・お正月に初笑いしながら覚えるマレーシアの知識と単語
・スマトラ島アチェとマレーシアの関わり及びアチェ旅行記から −前編- ・その中編 ・その後編
・数字で見たマレーシア、 その24
喫茶モノローグの店の扉を開けて、 「開け(明け)ましておめでとうございます」 と言いながらマスターが店内に入ってくる。
ひでこ:マスター、そのしゃれ2001年のお正月にも聞きましたよ。
マスター:そうか、覚えていたのか。まあそれはともかく、全員揃っていますね。まず Selamat Tahun Baru と読者の皆さんに挨拶しましょう
全員で口を揃えて:トゥアントゥアン ダン プアンプアン、スラマットタウンバル !
全員また口を揃えて:マスター、スラマットタウンバル。
マスター:それではまず、好例のお年玉を皆さんに配りましょう。
全員:わー、トゥリマカシ、サンガット トゥリマカシ。
ひでこ:1年に3回もお年玉類をもらって、ほんとこのお店で働けて幸せです。開いててよかったセブンイレブン、働いててよかった喫茶モノローグ。
まゆみ:しょっちゅう店をサボってる私も毎回いただいてまーす。マスターってお金ないのに、いつもたいへん気を使ってくれるんです。家で毎晩寝る前に感謝しなくちゃね。だからうちからモノローグの方向がすぐわかるように、寝室に "Kiblat" みたいな矢印をつけてあるんですよ。ひでこさんも付けた方がいいですよ。
まくまなす:お客の私にまでもお年玉いつもいただくのですよ。このお返しに、2月の中国正月にはお店にハンパーを贈ろうと思ってます。
全員:おー、それは期待してますよ。
ひでこ:今回のお年玉を含めて3回分をキラしてみると、わあすごい! 2ヶ月分の給料ぐらいある。
マスター: さすが、長年の従業員ですね。キラとは " kira " キラ と綴り、計算する、数える、という意味です。ついてはお店で客が 「お会計」と言う時にも使えますよ。
まゆみ:ということはお店では私はいつも伝票の キラ をやってますので、私ってキラキラ輝いてるんですね。
GamaHoim :アンティまゆみの場合は キラキラ というより ギラギラ ですな。
SSJ:はっはっは。そうギラギラといえば、私のお店ビジネスは、ギラギラ輝くマタハリに関係あるのですよ。
まゆみ:えー、マタニハリ? ”股に鍼” 打つのですか?痛そう!
SSJ: まさかー、 Matahari とは太陽のことですよ、うちの店はマタハリ焼けを作るお店です、読者の皆さん来て下さいね。
マスター:焼くときたら、さあお正月だからお餅を焼いて食べましょう。
コタバル:おー、餅バカールですね。
チョコレート:ロティ マニスがあるから 僕、餅マニス がいいな。
ひでこ:それは”甘い”考えだな、そんなのあるわけないでしょ。ところで ロティトゥルール のお好きなマスターは餅トゥルールですか?
マスター:”餅”ろん。
まゆみ:いつ聞いてもマスターのしゃれは自然体で、惚れ惚れしますね。わざとらしいアンクルGamaHoim のギャグとは格が数段違うなあ。それでは、飲み物は正月だからおとそだ。
コタバル:アンティ、おとそはハラムですよ。
まゆみ:ハラム? 私は ”孕む” ではいませんよ。コタバルさんの方が ”孕む”でませんか?
コタバル:アラマッ、孕むじゃなくて、ハラム haram です、イスラム教上では許されない、禁じられたという意味ですよ。イスラム教で許されない振る舞いとか摂取してはいけない飲食物に用いるんです。まったくもうー、アンティは早とちりなんだから。当店はムスリムにもトゥルブカされた店ですから、飲食物は スムア ハラルでーす。
チョコレート: うーん、マレーシア留学経験者のおしゃべりは難しいなあ、でもためになります。僕は Kretapi Tanah Melayu 通だから、今後は通らしく格調あるこの呼び方をして、女の子に印象付けようっと。
まゆみ:なんだ、おとそはだめなのか。それじゃモノローグの定番 テータレッがいいかな。
GamaHoim:テータレッ って、タレ(誰)が作っても美味しいね。
皆一瞬シラーとなる。
SSJ:餅だけでなく、果物も欲しいな。何がいいかなあ。
コタバル:ブアブアハンならもちろんドリアンです。
ssj :ドリアンはお店に臭いが充満しちゃうから止めましょうよ。替わりに果物の女王であるマンゴスチンがいいな。
まゆみ:マンゴスチン、大好きでーす。女王といえば、私のコンドミニアムは プトゥリ ウマス つまり ”金の王女”という名前ですよ。”金の王女” に住んで ”果物の女王”をいつも食べてますのよ。みんな、うらやましいでしょ?
ひでこ:うちの夫稼ぎが悪いので金には縁がないのです。でも 蜜柑(ミカン) にすれば金に縁が出て来るかもしれないなあ。蜜柑は金の親戚ですよね?マスター。
マスター:そう、その通りです。金は華人界では「カム」 と発音することが多い。「柑」 は「金」 と発音が同じであり且つ色も黄色、いわば金の親戚ですね。だから中国正月に華人は「蜜柑」を買って食べ、人に贈るのです。
GamaHoim: ということはアンティまゆみのマンション”プトゥリ ウマス”には 「金がカムカム」 なんだ、"gold come" か。
まゆみを除いて皆またシラーとなる。
コタバル:えーと、ここで口直しじゃなくて耳直しに スイカをポトンして皆で食べましょう。
チョコレート:なんでスイカをポトンですか?
コタバル:potong ポトンとは切るという意味でーす。スイカをポトンと切る、と覚えましょう。
チョコレート:さすが元留学生。パンダイなあ。
ひでこ:飲食物はこれでいいけど、やっぱり歌がないとちょっと物足りませんね。マスター、新年歌のCDありませんか?
マスター:西暦の新年を祝う歌は特にありませんね。マレー歌謡にそういうのはまずないはずだし、西洋英語歌謡ではクリスマス歌謡は一杯あるけど、英語新年歌をラジオで聴いた記憶がないですな。
ひでこ:それならやっぱり新年曲(歌)は 華人界の中国正月用の新年曲(歌)に限ります。
GamaHoim:中国正月用の新年歌のCD、VCDなら我が家に売るほど一杯あるぞ。もちろんぜーんぶ海賊版だ。毎年マレーシアに買い出しに行ってるからね。
SSJ: 歌ならマレー女性歌手がいいね。やっぱりきれいなMishaOmar, Dayang Nurfaizah がいいな。
まくまなす:うちの子まだ小さいけど、もうテレビやVCD見ながら一緒に歌って踊ってますよ。 将来のAkademi Fantasia 候補なんです。
GamaHoim:ほー、それは将来有望なキッドですね。
まくまなす:キッドといえば、うちの子供すでに子供持っているんです。
GamaHoim::えー、まさか。
まくまなす:MyKid って子供用の身分証明証のことなんです。だから "My kid has a MyKid" なんです。
ひでこ:まくまなす太太って、感心ですね、お客さんなのにしゃれも言えるんですか。私なんか、何年もモノローグに務めているのに、しゃれがまったく浮かばなくて。 あー Malu lah 。
まくまなす:これもひとえにマスターのおかげです。贈るハンパーは大型のにしなくちゃね。
チョコレート: 安物の Hwa Tai ビスケットなんか入れないでくださいね。
まゆみ:えーなんで? Hwa Tai ビスケットって美味しいので、100円ショップで一杯買い置きしてあるのよ。我豪華マンション”プトゥリ ウマス”で毎日食べてます、うらやましいでしょ?
ひでこ:まくまなす太太、 Boh Tea 紅茶のゴールドブレンド箱も入れてくださーい。私、紅茶に目がないんです。
GamaHoim:賛成、Boh Tea 紅茶 は美味いからね。我が家にはBoh Tea 紅茶が売るほどたくさん買いだめしてあるぞ。
ssj:日本にはないカヤなんかも入ってるといいな、チョコレート君もきっと好きだと思うよ。
チョコレート:はい、カヤ 好きです。マスター、カヤって別の意味で 「お金持ち」 っていう意味がありますよね?
マスター:そうよく知っているね。その意味では全然別の単語です、例えば オランカヤ Orang kaya と書いて「お金持ちの人」っていう意味になりますよ。
チョコレート:”カヤ”を一杯食べて、将来アンティまゆみみたいな オランカヤ になりたいです。
コタバル:カヤはそれくらいにして、ココナツって飲むだけでなく、その後もとっても役に立つんですよ。私が時々訪ねるケダー州の田舎ではココナツの殻の内側を削って、料理に使ってましたよ。
コタバル:ココナツの外側殻も役立つんですよ。燃やして燃料や虫除けにもなるんです。ココナツつまり椰子の葉はマレー菓子の包みにもなるし、椰子の葉脈は束ねてほうきとしても利用されるんです。ココナツって、丸々ぜーんぶ役にたっちゃう。
まゆみ:何、マレー菓子だって、待ってました。マレー菓子、さあ クエ(食え)、クエ(食え)。
ssj: おー、アンティの口からシャレがでるなんて、年1回のことかな。
まゆみ:アイヤ−、見下さないでよ。私、モノローグと改名する前のお店から務めているくらいの 古株んちょ ですよ。このシャレは以前マスターに教わったんで、1度は言ってみたかったんです。お正月に念願のしゃれを言えたので今年は幸先いいです。
ここでマスターが Cuti-Cuti Malaysia のCDをかける。
全員:あ、チュチュチ マレーシアだ。
ssj: この歌は Siti Nurhaliza が歌ってますね。 やっぱり Siti は何を歌っても上手だね。でも Ziana Zain はもっといいぞ。Malaysian Idol優勝のJac もいけますよ。
ひでこ:この華語版は 郭美君 が歌ってるのです、私華語版の方が好き。彼女のCDも通販で買ってちゃーんと持ってます。
まくまなす:私もどっちかいうと、華語版がいいです、でも子供には両方覚えさせます! だから子供を通わせているタディカ は3語教育なんですよ。
GamaHoim: うちは何語版でも好きやねん、メロディーが心地ようおますな。これを聞いたからには今年は3回ぐらいマレーシア旅行しようと思うてます。海賊版1000枚買うてきまっせ。
チョコレート:僕は今年も Rail Pass の15日間を使ってマレー鉄道、いや Kretapi Tanah Melayu の全線を乗りまくります!
まゆみ:残念ながら足腰がちょっと衰えて大好きなシパダンでのダイビングできなくなったけど、その分クアラルンプールやペナンの5星ホテル・リゾートのプールで一杯潜ります!
ssj:僕は人の”世話”するのが好きなんで、部屋をいくつか貸してます。今年は貸し部屋を増やして”セワ"収入を倍増させます!
コタバル:私看護師だから、あまり休めないんです。でも病院からなんとか休暇もらって、思いっきりバックパッカ−しちゃいます!
ひでこ:私だけなのね、マレーシアに行けないのは(ぐすん)。でも毎日インタ−ネットでMyFM 聞いて、星洲日報 で毎日娯楽ニュース読んで、通販で中文歌謡VCD買って、今年も華人歌謡の追っかけします!
