「今週のマレーシア」 2006年5月以降のトピックス

・マレーシアのバジットホテルの防火安全基準に思う
今年公開されたマレーシア映画の中からユニークな2作を紹介します
遺言・遺言状の基本知識 ・日本人の英語を評した英語紙の記事に対して批判投稿した件の後日談
ある日本人旅行者の経験した、10リンギット紙幣を巡るできごとを考える
一人の実業家の寡占支配がより進んだ華語新聞界

おことわり:5月中旬から8月末までマレーシアを全く留守にしましたので、コラムの掲載数が期間に比べてぐっと少なくなっています。



マレーシアのバジットホテルの防火安全基準に思う


4月10日と11日のStar紙の”Metro”ページに、クアラルンプール圏のバジットホテルの取材記事が載っていました。記事を書いている記者はあまりこの種のバジットホテルに泊まった経験がないと思われる内容でしたが、関係者にインタビューした部分には情報として役に立つまたは興味ある点がありますので、ここで紹介しておきます。さらに、東南アジア、ヨーロッパ、アフリカ、オセアニアなど世界各地で何百という数の安宿に、4桁泊数泊まってきた者として、是非コメントせざるを得ない気持ちになりました。

記事から抜粋
マレーシアバジット(格安)ホテル協会に加盟したホテルまたはバックパッカ−宿はクアラルンプールとスランゴール州で150軒ほどあります。マレーシアバジットホテル協会は2つ星と1つ星のホテル及びオーキッドクラスの宿を対象にしています。オーキッドクラスとは、ベッドと朝食宿、モーテル、ロッジ、ホステル、ゲストハウスなどをその範疇とします。

マレーシアバジット(格安)ホテル協会加盟が全国で1200軒という数は、このクラスの全ての宿泊施設を網羅したものでは決してありません。協会の幹部は、誰も正確に全部の数はわからないでしょう、と語る。そこでマレーシアバジット(格安)ホテル協会は加盟宿を増やす努力をしています。ホームページ: www.budgethotel.org.my

こういった格安ホテル( budget hotel ) の部屋代は、(目安として)RM 20から RM 80です。インターネット予約の潮流が強まっている現状から、格安ホテルでもインターネット予約を取り入れるところが増えています。
旅行者はいろんな代理店のサイトを探しまわり、海外の旅行者はクレジットカードで代金の一部を払い、代理店にはコミッションも払い、実際にチェックインする時、残りの料金を支払います。
以上


バジットホテルの範疇は幅広い

まず”バジット”という英語の表現は「つつましい」 「限られた予算の」 といった意味合いですから、訳語の一つでもある 「格安」でいいのかという問題があります。「安ホテル」、「節約ホテル」 と呼んでもいいかもしれません、または「バジットホテル」 とそのまま使ってもいいけど、なんとなくしっくりこないと感じる方も少なくないことでしょう。マレーシアのここでいう "budget hotel " は2つ星ホテルも加盟対象ということですので、マレーシアバジット(格安)ホテル協会は、いわゆる格安ホテルだけを登録対象にはしてないとはっきりいえますね。 

そこで"budget hotel " の呼び名にはとりあえずこだわらないことにして、この記事に書かれている目安のRM 20から RM 80 の料金を見てみましょう。2つ星ホテルの場合ははっきりとは知りませんが、ほとんどの"budget hotel " クラスの部屋代は表示料金に加えていわゆる ”++” つまり税サービス料金の追加は課しませんから、この表示料金が実質的に払う金額となります。料金面から言っても RM 80 が、「格安ホテル」と呼ぶときの"budget hotel " の範疇といえるかはいささか疑問です。部屋代 RM 70, 80 クラスのホテルは、私の捉え方から言えば、エコノミーホテルの範疇ですね。もっともこの上限部屋代は協会の加盟基準にはなっていないようなので、単なる目安と考えていいでしょう。

まあ、どこまでを格安(バジット)と捉えるかは、相当個人差の多い範囲だと言えます。マレーシアバジット(格安)ホテル協会の場合は、3つ星以上の中級と高級ホテルではない、全てのホテル類を網羅した範疇 のようです。ということで、呼び名 "budget hotel " にあまりこだわる必要はないでしょう、というのが結論になります。

ちなみに私の分類する 格安ホテルまたは安宿は 部屋代が米ドル$10未満 というものです。その上のクラス、つまり米ドル$10を越えて$20か25ぐらいまでのホテルをエコノミーホテルと考えています。この分類は東南アジアではかなりあてはまりますよ。

マレーシアのバジットホテルが直面する問題

記事から抜粋
マレーシアバジット(格安)ホテル協会の幹部は訴える、「バジットホテルが火災と救助庁の規定を満たせないのはありふれた問題です。庁の認定を得ることがクアラルンプール市庁の営業許可の前提です。」 「バジットホテルの安全基準は4つ星、5つ星ホテルと同じです。よって全てのバジットホテルがこれを満たすことは無理です。この規定は厳し過ぎます。」  マレーシアバジット(格安)ホテル協会のクアラルンプール・スランゴール州支部議長は説明する、「スプリンクラーシステム、消防ホース、防火扉、非常口などを設置するのは難しい。」

クアラルンプール市庁の翼下にあるクアラルンプール観光行動会議は、政府省庁と協力してこの種のバジットホテル運営者を手助けしています。「観光産業は重要です。バジットホテルはそれに大きな貢献をしている。よって我々は運営者が困難に陥らないようにしています。」
以上

上で考察しましたように、ここでは便宜上 「格安」 ということばを使います。格安ホテルの安全設備、とりわけ防火安全が十分であるなどと期待できないことは、このクラスの宿にある程度の宿泊経験を持つものなら誰でも知っていることであり、知るべきことです。 これはマレーシアに限らず、程度に差はあっても東南アジアのどこの国でもほぼ同じです。格安ホテルは格安ホテル故に、防火安全基準はある程度妥協しているつまり犠牲にしていると言えます。そういう宿にまだ泊まったことがなく今後泊まりたいとお考えの方には知識として知っておいて欲しいことです。
しかし、安ホテルだからといって防火安全をないがしろにしていいという理由はないのは当然ですし、泊まり歩いている者でも宿側が防火安全に注意を払わないことまでは許せません。 

泊まる者が知っておかねばならないこと

ここで大事なことは、泊まる者がどこまで妥協できるか、行政が本来の基準に照らし合わせてどこまで妥協できるかです。宿泊施設の運営者はビジネス主導の意識が強く、費用は当然安く上げたいですから、運営者側にあまり大きな期待はできません。いざ火事になったら逃げ場に惑う、または逃げ場のほどんどない安宿は少なからずあると言っても間違いないでしょう。しかしこれらの格安ホテルを防火と救助規定通りに適用したら、その大多数は不合格となるのではないでしょうか。

