・マレーシアとシンガポール間にある陸路国境検問所を利用して思った
・ある好奇心旺盛な読者の質問:出生届は容易か?ラブホテルはあるか?に答える
・Tudung 義務着用に対する、ムスリム記者と女性ムスリムグループの主張
・Sisters in Islam の最大の矛盾点と限界を指摘する ・オランウータンにもわかる小切手の話
・中国人”旅行者”は問題を起こしている、しかし中国人旅行者は緊要だ -前編- ・その後編
・Intraasia の雑文集 −2005年後半分から抜粋−
今年2005年は、マレーシアからシンガポールが分離独立した40周年です。当時マレーシアの一部であったシンガポールは、旧マラヤ連邦側と折り合いが合わず、シンガポールの指導者 Lee Kuan Yew は(旧マラヤ連邦を代表するともいえる)Tunk Abdul Rahman 首相 との話し合いのもと、シンガポール独立の道を選びました。時の指導者 Tunk Abdul Rahman 首相はあえてシンガポールをマレーシアから追い出す道を選んだという見方も強いようです。いずれにしろ、マレーシア側とシンガポール側はそれぞれ同時にシンガポール分離独立を発表したとのことです。それが 1965年8月9日です。シンガポールは以後その日を独立記念日としていますね。
なぜシンガポールはマレーシアから分離独立せざるをえなかったのか? 最大の理由は次ぎのようなものでしょう。
シンガポール指導者の掲げる ”マレーシア人のマレーシア” という理念が、マレーシア憲法が保証する ”マレー人の特権とマレー人の主権” という概念に合わないと、当時のマレーシアの指導層は捉えた」 とマレーシア理科大学の前・歴史学教授のCheah氏は説明しています。これは私もこれまで何回か目にしてきた通説であり、シンガポールとマレーシア関係を論ずる専門家の間ではこの点では一致しているようです。
マレーシアとシンガポールの一口歴史を紐解けば、それまで英国支配下にあったシンガポールと、1957年8月31日に独立を遂げたマラヤ連邦(半島部)と、さらにボルネオ島の非インドネシア領であるサバとサラワクの4者が集まって、それぞれ対等のような形でマレーシアという国を成立させました。それが1963年9月16日です。マレーシアは1963年に成立したというのは歴史的事実なのに、多くの人が誤って理解しています、というか誤るような理解を生ませているのですね。決して1957年8月末ではありませんよ。1957年はマラヤ連邦が独立した年であり、当時マレーシアという国はこの世にその具体的概念すら存在していません。(一部の指導者にはその青写真はあったようです)
こうしてマレーシアを成立させてから、わずか2年でシンガポールは分離独立しました。よって当時シンガポール生まれでマレーシアに暮らしていた人たち、マレーシア生まれでシンガポールで暮らしていた人たちの間では、国籍選択の試練があったとのことです。中には家族の間で、国籍選択が異なった人たちもありました。ただマレーシアとシンガポールは国交断絶のような状態では全くありませんでした、例えばマレーシア政府とシンガポール政府の共同でマレーシア・シンガポール航空が1966年に設立され、1972年まで運行を続けたという興味深い事実もあります。
その後シンガポールは目覚しい発展を遂げ、今では誰も発展途上国とは呼ばない、東南アジア随一の発展国であり、他の東南アジア諸国の追随を許していませんよね。国内至るところ清潔で安全で非常に整っており、いろんな面での効率の良さと汚職の完璧なまでのなさは、ほとんど東南アジアらしさを感じさせません(笑)。ただあらゆることに国家の管理を隅々までに行き渡らせている管理国家という面も誰も否定できないはずです。
なお私の個人的な嗜好を書けば、シンガポールの優れた諸面を十分評価しますが、いやそれだからこそ、東南アジアの中で住みたい地ではありません。シンガポールドルの強さを考慮した時単に仕事の地として短期間であれば住んでもいいですが、長期に渡って住みたいとはこれまでも思いませんでした。マレーシアの隣国に限れば、1 にタイに住みたい、2 にインドネシアですね。整い過ぎ、きれい過ぎ、安全過ぎ、効率良すぎ、狭すぎる、物価が高すぎる、一方的国家規則にうるさすぎる、英語に依存しすぎる、そういうシンガポールは私の好みではありません。もちろん、日本人にはシンガポール好きが多いことは知っていますよ。
さて、その独立40周年を迎えたシンガポールに、この10月中頃1泊で行って来ました。たまたま所用ができ、且つ旧友のシンガポール人にも会うことを兼ねて訪れたのです。マレーシアの隣国とはいえ、私にはこの10年ほどシンガポールに足を入れることはたいへん少なかった。私にはマレーシアの北の隣国タイの方がはるかに身近で興味ある存在ですので、タイへ中短期 10回訪れる間にシンガポールは1回ぐらいごく短期で訪れるという程度です。
クアラルンプールから乗ったマレー鉄道の列車がCauseway を渡ってシンガポール側に入り、ほどなくWoodlands の国境検問所で停車し、全員一時下車します。この場からシンガポールの優越さを、残念ながら感じざるをえません。鉄道用の検問所はシンプルだけど広くて明るくわかりやすい検問所です。豪華である必要などありません、要はこのこの3点が重要なのであり、マレー鉄道のシンガポール駅のマレーシア検問所に欠けているのは、この3点ですね。10年一日のごとく変わらないシンガポール駅の様子は、よく言えば昔を大事にする変わらない良さ、悪く言えば向上欲の欠如を感じます。
マレーシアの所有物である、マレー鉄道のシンガポール区間鉄路及びシンガポール駅は、マレーシアとシンガポール間で長年未解決のままである両国家の懸案事項の一つなので、この駅舎の一部である検問所などの改修に多額の金をかけるのは無駄使いになるとも言えます、しかしマレーシア国への玄関口である駅の一部と検問所をもう少し、”利用者にやさしい”造りに改善するぐらいは、必要ではないだろうか。
Causeway の手前にあるマレーシア側の出入国検問所の設備の古さと狭さは長年言われ続けてきました。もちろんマレーシア当局はこのことを知りすぎるほど知っているのですが、現在の場所ではあまり有効な手が打てそうにありません。そういうこともあって、マレーシアはCauseway海峡橋の架け替えを熱心に提案してきました。架け替えというのは現在の橋から至近距離の地点に別の海峡橋を新に建設するという意味です。そこでマレーシア政府はすでにその新Causeway橋の建設を睨んで、その新橋につながる場所に新しく、出入国管理施設全てを収容する大きなビルを建設中です。マレー鉄道ジョーホールバル駅の斜め背後にこの建設中の大きくモダンな建物が見えます。
しかし長年未解決のままである国家の懸案事項は依然として解決されていません。即ちこの新Causeway橋の建設と位置もその懸案事項の一つなのです。そのため新しい海峡橋の建設が計画されてからもうしばらくたったにも関わらず、マレーシア政府とシンガポール政府の間での同意がならず、計画は立ち止まっています。
シンガポール側の見方を知っていただくために、「新聞の記事から」で10月24日に載せた、シンガポール華語新聞の記事抜粋をここでも紹介しておきます。
以下記事
(シンガポールの新聞はこう伝える)マレーシアの計画している新海峡橋は建設費がシンガポールドルにして7億もかかりいささか高い、とシンガポール側はずっと思ってきた、シンガポール側にとってあまり良い点がない、なぜなら現在のCauseway橋は道路に加えて、鉄路、人の歩ける歩道、水道の送水管が設けられている、ところがマレーシア提案の新海峡橋には鉄路を作らず、人が歩いて渡ることもできなくなるのです。
シンガポール政府はすでに昨年10月マレーシア政府にこう伝えた、マレーシア側が一方的に橋のマレーシア側責任部分を建設するのはよくない、両国政府の一致した同意を得てから工事を進めなければならない、と。マレーシアの英語紙が、「両国政府はマレーシア提案の新橋提案に原則上同意した」 と伝えた報道は間違いである、シンガポール側は原則上同意などしていない、とシンガポール政府のスポークスマンは語りました。
以上
ということで、新Causeway橋の建設はどうなるんでしょうね、まだまだ明快な予想ができない状態です。両国間の未解決の懸案とは、この2つの他に、マレーシアがシンガポールに水道用の水を極めて安価に供給している件、シンガポールで働くマレーシア人がシンガポールの被雇用者基金に毎月収める納付金をシンガポール企業退職時に引き下せない件、シンガポール空軍の演習がマレーシア領空にかかる件、などがその主たるものです。
マレーシアとシンガポール間にかかる橋にはもう一つあり、1998年にオープンした、マレーシア側の Tanjung Kupang とシンガポール側のTuas を結ぶ通称 第2連絡橋です。この橋の位置がジョーホールバル市内からかなりの距離にあり、且つシンガポール側でも中心地からかなり外れた島の西南部分にあることから、日常の通行車両数はCausewayに比べて各段に少ない。よって新しく幅広い長さ2Kmほどの橋は常に過少利用状態にあると言われています。逆にいえば、気持ちよく通行できるわけです。
今回シンガポールを訪れた際、すっと渡りたいと思っていたこの第2連絡橋を遅まきながら渡ることことができました。というのも、クアラルンプールへ戻るバスに、この橋を通行するバス会社のバス便を利用したからです。車両が豪華な分Causeway経由のバスより運賃が多少高いのですが、目的のために多少の余分出費もいたし方ありません。乗ったバスの通行する橋は確かに快適に感じ、車窓からの海峡の眺めもなかなか素敵です。
さてここでも、シンガポール側の国境検問施設の広広とした立派さに感心しました。クアラルンプール行きバスが2社2台、ジョーホール州を観光訪問するらしき中国人団体客を載せた観光バス数台、ジョーホールバルとシンガポールのJurong地区を結ぶマレーシアの乗合バス1台が、このTuas にあるシンガポール出入国検問ビルで偶然いっしょになりました。きれいで無機的な感覚のする作りのビル内にある出国検査所は、カウンターの数が多く且つそれぞれがかなりの長い列もさばけるようにゆったりとしています。よってこの時私の乗ったバスとほぼ同時に出国検査場に足を踏み入れたこれらのバスの乗客の手続きも難なくこなしているかのように見えました。
シンガポール側を出て橋を渡ると、すぐマレーシア側の出入国検問所ビル(Imigresenのビル)前で各社のバスは停車し、乗客はビル内の入国検査所所に入ります。この検査所は狭く、出国検査カウンターにマレーシア人用と非マレーシア人用の案内がない、またはその案内表示が消えており、どの列に並んでよいのか迷います。且つ検査カウンター前に並ぶ場所が狭いので長い列が並びきれない、つい10分ほど前に通過したシンガポール側検査所の余裕ある広さとわかりやすさに比べて、これはいかにも見劣りします。よってシンガポール側では混んだ状況になかったのに、このマレーシア側では一転して混雑状況になってしまいました。
シンガポール側と同時期に作られたはずのマレーシア側国境検問施設なのに、こうも違いがあるのは解せません。Causeway のマレーシア側検問所が悪評紛々なのはその理由を知ればある程度理解はできますが、この第2連絡橋にある検問所が過少利用状態にもかかわらずすでにこういう状況を示していては情けないなあ、といささかがっかりしました。もう少し、出入国者の便宜を図る、検査の効率化を図る工夫が、なぜ建設デザイン当時にできなかったのだろうか。
こんな失望点を覚えて、国境検問所を後にしました。橋を渡ってから本線である半島部南北縦断ハイウエーに達するまでは、数十キロのハイウエー支線走行です。バスの車窓から見える広広とした風景を眺めながら、ちまちまとしたシンガポール風景との違いに喜びを感じると共に、訪れた今年が偶然マレーシアから離脱40周年であることから、40年前当時はマレーシアとシンガポールの風景に現われた違いはどんなであったのだろうか、と思いを馳せたのでした。
最近のコラム 第449回で 『DBKL、MPPP といった自治体名と略称を解説します』 と題して、マレーシアの地方自治体の意味、名前などの解説を書きました。こういった話題は旅行や文化関係書籍ではまず書かれないことでしょうから、ほとんどの方にとって目新しいことかもしれませんね。さらに最近 「新聞の記事から」 で新身分証明証 MyKad にまつわるニュースを数回載せています。これも日本人には馴染みない話題でしょうが、マレーシア国民には極めて身近で重要な話題です。
そんな時、お馴染みの茶ウエ(喫茶モノローグのアンティ・ウエートレスの自称)から、これらの件にまつわる質問を受けました。以下はその抜粋です:
「国家登録庁の出先機関って どれぐらいの面積(エリア)毎に置かれているのでしょう? (茶ウエの住む)##市でしたら全部で7箇所 出生届が出せます。サバ州の山間部 も そうでしょうが、シパダンの入り口 タワウのあたりの 小島なんか出生届を出せるところがあるのでしょうか? 泊りがけで行かないと出せない なんて いったらめんどーー ま いっか って ならないのでしょうか? ま ここで 親がさぼったら 子供は学校に行けなくなってしまうのですから どんなに大変でも届は出しに行くのでしょうが。」
多くの読者の方にも知識を得てもらう機会になる良い質問ですので、ここで紹介してお答えしておきましょう。
まず前回のコラムで説明しましたように、マレーシアの自治体には住民登録という制度自体が存在しません。その代わり、全ての国民は国家登録庁 (Jabatan Pendaftaran Negara Malaysia 略称JPN)に登録して、身分証を携帯する義務があります。その前提として、親は子供が生まれたら、出生証明書を添えて国家登録庁に赴いてその子供を国民登録します。
そこで国家登録法には概ね次ぎのようなことが定めてあります:
つまりこの18才になった時に交換して入手する、ICチップを埋め込んだ新身分証明証、つまり大人全員が携帯する新しい身分証明証が MyKad なのです。そこで現在大人用の旧身分証明証をまだ MyKad に替えていない人は、今年末までに必ず交換しなさい、というのが政府の命令です。
尚12才になった子供が入手する、新しい形式(つまりICチップを埋め込んだ)の子供用身分証明証も MyKad と呼ばれるそうです。ただその場合でも JPN の説明では、18才になれば大人用の身分証明証に替える必要がある、と読めます。
これとは別に MyKid という証明証があります。これは12才未満の子供のための写真も貼らないごく簡単化した証明証です。
さてその役所 国家登録庁は、次ぎのような権限を与えられています:
そこでこれら6つのたいへん重要な権限を持った国の役所である、国家登録庁JPN はどれくらい木目細かく国内に設置されているのでしょうか?茶ウエの質問を受けるまで、私も漠然と各州には複数箇所あるとしか知りませんでしたので、早速 国家登録庁JPN のホームページ (www.jpn.gov.my )を開いて調べてみました。全国に約220箇所あるそうです、全州で州別の箇所数を数えるのはちょっと面倒でしたので、それははしょって4州だけ数えました:サバ州 27支所・出張所、 サラワク州 50支所・出張所、 クアラルンプール 5支所・出張所、 ペナン州 7支所・出張所
クアラルンプールの5箇所はその人口の多さ約150万人に比して多いとまではいえないでしょうが、まあ交通網の発達した都会ですから、その支所・出張所に赴くのは難しいことではないですね。ペナン州全体で7支所・出張所というのは、茶ウエの住む市の7箇所に比べれば明らかに少ないといえます、居住場所によっては、役所への往復だけで半日仕事になる可能性もありますね。そこで問題の、山間僻地が圧倒的に多いサラワク州とサバ州です。とりわけ半島部全体よりやや小さい面積という広大なサラワク州全体で、50箇所は数として多そうに見えても、実際は極めて目の粗い配置ですね。
ボルネオのジャングル奥深く生活するいくつかの先住民族の中には、小さな町に出るだけで1日ぐらいボートで川を下ったり、歩いたりする必要がある場所に住んでいる人の少なくないことがしばしば話題になります。例えば舗装した道路を車で6時間ではなく、川を下るボートや徒歩で6時間という僻地の場合、出生、死亡、結婚などの届け出は確かに考えるだけでも骨折り仕事でしょう。サラワク州全体で50箇所ということは、間違いなくこういった1日がかりの仕事になる僻地が数多く存在するということです。
4、5年に1回行われる国政と州議会選挙の際、サラワク州では有権者をいかに投票所に運ぶかが州政府と選挙委員会の大きな課題だそうです。場所によっては、州政府提供のヘリコプターさえ使われます。その選挙の投票所は国家登録庁の50支所・出張所の数より何倍も多いのに、それほどたいへんです。よって出生、死亡、結婚などの届け出のたいへんさは、想像できますね。
