文章量を必要としますので、そのうちいつかはやってみたいと思っています。今回の短編コラムではある典型的な例を示して、言語紙の特徴の一部を感じていただけたらなと思います。
下記に載せる2つの例文はどちらも6月末の新聞に載っていたものを抜粋翻訳したものです。
マレーシアの小説事情は日本のそれとはまったく異なります。全体として書籍市場はかなり小さい、加えてきわめて民族別の市場であり、且つその同じ民族内で言語使用別に分かれています、例えばマレー人界ではマレーシア語書籍中心か英語書籍中心かです。マレーロマンス小説の読者は若いマレー女性中心ですから、華人に聞いても作家の名前すら知らない人ばかりでしょう。読んだことのある華人を果たして探せるか疑問です。よってこの記事もマレーシア語紙らしい記事であり、まず英語紙では載る機会がないですね。この作家は人気作家としてはたいへん地味な生活をしている主婦のようで、少なくとも記事と写真を見る限りはそう感じます。それはマレーロマンス小説という分野のゆえだと言ってもいいのではないでしょうか。
マレーシアの全国的中文ラジオ局は3つ、つまり公営RTMの華語局 ai FM 、民放のMyFM 局 とこの 988局です。ここでいう中文ラジオ局とは、華語・広東語ラジオ局のことを言います。その中で”988”局が唯一ラジオドラマ放送をしているはずです。ドラマの多くは広東語ドラマですから、華人界でも万人向きとは言えませんが、長年続いているように聴取者からの支持は高いようです。毎日聞かないと筋が終えないしドラマ内容に興味がわかないので、私は今ではめったに聞きませんが、なかなか感情がこもった話しぶりと効果音または音楽がいいですね。このような記事または広告は、華人界だけに向けたものなので当然華語紙だけのものです。
上記のマレーロマンス小説と対照的な違いがおわかりでしょう。各言語紙はその対象民族の嗜好と興味と必要性に極めて沿っています。どの言語紙でも、どの民族にも押しなべて共通するニュースと興味事を少なからず載せるのは当然ですが、同じ題材でも切り口が違う場合もあります。例えば、教育の分野に関する報道姿勢は、マレーシア語紙と華語紙でかなり違います。その理由は、このコラムで時々書いてきたように、マレーシアの学制における華語教育への姿勢に明白な違いがあるからです。
多民族多言語社会であるマレーシアは、その内面・内部を追えば追うほど各民族の言語による情報収集・分析とつきあいの必要性に迫られます。所詮1人の人間のできることは限られているし、マレーシアの全民族に到達できないのは事実です。しかし、そう言ってしまえば身も蓋もありませんね。まあ自分にできる範囲で、私はできるだけ幅広く新聞を読みラジオを聴くというようにしています。
今日(7月初め)のThe Star 新聞を見ていたら、ペナン州では大手不動産デベロッパーの開発が好調である(これは6月の「の新聞の記事から」でも載せました)、外国人からのペナン人気は相変わらず高い、よってこのところ外国人の住宅投資とマレーシアは第2の我が家プログラムの下で住宅を買う人が増えている、などといった記事が載っています。さらにペナン州を選ぶ日本人の「第2の我が家プログラム」への参加者も引き続き増えているという記事もあります。
ここで言及されている不動産開発は、いうまでもなく中級以上、というよりかなり高級な物件開発であり、マレーシア人低所得者層はいうまでもなく大衆層対象のものではありません。この種の富裕層相手の経済情報は私には限りなく縁がないのですが、マレーシア情報発信者として一応目は通しているわけです。ただマレーシア経済の発展という意味合いで言えば、結構な傾向なのは間違いないでしょう。
こういう記事で言及されるのは、高級コンドミニアムか連棟式または2軒つながった庭付き住宅であり、1ユニットまたは1軒が最低でも RM 30万以上はしますね、RM 40万、RM 50万といったところも全然珍しくないです。基本的に住宅売買において、外国人の場合は銀行ローンなく購入することになりますから(例外はあるので全部とはいいませんよ)、RM 30万、40万といった価格を一度に払うことになるわけです。ペナンだけでなく、例えばサバ州のコタキナバルあたりでも高級なコンドミニアムに外国人からの引き合い、購入が増えているそうで、そういうニュースは最近時々目にします。外国人購入者のどれぐらいの割合が、日本人の「第2の我が家プログラム」への参加者なのかわかりませんが、無視できない割合ではなさそうな印象を持ちます。
マレーシアマスコミに載るこの種の外国人の高級住宅(コンドミニアムまたは庭付き住宅)購入に関する報道から得る印象は、ペナンの場合も同じようなものであり、第2の我が家プログラム参加者の一番の人気地だそうなペナン州は、そういう目的で高級住宅を購入するまたは購入を考慮する実数は一番多いかもしれませんね。
こういう記事ではよく購入者らの例が出てきます、なぜなら取材記者はそういう購入者と販売するまたは仲介するマレーシア企業や日系企業を好んで取材するせいともいえます。記事を書くにはそういう取材源が必要なことはわかります。まあ、仮にIntraasia に取材したとしても外国人労働者との共生コミュニティーの話題では記事にはなりませんからなあ。
第2の我が家プログラムの現在の条件は、最初にRM 15万の銀行預金をすることです(オフショアの定期収入でもよい)。退職者向けとして言えば、50歳未満の条件はまず関係ないのでここでは触れません。私にはこの金額だけを見ても到底手の届かない額ですが、さらに高級な住宅購入となるとまさに雲の上の話です。マレーシアに住むには、義務としての定期預金と住宅購入だけでなく、生活費が必要ですから、手元流動現金もかなり余裕が必要となりますね。
こういった初期費用と生活娯楽費用を考えていくと、第2の我が家プログラムに参加する方はそれなりに裕福な退職者層だとの印象を持ちます。どのような基準から見ても私は自他共に認める最下層の日本人ですから、私だけがそういう印象を持つのだろうか? それとも日本人の現況から見ても、この見方はかなりの程度正しいのでしょうか? 現在日本の状況に私は疎いので、間違いなくこうだとまでは主張できません。
団塊の世代が続々と定年などで退職しているということは知っています。私はその団塊世代の直後の世代に属します。よって学校と会社生活において同世代の次に交流が多かったのが、すぐ上の先輩であった団塊世代の人たちです。団塊の世代は戦後高度成長期の中枢を担っただけでなく、全共闘運動の中心であった世代ですから、そんな意味でも私は敬意を感じます。そんな方たちの定年や早期退職後の現況は、例えば「マレーシアは第2の我が家プログラム」に参加するような、それなりに裕福層が主流なのでしょうか? 加えて住居を買える様な人たちは、決して一握りの裕福引退層ではなく、ある程度の割合を占めるのでしょうか? 定年退職したけれど、早期退職に追い込まれたけど、今では生活していくのがやっとだといえるような方たちはごく少数派なのでしょうか?