マスター:皆さんの今年の抱負発表は終ったようですね。それでは全員で読者の皆さんにもう1度新年の挨拶をしておひらきとしましょう。
全員声をそろえて大きな声で: スラマット タウン バル、 ドゥアリブリマ (拍手が続く)
おしまい。「喫茶モノローグ」 のウエートレスお2人と、当サイトによく書き込まれる方々に登場してもらいました。文中では敬称略とさせていただきました。
12月26日に発生したスマトラ沖地震は、皆さんご存知のようにことばに言い尽くせないほどの甚大な被害と犠牲を10カ国近い国々にもたらしました。そしてその悲劇はまだ終っていませんし、この後遺症はこの先長く続くことでしょう。この地震の震源地はもう少し正確に表現すれば、スマトラ島最北部に位置するアチェの東方沖ということですから、恐らくアチェが最悪且つ最大の被害を被った地方ではないかと、地震発生後何日も経ってから言われるようになったのは無理もありませんね。
この超強力な大地震のことを知れば、しろうと考えでも、至近の距離にあるアチェがどれほど強烈なゆれと大津波被害を受けたかが想像できます。この地理的要因に加えてアチェの被害を最悪、最大にしているもう一つの要因に、アチェの置かれている経済的及び地政学的状況・状態があります。この状況・状態が次ぎの3つの現象を生み出しています: 1.アチェという地方がインドネシアの外にはほとんど知られていないこと、 2.そこを訪れたことのある外国人が極めて少ないこと、 3. この数年インドネシア政府が、アチェへの立ち入りを西欧マスコミを含めて外国人に制限または禁止していること。
このため、地震が発生してから数日間、アチェの被害状況はほとんど西欧マスコミとその情報を主として利用している各国のマスコミ、マレーシアもその一つ、に現れなかったし、これは日本のマスコミでもそんなに違いはなかったのではないでしょうか。少なくとも私の見聞した限りはそう判断しました。そこで私はどうもおかしいな、という疑問を持ったのです。その表明も含めて、私は12月30日のゲストブックで次ぎの小文を書き込みましたので、再録しておきます。
以下ゲストブックに書いたもの
今週は毎日悲劇を伝える記事を読み、悲惨な写真を目にしているので、どうもすっきりした気分になれませんね。私自身が旅人であるためこういった場所を訪れてきたことから、大被害に遭った国のいくつかは私にたいへん馴染みあるし、マレーシアは最少被害であったとはいえ地元ですからなおさらです。この被害の大きさと膨大な数の犠牲者にはまことやりきれませんね。
スマトラ沖地震の震源地はもう少し正確にいえばスマトラ北部のアチェ地方の西海岸沖ということになります。こういう説明を日本や他国でしているのかどうかしりませんが、マレーシアの華語新聞は 最初からアチェ沖と書いていました。
甚大被害を受けた国・地方の中で、私を一番重い気分にさせるのはアチェです。
スマトラ島は、その面積がマレー半島よりはるかに大きな巨大な島です。ですから旅していてもそこが島などとは全く感じませんし、島と意識している住民など一人もいないでしょう。アチェとはスマトラの北部の最北部一帯を示す地理的用語であり、且つ民族名です。インドネシアは何百かの民族から構成された国ですから、その一つです。当然言語も独自のアチェ語です。しかし国語のインドネシア語は学校教育語、官用語、ビジネス語、テレビの使用語なのでちまたでも広く通用します。
アチェもインドネシアの他の地域と同じく、インドネシア語とその地方の言語という2言語併用、時には3言語併用の地方です。しかし外国人には地元語での会話はまず不可能ですので、インドネシア語だけとなります。英語は白人が訪れるダイビング地などごくごく限られた点だけで通用するだけで、はっきりいってインドネシア語が多少でもできない限りまともな行動は全くできません。
アチェは世界の紛争地図に載っています。それはもう数十年来続くアチェ自治権獲得またはアチェ分離独立運動とそれを抑える(多分に圧制、時には弾圧といえる)インドネシア政府と軍部と間に争いがあるからです。2000年以後争いが激しくなり、実質はインドネシア政府・軍部による抑えが激しくなったといえるでしょうが、政府はこの数年外国人のアチェへの立ち入りを禁止しています。
今年アチェの一部の地方のみ外国人解禁となったと、しばらく前にニュースで知りました。もちろんアチェのいわば首都ともいえるバンダアチェと そこから遠くない孤島Weh 島は外国人も変わらず訪れることはできました。私も訪れた孤島Weh 島はダイビング地として西欧ダイバーに知られているそうで、空路バンダアチェに行き、島を訪れる外国人ダイバーが結構いるようなので、アチェへ行ったと称する人もいます。しかしそれはアチェを見たことにはまったくなりません。
私は紛争が小康状態であった1990年代終わりごろ数回アチェを訪れました。スマトラは東南アジア好きの日本人旅行者でも訪れたことのある方はごくごく少ないはずです。日本のインドネシア観光地図ではスマトラはほぼ存在していませんし、この地方を書いたまともな日本語ガイドブックはないはずです。例え訪れてもトバ湖、ブキットティンギ、パダンのような観光地だけで終ってしまうでしょう。もし相当なる東南アジア好きがいてアチェを訪れたことがあっても首都のバンダアチェと Weh島まででしょう。
なぜアチェは、白人を含めてそれほど外国人旅行者が訪れないか、一つには紛争地域ということがあります。もう一つにはインフラが相当悪い、旅行者がある程度快適に過ごせるような場所はたいへん少ない。アチェの東側つまりマレー半島に面している方は油田などもあり、スマトラの基準で言えば発展している地方で、大きな町 Lhokseumawe もあります(そこが紛争高潮期に虐殺の舞台になりました)。メダンからはバンダアチェへの冷房バスがたくさん運行されています。東海岸の町部だけを眺めている限り、アチェの本当の姿は半分しかわかりません。
一方アチェの中部はたどり着くのも1日かがりの山間地帯、今回、沖の地震源に面した西側は山間地帯と同じくアチェの中でも開発の最も遅れた地方です。開発ということばが不適当と思えるほどの状態です。この中部と西部のアチェを訪れると、アチェの姿がわかります。私は東南アジアを25年ほどうろついている人間で、しろうとではありません。東南アジア各地で相当なる旅を重ねてきた者から見て、アチェの山間部と西海岸部は、東南アジアの最貧で最低インフラである地方の一つといえます。カンボジアよりもミャンマーよりもある意味では悪い、なぜならこの両国は案外たくさんの外国人旅行者がうろついているからです。そういう所には僻地でも旅慣れた者なら、まあ過ごせる施設があるのです。
いくら私がこう書いても東南アジアの貧困地帯を実際歩いた経験のない方には通じないことを知っています。それほど発展に縁がなく、且つ外国人立ち入り禁止となってしまったアチェの山間部と西海岸部は、この超巨大地震の震源地から200‐300Km 程度しか離れていないのです。しろうとの想像でもどれくらい破壊力がこの地を襲ったかです。
西側マスコミから隔絶され、さらにインドネシアマスコミも自由に報道できない、さらにまともな通信手段も限られたこの地の被害報道は、地震の後2日ほど抜け落ちていました。私にはいささか奇妙に思えました。震源地からかくも近いアチェの被害がかくも少ないのは解せないと。
しかしようやく状況が少しづつわかってきたようで、アチェに入ったマレーシア人記者は書く、インドとスリランカの被害が最悪と報道されているが、本当の最悪はアチェではなかろうか、と。
アチェ西海岸の中心町 Meulaboh は壊滅したようだと、空からの写真から判断されると出ています。その町にも私は泊まったことがある。別に特徴もないただの埃っぽいアチェの町です。町を一歩外れれば、産業と呼べるものは全くない田舎です、つまり人はいっぱいいるが、限りなく貧しい。アチェを旅していて、今も私の頭に残るのは、救いようのない貧しさ、衛生状態の悪さ、インフラのひどさです。これはマレーシアやタイでは全く感じられません。
インドネシア政府でさえアチェでは数万人は死亡しただろうと推測し、ただ確認する手段さえまだ確保してないそうです。無理もないでしょう、あの交通不便地方ですから。被害後の病気蔓延が真剣に心配されています。普段から悪い衛生状態はこの被害で生き延びた住民をも死に招くでしょう。
10数年前、ずっと海岸線を旅しスリランカのあの海岸部も壊滅状態で、屍累々と報道されています。まことこの地震は私の古い訪問地の記憶をよみがえらせ、悲しい気持ちにさせます。
以上ゲストブックに書いたもの
スマトラ島とマレー半島の間はマラッカ海峡です。マレー半島部の南端に近い所は海峡幅がぐっと狭まっており数十キロしかありません。ペナン島とアチェのあるスマトラ北部の間での海峡幅は広くなっています。それでもペナン島と(スマトラ内陸部の大都市である)メダンに近い港までの距離は約250Kmほどです。ペナン−プーケット間の距離よりもペナン−メダン間の距離の方が多少短いのです。
この地理的近接さから、マレーシアとスマトラ間には船便が定期運行されています。マレーシア側の発着港はペナンのジョージタウン、スランゴール州のポートクラン、ヌグリスンビラン州のポートクラン、マラッカ州マラッカ、ジョーホール州のムアールです、さらにスマトラ島の属小島までの船便がジョーホール州 Kukupから運行されています。毎日複数の便がそれぞれの港から発着しているのは、それだけ多くの人がマレー半島とスマトラを往来しているからですが、その多数派はインドネシア人であり、次いでマレー人ですね。白人や日本人の旅行者をこの船便の乗客に見るのはごく少ないと言っても間違いではありません。
上左の地図で、MEDAN と書かれた左側に縦に走るピンクの線がありますね。この線の左側がアチェです。尚アチェは、インドネシア語名だと Aceh と綴られており、マレーシア語及びマレーシアの地ではAcheh と綴られていますので、このコラム文中ではこの2つが混在します。
推定人口 450万人を擁するアチェ全体の面積は6万平方キロ弱です。アチェの周囲、とりわけ西海岸、には小さな島が数多くあり、約100島あるそうです。北海岸及び東海岸部と西海岸部に挟まれた中部は山岳地帯で、最高峰はLeuser 山 標高3466mです。
インドネシア国内には27の州があります。アチェはその一つの州をなしており、その中が8つの県に分かれています。アチェは特別州であり、そこでインドネシア語では 「Daerah Istimewa Aceh アチェの特別地」 というのが正式名です。ジャワ島にあるYogyakarta と並んで宗教面などでの自治権が認められている地方です。宗教的には住民の95、6%がムスリムだそうで、インドネシアの他の地方に比べてイスラム教の非常に強い地方です。
これは歴史的にアチェが持つ特色と独自性のためであり、その他石油の権益などのこともあって、アチェでは自治権強化を求める指向が強いという解説があります。さらには独立を掲げる反政府組織GAM (自由アチェ運動)が存在しています。このGAM とジャカルタ中央政府及び軍部との衝突が数年前劇化したため、政府はこの数年外国人立ち入り制限・禁止措置を取りました。しかしこの内実は、本当に衝突なのか、軍部のGAM殲滅作戦の一環なのか、幅広い報道がほとんどないこともあってよくわかりません。
アチェといえば、マレーシアシアと、とりわけ半島北部のコミュニティーと、結構深い縁と関係があるのです。よく知られたところでは、ペナン州ジョージタウンの古い中心部にはLebuh Acheh (アチェ通り)というのがありますよね。ペナンと交易の深かったアチェ人がその地区に集団で居住していた名残ですし、その名を冠したモスクもあります。その昔メッカへの巡礼が船によって行われていた頃、マレー半島北部、タイ南部、スマトラ北部のムスリムがこの地に集合してメッカ船旅に出たとのことです。そのためこの地に宿屋、船便斡旋などの関連商売が栄えたそうです。
アチェはかつてスマトラの強大なスルタン国でありマレー半島にも影響を及ぼしていました。そこでその様子を、1月3日付けの英語紙 Star に載った解説記事で、Dr. Lee Kam Hing という方が簡単に描写していますので、抜粋して訳します:
アチェでは胡椒栽培が16世紀初期から始まっており、そのことでアチェが世界的に知られるようになったのです。その当時すでに商品を積んだ船は紅海まで航海していました。18世紀終わり頃には世界の胡椒需要が増加した。西海岸側の Meulaboh は胡椒の主要地でした。1826年、アチェは世界の胡椒生産の半分を輸出していたのです。バンダアチェと西海岸側へ外国人の胡椒商人がやって来ていました。
(18世紀19世紀アチェは胡椒貿易の世界の中心地であった、19世紀前半は数多くの米国船が訪れて胡椒を積み出した、と解説した部分は省略)
(アチェの持っていた諸外国との関係の中で) 非常に親密であり、長続きしたのは、(現在の)マレーシアのいくつかの州と持っていた関係なのです。 この関係において最もできごと多き期間を特徴づけるのは、それぞれの支配者(スルタン一族のことでしょう)間における交易、争い、婚姻です。
、アチェが現在のケダー州、ペラ州、パハン州、ジョーホール州にその支配を及ぼした時期が17世紀と18世紀にあった。その中でアチェスルタンの一人はパハン州出身の王子であった。ペナン州がうち立てられた1786年、アチェ人交易者らがまずペナンにやって来た。以後毎年何百隻もの船がやって来た。アチェ人の交易者と移住者は、ペナン州の現在Lebuh Acheh アチェ通りと呼ばれる地区を作り出した。
その地区には、当時ペナンで最も豊かな商人の一人であったアチェ人 Syed Hussein Al-Aidid の胡椒倉庫と事務所があった。彼は1815年に短い期間であったがアチェのスルタンとなった。このLebuh Acheh 地区はペナンの胡椒貿易の中心であり、長年の間に多くのアチェ人交易者が不動産を購入しました。 Lebuh Aceh に現在も建つモスク(Acheen Street Mosque) はSyed Hussein が建てた( 1808年)のであり、長年続いていたペナンとアチェ交易の証でもあります。
強い交易関係はとりわけペナン華人とアチェの間に発展しました。例えばペナンの初のカピタンチナである Koh Lay Huan です。彼は英国人支配者のFrancis Lightによってアチェに派遣され、ペナン島のプランテーション用に植える胡椒の木を入手したのです。ペナン州が設立される以前にFrancis Light自身がアチェとプーケットで交易に関わっていました。ペナンが19世紀、20世紀と発展するに連れて、アチェはペナンの交易ネットワークに組み込まれていきました。そのネットワークは南部タイ、ビルマ、メダンにまで広がっていました。
以上抜粋翻訳分
現在でもアチェ人はマレーシアとりわけ半島部北部と広くはないですが狭い分野で緊密な関係があるのです。バンダアチェの大学とマレーシアの理科大学(USM) は交換留学生を交わしているそうで、この地震災害の発生で、アチェ人交換留学生のことがニュース記事になりました。マレーシアの大学で学ぶアチェ人学生はUSMだけで100人ぐらい、その総数400人ほどと書かれていました。またバンダアチェの(複数)大学で学ぶマレーシア人大学生も数十人の規模になるそうで、そのほどんどが被害にあったが生き延びてマレーシアに戻ってきたことが数回新聞に載りました。
アチェはその歴史から、及びインドネシアの中でも有数のイスラム教の影響強い地方であると言われていることから、現代のマレーシアとの関係においてもムスリム間の交流が主流を占めるものと推定されますので、交換学生の内訳もその面が強いのではないでしょうか。マレーシアには移住してきたアチェ人とその子孫、アチェ人と結婚したマレーシア人、在マレーシアのアチェ人、から構成される、マレーシアアチェ人協会というのがあります。この協会がつかんでいる数で、マレーシア生まれのアチェ人2万人、アチェ人労働者3万人だそうです。
さらにアチェにおけるインドネシア軍部と政府の圧制のために逃れてきたと称するアチェ人がマレーシアには何千人の規模で滞在しています。もちろん、どこまでまたは何を持って政治難民と判定するのか、どのように経済難民との区別するかといった問題はありますし、さらにインドネシアよりも賃金の高いマレーシアで働きたい単なる違法労働者も混じっているでしょうから、数の特定は容易ではありません。しかしマレーシア政府はこの種の政治難民はどこの国からの民であれ全く認めない政策を堅持しているので、マレーシア政府からの難民認定は一才得られません。つまり不法滞在と見なされます。一方、在マレーシアの国連の難民を扱う機間ではある程度この人たちを難民と認定しているそうですが、マレーシア政府はこれを快く思っていません。
こうして、こういう立場のアチェ人の立場はマレーシアでは微妙です。留学生や正規の外国人労働者として滞在しておればもちろん問題はない。
さて多くの方には意外なるマレーシアとアチェ及びアチェ人との関係をかいつまんで書きましたので、ここらで私とアチェの関わりにちょっと触れてみます。上記の小文で、「私は紛争が小康状態であった1990年代終わりごろ数回アチェを訪れました。スマトラは東南アジア好きの日本人旅行者でも訪れたことのある方はごくごく少ないはずです。 中略。 例え訪れてもトバ湖、ブキットティンギ、パダンのような観光地だけで終ってしまうでしょう。もし相当なる東南アジア好きがいてアチェを訪れたことがあっても首都のバンダアチェと Weh島まででしょう。」 と書きましたね。私が旅したのは5、6年前でも、当時と地震前(去年12月)のアチェの基本的状況・状態はほとんど変わっていなかったはずです。
もとより私はアチェやスマトラを専門にしているわけでも、数十回も旅しているわけでもないので、詳しいまたは専門的解説などは始めから無理です。しかしアチェ各地を訪れた数少ない日本人としてそのことを通じて、不十分は承知の上いくらかでもアチェの地震前の状況・状態をお伝えしたいと思います。
今日のStar新聞を見ていたらこんな記事が載っていた:
私もほぼその通りだろうと思います。南部タイの外人目当ての観光産業も1年もすれば充分回復するのは間違いないし、巨大人口国家インドネシアにとって10万、20万人の命は2億を超える人口の0.1%程度に過ぎないし、インドネシアの貴重な石油産業に影響はなかったのは間違いないので、インドネシア経済への影響は最小限で食いとめられることでしょう。確かにこのような分析は正しいでしょうね。
この種の研究室のコンピューターの前で数字だけで経済を分析しその情報を世界に振り撒いている組織や人間の目には、人間の死亡も貴重な財産の損失もしょせん”数字”にしか過ぎない。しかし私は感情と心を持った人間である、数字だけで人間世界を見ません。アチェの西海岸や内陸部の貧しき村や小さな町で暮らしている人々であっても、そこには人間の営みがあり、東京やニューヨークやシンガポールで暮らす人間の営みと軽重の差はない。
アチェの西海岸の村で小さな家族経営の雑貨屋にでも入ってみれば、数万円でその店の品全てが買えてしまう。小さな小さな古い漁船を持つ漁民は掘っ立て小屋に近いような家に住でいる。銀行などというものも、病院などという施設も存在しないし、そんな暮らしとは縁がない世界、それがアチェ西海岸や中部山岳地の村村です。そんな民が例え死なずとも全てを失ってしまった。そして救援の手さえ地震発生後2週間経った今(1月9日)でもまだほとんど届いていない。この”重み”はGDPの比率などでは図れないし、人口のパーセントが低いうんぬんといった分析では見えてこない。
私はほとんど知られてないアチェ各地を訪れた者として、このアチェの不幸をとりわけ強く感じます。当時から相当なる貧しさと不便さに囲まれ、開発から取り残されたアチェの各地が、さらに筆舌にしがたい苦難を受けてしまったのです。この不条理な展開は一体なんなんでしょうか?