マレーシアの住民登録が国民登録という制度なので、役所はあくまでの自治体のそれではなく、国の役所の支所・出張所となることも、木目の粗さの一つの理由といえるかもしれませんね。つまり国の役所なので木目細かさにも限度がある。いずれにしろ、出生、死亡、結婚などの届け出の容易さに関しては、都会と地方と田舎と僻地の間には、とてつもないほどの違いがあるということです。
「めんどーー ま いっか」 なんていう意識の人は、現代世界では例えそう望まなくても疎外された世界に追いやられてしまうことは否定できないでしょう。
11月9日の「新聞の記事から」で 『恒例のセックス傾向調査の結果です』 と題した記事を載せました。まずご覧ください。
するとまたまた喫茶モノローグの茶ウエが、今度は嬉々とした調子で感想と質問を送って来ました。前回(上記に掲げたもの)に続いて、内容の一部はなかなか良い質問です。従業員の質問に答える義務のあるマスターとして、さらに多分この種の疑問をお持ちの方は少なくないと思いますので皆さんの参考のためにも(笑)、ここでお答えしておきましょう。
茶ウエの質問から抜粋 (そのまま引用):
「 マレーシアにラブホテル ってあるのですか? 見たことない気はしますが ラブホのない国なんて ないですよね 海岸 10% と同じくらいは あってもよさそうなもんですが...」
まずラブホテルとは何かを明確にしておかねばならないでしょう。ホテルとラブホテルの区別は、日本での場合であれば、主として外観と内装・内部の作りとチェックイン・アウト規則の違い及び名前の付け方から、相当程度できますよね。しかし一般的なホテル・旅館をラブホテル替わりに使う人だって一杯いることは間違いないし、一般的なホテル・旅館側が客一般に対して、当ホテルをラブホテル替わりに使わないでください、ということはまずないでしょう。もちろん、商売目的の女性の同伴は禁じます、などといった注意書きはありますね。
所詮ホテルは高級ホテルであれ安ホテルであれ、男と女が泊まる場所である以上(同性愛はこの場では論じない)、”ラブ”ホテルの要素は性質として持っています。
でマレーシアでは、ホテルとラブホテルの区別はあるのかです。ないといえばない、あるといえばあると言えます。なぜなら、
建前を極めて重んじるマレーシアでは、外観と内装・内部の作り の面で、いかにもラブ目的というようなことは、当然許されません。自治体は建物の設計図で建築承認し、完成時に検査しますので、承認、検査の両面でチェックはかけられます。もちろん後日内部を秘密裏に改装することは可能でしょう。実際、違法滞在の外国人売春婦を囲っている、一部のカラオケクラブなどは内部を違法に改造して秘密の部屋・隠しコーナーを作っていたケースが時々報道されています。さらに消防署も建物の検査機関です。
そのホテルの名前の付け方で、いかにも ”ラブの場” というような命名はこれまた不可能です。全てのビジネスに共通ですが、建物の一部に付属したまたは外側に掛けた看板を出す時に、規定上自治体の認証と料金払いが必要なので、その面でも”ラブの場”を示すような看板類は、自治体の窓口でストップがかけられてしまいます。
さらにこれは非常に大きな力です。いくつかの障害を乗り越えていかにも”ラブの場” というような建物を建設したとしても、近辺の住民から間違いなく反対が起り、とりわけ宗教的背景を持った保守的な層からの声を受けて、政治的圧力がかけられます。営業続行はまず無理でしょう。
よって上記の4要素から見た時ラブホテルは存在しません。しかし実質的なラブホテルは少なからず存在します。
その特徴をあげていきます:
1.ホテルの作りは高級なイメージでも豪華な作りでもない、安っぽい作りです。古くからある伝統的ラブホテル(?)の場合は 旅社タイプ です。つまり通常の旅社と見かけは変わらないが、入り口付近やフロントあたりにそれらしき女性がうろついていることが多い。全てのラブホテルが古いということではなく、安っぽいが新しい建物もあります。
2.地域としては伝統的華人地区、複数民族混在地区、一般商業と一部住宅混在地区である。当然ながら高級地区にはないし、ありえない。
3.その場所が、1等地のような場所にはない。2等地、それ以下の場所が多い、ただ中には1等半ともいえるような場所にあるラブホテルもある。時々、2等地のなぜこんなわかりにくい所にホテルがあるの? と意外に思える場所にある。または伝統的歓楽街またはその近辺の場所にあって、よく人目につく場所にもある(その場合は古い旅社タイプまたは安宿が多い)。
例:クアラルンプールのチャイナタウンの外れにある古い旅社、クアラルンプールのチョーキットのHaji Taib界隈の一画、クアラルンプールのブリックフィールド界隈の安宿、ペナンで外国人バックパッカ−の多いことで知られているChulia通りにあるごく少数の古い旅社、など
4.ホテル名として、ごく普通のホテルらしい名前を付けている場合もあるし、数字の連続 (例は省略) などという場合もある。この数字名ホテルはラブホテルの可能性が強いともいえるかもしれません(その全てがラブホテルだとは断定しませんよ)。余談だが、タイでは皆が周知しているラブホテル にはこの数字名をつけた所が多い。文化上の違いから、タイはこの種の施設に許容度が高いですね。
5.料金体系において、1時間、3時間、半日などの料金が提示されたり、暗黙になっている。つまり泊まりを前提にしてない場合が多い(泊まりたければ泊まっても構わない)
6.上記で触れた、入り口やフロント付近にその種の女性と思われる女性が待機しているホテルがある。この場合はほぼ全て古い旅社に限られる。
7.思いがけない場所や不便な場所にあり、一見普通の安ホテル(Rumah Tumpangan 宿泊所 と書かれている場合が少なくない)に見える、しかし実質はラブホテルの可能性が高いホテルがある。ただしこの種の安ホテルの中には外国人労働者など向けと思われるホテルもあるので、この要素だけで断定はできません。
この種の安ホテルでまずラブ目的の客主体だろうと推定できるのは、若い女性を車で”配送”している現場を目撃する時です。乗用車が安ホテルの入り口で1人または複数の若い女性を下したり、女性だけがホテルから出てきてすぐ乗用車に乗り、どこかへ去っていきます。売春組織はこの種の手法を使う、つまり取締りを逃れるために安ホテル自体を根城にしません。(私の地区にはかつてクアラルンプール有数の組織が本拠を置いていたので、女性をいずこへと運んで行く乗用車による配送はお馴染みの光景でした。)
8.クアラルンプール、ジョージタウン、ジョーホールバルのような大都市だけでなく、中程度の町にも、ラブホテルと推測されるホテルはある。例えばしばらく前のこと、北部州のある中規模な町で宿探ししていた私は、バスターミナルのすぐ近くの安宿に尋ねに入った。フロントには複数の時間料金が掲げられており、昼下がりにも関わらずいかにも夫婦でなさそうなカップルが出入りしていた。(ホテルの部屋は見せてもらったところ典型的な安宿作りでした、が結局泊まらなかった。)
以上は、マレーシアにおける 普通のホテルとは言い難い非・日本風ラブホテルであるラブホテル(ややこやしい表現ですな) の特徴及び分類でした。
尚ホテルではなく住宅街の家で組織が秘密裏にことを行っている例が、時に警察の捜査で暴かれますが、これはラブホテルとは言えませんね。
こういったことから、マレーシアのラブホテルは、部屋内でアダルトVCDを放映する、透明浴室を作りつける、回転ベッドを設置するなどといった、本格的ラブホテルとして堂々と営業することは不可能です。まあ目立たずアダルトVCD装置を置いておくぐらいはあるかもしれないと推測します。結論として言えば、マレーシアの実質ラブホテルは、たいへんシンプルな内部・内装で、遊び心のない作りの部屋だと、推定しても間違いないはずです。セックスを楽しむための大衆通俗文化と施設をマレーシア社会では宣伝・発揚できないし、建前上は公認されないのです。
ところで茶ウエは ”ベッド(寝室)以外でセックスする場所: トイレ 44% ” の人たちを思いやってこう書いています:
「車 仕事場 公園 海岸 ってのは理解ですが トイレ ってのは なんとまぁ ムリな体勢(でしょ?)で 皆さん がんばってるのですね」
返答者の 44%もが 「トイレで」 と答えたその理由は、料金は決して高くはないが手軽に利用できるラブホテル、同伴喫茶などが十分にない、例え近くにあってもマレーシア文化面から気軽に利用とはとても言える存在ではない、からでしょう。よって、恐らくどこにでも身近にあるトイレが、場所は選ぶとしても、代替の手軽な密室ということかもしれませんね。
ラブホテルの説明と見つけ方は詳しく書きましたから、好奇心旺盛な読者の方がもしいらっしゃいましたらこれを参考にしていただいて、次回のマレーシア旅行で友人、知人、配偶者と入ったラブホテル訪問報告を期待しておきましょう。
はじめに、10月26日の 「新聞の記事から」 に掲載したものを再録します。
私はこの記事に関してその時つぎのようなコメントを付けました:
11月に入ってハリラヤ明けに、政府はその姿勢を多少修正して、この件で(つまり上記の件で)非ムスリム女子学生にTudung着用を義務付ける必要はない、という声明を発表しました。この問題は非ムスリムのTudung 着用義務付けという点だけを捉えて論じれば、特に複雑な問題ではないはずです。なぜなら、多民族・複数宗教国家のマレーシアでは、互いの宗教に関与しない、他宗教には敬意を持って接するという不文律があるので、非ムスリムにTudung を義務的に着用させるのはちょっとおかしいということになりえます。よって政府も、非ムスリムコミュニティーとりわけ華人コミュニティーからの不服を、比較的困難なく受け入れることができた、と推測できます。もちろん、最初国際イスラム教大学でこの指示を決めたような一部のイスラム主義者にとっては、政府の決定は不満なことに違いありませんね。
マレーシアのムスリム社会において、Tudung は女性の頭髪だけを隠す単なるスカーフではありません、日本語訳、英語訳などしてこれをスカーフなどと訳すと、本来の単語の持つ意味合いが変わってしまいます。そのまま使うのが適切です。さらにTudung は顔の前面をすっぽり覆ってしまういわゆるベール、チャドルとも違います。
マレーシアのムスリム社会では、単なるスカーフとTudung には厳然たる違いがこめられており、Tudung がスカーフの替わりにはなり得ても、スカーフがTudung の替わりになれない場合がよくあります。
ではこのTudung 義務着用問題を論じた、マレー人記者 Shamsul Akmar の論を紹介します。その記事に付けられたごく短い紹介文によれば、この人物は政治的な面でのイスラム教、マレー政界などを論ずるベテランジャーナリストとのことです。以下記事から抜粋:
実際Tudung の件は様々な様相を取り、捻じ曲がり、流れが展開し、その道を歩いて来た者を引きずってきました。
従がって、国際イスラム教大学が、卒業式の時に非ムスリムの女学生にTudung またはスカーフ着用を義務付けていることに関して、非マレーコミュニティーから疑いの目で見られていることは、驚くことではありません。この着用義務は宗教的なものなのか、それとも国際イスラム教大学が当初から決めた特別の服装規定なのか、が問題です。もしその規定が最初からあったものであれば、国際イスラム教大学で学ぼうとする者はその規定が受け入れられるかを考慮したことでしょう。もしこの規定が最近決められたのであれば、(その決定後)この規定を知って入学してきた学生だけに適用されるべきです。
国際イスラム教大学で起こった問題は氷山の一角であり、公衆の論議になることが期待されます。なぜならこの件はこの服装規定の動機に疑問の目を抱いている非ムスリムを巻き込んでいるからです。
現実としてより大きな問題は、政府がこのTudung の件でどういう立場に立つかです。公務員にTudung 着用を義務つけるのは政府の政策ではありません、しかし中にはムスリムの部下に着用を強制する者がいます。たくさんあるケースの中で、いくばくかの学校の教師が最悪になります。彼ら彼女らはまだ宗教的信念を確立させていない子供たちを損なっています。
その最悪の立場に置かれるのは、子供がTudung を着用する、しないについては子供の判断に任せるという思考を持ったムスリム親の子供です、こういう子供たちは圧力を凝視していることに耐えられず、Tudung を着用しない親を恥ずかしいと思うようになります。こうした状況から子供たちが得る価値観は決して崇高なものではありません。
イスラム教当局はこの問題にだんまりを決めこんで、やがて話題が消えて行くのを待っています。この問題について発言するのは、どちらの立場に立とうと政治的災害となります。 与党UMNOがTudung着用を支持すれば、非ムスリムとあまり正統派ではないムスリムからの支持は減るでしょう。しかし同党が着用に反対すればイスラム教主義者からの怒りを買うでしょう。
Tudung着用論争の始まりを考えれば1980年代初期と言っても間違いではないでしょう。この時期はイスラム教革命である1979年のイラン革命によって画期となりました。この革命はマレーシアのムスリムにも多大の想像力をもたらしました。イラン革命によって新政府がイスラム教的政策に固執した時、マレーシアのイスラム教運動は政府にイランと同じようにと要求しました。そういう人たち自身がイスラム教的服装と呼ぶ物を身につけ始めた、男性はターバンとすその長い服、女性はTudung とチャドルに似た丈の長い服装です。
ムスリム女子学生の中には身体を頭から足の先まで覆ってしまい、それが基で大学から追い出されたものがいる。まもなくその種のイスラム教的服装は批判にさらされた。
しかし、イスラム復興といわれる潮流は残った。その敬神を実質ではなく様式を通して表現するマレー人ムスリムがますます増えてきた。マレー人の生活スタイルが変わった、ある点ではマレー文化的慣習までも捨てました。1980年代の中頃まで、つまりイラン革命から6年後までのマレーシアにおけるイスラム教復古は、Tudung着用したマレー女性が、高等教育機間では少数派であったのから多数派に変わってしまった。
公務員の世界でも同じ流れが進行していた。80年代の終り頃までには、Tudung着用が定着したことが明らかになった。その時までに、多くの支持者を背景に、イスラム教主義者はマレーシアの統治機構、行政機構、政策などにより広範囲な改革を要求し始めていた。マレーシアの行政機構で包括的な変化が起るのを止めたのは、与党連合Barisan Nasional の掲げる権力共有という概念でした。この概念は複数民族の共存に相応の考慮を払っていました。
野党のPAS党はそのイスラム教性を保証し権威を持っていることを売り込むために、こういった件を利用しただけではなく、UMNO党のイスラム教的言質を傷つけました。1990年代が終る頃、(それまで治めていた)クランタン州に続いてトレンガヌ州がPAS党の支配化に入りました。UMNO はPAS と同じくらいイスラム教に傾倒していることを証明する圧力にさらされたのです。これがUMNO党 とPAS党の間におけるイスラム教的に相手党よりも1歩先を行っていることの始まりでした。この時までに、イスラム教はマレー人界の故郷で単に政治化された問題だけではなくなり、都市部の場にも及んでいました。
中略
ある程度まで、UMNO もその形式において変わりました。UMNOの女性たちも公の催しに参加する際、Tudung を、または最低限Selendang を、身につけ始めました。 Tudung は、どちらの党にとってもその宗教的資格証明を発揮するために 引き続き確とした対象になっていくでしょう。
マレーシアのイスラム教運動のあり方を観察する者にとっては大いに参考になる解説です。そしてその記述には、「なるほど、やはりな」 という点があります。マレーシアの数十年前を知る世代のマレーシア人に尋ねれば、1970年代、60年代はムスリム女性のTudung着用は現在よりはるかに少なかった、という返事が返ってくるはずです。1970年代、60年代を多く撮っている、P. Ramlee の映画を見ていると気がつくのは、マレー社会の描かれ方の違いであり、それはTudung姿ではないマレー女性の服装からも感じられますね。
次ぎに、このTudung着用問題に関して、よく知られたムスリム女性グループであるSisters in Islam が新聞に発表した声明からです(11月15日付け The Star紙)。女性問題を中心に主張し、活動的で知的であり、且つそのリベラルな観点が特徴である Sisters in Islam については、「新聞の記事から」では何回も取り上げ、当コラムでも過去数回その論を詳しく紹介したことがありますよ。
以下その声明の全訳です。