仮にそうなったら、運営者も困るが普通の泊り客はもっと困る。上で引用した記事では、マレーシアバジット(格安)ホテル協会は、安く滞在したい外国人旅行者のことをもっぱら話題にしています。確かに彼らとりわけ外国人バックパッカーは外国人向けゲストハウス、安宿では多数派ですが、格安ホテルの外国人泊まり客は、バジットホテル界全体から見たら宿泊者総数の一部に過ぎませんね。どうしてもその種の格安ホテルに泊まらざるを得ない国民の利用者と普通の外国人旅行者が多数を占めるからです。限られた予算でしか旅行できない我々のような貧乏人は旅行できないということになってしまいます。よってここでまた最初の命題に戻ります。泊り客はこういった現状にどこまで妥協できるかですね。

私はかなり妥協できます、ただし国よって妥協できる程度を変えます。例えばインドネシアの地方を旅行する時はもうほとんど妥協の塊です、なぜならそうしなければいわゆる安ホテルには泊まれないからです。インドネシアの安宿・安ホテルに安全も防火も衛生も最初から期待しませんし、期待できません、それが現実です。この現実が受け入れられない者は、最初から安ホテルに泊まるような旅行を考慮すべきではないですね。タイとマレーシアの安ホテルではインドネシアでよりも防火安全への期待度は高くなります。しかしそれでも安ホテルに泊まった時、その宿の防火安全基準が十分であるなどとは最初から思いません。そういう宿で泊まる時は、ある種のあきらめ感を私はいつも持っています。

バジットホテルに適用する基準のむつかしさ

上記の記事内でマレーシアバジット(格安)ホテル協会が主張している点を私は理解できます。しかし発展する”近代都市クアラルンプール”で、格安ホテルといえどホテル側がいつまでも防火基準に妥協していると、一度問題が起きた時、つまりある安ホテルで仮に火事が起きて死傷でも出るような事態になったら、その時は必ずや監督官庁、クアラルンプール市庁など当局の安全基準認定に批判が出るはずです。格安ホテルの防火安全基準はどの都市・町でも抱えている問題であり、ビジネス第1の下であるべき基準はなんとなく押さえ込まれかねません。理想と現実の間で基準をどう適用するかは難しい問題ですね。再度私の結論を言えば、 安ホテルに泊まる者は現実を承知して泊まりましょう、ということです。



今年公開されたマレーシア映画の中からユニークな2作を紹介します


ひとこと
いずれも「ゲストブック」 に書き込んだものです。マレーシア製映画に興味ある方のために再度この2編を紹介し、このコラムの場で残しておきます。

オールマレーシア華人制作・出演の広東語映画

「新聞の記事から」に増補して簡略に紹介しますと:

マレーシア製作の初の広東語映画である ”第3代” の公開は1月12日から公開されました。この映画は当時のマラヤにやってきた中国人移民者が伝統と社会困難を保持しながら運をつかんでいく、将来の世代のために伝統をいかに維持していくかを描いた映画です。映画を監督したのはイポー出身の Hor(何志良)、人気男性歌手 Nicholas 張棟梁, 有名モデルのAmber Chia(謝) , モデルだそうな Carmen Soo(蘇)、ベテラン歌手兼俳優の Cheng Kam Cheng の主演です。
制作費はRM100万で、スタッフと出演者全員がマレーシア人であり、撮影地はペナンです。「若い華人世代が父祖たちの思いを感じることが大切です。」と監督。


そこで長年の映画ファンで、且つ地元マレーシア製作映画を応援する私としてはすぐ見たのです。シネプレックスのホールはがらがらでした、前評判が足らないことと、マレーシア華人は地元製作の華人映画にあまり興味を示さないことの両方でしょう。

結果として言えば、残念ながら映画として物足らない、映画の主張が直接過ぎると感じられた。監督は芸術性を狙いすぎて娯楽性に欠けていた、若い主演の俳優3人は人気者ではあるがいずれも演技素人なので、どうしてもその演技に深みが感じられない。撮影ショットが狙い過ぎであり、もう少し物語風にすべきだと思いました。

恐らく興業的には苦しい結果となるのではないでしょうか。娯楽性が欠けるのは、興行的につらいものとなりやすい。商業規模では初のオールマレーシア華人映画で、且つこれも初の広東語映画なので、私は期待していました。香港映画の娯楽性を要求しているのでは決してありません、しかし”Sepet”のような物語性が映画には必要ですね。この監督はもちろん物語を描いているが、それが映画のリズムになっていないのです。マレーシアの華人人気者は、映画に出る機会がこれまで皆無に近かった、こういう機会の多い香港人気者との違いはここですね。よって演技があまりにもこなれてなさ過ぎる。
ところで余談ですが、Carmen Soo(蘇)という女性はすごく美人で映像写りが良い、演技が良くなれば香港映画にも出られると思いました。

残念な気持をこめての”第3代”の紹介です。でも地元映画の応援者として宣伝しておきます、シネプレックスかVCD でご覧になってください。

Yasmin監督の最新映画を見て

これは「ゲストブック」 に4月11日付けで書き込んだものです。

女性監督Yasmin Ahamd の最新作 Gubra が公開されています。こう書いてもほとんどの方にはわからないでしょうが、 去年の話題作 Sepet の製作・監督と説明すれば覚えていらっしゃる方がいくらかはいらっしゃるでしょう。

マレー映画でありながら、一般的なマレーマスコミの枠を超えて紹介されています。これはひとえに、前作 Sepet が秀作であったおかげでしょう。且つその優秀さからマレーシアの映画祭で優秀賞を取ったことが、マレー映画界主流派から批判と攻撃を招きましたから、これもマスコミのニュースになりました。いずれも当サイトの「新聞の記事から」で紹介しました。

よって最新作は公開前からかなり注目を浴びていたと言えます。で、映画 Gubra を(もちろんシネマで)見た私の評価は、”A−(マイナス)" としておきます。”Sepet”を”A”とすればです。

尚 Gubra という単語では大きな辞書でないと載ってませんね、「ろうばい、パニック」という意味だそうです。

Gubra は映画としては優れた作品です、ただ感動は Sepet ほどありません、マレーシア映画というよりマレー映画という分類の方がふさわしいでしょう。もっともそんな分類は映画の本質となんら関係はありませんね。

映画Gubra は監督自身も説明するように、Sepet の完全な続作ではなく、続の要素を半分ぐらいもった別作だと言えます。女性主役のOrked を演じるのは同じ女優ですが、もう一人の主役であった華人 Jason は写真でしか登場しません(死亡したことになっているから)。そこで役柄で彼の兄なる人物が準主役として現われて、筋に加わります。これはちょっとむりやり関係つけた筋書きとも感じますが、問題はこの準主役がどうもぴったりとしていないのです、私は人選のミスだと思います。Sepet において Jason とOrked の関係に見られた、つまり似つかわしくない2人の間にあったあの自然でしかし困難な異民族間での恋愛にかける情熱の描写が Gubraでは感じられないのが、ある種の感動の欠如感を映画にもたらしています。