次週のコラムから2回に渡って、当時書いたしかし未発表のアチェ旅行記(総字数約3万字)を掲載して、皆さんへのアチェ紹介の一助にしたいと思います。
アチェの被害の様子を伝えるインドネシアから発信されているインドネシア語のサイトです。文章部分は飛ばして写真だけでもご覧ください。
# KORBAN GEMPA / TSUNAMI (地震・津波の被害 という意味)
www.filegratis.com/aceh/
アチェから発信している写真が数多く(200枚近く)掲示してあります。
見方:pages 1 2 3 4 5 の部分を順番にクリックして下さい。さらに click on thumbnails for full image は、それぞれの画像をクリックすると、大きな画像になりますという意味です。
# Portal Berita dari Aceh (アチェからのニュースポルタル という意味)
www.acehpublisher.com/
最初のページ以外にも、Gallery Publisher、 Lensa Publisher の部分をクリックするとアチェの普段の様子を写した写真が現れます。全てのページを見てないので、ほかにも写真が出てくる項目があることでしょう。
この地震でアチェのことがマレーシアのマスコミでちょっとニュースになってきたとき(12月 29日頃)、私はもう何年も前にアチェの旅行記を書いたことを思い出しました。そこで保存していたディスクでファイルを探したら、ありました。消えずに、消さずに残っていたのでほっとしました。一つのファイルは、始めてアチェを旅した時の旅行案内記です(1998年8月)。旅行雑誌にでも投稿・寄稿しようと思って書いた、2万数千字にのぼる長文です。しかし推敲がちょっと不十分な状態のままで、いつしか忘れてしまっていました。もう一つのファイルは2回目のアチェ旅(1998年11月)で、アチェの内陸部つまり山岳地帯に絞った8千字ほどの旅行記です。こちらは具体的に発表するつもりはなく、個人的な旅行記録として書いたものです。これは推敲もせずそのまま長い間保存ディスクに眠っていました。この両旅の前後にも(97年、99年、2000年)スマトラは訪れていますが、ほとんどアチェに立ち寄っていないのでここでは関係ありません。
今回何年かぶりにファイルを開いて読み返してみたら、この2つの文を読んでいただければ多少でも地震前のアチェの様子を知ってもらういい機会ではないかと思いました。そこでこの2つの旅行文をコラムに掲載することにしました。コラム1回の掲載分量のつりあいから言えば、今週(アチェ旅行記から−中編 )掲載分量は約2万6千字と非常に多すぎるのですが、一挙掲載します。来週(後編)は、多分引き続き興味を持って読んでいただけるであろう、アチェ山岳地帯の旅行編(約1万字)を掲載します。今週掲載分は推敲はしましたが、多くの追記注を入れたことと、語句修正、誤字、てにおは程度の訂正以外は、ほぼ当時書いた文章のままです。来週掲載分は自分の旅行記録だったので、推敲が全く足らず結構推敲しました、しかしそれでも、月日が経って記憶などの不鮮明な点もあるので書き換えといえるような修正は施してはいません。
インドネシアのスマトラ島はボルネオ島並みに大きな島でマレー半島よりずっと大きいのです。インドネシア自体が、バリを唯一の例外として、一般旅行者用の観光地としては他の東南アジア諸国に比べて人気度が落ちますから、スマトラはその大きさにも関わらず観光地としてはずっと目立ちません。
スマトラ島はマラッカ海峡を挟んでマレー半島と対峙している地理位置のため、マレーシア、シンガポールからは至近の距離にあるのですが、両国民の大人気観光地とは決していえません。唯一人気ある、正確には最近まであった、のはスマトラ島中央部に位置するトバ湖です。巨大な淡水湖で且周囲が風光明媚なのでマレーシアからは手軽に訪れることのできる観光地でした。97年夏に起こったエルニーニョ現象と環境無視の森林伐採による火事と煙で、97年後半からトバ湖へのツアーはがた減りしました。
東南アジア全体の経済停滞と通貨暴落でそれぞれの自国民の海外旅行が減りましたがマレーシアも例外ではありません。今年に入って海外へのツアーは減り気味でした。そこへきて今年(98年)5月の暴動とインドネシア政変のため、トバ湖へのツアーはついになくなってしまいました。マレーシアから飛行機で一番安く且短時間(飛行時間は1時間弱)で行けれるツアー地であったので、3日間ほどのトバ湖ツアーが常時宣伝されており、マレーシア人にはなかなかの人気でした。インドネシア情勢が落ち着けば、いずれ近いうちにこの種のツアー復活はするでしょうが、元通りになるまでには月日がかかることでしょう。
さてマレーシアからのスマトラ行きの飛行便ですが、マレーシア航空とガルーダインドネシア航空が毎日フライトを飛ばしていますが、ガルーダはキャンセル便がある模様です。たしか政変前頃まではMASマレーシア航空も1日往復2便飛ばしていた日もあったのですが、今や毎日往復1便だけです。
とにかく一番近い国マレーシアからのフライトがこんな状態ですから、スマトラへの外国人一般旅行客は激減したようです。昨秋(1997年)筆者がトバ湖を訪れた時は、森林火災鎮火直後だったせいもあり、旅行者はほとんどいませんでした。そして今回(1998年8月初中旬)の旅は、スマトラの中でももともと人気ない地方である島最北部、Aceh地方と呼ぶ、への旅とはいえ、一般旅行者をみたのは数えるほどでした。それほど外国人旅行者は少ないのです。おそらくスマトラ随一の都市メダンでも激減しているはずです。
メダンのPolonia空港は人口2百万を超える都市の空港としてはひょうしぬけるほどの規模です。一連の手続きを済ませて空港のターミナルビルを出ると、タクシーなどの客引きが寄ってきます。ここらがインドネシアらしさを感じる時ですが、彼らを無視してとりあえず空港ビルに数箇所ある銀行又は両替所でルピアに交換しておきましょう。空港国際ターミナルは小さいので端から端まで歩いても数分です。
マレーシア又はシンガポールですでにルピアに両替済の人でも小額紙幣はお持ちでないでしょうから、少額紙幣に交換してもらった方がいいです。なぜってそれは次に述べるように、乗合いバンタクシーやバイクベチャ屋は5千ルピアを超える高額紙幣を受け取らないからです。
それからターミナルビルの外向きにツーリストインフォメーションの事務所がありますが、期待はしないで下さい。資料もないに等しいですよ。でも質問には親切に答えてくれます。
自由旅行者たるもの空港内のツアー業者や一般より高い空港タクシーは相手にしないはずですから、とにかく空港敷地内を出ましょう。空港敷地まえはロータリーになっています、タクシーを拾いたい人はそこでちょっと気長に待てば空港タクシーでないタクシーが通りかかりますから、乗りたい意思表示をすれば必ず止まってくれます。後は貴方の交渉の腕次第ですな、メダンの中心地ぐらいなら1万ルピアを超えることはないはずです。筆者の例、鉄道駅まで6000ルピア。
もっと安い方法はこのロータリーから空港を背にして右方向へ500mぐらい歩いていくと大通りに交差します。そこでは乗合いバンやバイクベチャが走っていますので、それを捕まえる方法です。尚乗合いバンとバイクベチャは空港近くの道路まで入って来ることを禁止されています。これらを捕まえるのは極めて簡単、しかし乗合いバンはそれぞれルートに従って走っていますので、どこへ行きたいかを明確に伝えられることができることが必要です。インドネシア語の行き先名を知っていないと、とんでもないところに連れて行かれる恐れがありますよ。近距離なら500ルピア、それ以上で700ルピアぐらいです。
メダンは都会ですから、歩合制で飛ばして走っている乗合いバンの運チャンが親切に応対してくれるなぞと決して期待しないことです。バイクベチャならどこへでも行ってくれますが、インドネシア語ができない人は交渉などに苦労するでしょう。
メダンから他の都市、町、地方へ行く方はまずバスターミナルを目指しましょう。鉄道でも他地方へ行けますが、路線が南方向への2路線しかないことと便数が極めて少ないので、発車時刻調べに駅に寄ってそのまま出発できる場合はすくないと思います。余談ですが筆者の手元の地図、インドネシア政府観光局発行のスマトラ地図と同案内ブックレットの地図ページです、にははっきりと北方面行きの路線が描かれていますが、これは大間違い。北行き路線はとっくの昔に廃止されています。これだから全てを鵜呑みにできません。自分の足と目で確かめること。
よって島北部に位置する Aceh地方へ行くにはバス便またはバンしかないことになります(国内飛行機路線については触れません)。メダンの主要バスターミナルは2つあり、主にトバ湖方面やパダンなど南下するバスの発着するAmplus と 主に北上と北部西海岸方面へバスが発着するPinang Barisです。
筆者の今回のスマトラ旅は島最北部のAceh と呼ばれる地方ですので、バスの発着場所はPinang Baris Bus Terminalですが、人に聞いたら Gaja Mada へ行った方がいいといわれ、鉄道駅から乗合いバンでそこへ行きました。乗合いバンは各社いろんなルートでメダンの町中を走らせています。尚Gaja Mada は通り名です。
そこでわかったのはGaja MadaはAceh方面に発車するバス会社2社が営業所を置いていて、そこで切符を買うとバス会社のデポまで乗客をバンで連れて行き、始発から乗れることです。バスはいずれPinang Baris に立ち寄りますから乗車時刻が多少早くなりますが、好きな座席を選べるチャンスも多いということですね。
Aceh方面へは朝から夜までほぼ毎時間バスが発車しており、驚いたことに中には座席配置が横列1座席と2座席でリクライニングするVIPタイプもあります。運賃はBanda Aceh まで5万ルピアほど。VIP車でなくても車両はほとんど冷房車です。この路線メダンから島の東海岸沿にAcehのいわば首都 Banda Aceh まで走る路線は主要路線なので、バス車両自体も新しく便数も多いのです。乗車時間は長く10数時間はかかるでしょう。夜行バスもあり。
筆者が乗ったのは昼前でしたので、Banda Aceh まで直接行くと着くのが深夜になるので途中のLhokseumawe まで切符を買いました。幸運にもVIPタイプでしたので2万4千ルピアです。広い座席とゆったりした角度のリクライニングに満足でした、但し予想もしなかったこれほど快適なバス旅はこれが最初で最後、それ以後はぐっと程度の落ちる時には荷物並み扱いの車旅が続くのです。
バスはメダンの市内ではPinang Baris ターミナルだけでなくいろんなところで客を拾っていくので遅々として進まない感じ、これはメダン近郊の町Binjai まで続きます。これで最初がらすきだったバスも満席以上になりました。
メダンからアチェの入り口町となるLangsa まで160Kmほどです。主要道とはいえ市内を出れば片側1車線の幅の狭い道で曲がりくねっているので時間がかかります。道の両側の風景は農地であったり山野であったりし、農家民家が時には続く。家の中はバスから見ても薄暗い、時々家の前で女性子供が所在投げに外を眺めているのです。パームオイル精製工場を1回見た以外工場らしきをまったく見かけない。雨期に入っているせいかそれとも北上しているせいか暑さが和らいでくる気がする。
バス乗客は圧倒的に男が多く常に誰かがタバコを吸っています。冷房車だから控えるという意識はまったく育っていない、インドネシアらしいですね。
出発から4時間もかかって着いた東Aceh県の県都Langsa は思ったよりずっと小さな町でした。そこで始めのここで下車する計画をやめて、そのまま乗車を続ける。これまでと同じような狭い1本道をバスは走る、方向的にはスマトラ東海岸に沿って西北に向かって走っていることになるが海はほとん見えない。時折すれ違う車には大小バスの割合が非常に高い、またバスが追い越す車には近距離間を結ぶ乗合いバンや小型おんぼろバスが多い、つまりトラックや自家用車が非常に少ないのです。
さらにいくつかの小さな町や村を通り過ぎ暗くなった頃、北Aceh県の県都 Lhokseumawe に着く、どうやら比較的大きな町らしいのでここで下車。バスは町中心部を通らないので、客引きにうるさいバイクベチャで町中心部つまりKota へ向かう。バイクベチャ屋に、どこか中程度の適当なホテルに連れっていってくれと頼み、2軒目のホテルに決めました。名前はホテルでも安宿に変わりはありませんから、きれいさと設備はもちろん期待しませんが、私も久しぶりのスマトラでの宿泊ですから、宿泊程度の様子見と値段調査を兼ねていました。
泊った Vina Rina Hotel はエアコンとテレビ付きで4万7千ルピア、浴室はシャワーナシの水槽汲み置きタイプです。扇風機付きテレビナシなら3万ルピア前後です。そのあと各地で泊った安宿に比べて値段の割にちょっと程度が落ちますね。
一般にスマトラ北部では、もちろんアチェでも、中級以上のホテルは別にして、お湯はもちろん最初からありませんし、シャワー設備もまれです。浴室兼トイレに作りつけられた水槽に水を溜め、それを手桶で汲んで流す方式です。断水があったりするからこの方が向いてるかもね。それから洗面台もありません。歯磨きが面倒ですが仕方ありません。