マレーシア人大学生にTudung を着用させることに関する件で相反する報道があったことを、Sisters in Islamは懸念します。どのような政府組織と公機間も、女性が頭部を覆うようにまたは覆わないようにと強制されることになる服装に関しては法定化すべきではない、と我々は強く信じます。我々の理解するところでは、大学の服装規定は宗教的論点ではなく大学が決定できる権利の範囲に含まれるものである、とマレーシア国際イスラム教大学当局が述べました。Sisters in Islam はこれを正当化する言には多くの理由から弱点があると思います。
第1に、この服装規定は宗教的論点ではないという主張は問題を含んでいます。実際、人の頭髪を覆う行為は確実に多くのムスリム女性にとっては宗教的注意を払った行為なのです。Sisters in Islamは宗教事象においては強制があってはいけないといういう立場を保持します。よって、ムスリムのためにTudung 着用を、非ムスリムのためにスカーフの着用を、服装規定として制定しながら、一方でそれは宗教的論点ではないと言い張るのは、人の頭髪を覆う背景を知らないということに等しいのです。人の頭髪を覆う件は、大いに政治的、個人のアイデンティティー、信心を問題とするのです。
第2に、マレーシアの大学生の状況と、しばらく前に公の教育機間でムスリム女性がhijab を着用することを禁じたフランスの状況との類似点に注目していただきたいと考えます。この件においては、フランス政府の禁止処置に対してSisters in Islamはすでに反対を表明しました、なぜならフランス人ムスリム女性の権利と宗教的自由を侵害するからです。
人の頭部を覆う、覆わないということは個人の至高の選択であり、どのような口実であれ外部の人的権威筋による選択ではないという点が重要です。
第3に、非ムスリム女性はTudung を着用する必要はないが、スカーフを着用しなさいと定めたマレーシア国際イスラム教大学服装規定に従がわねばならないというのは、単なる語義上のことであると言えます。ムスリム女性の間でさえ、Tudungの着用スタイルには種種の違いが見られます、そしてムスリム女性のTudung と非ムスリム女性のスカーフの間で区別するのは、外部の人的権限によって服装を支配されたくない女性の不満を無視していることです。
第4に、マレーシア国際イスラム教大学は、その非ムスリムに対する服装規定はこの問題が脚光を浴びる以前にはなんらの反対もなかった、と述べています。大学当局の断定の影にある、その正直さと裏に潜んだ憶測 に疑問を呈します。マレーシア国際イスラム教大学の服装規定は以前非ムスリムによって挑戦を受けたのです。
さらに、マレーシアではイスラム教に関する論議を取り巻く状況は、少数派である非ムスリムにとってはごくわずかの選択しかありません。民族的または宗教的に少数派の見方を払いのけていては、さらには多数派であるムスリム内にある違った見方さえ払いのけていては、自ら宣言している複数民族且つ複数宗教社会にはなれません。鍵になる点は、我々は複数から成る社会という多様性に敬意を払い、それを喜んで受け入れなければならないということです。
第5に、当局が国内の大学と高等教育機間にかけられた圧力の影響を無視しないことを、Sisters in Islamは希望します。女性にその頭部を覆うように、または覆わないようにという、いろんなグループによる圧力がはびこり、それが抑制されなければ、女子学生の権利を守る政策は意味のないものになります。
この件に関して様々な背景を持ったマレーシア人がそれぞれの考えを表明したという事実を、Sisters in Islamは拍手喝采するものです。
ある名声ある、古典期のムスリム法学者はこう語った、「意見の多様性はアラーの神の人類への贈り物です。」 クルアーンにも断定的にこう書書かれています、「宗教に強制はあってはならない。」 (Surah al-Baqarah 2:256)
このような気配りのある原則が、女性の服装を問題を含めて公衆の生活の全ての面に適用されることを、Sisters in Islamは希望します。
以上
マレー人ジャーナリストとSisters in Islam の両者の論から明らかなように、最上段に私が書いた、Tudung は単なる制服の1種ではないことは当然且つ常識ですね。 これに関してだけは、伝統的というか保守的イスラム教徒も同様の見方ですね。
マレーシアのムスリム界には、ムスリム女性はTudung を着用しなければならない、という伝統的主張・解釈は根強く且つ多いようであり、ここであえて紹介するするほど目新しい論でありません。いくらでも聞かれるこの主張・解釈を少しだけ紹介しておけば:
Sisters in Islam は判断を間違えている。Tudung問題は明確に宗教事象であります。クルアーン(コーランのこと)にははっきりと、公衆の前に出る時は全てのムスリム娘と女性は頭部を覆わなければならない、ただ手首と顔だけは覆わなくてもよい、と書かれています。クルアーンに書かれている故に、それは神の法です。ムスリムと認識する全ての思春期に達した娘と女性は完全にこれに従がわねばならない。この意味において、Tudung を着用するのは個人の選択であるというのは間違いです。
人間であることから、相変わらず、ムスリム娘と女性の中にはいろんな理由を述べてこの神の法に従がわない者がいます。 極端な場合、彼女たちは腹部、背中、胸の一部、肩、腕、脚、を好んで露出する者さえいます。一方Tudung を着用しない者の中には単に知らないからという人もいます。
こういう女性に対する私の忠告は、神の許しを乞い、アラーの神の名の下イスラム教的な方法で(身体、頭部などを)覆いなさい、ということです。
以上は、Hussaini Abdul Karim という人の投書 (11月19日 The Star紙) から抜粋でした。
Tudung は極めてイスラム教的特徴を内在しているのであり、だからこそ政府のような立場に立つ側はTudung 論議を続けたくないようであり、さらにその論議は続けても終りがないかのように感じられます。
Tudung着用に関する Sisters in Islamの主張は確かに、そのリベラルなイスラム教理解と実践にふさわしいものと言えます。よって部外者であっても、私は心情的に応援したい気持があります。しかし、その論を細かに見ていけば西欧的宗教論と違うのは明らかであり、且つ筆者のような絶対無宗教者の立場とは永久に相容れない重要な差異点も含んでいます。これに関しては、次回のコラムで詳細に論じます。
このコラムの大部分は1年半ぐらい前に書きあげたものですが、私としては珍しくイスラム教に正面から触れたこともあって掲載する良い機会が見つからず、しまっておいたものです。先週掲載のコラムが、Tudung 及びSisters in Islamに直接関係したコラムであったことから、そのコラム内容に密接に関係する この一文を多少校正・追加して今週のコラムとして掲載することにしました。
Sisters in Islam は何年も前から、ムスリム女性のために且つムスリム女性のあるべき地位と権利の向上に、発言し行動しているグループというのが一般的な捉え方ですね。メンバー自体はごく少数のマレーシア人ムスリム女性から構成されるだけだそうで、いわゆる大衆団体ではありません。しかしそれにもかかわらずというかそれゆえにというべきか、絶対無宗教者である私も含めて非ムスリムの目からは、保守的なイスラム界で異彩を放っているように見えます。
私はSisters in Islam の捉えるイスラム教観そのものに同意するとか支持するということではなく(イスラム教自体に深い知識を持っているわけではないので所詮それは無理)、本来の権利を奪われたまたは知らされていないムスリム女性の地位向上と現状改革に寄与する、献身するというその活動に共感を覚え、支持する気持ちを感じてきました。だからSisters in Islamに敬意を表する気持ちを込めて、この「今週のマレーシア」でも数回彼女たちの主張紹介を書いてきました。最近では2004年2月16日の 「新聞の記事から」で載せた記事 ”Sisters in Islamの相談所” もその一つの現れであります。
さて説明的前書きはこれぐらいにして、本題に入ります。今年(2004年)2月16日付けのStar紙の投稿ページに、Sisters in Islamの署名投稿が掲載されていました。何の気なく読んでいると、フランスで話題になっているフランスのムスリム女子学生の公立学校でのスカーフ着用問題に触れたものです。私はマレーシアのイスラム教に直接触れた問題を、紹介の意味でとりあげることはあっても正面から論評するつもりはないし、これまでも避けてきました。理由は、イスラム教そのものは私の興味ごとの一つではあっても探求の対象ではないこと、且つイスラム教に触れてもいいがそれを非難する、貶めることは禁止されているマレーシアに私自身がいるということです(非難の意図なく単に批評しても、それが悪意を持った批判と受け取られかねない状況では、おいそれと批評できない)。
この投稿でSisters in Islamが批判しているのはフランスであり、ひろい意味での西欧思想とイスラム思想に関したものです。直接マレーシアのイスラム教を対象にしているわけではありません。ちょうどいい機会です、絶対無宗教主義者としての筆者の感じるSisters in Islamへの最大の疑問点且つ彼女たちの限界を書いておきます。
以下は投稿を翻訳したもの:
Hijabに対する抑圧のシンボルとして捉える西欧の妄想と、(その同じ)hijab に対する信心深さのシンボルとしてとらえるムスリム社会の妄想は、両方とも誤った導きを引き起こし、誤った価値を授けている。
フランスの学校でムスリム女性の頭のスカーフとその他これみよがしの宗教シンボルを禁止することで、フランスは自由と平等と博愛におけるその基本的信念の土台を崩しています。
公的場所であれ私的場であれ、ある人の宗教において、個人としてまたは集団として教え、実行し、崇拝する、従がう自由というのは、世界人権宣言で確認している基本的権利です。この自由が法によって制限されるのは、他人の権利を尊重する場合、及び民主国家において倫理性や公共の秩序や一般福祉の必要要件に合致する場合のみです。宗教的自由の表現を制限することにおいて、フランスは目に見える宗教シンボルを身につけることが他人の権利に影響を及ぼすまたは公共の倫理性、秩序、福祉にいかに負のインパクトを及ぼすのかを明らかに示していません。
Sisters in Islamはどんな政府であれ服装に法定を設けることに反対します、それが女性に頭を覆いなさいということであれ覆ってはいけないということであれです。宗教の自由に不正義に制限を加えている としてフランスの法律に反対する者は、その同じ原則を適用して、公共の場でhijab 着用を義務付けている2つの国:サウジアラビアとイラン の法律にも抗議しなければなりませんし、公共的機間ではhijab を身につけていけないと定めているトルコに対しても同様です。
認識されなければならないことは、女性の頭に着用された布切れに関する議論と妄想は、あまり宗教信条と信心深さについてではなく、政治と主体性についてのそれだという事実なのです。米国大統領ブッシュは抑圧されたアフガン女性を開放するという名目で、アフガニスタンの戦争を正当化しました。そこではアフガン女性の着用しているburqa は服従させられたムスリム女性の究極的シンボルを示すということでした。
しかし今日我我が知るのは、アフガニスタンは立憲的民主主義に向かってゆっくりと向かっている中で、アフガン女性の平等な生活、正義、自由、尊厳さというのは、ブッシュ政権であれ国連であれカブールの暫定政権であれ、彼らの最優先課題ではないということです。イラン革命から25年たって、イラン女性は宗教当局に対して、着用義務付けられたスカーフから頭髪の前部と後部をできるだけ覗かせることで、反抗の意を示しています。
一部省略
独裁的イラン皇帝の支配に対して、何千人ものイラン女性が抗議のシンボルとしての hijab を身につけた過去のように、現在では何千人ものイラン女性は、約束されたような正義と自由と繁栄の生活をもたらしていない聖職者に対して抗議するために、hijab 義務着用に反抗を示している。
ムスリム女性の中にはhijab が彼女たちの宗教信条を表現する象徴だと捉えている人たちがいます。さらに、自分たちの周囲を取り巻く非ムスリム環境下においてはhijabはムスリムである主体性の象徴だと捉えている人々もいます。そして多くのムスリムにとっては、hijabは覇権主義的な西欧または抑圧的政権に対する抵抗の象徴なのです。
保守的な家庭出身の女性の多くにとって、 hijabは彼女たちが公共の場所に足を踏み入れられることを許可している衣装なのです、つまりhijabがあれば安全でイスラム的と見なされるのです。
西欧は今日hijabを身につけた女性を国家の安全なり国民統合の脅威であると見なしている、または後進性の、宗教的信心深さの象徴と見なしている、そのため闘争主義が再び、ムスリム世界の意味と象徴と経験の多様性を誤解していることになる。
1枚のコインの表と裏の関係として、イスラム教の遺産を誤解して女性をイスラム教唯一の無垢な意味を代表していると見なしているムスリムがいます、”良い”ムスリム女性というこの定義が合法性を得たのは、それが唯一のありえる解釈ということからではなく、それが政治的に力を得た解釈ということからです。その政治的力を持った者は他人を異端と宣言できる権力を持っていました。
以上で翻訳終り
「Sisters in Islamはどんな政府であれ服装に法定を設けることに反対します」 と主張する、確かにこれには同意します。それは服装は個人の自由選択であるという前提に私も立つからです。ところで、ある種の宗教には有言無言の規定なり掟が存在し、世界には宗教的権威が政府を凌駕するような国、地域が少なからず存在することを我我は知っています。その時、Sisters in Islam がある政府の服装法定に反対する姿勢は評価しつつも、「その同じ原則を適用して、公共の場でhijab 着用を義務付けている2つの国:サウジアラビアとイラン の法律にも抗議しなければなりません」 ではいかにも不充分だといえます。
では例えば日本や韓国や台湾のような伝統的非イスラム国で、ムスリム女性徒が単なるスカーフ程度でなく veil や hijab 姿で登校し、ある種の授業は彼女の信ずる宗教に反すると拒否した場合、相当なる確率でこの要求は学校側にも教師側にもPTAにも他の生徒の目にも受けいられないでしょう。当然ながらその主張と行動は、場となる伝統的非イスラム国の慣習と許容度と歴史的伝統に比べてあまりにも差があるからです。これはSisters in Islamが言うような、「今日hijabを身につけた女性を国民統合の脅威であると見なしている」のではなく、人々の自然な感情としてあまりにも周囲との違和感が大きいからです。もちろん為政者の中には及び一部の民衆にも、「国民統合の脅威であると見なしている」 人がいることを私は否定しませんが、民衆の素直な感覚からそれは違和感がありすぎるのです。
この時 Sisters in Islamは書いている、「この自由が法によって制限されるのは、(省略)及び民主国家において倫理性や公共の秩序や一般福祉の必要要件に合致する場合のみです。」 と。公共の秩序の内容はある国ある地域によって大きく違うのは事実ですね。だから伝統的非イスラム国で捉える公共の秩序と伝統的イスラム国で捉える倫理性や公共の秩序には当然差が出てきます。公共の秩序の維持を名目として自由の制限が行われているのは世界至るところでありますから、これを金科玉条とすることに私は強く反対しますが、といって各国各地域における差を無視して考えることは、世界が全く垣根のない平坦な一つの世界にならない限り極めて非現実的です。
Sisters in Islamは、伝統的非ムスリム国家において学校内でveil や hijab を着用するムスリム女性のケースを論じていませんので、断定はできませんが、スカーフ着用を禁ずるフランスの立場を批判するSisters in Islamの論を援用すれば、宗教的自由を迫害しているとなるはずです。伝統的非イスラム国の民衆の中には、veil や hijab 姿に強い違和感を覚えても頭髪を隠す程度のスカーフは許容範囲であると感じる人もいることでしょう。一方スカーフであれども違和感は隠せないという人も多いことでしょう。
ところでスカーフと veil の境界線はあいまいです、例えば具体的にマレー女性の多くが身に着けている tudungではどうでしょうか? 宗教的定義を離れて大雑把にみれば、tudung は頭髪を覆う服飾の一種といえますから、似たように頭髪を覆う布から成るスカーフ姿のムスリム女性も見かけます。一方スカーフでは全く不充分である、tudung でなければならないと捉えるマレー人はそれよりもずっと多数派のように思えます。つまり scarf - tudung - hijab と進む中でどこに線を引くかは立場またはイスラム教への捉え方によって違いがあり、難しいのです。