第2の我が家プログラム参加者で紹介される人たちがマレーシアで与える印象は、豊かで余裕ある外国人です、もちろん日本人を含めて。定年後海外で暮らしてみたいと思われる方は結構いらっしゃるそうですが、現実としてどのくらいの方が実際に外国暮らしをできるのだろう? 経済的に可能でも、生活に馴染めない人は圧倒的に多そうです。日本人的スタイルの生活を維持しながら外国に住むのは決して安く上がりません、日本に比して全体的に物価の安いマレーシアでもしかりですね。全支出月5万円未満でマレーシアで生活できる日本人退職者が果たしてどれくらいいるかです(住宅を買う人は総額を年数で割ったものを支出額に加えます)。
こうして考えていくと、私には、マレーシア第2の我が家プログラムの参加者の圧倒的大多数は、やはりそれなりに裕福な退職者層と写り、(一般論として)私には縁の薄い層に感じますね。 これは、最下層者ゆえの皮相な見方ではないと思いますけど・・・・・・。
三輪自転車タクシーなどという耳慣れない訳語を持ち出しましたが、要するに、自転車に人を乗せる荷車を取り付けた合計3輪の人力乗り物のことです。 尚荷車部分に物だけを載せて目的地まで運んでもらう場合もごく一般的です。三輪自転車タクシーを英語では cyclo (シークロと発音)または trishaw (トライショーと発音)と言いますが、マレーシア語とインドネシア語で beca (ベチャと発音)と呼ぶ名前の方がはるかに馴染みがわきますね。この三輪自転車タクシーに乗ったことはなくても、東南アジア紹介のパンフレットや本でご覧になった方は多いことでしょう。
そう、東南アジアでは広くこの三輪自転車タクシーが使われています、いや使われていたと言った方が現在では正確ですね。東南アジア全10カ国中フィリピンを除く9カ国を訪れた私は、ブルネイを除く国々でこの三輪自転車タクシーを目にし、国によってはしばしば自分でも乗りました。シンガポールでこれを見た記憶が定かでありませんが、三輪自転車タクシーは観光客用として数少なく残っているはずです。ブルネイでは全く見かけませんでした、観光用として残っているのかどうかまでは断言できませんが、少なくとも大衆乗り物用としてはないですね。東南アジアで三輪自転車タクシーはほとんどの国でまだ利用されているといっても、その存在状況は国によってかなり違いがあり且つその国の中でも存在状況は一様ではありません、例えばタイではバンコクではとっくにありませんが、地方へ行けばまだ庶民の足として残っている町、郡が少なからずあります。
マレーシアでベチャ(以下このように呼びます)が今尚ある程度のまとまった台数が商売として利用されているのは、私の知る限り、ペナン島のジョージタウンの観光地区、クランタン州のコタバル及びごくわずかの町、マラッカ州のオールドマラッカ地区、の3地区だけだと思います。この内、ジョージタウンとオールドマラッカ地区のベチャはほぼ100%観光客用ですから、庶民の足として残っているのはコタバルとごく一部の町だけだと言っても間違いないでしょう。そのコタバルでも多くのベチャは市場周囲で客待ちして市場で買い物をした地元人が買った荷物と一緒に乗って行く状況で主体であり、観光客向けに客待ち行為はあっても、ベチャが町を流している状況ではありません。
尚上記で3地区だけと書きましたが、例外はありますよ。例えばIntraasiaの住むクアラルンプールの古い華人地区ではずっと前から、1人の華人おじさんがパートタイムベチャ稼業をしています、ただし用途は契約した家庭の小学生の学校送迎と時たまの荷物運びであり、一般客用ではありません。このような例外的または単発的存在は半島部のどこかの地方や町でもきっとあることでしょう。尚サバ州とサラワク州では ベチャを見かけたはっきりした記憶がありませんが、10年ほど前サンダカンの市場で見たような記憶もあります。多分またはひょっとしたら数少なく存在していることでしょう。
最近「新聞の記事から」で次のような記事を載せました。
マレーシアではもはや、ベチャは産業としては観光客用としてしか存在できないことは明らかですね。観光客用として上手に宣伝し観光客の心をつかめば、ベチャ業は限定的に伸びる要素があることをこのニュース記事は示していると思います。ペナン島のジョージタウンでも同様ですね。観光客用としてベチャ業が繁栄可能であるには、オールドマラッカ地区及びジョージタウンの観光地区のように、比較的狭い地区に観光資源である建築物や遺跡が存在している場合に限られるでしょう。100平方Kmにも渡る広さの地区では、ベチャでの移動はほぼ不可能ですからね。さらにクアラルンプールのような交通の激しい地区でもほぼ観光客用ベチャ業は無理です、交通事故の危険性があるとして当局も許可を出さないでしょう。
こう考えると、半島部でベチャ業が復活する可能性は現存地区以外にはなさそうです。
一般乗客用としての三輪自転車タクシーはベトナムにもあります。私が初めてベトナムを訪れた1992年当時、ホーチミンシティーの至る所で三輪自転車タクシーを見かけました。外国人観光客の泊まるホテル前には必ず三輪自転車タクシー屋が客待ちしており、主要道路・通り、例えばドンコイ通りなど、を走行していました。当時は三輪自転車タクシーはまだまだ庶民の足として営業しており、荷物を抱えた買い物客だけでなく、ちょっとそこまでという庶民も利用していたとの記憶があります。ホーチミンシティーの街を徘徊していた私も何回も利用しましたよ。
尚当時のホーチミンシティーではすでにバイクタクシーが極めて盛んでしたから、三輪自転車タクシーは落陽稼業の前途がすでに始まっていたと言えます。それを証明するように、確か93年ごろから三輪自転車タクシーは主要通りでの走行禁止となり、90年代中ごろにはほとんどの市内表通りから締出されました。つまり三輪自転車タクシーは裏通りしか走行できない存在になったわけです。その理由は、自動車とバイクの増加によるホーチミンシティーの交通渋滞の悪化ゆえの安全上の名目であり、当局による自転車稼業の非奨励だと推測されます。
尚三輪自転車タクシーは、当時ホーチミンシティーに限らず地方ではどこでも見かけました。その後現在まで10年間私はベトナムに足を踏み入れていませんので、現時点での状況は知りませんが、地方でも三輪自転車タクシーが昔より増えているとは考えられませんが、恐らく現在でも根強い需要があることでしょう。
タイでは、三輪自転車タクシーのことを サームロー と呼びます(もちろんタイ語の声調を付けて)。20数年来タイ全土各地を訪れてきた私は、かつて80年代に各地を放浪していた頃にサームローを一番よく利用したものです。知らない町にバスで着いて、ホテル探しの手間を省くためにどこかの安ホテルまで連れて行って欲しいと言えば喜んで乗せて行ってくれます。というかバスを降りるとサームロー屋がわっと寄って来てしきりに客引きします。そのタイでも現在はサームロー屋がいる町はめっきり少なくなりました。タイ南部ではまず見かけませんが、東北部ではまだまだ見かけますね。バンコクでは80年代時点ですでに存在しなくなっていたはずで、見かけた記憶がありません。
サームロー屋が減って、バイクサームローが増えました、または昔から伝統的にタイの市町村における庶民の短距離の足であるバイクタクシーが益々勢力を伸ばしたわけです。尚タイのバイクタクシーは、ベトナムやカンボジアと違って、街を流すことは禁止されており、所定の場所で客待ちしており、告げた行き先まで載せていきます。これはタイ全土変わらないあり方です。タイのサームロー屋が減ったのは、いうまでもなくその落陽業種たる性格からですね。タイ東北部の田舎町であっても、走行範囲の狭いサームローはもうバイクサームローにかないませんし、手荷物程度の乗客ならば速度のはるかに速いバイクタクシーを選ぶでしょう。尚バイクサームローがある町や地方は限られていますので、サームローだけの町・地方もあるし、両者共存している町・地方もあります。さらにバイクタクシーしか見かけない町・地方もあります。