あ、そうトイレットペーパーもまったく供給してくれません、一般インドネシア人は使わないようなので安宿以下には最初からそういう発想はありません。ホテルのボーイと受付女性に 「Kertas Kamar Kucil トイレットペーパー」 と、インドネシア語の”紙”と”トイレ”の組み合わせ語にして数回頼んだけど理解してくれなかった。単語の違いかなとも思ったけどそうでもないらしい、この言い方で通じないはずはない。私もついマレーシア、タイの旅の感覚をもっていたので、最初はちょっと意外でした。ペーパーは町の雑貨屋で買うか、かばんにあらかじめ入れておきましょう。
飲み水はポットに沸かし水をいれて部屋においてありますが、心配な人はインドネシア語でAquaというボトル水を買えばいいのです。
Lhokseumaweは北Aceh県の県都で大企業の本社があるそうですが、観光地ではないので市内にそれほど多く見所はなさそうです。近辺に象のトレーニングセンターがあるそうですが、私は1泊するのが目的なので、翌朝すぐ市内のバスターミナルに向かいました。ただ海に面した町ですから翌早朝歩いて見に行った海岸は水がぜんぜんきれいでなく、がっかりでした。町の真ん中の海岸ですから無理もありませんが、漁船が停泊しています。
それにしても軍隊の施設の多いこと、官舎、駐屯地などが並び若い軍人がトレーニング後なのかバレーボールに興じている。施設の内外に軍服姿の若者が多い、マレーシアと違って、インドネシアはどこへ行っても軍隊の姿が目に付くのですが、Acehはその歴史的経緯から、ジャカルタ中央から目付けのような形で軍隊が送り込まれています。私の目にしたのもその一つかもしれません。これをマレーシアに戻って書いている時新聞の外電で、中央政府がAcehから軍隊を次第に引き上げるというニュースを読みました。
バスターミナルで発車を待っていたBanda Aceh直行のバスは今度も冷房車である。乗車賃1万6千ルピア、約270Km の距離を6時間ほどかかった。Lhokseumawe からBanda Aceh までは海岸線に沿ってほぼ西に向かって走るので海と海岸が時々見える。1本道は相変わらず片側1車線の曲がりくねった狭い道路なのでそれほど飛ばせるわけではない。道路端の緑の多さに感心する、青く実った水田風景が切れるとまた椰子の木、バナナの木などの緑の壁、そして向こうに見える山野とどこも緑に包まれている。プランテーション農園がまったくない、恐らく海岸線に近いところを走っているせいだろう、これほど自然が豊かに残っているのはタイでは考えられないことだ。
途中の町 Sigil で昼食のためバスは休憩した。いつもながら私は大衆食堂で食事しますので、広場にあるいくつかの店の一つに入る。スマトラではどこにでもあるパダン料理スタイル、小皿にもられた料理を好きなだけ食べてあとから計算する方式である。欲しくなくても店の男が次々と小皿の料理をテーブルに並べていく、私は”Tak Mau いらない” とマレーシア語で伝えたがそれでも置いていく。要するに食べたくなければそのままにしておけばいいのだが、客の食べ残しもまた元の棚にもどるから、いつかは別の客の胃の中に入る仕組み、だからこのスタイルあまり好きでない。それにいつも感じることだがどうやって計算しているかまったく不透明、客が何を食べたか申告して店の者が適当に計算する方式なのだ。私は7千ルピアでした。
Sigil を離れまもなくスマトラ且つアチェ州の最北の県 大Aceh県に入り、16時過ぎバスは特別都市であるBanda Acehのバスターミナルに到着。Banda Aceh はAceh地方全体の行政・商業・宗教・アチェ民族の中心地であり、6万平方Kmに及ぶAceh州全体のいわば”首都”でもある。そこは東西に数千キロにも広がるインドネシアの最も西に位置する都市でもあります。
バスターミナルからLabi-labi で中心部のPasar Aceh(市場)まで10分ほど、さすがにぎやかな市場でありすごい数のLabi-labi (Acehでは乗合い小型バンをこう呼ぶ)の発着地でもある。ほとんどの乗合いバンはここに集結します。そこからホテルが幾つか並ぶPenayong 地区へバイクベチャで行きます。歩けない距離ではありませんが、Banda Acehは都会で方向感覚が難しいので乗ったほうが無難。
夜はここに屋台街がでる、Penayong地区の広場前に3軒のホテルがあり、近くにもホテルやインドネシアの安宿の代名詞であるLosmen がいくつかあるので、旅行者は適当に狙いを絞って訪ねればいいのです。予算に合わなければ次のホテルなりLosmen にあたってください。一般にLosmen は平屋建て又は2階建てで、小規模、但し最下層のホテルと程度はたいして違わない場合も多い。
私はこの地区で中程度のHotel Wista に宿泊。エアコンとテレビなしで3万ルピア、値段の割にきれいで満足。受付は華人の女性でした。そこで少しお話したところによればここは華人地区でもあるそうだ。インドネシアは華人地区でも店の看板が中文(中国語)で書かれているわけでもないし(漢字は使用禁止)、イスラム教で禁じられた豚肉料理を売っている店があるわけではないので、外観からはまったくわからない。あとで一帯をうろついたが、店店の人の顔付きが華人的であり、ごくたまに客家語だそうだが、聞こえてくる。華人地区といってもマレーシアのようにそこの住民が圧倒的に華人であるわけではないし、割合が多い程度のように感じた。
大衆食堂や屋台の料理は極めて種類が少ない、Mie Goreng、Nasi Goreng、Sateh、Mie Sop などそしておかず選択付きご飯ぐらい、いわゆる中華的料理は皆無である。マレーシアの屋台料理に慣れた目から見ればものすごく単調という感じだ。私の食べた夕食の値段を書いておけば、Nasi Goreng とSateh 5串で3千5百ルピア、後で入った他の大衆食堂で飲んだ果物ジュースは1千5百ルピアといったところ。
追記注:アチェを訪れた新聞記者の書いた記事の中で、このPenayong地区も甚大なる被害を出しているとの記事を読みました。バンダアチェ全体が所を選ばず破壊されたからそれは当然でしょう。どの町であろうと、時間があれば私は必ず市場や繁華街や下町を歩き回ります。バンダアチェもできるだけ歩き回りました。この地区に限らず、
さて翌朝は目的のPulau Weh(Pulauは島という意味)へ渡るべく、Penayong地区の魚市場 Pasar Ikan近くからKrueng Raya行きの乗合いバンに乗りました。もちろんAceh市場の乗合いバン集結地へ行ってKrueng Raya行きを拾ってもよい。そちらの方が便数は多いとのこと。ホテルの人に聞いただけではいずれにしてもわかりにくいので、乗り場付近へ行き、乗合いバン運転手やその助手に聞きまくれば最後にはKrueng Raya行きにたどりつくことでしょう。もっとも客引きがうるさいので聞きまわらなくても向こうから「Ke mana ?どこへ行きたいのか」 としょっちゅう尋ねてきますよ。
AcehではLabi-labi と呼ばれる乗合いバンは、ほとんどが小型のピックアップトラックに屋根と座席をこしらえたタイプで、市内または近郊村を結んでそれぞれ決められたルートを走っています。10人ぐらい乗れば一杯になるがもちろんそこはインドネシア、定員などないので客の荷物といっしょに詰め込まれます。これが一番安い交通手段です。本来のバン、トヨタのライトエースなど、はBus Mini と呼ばれ主に中長距離間の移動に使われます。
ベチャとバイクベチャもいろんな町村にありますが、乗合いバンに比べれば思ったほど安くはありません。インドネシアの名物であったベチャは昔と比べればぐっと減りましたね。バイクベチャにグレードアップしたのでしょう。
さてBanda Aceh からWeh島行きフェリーの出る村Krueng Rayaへは50分ほど、3千ルピアです。このフェリー発着波止場はPulabuhan Mulahayati という名ですがKrueng Raya で通じます。桟橋1本の寂れた小さな波止場敷地内に待合室兼用のフェリー切符売り場の建物があります。フェリー座席には、20席ほどしかないリクライニングシートでエアコン室のA席と一般室のB席があります。B席より1600ルピアほど高いだけなので7千5百ルピアのA席にしました。これが正解、椅子はゆったりしていた方がやっぱりいいのだ。
フェリーはWeh島まで1日1往復のみで、行きは午後3時発、帰りは島を午前7時半発です。フェリー乗船までは敷地内の汚い屋台でコーヒーのみながら時間をつぶせます。
たまたま乗合いバンでいっしょだった男性がコーヒーを飲みにきて、私をみつけ寄ってきて、しばしおしゃべり。偶然昨日泊ったLhokseumaweの人である。Weh島でセミナーがあるので出かけるとのこと。どこから来たのなどのありきたりの話からインドネシアの現在の状況などになる、「私はマレーシアから来た」と言ってあるので彼はマレーシア人と思っている。バンの客引きなどと違ってインテリぽいので、インドネシア語もはっきりしていてわかりやすく、私はちょっと突っ込んだ会話にした。5月暴動のことに触れると、「ああ あれ、Reformasi」 という言い方である。Reformasi は改革という意味です。彼は華人系に対して別に憎しみも持ってないようだ、それとも私に気兼ねしてそういうことは触れなかったのか、よくわからない。
短いAceh旅を通じてだから詳しいことはもちろんわからないが、すくなくともAceh地方では華人に対しての暴動はなかったようだし、旅をしていて不穏な空気を感じたことは一度もなかった。周りすべてインドネシア人ばかりの乗車移動や宿泊がほとんどであったが、それだからといって不安を感じることも全くなかった。
Aceh地方が他のインドネシア地域と少し違って、自治意識が高く、自治権をある程度認められた地方だからなのか、圧倒的にムスリムの占める地方のせいなのか、そのへんは住んでみないとわからないだろう。個人的意見を言えば、メダンのような都会、貧富の差が激しく忙しく猥雑とした都会とAcehのような穏やかな地方では、住民の意識も違うのではなかろうか。Aceh地方でも華人系は確かに町の商店に多い、つまり他のインドネシア人より豊かには違いない、しかし圧倒的に裕福だとは、少なくとも彼らの店構えを見た限りは、言えなかった。この当りがメダンやジャカルタとずいぶん違うのではないだろうか。
ところで車も載せるフェリーは1日1便のせいか島の住民やインドネシア人行楽客で満席以上です。週末の行楽にいくのでしょう、若い華人系のグループが騒いでいます。白人バックパッカーもごくわずかですが目にしました。なぜ彼らが乗っているかは後で分かりました。2時間半の航海は座っているのにあきたらデッキにでて、海風に吹かれながら遠くの景色を眺めましょう。青い海はきれいで気持ちよいのです。
5時半頃Pulau Weh(Weh島)のBalohan波止場に着きます。フェリー桟橋を出ればミニバス(バンのこと)が何台も待っており客引きが激しいのです。ほとんどは島の唯一の町Sabang行きです。シュノーケリングとダイビング目当ての安バンガローのあるビーチへ行く旅行者のほとんど全部が白人バックパッカーで、彼らは1台のバンを借り切ってビーチへ直行します。だから彼らはほとんどSabang町へは寄りません。
Sabangへは島の東側を縦断する形になり20,30分で着きます。町といっても歩いて回れる規模であり、ホテル1軒とLosmen数軒しか宿はありません。宿泊先をミニバスの運転手に伝えればその前で降ろしてくれます。
Sabang町の大通り、といってもメインはこれ一本しかないが、その両側が商店街で大衆食堂とカフェが結構あります。イスラム教の影響の強い娯楽のまったくない町ですから、映画館はいうまでもなくビリヤード場さえもありません。ですからこういう所でタバコを吸いながらだべったり、ぼんやりとテレビをみることが娯楽になるのでしょう。そしてその全部は男達です。若い女性の姿は華人を除いてほとんどありません。この町というより島ではビールを含めてアルコール類は一切売られていません、ただ白人バックパッカーの集まるビーチは例外だそうです。
Weh島だけでなくAceh全体で酒類販売は禁止されているとのことで、私は一度もその現場を見ませんでした。ただ中高級ホテルの一部では売られているそうですが、中高級ホテルといえるようなのはBanda Aceh とわずかばかりの町にしかありませんから、外国人旅行者が酒を飲める場所は極めて限られています。タイやマレーシアのリゾートで白人たちが酒をくらってひがな過ごしているなんて図式はありえないのです。もっとも酒を飲まない私は一向に気になりません。
この通りの商店街の多くは華人です、ほんと華人はたくましいですな。ほとんどが客家人だそうで、私は客家語はまったく話せないのでマレーシア語で彼らはインドネシア語の会話です。あまりインドネシア的とはいえない麺類の夕飯を食べた食堂の女主人が、私がマレーシアから来たといったら、一度だけ行ったマレーシア旅行の思い出をべらべらと華語でしゃべり出し、よくわからずちょっと閉口しました。
メダンやじゃカルタの華人街での暴動はまったく影響ないらしくここは平和そのものです。だいたいああいう暴動は大都会でおこるものであり、近所皆知り合いのような田舎町では起こらないのではないでしょうか。それにAcehではアチェ人が大多数を占めているのもその原因かも知れません。経済的に比較的豊かに見える華人商店主とはいえこの辺ぴな町当りでは大金持ちは皆無でしょう。ベンツどころか自家用乗用車さえもほとんど走っていないのですから、皆それなりに貧しくという感じを持ちました。Sanbangの町はこぎれいである、Aceh地方の訪れたどこよりもこざっぱりとして汚れていない。
夜ともなれば街灯のない商店街は薄暗く店の電球が頼りです、それも9時になればほとんどの大衆食堂や雑貨店は占めてしまい、後はカフェぐらいしか開いていません。静かで暗い通りを時折若者の小型バイクが音を上げて走っていきます。