だから伝統的非イスラム国でスカーフはを認めよう、しかしhijab は受け入られない、という論理は根底から判断基準が不安定になります。この論理を安易に受け入れると、具体例をあげれば、水泳や体操はだめ、しかしバスケットボールはいい、などと体育の種目に宗教的判定を下すことが必ずおきてくることでしょう。
問題は、ある種の宗教的義務感を伴った服装を伝統的非イスラム国の公の場に持ち込むことなのです。尚それを私的空間に持ち込むことは100%個人の権利であることも強調しておきます。スカーフ 着用を許す許さないの論議ではなく、宗教を公の教育に持ち込むことの是非を論じなければなりません。ある国ではある宗教を公の教育に取り入れることが伝統的であるまたは慣習として民衆に受け入れられておれば、それはそれで尊重すべきことです。例えばマレーシアのようにですね(だから私はマレーシアの事例を問題にしているのではありません)。
しかしある国では、宗教を公の場に持ち込まないことを伝統としているかまたは標榜しており、それが民衆の支持を受けているのであれば、何宗教であれ、宗教の信仰自由を掲げてそれを持ち込むことは慎まなければなりませんし、そうでなければ、その国の伝統は崩れ民衆の支持を無視することになります。公の教育現場である人の信仰する宗教を実践できないといっても、その人の宗教信仰の自由を迫害しているわけでも奪い去ったわけでもありません。その人の宗教信仰自体を禁じているわけでも、宗教信仰者を迫害しているわけでもないからです(私的空間に持ち込むことは100%個人の権利である)。究極的には、その宗教信仰者には選択があります。つまり公教育を受ける、受けないといった選択ですね。
宗教信仰は絶対至上であると主張する宗教信仰者は常に、公教育への信仰宗教の持ち込みと信仰実践の自由を主張するが、それは宗教信仰を絶対至上視しない社会慣習を崩すものなのです。ここに大きな皮肉があります。宗教信仰を絶対至上視しない社会は一般に各種の宗教信仰に寛大であり、ある人が何の宗教を信仰するかは個人の自由と権利であると認めている社会なのです。例をあげれば、日本のような伝統的非イスラム国の相当数では、イスラム教の布教と活動を認めており且つモスクの建設などにも他の宗教施設と同じような制限を設けるだけで、特別に禁じているわけではないですよね。賞賛しているのではなく単に事実を述べれば、フランスもドイツも相当程度しかりでしょう。
一方宗教信仰は絶対至上であると主張する社会は、非宗教人間に概して非寛容な社会でもあります。例をあげれば、この種の社会で、宗教の非信仰を広める活動が許されるのでしょうか? 国名をあげなくても、知識として、現実として我我は知っていますね。だから「許せ」と主張しているのではありませんよ、事実を指摘しているだけです。宗教信仰を至上であると考える社会で、「許せ」活動は大多数の民衆の意識に反するのでやるべきではない、というのが私のありかたです。
そこでこの種の社会における非・宗教人に非宗教の自由と活動を保障する訴えを、Sisters in Islamの発言に私は一度たりとも出会ったことがない。彼女たちのある種のイスラム教が抱える女性に対する偏見と戦う姿勢、及びムスリム女性が本来持つべき権利を訴える活動には充分敬意を表するのですが、一方非・宗教人間(反・宗教人ではありませんよ、誤解なきように強調しておきます)としての立場から見ると、信じない自由と権利が彼女たちの思想からすっぽりと抜け落ちていることに気がつきます。
人間は宗教的存在であるという命題からSisters in Islamは出発している、しかし私は人間は非・宗教的存在であるという命題から出発し、宗教的存在になるのは個人的自由と権利であると認識する立場です。だから私は宗教には極めて寛容なる考えを持っています、つまり何教を信じようとそれはそれを信ずる個人の自由と権利であると考えます。そして宗教は個人的思想でありその表現であると。
宗教至上主義者は宗教は個人的思想ではない、個の存在以前に宗教が存在し個はそれに必然として属するものであると捉えます。よって非・宗教的存在である個の存在をあるべきものとは認めていない、或いはそこまでいかなくても少なくとも歓迎せざる存在なのですね。Sisters in Islamはイスラム教本来の持つ女性像はこうであり、そうあらねばならないと主張し行動している、それはそれで結構なことで敬意を表します。しかし信じる宗教ではなく宗教というものそのものの捉え方が根本から違う者にとって、Sisters in Islamの主張を我我にまで適用されては受け入れられないのです。
それだからいって私は、Sisters in Islam の論調の全てに反対しているのではもちろんありません。この投稿文で主張している彼女たちの、米国のアフガニスタン侵攻を正統化に反対する立場や、「イスラム教の遺産を誤解して女性をイスラム教唯一の無垢な意味を代表していると見なしているムスリムがいます」といった見方には、私は多いに共感を覚えるものです。
最後にこの投書とは違った点からの論点を示した例を付け加えておきます。
次ぎの一節は、2004年3月1日付け Star紙に載った間接的な新聞報道であり、元の記事は2大マレーシア語紙の一つである Mingguan Malaysia 紙のよく知られたAwang Selamat の署名コラムに 載ったものだそうです:
多分これは主流ムスリム界の見方でしょう。世に周知されているようにムスリム男性は複数妻を娶ることが許されています。もちろんそれにはいくつかの条件を満たさなければなりませんが、私の知識の限りでも、ムスリム男性の複数妻娶りに金持ちはいいが貧乏人はだめというような意味での経済的豊かさの条件がつけられていることはないはずです。貧乏人であれイスラム教の定める条件に合致すれば複数妻は娶れます、その証拠にAwang Selamatははっきり反論していますね、「複数の妻を娶るのは単に金持ちだけの持つ特別な特典ではない。」 と。
ここにSisters in Islam の思想と論調に限界を私はいつも感じるのです。イスラム教で許された一夫多妻制に関する論議は、ムスリム間で論議すべきもなので、非ムスリムである筆者の感知するところではありません。私が感じるのは、論調としてのSisters in Islam の限界性ですね、なぜかはこの場では書かないほうがいいので省きます。
海外生活は生まれて初めてという方から、他国から転地されて来た方まで、マレーシア在住または中長期滞在される日本人もいろいろでしょう。ある他国で生活していたがこんなことはマレーシアで初めて経験する、ということもよく起きますし、その手のことは経験と知識が十分あるような事柄も少なからずありますよね。
こんな面からマレーシア生活を考えてみましょう。今回は、日常利用することの多い、ほとんどの方に縁のある銀行です。僻地は除いて田舎でも数はぐっと少ないとはいえ銀行はあります。
日本でなんと呼ぶのかな、思い出せません、 現金出納機? 現金預け引出し機? ですか?当地ではATM と呼ぶ入出金取り扱い機械は90年後半から徐々に増えて、21世紀に入ってからは見る見るうちに窓口業務を凌駕するようになりました。今ではどの銀行でも、とりわけ都市部では通常の現金引出しと預け入れはATM機で行うのが普通になりました。ATM機はこの2つの機能以外にも、振り込み、振り替えなども機能として備わっています。利用者の中には、機械は苦手だからと窓口に並ぶ人も依然としていますし、支店によってはATM機の数がわずか1台だけとごく少ないところもありますから、全国一律にATM機が普及したとまでは言えません。
日本のこの種の機械(ATM機のこと) と違う大きな点の一つに、マレーシアでは小切手預け入れ機がごく普通に設置されていることです。日本でもあるかもしれませんが、ごく珍しいではないでしょうか? 受け取った小切手を専用袋に1枚から数枚だけ入れて、その袋を機械に投入します、すると機械がその袋を受け取った証明としてのレシートを発行します(小切手の記載に対してのレシートではありません)。尚設置数はごく限られていますが、小切手を直接機械に投入して読みこませ、そのコピーをレシート替わりに発行する機械があります。この小切手自動読み取り機は、銀行と支店への普及度は極めて低いと思われますので、その存在を知らないマレーシア人も珍しくありません。
私はアパートの家主への賃貸料振り込み時に、時々この小切手預け入れ機を利用します。受け取った小切手を自分の口座に入金する場合も同様です。目安として同州内にある他銀行・店舗発行の小切手であれば(厳密には銀行の窓口で確認が必要です)、翌々営業日に口座入金となるのが普通です。結構普及したが使う人が固定しがちな、インターネットバンキングでもちろん口座振り込、振り替えみなどできますが(私も以前から利用しています)、小切手の場合は機械利用か窓口利用しか手段はありません。
ところで小切手は一般マレーシア人でも馴染みある決済、支払、受領手段です。会社間の商取引に限定されているわけではありません。事業を経営したり商売を営んでいないごく普通のマレーシア人一般市民でも、2、3の必要条件を満たせば当座預金口座を開設して、個人小切手帳を発行してもらえます。ただし21世紀に入って、口座開設及び小切手帳発行基準がだんだんと厳しくなりました。尚個人小切手帳は会社小切手帳より大きさ自体が2周りほど小さく作られています。ですから中味を見なくても、個人小切手とすぐわかります。
小切手は銀行への預入れを利用したビジネス上での支払手段であるのは当然ですが、個人小切手、会社小切手に関わらず
私はマレーシアに住み始めてすぐ普通預金口座と当座預金口座を開設し、個人小切手帳を受け取りました。そして現在まで、頻繁使用から時たま使用に変化しましたが、使い続けています。それまで、他国で預金口座を開いたことはあっても、当座預金口座開設したのはマレーシアが初めてでしたので、小切手使用は当初ちょっととまどいました。でもすぐ慣れて、これは便利だなと思ったものです。
日本の会社ビジネスでは手形振り出し・利用が極めて一般的ですよね、よって小切手よりも手形に馴染みのあるビジネス人が多いかもしれません。小切手は手形のように割引、裏書などありませんから、名宛人の口座に小切手を入れると、規定日にち後にその口座に入金が行なわれます。条件付きながらその場で現金化できる" Cash " 小切手を例外として、通常の名宛小切手は現金を扱う面倒さと危険性がない点、紛失してもまず他人が換金できない点が優れていますね。
90年代終わり頃までは" Cash " 小切手は容易に銀行の窓口で現金化できました。つまり、その銀行に口座を持たない者を含めて誰でも、名宛人の欄に" Cash " と書かれた小切手をその発行銀行の支店窓口で手渡せば、簡単に現金を入手できました。便利ですが、盗難された、紛失して拾われた" Cash " 小切手が簡単に現金化されるという、危険性が常に伴っています。
現在では銀行協会なり中央銀行が定める" Cash " 小切手に関する規定がずっと強化されたので、以前の" Cash " 小切手による現金化はもう認められなくなりました。現在では全ての銀行小切手は銀行による発行時点から、"A/C Payee Only " つまり 「口座保有者だけに支払う」 という意味、が印刷されています。これは、小切手預け・入金は基本的に相手方の口座へ振り込むということです。小切手を窓口で現金化するためには、まずこの"A/C Payee Only " を振出人側が二重線と署名で取り消さなければなりません。そうでない限り、企業名であれ個人名であれ名宛人の口座に振り込まれます。
さらに ”Cash" という文字はもう使えず、小切手を現金化したい人の名前を名宛人欄に記入しなければなりません。そしてその人物がその小切手を銀行へ持参して窓口で身分証明証を提示する必要があります。だから誰でも小切手を現金化できないということです。ある"A/C Payee Only "取り消し且つ記名済み小切手が紛失、盗難されて、それを入手した誰かが直ちに銀行の窓口で提示しても、同姓同名でないかぎり現金化は無理ですね。
それでは具体的な使用例をあげましょう。
喫茶モノローグのマスターとして、店がずっと赤字続きなのにウエートレス2人には毎月の”お手当て”を小切手で払っています。名宛人欄に ###### Hideko と名前を書いて、金額欄に(RM とあらかじめ印刷してある) 9.99 と数字で書き、さらに金額欄隣の Ringgit Malaysia と印刷してある欄に言葉で Ninety and Cents ninety nine only と書き込みます。最後に日付を入れて署名欄に Intraasia と書けば完成です。ウエートレスHideko は日付の日またはそれ以後にこの小切手を彼女の口座がある銀行へ持って行って預けます。口座開設した支店でなくても同銀行であれば構いません。 ただおっちょこちょいなHideko はATM機で預ける際に専用袋と小切手の裏に彼女の口座番号を時々書き忘れるので、結局入金されないことがあります。
酔っ払って身の回り品を忘れることの多い Mayumi ウエートレスが仮にその小切手を紛失しても、他人が現金化できませんので安心ですね。
小切手は先付けもできるので、振り出し口座に十分な残額なくても、とりあえず発行できます。もちろん先付け小切手は窓口で受け付けません。機械で預け入れの場合は、預け者に罰金が課されますが、しかし不払いにはなりませんので振出人はその点では安心です。また具体的な例をあげましょう。
11月末のこと、ウエートレス2人が、「マスター、年末ボーナスたくさん出して下さい!」 と要求してきました。そこで、それぞれの名宛小切手に数字で RM 1,000,000.00 言葉で One Million only と書き込んで署名した小切手を2枚すでに用意してありますので、今月半ばのボーナス支給日に2人に手渡すだけです。ただ日付欄を 20 February 2020 としておきました。
賢い読者の方はもうおわかりですね(笑)。先付け小切手は便利ですな。でも乱発してはいけませんよ。
小切手は便利です、でも悪用はいうまでもなく、例え意図しなくてもうっかり不払いのようなミスは許されませんね。ですから、統一した処罰行為が定めてあります。
個人小切手の場合も、口座残高が不充分で発行された小切手が不払いのようなことになると、当然振出人には罰則が課せられます。次ぎの表は銀行協会などが参加している”信用機構”が定めている規則であり、どの銀行にもに適用されるので、その不払いになった小切手の振り出し銀行の当座預金口座が閉鎖されるだけでなく、例え2つ、3つと他銀行に当座預金口座を持っていても、それらの口座全てが同じ処分を受けます。
当座預金口座が停止になる要件:ある12ヶ月間に(歴年ではない)、3回目の小切手の不払い行為を起こした場合。不払い行為とは口座に十分な残高がない、口座自体が何らかのために閉鎖されているような時に、その振り出した小切手が不払いとなることです。
違反段階 | 口座開設・運営禁止期間 | 特別口座 | 監視期間 |
レベル1 | 6ヶ月 | 許される | 2年 |
レベル2 | 12ヶ月 | 許される | 2年 |
レベル3 | 12ヶ月 | 許されない | 3年 |
上記で説明しましたように、現金を扱うことなく支払、持ち運びできる小切手は個人にとってもたいへん安全で便利な手段です。しかし反面振出人が意図的に不払いにさせてしまう、またはうっかりミスで口座残高不足という落とし穴も小切手は性格上備えていますので、当座預金口座の扱いと小切手の受け取りには注意が必要です。
なんとなく怪しいという会社や人物から受領した小切手に注意しなければならないのは当然です。さらに、喫茶モノローグのように、誠実で不払いによる禁止処置など1回も受けてない善良なオーナーでも会社・店自体が経済基盤の極めて不安定な場合は、その振り出した小切手がいつのまにか支払不能になる可能性を常に秘めています。会社をわざと倒産させたり、事業不振で会社・店がつぶれてしまえば、振り出した小切手はただの紙くずですからね。
私は以前パートナーと一緒に小さなビジネスをやっていた時、何となく怪しいまたはこの会社大丈夫かなというような会社・個人の振り出した先付け小切手をたまに手にしたことがありました。そういう時は、その小切手の日付の日が来て銀行に預け入れ、自分たちの口座に入金が確認できるまでは夜枕高くして眠れなかったものです。
ということで、マレーシア生活される機会がある方、すでに現在お住まいの方に、恐らく多いに役立つであろう小切手のお話しはおしまいです。
何年かぶりに、マレーシアが開催地となる大きな国際政治会議が今月開かれます。期日前から準備会議はすでに始まってますが、公式な期日は12月12日から14日です。この3日間の前半が第11回ASEANサミット、ASEANプラス3カ国(日中韓)会議、そして14日が第1回東アジアサミットですね。中国首相はマレーシア訪問が公式訪問となるそうです。