客を求めてホテル前や市場で客待ちしている年配のサームロー屋を見ると、時に忍びない気持ちがわいてきます。暑い日中であれ、雨の降る夜であれ、彼らは1日20時間ぐらいはそうやって客待ちしていることも珍しくありません。人を乗せる荷車部分がサームロー屋の睡眠場所にもなるのです。長年タイ各地を回ってきた私の目からみて、低所得で過酷な労働であるサームロー屋を選ぶ若者はごく数少ないはずだと推測しています。
三輪自転車タクシーと私の最初の出会いはインドネシアのジャワ島のベチャでした。80年代前半の最初のインドネシア旅では何回もベチャに乗った記憶があります。日本でインドネシア語を習ってからインドネシアに渡った私にとって、ベチャ屋はインドネシア語の練習の場でもありました。当時つまり80年代前半は私には東南アジア旅の初期にあたりますから、とにかくベチャであれ、コルト(乗り合いバンのこと)は行動の足として頻繁に使って経験を増やしていた頃です。その後もジャワ島のあちこちで多分ベチャを利用したことでしょうが、よく覚えているのはジョグジャカルタのベチャですね。私が東南アジア各国で三輪自転車タクシーに乗った中で、一番回数多く且つ記憶にも残っているのはインドネシアのベチャです。
当時乗ったベチャ屋といえば頭に浮かぶのが、女の所へ連れて行ってやるという勧誘文句です。要するに、置屋へ案内してやるということです。男が東南アジアを1人旅しているとこの種の勧誘はいろんな場所で頻繁にありますから、何もインドネシアにまたはベチャに限ったことではありませんが(タイやカンボジアなどでもある)、中でも私はジャワ島のベチャに乗った際時々誘われた記憶があります。ベチャ屋はそういう置屋へ客を連れて行けば手数料がもらえるから薦めます。あまり薦めるので、ごくたまにじゃあ覗いてみるだけだよと、ベチャ屋の薦めに乗って見に行ったことがあります、そういう場所は表向きはマッサージ店でしたね。裸電球のともった安宿の1室のような、裏通りの場末の店であり、もともとその気はない上、その薄汚れた店構えを見ればとても気が変わるようなことはありませんでしたなあ(笑)。
その後90年後半はスマトラ島をしばしば訪問しました。その時はベチャはほとんど利用しなかったはずです。短中距離の場合は乗り合いバンを利用しましたし、短距離ならバイクベチャの方が早いし、値段もほとんど変わらなかったとの記憶です。スマトラ島でバイクタクシーはほとんど利用していません、なぜならバイクタクシーはどこでもそうですが、一番転倒の危険性が高く、ヘルメット着用義務もないインドネシアの地方では私はただでも乗りたい気持ちになれなかったからです。これはバイクタクシーの極めて盛んなタイでも同じで、私にとってバイクタクシーは最後の最後の選択です。
ベチャまたはバイクベチャは転倒の危険性は低いので、その点ではまあ安心ですが、交通のかなり激しい道路でベチャに乗るのはどうも心が落ち着きません。とりわけ車線を変えたり、交差点を横断する時です。ベチャ屋は隣を高速で自動車やトラックが追い抜いたり、前方から向かってきても一向に平気ですが、乗っている客としてはあまり平静な気持ちになれない場合がよくあります。私とベチャ屋の間には交通安全意識の捉え方・違いがかなりあるからですね。
私が初めてラオスを訪れた1990年当時、首都ビエンチャンではバイクベチャとベチャがかなり活躍していました。東南アジアの首都でこれほどこの2種が活躍していたのは、なによりも当時のビエンチャンの置かれた状況にありました。90年当時一般旅行者がタイのノンカイ市からメコン川の対岸であるビエンチャン郊外に渡る手段は古びた小船による渡し船だけでした。当時はタイとラオスを分けるメコン川に橋はまだ一本も架かっていませんでした(90年代後半にオーストラリアの援助で橋が完成して、車が往来できるようになった)。よって相当なる旅好き以外は陸路訪れなかった時代です。そんなことから、ビエンチャンの市内で自動車は珍しい存在ともいえる状況で、首都ビエンチャンに信号機は数機しかありませんでした!(私は探し出して数えたぐらいです)。ですからバイクベチャとベチャの存在は大きかった。
三輪自転車タクシー屋の中には、客を乗せる荷車部分をきれいに装飾している人もいます。これはとりわけ観光客用の3輪自転車の場合は顕著であり、当然といえば当然でしょう。オールドマラッカとジョージタウンのベチャをご覧になれば納得されるはずです。それに比べてコタバルのベチャは地味なベチャです、主目的は庶民の足ですから、タイで見かけるサームローのほとんどはごく地味な色であり、装飾らしきを施しているサームロー屋もいないことはないですが、大多数は装飾などは一切していません。
さて各国の三輪自転車タクシーには興味深い差異点があります。それは自転車に取り付けた、人を乗せる荷車部分の位置の違いです。始めに結論を書いておきましょう:
マレーシア | インドネシア | タイ | |
呼称 | ベチャ | ベチャ | サームロー |
取り付けた荷車の位置 |
地域によって違う 自転車の横または前部 | 自転車の前部 | 自転車の後部 |
マレーシアの場合は、半島部に限れば、横位置と前部位置が混在しています、これは地域によって違うようです。タイの場合、私の知る限り且つ記憶にある限り後部です、ですからタイは後部型と言ってもほぼ安全でしょう (100%の断定はもちろんできません)。主要な島だけでも数十もの島から構成される超広大なインドネシアの場合、民族構成からして西と東でものすごく違いがあります。ですからインドネシアのベチャは前部型であると言い切るにはあまりにも危険です、そこでジャワ島とスマトラで私が覚えている限り、経験した限りという範疇で抑えておきます。
どうしてこういう3種の型が発生したか、興味あるところです。多分このあたりを専門に調べた本があるかもしれませんね。
ベチャに乗る側から言えば、前部型が一番見晴らしがいいのは当然で、のんびりとした場所を走行するにはインドネシアベチャが最適と言ってもいいでしょう。しかし上でも少し触れたように、自動車が激しく行き交う道路や交差点では、前部型が一番怖さを感じます。私がインドネシアでベチャに乗ったのはしばらく前のことになってしまったのですが、それでもはっきりと覚えているのは、この前部型のゆえの交通面での心配を感じたことがよくあったからです。
ベチャは雨が強く降る中でも、夜間でも走行します。インドネシアの地方へ行けば街灯はないし、道は悪いわで、夜間走行はかなりの悪条件ですが、金を稼がなければならないベチャ屋はそんなこと一向に気にせず普通に走ります。よって前部に乗るのはどうも心配感がわきます。何かにぶつかったり、輪だちが道に取られて転覆する時前部が一番被害を受けそうに感じられるからです。尚ベチャの夜間走行時には、一応カンテラなどを点けて走行していた町もありましたし、何の光源も持たずベチャ屋の感だけで走行した場合もありましたね。
タイのサームローは後部型ですから、前方の景色は3種の中で一番良くないのですが、景色を楽しむためにサームロに乗ったことはあまりないので、気になりません。安心感という点では後部型が一番です。タイの田舎町は同程度のインドネシアの町と比べると、ずっと明るいので、夜間走行時にもなんら光源は持ってないのが普通です。いずれにしろ私は夜間サームローに乗るようなことはまずありません。