こういうおとなしく娯楽のない町ですから外国人旅行者を引きつける魅力に欠けることは致し方ないでしょう。白人バックパッカーが寄り付かないはずです。私は白人バックパッカーが西欧感覚で振る舞うことのない、できないこういう町は好きですし、このちょっと時代離れした雰囲気に接するのもそれほど苦にはなりませんが、それでも1週間滞在が限度でしょう。
この日泊ったLosmenはHoliday という名で、エアコンなしで3万9千ルピアの汚い部屋でした。土曜日のためかAcehから来た華人若者グループが騒いでうるさく、翌朝さっそく少し高級な(?)Hotel Samduraに移りました。
Hotel Samduraはエアコン付きで5万ルピア、わずか4米ドルそこそこでこんないいホテルかと思える建物と部屋です。オランダ植民地時代にできたコロニアル建物をホテルに転用しため、部屋数はぐっと少ないのですが、つくりがゆったりとしておりその場所は町の高台にあるため見晴らしがいいのです。ただしエコノミーホテルクラスですからもちろんお湯はありません。
さて島の西側の半島にある Iboihへ行くことにして乗車手段を探しましたが、これがたいへん、いろんな人に聞いてもそれぞれ答えが違うのです。そこへ行くバンがあるとか何時に出るとかまったく当てになりません。バンはあるのですが一人では貸し切りになってとても高くつくからだめ、そこへ行くDatsunがあるらしいけど見つけられない。人に聞くと、「俺がバイクで乗せて行ってやる」 とうるさいのです。バイクは危ないからパス類に限ります。 時間かけてようやく探し当てたのが Iboih行きの乗合いピックアップトラック要するにDatsunです。他にも似た車が止まっているし、行き先などまったく表示がありませんから、あきらめずに人に聞くしかありません。午前中に1便ということで発車まで車内で気長に待ちます。
荷物と人を満載して座席付きおんぼろピックアップトラックは発車しましたが、あちこちで荷物を積んだり運転手が人とおしゃべりしていくで、なかなか進みません。要するに配達トラックも兼ねているので、裸の製氷塊から魚まで座席下と脇に積み込むのです。急ぐ旅ではないのでいいですけど。
Iboihは島の西側の半島にある部落、Sabang から湾を挟んで見える距離です。わずか20数Kmの距離ですが、これが実に遠いのです。車自体が古いしよく整備されてないのでがたがた音を立て続けます。最初は普通の道路まもなく狭い山道に入り、あえぎながら上がり下りしていきます。一応簡易舗装道路ですが、ところどころ舗装がはげ凸凹道です。狭くてすれ違い時には必ずもう1台は停車する必要があります。道の両側から樹木がせまりこれぞ山道といったところです。猿の群れが出るあたりを過ぎると、視界が急に開けSabang湾が一望、その素晴らしい景色に硬く狭い荷台座席の乗り心地を忘れ心打たれます。
乗客は私以外は100%地元の住人、彼らはアチェ人なので普段はアチェ語の会話だけです。インドネシア語は他民族との族際語の役割をはたすことになります。まったくわからないがべちゃべちゃと世間話をし、男たちは強いタバコをひっきりなしに吹かしている、タバコの根元まで吸いきるのだ。Acehの男たちは全員タバコを吸うのではないかと思えるほど誰もが吸う。
ところどころ山道の民家前で乗客を降ろしまた拾う、こうして1時間ほど山道を下ったところで急に海岸に出る、Gapang という地名でバンガローが20軒ぐらいあるビーチである。きれいな砂浜とトイレ・シャワーは共同施設の超安バンガロー、つまり白人バックパッカーの溜まり場だ。この砂浜と珊瑚のビーチではシュノーケリングができる、なるほどという透明さだ。Diving Center もあり、ここからダビングポイントへ小船で出かけるとのこと。
大衆食堂も数軒あるから自炊は不要ですし、その設備はない。Iboihに比べてずっと規模は小さい、私の好みからいえばこちらの方が気に入った。もっとも一人旅なのでここに滞在する気にはなれないが。
それからさらに10分ほど走ると終点のIboih である。浜辺に面した部落はほとんどが大衆食堂かLosmenを兼ねている。学校もモスクもある、規模は察して知るべき小ささだ。食堂裏の砂浜にはボートが停めてある。水深が覗けるボートもあるが、1台いくらの貸し切りだから私には手が出ない。
この部落の奥つまり浜にそって歩けばバンガロー集落にいけるが、そこは自然保護区になっているので入園料1千ルピアを払います。バンガローは浜を見下ろす位置に丘陵に横長にばらばらと建てられており、数人の業者の運営するバンガローは全部で60軒ほどあるという。それぞれ食堂も運営しているので自炊はできない。2人用の小型バンガローからグループ用のバンガローまであるが、いずれも極めて極基本的なタイプです、つまりトイレシャワーは共同場所を使うのです。トイレの汚さは相当なものである、一因には水が井戸水しかないことであろう。Gapangも同じく井戸水です。
反面値段はめちゃ安、1泊1米ドルつまり1万2千ルピアから、高くてもせいぜい3米ドルぐらいだ。従って泊まり客は長滞在の白人バックパッカーばかりとなる。インドネシア人はこういう所にまったく泊らない、第一子供しか水遊びしないのだ。その日が日曜のせいで、貸し切りバンで地元の家族連れたちがIboih にも Gapang にもピクニックに来ていた。砂浜で座って持参した物を食べているだけだから、バンガロー商売には関係なし。
東南アジアどこの離島や人里離れたビーチにも白人バックパッカーはいるものだから、このWeh島も数はぐっと少ないとはいえ彼らがいるのは不思議ではない。多分Lonely Planet に載っているのだろう。ここで思いかけず日本人カップルに出会った。10日間ほど泊っており、彼らのほかにアジア人はいないとのことでした。
Iboihにはダイビングスクール兼センターがありダイビングボートをだしている。近くの小島付近がダイビングポイントのことであった。朝8時にイルカ観察ツアーのボートがこの浜辺から出ると張り紙にあり、日本人カップルの話ではウミガメも見えるとのこと。浜は岩場が多くシュノーケリング者が楽しんでいる。桟橋から水を覗いてみるといろとりどりの魚が泳いでいる、一人旅でなかったらシュノーケリングしたくなった。このバンガロー集落にはパブやバーなど娯楽施設はまったくない、このあたりがタイの離島と違う、まさにシンプルな離島バンガロー集落である。
Sabangへの戻りも来た時と同じ運転手同じ乗合いピックアップトラックだ。一応4時に出ることになっているがそんなのは当てにならない。3時過ぎに出発してしまった。私は茶店で見張っていてよかった、これを逃したらもうその日はSabang に戻れないことになるからだ。帰路は人も荷物の少ないので早い。1時間もかからずにSabang に着いた。
Hotel Samduraは高台に建つ、といっても商店街のある大通りまで歩いて3,4分の距離であり、食事にも便利だ。町の商店は朝8時から11時まで開き、日中休んで夕方6時にまた開く方式である。Aceh料理を大衆食堂で食べたがマレー料理の親戚みたいで取りたてて代わり映えせず、第一野菜類がまったくないし、種類も、8種類しかない単調さだ。
翌朝乗合いバンで波止場Balohanへ。Banda Acehへ戻るフェリーは7時半発なので早起き必須だ。フェリー桟橋の海水からして透明である、この自然に恵まれ心休まる雰囲気を持った島を短期で離れるのはちょっと残念だが、短い日程では仕方ない。
Weh島からのフェリーがKreung Rayaに着くと、またBila-Bilaが何台も客待ちしているので、それでBanda Acehの市場まで一直線に戻ったのである。
Aceh地方1周するためにはここからバスで西海岸に沿って南下することになる。充分な日にちがないので残念ながらBanda Acehはこれでおしまい。市場で何十台も客待ちしているBila-bilaからバスターミナル行きのN03 を探し出し乗る。10分でバスターミナル到着、日中のせいかがらんとしている。案の定この時間帯出発するバスはない、朝と夜なのだ。南下するバスを尋ねたバス会社の男がバスターミナル前の道路端からミニバスつまりバンのこと、が出発すると教えてくれた。確かに1台バンが停車して男たちがその周りをうろついているが、そう言われなければわからない。Aechではどのミニバスもまったく行き先を表示していないし、会社名なども書いてない。もっとも個人でバンを持ってる人はまずいないだろうから、バンを見たらミニバスと思えばいいのかもしれない。
そのミニバスは運よく私の目的地である西Aceh 県都 Meulaboh行きでちょうど出発するところだった。こういう風に出発地点から乗る場合、その時点で運賃を支払う、1万6千ルピア。横列で座席数より一人ずつ多く詰め込んでミニバスは発車。西海岸にずっと沿って東南方向に伸びる道路をひたすら走るのである。舗装はされてはいるがところによっては凸凹もあり、時には山道のつづら折り、狭いカーブの多い道をバンは飛ばしに飛ばしまくる。
Banda Acehを出発して1時間もすれば西Aceh県にはいり、このあたりから海岸線が間近に見え出す。進行方向に向かって右側、波の打ち寄せる海岸をひたすら眺めて過ごす。あきないのだ。Patek を過ぎる頃からの、インド洋の荒波がさえぎるものなく打ち寄せる海岸は、波の荒さで波打ち際は濁っているものの海は底抜けに青い。沖に島があるわけでもない水平線のかなたまで海原が続く。近くに工場地帯どころか1軒の工場もないから産業汚水もないだろう。港は波止場程度の小さなものがたまにあるだけ、インド洋の海がそのままである。美しい海岸が手付かずにそのまま残っている。マレーシアの東海岸なら10キロほども走れば必ず1軒や2軒のリゾートなりバンガローがあって旅行者を引きつけているが、ここAcehの西海岸は違う、250Kmほど4時間半の乗車中1軒のリゾートも普通程度のホテルもみなかった。通りすぎた町や村にあるLosmenか安ホテルのみ。これだけでもいかに旅行者がいないかがわかる。
波の荒さからサーファーに向いてるそうだけど、まともなホテルもないのだろうからサーファーも来ないだろう。所によっては少し入り江になっており波の静かな浜辺も見える、漁村の船が停泊している、人けのないきれいな浜だ、もったいないくらいの自然だ。どこかの村でLosmenに宿をとり、ピックアップトラックを借り切って適当な浜辺で過ごせばそこはもう完全なプライベートビーチになる。宿の快適さときれいさはまったく望めないが、人気のない手つかずのきれいな浜を一人占めする贅沢さはきっとこたえられないだろう。こんな贅沢はタイ、マレーシアではもう完全に不可能だから。
進行方向左側の風景はいくつかの小さな町、そして村や部落を除けば青く実った水田、それが途切れると椰子の木、バナナの木、ニッパ椰子などの森である。村や部落の家々は古ぼけた時には朽ちかけた木造、家の中は暗い。電気は部落にもきてるようだが、24時間通電しているのだろうか、それとも省電してるのだろうか。Aceh地方の大衆食堂、茶店の中には冷蔵庫を置いている店もあるが、中のコーラ類がまったく冷えてないことが多いからね。
町は別にして村や部落にまず水道は引かれてないだろう、つまり井戸水である。そのためもあってか飲食店はどこも汚い、こういう場所で汚いを嘆いても始まらないけど。このAcehの西海岸が開発されてリゾートが建ち外国人がやってくるそんな時期はまだ当分来ない、インフラの悪さ、交通の不便さが早急に改善されるとは思えないからだ。
ミニバスがMeulabohに近づいてようやく民家が増え出した。市内に入り、その中心にあるバスターミナルで車を降りる。時は夕方5時近くなっていた。Meulabohは西Acehの県都であるがこじんまりとした町である。メダンをつなぐ飛行機の発着する飛行場もあるそうで、またはるか沖に浮かぶ大きな島 Simeulue行きの船が発着する波止場もあるそうだ。Simeulue島はまったく観光未開発の島だそうで、小さなフェリーで丸1日近くもインド洋の荒波の中の航海は考えただけでも辛そうである。そこへ行くにはそれなりの覚悟が必要だ。私も例え時間が充分あっても航海は遠慮するでしょう。
町の中心地といってもざっと歩けば10分ほどで横断できるが、Tiara Hotel に宿をとる。見た目に引かれて入ったが、汚くうるさくあまりよくない、エアコンテレビ付きで3万6千ルピアでした。
大衆食堂やカフェはいくつかあり、夜そこで夕飯のNasi Sotoを食べた後街をぶらつく。街灯がないので薄暗いが、男たちがカフェや食堂で飯を食べコーヒーを飲んで時を過ごしている。ここにも女性の姿はまったくない。Aceh地方はムスリム絶対多数でしかもけいけんなイスラム色が強いからだろう。店で働く者も男が絶対的に多く、とにかく男男の世界、アラブ世界に来たかのような錯覚を覚える。
もちろん映画館のような娯楽施設はみかけなかった。女たちはどこにいるのだろうか。この県都でも高級車が走り回っていることはない、ハンドフォンを持った者がレストランで飯を食べているわけでもない、皆それなりに、物質的にという意味において、平等に貧しい。 暗いランプの下でしきりに売りこんでいる屋台でランブターンを買い、ホテルに戻ってデザートにしました。マレーシアの3分の1の値段であった。
夜は涼しいのでエアコンをつけるまでもない、テレビを見たかったのでこのクラスにしたのにたった一チャンネル映るはずの画像が乱れてこれじゃよく見えない、まったくだまされた気分だ、今晩の宿選びは失敗失敗というところです。