ところが Gubra の半分は、今回全く新しく加わった話しと出演陣です。こちらの筋は、Orked 家族+ Orked の夫を取り巻く筋とは全く関係なく関連もなく、映されています。つまり1つの映画のなかで、全く別々の筋が交互に映し出されているのです。こちらの主たる登場人物は売春婦の女性と村のイスラム教先導師夫婦という、全くのマレー社会での物語です。売春婦を重要な登場人物にするというのは、Yamin 監督らしいところであり、こちらに筋書きは人物描写がいいですね。こちらはかなり重いテーマに仕上げています

一方Orked 家族の方はほとんど前回と同じ配役です。Orked に交差するJasonの兄 側はその両親も同配役であり、こちらは続作という目で筋を追って見ていけます。ほとんどの出演者は縁起達者でであり、おかしさも織り込まれています。こちらの筋では今回はなぜか英語台詞が大半を占めます、もちろん役柄によってマレーシア語台詞と広東語台詞を話しています。

今回のOrked を軸とした筋の方は、家族関係と愛情と裏切り(結婚したOrked の夫の浮気)という人間関係を軸に展開していきます。これはSepet の軸であった異民族との恋愛を正面から扱ったいわばタブー的テーマは、ほとんど描かれていないことにつながります。

いずれにしろ、Gubra は人間の内面描写も一部織り込んだ優れた100%マレーシア製の映画です。マレーシアに興味のある方に、シネマであれVCD であれ、ご覧になることをお勧めします。


参考:映画検閲委員会の言い分

以下は2006年4月終り頃に、The Star 紙に載った国家映画検閲委員会及びその委員長へのインタビュー記事からの抜粋です。マレーシアで公開される内外の映画に絶対的な検閲権と公開許可権を持つ検閲委員会の寄って立つ思考の一端が見られますので、参考としてここに載せておきます。

以下記事より
国家映画検閲委員会の委員は元国家公務員だけから構成されています。警察官、軍人、教育者などです。委員会の委員長は主張する、「検閲委員は訓練を受け、学者や業界人を時々招いてその話を聞いています。このことで我々委員が映画の見方を理解することに役立っていると思う」

マレーシアの映画検閲規定のガイドラインは内務省のホームページに載っています(www.moha.gov.my) 。 「しかしこのガイドラインでは詳細に決めていません。マレーシアは単民族社会ではないので、他民族のことも考えなければならない。」 と委員長。「昨年2005年 国内製作の映画の16本が全くカットされることなく上映許可された事実を見れば、検閲委員会は創造性の余地を与えていることを示しています。」
しかし映画製作者の中には、検閲そのものがすでに管理であると主張する人たちがいます。

最近 Yasmin Ahamad1監督の ”Gubra”と、  Amir Muhammad監督の” Lelaki Komunis Terakhir (最後の共産主義者)” がカットされることのなく検閲委員会の許可を得ました。この議論を呼びそうな映画のカットなし許可に、マレーシア人は驚きで首を傾げました。

委員長は語る、「”Gubra” に関しては、我我は一般公衆からの反応を待っています。我々は全てのシーンはOKだと判断した。」 「映画は元マラヤ共産党の陳平書記長を扱ってはいるが、” Lelaki Komunis Terak”は全く害のないセミドキュメンタリー映画です。もし映画がその思想を奨励するようなことをすれば、検閲委員会は許しません。」
以上記事より

Intraasiaのコメント:Gubra では、マレーシア観点から見れば微妙なシーンは確かにありましたね。それらに対して検閲委員会は一般公衆からの反応を待つ、それによって今後の検閲方針に反映させるという姿勢なんですね。マレーシア社会には、極めて表現自由制限的な世界観を抱く層が強い影響力を持っていますから、”検閲委員会だけ”が映画の検閲を決めているとはいえない面があります。


参考:映画 ”Gubra"への批判

予想した通り ”Gubara”への批判はすでに起こっているようです。以下に5月初めの 「新聞の記事から」 に載せたものを再録しておきます。マレー映画は検閲委員会だけを”合格”すればいいのではなく、一部のしかし影響力の強い勢力からの批判もかわさなければならず、このように映画が単に映画の枠を超えて宗教的観点から判断されてしまいますね。

以下記事から
先月公開されたYasmin監督の”Gubra"が最近公営放送RTM のTV1局 娯楽トーク番組内で批判されました。この番組で2人の出席者が映画と人物描写を批判したとの事です。さらにPAS党の機関紙 Harakah は、この映画を(イスラム教から)逸脱した映画と評しました。Harakahは映画シーンのいくつかの道徳と品位に疑問を付きつけています。

Yasmin監督は語る、「後から考えて見るといくつかの場面は違った風に撮ることもできただろう。しかし私は他の場面は変えるつもりはないし、全体の筋も変えません。」 
以上記事より




遺言・遺言状の基本知識


公認された遺言状記録専門家は語る、「「多くのマレーシア人は、人が死亡した場合その資産が自動的に配偶者と子に分配されると思っているが、それは違います。なぜなら、その資産が配分される前に法的手段が必要だからです。」

遺言を残さなかった場合

遺言状がない場合は、死亡者の愛した者たち、継子、非嫡出子、同棲者、年老いた親戚、などに対する法律規定がないことになります。マレーシアでは、ある人が遺言状なく死亡した場合、その人の銀行口座を含めた全資産が凍結されます。その凍結が解けるのは高等裁判所が執行状を発行した時です。一般的にそれには何年もかかります、ただし資産の大小によって異なります。一般的に言えるのは、遺言なく死亡すると相続事象の解決に年月がかかるということです。
死亡者の資産は、下記表にあるように 富み分配法 1958年(1997年改定)に基づいて分配されなければなりません。

遺言を残した場合

死者が遺言を残した場合、高等裁判所は遺言検認を発行します。これには通常2ヶ月から1年かかるとのことです。死者が生前指名しておいた遺言執行者は、遺言検認を得てから資産を集計し負債があればそれを清算します。そして、その後遺言状に従がって資産が相続人に分配されます。

遺言に関する基本知識

  1. 半島部とサラワク州の人は最低18才以上
  2. 健全な精神と記憶を持っている
  3. 遺言法 1954年に規定された条件を満たしている


法律上、合法的に養子にした子以外は、つまり法律に寄らない養子、婚姻関係以外による子、継子(ままこ)は遺産を相続できません。従がって婚姻関係以外による子、継子(ままこ)に相続させるために、遺言状が必須となります。