雨の中でも走行すると書きました、知らない方はそれではずぶぬれになってしまうのではと思われるかもしれません。通常は上からの日差し避けにはそれなりに役立つ、荷車部分の天井の端から荷車座席の足の部分まで、透明ビニールをかぶせるようにするのがタイでもインドネシアでも一般的です。こうすると座席に座った客は通常程度の雨であればほとんど濡れません。しかし風に吹かれた雨や強い雨では客もかなり濡れてしまいます。熱帯の一時豪雨は前も見えないぐらいになります、そういう時はさずがのベチャ屋も一時退避ですね。
三輪自転車タクシーの料金はどれぐらいだろう、とお思いになるのはごく自然なことです。外国人が一杯いる観光地を別にして(もっとも私はそういった観光地へはほとんど行きません)、タイであれば20バーツぐらいから、インドネシアでは数千ルピアぐらいからでしょう。タイの場合昔は10バーツでもありましたね。マレーシアの場合は観光客向けなので、まさか数リンギット程度ではベチャ屋は相手にしないでしょう。
タイとインドネシアの場合(外国人主体の観光地は別にして)、ある程度の相場を頭に入れておいてから、タイ語またはインドネシア語で交渉すれば、ぼられることはないというのが私の経験上言えます。もちろんベチャ屋の提示値から多少値切るのが交渉の常ですが、非常識に安い値段を言い張るのは、ベチャ屋、サームロー屋をばかにした行為とも言えるので、そういうことはすべきではありませんね。
東南アジアの旅行では三輪自転車タクシーに乗ってみるのも良い経験といえますから、機会があれば試してください。いろんな国でまたは所でベチャ、サームロー、バイクベチャ、バイクサームローに乗ってみると、時には気の良い、欲張りではないベチャ屋、サームロー屋に出くわすことがあります。そんなときは1時間か2時間、借り切ってみるのも楽しいことですよ。
マレーシア大衆食の中で軽食分野のトップを占めるといっても過言でないのは、nasi lemak と並んで roti canai でしょう。人気ある軽食には、炒米粉・麺、roti bakar(食パントースト)、マレーお菓子である Kuih 類もありますが、炒米粉・麺は華人大衆食であり、halal 版つまりムスリムも食べられる炒米粉・麺はあまり人気あるとはいえないでしょう。roti bakar を提供する屋台は少ない、Kuih 類は小さすぎて1,2個では物足らなさ過ぎるという点がありますからね。
ここでは、roti canai の話題を書いてみましょう。roti canai と総称して呼ばれる中で、最も一般的なのは小麦粉で練ったドー(パン生地)以外に何も加えてない、通称 roti kosong と呼ばれるものです。尚 ”kosong ”とは「空 とか何もない」 という意味で、これがロティチャナイ各種の中で一番安いのは当然で、ロティに浸けて食べる kuah (カレー汁)の味に大きな影響を受けます。でも何も入ってない roti kosong の焼け具合と味が それを提供する店または屋台の味を決定するのです。歯ざわりと香ばしい香りの焼けたての roti kosong が美味しい店・屋台はその中身に食材を加えた他のロティ種も美味しいはずです。
冷めたロティチャナイが美味しくないのは当然ですが、焼けたてでも噛んだ瞬間の食感の悪いロティチャナイに出会うことは珍しくありません。ふわっとした感覚がない、香ばしさに欠ける、過度に油っこすぎる、小麦粉の味が残っているなどですね。Kuah には辛いタイプと辛味のないタイプがあり、少なくとも2種類ぐらいは用意してある店・屋台が普通でしょう。辛味のないのは、いわゆる豆の入った野菜 (sayur) カレー汁タイプで、辛さが苦手の方はこれを浸けて食べればいいのです。辛いKuah なら、一般に魚(ikan) のタイプがかなり辛いです、kuah ではないけど非常に辛いサンバルを用意している店もあります、これはKuah にちょっと追加してロティチャナイにつけて食べます。
ロティチャナイは1日中時間を選ばない軽食ですが、伝統的には朝食と見なされる場合が多いでしょう。とりわけ地方ではこの傾向が高いまたは都市部でも市場の中で店を構えているような場所では昔ながらの朝食としてのロティチャナイです。ロティチャナイを焼いている店・屋台の中には、午前中だけにして昼食前に止めてしまう所が多いと言ってもいいでしょう。その理由は、ロティチャナイは朝食的なちょっと軽めの食べ物という捉え方と、昼食時にはもう少し値の張るものを売るという、店側の意向があるはずです。そういう店でも午後遅い時間からまたロティチャナイを焼きだして、午後の軽食としてメニューに加えている店もありますし、ずっと夜遅くまで焼いている店もあります。
路地裏の屋台やちょっと郊外の小型な店、マレー系の大衆レストラン・屋台は、どちらかというと午前型のロティチャナイ屋といえます。一方、クアラルンプールが24時間都市化していることから、午後から夜、深夜にかけてのロティチャナイの方がよく売れる場所や店もありますね。この種の店はいわゆる 新しいタイプのインドムスリム系大衆レストラン、通称 Mamak レストラン、に多く見られます。 この新しいタイプのインドムスリム系大衆レストランは小型飲食店舗としては比較的投資資本が大きく、24時間営業が圧倒的に多く、きれいな内装、大型画面のテレビの設置、写真入のメニューなどというサービスもよく取り入れています。そういう店のメニューは種類が多く、ロティチャナイも定番としてそれに加わっています。
さていくらこの種の中型規模インド大衆レストランでも、ロティチャナイを24時間焼いている店はまずないでしょう。小型の店で昼食前に焼くのを止めてしまう店・屋台などはもちろん、この種の新しいタイプのインド系大衆レストランでもそうですが、あらかじめ焼いたけど売り尽くせなかったロティチャナイがでますので、それを口広のジャーに入れておきます。そして客が注文すると、そこから取り出して、容器に載せてKuah を加えて供します。またはかなり冷めてしまっている場合は、鉄板の上で多少加熱します。
目の前でどんどん焼いてそれがさばけている間ではない時に、ロティチャナイを注文するとこういう焼きたてではない、ロティチャナイを食べることになる場合がよくあります。いくらロティチャナイ生地の美味しい店でも、味は落ちます。ロティチャナイはやはり焼けたてが一番の食べどきです。
ロティチャナイはその単純な味と製造法の一方で、焼いてる光景を見るのはなかなか楽しめます。1個のロティ用サイズにしたドー(パン生地)を、食用油まみれの手でテーブルの上でだんだんと伸ばしていきますが、その際ドーを空中に浮かせながら手で上手に広げひっくり返します。そして最終的に広げたロティ生地を畳んで熱鉄板に載せます。上手なロティチャナイ焼き人のこの作り焼き光景を眺めながら、焼きあがるのを待つのもいいものですね。
テータレ技術を競う全国大会が、毎年練乳メーカーなどの主催で各地で行われて、テレビでも放映されます。ロティチャナイ作りの大会も以前ありましたが、毎年行われるほど人気はありません。以前私が会場で見ていて思ったことに、作る人がテータレほど動きを出せないなということがあります、見せる技術としてテータレほど目を引かないのは多分このせいしょうね。