いうまでもなくどの会議も日本は関係あり、とりわけ日本に大きく関係するのがASEANプラス3カ国と 初めて開催される東アジアサミットでしょう。東アジアサミットは90年代初期から当時のマハティール首相が開催を提唱してきた東アジア経済会議の奇妙な実現化といえます。奇妙というのは、名称とはまったく地理的に合致しない、オーストラリア、ニュージーランド、インドまでもが参加していることからです。ただそのことはコラムとは関係ないのここでは論じません。
日本の首相一行も来マレーシアしてサミットに参加しますから、日本のマスコミが大挙して来マレーシアして報道するのは当然ですね。よって、「マレーシア? シンガポールの上、タイの下にある国じゃないの?」 とか 「マレーシア? オランウータンの棲む東南アジアの国でしょ、どこにあったけ? ボルネオ島かな」 というような方も、新聞やテレビでマレーシア、クアラルンプールという単語を目にする、耳にされることだと思います。
そこで今回のコラムは、そういう日頃マレーシアに全く縁のない、全く興味のない、ほとんど知らない方たちをも念頭において書きます。当ホームページは、サーチエンジンの Google で 『マレーシア』 と入力すれば最初のページに表示されますので、多分そんな方の訪問があるのではと期待をしてのこともあります。
サミット全体を論じたり紹介するのはこの場での目的でもありませんし、私の能力を超えます、その意図はありません。ここで描きたい、知ってもらいたいのは、現在マレーシアが中国をどう捉えているか、そしてそれは日本の、日本人の対中国観の参考にしていただきたいという願いです。
日本は昔も今も島国です、これが第2時世界大戦で同じような状況に置かれたドイツとの大きな違いです。近隣諸国との関係において戦後のドイツ的あり方が日本ではなぜ模索されなかったか、政界にも国民にも受け入れられなかったか、これが現在日本が面している最大の問題:中国と韓国問題につながります。北朝鮮はそれ自身が引き起こしている問題なのでここでは同列に扱えません。
日頃ほとんどの日本人が知らない、興味を抱かない、マレーシアの対中国観と政策のわかりやすい面を紹介することで、東南アジアの一国家も中国の影響を大きく受けている状況を知ってもらい、さらに下に引用したような 太平洋戦争終結までに”大日本帝国”の侵した過ちを十分に理解できない、理解しようとしない、唯我独尊的あり方を強める現内閣のありかたを憂える、しかし昔も今も決して親中国派ではない一人の日本人としての論です。
このように、日本に関するこの種のニュースはマレーシアの新聞に頻繁に載ります。その多くは外報通信社の配信記事です。もっぱら当地のマスコミに載る外報電でのみ日本のニュースを知る私は、外報通信社の観点をマレーシアのマスコミがどう料理する(配信記事を修正する・書換えるという意味ではありませんよ)かを興味深く眺めてきました。
中国に関して今何がマレーシアで話題になっているかといえば、これから下で説明するように関連ある2つのことがらです:1つは、警察やImigresenの中国人訪問者とりわけ中国人女性への対応と処置です。2つが、中国人訪問者が今年激減していることです。
統計をご覧ください。中国人のマレーシア訪問者は1990年代末頃から大きく増えました。結果として日本人の訪問者数を追い抜いてしまったのです。ところが今年は前年同期累計比で約45% も減っており、年末までに急激に増える見込みはないようです。多分日本と中国のマレーシア訪問者数の比較は拮抗したものになるでしょう。
2000年 | 2001年 | 2002年 | 2003年 | 2004年 | 2005年9月まで | |
日本人訪問者数 | 455,981 | 397,639 | 354,563 | 213,527 | 301,429 | 253,156 |
中国人訪問者数 | 425,246 | 453,246 | 557,647 | 350,597 | 550,241 | 229384 |
各国からの訪問者総数 | 1022万 | 1278万 | 1329万 | 1058万 | 1570万 | 1221万 |
旅行者としての中国人訪問者の激減は、旅行関連業界にとってゆゆしき問題であり、華人系旅行業界はずっとこれをとりあげてきました。さらに観光立国をその柱の一つに掲げるマレーシア政府及び管轄官庁である観光省もこの問題を重視しています。確かに大口訪問者の国の訪問者数がぐっと減れば、憂慮することはわかります。ただ、他のある国が同様の比率で減ってもこれほど話題になり、且つ政府筋からも重視されないでしょう。
日本人訪問者数は各国からの受け入れ訪問者総数が1000万人である2000年にピークを迎えて、その後は30万人台に定着し(SARSの2003年は除外)、1700万人に達しようという今年を含めてもう40万人台に達することは恐らく見込めないでしょう。これは全然話題になりませんでしたし、なるとも思えません。
これだけを見ても、最近の中国人旅行者マレーシア訪問の減少を憂える声と論調は、極めて目立ったことです。超巨大中国人口のたった1%が外国旅行しても1千数百万人ですから、この巨大なパイの分け前の恩恵にあずかろうと東南アジア各国は中国人旅行者誘致に躍起のようです。マレーシアもその例外ではないのです。
90年代末ごろから、とりわけ2000年にはいって飛躍的に増加した、マレーシア訪問の中国人旅行者はマレーシア華人社会にも影響を与えてきました。華人系旅行関連業界が経済的に潤う以外にどのような影響を華人社会にもたらしたかを次ぎに書きます。
旅行者としてマレーシア訪問する中国人が、実際は旅行者でなく、違法滞在及び労働に従事している数は少なくないというのが、多くの人の一致した見方です。当サイトの「新聞の記事から」では時々こういった中国人の違法活動のニュースを掲載してきました。その中から典型的な記事を載せます。
この記事を掲載した時の私のコメントです:
中国人旅行者のマレーシア入国審査はを取材した記者が書いた短文です。若い中国人女性をマレーシア各地の観光地で見かけることが、90年代に比べてどれほど増えたろうか。白人旅行者を見かけるのは以前と変わらないが、10倍ぐらいに増えた中国人旅行者の姿はその増加数に全然見合っていないはずです。なぜか? それが次ぎの記事です。
Imigresen自身がその後、統計法の不備から(入国ではなく)出国人数に多少矛盾があると認めたように、この5万人という数には信頼性が欠けます。とはいうものの、中国人旅行者が滞在許可期限切れ後もマレーシアに居残ったり、最初から小売り物品販売目的で入国するケースは少なくないので、Imigresn も入国審査を厳しくしてきた面が次ぎの数字に現われています。
中国 | 香港 | 台湾 | 合計 | |
2003年 | 2242人 | 51人 | 274人 | 2567人 |
2004年 | 1356人 | 7人 | 53人 | 1416人 |
2005年9月まで | 942人 | 5人 | 5人 | 952人 |
この数年中国人女性の違法活動は首都圏と地方の伝統的華人地区では極めて盛んです。それも公然とやっています。クアラルンプールの伝統的華人下町に長年埋没して住んでいる私には、きわめてお馴染みの活動ですが、華語、広東語などの中文を解さないほとんどの日本人の方には目につかないまたは聞き分け・見分けがつかないことでしょう。それは中流層と白人や日本人が好んで住んだり訪れる高級なアップタウン、マレー居住地域、インド人街、ではこの種の中国人活動はまず目につかないし、ごく少ないからです。いうまでもなくマレーカンポン(マレー人村)では皆無です。
一体どういう活動をしているのかを、典型的な例を 「新聞の記事から」 に載せたものから選んで下に書きます。
掲載当時私は次のようにコメントしました:
中学生相手に特別タバコを売るうんぬんを除いて、中国人若い女性の徘徊は同じような地区に住む私には極めてお馴染みのできごとです。この場でもすでに書きましたね。まこと目に余る行動ながら、ほとんど取締りは功を奏していないように思われます。筆者の住むような華人下町では、朝、そして夜とこの種の中国人がCD、お茶、薬、タバコ、食品、雑貨などを物売りしています。いずれもまともに輸入したものとは思えませんし、タバコは売ること自体違法です。なぜ彼女ら彼らがここまで堂々と且つ人数多く活動できるのか、不思議です。
華人界の小売り団体はこれをにがにがしく感じており、次ぎのような記事にそれが明らかです。
中国人女性の違法商売は何も物品販売に限りません。パブやカラオケクラブなどでの違法ホステス活動、健康センターでの違法マッサージ師は、以前から数え切れないほどたくさん摘発されています。いうまでもなく、この種の活動は違法滞在活動する様々な国籍の女性が関与していますので、中国人女性だけを槍玉に挙げるのは不公平ですね。むしろ、そういう女性を雇うマレーシアの業者、及び客になるマレーシア人をそれ以上に批判すべきでしょう。違法ホステス活動と違法マッサージ師に密接に関わるのが、売春活動で、同じように取締りのニュースが頻繁に記事になります。とりわけ華語新聞に詳しく多く掲載されます。この件も”買う側”も同時に批判しなくては片手落ちですよね。
さらに中国人女性は、華人コミュニティーの家庭にも影響を与えています。どんな意味かは次ぎの記事をお読みください。
この記事を掲載した時、私は次のようなコメントを加えました:
華語紙各紙にはこういった記事が断続的に載ります、つまりもう全然珍しいことではありません。この記事ではRaubですね、えーRaubまでも中国人女性は進出しているのかと、私はちょっと驚きました。一般に、内外の旅行者はとりたてて観光地でもないRaubなどに泊まりませんし、あってもせいぜい立ち寄る程度です。今やこのように半島部あちこちの華人集中地区、町、さらには村にまで、中国人女性は出没するようになっているのですね。クアラルンプール、スランゴール州の華人地区ではとっくにお馴染みの光景です、私は毎日目にしてます。
観光客として中国人は今や大の有望客でどんどん引きつけたい、ビザ手続きも緩和されました。よって中国人女性のマレーシア入国は以前よりも簡単となった。そしてマレーシア国内にはそういった女性を違法労働につかせる華人シンジケートがあり、1度入国してしまえば、国内での移動も労働も斡旋してくれる、という図式でしょう。しかし ”金目当ての女にすぐ落ちる男” が後を絶たない というのは見過ごせないことでしょう。
中国人女性の活動が他の国籍の違法活動女性と際立って違う点は:
華人コミュニティーは中国人との文化と言語面での近似性、民族的同一性から、好むと好まずに関わらずこれからも中国人との接近遭遇を避けられそうにありません。しかも華人界の一部と政府与党の一部には、接近遭遇によって引き起こされる負の面をあまり問題にしない傾向が見うけられますから、上で引用したような 「中国人女性が他人の家庭の幸福を破壊している」減少が減ることもあまり望めないでしょう。言うまでもなく、こういう事件の発生を、違法中国人女性だけの責任に為しつけるのは不公平ですね、「家庭の幸福が破壊」されるであろうようなことに手を出す方も当然批判されてしかるべきです。
前編の最上段で書きましたように、社会的にも大きな話題になっているもう一つの件が、警察やImigresenの中国人訪問者とりわけ中国人女性への対応と処置です。次ぎはこの数週間各紙で大きく報道されている件の発端です。
この2つの事件は中国マスコミも中国内で大きく取り上げたそうです。このことによってさらに中国人訪問者の数を減らしてはいけない、増やそうとしている政府や当局、旅行業界のの努力が無になると心配した政府は本腰を上げて対策を取り始めました。
これを掲載した日、私は次ぎのようなコメントを書きました:
警察の取り調べ活動に各界からこれだけ批判が出ているのは珍しいことで、特別調査グループの組織も稀有のことです。華語紙は英語紙よりも多くの紙面と写真を費やして連日伝えています。
4人の合法滞在の中国女性が警察に拘留されてひどい取調べを受け賄賂を要求、金を盗まれたという訴えた件と、中国女性みたいな女性被疑者が警察署内で全裸で取調べを受けていうことがビデオ画像になって明るみにでた件は、いずれも中国人がらみで警察の取り調べ過程でのひどさが強調されています。確かにこれを擁護する人たちは少数派でしょうし、正当化することはできないと思います。特別に任命された警察自身の調査グループと独立した特別委員会の調査結果を待つしかありません。
ところがこの被取調べ人物は中国人女性ではないとつい最近明らかになりました。
この問題は中国人女性が被害者であるとの観点が強調されていたことで、問題の焦点を一時ずらしてしまいました。本来は被取調べ者が誰であれ警察の取調べを問題にすべきであり、つまり民族とは関係ないことなのです。
ところで、この両事件で私が感じるのは、中国人への対応だけが問題ではなく(確かにその面もないことはないが)、人権へのある種の侵害と警察権力が強すぎることの弊害です。そして、あまりにも”ある民族が被害者だ” という観点を強調しすぎではないだろうか。
そう感じていたら、ほっとするような意見を読みました。
中国人女性の警察署で受けた取り調べの件に関して、Mangai Blasegarama という女性記者はそのコラム(12月4日付け The Star紙)の中で次ぎのような1節を書いてます:
まこと同感です、私はこのニュースを読んだ時即座に思いました。この種の取り扱いは決して全ての拘留者に対して平等に行われるものではありえないだろう、と。長年マレーシアの無数の事件を読み、追って来た者として、実力者が被疑者になったような場合の扱いには極めて慎重な報道スタイルと警察での扱いが彷彿と読み取れます。且つ町で見かける外国人労働者に対する一般マレーシア人の態度と意識をみれば、中国人女性が被害者となった一連の事件は、事件そのものはある程度特異であっても警察のような権力機構だけの特異な現象ではないことが容易にわかります。
数年前警察の留置所で、拘留されたインドネシア人女性が、署内勤務の警官に強姦された事件がありました。軽軽しくない事件には違いありませんが、今回の中国人女性が警察から受けたひどい待遇事件へのマスコミと世論の扱い方に比して、はるかに穏やかで小さなものでした。政府がインドネシアに特使を派遣するようなことはありませんでした。
前編とこの後編で、この数年急増した中国人訪問者が起こす問題をあれこれと紹介しました。もちろん、それはマレーシアを訪れる中国人訪問者の一部に過ぎない、全員がそうだと決めつけてはいけない ということは強調すべきです。ただし全体の数が多ければ、問題起こす中国人の数も多いことになります、さらに華人コミュニティーは中国人との文化と言語面での近似性、民族的同一性から、好むと好まずに関わらずこれからも中国人との接近遭遇を避けられそうにないのです。
こういうやっかいな現状にありながら華人系旅行関連業界を中心として華人界には中国人訪問者増加への声が高い、そして経済的効果を重視した政府と担当省庁も中国人訪問者増加に向けて躍起です。その例の中からいくつかを紹介すると:
マレーシアは日本と違って、歴史的に中国との愛憎関係はありません。しかし民族的観点からいえば中国の絶対多数派である漢民族とマレーシア華人は同一ということから、中国は近隣国でなくても決して縁の薄い国ではありません、少なくともマレーシア華人界にとってはです(だからといってマレーシア華人 = 中国人ではないし、華人界自身それを認識しており、表記においても区別している)。
貿易面で見れば、マレーシアにとって中国はアジアではシンガポール、日本に次ぐ主要取引相手ですね、今年の両国間の往復貿易高は US$300億を超すかもしれないそうです。マレー人多数派の国マレーシアも国益という面から巨大中国の影響はもう軽視すらできません。数はまこと偉大である、と私はつくづく思います。
ホームページ発足以来、「ゲストブック」 には随時あれこれと書き込んでいます。そこで2005年後半に 「ゲストブック」 に私が書き込んだ長短の書き込みから、主なものを抜粋してこのコラムの1編として残しておきます。ごく一部の語句を修正した以外は、書き込み時のままです。
喫茶モノローグでひでこウエートレスが、新幹線で3時間なら私の故郷までと同じだ、と言ってましたので、えー、青森までそんなに早く行けるんだ、と驚きました(青森の方、すみません)。私には昔の、上野から1晩がかりの夜行列車の記憶しかないので、意外に思えたからです。
(数回訪れたことがある)青森というと、急に青函連絡船に乗って北海道に渡った昔のことが思い出されました。そこでトンネルも開通したことだけど連絡船は数少なく残ってるかもしれないなと思って、また乗ってみたいな青函連絡船と書いたら、とっくに廃止されたよと教えられました。
廃止された連絡船には宇高連絡船がありますね、中国地方と四国を結ぶあの船です、いや船でした。これも昔四国に行った時乗りましたけど、もうとっくになくなったことは、ちゃんと知っております(記憶力は衰えていないね)。四国から船といえば、大阪だったか神戸だったか忘れましたが、関西と四国を結んでいた連絡船があり、これに乗って関西に戻った記憶があります。これって今もあるのでしょうかね?