無遺言死亡の場合の法的相続に関する定め

富み分配法 1958年(1997年改定)に基づく
無遺言者の後に残された生存者が次ぎの場合
権利を得るのは
配偶者のみ (親と子がいない)配偶者が全部

配偶者と子 (親がいない)配偶者が3分の1子が3分の2
子のみ (配偶者と親がいない)子が全部

配偶者と親 (子がいない)配偶者が2分の1親が2分の1
親と子 (配偶者がいない)親が3分の1子が3分の2
配偶者と親と子 配偶者が4分の1親が4分の1子が2分の1
親のみ (配偶者と子がいない)親が全部


子の定義:子供及びその子孫
親の定義:実母または実父、または養子法に基づいた合法的母または父 

死亡した無遺言者に配偶者、子、親のどれもない場合、次ぎの優先順序で富みを得る権利を持つ:
1.兄弟姉妹、 2.祖父母、 3.おじおば、 4.曽祖父母、 以下省略します

以上は、2006年4月27日付け The Star 紙のMetro Classifieds ページの特集記事を参照にしました。

Intraasiaのコメント
マレーシアの相続法では、配偶者の権利分が少ないこと、その反面親の権利分が多いことがよくわかりますね。



日本人の英語を評した英語紙の記事に対して批判投稿した件の後日談


ことのあらまし

今年の「3月と4月分のトピックス」ページに掲載している、第469回コラム 「日本人の英語を評した記事に対して、英語紙に投稿した全文とその顛末」 をまずご覧ください。これはマレーシアの英語紙 No.1である The Star 紙の定期特集ページ 「Mind Our English」が、日本で大学教授を務める人物の書いた日本人の英語に関する論を Daily Yomiuri から転載したことに対して、Intraasia が批判論を投稿し、それが掲載された始終を書いたものです。その時で、この件はもう終わったものだと思っていました。 

ところが、この9月初めの 「Mind Our English」 にこの人物 Mr. Guest が直接Star紙に投稿したであろう、 Intraasiaへの反論文が載りました。私は3ヵ月半マレーシアを離れていて、マレーシアに戻った後初めて買った Star紙の 「Mind Our English」ページにその文章を見付けたので、その偶然さに驚きました。もう1日戻るのが遅れていたら、彼の反論を読む機会は永久になかったはずです。

The Star "Mind Our English" のオンラインページ //www.thestar.com.my/english/ には、今回のMr. Guest の投稿文が掲載されています。それは新聞に掲載された文章と全く同じです。前回つまり3月の時は、The Star ”Mind Our English” オンラインページ にあるのは彼の論に関して編集部のつけた紹介文だけで、その時新聞掲載された文章は完全に割愛されています。その理由は、Daily Yomiuri  からの転載のためだろうと私は推測しています。きっと新聞社間で何らかの決め事があるのでしょう。残念ながらどうしようもありません。

日本の外国人大学教授が投稿した Intraasia への反論文

そこでThe Star "Mind Our English" オンラインページにある
(2006) Sept 2: Baffled by response
From Mike Guest, Miyazaki University, Japan
という項目を開いて、それを全てこの場にコピーしておきます。
(以下はそのコピー分です)
Baffled by response

AS THE writer of your March 23 article (Why are the Japanese poor at English?・・originally printed in the Daily Yomiuri, Japan), I must admit that I am completely baffled by the vitriolic response of March 30 from Intraasia.

The respondent claims, among other things, that my article supported a view of English linguistic superiority, that it held a colonialist mentality and that it advocated a "You learn English, we do not learn your language" view.

My article merely purported to answer some questions as to why the Japanese are generally not proficient at English, a fact that the respondent - as well as most Japanese - agree with. Nowhere in the article do I claim English as "Superior" in fact there is absolutely no qualitative comparison between languages in the article at all.

Furthermore, nowhere in the article do I state or otherwise argue that there is a moral imperative for the Japanese to learn English. In fact, I explicitly made the point that the average Japanese does not really need English, again a notion that the respondent apparently agrees with.

The respondent also takes issue with my statement that the Japanese publishing industry is robust, which mitigates the need for learning English. He/she seems to have interpreted my remarks pejoratively, as if I was arguing that somehow publishing widely in one's own language was a bad thing.

However, I make no such claim, I merely state the fact that this is another factor in reducing the need to learn English. No moral imperative is implied, it is simply a fact, an explanation.

The respondent also claims that I am "definitely ignorant of foreign language education in Japan" and goes on to cite the fact that Japanese bookstores are full of books on learning English as well as a variety of other languages.

I cannot and, more importantly, did not deny the veracity of this fact. In fact, I did not even address or take issue with the amount of language learning materials available in Japanese bookstores in my article, so I have no idea why the respondent felt the need to raise this point.

In fact, the question as to why, despite the wealth of learning materials and amount of study that many Japanese put into English that the respondent correctly observes, the practical results are marginal, is addressed in the article.

I might add here that I do speak Japanese - regularly and fluently - both at home and at work so I find the respondent's notion that I supposedly hold a "You learn English, we do not learn your language" view, based merely on the fact that I am a native English speaker, to be a rather ugly prejudice.
Mike Guest, Miyazaki University, Japan
(以上はコピー分でした)

掲載されなかったIntraasiaの再批判文章

次ぎに、このMr.Guest の 9月2日付けで「Mind Our English」ページに掲載された文章に対して、Intraasia が The Star "Mind Our English" 編集部宛てに投稿した文章を下記に掲載します。

To: Mind Our English

With reference to the article "Baffled by response " in the page of Mind Our English on the 1st of September, I cannot help but respond to the challenge.

First of all, as I wrote in my previous article appeared at the end of March, I am not against neither English language itself nor learning English, and also agree with the Japanese are generally poor at English. At the same time for years I have been criticizing the English language supremacy and those who support or overlook the current situation of English dominance. Can it be possible for anyone who openly express some comments or argues about the state of teaching or learning English in non-English speaking countries to be neutral or stand themselves aloof from the ongoing English-language hegemony in the world?

Reportedly Mr. Guest wrote his article " Why are Japanese poor at English? " in the Daily Yomiuri that is printed and circulated in Japan, of which readers are mainly English-speaking foreigners living or visiting Japan and some Japanese who prefer to read English daily. He definitely did not target Malaysians as readers. Later the editor(s) of Mind Our English of the Star reprinted it in March 2006. As you know the large majority readers of the Star are Malaysians in and outside Malaysia and English-speaking foreigners living in Malaysia like me as well.