さてロティチャナイの食べ方に難しい決まりも作法もありません。容器に載って供された物に Kuah を浸けて食べるだけです。都市部では特に、地方の町でもそうですが、スプーンとフォークを容器といっしょに持ってくる店、またはテーブルにそれがすでに用意してある店の場合は、ムスリムでもスプーンとフォークを使ってロティチャナイを食べる人は全然珍しくありません。マレー人とインド人は右指で食べるのが普通という捉え方はどんな場合にも当てはまるわけではありません。都市部の屋台とか地方の小さな店ではスプーンとフォークが用意してない店・屋台もあります、そういう場合ムスリムはほとんどが指でロティチャナイをちぎってKuah を浸けて食べています。スプーンとフォークが一見ないように見えても、多少は用意してありますので、どうしてもスプーンとフォークを使いたければ 「garpu」 とでも言えば、店の人が持ってくるのが普通です。
ロティチャナイを指でちぎりつつ食べるか、スプーンとフォークを使って食べるかは、あくまでも個人の好みであり、食べ方によって味がことなることはありませんね。お好きなスタイルでどうぞです。これはロティチャナイ容器ともいうべき、大きなステンレス皿の手前部にロティチャナイを載せ、その脇の複数ある凹部に、2種のKuah を入れて供する店があります。これは中規模インド系大衆食堂に多く、屋台では全くないです。最も一般的なのは、プラスチックの皿にロティチャナイを載せ、別の子皿にKuah を入れて、2つの皿を時には重ねてテーブルに持ってくるスタイルです。プラスチック皿であろうと、専用ステンレス皿であろうと、これもロティチャナイを食べる味に変わりはなく、好みの問題ですね。あくまでも、生地の焼き味と kuah の味にロティチャナイは左右されます。
尚店によっては、焼きあがったロティを焼き人が小さくちぎり切ってしまい、それを通常の容器に入れて供する店があります。食べやすいようにとの配慮からですが、私にはおせっかいなサービスに感じます。ロティを切るぐらいは、食べる人が好きなようにやった方がいいと思うからです。
いつの頃からから知りませんが、roti canai にもたくさんの種類ができています。伝統的な roti telur (卵入り)に加えて、roti sardin (鰯缶詰の鰯入り)、roti pisang (バナナ入り)、roti mangga (マンゴ入り)、roti tisu (薄いタイプ)、roti チーズなどなどが生み出されていますね。チョコレート入りとか、その他果物入りもありそうですし、工夫すればまだまだ種類は増えそうです。当然こういった中身入りのロティの値段は roti kosong に比べて2倍から3倍しますから、 店としてはこちらを売った方が儲け率は高いのでしょう。でも所詮ロティは roti kosongにつきると私は思いますし、事実多くの人にも roti kosong が圧倒的に多く食され、次いで roti telur がよく食されているはずです。
普通の店・屋台で食べる roti canai は多少油っこいのは仕方ないとも言えるでしょう。例えば喫茶モノローグの茶ウエは、油っこいと言ってお口に召さないようです。この方のように多分日本的味覚で言えば、ロティチャナイは多少ではなくかなり油っこいのかもしれませんね。だからマレーシア食に慣れてない旅行者や在住者には roti canai はちょっと、ということになる場合も出てくるでしょう。全く油っけのない roti canai は考えられないので、この点では妥協するしかないところです。
さて東海岸のクランタン州を旅行されたかたなら、気づかれたかもしれません。roti canai に砂糖をまぶして食べる人がいます、というか砂糖を準備してある店・屋台があります。私は roti canai を甘くしたいとは全く思わないので、砂糖などつける気にはなれませんが、砂糖まぶしroti canai 好きだという日本人はいらっしゃいますかな?
そういう日本人ならタイ南部のロティチャナイでも大丈夫ですね。タイ南部ではあちこちでロティチャナイを見かけます。といってもマレーシアと比べものにはならない薄い密度であり、且つ低い人気度ですよ。このことからわかるように、ロティチャナイは、マレーシアとシンガポールだけでなく、タイでも焼かれているのです。ただしマレーシアのそれとはちょっと違う点があります。
ハジャイはマレーシア観光客が大挙してやってくる都市ですから、大衆食堂内でロティチャナイを専門にやっている店もありますが、他のタイ南部各地で見かけるロティチャナイのほとんど全部は、屋台のロティチャナイ屋か市場内で店を構えるロティチャナイ売りです。ムスリム多数派の県であるタイ深南部に限れば、大衆食堂の一角でロティチャナイを焼いてる店を利用したこともあります。
タイ南部のロティチャナイは、マレーシアのロティチャナイ屋と違って、ロティの生地を上手に手元浮かせながらひっくりかえすような見せる技術はありません。且つ女性が多く焼いているのがマレーシアとの違いの一つです。さらにタイ南部のロティ屋のほとんどはタイムスリムです、これは興味深い点です。つまりムスリム食べ物という概念が強いことになります。バンコクと違って、タイ南部にインド人コミュニティーは存在しませんので、ロティチャナイを焼いているインド人を見かけたことはありません。
タイ南部のロティチャナイをマレーシアと比べると、薄く大きく焼くのではなく、サイズの割には厚めの小型なロティチャナイです。そして必ずといっていいぐらい砂糖をまぶせます、さらに練乳をかけます。見てるだけで甘い! となりますよ。練乳の替わりにマーガリンをつける場合もあります。もちろん多くの場合はカレー汁も用意してありますから、選択はできます。でもカレー汁に加えて砂糖もと、両方つける人もいて、あらま(マレーシア的な表現です)! と思いますね。尚カレー汁を用意してないロティチャナイ屋もありますね。この場合は、もう甘い食べ物に固定した存在になっています。
なぜ厚めで小型化というと、焼いたロティチャナイを持ち帰りにする人が多く、その場合、1個1個のロティチャナイに砂糖をまぶして紙にくるくると巻きます。この理由から厚めの小型が一般的な理由かなと、私は推測しています。タイ南部のロティはふんわりとした歯ざわりはまず欠けますね。マレーシアのロティを食べなれた者には、やはりマレーシアの roti canai の方が、生地とカレー味の両方でずっと美味しく感じます。
ところでずっと以前南部の西海岸にあたる Trang 県で行商していたロティチャナイ屋が、パンケーキと看板に書いていたので、なぜパンケーキなどと呼ぶのかと尋ねたら(もちろんタイ語で)、こう呼ばないと客はわかってくれないと答えました。確かにタイ南部ではパンケーキと書いてる屋台もありますが、例えば、南部の大きな都市で私が時々訪れるナコンシタマラートのロティ屋台は、タイ文字で”ローティ”と書いています。このように多分タイ南部では名称が混在しているみたいです。
ロティ屋を目にしたのは、タイ南部のいくつかの県です、クラビ県、プーケット県というマレーシア人も訪れる観光県でも見ましたし、マレーシアから遠く離れたタイ南部の北限であるチュンポーン県の夜店では以前何年も続けて見かけました。いずれも砂糖まぶしタイプですよ。こうして推測していくと、タイ南部ではロティチャナイは、人気あるとまではいえないが一応市民権を得た軽食として存在していることがわかります。どのあたりまでロティチャナイが広がっているか、もし手元にタイ地図がありましたらご覧ください。
タイ南部に比べて、タイの他の地方、つまり東北部とか中部でもごくまれにロティチャナイを屋台で見かけた記憶がありますが、すでにその地のタイ人によく受け入れられた食べ物になっているかは疑問に思いました。南部で売られているから、私も試してみようという、タイムスリム屋台人の試し商売品のような気がしています。