旅好きの私は、海峡橋やトンネルで、何の苦労もなく島に渡る、島から渡るのは、なんとなく旅の面白みが減ってしまうような感じがします。もちろんこれは旅人の郷愁みたいなもので、海峡橋、海底トンネルがない方がいい、などということではまったくありませんよ。
列車、バスから降りて、船まで歩いて移動し、出船を待つ、そして船の窓から眺める海の景色、これはノスタルジアな旅の気分です。だから青函連絡船にまた乗ってみたいなと、ふと思ったのです。
海峡連絡船といえば、有名な英仏間のドーバー海峡連絡船がありますね。そして地中海を横切るギリシアからイタリアまでの連絡船も有名です。この両連絡船に乗ったのは1970代の後半ですが、貧乏旅行時ですから3等席に積めこまれそれも夜行なので、景色などほとんど見えなかったはずです。荷物のごとく移動した記憶があります。
ギリシアーイタリア間は今も運行されてますが、ドーバー海峡にその後英仏トンネルができた現在、もう一般乗客用の海峡連絡船はないでしょうから、あのドーバー海峡連絡船の旅も2度と味わえない歴史になってしまったわけです。
廃止された海峡連絡船の乗船は、遠い昔の記憶になっても、旅人Intraasiaのある日ある場所でのひとこまとして、忘れることのないノスタルジアな記憶です。
さてマレーシアの連絡船についても書いておかねばなりません。その昔一時期運行されたという半島部とサバ州サラワク州を結ぶ、東西マレーシア連絡船を新規に復活運行させる案が、昨年から時々ニュースになっています。ごく最近の報道では、近々政府が最終決定を下す予定だそうです。半島部とボルネオ島部は赤道をはさんで大海を何百キロも航行しなければならないので、果してビジネス上黒字が確保できるのか、ほとんどの人がこの疑問を持つことでしょう。政府も船会社もこれが障害のはずです。AirAsiaの格安切符より割安にするのも難しく、且つ丸1日ぐらい時間がかかるでしょうから、スピード時代の現代客を引きつけられるかですね。
といってクルーズを楽しむような豪華船では確実に採算不能になるので、大衆船にしなければなりません。旅人の観点からいえば是非一度は乗ってみたいけど、大海につきものの船酔いを考えると何回も船で東西マレーシアを往復したいとは思いませんね、ものすごく安ければ別ですが。
ということで、この東西マレーシア連絡船の出航は実現するのでしょうか? 結果を待ちましょう。
このニュースを追っているのですが、建設位置を示す見取り図などが全く載らないので、これから建設にはいる 格安航空用ターミナルの位置がわかりません。KLIAの公式サイトには空港地図のページがあります、しかし私のWindowsでは表示できないので、その地図に載っているかどうかわかりませんが、多分載せてないと思います。
情報から推測する限り、格安航空用ターミナルは現在のメインターミナルにもサテライトターミナルにも直接つながらず、KLIAの敷地内のどこかに建設され、乗客は連絡バスで行き来するシステムになるようです。
このため、格安航空用ターミナルから直接クアラルンプール市内との連絡バスが運行される可能性があるように、私は推測しています。推測でなく、是非このバスを運行して欲しいものです。一度メインターミナルまで行って、そこで1時間に1本しかないAirport Coach を待つより、格安航空用ターミナルから直接運行してくれたほうが、格安旅行者にはずっとありがたいですからね。
現在のAirport Coach のサービスは開通当時から相変わらず良くないので(バス車両はよく故障するしし、窓口は愛想悪いし、遅れても全然知らせないなど)、できれば新しいバス運行会社がこの格安バスを運行して欲しいですが、しかし運行権益の面からこれは難しいでしょうね。
マレーシアではこの運行権益の取合い、または確保が非常に強いので、数々の批判と不評がある 空港リムジンタクシーは頑として、市内タクシーの客拾いを認めません(ごく1時期あったがすぐつぶされた)。空港バスも同じだろうなと、私は推測しています。
21日付けのStar 紙の別刷り紙面 StarTwo 内にあるBooks 紹介のページが、”タブーを破る者”という見出しをつけた記事になっています。この記事の書き手は Angela Neustatter 、どういう人物かまったくわかりません。そして記事の短い紹介文にこう書かれています、「暴力的な女性フィクションの新潮流が伝統的日本に衝撃波を起こしている」
ということで何気なく目を通していたら、この記事内容にひっかかりましたので、ここで書いておきます。よくある、外人が外から見た日本記事です。以下抜粋訳して紹介します。
Kanehara Hitomi 21才が処女作 ”Snakes and Earrings " は日本でベストセラーになており、伝統的文化に期待されるのとは反対の暴力的で写実的な描写で日本にショックを起こした。この小説は権威ある芥川賞を受賞した。
問題児のアウトサイダーであった Kanehara Hitomiはインタビューで語る、「現在の日本で若い者は誰でも絶望感を持っている。私は希望がないと精神的段階で感じる。私は私の世代を代表して語っているとは思いません。」
しかし、日本女性が認めるあり方にそんなにも完全に反倫理的である方法で反抗する必要があると若い女性はなぜ感じているのであろうか?とこの記事のライターは書いている。
次いでこのライターは、東京生まれで19才で日本を離れて英国に住む日本女性に語らせている。「私は日本に創造的自由の選択が不可能だと感じて日本を出ました。私の両親は非常に伝統的期待を私にしていた。ただ現在日本の起きているのはもっと極端だと思う。日本社会が女性を見る、扱うあり方に深いところからの疑問をつきつけているのです。」
1980年代に日本社会を圧倒したのは”可愛い”でした。次いで1990年初期はコギャルです。
シカゴのLoyola大学の日本学専門の Miller準教授は反抗の裏にある動機を説明する、「日本の女の子は美容産業とメディアからいつも、女性らしくセクシーであるようにとのメッセージをつきつけられている。彼女たちは同時に、家庭で、学校でジェンダーの規範に合うようにということを通じて従順になるようにと警告されている」
Kirino Natuo は現在50代、でこれまでに13冊の小説を書いた。彼女は現代女性の声を代筆する最も重要なフェミニストの一人として見られています。彼女の小説”Out"は工場で働く4人の女性の不穏な物語です。
日本の女流作家らは明らかに、人気あるフィクションを用いてその社会に問題を投げかけている、とRebecca教授は説明する。彼女はSt.Luois のワシントン大学で日本文学を教えています。Kirinoは深いレベルで、日本での現代セクシャリティーを問うているのです。
最後に、若い日本女性の反抗と、ヨーロッパとアメリカの若い女性の反抗において質的違いがあるのでしょうか?前述の英国に住む女性は語る、「日本女性は、西欧社会が同じありかたにおいては知らない抑圧としきたりの社会の出身です。彼女たちが女性への変化が必須であると訴える方法を見つけているのは好ましいことだと思う。」
以上
とこの書き手は、”西欧かぶれ”の日本人女性の口を通して自らの日本女性観、日本観を暗示しています。
ここに出てきたKanehara Hitomi がどういう女性で、Kirino Natuo がどれほど人気ある作家か私は全く知りません。それぞれの観点を込めて小説を発表しているのであれば、それはそれで結構です。「暴力的な女性フィクションの新潮流が伝統的日本に衝撃波を起こしている」という歌い文句が本当なのか、誇張なのか私にはわかりません。ただ伝統的日本は相当程度変わっているはずなので、その種の小説で驚く人が本当にたくさんいるのでしょうか? というのが私の正直な感想です。さらに70年世代である私の感想を言えば、現代ヤングは女性も含めて、70年前後に比べれば社会体制にはるかに従順であると言えます。
この記事に見られるように、英語紙に載るこの種の日本・日本人論は必ず、西欧好きの日本人が登場し、その西欧を至上視する西欧観点から日本を料理してその意見を語っています。この種の西欧滞在または西欧留学経験日本人は、西欧とりわけ英語マスコミの日本観を輔弼する役割を与えられていますね。
この種の”バナナ”日本人は、世界には日本的な社会と英米中心の社会しかないかのような世界観です。例えば、東南アジア、マレーシアで、「暴力的な女性フィクションの新潮流」を示すような小説が現われ得るのか、ということ自体に頭がいかない。この人たちには東南アジア社会も南太平洋社会もインド社会も、もちろんアラブ世界も、見えないのです、知ろうとしないのです。
私が言いたいのは、日本社会は女性に抑圧的ではない、西欧より優れた社会だ、などと主張したり、日本社会を擁護しているのではありませんよ、私自身も日本の伝統的面に違和感を感じてきた人間です。しかし西欧が優れている面もあれば、日本社会の良い面もあると、認識しています。何よりも西欧理念をそのままあてはめたら、その他全部の社会は、劣った社会になってしまう。
この簡単な事実を知ろうとせずに、他の世界に目をやろうとせずに、西欧対日本という図式で日本と日本人論を論ずる記事が、英語紙には多すぎますね。マレーシアの新聞らしさが出ていません。その理由は他の東南アジアや日本に通じた記者を養成できない、マレーシアの新聞界らしい事情です。そこでいきおい、英米マスコミの配信記事をそのまま利用する、英語の話せる西欧思考の日本人に語らせる、こういった手法です。
日本批判は結構、私もやっている、しかし英米人観点の前座的記事にはがっかりします。といって華語紙のように、親中国的な記事ばかりでも困ります。もっと独自の日本論を書いて載せて欲しいものです。
「旅の掲示板」で Touch 'n Go プリペードカードが話題になったので、おまけの話しを書いておきます。おまけというよりも、不愉快できごとの披露話とでも言えましょう。
昨日のこと、Starline電車の駅で Touch 'n Goを使って改札を抜けようとして、読み取り装置にカードをタッチした瞬間に エラー信号が発生しました。改札口に立ってこれを目の前で見ていた駅員は、「Touch 'n Go 読み取り装置は故障だ」 と言い放つではありませんか。
故障と知っていながら、利用客がTouch 'n Goをタッチするのを平気で見ているわけです。 私は、即座に文句を言ったら、改札係りは、「故障だから故障だ。カードに問題は起らない」とさらに言い放つ。そのうち事務室にいた別の係りが出てきて、私のカードをもう1度読み取り装置にタッチした、もちろんエラー信号が出ただけ。その駅員も言い放つ、「カードに問題はでません、だから切符を買って乗りなさい」 と。
仕方なく切符を買って中心部まで行きました。問題は Touch 'n Goが読み取り装置のエラーを出すと、そのままでは次ぎに使えなくなることです。これまで3,4回ほど同じことを経験しているので、私は文句を言ったのですが、駅員はいつもの”tak apa,apa “知ったことじゃない 態度です、またはこの程度の知識さえ知らないのです。
30分後 PutralineのPasarSeni駅から乗ろうとして、そのカードを読み取り装置にタッチしたら案の上、エラー発生です。駅員が出てきて、カードがおかしくなっているから、切符を買いなさいと、私に忠告しました。仕方なく切符を買いましたよ。 駅員は、「そういうおかしくなったTouch 'n Go カードを修正できる装置は、KLSentral駅に行かないとできないから、KLSentral駅へ行きなさい」 と忠告してくれました。
たまたま私はKLSentral駅へいくつもりだったから良かったのですが、そうでなければ手間と金の両方で飛んだ災難になるとことでした。それでも現金で切符を2回買うことになりましたが。
このようにTouch 'n Go カードのトラブルは以前バスに使ってエラーが出たこともあったなど、私には初めてのことではありません。その際リカバリーつまり回復がこれまた面倒なのです。ごく限られた主要駅でしかやってくれない、さらにエラーが出るとそれはお前のせいだといった態度を取るのです。バスに使っていた時エラー発生だと、運転手から現金で払えと命令されました。なんのための読み取り装置付きのバス便なのだと思いましたが、運転手といいあっても勝ち目はありませんから、従がうだけです。
Intrakota, Citykiner, starline, Putraline はいずれもRapidKL翼下に入りましたが、変わらないのは職員の態度と意識ですね。
8月の初め頃から今回のヘイズ状況が始まって中旬に入ろうとする現在も進行中です。今回と書くのは、ヘイズ期間は年に数回あり、毎年繰り返されるいわば年中行事だからです。よってマレーシアに長く住む者にとって珍しくも驚くことでもありませんが、空を眺めれば気分を陰気にさせ、時には大気の質が不健康段階にも落ちるので、ヘイズ空を歓迎する人は誰1人としていないでしょう。
ヘイズとは大気がもやったり霞んだりする状態をいいます、あまりにも頻発するのでマレーシアではごく日常的な単語となっています。この大気のもやりと霞み状態をもたらすのは、大気中の微粒子が増加するためだそうです。その微粒子を増やすのが森林火災などが起こす煙と、乾季ゆえに起る雨量の少なさです。さらにモンスーン風が増えた微粒子を運んでくることから、自分たちの住む土地に起因しなくてもヘイズ状態になるのです。
で具体的にマレー半島部に絞れば、以前からそして今回も発生しているヘイズ状態は、多分にスマトラ島での森林伐採燃やしに主因があると、専門家はみなしています。もちろんスランゴール州などで乾季に起きるピート炭の地下火災、心ない住民や業者が違法に野原で物を燃やすことから起きる煙、自動車の排気ガス、などもヘイズ状態に起因していますが、やはり一番の主因はスマトラ島の多分に違法である森林伐採燃やし にあるというのが、衆目の一致した見方でしょう。インドネシアの環境大臣が、スマトラ島の煙がマレー半島に及んで申し訳ないと語ったといういうニュースが載ったように、この森林伐採燃やしは公然のできごとです。
カリマンタンやスマトラで毎年繰り返される、農園開発のための森林伐採と燃やしに対して、ヘイズ被影響国であるマレーシアとシンガポールは、以前から管理や予測の協力をインドネシアに申し出ています。具体的に消防活動に手を貸したりしてきましたが、肝心のインドネシア政府が、多分に違法である森林伐採燃やしをコントロールできないことから、毎年毎年伐採し燃やし、煙がはるばるマラッカ海峡を超えてマレー半島に及ぶ。よってとりわけ西海岸側の首都圏やマラッカ、ペナンなどでヘイズ状態になるのです。ボルネオ島では、インドネシアのカリマンタン側の森林伐採燃やしの煙が、隣り合ったサバ州、サラワク州の空にヘイズをもたらす主因となっています。
ほとんどの方は、一体全体、100Km前後離れたマラッカ海峡を超えてなぜこれほど多量の煙が、マレー半島にまでやって来るのか不思議に思われるでしょう。単に数時間程度でなくなる量ではないので、まさに想像を絶する煙量に違いありません。
私はマレーシア、タイまでが大ヘイズ状態に見回れた90年代の終わりごろ、そのヘイズの終った1、2ヶ月後にスマトラを訪れて、バスであちこち旅したことがあります。山間部を走るオンボロバスの車窓から眺めた光景は今でも思い出せます。見渡す限り且つ行けども行けども、燃やし終わった山野が続きました。ほとんどクアラルンプールの広さに等しいのではないかと思えるほどの広大な山野が燃やされた光景を我目で見た時、この広大な面積を燃やしたからこそ、煙がマラッカ海峡を超えてクアラルンプールにも及んだのだなと、実感しました。実際に燃え盛っていたら、もちろんバスなどは走行不可能ですが、それは天地を焦がす情況だったことでしょう。
インドネシアが、近隣国から環境にも人間の健康にも害をもたらしていると批判を受けている森林の無差別伐採兼燃やしの慣習と行動を未だにコントロールできないのは、インドネシアという国自体の構造・性格に多分に原因がありますから、1年や2年でこの森林の無差別伐採兼燃やしが減ることは期待できないはずです、ましてや燃やしがなくなるなどとはまったく期待できません。
良くも悪くも、この場合は悪い面が多い、そこがインドネシアだといえるでしょう(バリ島だけを見ていては、インドネシアはわかりませんよ)。といって私はインドネシアを弾劾しているわけではありません。別にインドネシア通などというつもりはまったくありませんが、インドネシアとの付き合いは薄いながら20年以上あるので、それなりにどんな国か自分の中でまとめることはできます。
よってマレーシアはこの先も当分、時に視界が数キロに落ち、焦げた臭いさえ感じるヘイズ状態に見回れることでしょう。とはいうものの、今日の午後のひどさは相当なものです。雨が降ってしばしでもいいから、空と空気をきれいにして欲しいなあ。
つい最近の8月16日、インドネシアのアチェに関するニュースが外報ページに大きく載りました。日本で多少程度は外報ニュースになったかもしれませんが、それに注意を払った方は極めてまれでしょう。といってマレーシア人でも興味ある方はごく少ないでしょう。
30年来インドネシアからの分離独立を掲げて、インドネシア軍部と政府相手にゲリラ的に戦いを行ってきた、自由アチェ運動GAM とインドネシア政府の間で、和平協定が15日に結ばれたのです。和平協定はこれまでずっとその仲介をしてきたフィンランドのヘルシンキで、インドネシア政府の代表と亡命しているGAM 指導部との間で調印されました。