翌朝ホテル前の大衆食堂で朝食、この店は華人系のようだ。他の客に作っていたMie Rubus を注文。でもこのMie Rubusマレーシアのとは似ては非なる物のようだ。まあスープはおいしかったのでいいやというところです。まんじゅう1個と合わせて2千ルピアの朝食でした。
チェックアウト後バスターミナルへ行った。名前はターミナルでもただの広場にバス会社数社が入った建物と広場です。スマトラではどこへ行ってもバス会社の切符売場やバスの周りに男たちがうろついていて、そこへ近づくとすかさず” Ke Mana どこへ行くの?” と聞いてくる、1日何回これを聞かれることやら、いい加減うんざりする。もう一つお決まりの質問は、”Dari Mana どこから来たの?”である。
私はバスの発車時間を知りたいだけであるが、バス会社の販売所に書いてある時間はあまり当てにならないことは知っているので、結局そこにいる男たちに尋ねざるを得ない。「Tapaktuan へ行きたいけど何時にバスはでるか」 「8時にある」 そこで隣の別の切符販売所で再質問、こちらはなさそう。夕方発のメダン行きバスがTapaktuan を通るがこれでは遅すぎる、しかたない始めに尋ねたところで切符を買おう。今日は飛ばしまくるミニバスでなく、多少は遅いがバスで行きたかったので、「そのバスは大きなバスか?」 「そうだ」 というので、ちょうど近くで客待ちしている別の会社のバス指差して聞くと、「あれと同じだ」 つまり大きなバスではなく小型バスなのだ。まあ彼らのいうことはうのみできないのは経験上知ってるがいちいち確かめるのも気になるところだ。
とにかく切符を買えというのでTapaktuanまで買う、9千ルピア。ちょっと時間あるので近くのカフェでコーヒーのみながら時間をつぶす。バスはやってきて広場に止まっているが一向に客は増えない、いやな予感だ。案の上30分遅れて出発。例によってあちこちで客を広い旧型小型バスの狭い車内はうまっていく。
20分ほど海岸線に沿って走り、それからは130Kmほど離れたBlangpidie までは内陸を走るので景色は単調になった。方角的には引き続き南東に向かって半島を南下しているのである。両側を緑に囲まれた山道は時々モスクや木造の古い家屋が建ち並ぶ農村や部落を通り過ぎ、やがて南Aceh県に入った。そうだからといって景色が変わるわけではない。この内陸走行ではこれまでの海岸道走行と違って時折プランテーション農園らしきを通過する、また無残に切り倒されて緑のなくなった跡地も幾度か目にした。
バスだから飛ばさないのがいいが、その分遅い。男ばかりの乗客の狭い車内でひたすらがまんするしかない。しかし彼らはよくタバコ吸うなとつくづくあきれてくる。いくら窓を開けても煙たいのである。前回のスマトラ旅でもそうだったが、これだけ誰もが吸っていれば吸わない方がおかしいくらいだ。
Blangpidie あたりから道はまた海岸線近くを通るのでときおり海岸が見える、やはりこのきれいな海のAceh地方は海岸線走行が一番だ。そこからTapaktuan まではさらに70、80Km ある。どうやら休憩せずに目的地まで走るようだ。Tapaktuan の手前数十kmのSawang 当りから道が海岸際とになる。真っ青な海に白い波がうねり浜に打ちつける、次から次へときれいな砂浜が岩浜が現れ通りすぎていく、心楽しくなる美しさだ。水平線のかなたまで遮るもののないのはまことに気持ちよい。バスの車中からでもそれを十分感じたのは、Tapaktuan周辺の海岸はとりわけ美しいということだ。しかも浜に人気はない。その近くにホテルが建つわけでもレストランが建ち並んでいるわけでもない、せいぜい茶店程度があるだけ。まったく観光開発されていない。はるばるここまでやって来たかいがあった。
朽ちかけた建物と広場のバスターミナルに1時到着。どこへ行くのとうるさいベチャ屋を無視してとりあえずMie Goreng の昼食。ハエと汚い器が乱雑に置いてある食堂の一画での味はうまいものではない。まあ火をとおしてあるから大丈夫であるだろうけど、と自分で納得する、でも後で胃が重かった。翌朝軽い下痢したけど多分このMie Goreng のせいでしょう。
尋ねた結果この町一番のホテルがよさそうなのでそこへ行こう、ちょうどやってきた生徒で一杯の乗合いバンで5分、細長い町のちょっと外れにあり且つ入り江に面したDian Rana Hotel前で降りる。白い壁のホテルとその立地場所を一目見て、もうここしかないと気にいった。私はホテルの人に何回も言わずにおれなかった、”Bagus、Sangat Canti 良いです、すごくきれいだ”。
入り江のホテル前の浜は小さな岩場、透明の海水が打ちつける、水平線のかなたに広がるインド洋、入り江の左方に広がる砂浜、そこに停泊している漁船、海は青く波は静か、入り江を見下ろす山は緑、そんな絵に描いたような景色のなかにホテルは建っているのである。今回のAceh一周旅で最高に素晴らしい場所にある、3階建て8角形のホテルはエコノミークラスだがきれいで従業員も人懐っこい。どんなにきれいなところでもホテルの従業員が不親切では興ざめしてしまうからね。
入り江を眼下にほぼ見渡せる2階の部屋に決めた。現実には周り廊下に1歩出れば、どの階のどの部屋からも海が間近に見えるが、少しでも間近度がいいのを選んだのだ。エアコンとテレビ付きで5万ルピア、浴室は水シャワーではあるもののバスタブがついている。しかもこれも珍しく洗面台付き、今回の旅で最初で最後のバスタブと洗面台であった。もっともバスタブにつかることはなかったけど。
このきれいさと抜群の立地でわずか4米ドルそこそこはこたえられない値打ちがある、マレーシアならRM100つまり二十数米ドルはしてもおかしくない。そのせいか今回の旅で泊ったホテルの中で唯一のことだが、白人旅行者が同宿していた。きっとうわさを聞いてやって来たのであろう。
Tapaktuanの町は細長いので湾にそって中心部に向かって歩いていくと商店街にでる。食べ物屋もけっこうあり人通りは多くはないがさびれているという感じもしない。ゴミも散らかっていない道路である、その道をさらにずっと歩けば桟橋1本だけのこじんまりとした波止場にでる。桟橋では漁師たちが網を修理していた。桟橋に漁船でない小型のボートが停泊していたので漁師に 「どこへ行くボートか」と聞いたら、「Pulau Banyak島」 との答え。Banyak島はたしか、もっと南にある港町のSingkil から船が出ると聞いていたが、ここからも貸し切りで出るようだ。当然不定期、島まで距離は相当ある。この桟橋当りも泳いでる魚は見えなかったが、水は結構透明である。波止場の広場に夜屋台街がでるため、男たちが数人テーブルを並べていた。
この入り江と波止場には漁船が数隻停泊している、が大きなフェリーも貨物船もない、波止場につきものの生臭さが漂ってこないのだ。この静けさとのどかさがこの波止場町をより魅力的にしている。波止場付近にはLosmenとホテルが数軒あります。景色は私の泊った地点にはかなわないが飯には便利ですね。
波止場からホテルまで早足で15分ほどだから町の大きさはたかが知れている。夕方シャワーを浴びた後、ホテルの周り廊下に置かれた藤の椅子に腰を下ろし湾を眺めていると、これぞ至福のひとときである。波打つ音がセレナーデとなり浜風が心地よい。これだけでもTapaktuanはぜひもう一度訪れたい地になった。もっともここまでたどり着くのがたいへんだが。
夕食はちょうど降り出した雨の中商店街までまた出かけた。ホテルの地下には屋外レストランがあるがやはり大衆食堂のほうが安いからだ。雨宿りを兼ねて入った大衆食堂でNasi Sotoを食べ終わり、雨の止むのを待っていると、地元の男が夕食にやってきた。私を見て話しかけてくる。どこから来たの、何人だののお決まりの質問、こういう質問に対してはいつもはあまり積極的に相手しない私も雨宿りなのでしばし話す。マレーシアからだというと、アチェ人はマレーシアにいるかと聞いてくる。ここの住民はアチェ人だからそう聞いてくるのだ、日常的にアチェ語を使っているが、私たちに対してはインドネシア語を使う。普通彼らはスマトラ住民とはいえマレーシアの知識はほとんど持っていない、マレー人のことをいろいろ聞かれるが、私のマレーシア語ではそれほど詳しいことは伝えられない、といっても彼らもその程度で満足してしまうのだ。
その夜ホテルの自室で波音を聞きながらいつしか眠りに落ちていった。
日程が少なくなってきたので残念だがゆっくりしていられない。今日中にメダン近くのどこかに着かねばならないからだ。翌朝バスターミナルへ行きメダン方面行きのバスかミニバス(バンのこと)を探す。といってもひなびたターミナルだからミニバスが2台ぐらいしか止まっていない。男たちがまた寄ってきてどこへ行くのとうるさい。昨日チェックしておいたように、メダン直行夜行バスは夕方しかないし、夜行ミニバスは夜出発だから、どこかで乗り継がねばならないことはわかっていた。
しばらく待って、8時にSubulussalam行きのバンで出発。60Kmほど離れたBakonganをすぎるあたりまでは海岸線を走る。相変わらず海岸は美しい、これが Acehの海インド洋の見納めでもある。その後寒村のTeluk Jamin を通過、ここからPulau Banyak島へのボートが不定期に出るそうである。1本しかない桟橋に木材を満載した小型船が停泊していた。
その後道は南Aceh県の端の町であるSubulussalamまで内陸部を走ることになる。しばらく走ると山道はEkosistem Leuser 原生林保護区の看板が立つ地域にはいる。その後Gelombang という村でバンはしばし停車。川と交差し1本道の両側に古ぼけた木造家屋が建ち並ぶ村である。
ちょうど市が立っていて人出が多い。茶店にもその周りにも男たち、若者が多いが年寄りまでさまざま、何をするでもなくタバコを吹かし座っている。その姿ははんで押したように同じ、薄汚れた半袖のTシャツか開襟シャツにジーパン、足にはサンダル履きという姿、間違いなくこれといった仕事のない者か半失業者であろう。物買いの女たちが歩いて行く、スカーフ姿がそれほど多いわけでもない。幼児子供が裸足でゴミで散らかった道を歩きまわっている。幼児を連れた母親が軒先で座り込んで物を食べている。ただの小さな村なのにどうしてこれほど人が多いのというほど人人である。しかしこの人人をまかなうに充分な産業はないのであろう、インドネシア人がマレーシアなどに労働者として絶えず流れ込んでくるのもわかる気がする。
この朽ちた木造家屋・商店の中にも大きなパラボラアンテナを立てた家がある。電気だって24時間はきていないであろうが、いささか不釣り合いな光景である。それにしてもこぎれいなTapaktuan とはたいへん対照的な”汚い”村でした。
道路には年代物の小型の乗合いピックアップトラックがずらっと並び、市で物を買い込んだ女たちと物を満載して発車を待っている、近郊の村、部落へ行くのであろう。別にここだけではないが自家用車はほとんど目にしない、道ですれちがうことも極めて希である。従がって、こういうミニバス、乗合いピックアップトラックは庶民の貴重な足なのだ。Subulussalamまで3時間半のこの行程の運賃は1万ルピアであった。高いのか、安いのか。
さてSubulussalamは州端の町、ここからもう少し南下すれば港町のSingkil へ行ける。バスターミナルでミニバスを待っている間に長距離バスのSingkil 行きが到着した。ここからメダン行きのミニバスつまりバンが出ているので、出発を待つ。例によってミニバス運行の男たちは早く切符を買えとことばうるさい。 何時出発するかとの私の質問に”Sebentar まもなく ”といつもの答えが反ってくる。そんなことばを信じはしないのだが、まさかそれが2時間近くもかかるとは思わなかった。これだったら先に出発した途中のSidikalang行きに乗り、そこでメダン行きに乗り換えた方が早かったかも知れない。まあいいやとあきらめて、時間潰しにターミナルを出て町中心部まで行ってみた。
ほこりっぽいなんの変哲もないない町、長距離電話会社のWartel のオフィスへ行ってメダンのマレーシア航空の事務所に電話したが、昼飯時だろうかテープの発声のみで予約の再確認をあきらめた。昼時だから大衆食堂で飯でもと思ったが、相変わらずNasi Goreng かMie Goreng ばかりのメニューではあまり触手が動かない、それに胃の調子もおかしかったので昼飯はパスだ。
ターミナルに戻ってバンの座席がすべて埋まるまで気長に待つ。ターミナルを出発してもしばらくさらに客を探しながら走るのだ、もう座席はないが詰め込めということだ。途中で乗客が降りれば、当然また道路でバンを待つ客を拾っていく。
Subulussalamを1時半近くに出発してまもなく道は北スマトラ州に入る、これでAceh地方とはおさらばである、私の今回の旅の目的地もこれでほぼ終わったことになる。道はこれからメダンまでずっと内陸部それも山岳地帯が多い、要するにスマトラ島を西から東へ半横断するわけだから。
つづら折りの山道をバンは飛ばす。このバンの運転手は相当荒い運転である。プランテーションの農園を、木材伐採後の丘陵地を次々に通り過ぎ、山を上り下り車は走る。緑はやっぱりここも多い、まこことに多いのだ、スマトラの山々は禿山かなかと思っていたのは大違いでありました。3時には北スマトラ州の主要町 Sidikalangに到着。
もうAcehではないので新しく乗って来る乗客はアチェ人ではないようだ。彼らはインドネシア語を互いに話している。Aceh地方ではAceh人が互いにインドネシア語を話すことは極めて少なかった、相手がアチェ人と知っていればインドネシア語を話す必要はなくアチェ語なりその派生言語を話しているのだ。しかしここ北スマトラ州に入ったのでアチェ人でも相手が他民族の時またははっきりしない時はインドネシア語を使うようで