ロティチャナイは単純な食品ですが、このように話題を広く且つ深く追って調べていけばそれだけで、小冊子の1冊ぐらいは書けそうです。もっとも私は完全な料理音痴なので、材料批評とか料理法には手が出ませんな。まあ食べることに専念しましょう。
前回この場で roti canai のことを書きましたね。roti canai は代表的な大衆朝食とも分類されますから(朝食には限らないけどよくそう言われる)、今回は別の大衆朝食のことを書きましょう。しかし nasi lemak のことではありませんよ。
nasi lemak や roti canai に比べれば販売している場所はぐっと少ないですけど、典型的な朝食として 粥 があります。この粥はほぼ全て bubur nasi China のことです、つまり中華粥です。尚マレーシア語で粥のことを" bubur" と言います。
マレー料理における bubur は大体が朝食用ではありません、これまでマレー大衆食堂やマレー屋台で bubur を供している場に出会ったことはまずありません。ムスリム向けのホテル朝食メニューにも含まれていますけど、これはマレー粥ということではないはずです。マレー大衆食堂やマレー屋台の中で、bubur を扱っている率はかなり低いです。昼食時にもないことはないですが、大体が夕方からの料理であり、具として魚介類や肉類を入れたりする場合がよくあります。マレー大衆食堂で bubur を注文する時には、具・中身も指定します。つまりマレー料理としての粥は一般論として、具・中身のない bubur だけでは食べないと言ってもいいでしょう。
ただし大きな例外として、ラマダーン時期には、bubur が非常に脚光を浴びます。モスクなどではムスリムの断食明け食として bubur が大量に作られます、そして昼前ごろからモスク内だけでなく、街頭でもビニール袋に入れて販売します。この bubur に関しては、各地にそれぞれ有名なラマダーン時期用 bubur があり、それぞれの味付けが特徴のようです。このラマダーン時期の bubur は中身に具が一杯という粥ではありません。その日の断食開け (buka puasa という)に最適だと言われているように、いわば軽い中身です。クアラルンプールなら Kampung Baru の bubur が有名ですよ、もし機会があればお試しください。
さて中華粥 に戻ります。bubur nasi China と呼ばれるように、華人界の粥なので halal ではありませんから、ムスリムは食せません。大衆食堂内の中華粥専門のカウンター、屋台で売っており、通常 粥 (声調を付けてチョックと発音)と呼びます。ご飯粒の形がない粥タイプで、中身には鶏肉、豚肉、蛙、などお好みの肉か魚片を少し入れて、さらに卵を追加する場合もある、ねぎ等の薬味を少々、そして最後に醤油を少々かけます。尚これを雑炊・おじや と呼ぶにはちょっと語弊があると思います。中身が一杯な粥とまではいえませんが、中身なしの粥でもありません。もちろん中身なしでも注文できますが、普通はそうはしません。中華粥 は典型的な朝食の1つですが、といって商売は朝だけに全然限りませんから、場所によっては昼でも夜でも、専門の粥カウンター、屋台で販売しています。
中華粥といえば、潮洲粥が有名です。これは大衆食堂内のカウンター・屋台で供される料理というより、潮洲粥 として大衆店を構えている場合がよくあります。何種類もある中華おかずからお好みのおかずを小皿に選び、テーブルに着くと、白粥が小さなどんぶりで供されます。この場合粥の替わりに白飯を注文してもかまいません。この潮洲粥の場合は具の入っていない粥で、且つご飯粒の形が残っている粥です。なぜならおかずといっしょに食べる粥形式が、潮洲粥だからです。こういう専門店は多くの場合1日中営業していますね。
この潮洲粥を真似して、いわゆる経済飯屋、つまりエコノミーライス屋、の中には、飯だけでなく白粥を用意している店が多くはありませんがあります。もちろん持ち帰りもでき、白粥をビニール袋に入れてくれますよ。
インド大衆食堂であれ、ママック大衆食堂であれ、インド系の店では 粥は全く扱いません。尚インド圏でインド粥料理があるかないかは、私は知りません。
ところで粥は一般論としていえば、タイ大衆食における方がマレーシア大衆食より多少普及度は高いですね、つまり粥を供している店と屋台が比較すれば多いということです。朝食タイプは、マレーシアの中華粥とよく似ており、ご飯粒の形がない粥タイプで、豚肉、鶏肉類を具として入れ、ねぎや醤油や生姜で味付けします。卵も好みで加えます。呼び名をタイ語で「チョーク」といいます、もちろん声調をつけていわないと通じません。市場内の屋台では10バーツから食べられる大衆食です。朝食型料理であっても、この「チョーク」は夜売っている場合もありますよ。つまり朝食タイプだけど朝食に限らないということです。この中華粥タイプの粥店・屋台は全国広くあります。
タイにもマレーシアの潮洲粥タイプの店、屋台が、多いとまでは決して言えませんがあります。この場合、タイ料理としての何種類かのおかずを皿に選び、白粥をごはんとして食べます。こちらはご飯粒の形が残る粥で、これをタイ語では 「カーウトム」 と呼び、ご飯粒の形がない粥の 「チョーク」 とは区別します。「カーウ」とはご飯の意味です。なぜこういう別単語ができたかは興味あるところです。日本語では華語やマレーシア語と同じく、この2種の粥を区別する単語はありませんよね。
この潮洲粥タイプの店、屋台はどの地方にもあるということではなく、地方によって偏在していると言ってもいいでしょう。そういう店を全く見かけない地方の方が多いでしょう。ある地方では数軒の店、屋台が集まって営業している、という場合もあります。私はこのカーウトムが好きですね、おかずが小皿で選べるからです。
インドネシアにも bubur はあります。私の記憶にある限り、インドネシアの朝食bubur はインドネシア華人が提供している 中華粥だと理解しています。超広大なインドネシアゆえに、とても経験つくせないので断定はできませんけど。
粥は一般に軽いので、胃の調子悪い時でも食べられるし、普通の食事としても食べられますから、手軽で比較的安価な食べ物です。私は旅に出ると、クアラルンプーにいる時よりも頻度多く食べますね。マレーシア旅行では、皆さんも中華粥、マレーbubur をお試しください。
[みんなのマレーシア写真アルバム] が7月に寄稿者のお2人によって数回更新されました。皆さん、どうぞ開いていろんな写真をお楽しみください。私は毎日写真アルバムを開いて更新を確認しているわけではありませんが、数年来の懸案であったブロードバンド加入が先月かなったために、掲載された写真をこれまでに比べればそれなりにスムーズに眺められるようになりました。
アルバムを開くと、帯状に複数の写真が小さく表示されます(サムネイル表示)、まず上部にある 「グループフォト 317枚」 という部分をクリックしてください。すると画面が変わります。そこでネガ状になった小さな写真に1枚1枚にカーソルを合わせると、データが表示されます、その中に表示回数という項目もあります。
この意味はネガ状になった写真の中から、その写真をクリックして拡大表示したことを意味します。最近更新された中で拡大して見られる率が高い、つまり表示回数がぐっと多いのは、チョコレートさん撮影の肉骨茶(パクテー)の写真ですね。たくさん拡大表示されるということは、肉骨茶(パクテー)を食べたいと思っていらっしゃる方が多い、または食べたことがあるのであらためて見てみたという方が多いのかな。それとも肉骨茶(パクテー)ってなんだろうと、興味心からクリックされた方が多いのでしょうか。