Therefore, keeping Malaysians as the only target readers in my mind, I constructed my previous article. As the absolute majority of Malaysians have no idea about the situation of foreign languages education and learning in Japan, I had to describe and stress a few points, such as non-English foreign languages teaching materials edited and printed in Japanese language are very aplenty in number and have a wide range, in addition those are easily available by man in the street. These situations are totally different from in Malaysia. If I had not mentioned this important point, Malaysian readers would have no chance to know the background.

Since the Mind Our English printed my article on the 31st of March, I appreciated the editor(s), because my opinion was introduced to such an English-language-admiring nation/people. As any newspaper has its own editorial policy, however, my original letter was cut short by about 40%. Therefore I put both my original article and the article appeared in the Star in my website. For information, living in Malaysia I have been writing about Malaysia for the past 10 years including tourism, daily news, nation, people, language, society, culture, etc. through mainly my website and occasionally wrote for magazines/books, all of which are written in Japanese only. Mr. Guest and those who are interested in our argument, please refer to the following URL for my original article: www.big.or.jp/~aochan/column/column2006/06marapr.htm

Some of phrases that were dropped from the article printed in March and I wanted to emphasize then are: I wish more Japanese, especially young generation would acquire one foreign language, no matter what language, to some extent. It will broaden their knowledge and a whole new world may open up to those who used to be monolingual.

Not everybody becomes fluent in a foreign language, just like not every body has a good ability in sports. Non-mother tongue does not reach everybody. It must be a top priority to give full information to the nation by using his/her mother tongue or national language. Then comes a foreign language. Unquote.

English language is so dominant that the native speakers very often take advantage of this situation, whether they are aware of it or not. All of us know that people from native English-speaking countries visit non-English countries, they start to speak in English as if English were de facto national language even in complete non-English countries. With some exception (possibly including Mr. Guest), this is a general attitude and mentality of those native English-speakers. However, responsibility for this attitude rests largely with the people of non-English countries, because they are apt to accept this kind of attitude. We should not allow one language to be dominant in the name of globalisation.

When we as non-native speakers spent so much time to learn English, the progresses, however, were poor or unsatisfied, then it is natural we and teachers as well feel sorry or disappointed. This regretfulness or disappointment should be no different from poor improvement in mathematics, singing or other subjects/matters.

Mr. Guest took the trouble to post his opinion in the English daily in Japan and lengthy described why the Japanese are poor at English. What made me respond to his first article was not what he found. I have never denied most of his findings. In the first place, why should we lend a hand to promote a language monopoly in this unequal and unfair world? Is there any Malaysian who has found Mr. Guest's first article was written from the viewpoint of purely academic research without considering the ongoing English supremacy? He has a clear standpoint with regard to the English language dominance, which I firmly disagree with.


6 September 2006
Intraasia

以上です。

編集部から通知でこの件の終了を知った

残念ながら、Intraasiaのこの2回目の投稿分は「Mind Our English」ページに掲載されませんでした。というのは、投稿した数日後 「Mind Our English」編集部からIntraasia 宛てにメールが届き、「両者それぞれ言い分はあるが、この件に関してはこれで終らせていただきたい」旨のことが書いてありました。新聞への投稿などの際は、その編集部に掲載決定権があるのは、どこの国のどの新聞にも共通のことでしょうから、まことに残念ながらそう言われれば致しかたありません。私は「わかりました」 という返答メールを送信しておきました。

こうしてIntraasiaの書いた再批判論は永久に 「Mind Our English」ページに載ることはなくなった、つまり我投稿の対象としたマレーシア人の目に入ることは皆無に近いのです。そこでせめて当サイトの読者には読んでもらおうと、この「今週のマレーシア」に掲載して残しておきます。

投稿英語文を読んでいただければおわかりのように、Intraasiaの投稿文の主対象はマレーシア人読者です、だからこそ文章の組み立てをマレーシア人対象にしています。いうまでもなくIntraasiaの基本的論点は前回3月の「Mind Our English」ページに掲載された時の投稿と基本的に同じです。

それでは、The Star 紙 「Mind Our English」ページと同じく、この件に関してはこれで打ち止めといたします。



ある日本人旅行者の経験した、10リンギット紙幣を巡るできごとを考える


この10月初めで、当ホームページは開設以来10周年を迎えました。それに関することばを含めて、当サイトの喫茶”モノローグ”で”茶店のウエートレス”を務める読者がいつものように送信してきたメールに、興味深いできごとが書いてありました。今年夏彼女が他国を訪問した時、クアラルンプールに1泊だけ立ち寄った際に経験したできごとだそうです。

1997年初め頃以来ずっと現在まで当サイトを訪問されてる最古参読者への感謝もこめて、その内容を一部省略して紹介し(文章は全てそのまま引用)、それに対する Intraasiaの応答と解説をここに書いて、マレーシアに興味ある皆さんの参考、情報にしていただくことにします。

10リンギット紙幣を巡るできごとの発端

注:この注書きのように、行の先頭を下げた文は茶店のウエートレスが書いてきたものです。小見出しはIntraasiaが作成。


(これより前は省略)
スンガイワンの地下のスーパーでお土産&なんでこれ買うのよ 買い物をして、寄越されたつり銭の中のRM10札に 赤い色のインクでなにやらハンコが押してあるのです。

そうなんです。たまに紙面に赤い小さなスタンプみたいなのが複数個押してある紙幣に遭遇します。何の意味があるのだろうと、私はそれを見つけるたびに思います。ただこういうごく小さなスタンプ押し札はほとんど問題なく受け取ってもらえます。

“なんじゃこの汚れた札はーー  こういうのは早く使ってしまうに限る” とくたびれ果ててきて、いい加減ホテルに戻ろうとのモノレール乗り場で早速使用。窓口のインド系と思しきおねーちゃんは 何の躊躇もなく問題のRM10を受け取り 切符を寄越しました。
しめしめとホームへ向かうわたくし、 そこへ男性職員が立ちふさがり 「今この札を使っただろ これはカットしてあるので使えない (と言った模様)」 “うへぇ やばーー ダメかぁ しかも使えないって言明したぞ”。  手持ちの同じRM10と交換させられ 汚れた札はまた私の手元へ戻ってきてしまいました。

スーパーの支払カウンター、切符販売所でも客から受け取った紙幣を全体的に丁寧に見る係りによく出会いますが、さっと見るだけでほとんどこだわらない係りもいます。さらにごく忙しい時はそれほどしげしげと紙幣を眺めないようにも感じます。よって上記のようなことは起り得るでしょう。一般にスーパーでは、あまりにもボロになった紙幣、破れたりちぎれた部分がある紙幣は受け取らないことが多いはずです。もちろんどの程度までを、許容するかは店及び係り個人の判断に基づくことでしょう。