ある。
我々の乗ったバンはMerak で昼食のため、大衆食堂で休憩。他のバンも何台か止まっている。ここはバタック人が多いのだろう、物売りの女性の衣服がAceh人とはあきらかに違う。このMerakはメダン方向とトバ湖方面のSipiso-piso滝への分岐点になる。
その後の道路はなんとなく風景が単調である、同じ内陸部でもちょっと違うと感じるがもう山中深く走るわけではない。村や部落を通りすぎていく、乗客に若いムスリム女性たちが加わった、メダンへいくのだろう。Acehで若い女性たちが車内にいたのは極めて少なかった、スマトラの中心都市メダンへ人は何かにつけて行くのであろう。
これから後の部分は割愛します。
以上で旅行記 アチェ一周編 はおしまい。
このコラムの前編を掲載した後、そしてまた中編と後編を掲載する前つまり1月11日、クアラルンプールなどでビジネスや店を営んでいるアチェ人が、クアラルンプールのチョーキットの路上の一画でアチェの被害救援活動をしていることを知りました。私は早速その場を訪れました。マレーシアメディアだけでなくアチェのメディアの撮った写真等も掲示してあり、被害のひどさが伝わってきます。通行人が立ち寄って見ていきます。お金や物品を寄付する人も少なくないようです。
その場に詰めていた数人のアチェ人の1人に少しだけ尋ねてみました。彼の話しでは、アチェ南州は被害をあまり?またはそれほど?受けてないようです。さらにコラム後編で掲載する山岳地帯であるアチェ中部は大丈夫だと言っておりました。そのことばに間違いないことを私は期待します。
ただアチェ自体が被災後もBanda Aceh を除いて、外国人の救援活動・外国マスコミの立ち入りが強く規制されている状況なので、西部や山間部の細かな状況がわかるまでにはさらに日にちが必要でしょう。いやひょっとしたらずっとわからないかもしれません。
この地震でアチェのことがマレーシアのマスコミでちょっとニュースになってきたとき(12月 29日頃)、私はもう何年も前にアチェの旅行記を書いたことを思い出しました。そこで保存していたディスクでファイルを探したら、ありました。消えずに、消さずに残っていたのでほっとしました。一つのファイルは、始めてアチェを旅した時の旅行案内記です(1998年8月)。旅行雑誌にでも投稿・寄稿しようと思って書いた、2万数千字にのぼる長文です。しかし推敲がちょっと不十分な状態のままで、いつしか忘れてしまっていました。もう一つのファイルは2回目のアチェ旅(1998年11月)で、アチェの内陸部つまり山岳地帯に絞った8千字ほどの旅行記です。こちらは具体的に発表するつもりはなく、個人的な旅行記録として書いたものです。これは推敲もせずそのまま長い間保存ディスクに眠っていました。この両旅の前後にも(97年、99年、2000年)スマトラは訪れていますが、ほとんどアチェに立ち寄っていないのでここでは関係ありません。
今回何年かぶりにファイルを開いて読み返してみたら、この2つの文を読んでいただければ多少でも地震前のアチェの様子を知ってもらういい機会ではないかと思いました。そこでこの2つの旅行文をコラムに掲載することにしました。コラム1回の掲載分量のつりあいから言えば、先週(アチェ旅行記から−中編 )掲載分量は約2万6千字と非常に多すぎるのですが、一挙掲載しました。今週(後編)は、多分引き続き興味を持って読んでいただけるであろう、アチェ山岳地帯の旅行編(約1万字)を掲載します。今週掲載分は自分の旅行記録だったので、推敲が全く足らず結構推敲しました、しかしそれでも、月日が経って記憶などの不鮮明な点もあるので書き換えといえるような修正は施してはいません。
メダンにある2つのバスターミナルのうちの一つ Pinabg Baris へ行くと、近郊町及びAceh地方の西海岸行きバスの行き先を表示したバス会社の事務所がいくつかあります。窓ガラスや事務所の壁に書かれた行き先や時刻がおおよそを示しますが、もちろんこれを100%信じることはできませんので、事務所内に座ってる人に聞くのが一番いいです。なぜ事務所内に座ってる者がいいかというと、こういう分野には制服というものがありませんので、誰がその会社の従業員か全くわからないからです。だから結局事務所内に座ってることぐらいからしか、そのバス会社の従業員であることを判断できないのです。
こういうバス会社の事務所当たりをうろついてると、スマトラではおせっかいというかそれしかやることないのか知りませんが、必ず数人の男がやってきて「Ke mana どこへ行くの?」 とうるさいのです。これは旅行者が Pinag Baris のバスセンター敷地内に足を踏み入れた瞬間から始まるのです。一人でも乗客を見つければコミッションが入るのか、それとも暇つぶしに旅行者相手におしゃべりしたいのか、その当たりに苦しみますけどね。
20, 30分もバスセンターをうろつけば少なくとも10数人からはこの 「どこへ行くの?」 文句を尋ねられます。いいかげんにうるさいので、私は「まだ決めてない」 とか 「知りません」 と答えることにしています。実際私は行く先をはっきり決めてないことがよくありますし、次回の情報収集も兼ねているので、こういう質問にいちいち答える気は起こりません。
しかしこういう男たちには私の答えが納得できないらしく、まあ普通の旅行者は行く先ぐらいは決めてるでしょうから、時にはしつこく迫ってきます。
そんな時たまにはその男ら の相手になってあげます。バスセンターのバス駐車場にいろんな行く先が掲げられてるので、自分の知らないその地名をさして、例えば「Tanjung Puraはどこにあるの」 などと聞いてみます。それがその男の薦める行き先でなさそうな場合はそくさと立ち去っていくのもいるし、中にはいいかげんな返事をするのもいます。
「メダンの北、それとも南にあるの?」 と私は尋ねる、知ってるのか知らないのかその男は「北」 と言う。「じゃ、どれくらいの距離」 とその男の知識を試します。相手が答えてくれば、私はバッグからスマトラの地図を出して実際の位置を自分で探しますが、概してこういう男たちの答えはいいかげんです。彼らは知らないことを知らないと言わないので、というかそういう答えが旅行者を困惑させるという意識が全くないので、悪気もなく平気でいい加減な答えを言うのです。このあたりのことをいちいち腹を立てていてはスマトラ旅行はできません。
それからこういう男たちに地図を示して、例えば「Tanjung Pura はどこにあるの」 と聞いてもそれは無駄なことです。彼らはほとんど地図を読めません、つまり平面上で東西南北という概念を持っていないからです。
なかには悪質な若い奴もいて、答えてやったからという気を見え見えにさせて、タバコ銭を要求するのも中にはいます。ですからとにかくバスセンターでは自分の行き先がしっかり決まってない限り、言い寄ってくる男たちにはあまり相手にしないに限ります。といってもセンター内を歩いてるだけで次から次と 「どこへ行くの?」ですから、時には嫌になりますけど。
こうやって私はしばらく考え且つバス会社の事務所内に座っている者に聞いてから、ようやくAceh中部(内陸部)のKutacane へ行くことにしました。そこへ行きたい理由が始めからあったのではなく、前回の旅では(コラム中編で掲載した旅のこと)Aceh中部は行っていないということと、午前中にそこ行きのバスがあるということぐらいです。
私というか外国人旅行者なら当たり前ですが、バスがいつ出発するかが知りたいところです。「Kapan berangkat いつ出発するの?」 とその事務所の者に尋ねますと、事務所周りにいる関係のない男たちが 「Sebentar もうしばらくして」 とおせっかいに答えます。これは不思議なことながら、聞かれてもいない者がよくこういうことを答えるのです。答えと言っても、その内容はこの 「しばらくして」 ばかりです。午前に尋ねている時バスの発車が午前中になければさすがにこうは答えませんが、1時間後でも2時間後でもほとんどこういう答えです。「Jam berapa 何時ですか?」 と聞いてもどうせその時刻に発車することは絶対にありませんので、無駄なことはわかっているのですが、それでも旅行者の性、聞かずにはいられません。
今回もKutacane 行きバスが停車していることを確認後(そうでないといつその車両がやって来るかもわからない)、切符を買いました。そして、いつになるとも知れない小型バスの発車を、バスのすぐ付近で待ちました。気長に待って約30分後に発車です。これぐらいならまあ 「しばらくして」 も許せます。ただよくあることですが、小型バスとかバンは行き先が表示してないので、とにかく何回も確かめて乗ることをお勧めします。
さてメダンのバスターミナルを11時半に発車したマイクロバスはだいたい既に8分ぐらいは席が埋まっていたのですが、それでも途中のそのバス会社の指定バス停で客を拾えるだけ拾うまでは、メダンを離れません。ここまでの時間が実に長いのです。とにかく満席プラス座席に押し込められるだけ乗客を詰め込み、屋根上には荷物を満載してメダンを離れるのです。私は幸い運転手すぐ後ろの席、窓ガラス側だったので、詰め込みもそれほど苦にならなかったのですが、これが席によっては大違いです。ですから始発で切符を買う時の席決めは重要です。もちろん途中から乗れば席の選択なぞありません。隙間に座るだけですからね。
なぜ窓際がいいかというと、インドネシアの男性は老若を問わずほとんど100%タバコを吸い、それも四六時中ところかまわずですから、狭い車内でタバコの煙が蔓延するからです。こういう時窓ガラスを自由にあけれない位置に座ると、それだけで苦渋の時間を過ごすことになるわけです。もっとも、もっとひどい苦渋は車が山道に進んでから始まります。
彼らのタバコ好きはもう病的で冷房車であろうがなかろうが乗り物内では必ず吸います。彼らに禁煙という言葉は辞書にありません。抗議はしない方がいいと思います。
停車中の車内で隣でひっきりなしにタバコをくゆらせれば、私のやり方はだまっていやな顔するか窓ガラスを開けることです。ささやかな自衛策。それにしてもタバコの根元がなくなるまで吸いきる彼らを見ていると、タバコの害などまったく頭の片隅にもありませんね、仕方ないですがこれもスマトラ旅のつきものです。
さてマイクロバスはBrastagi そしてKabanjahe を過ぎるあたりまでは片側1車線のまあまあの道路を走ります。そして車がAceh山岳地帯縦断につながる道路に入ると、もう道幅はマイクロバスが2台すれ違うのが難しいほどまでに狭くなり、曲がりくねってくる。いつしかスマトラ北州を抜けてアチェ地方(州)に入りました。こんな道をKabanjahe からだと約100kmほど走ってようやく最終地のKutacane に着いたのはすでに暗くなった7時でした。
Kutacaneではその地のまあまあの安ホテルに宿を取りました、といっても第三世界を旅したことのない人にとってはたいへん汚く感じるホテルでしょう。スマトラでは極めて珍しい自家用車で来て泊っている客もいたぐらいなので、あとで知ったがどうやらそこがKutacane の上級宿泊所にあたるようだ。トイレ浴室付きの1室1泊 3万ルピア。スマトラの安宿の基準ですから、お湯は当然設備にないしシャワー設備もない、水溜めから手桶で汲んで水浴びします。山間地のため気温が涼しくて良い、扇風機をつけなくてもいいのです。
私はそこからAcehの山岳地帯である中部を縦断するつもりです。翌朝チェックアウトして、その小さな町をぶらついていると、旅行代理店Rafting & Trecking の看板を見つけ、そこに座っていた若い男と話してみる。どうやら彼言うに、Leuser 自然保護地域にあるGurahでは現在ラフレッシアが開花しているそうだ。Gurah はAceh山岳地帯を縦断する道すがらだし、ラフレッシアを見るまたとないチャンスだ。それならとその若い男 Aseh とラフレッシアを見るだけの半日トレッキングを交渉した。旅行者が全くいないのでいかにも暇そうな彼も乗り気で、最終的にUS$10でまとまった。
本来はこの代理店は数日かけた山地ジャングルトレッキングとかラフティングツアーを催行しているようだが、経済停滞とインドネシア国内問題で主客の白人バックパッカーがぱたりと途絶えたため、彼は暇をもてあまして苦境を訴えていた。
さっそく近くのマイクロバスと乗合いピックアップトラック乗り場へ行き、ピックアップトラックでGurak に向けて出発。といっても車内が満席になるのを気長に待たねばならず、ようやく出発。車は狭く曲がりくねった山道30キロほどの道を1時間半もかけて走り、我我2人はGurah で降りた。
Gurahは山間の村で、目的地はそこのKampung Ketambe部落とのことである。バックパッカー向けともいえるゲストハウスが数軒ある。ここからLeuser Ecosystem保護地域へ入山するわけだ。Leuser Ecosystem保護地域へは旅行者が勝手に入山できない、必ず届け出て、地元ガイドを雇うことになっている。
Gurahではその若い男Aseh が時々使っているそうな地元ガイドのMas が、ラフレッシアはもう開花時期が過ぎた、次の開花までには3週間あるとのことを彼に伝えたので、私はちょっと迷った末トレッキングをあきらめた。彼(Aseh)はそれでも花のつぼみか残骸は見られるとしきりに薦めるが、それではわざわざ見に行く気はしない、ちょっとかわいそうだったがキャンセルした。もちろん何がしかの金は渡した。