肉骨茶(パクテー)は日本人旅行者にそれほどなじみある料理とまではいえないような気がします。ホテル内や高級中華レストランではまず供されないからです。現地で申し込むツアーなどでは、肉骨茶(パクテー)店に連れて行くのもあるようですね、例えばクアラルンプールのImbi通り界隈の肉骨茶(パクテー)店などは日本語メニューも置いてあり、旅行社のバンが客を運んで来ていますから。
さらにショッピングセンター内と旅行者の多いブキットビンタン街などには冷房付きのきれいな肉骨茶(パクテー)店もありますが、そういう店は全体から見たら例外的存在であり、肉骨茶(パクテー)店・屋台は華人地区または華人が集中する屋台街に集中しており、昔ながらのスタイルの店が大多数であり、客はほとんど華人です。中身は豚肉そのままですから、当然ながらムスリムはご法度です。華人料理の好きなインド人でもあまり肉骨茶(パクテー)は食べないようですね。
肉骨茶(パクテー)店には午前型と夜間型があります。午前型の店は朝案外早い時間から遅くても昼飯が終わった時点でその日の営業を終えます。夜間型の店は、夕方から店を開けて夜遅くまで営業します。屋台はこちらのタイプが圧倒的に多い。
肉骨茶(パクテー)はその味にはまりやすい料理と言えるでしょう、なぜならくせのある味であり、店によってその違いある味を売り物にしているからです。反対にくせのある味ゆえに、肉骨茶(パクテー)がお口に召さない日本人もいらっしゃることでしょう。肉骨茶(パクテー)の発祥はスランゴール州クランと言われるマレーシア華人料理であり、中国の中華料理ではありません。よってパクテーという呼び名も、クラン華人の共通語である福建語による呼称です。クランにはかなり多くの肉骨茶(パクテー)店があるようで、「あの店が一番美味しい」という肉骨茶グルメがたくさんいそうですね。
私が最も美味しいと思うのは、連邦ハイウエーでシャーラムを過ぎてからクラン市内に入る直前、左折した奥手の学校付近にある商業地の一角にある肉骨茶(パクテー)屋ですね。その一角には5,6軒が固まっており、華人客で休日はごった返しています(平日は知らないが混んでるそうです)。本場肉骨茶の中でも、かなり人気ある店店のようです。ただ旅行者が独自に行くのはかなり難しい。公共交通網がありませんから、私も友人が行くときにごくたまに誘われて車に同乗していくだけです。
肉骨茶(パクテー)の店はスランゴール州とクアラルンプールに多いのは当然として、全国にありますよ。華人人口の極めて少ないクアラトレンガヌでも、いわゆるチャイナタウンに肉骨茶(パクテー)店があることを覚えています。華人多数国家のシンガポールに肉骨茶(パクテー)店があるのは全然不思議ではありません、シンガポールにある肉骨茶(パクテー)屋はよくシンガポール肉骨茶などと看板を上げているようですね。肉骨茶(パクテー)の最大ブランド名である巴生(クラン)肉骨茶には劣りますが、潮洲肉骨茶という種もあります、比較的さっぱりタイプの味付けです。こういう味を好む華人ももちろんいるということです。
肉骨茶(パクテー)をお客に供するスタイルには2種類あります:店の大鍋でぐつぐつ煮たものを、小皿、小碗に入れて客に供するスタイル、もう一つは瓦pou つまり土鍋肉骨茶 で、8分目ぐらい準備した肉骨茶を客毎に土鍋に入れて煮たものを土鍋のままで供するタイプです。こちらは土鍋が肉骨茶の熱さを保てる分、熱好きにはいいかもしれません。いずれにしろ、これも好みの問題であり、どちらがより美味しいということではありません。私は土鍋肉骨茶スタイルが好きですね。もっとも肉骨茶(パクテー)は大衆中華料理としては価格が比較的高い部類に属すので、今ではおいそれと食べることはできませんなあ。
肉骨茶(パクテー)は白飯といっしょに食べるのが一般的です。さらに付け足しとして、油炸鬼(ヤオチャークワイと発音)という揚げ物などを小皿に注文する人も多いです。肉骨茶(パクテー)に中国茶は必ずと言うぐらいの付きものです。複数の人で食べるなら、急須の茶をいっしょに注文するのが適していますね。熱湯を継ぎ足すことで何杯も中国茶を味わえますから。本格的肉骨茶(パクテー)店は、熱湯やかんを客のテーブル近くに用意しているものです。
私はグルメではないので、肉骨茶(パクテー)味に関してうんちくを語ることはできませんが、当サイトの読者の中には肉骨茶(パクテー)グルメの方がきっといらっしゃることでしょう。
街を歩けばあちこちに掲げられた国旗が目に入ります。有名ショッピングセンターでは建物内外に独立50周年を祝する文句を入れた垂れ幕や宣伝が盛んです。全ての官庁ビルに国旗類が掲げてあるのは(そのはず)当然のことでしょう。大きな民間ビルの中にも国旗または独立50周年を祝する垂れ幕が掲げられているビルがあります。道を走る車にはよくミニ国旗を立てた車を見かけます。新聞ではもう数ヶ月前から連日独立50周年記念キャンペーンとそのニュースを載せています。ラジオは短いメッセージを流したり、DJ はその番組の中で独立50周年に触れています。8月31日の独立(Merdeka)記念日、つまり Hari Kebangsaan (ナショナルデー)が、近づいてきてその雰囲気は高揚してきたようです。
その独立記念の祝祭は例年にない規模と活発さでずっと前から始まっていました。それはひとえに、1957年8月31日にマラヤ連邦が英国から独立して、今年でちょうど50年という記念すべき年であるからです。半島部だけから構成されるマラヤ連邦の独立から50年という歴史的事実にも関わらず、”マレーシアが独立して50年” という文句とスローガンに埋まっています。これは半島部がマレーシアの中核であるという意識と現実を如実に示すものです。ただ 半島部もボルネオ島部のサラワク州とサバ州も、統治形式はそれぞれかなり違ったのですが、直接または間接に元英国植民地であったゆえに、Merdeka (ムルデカと発音)という単語はマレーシアという国と市民にとって重要な意味あいを持ちます。それゆえに、Merdeka という単語は半島部とボルネオ島部の枠を超えて、マレーシア国民の心に強く響くのですね。植民地であった地域が独立するというのは、何よりも尊く且つ最大限の祝祭に値することであるのは、当然中の当然でしょう。
この独立50周年のメインスローガンは、 Malaysiaku Gemilang です、 「輝かしい私のマレーシア」 と言った意味です。50という数字と国旗をデザインした50周年記念ロゴと共にこのMalaysiaku Gemilang は至るところで示され、そしてメディアに載っています。国旗のいわば愛称が Jalur Gemilang であるように、Gemilang (輝く、栄光のという意味)はマレーシア国民の誇りを示す単語と言えるかもしれません。
思えば私とのマレーシアの付き合いもかれこれ17年近くになります。サラリーマンの仕事としてマレーシアにやって来たのが1990年秋です、これが今に続くマレーシア在住に直接結びついています。ただこの1990年が私のマレーシアとの初の関わりではありません。80年代に旅の中でマレーシアに立ち寄ったことが一番最初の出会いです。そんないきさつは、ちょうど10年前のコラム第 58回 「マレーシアの思い出 - ホームページ開設1周年記念 -」 の中で書きました。そのコラムから一部を再録してみましょう。以下は再録分:
筆者が今回マレーシアに住むようになったきっかけは、自己紹介のページに書いてあるように、90年の終わりごろに、その当時働いていた日本の会社の先遣隊として出張してきたのが縁ですが(会社はずっと以前に退職してます)、それが筆者の初めてのマレーシア訪問ではありません。