ちゃんとした店構えをした一般の店だって同じですね、代金支払いの際、ちぎれた部分のあるような紙幣は拒否されるのが普通です。こういう紙幣判断にそれほどこだわらないのは、屋台とか大衆食堂、市場の店などでしょう。いうまでもなく、その場合でもあくまでも屋台などで金を授受する人によって違いがあるのは当然です。

例えかなりボロまたは汚れていようと、または一見破れていないように見える紙幣でも、90数パーセント以上の確率で支払えるのは、Rapid KLバス(前身のIntrakota バス時代を含めて)です。 なぜかって? それは乗客が、運転手横にある運賃投入箱の透明な投入口に、運賃分の紙幣を直接入れるからです。その際運転手は投入された金額が単に運賃に合致していることを確認する程度であり、それもしげしげと眺めるわけではありません。ましておかしな紙幣だといって投入口に手を入れて確認するようなことを経験したことは、何千回も乗った中で一度もありませんし、まずそういう場を見かけた記憶がありません。

小細工した、修理した紙幣は使えない

で “カットって言ったぞ んん??”と札をよくよく見てみれば札のはじっこ1.5cm幅ぐらいが破れたところへ 同じような地色の紙切れをセロテープで継ぎ足し してあるんですよ。赤色ハンコと見えたのは 継ぎ足しの紙に印刷された赤色の文字だったのです。

そこまで明らかに”細工または修理”した紙幣は珍しいと思います。破れた紙幣に透明テープが張ってあるのは時にあるし、私は受け取った紙幣の破れ(ただしちぎれてはいない)が比較的大きな場合は、いつも透明テープを貼ってから使います。この場合はまず問題になりません。まあ、ほとんど2枚になるくらい大きく破れた紙幣をテープでつないだ場合でなければ、ちぎれていない限り、支払時問題になる可能性は低いといえるでしょう。

 “くっそー3食分だが仕方ない 空港でユニセフに寄付するか” と一旦は考えました。 でもくやしい!
でも有人の店,窓口などで使えば同じ結果でしょう。

確かに、RM 10 は大衆食堂、屋台での贅沢しない3食分にあたりますね。そこでRM 10 の札が使えないとなると、日本の物価に馴染んでいる彼女でもくやしい気持ちになることはわかります。もしそんなことになったら、私ならその日は夜眠れないほどのショックを受けるはずですな。

電車駅の切符販売機はなぜこうも使用不能か

MRTの自動券売機はそれ以前に なぜどこもかしこも全駅の全機械が使用不能なのですか? マレーシア人だって機械の前に列 作ってるのにだれ一人として買えていません。結局有人窓口に並び直して買ってますよね。

マレーシアにMRT はありませんから、 高架電車LRT のことですね。全駅、全機械というのは明かに誇張ですが、私の電車利用の長い経験からいって確かにそう言いたくなるほど、いつも大多数のLRT駅で、半数以上の切符自動販売の機械が稼動していません。切符自動販売機があまり高性能ではないのか、メンテナンスが悪いのか、まあ、その両方だと思いますね。

高架電車LRTだけでなく、近郊電車Komuter駅に設置してある切符自動販売機もかなり故障率が高い。LRTほど高くはないと思いますが、平均していえば、Komuterの駅に設置してある販売機の数はLRT駅のそれより少ないので、利用できる切符自動販売機の数はLRT駅と似たり寄ったりという感じを抱きます。

LRTとKomuter 両方の駅にある切符自動販売機にいえることは、紙幣の認識率が高くないことです。私には機械そのものの認識精度を具体的に評せませんが、この理由には紙幣の劣化に見合うほど頻繁に中央銀行が古紙幣を回収交換してないというせいもあるはずです。このため、もともと日本人ほど自動販売機に慣れていない且つそれほど好まない国民性を持つマレーシア人乗客は、例え正常に稼動している販売機が数少なくあろうとも、切符販売窓口に並ぶことを選びがちです。切符自動販売機で、行き先を選び人数を押しなどという手順に従がうより、窓口で口頭で伝えて買ったほうが楽だと感じます。

窓口なら50リンギット札でも受け取ってくれますが、切符販売機では受けつけません、そして10リンギット札でさえ機械が受け付けないことがよくあります。この理由は全て、おつりが充分に機械に補填されていないことから起ります。加えて挿入した紙幣が認識されない率の高さを経験すれば、例え列に並んでも切符窓口の方を好むというのが、以前から変わらない傾向ですね。

Komuter の例をあげましょう。数あるKomuter 駅の中で、設置された切符販売機数が1番多いKL Sentral 駅でさえ、休日や夕方の混雑時に切符販売窓口前に長蛇の列を見ることは全然珍しくありません。なぜ販売機が有功に活用されていないか、または期待通りに使えないのかに関しては、Komuter を運行しているマレー鉄道の課題であるはずです。しかしこの販売機前はがらがら、窓口前は長蛇の列という現象はもう何年も変わっていません。つまりマレー鉄道内部で真剣に取り組んでいるとは到底思えません。

とにかく高架電車LRT、近郊電車Komuter の両方とも駅の切符販売機の稼働率は極めて悪く、同時に乗客の利用率は1桁に等しいぐらいの低率です。

使えない切符販売機の裏にある本当の理由

立派な近代国家の首都の主たる交通手段である電車の駅に設置してある自動券売機がすべて使用不能なんていったいどういうことなんでしょう 

ほんと、長年の利用者として私ももあきれています。だから私は以前から窓口に並ぶ必要のないプリペード式の Touch 'n Go カードを使っていました(でも今年留守中に無断で捨てられてしまった後は買い換えてません)。ただ改札口に取りつけられたこのTouch 'n Go カード認識装置が時々故障しており、且つ装置が1個しかない駅もあり、Touch 'n Go カードの便利性が消えてしまう場合も起ります。

茶店のウエートレスを憤慨させた、その原因を分析しましょう。
基本的に券売機が使えないことを、高架電車全体にとって主要なる欠陥だと捉える思考と視点がないからです。さらに券売機担当の係りは別にいてその人の仕事であり、他の職員は一切関わりを持つ必要がないという組織のあり方且つ自分の職分に関係ないことに関わる義務はないという意識ですね。これは一般に、例外はもちろんありますよ、マレーシアの企業社会に共通な特徴であり、高架電車網だけの特徴ではありません。

一つだけ例を出しておきましょう。今日地元の銀行Maybank へ行きました。3台ある現金引き出し機ATM の内、2台が使用不能です、従がって唯一のATM機の前には長い列です。ATM内の金が足りなくなったのかなんらかの不具合なのかはわかりませんが、機械を扱う銀行員は誰もいません。どこの銀行にもいる保安員が機械を眺めているだけです。こういった場合、店内中から係りが出てきて機械の前に立って説明している場合もないことはないですが、今日は銀行従業員の誰もこの状況を気に留めていませんでした。まあプアサ中だからといういい訳も多少は成り立ちますけど、それにしても利用者には不便を強いていました。長年マレーシアで生活しておれば、ATM機が使えない事態には数多く出会っています。これも根では電車駅の自動券売機の状況に通ずるできごとです。