分離独立闘争で万を超える人命が失われています、インドネシア政府は2000年代に入ってまもなく、アチェへの外国人の立ち入りを禁止しました(バンダアチェへ唯一飛行機で入れるぐらいです)。この禁止措置の前に数回アチェを訪れた私は、多少なりともアチェの状況に興味を払ってきました。そこへ昨年末のスマトラ沖大地震による大大被害です。
この和平協定でGAM は独立分離の方針を放棄し且つ武器も置くとのことです、一方インドネシア政府は軍隊をアチェから引き上げ、アチェに大幅な自治権を認め、来年には自治地方にするための立法をするそうです。その他色色と細かな取り決めがなされたとのことです。インドネシアという枠内で、アチェは独自の防衛隊、旗、経済的自由裁量権などの得ることになります。
なにわともあれ、この和平協定が両者であつれきなく予定通り実施されていき(なかなか簡単ではない)、アチェに平和が戻り、あの貧しい経済状況下にあるアチェが他の東南アジアの国に少しでも近づけ程度のインフラを整備できることを願っています。この時代に外国人訪問禁止にするようなことはまともな状態ではありませんから、アチェに多少なりとも興味を持つものとしてアチェが普通の状態に戻ることを期待しています。
アチェから海を挟んで数百キロ離れたマレー半島の境目あたりに位置する、タイの深南部3県:パタニー県、ヤラー県、ナラティワット県 では、依然として流血の事件が続発しています。武装反抗派によるとみられる、タイ治安部隊や政府寄りの地域住民に対する襲撃と爆弾テロは、残虐性を増しているかのようです。この1年半ほどで、双方ですでに合計1000人近い犠牲者が出ているとのことです。
当サイトの読者の方であればすでにご存知のように、Intraasia はタイ深南部を数多く訪れてきたことから、この問題に関心が高くこれまでにも何回かコラムでも載せてきました。タイの仏教徒支配層側と全国では圧倒的少数派であるが深南部3県では多数派であるムスリム(マレー系)側との間で起きている紛争という、公式的なありきたりの捉え方だけではこの紛争問題はよくわかりません。私もよくわからない。
何か別の要因も働いているのは間違いないです。しかし数万人の警察と軍隊を動員しながら、タイ支配層は依然として深南部3県の安定化に成功していません。武力で解決できるわけないのに、そして多くのタイムスリム指導者層もそれを訴えているのにです。
今年2月訪れた時、私の行った先々で襲撃と爆弾破裂があった(ただし同日ではない)件は、「今週のマレーシア」で書きましたね。つい2、3年前まではこんな危険ではなかった。住民だけでなく訪問者としての私もものすごく残念に思います。
アチェでの和平協定締結のニュースを知って、タイ深南部3県でもこういう方向性をさぐるべきだと感じます。もちろん国柄と地理的位置、宗教的違いなど、幾多の違いはありますから、ことは極めて困難です。しかし住民が安心して住めない、外国人が安心して旅行できないような地方では、地域の圧倒的多数派の人々にとって不幸ですから、なんらかの解決策と妥協作は必要です。タイ深南部3県がアチェのように数十年もかからずに、安全な地方に戻れる日の来ることを願っています。
今日(25日)の「新聞の記事から」 に ”マレーシア人アイドル 2” のニュースを載せました。これは民放TV3局系が主催する 視聴者参加型の選抜式の新人アーティスト探し番組です。2ヶ月ほど前に終った衛星テレビAstoro主催の ”Akademi Fantasaia 3” と内容は同じではないものの趣旨は似たようなものようです。
今年で3回目を迎えた Akademi Fantasaia 3 はマレー社会、とりわけヤング層に社会ブームさえ巻き起こしたようで、優勝者Mawi は今や有名人、人気者です、なんとPAS党主催のコンサートが彼を呼んでいるという、前代未聞のできごとまで引き起こしています。
Akademi Fantasaia 3 ほどマレー色の強くない Malaysian Idol はその2回目、昨晩決勝フィナーレで 華人のDanielが優勝しました。金曜夜からの視聴者投票はなんと160万票にも達したとのことで、彼はライバルのマレー女性を引き離した68%を獲得です。投票のその多くがSMSだったことでしょうが、160万票という数に驚きます。Akademi Fantasaia 3 の場合はもっと多かったのではないかな? いずれにしろ、近辺この2つのスター探し番組での視聴者の反応と応援は驚くべきものがありますね。いや驚くのは私がヤング層ではないからかもしれません(笑)、いまやこういうスター探し番組とその候補者に夢中になるのは、ヤング現代文化の一つなのでしょう。
日頃テレビを見ない私ですが、珍しく Malaysian Idol 2 番組を今月2回見ました、ただし決勝戦ではない。確かに番組自体興味を持つような構成になっていますね。候補者はマレーシア語曲と英語曲を混ぜて歌っていました、Malaysian Idol 2 がより複数民族対象にした番組であることを強調する意味合いもあってのことでしょう。
今回 華人のDaniel李吉漢 が優勝したことで、今日の華語新聞は大きく載せています。テレビで見た限り、彼はマレーシア語の歌も英語曲も上手くこなしており、マレーシア人アイドルに ふさわしいかのようです。華語紙のインタービューではいつか華語のアルバムを出したいと語っています。
マレーシアの歌謡界は見事に、言語別にわかれています。マレー歌手が華語曲を謡うのは例外中の例外であり、華語歌手はマレーシア語曲をごくたまに歌ってもそれをアルバムに入れることは稀少といえます。こういう時、マレーシアンアイドル 2 として選ばれたこの華人歌手が、マレー歌謡界と華語歌謡界の両方で活躍できるだろうか。
両界でそれなりに成功するのは非常に難しいとは思いますが、やってみる価値はあるといえるのではないでしょうか。ただマレーシアのファン風土を考えれば、その場合どっちつかずの結果になってしまう可能性もありますね。
アイドル自体には昔から特に興味はないけど、マレーシアのマレー歌謡曲も華語歌謡曲も両方を好んで毎日聞いている私の感想です。
このゲストブックに限ってはマレーシアに関係ないことも特に制限していませんので、これまでも私自身たまに無関係なことも書いてきましたし、また読者の中にはお書きになる方もいらっしゃいます。とはいうものの、なんかここに書くのは場違いともいえるのでいささか気が引ける面があります。
実はこの数日気になっているニュースがあるのです。英語紙も華語紙も国際面で大きく報道している、フランスでの暴動?無差別焼き討ち騒動 の件です。日本でどの程度大きく報道されているか、私は全く知りません。マレーシアの新聞は外電報道をそのまま掲載している国際面で大きく報道していても、一般マレーシア人がこれにそれなりの興味を持つことはまず考えられません。
一般マレーシア人は、マレー人であればアラブイスラム圏とインドネシア、華人であれば中国台湾及び日本という東アジア、インド人であればインド及びその周辺である南アジアのニュースに関心が高いのは、いわば自然なことでしょう。どの民族にも共通してそれなりの興味を持つのはいうまでもなく旧宗主国英国、次いで英語国でマレーシア人の好きなオーストラリアですね。しかしフランス語圏、スペイン語圏、スラブ圏、アフリカ大陸といった言語圏、地域への関心は極めて低く、知識もないのが普通です。まあ当然といってもいいでしょう。
昨日の外報ページを見ていたら、フランスではすでに千数百台の車が焼き打ちされたとして、各地(県)の焼き討ち自動車件数が載っていました。フランス全土で起っていますが、中でもパリとその周辺県が各段に多いですね、その中でパリに隣接した Seine-et-Marne 県が最も多い県の一つであることに気が付き、えーと思わず思いました。実はこの県は私のヨーロッパに没頭時代の初期(1970年代後半)に居候していた旧友宅のある地方が属する県なのです。よって私にとってフランスの中で最も馴染みのあった県です。
20代の一時期フランスに多いに興味あった私は、かなり熱心に日本でフランス語を習い、パリの街を何回も徘徊したものです。フランス自体への興味はヨーロッパ内の別の言語圏・他地域に比して増すことはなく、長続きはしませんでしたが、フランスは70年代と80年代を通じて数十回は訪れました。もちろんそれは近隣国からの立ち寄りの際、通過する際、などに単に1、2泊する場合がほとんどでした。
初めてフランスを訪れた時(1978年)、パリの地下鉄メトロで常に乗り合せた、見かけたアフリカ系人間の多さとパリの裏町の荒れた街の様子が私の心を大きく捉えました。それはそれまで日本で私が抱いていた、抱かされていたイメージとは大きく違うフランスであったからです。1970年代の半ば初めて渡った米国で、黒人が多いのは知識として知っていたのですが、それまでほとんど知識として持っていなかったヒスパニックに触れ且つそのコミュニティーの大きさに驚かされ、それをきっかけに米国社会を見る目が少しづつ変わるきっかけになりました。そのことが日本へ戻ってすぐスペイン語学習に向かわせる原動力になりました。
それと同じように、フランスで見かけたアフリカ系フランス人のけた違いの多さに驚いたものです。当時私はイスラム教とムスリムコミュニティーのことはわずかの知識しか持ち合わせていなかった。このフランス社会に存在するアフリカ系ムスリム社会のことをさらによく知るきっかけは、フランス初訪問から10年ほど後の東アフリカへの旅でした。チュニジア、アルジェリアという旧フランス植民地だった国家を放浪する中で、フランス語を話すムスリムアフリカ人の世界に直接触れたことです。
フランスは表現の自由精神の高い国です、それに私は強く同意する。一方で、白人フランス人が厳然と示すアフリカ系フランス人との距離感は、外国人である私にも強く強く感じられた。そんなアフリカ系フランス人と思われる人たちが多い、駅裏界隈と通りの光景は芸術の都パリ、瀟洒なイメージのフランスとは程遠かった、そんなパリの裏町の安宿に数多く宿を取った私は、2つのフランス像に惑わされていました。ただフランスへの興味が長続きしなかったので、それを追及することなく他のヨーロ−ッパに私の興味は移っていきました。
フランスに限らず”外国系国民”や長期滞在する外国人労働者は70年代80年代西欧先進諸国には実に多かったし、今でもそれは変わってないはずです。これまた数多く滞在し旅したドイツでいえば、明らかにドイツ文化に馴染めない様子の実に多くのトルコ系の人たち、そして当時たくさん働いていたもう一つのヨーロッパといえるバルカンの民に私は興味を覚えました。
ヨーロッパとヨーロッパ人へ憧れと良さと醜さは長いこと私を捕らえて放さなかった。ベルリンの壁崩壊の時、隣国にいてまじかにできごとを眺め現場を訪ねたのを最後に、そんなヨーロッパに別れを告げてもう15年過ぎてしまった。よって新聞が暴動・無差別焼き討ちのニュース報道する現在のフランスの状況はよくわかりません。しかしヨーロッパをヨーロッパとしている良さと醜さの根は決して15年やそこらで変わるものではないでしょう。ヨーロッパの自称”中心の一つ”フランスは極めてヨーロッパ的である、そのフランスが長年培ってきた醜さが、今起っているフランスの暴動焼き討ちの大きな原因の一つであるとの外電報道の見方には私も同感を感じます。さらに同報道が示唆しているように、フランスと同じではないが似た状況にあるドイツやベルギーやオランダといった”外国系国民”をたくさん抱える旧植民地支配国家に飛び火してもおかしくはないかもしれない。
ヨーロッパ没頭時代に私は、少数派コミュニティーと多数派コミュニティーの間に横たわる超えがたい距離感をいろんな国で体感し、興味を持ちました。その経験と知識がその後東南アジア世界に没頭することになった今日、役立っています。当サイトの定期的読者の方であれば、Intraasiaがしばしば外国人労働者に言及し、タイ深南部を描き、マレーシア先住民族の話題に興味をもっていることはお気づきでしょう。多数派世界に囲まれて生きる少数派の世界は、それがムスリム世界であろうと、危険が伴わおうと、私の興味を引いてきました(といってそれが唯一の興味の対象ではありませんよ)。
私事を書けば、1975年の夏羽田空港から(当時成田空港は存在していない)1枚の往復切符とカバン1個だけを持って1人米国に向かって以来、今年2005年は海外へ飛び出すようになって30周年です。当時と21世紀の現在では、日本人の海外行きの状況は天と地とまでは言えなくてもそれに近い差がありますね。とにもかくにも私は30年間4大陸、北はシベリアから南はサハラ砂漠、南アフリカまで放浪し時に滞在してきた。個人的には感慨ある30周年です。そんな個人の感慨などに興味ないよと言われるのはわかってはいますが、フランスの無差別焼き討ちのニュースが、私の旅人生の琴線に触れました。マレーシアに関係ないけどIntraasia の30周年にまつわる一つなんだな、と思って読んでいただければ幸いです。
皆さんご存知でしたか? 今日19日は”世界トイレデー”だそうです。今朝の新聞で、住宅と地方自治体省の副大臣がトイレ美化全国キャンペーンを開始する、との記事を読むまで私は知りませんでした。何事にも大臣級や州首相が表に出て且つマスコミに写真入で紹介されて、打ち上げ式を行うマレーシアですが、その後の中味はたいていがお粗末なので、正直言って、また行う ”トイレ美化キャンペーン”などに私は全然期待してません。
キャンペーンなどする以前に、喫茶モノローグのマスターは、ウエートレスがさぼってやらないトイレ掃除を毎週日曜やっているのです。言出しッペが率先して且つ長くやるのが、社会キャンペーンの秘訣ですな(笑)。
で新聞の別のページに、世界トイレデーにちなんでマレーシアのトイレ使用状況を皮肉った、面白い記事が載っていますので、かいつまんで紹介しましょう。書き手はマレーシア人です。
以下記事
マレーシアでは、用を済ませた後その身体部分を水で洗うというマレー人とムスリム文化を考慮することなく、西欧基準に従がって長年盲目的にトイレを作ってきた。そこでやったことのすべてといえば、トイレ便器内へ吹き付けるビニールホースまたは蛇口を設けたことです。
現実を見つめようではないか。西欧式の水で洗わない式の腰掛け型トイレは、一般マレーシア大衆には向いていません。我々は湿度の高く雨の多い気候の中で、濡らし、水を撒き散らす慣習があるのです。これに最も適した用具は、しゃがむタイプのがっちりとしたトイレです、願わくば水タンクとホースが壁に付いていることです。こうすれば、我々は足を濡らす以外は他の身体部分との接触なくトイレ使用できます。
以上
この書き手の見方・意見にはまこと同感ですね。ずっと昔の 「今週のマレーシア」でトイレのコラムを書いた頃と比べても、マレーシアのトイレ慣習と事情は全然変わっていません。身体部分を洗うために床が濡れているのは当然として、便器が濡れている(利用者が汚す)、便器の腰掛け蓋が壊れている(壊されている)、水洗がよく効かない(故障しても修理しない)、臭気がこもっている(換気が悪くまともな窓もない)、扉がよく閉まらない(作り付け自体が悪い)、ハエや蚊が煩い(消毒がなされていない)、暗い(外の光が入らないのに電灯が暗すぎる)、といった問題点は未解決のままです。
マレーシアのトイレがそのあるべきトイレ水準に満たないのは、トイレ使用のマレーシア人一般の公共意識と清潔保持意欲の欠如に並んで、トイレ設置してる店、ビル、会社、公共企業体、自治体などに改善の意欲が欠けることが二大要因です。マレーシアのトイレが最悪とは決して言いませんよ、東南アジアにはそれよりひどいトイレ事情の国はいくつかあります。しかしマレーシアのトイレはその経済発展度に見合っていないのです。もっときれいであるべきです。だからマレーシア人自身トイレのひどさを自嘲することは珍しくない。
日本人旅行者の中には、KLIA空港やペナン空港、5星4星の高級ホテル、KLCC Suriaショッピングセンターのような最上級ショッピングセンターぐらいでしか、トイレを利用したことのない、利用する機会がない方が少なくないでしょうから、そういう方は町の大衆食堂、2流ショッピングセンター、バスターミナルなどの普通の公共施設などのトイレを利用して、上記で私が描写した状況を経験されることがないことになります。よってピンと来ないかもしれませんね。自由旅行でマレーシア各地を回った方、回ろうとされる方は、多少の程度は違っても必ずや経験しますよ。
マレーシア人のトイレ使用悪癖の中で最悪は、便器の腰掛け蓋を壊してしまう、またはひどく汚してしまうことでしょうね。だから使用者は腰掛けられない、必然的に便器のあの細い淵に両足を乗せて!用を足す、または腰を浮かして? 用を足す、そのほかに解決方法はあるのかないのか、皆さん考えてください。こういう事象について、女性トイレの事情はよくわかりませんが、いろんなトイレ記事には暗示されていますし、大衆食堂トイレには男女別ありませんから、推定はできます。願わくば日本人女性経験者のお話しでも読みたいところです。といっても女性で口に出して言われる方はまずいらっしゃらないでしょうが。まあ、お馴染みの”ある好奇心旺盛な読者”にでも期待しておきましょう (笑)。
日本人旅行者に人気あるマレー鉄道の車両を思い浮かべて下さい。あのドアを開けて出入りするのさえしにくい狭くて使いにくいトイレは、腰掛け式も、しゃがみ式もあるが、床が水で濡れまくっており、足元が確実に濡れます。裾丈が足もとまである衣装姿のマレー女性はよりたいへんでしょうね。おまけに便器の腰掛け蓋も必ずぐらい濡れており、あの狭くて使いにくいトイレは一体だれが設計したのだと思います。マレー鉄道は今後買い換えするそうですが、現在でもほとんどの、多分全てかも、昼夜の急行車両は韓国製です。韓国で製造した時、マレーシア人のトイレ慣習を念頭に入れて製造したのだろうか?