それ以前にも旅で数度立ち寄ったことがありました。一番始めははるか昔の1981年の1月だったと記憶してます。70年代後半から筆者は、貧乏青年旅行者として世界のあちこちを回っていたのです。
そこで80年後半ヨーロッパを数ヶ月ふらついたあと、日本への帰国の途中クアラルンプールに寄りました。寄るというとなんか自分の意志でマレーシアに来たような感じですが、そんなつもりはなくて、アムステルダムで買ったヨーロッパから日本への安航空券がたまたまマレーシア航空だったということから、ストップオーバーできる都市の一つとしてクアラルンプールに途中下車したのがいきさつです。
ですからマレーシアの予備知識ゼロ、もちろんどこにあるかぐらいは知っていましたが、多分に行き当たりばったりの旅人でしたから、予備知識を仕入れる暇もなかったと思います。予定していた訪問国でなかったからもちろんガイドブックを持ってなかったし、(それに当時自由旅行者向けのガイドブックはほとんどありませんでした)筆者にとって初の東南アジア世界でしたから、あれこれにとまどったことを覚えています。でもガイドブックに振り回されない自由さがとりえでしたね。
それまではトルコや香港の経験はあるものの、主に米国と東西欧州を歩き回ってきた筆者にとって、クアラルンプールの印象は強烈でしたね。スバン空港に到着したらチェックイン荷物が一時紛失しかけたので、出てくるまで数時間(?)待たされた後、おんぼろバスに乗りとりあえずクアラルンプール市内に向かいました。当時超貧乏旅行者の筆者、今でも日本の基準からいけば相当貧乏ですけどね、はタクシーなど絶対に使いませんからすべてバスか電車です。
当時も今も空港と市内を結ぶ電車はありませんから、当然バスしかありません。どこへつくか知らないけどとにかく市内の中心部にいけると聞いて、そのバスに乗ったことを覚えてます。荷物紛失騒ぎの結果、そう今でも空港からのバスが発着する、クランバス乗降場に着いたのはすでに暗くなってました。初めての国で夜着くというのは一番悪いパターンですが、しかたありません。
クランバス乗降場といってもKL、PJ に住む日本人はほとんど知らないでしょうが、チャイナタウン脇の4、5階建てのビルだといえばわかる人もいるでしょう。このあたりは今ではだいぶきれいになったものの、ビル自体は昔と変わりません。結果としてチャイナタウンの脇だというのが貧乏旅行者には大助かりで、クアラルンプール滞在中はチャイナタウンの安宿に泊まりました。
以上は再録分
不思議なものです、90年以後マレーシアは私にとってもっとも縁の深い国となり、この10数年は私にとってマレーシアは文字通り我が家です。なぜなら90年代中ごろにそれまで住んではいなかったが借り続けていた東京のアパートを完全に引き払ったので、 マレーシアが唯一のうち になったからです。唯一日本にあるのは戸籍と友人だけといえます。
この第 58回コラムを書いてからもう10年、正確には9年と11ヶ月、も経ってしまった(2007年8月末の時点)、そしてコラムは今回 500回を迎えました。まことに偶然に、マラヤ連邦独立50周年 という数字に重なります。独立50周年、「今週のマレーシア」 500回 良い響きではありませんか、と自分では思っています。
舞台裏事情とでも言うべき内情を暴露すれば、コラム500回はとっくに1年前か遅くとも半年ぐらい前に到達していたはずです。しかしこの数年、とりわけ昨年 (2006年)、私の生活難からマレーシアで暮らすこと自体が困難な状況に陥りしかたなく中期間マレーシアを離れました。さらに我がアパートに戻ってきてもコラムを書いているどころではない状態がしばらく続きましたし、今も断続的に続いています。このためそれまでずっと毎週1回のペース(旅行する時は除く)で掲載してきたコラムの掲載が昨年から不定期になってしまいました。 そうこうしているうちに、独立50周年祝祭月間がやってきました、そしてこの「今週のマレーシア」が 500回に近接して、今回で 500回目となった次第です。コラムは当ホームページの主柱です、精力を費やし情熱を込めて書き続けてきたからこそ、500回は感慨深い数字です。
マラヤ連邦は1957年8月末に独立を宣言して独立国家となりました。私はまだ小学校に上がる前なのでその頃のことは記憶そのものがありません。独立の6年後、1963年9月にサバ州とサラワク州が参加してマレーシアが成立しました(シンガポールも同時に参加し、2年後に離脱)。しかし当然のごとく、当時小学生の私にはマレーシア成立ニュースの記憶はどうしても浮かびません。強いて言えば、数年後(当時は白黒テレビ時代です)好きだった連続テレビ番組、「怪傑ハリマオ」 の中で、”マレーのトラ”とかいう言葉を聞いたような記憶がうっすらとあります。もっともそれがマレーシアに結びついたとは思えませんが。
その後中学時代も高校時代も、私にとってマレーシアは単に学校の教科書の中で習った国にしかずぎませんでした。即ち、生ゴムとスズの産出国である東南アジアの1国という程度ですね。
それからずっと下って上記で触れた、1981年の初のマレーシア訪問となります。その後は確か1988年夏だったと記憶しており、タイからシンガポールへ陸路縦断旅した際に立ち寄りました。はっきりと覚えているのは、クアラルンプールのカンポンバルを探して行ったことです。そこの食堂にあったテレビで見たパレードなどが当時独立記念月間の行事だったのではないかなと、推測しています。
思えば80年代のマレーシアとの関わりは、旅人としてもかなり浅いものでした。それが90年代の関わりは、極めて深い、生活に直接関係する関わりとなったのです。
複数の外国に住んだり長期滞在された方、または現在も引き続きそうされている方ならおわかりになるように、どの国に住もうと、うれしいことを経験し好きになる点もあれば、いやな目に遭ったり気に食わない点を感じます。私 にとってこの10数年マレーシアは第2の我が家ではなく唯一の我が家ですから、旅行者の方と違って、いやなことがあってもそこから逃げたり、避けたりできない場合がほとんどです。でも若い時から日本及び日本社会にこだわらない私にとって、マレーシアはかなり暮らしやすい国だと思いますし、だからこそ長く暮らしています。ホームページでマレーシアを批判しても感謝の念はいつもありますね。
永住権の取得はいうまでもなく、マイセカンドホームプログラム申請も不可能な私は、あとどれくらいこの地に暮らせるのだろうなと常に不安感が消えません。それとは別に、これまでの訪問・滞在経験から気に入っている国の一つへ移りたいなともずっと思っています。そう思いながらも年月は過ぎ行くわけです、希望は適わず、現実は容赦しないということかな。まこと将来は暗然とし、判然としない生活です。しかし不安感を抱くばかりでは展望は開けませんし、この地の良さを享受しいつまでもマレーシアに住みたいなという願いもあります。
11年近くにも渡って、このホームページと掲示板類であれこれ書いてきました。Intraasia のサイトは旅行案内とマレーシア分析・情報提供だけでなく、”どこであれ住む地が我が家” という暮らし方を現在進行形で綴る場という面も多少ありますよ。そしてこのホームページをインターネットに載せて更新している限り、「今週のマレーシア」も続けていきます。
マレーシア(の前身)独立50周年とコラム500回 は記念すべき節目であり且つそれぞれにとって、つまり国と国民にとって、私にとって意義あることです。独立50周年 kemerdekaan yang ke-50 を祝って、マレーシアに興味ある読者の皆さんがたといっしょに次の言葉を唱えて、今回のコラムを終えます: Selamat Hari Merdeka (独立記念日おめでとう)