テープで×してあるとか電源入れてないとか“使えません”宣言してるならまだしも。なぜだれもなにも言わないのですか? 理解不能です。


そうです、切符販売機自体の不調や使用不能に対する苦情はほとんど聞きません。一方販売窓口をもっと増やせとか、ずっと開けているべきなのに窓口が閉まっているまたは係りが席を外している、といった苦情の方をよく見聞します。さらに多くの駅で発見する切符販売機設置場所の暗さに対しても、私は批判を聞いたことがない。こういった事実と推察を積み重ねて行くと、マレーシア人は切符の自動販売機に初めからあまり期待感を抱いてないという結論に達します。

あきらめない気概を持つ

で 意地でも使ってやろうと心に誓ったわたくし ひらめきましたよ。 “そうだっKLエクスプレスの券売機で使ってみよう!”
翌朝KL中央駅のKLエクスプレス乗り場の券売機の前に立ち祈るような気持ちで継ぎはぎの札を投入! すると券売機は札を吐出してしまったのです。 私は膝を折りそうになりましたが今度は札をさっきとは反対方向から入れてみました。 と スルスルスル飲みこみましたよ。 わたくし思わず心の中で“ざま−みろ マレーシア”と叫びましたね 勝ちましたよ。 多分 あの銀の帯 っていうんですか、あの偽造防止の。 あれが損傷してなかったので読んでくれたのかなぁと   

KL Ekspresの駅に設置してある切符販売機は高架電車のそれよりずっと高級そうな印象を与えます。さらに、運賃がRM 35なのでRM 50札でもRM 100でも買えるとのイラストが描かれています。ひょっとしたら本来の性能が良いせいかも知れませんね。それはともかく、さすがアンティらしい粘り勝ちです。他の旅行者の方も、この気概を見習いましょう。

商慣習と国情の違いも知ろう

日本では汚い、ちょっと破れた札なんてのはスーパーなどはつり銭にまわさず銀行行きにしてくれます。こちらが出してしまっても受けとってくれますしね。モノレールなんて公共のものだと思われるのに追いかけて交換させちゃうなんて すごいです。

銀行へ行って、汚れた、破れた紙幣を窓口へ差し出せば交換してくれるはずですが、わざわざそのために番号札を取って気長に待ちたくないのは誰でも同じです。いまや都会の銀行はどこでもATM機導入して、預け入れも機械使用を奨励しています。よって対面窓口数は10年前に比べてぐっと減らされました。

スーパーなどで汚れた、破れた紙幣を受け取ってくれないのは商慣習の違いと国情の差ですから、致し方ありませんね。この点はあきらめましょう。尚モノレールは全駅、切符販売機はなく全て窓口販売です。ところで、窓口の係りが見逃した小細工紙幣を目ざとく見つけて、それを払ったウエートレスに別の札と交換させたその男性職員は、仕事熱心だと誉めてもよいのではないでしょうか。

痛んだ紙幣を巡るババ抜きゲーム

ま それ以前にスーパーで掴まされたとき 拒否しなくてはいけなかったのですけどね 
(以後は省略)

その通りです。要は細工された、汚れ過ぎた、破れた、ボロボロになった紙幣を受け取らないことが肝心です。必ず誰かが受け取ることになる、もし受け取ったらすぐわからないようにして他人に渡してしまうという、いわばババ抜きゲームみたいなものです。頭ではわかっていますが、私もたまにこの種の受け取り拒否されかねない紙幣を手にすることがあります。おつりを貰うたびにその場で目を皿にして紙幣を調べるなんて人はごく少数でしょうから、もらった時点でよく調べないことは誰でもよくありますよね、だから致し方ないなとも思っています。



一人の実業家の寡占支配がより進んだ華語新聞界


華語新聞は華人社会にとって、とりわけ英語を第1言語として使用しない大多数の華人コミュニティーにとって、まこと重要な位置をしめています。華語新聞は華語でニュースを伝える以上の役割を担っているのです。つまり華語新聞は華人社会へのニュースの伝達者であり、支配勢力と庶民華人間の媒介者を務め、華人政党の広報の役割を果たし、華人ビジネスの奨励と宣伝をこなし、華語教育奨励の旗振り役を務め、様々な華人コミュニティー間の仲介者的役割を持っています。

華語新聞が華人社会で占める存在感を認識していただくのはなかなか難しいのですが、とりあえず上記の説明を頭に置いておいて下さい。

MCA党が華語新聞株を売却

それではまず始めに、先日の「新聞の記事から」ページに掲載しました、次ぎの記事をもう一度ご覧ください(ごく一部修正しました)。

10月18日付け  『MCA党が南洋商報の持ち株をぐっと減らす』

華仁持ち株会社は、華語新聞 南洋商報 の親会社において保有していた株式を、民間企業のEzywood Option会社に売却しました。これは南洋商報の発行済み株式の21%にあたります。これによって華仁持ち株会社は南洋商報 での持ち株は20% に下がり、最大株主ではなくなります。最大株主はEzywood Option会社となり、全体の45%を保有します。 華仁持ち株会社は華人政党 馬華公会(MCA)の投資機関であり、馬華公会の総裁がこの件を発表しました。「華仁持ち株会社の取締役会は経済的理由に基づいてしたことだと、我々は理解している」

5年前に華仁持ち株会社が南洋商報の(親会社の)株を大量購入する件で、 馬華公会の党内を二分する論議を呼びました。南洋商報の親会社は華語新聞 中国報 も所有・発行しています。


この記事をお読みになって、恐らく 99.9% の日本人読者の方には興味の涌かない且つどうでもいい内容の記事だと捉えていらっしゃることでしょう。ある意味ではそうでしょうが、しかしマレーシアを広範囲な面から分析し深く考える者にとっては、決して軽視できない内容なのです。

一人の実業家が華語紙 4紙を所有する構造

華仁持ち株会社が華語新聞 南洋商報 の親会社 に保有していた株式21% を購入することで、南洋商報グループの最大株主となった Ezywood Option という会社は、サラワク州の木材産業王の一人である 張暁卿という人物が100%支配する個人会社だそうです。要するに華語新聞 南洋商報はこの有名な実業家の手元にほぼ収まったということです。尚与党の華人政党 馬華公会(MCA) は株売却後も、その投資機関である華仁持ち株会社を通じて南洋商報の発行済み株式の20% を保有しています。