トイレはどこでも、毎日使う所です、やはりそれなりにきれいで臭いの少ない、あまり濡れていない、明るいトイレであってほしいなと思います。ですから決して悪たれということではなく、マレーシア人一般の公衆トイレ意識の向上が、遅々としてほとんど進んでいないのが残念です。
11月26日の「新聞の記事から」 に載せた 『Imigresen 自身が出入国統計に不備あることを認める』 というニュースを読んで、唖然としました。Imigresenの長官が語る言葉の意味は、出国者数の統計が正確ではないと言うことですね。旅行者として(つまり社会訪問パスを押される)入国して、後日労働者パス、エクスパトリエイトパス、学生パス、家族パス、などに変更するので、出国時点では旅行者の統計から省かれる、これはまあわかります。パスの種類を切り替えるまで、その人のデータはImigresenのコンピュータ上には社会訪問パスで入国と入力されているだろうと、推測されます。しかし何らかの滞在パスに切り替え、または滞在を正式に延ばさない限り、データは入国のままのはずです。これを数えれば、相当程度数はつかめるように思えます。
しかし職員が忙しくて出国者数を記録する暇がない、システムダウンしたから記録できないというのは、出入国を管理する役所としてはちょっとまずいといえますね。その時の出入国記録はどうなってしまうんだろう? 外国人のパスポートに出入国スタンプを押さないことがある、確かにそうですね、マレー鉄道で入出国する場合はスタンプを押さない。空港や陸路検問所で押し忘れることがあるのかどうかは疑問です。この場合、外国人には入国カード、出国カードを提出させますから、それをもとにImigresenのコンピュータに入力するだろうと推定していましたが、この際出国カードを集めるけど、それを事務所に返ってキチンと入力してないのだろうか?
ところで出国カードを紛失する人は珍しくないので、カードを持たない人の出国はImigresenのコンピュータに入力されたデータ基準になるはずです。この時、非常に不安になるのはつぎのようなケースです:ある時システムダウンで入国がデータとして入力されてなかった、または集めた入国カードがまだ入力されていない、ということが長官の説明を読めば、理論的にありえます。するとImigresenのコンピュータにはその人のデータがないとなってしまいます。この時唯一の頼りは、パスポートのスタンプ基準となるはずです。
こういう人がパスポート紛失などになったらたいへんですね。違法入国者の疑いをかけられてしまいます。
さらに考えられるシナリオ: マレー鉄道で入国し、またマレー鉄道で出国する。その時入国時に受けた半券である出国カードを紛失などして持っていないと、その人の入国記録はコンピュータに入ってるはずですが、出国検査は車両の中で行なわれるので、その外国人は証明できません。さらにその人が、例えばジョーホールバルImigresen だけが実行するこの方針を、知らないような遠く離れたペルリス州とかサラワク州、サバ州の小さな国境検問所から出国する場合は、コンピュータ上に確実に記録されているか非常に気になります。ましてもし出国カードを失ったような状態だと、これは問題になりそうです。まあKLIAのような大Imigresenなら、ジョーホールバルImigresenのこの方針を知っている人は多いでしょう。
ある人がマレー鉄道で入国しマレー鉄道で出国、そして後日空路などで入国する、運悪くその人のImigresenコンピュータ記録は出国記録がデータ入力されずつまり入国だけして未出国となっている、こんなシナリオも考えられます。これまたImigresen係官から質問ぜめにあうことになりますね。
Imigresen の出入国統計で、2003年だけ見ると、日本人旅行者の入国者数 346、912人、出国者数 267、111人となっているそうです。なんと8万人も未出国となります。ありえませんよね、旅行者として社会訪問パスで入国してから、エクスパトリエイトバス、家族パスに替える人は1年間に1万人を越すことはありえないです。大使館に届け出た日本人在留者は1万人ちょっとですから。加えて学生パス、その他のパスに変更、滞在延長などをいれたって多寡が知れてます、多く見積たって数千人。一体なぜ8万人もの差が出るのだろう? 2002年から2003年にまたがって入出国する人の数と、2003年と2004年にまたがう人の数にそんなに違いはないでしょうから、この数は8万人の差を考える時に大きな要因にはなりません。
8万人という数が不思議です、わからない。Imigresenの出国入国記録の不完全さは疑問を増すことになります。
今日の新聞に次ぎのような記事が載っていますので、抜粋します:
クアラルンプール市庁翼下にある、クアラルンプール観光活動委員会は、節約旅行者とバックパッカ−向けにもっと宣伝活動をし施設を整えることを考えているとしています。この会議を主催した市長は語る、「我々の集めた情報では2つの範疇がある、まず通常の節約旅行者、次いで第2のグループはごく安い予算で宿を取る節約旅行者です。こういう旅行者はもしこの地が好きになれば次回は家族とやってきてもっと消費するでしょう。」
観光活動委員会はこの種の旅行者向けの戦略の細かな点は議論しませんでした。
ツーリズムマレーシアの長官は語る、「節約旅行者は大きな消費者です。彼らを過少評価してはいけません。国内に長く滞在し、宿泊には金を使わないけど、食べ物には金を使います。クアラルンプール市庁はバックパッカ−施設を向上させつつあります。」
これとは別に市長は明らかにしました、「観光客向けにクアラルンプール市内でダブルデッカーバスを運行する計画をしている会社がある、この会社は旅行ガイド付きプラス8言語による市内ガイド付きの10台のバスで来年中頃から開始したいとのことです。バスは可能であれば30分に1本で運行し、観光客は1日有効の切符で自由に乗り降りできます。バス1台の価格がRM 70万します。」
ツーリズムマレーシアの長官は語る、「このダブルデッカーバスはロンドンやフランクフルトで運行されているようなものです。他社も参加することを期待します。」
この会議には政府官庁、企業界、ホテル業界、マレーシア航空などから30人の人員が参加したとのことです。
以上抜粋
「宿泊には金を使わないけど、食べ物には金を使います」 なんて言ってますな。ああ、わかってないなあ、私のように第2級クラスに属する節約旅行者は、宿泊にも食べ物にも交通費にも買い物にも、要するに何に対しても金を使わないのです(使えない)。 この種の節約旅行やバックパッカ−の十分なる経験のない人たちがいくら集まっても、所詮第2級節約旅行者(つまり貧乏でも意欲旺盛な旅行者)の行動スタイルと意識は理解できないと思いますけど。こうした分野の発展は需要を敏感に嗅ぎ取れる民間業者や我々第2級節約旅行者の代弁者に任せておけばいいのにね。
まあ委員会の皆さんは”通常の節約旅行者”クラス以上の旅行者向けアイデアを考えて、その実施に力を注いだ方が無難だと思いますよ。クアラルンプール市内の観光地を巡る乗合式のダブルデッカーバスの運行ね? いいんじゃない。ただ同じようなことを、5年ぐらい前に当時のCityLinerバスが実施したのです。通常のCityLinerバスを使用したので運賃は数リンギット程度でしたが、見込み需要の読み間違いと対象層をよく絞らなかったこと、運行ルートの選び方の悪さ、運行時間が長すぎ且つ守れなかった、などの理由から結局半年程度で廃止されました。当サイトでも紹介していましたが、覚えていらっしゃる方はいますかな。
来年中頃始まるというそのダブルデッカーバスツアーはその豪華な車両ゆえに、つまり投資費用の高さから安価な運賃では無理でしょうから、対象層を引き上げるはずですね。上手に計画を練って、きちんと実行して成功することを今から願っておきましょう。ただ長年の第2級節約旅行者として思うのは、1台に予算 RM 70万も使うのであれば、私なら第2級節約旅行者向けにクアラルンプールの見所及び裏街路地裏徘徊ツアーを1年間催行してあげられるのになあ。もちろんミネラルボトルを抱えて乗合バスと電車を利用し足で歩き回る ”ダブルウオークツアー” ですな。
今週のある日、日帰りでペナン島へ行ってきました。目的はペナン島にバスターミナルができたそうなのでそれを調査するためです。好んで日帰りしたわけではないですが、宿泊代その他の費用節約のためであり、新バスターミナル調査後Komtar内外のバス情報も調べて、その日の夕方たまたまKLに帰る友人の車に同乗して帰宅しました。
クアラルンプールを朝8時前のバスで出発し約4時間で着いたのが、本土側からペナン島に渡るペナン大橋からそれほど遠くない場所である、Sungai Nibong に建つ新バスターミナルです。新バスターミナルそのもののに関しては、 「ペナン州総合案内」 のページに新項目を立てて詳しい情報を載せましたので、そちらをご覧ください。
新バスターミナルをひとことで評せば、確かに建物と敷地はそれなりにゆったりしているので中長距離バスターミナルとしてはまあまあといえますが、公共交通サービス面で都会州とは思えないほど大衆に不便さを強いてきた経歴のあるペナン州に見合った、不便なバスターミナルですね。なぜかは、これから書きます。
ペナン州のバスサービスのひどさは「今週のコラム」でも複数回書いて批判しました。例えば第346回の 『ペナン州にはなぜちゃんとした中長距離バスターミナルがないのだろう』 です。お読みください。
その中で私はこう書きました、「バタワースは人々の往来の多い大きな町であり、半島交通の要所の一つです。それなのにこのみすぼらしいバス乗降場のありさまは何なんでしょうか。 中略 田舎町の小さなバス乗降場ならいざ知らず、半島部で有数のバス交通量を誇るバタワースのバス乗降場が青空広場であり、まともな待合場所すらない、切符販売所が陸橋の軒下にある、一体これは何なのだ、と憤慨せざるをえません。」
「こうしてペナン島発着の大多数の中長距離バス用としてのバスタミナールがペナン島には存在しないのです。ジョージタウンはあらゆる意味で都会であるにも関わらず、中長距離バス用のバスターミナルがいまだにないのです。」
とにかく、ペナン州は半島部11州の中で、中長距離バスサービスの面では劣るグループに長年属しています。工業発展州なのにペナン島にはまともなバスターミナルがなかった。それがようやく新しいバスターミナルができたというので、実地調査に行ってきたわけです。ジョージタウンの中心部から実に遠い、非混雑時間でも Komtarまでミニバスでゆうに30分かかりました。土地の面でバスターミナル用地を手当てできなかったからとでも推測しておきます。これほど中心地から遠い、州都バスターミナルはアロースターだけですね。
この新バスターミナルの最大の弱点は、つまり利用者を多いに不便にさせている点は、ペナン島内を運行する乗合バスを全く発着させないことです。文字通り中長距離バスターミナル専用です。バス乗客は、誰か自家用車で送迎してくれるのか、そうでなければタクシーを使いなさいという意識があからさまです。たくさんのタクシーが待つタクシー乗り場はバスターミナルの敷地に隣接しています。
半島部の州都に存在するバスターミナルで、利用者の乗り換え足の便宜を軽視した中長距離バスターミナルはコタバル、クアラトレンガヌ、カンガー、クアンタンだけです。ただクアラトレンガヌは市内中心部まで徒歩10分の近距離なので、まあ乗合バスがなくてもまあがまんできます。カンガーは国内最少の州で、ペナンのような大人口州の6分の1弱ですから、比べるのがおかしいし、カンガーの中長距離バスターミナルも市内の中心に近い所にあり、乗合バスターミナルまで決して歩けない距離ではない。コタバルは中距離バスは州内乗合バス乗り場に近接しており、長距離バスターミナルだけ相当離れています。でもペナン島の場合ほど離れていない。クアンタンは中長距離バスターミナルは十分市内にあるが、乗合バスターミナルまで徒歩で15分以上は離れている、便利とは言い難い。
スレンバンのバスターミナルは中長距離と州内バスが一個所にまとまったバスターミナルです。市内中心部から離れているアロースターの中長距離バスターミナルは、その同じ敷地内に州内乗合バス乗降場が設けてあり、ジョーホールバルのLarkinバスターミナルも中長距離と州内乗合バス乗降場が一体化しています。もっとも優れた、まだできて2年足らずのマラッカのバスターミナルは中長距離と州内乗合バスの乗降場が全て冷房待合室であり、この2つがたいへん機能的に結合している。この4つは乗り換え足の便が十分良い。
それなのに今年中頃できたばかりのこのペナン州の新中距離長距離バスターミナルはなんなんだ! ジョージタウン中心部からかくも離れ、場所はジョージタウンではなく、その上ターミナルからちょっと離れた一見見えない場所にある州内乗合バス停留所の情報さえ、ターミナル内には一言の表示さえ掲げていない。これでは地元に慣れてないマレーシア人バス利用者だって気がつくはずがない。まして外国人旅行者にはわからない。タクシーを利用しなさい、ですね。バスターミナル正門前に、極めて長い運行間隔のイエローバスが手を上げれば停車します。しかしバス停の印は一切ない。そこにバスが停まることを知っていて、気長に待たない限り利用できない。私はバスターミナル内外に2時間以上滞在し観察してこれらを確認しました。なぜバス停の印さえ掲示されてないか? バスターミナルに隣接したタクシー業者の存在を見れば明らかです。
バタワースの中長距離バスターミナルをご覧ください、待合コーナーと切符売り場は橋の下ですよ、冗談ではなく本当です。こういったことに不満を述べるのは、もちろん私だけでなくマレーシア人利用者も不満を投書などにしています。そしてようやくこしらえたペナン島の新バスターミナルの利用者軽視の姿勢、さらにKomtar下に長年ある州内乗合バス乗降場の暗く、臭く、案内のほとんどない利用者無視の姿勢、ペナン州は相変わらず、バス利用者にサービスを提供し便宜を図るという理念がこれほどまでに少ないのです。州行政幹部と州トップ政治家は自分でバスを全く利用しないか、バスターミナルの行き帰りは送迎の足がちゃんとあるんのでしょうね。
マレーシアイスラム消費者協会は、クアラルンプールのチャイナタウンの商売ぶりをマレーシア語紙上で批判して、「チャイナタウンの商売人の中にはギャングみたいに振舞う者がいる、その品を買わない客の財布を押さえて脅すようなことをする商売人がいます。当局はクアラルンプール市庁、国内取引と消費者省、警察から構成される特別の組織を立ち上げてこれらの問題に取り組むべきです。」
チナタウンを訪れる客、とりわけ外国人から嫌がらせを受けたとの苦情が何件もあるとして、協会幹部は、「こういったガイドラインは商売人の態度に注意をあてるべきであり、彼らにもっと道徳的に振舞うように規定すべきです、」 と主張しました。
クアラルンプール・マレー人屋台人と小商売人協会の会長は、嫌がらせを受けながらもチャイナタウンで買い物する客たちも批判する、「そういう買い物客は替わりにチョーキット、マスジットインディア通り、ブキットビンタン街、Wangsa maju などへ行けば良い。そういった場所では同じような物が買えるのです。」
といった記事を(23日)読みました、まこと同感です。この何年かのチャイナタウンの商売は、昔から長年そこで屋台商売を営む人たちの商売熱心な街という雰囲気は薄れ、地元商売を盛り上げようという気などはなからない、雇われ若いごろつきアンちゃんたちの目立つ街になってしまった。それだけでなくチャイナタウン入り口の路上で車を止めて、誰彼となく声かけて客引きしているタクシー運転手を風体を見てください。メーターを使うようなまともなタクシー運転手は1人もいない。
物売り屋台人に雇われ外国人が目立ち且つ海賊版売りの若者が歩道の真中で台を広げて、横柄な態度と言葉で客に接している。やくざ組織を背後にしているために、心ある地元商売人と団体は誰も注意できない。当局の取締り官はよくパトロールしているが、最初から最後までずっとパトロールしているわけではないので、結果としてやくざな商売が幅を利かせている。
チャイナタウンの屋台街で売られている物とすべて同じ物が他所の屋台街で入手できるとは思わないが、同じような物はそれなりに売られているはずだ。例えば、徒歩で10分強の距離にあるマスジットインディア街では、チャイナタウンのような横柄な物売りにはまず出会わない。インディア街の入り口では海賊版VCD売りがいつも商売している、しかし彼らが歩道の真中を占有し、うるさく付きまとうようなことはない。もちろん屋台街です、親切丁寧きわまりない、なんてことはありえませんが、横柄無礼ではない。そこがいかにもマレーシア風らしさが感じられいいのです。
ということを昨晩(23日)書きました。ゲストブックに掲載しようかと思っているうちに忘れてしまいました。
今朝新聞を買いに行ったら、複数の華語紙が第1面で昨日チャイナタウンで行われた大掛りな取締りのニュースを載せていました。上段で紹介したような発言に当局は触発されたのでしょう。きっかけがなんであれ、結構なことです。当局はこういうマレー人業界とその幹部からの不満を聞いたから大取締りをやるのではなく、日頃から頻繁に且つ妥協なく取締りを続けて欲しいものです。
クアラルンプール市庁は以前からチャイナタウンを観光客誘致の目玉の一つとしています。チャイナタウンは高級ショッピングセンターと違うので同じ客扱いや商売態度はありえません、物売り屋台街です。だからこそ普通の物売り屋台街に感じる、以前の雰囲気にチャイナタウンを戻すべきですね。その場限りの好き勝手商売しているごろつき物売りを追放し、その名に恥じない、観光兼買い物場所にして欲しいものです。