当時MCA党では、南洋商報の株買収を巡って党内紛争となったほど論議を呼んだ買収でした。当時の党総裁はすでに引退したので、現MCA指導者は比較的こういった経緯に縛られることなく、持ち株売却に同意したものと推測されます。マレーシアでは、政権党 UMNOがマレーシア語紙 Utusan Malaysiaを事実上所有しており、MCA党が英語紙No1の The Star の株をこれまた大量に保有し筆頭株主であり、インド人政党 MICの党首夫人がタミール語紙の一つと深い関係にあるというように、政党と新聞の関係は概して”蜜月”です。

次ぎの事情をお知りなれば、「そうか、華語新聞 南洋商報は実業家が所有することになったのだな」 という単純なことでは済みません。なぜなら、この木材産業王は、華語新聞界最大の発行部数を誇る 星洲日報 の社主なのです。つまり個人持ち株だけでなく自分の保有・経営するいくつかの会社も星洲日報の株を多量に保有しており、従がって張暁卿は実質的な星州日報の最大株主となっています。

上記に書きましたように、大衆華語新聞 NO1. である 中国報 は南洋商報の親会社の発行です。さらに星洲日報 グループには大衆華語紙 光明日報 があります。半島部で発行されている華語新聞 全6紙の内、実に4紙(総合紙のNo.1と No2 である2つの新聞と2種ある大衆紙の両方とも) が、この実業家の翼下にはいったということです。これは驚くべき華語マスコミ支配と言えます。

半島部華語 6紙の現状

半島部で発行されている華語新聞 6紙中の残り2紙とは、 マレーシアで最古の華語新聞と自称しペナンで発行され主として半島部北部だけで購読されている、いわば地方紙である 光華日報、及び2000年以降に発刊された最後発の全国紙 東方日報 です。ただ 東方日報は、発行部数では星洲日報にはいうまでもなく、昔と比べて部数の減った南洋商報にもはるかに適いません。下表をご覧ください。

調査会社 ABCが 調査・発表した主要新聞の実販売部数です。調査期間は 2004年7月初めから2005年6月までの1年間。

華語紙
新聞名星洲日報中国報南洋商報光明日報光華日報
調査期間の日平均部数349,355223,322137,333138,77468,909
合計部数
917,693

注:華語紙 東方日報はこの時点では調査にまだ参加していません。


資本と編集は別物という建前

こうして張暁卿という実業家が、保有し経営するいくつかの会社を通して、まるで華語新聞界を牛耳るかのような構図をまずます強めていくといえそうです。いくら華語新聞という中文メディアに限られているとはいえ、新聞が新聞である以上、これは中文メディアにおける寡占状況といえるのではないでしょうか?

注:ここで言う 中文 とは広義の漢語を言います、つまり主として日本でいう中国語を指し、さらに時にはその兄弟言語をも含んだ漢語諸語を指します。


南洋商報 はその紙面の中で、南洋商報グループの取締役理事の談話を載せています:
「前略。 張暁卿のビジネススタイルは非常に明瞭であり、所有権と管理権限をたいへん明確にしている。彼は星洲日報グループを所有しているが自身はその日常運営に関与していません、グループの専門家に運営を任せています。南洋商報グループが今回購買された後も、一つの独立した自主性を持ったメディア媒体であることは当然のことです。後略」

この談話は、新聞社グループの経営トップの言葉としては当然といえる且つ当り障りのない言葉ですね。華語新聞を私は毎日購読まではしていませんが時々購読しているので、一応華語新聞読者と自称しても構わないでしょうから、華語新聞の読者の一人として南洋商報の今後の論調にも注目していきましょう。

華語新聞に関しては過去何度も論じた

中文メディア、とりわけ華語新聞に関してはこれまでの 「今週マレーシア」 においていくつかのコラムで扱いました。中でも 星洲日報の論調に関しては、2005年の第 428回 『華人界の日本批判はわかる、だが星州日報の報道姿勢には違和感を覚える』、同じく2005年 第 432回と第 433回の 『新聞各紙に載った国内外の反日ニュース・報道を振り返る -前編−及び−後編−』 で詳しく紹介し分析しました。あまりの一方的態度の報道なので、当時私は星洲日報批判兼我主張を綴った華語文の投書を南洋商報宛てに送りました。長い華語文を書くことなどほとんど初めての私としては、時間をかけて苦労して書いた(華人の友人に校正も依頼した)文章だったのですが、結果はやはり掲載されませんでした。

中国に顔を向けざるを得ない立場の華語新聞

華語新聞界全体として、その民族的、歴史的、文化的つながりのある中国に対して、親中国的姿勢を多かれ少なかれ取っているのはそれほど理解できないことではありませんから、反中国政府論調を大きく載せるべきだなどといったことは、私はこれっぽちも期待していません。しかし華語新聞界がジャーナリズムを名乗る以上、親中国政府姿勢の中にありながらもいくらかの批判的精神を示すのは責務だと思います。つまり全般として親中国的態度であるのは仕方ないが、要はその程度だと思うのです。問題によって是々非々主義的論調を時には期待したいものです。例えば、中国が近隣の小国に示す覇権的態度や国内での人権抑圧問題に対して、マレーシアの華語新聞は一体どれくらい批判しているのだろうか?毎日各紙を購読していない私は確証を持って断言できませんが、それでも私の読んできた限り、掲載されるのは極めて穏やかな批判かごく目立たない小さな記事での論調ですね。

マレーシアの華語新聞が西欧外電報道の転載だけでなく、独自の取材を含めて細かに中国と台湾のニュースを載せているのはいわば当然であり、その報道量は英語紙、マレーシア語紙のそれよりもはるかに多い。さらに、今や星洲グループと南洋グループの両華語メディアの所有者となった人物は、その華語新聞で何回も記事になっているように、中国へ多額の投資もしています。この人物は 「所有権と管理権限をたいへん明確にしており、星洲日報グループを所有しているが自身はその日常運営に関与していません、グループの専門家に運営を任せています。」 というスタイルだそうですが、これら諸般の現実を考えれば、自ずと南洋商報 の報道・論調姿勢は推測ができますね。ビジネス目的を妨げるような論調・姿勢を商業メディアがあえて取ることは、非常に考えづらいからです(もちろん世界には例外はありますが)。

マレーシアという国全体にとって、とりわけ貿易と投資の経済面及び受け入れ観光客面で、ますます最重要な存在となっている巨大中国は、中国人とマレーシア華人という民族的つながりの枠を超えて、マレーシア華人界に影響を強めています。華人皆が華語を理解するわけでもないし、華人界全てが中国に親しみを感じているとはいえない、ということを充分に承知し強調した上で、次ぎの言葉でこのコラムを結んでおきます:華語マスコミは中国に対して今後もその先導的役割を好むと好まずに関わらず担っていくことでしょう。

注:毎年の中国人のマレーシア観光訪問入国者総数は、すでに日本人のそれを抜いています。




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