私はアチェ中央部の縦断を続けるため、この地方の次ぎの町であるBelangkejerenへ行くことにした。そちら方面行きの車を待つ間この二人とあれこれおしゃべり、2人はツーリストつまり白人バックパッカーががたっと減って金が入らないと嘆いていた。確かにこの二日間一人のバックパッカーにも出会っていない。こういう自然保護地域へ来るのは自然嗜好バックパッカーぐらいしかいないだろう。産業は農業以外にこれといってないし、ガイドをしながらゲストハウスを経営している Mas もたいへんなのであろう、私のことばにうなづいていた。
やがてKutacane行きの車が来たのでAseh はそれに乗って帰っていき、私は一人で道路端のバス停留所でいつ来るともわからぬ車を待つ。数台満車の乗合いバンが通り過ぎた。手を挙げれば停まったが、屋根の上しか乗る所がないと言われればしかたない、次のを待つしかないのだ。地元の男は平気で小さなバンの屋根上とか車体外側につかまって乗っているが、こんな危険なことはやるつもりはない。
2時間も待ってようやく座席のある乗合いバンが停まった。ようやく約70Km先のBelangkejerenへ向かって出発。Gurah から Belangkejeren行きの道はこれぞ山道という道で急坂と曲がりくねった道だ。道は時には路肩が崩れており危険を感じるが、車中ではそんなことを誰も気に留めないようだ。この道を人と荷物を満載させてのろのろと登り、唸りながら坂道を降りていく。狭い道の片側は峡谷である、いうまでもなく道を外れたら一巻の終わりだ。
時には川が見え山々の緑が迫ってくる、この景色もう何十年も変わっていなのであろう。開発から取り残されたしかし豊かな自然のAcehの山地を走っていると時間がゆっくり過ぎるのだ。車は幾度か止まり住民を降ろしまた積んでいく、まがりくねった道のため酔う人も出てきて狭い車内で吐く奴がでてくる、タバコの煙とにおい、とにかく目的地までがまん、がまんである。峠の茶店で食事休憩し、Belangkejerenに着いたのは薄暗くなりかけた夕方であった。
この町は山間の宿場町、別に何も変わったことはない。普通程度のLosmen Wahyuに宿を取った。Losmenはインドネシア風の安宿のこと、壁が薄いしベッドは汚いし、とにかく1晩過ごせればいいのだ。高原のため涼しい、よって水浴びがつらい。
翌朝町から少し離れたバス発着所へいって東南Aceh県の県都 Tekogon行きのバスを待つ。一度は座席がないと言われて呆然とした。なぜならこのAceh山岳地帯越えの(私にとっての)ハイライトたるTakegon行きは1日1便しかないからだ。なぜこんなに少ないかはこの行程を旅してわかったことだが、確かに1便しか走らないのも納得できる。乗客がいないわけではない、行程中ずっと小型バスの屋根上まで人でいっぱいだったし、道道で人を降ろし、そしてまた拾っていったのである。しかしいかせん道がものすごく悪く、このバスを利用するのはこのあたりの地元の人しかいないだろう。
Takeogonへ旅する人とか帰省する人はSumatraの中央部つまりメダンからアチェの東海岸経由で行った方がずっと早いし、且つ東海岸部は道路もいいから、この山岳超えでTakeogonに到着する苦渋はない。なぜなら、私はその後 Takeogonから東海岸方面に抜けたので様子がわかったからです。何らかの用事でAceh山岳地にやって来る人はKutacane までなのであろう。とにかく Belangkejeren と Takegon 間は地元人100%という感じだ、そしてバスを走らせている会社自体が少ないので、たった1台しかこの路線にはまわさないということのようだ。
まもなく切符売りの男が一つ座席があると言ってくれたので、とにかく座席に金を払い(残念ながらいくらだったか私の料金記述が不明)、バスが来るのを待つ。始発地点だけは切符を発行すわけだ、それが唯一の利点だ。これで座席は確保できた、後列の左窓側、これはまことラッキー!であった。なぜかは後で分かる。
「いつバスは来るの」 「もうすぐ」 といういつもの会話を交わして、その後小1時間バス広場をぶらぶらして待つ。公衆トイレが壊れて使えないので男たちはその裏で立ち小便、とにかくその付近は汚い。
(空いた)バスが到着、おんぼろ小型バスである。とにかくまず乗り込む。席だけは確保しておかないといけないのだ。バスを待つ間乗客は増え、通路にもプラスチックの大小の椅子を起きそこに座らせる。柵を取りつけた屋根にはもちろん荷物を積む。車内は既に満員だが発車はしない。「もうすぐ」 という言葉がいい加減うつろに響く。
さて10時15分にようやく出発した。もう満員且つ屋根には荷物で一杯のはずだが町の道筋で人と荷物をひろっていく、よって人はもちろん屋根の上だ。屋根に上れない女と子供は通路に立たせる、といっても既に通路もいっぱいだから隙間に立たせるという感じだ。もうこれ以上は詰めこめないはずなのにそれでも詰め込んでいく。信じられない。小型バスの定員と積載重量の数倍は間違いない、屋根にも人がいるからそれ以上だ。これだけ詰め込めばスピードなんて出るはずがない。それもあって、このたった100Kmほどの行程になんと7時間半もかかろうとは想像もしてみなかった。
7時間半もかかかった理由は詰め込みとおんぼろバスのせいだけでない、とにかく行程の道がすごいのだ。小型バス一台が通ればすれ違いは不可能な幅の道が続くが、幸いなことに対向車はほとんど来ない。1時間に数台程度それほどこの行程は車が少ない、もちろん追い越して行く車もいない。自家用車なんて誰も持っていないから通るのはバンかピックアップトラック荷物用小型トラックのみ。
7時間半の行程中、昼食の30分と町部での1時間の平坦路以外すべて曲がりくねった山道という山越え行程だ。いくつもいくつも山を登り下りAceh山岳地帯を縦断していく。周りは山だらけ、そして道の片側は絶壁、そんな道が多いのだ。車ってこんなに丈夫なんだな、あらためて感心する。エンジンはほとんど悲鳴をあげ続け、タイヤはいつパンクしてもおかしくないほど過剰積載しているのだが、人が歩くほどの早さで急坂を登っていく。
時々バスは清水の湧いているところで止まるのだ。人が水を飲むのではない、バスのキャブレーターに給水するだけでなく、車体下部に水を浴びせるのだ。冗談だろうと思わないで欲しい、運転手や数人の助手は極めてまじめ、バケツに何回も水を汲んで車体の下部、タイヤに水を掻けて冷やしている。
標高の高い地点を走るため車中が暑いことはない。窓を完全に開ければ涼し過ぎるくらい、それに時折小雨が降る天候でもある。屋根に乗った6,7人の男たちにはつらいことだろうが、それともそんなこと慣れっこで大して感じないのだろうか。
部落のあるところで人が降りまた乗り込んでくるのでバス乗客全体の数は一向に減らない。これだけ需要があるのだからもう1便増やせばいいのにと思うのだが。このバス旅でつらいのは吸い続けている男たちのタバコの煙だけでなく、吐く乗客が耐えないことだ、特に女性とか老人は多い。無理もない100mとして平坦な道も直線もない、登って下って曲がってとバスは揺れに揺れまくる。一応簡易舗装はしてあるが凸凹と波打っているし、舗装がはげている所もある。恐いのは道路の片側が崩れているそのぎりぎりを車輪が通り過ぎることだ。窓から下の絶壁を見れば考えたくないことも考えたくなるものである。
先ほど最後部で窓際で助かったと書いたのは、すぐ後ろで吐く奴がいないし、タバコの煙は窓を開けて多少でもコントロールできるからだ。これが中間の座席だったら周り中が吐きとタバコでこちらまで吐きたくなるだろう。こんなことはあらかじめ予想されていると見えて、天井にはビニール袋が幾つかぶら下げてあるのだが、皆がそれを使うというわけではない。床に吐く奴、窓からする奴と汚いといったらありゃしない。
1時半ころIse-Ise という地点の峠の茶店で昼食休憩となった。ほっとしてバスを降りると、山から流れてくる小川の際にトイレ小屋が作ってある。女性用のトイレさえ扉が壊れて孔が開いている。何はともあれ水があるからほっとする。茶店はいうまでもなくうす暗く汚いが、流れる川から水を引いているので洗い物には困らないようだ。こういう山地で何がひどいかというと満足に水がない所が一番ひどい、例えばトイレは汚れ放題、これじゃ茶店のコーヒーも上手くなくなる。
さてまた人々はバスに乗り込み一路Takegon に向けて走り出す。とにかくパンクせずに走ってくれことを望むしかない。こんな所でパンクしたらさらに時間が遅れるし、暗くなったらより心配だ。
アチェ山岳地帯の入り口ともいえる Kutacane から Blankejeren経由して Takegon につながる山越えは総距離200Km にも満たないのだが、所要時間は合計して13時間くらいもかかるのだ。特にこの行程はすごくかかる、それだけ山道が険しく、バス荷重がすごいことの証明でもある。Aceh中部山岳地帯の険しさと自然の素晴らしさに感激する一方、もうしばらくはこの同じ行程のバスには乗りたくないと思う。
これじゃいくら豊かな自然が残っていても、これを旅行資源に転化するのは当分不可能だ。インフラと宿泊施設と衛生状態を考えると、相当な旅慣れた者でもやって来ないであろう。
残念ながら私の当時の旅行記はここで終っています。Kutacane で宿泊した後、またバスなり乗り合いバンを乗り継いで東海岸側に出ました。そして、東海岸の町で宿泊しながらバスでメダンに戻りました。私がどこへ行っても必ず取る旅メモを探し出して、それを見れば細かいことはわからなくてもルートなどおおまかなできごととはわかりますが、文章化は記憶が薄くなっているのでもう無理ですし、精度がおちます。
前回掲載したアチェ一周の旅での描写と今回掲載の山岳地帯縦断の描写を読んでいただき、多少なりともアチェの様子をぼんやりと浮かべていただければ、ここに掲載した甲斐があります。写真があればもっといいでしょうが、私はこの種の旅ではカメラは持参しません。どこにでも入り込んでいく私にとって、こころない人間の盗みや脅しの対象になるような物はできるだけ持たないのが一貫した旅スタイルです。(もっとも、すごい小型デジタルカメラがこの数年出現したので、人にそのカメラの存在と撮影を気付かれずにできるのであれば将来は持参したいですね。)
このコラムの前編を掲載した数日後、そしてまた中編と後編を掲載する前つまり1月11日、クアラルンプールなどでビジネスや店を営んでいるアチェ人が、クアラルンプールのチョーキットの路上の一画でアチェの被害救援活動をしていることを知りました。私は早速その場を訪れました。マレーシアメディアだけでなくアチェのメディアの撮った写真等も掲示してあり、被害のひどさが伝わってきます。通行人が立ち寄って見ていきます。お金や物品を寄付する人も少なくないようです。
その場に詰めていた数人のアチェ人の1人に少しだけ尋ねてみました。彼の話しでは、アチェ南州は被害をあまり?またはほとんど?受けてないようです。さらにこのコラム後編で掲載した山岳地帯であるアチェ中部は大丈夫だと言っておりました。そのことばに間違いないことを私は期待します。
ただアチェ自体が被災後もBanda Aceh を除いて、外国人の救援活動・外国マスコミの立ち入りが強く規制されている状況なので、西部や山間部の細かな状況がわかるまでにはさらに日にちが必要でしょう。いやひょっとしたらずっとわからないかもしれません。
最後に、不十分なことは承知していますが、このコラム3編を通じて、スマトラ沖地震で最も被害を受けた(ことは間違いない)、しかもいまだにその実態さえ完全につかめていないであろうアチェの風景と人々の置かれた状況・状態を知っていただく一助になればと思います。
これまで断続的に掲載してきた数字で見たシリーズです。マレーシアに関する様々な統計数字を掲載しています。ここでは、数字を視点にしてマレーシアの諸面を知ってください。
統計庁が発表した2004年第3四半期の時点における人口推計です。総人口が2570万人で、内2400万人がマレーシア国民、170万人の非マレーシア人は、永住許可者、外国人労働者としての暫定滞在者、エクスパトリエイトなどから構成されます。2002年の時点で総人口は2450万人でしたので、5%増加したわけです。
(5才毎にみた)総人口の割合では、4歳以下が302万人と最大比率を示しており、70才から74才が最少グループで30万人弱です。75才以上が34万人です。総人口の男女割合は、男性1310万人、女性1260万人です。
ブミプトラ | 非ブミプトラ |
||||
民族 | マレー人 | 非マレー人 | 華人 | インド人 | その他 |
人数 | 1300万 | 280万人 | 610万人 | 180万人 | 30万人 |
比率 | 65.8% | 25.4% | 7.5% | 1.3% |
統計庁は、その人口推計統計においてマレーシアインド人の比率が下がった理由を、出生率の低下と死亡率の増加のせいであると説明しています。統計庁の最新発表では、インド人の割合は7.5%に落ちました、しかしインド人人口そのものは増えており、2000年の169万人から2004年は180万人です。
2001年から2004年の期間に増えたブミプトラ人口の伸び率は2.3%、インド人人口の伸び率は1.6%です。
内務大臣が国会で明らかにした数字です。2001年から今年の6月までにマレーシア入国した2740万人の観光訪問者の内、その8.9%にあたる240万人が、それぞれの滞在許可期限が切れても出国していない、そのほとんどは滞在超過者であり、その国籍は下の表のようになります。 これらの違反者は見つければ、最高RM10万の罰金と最高5年の懲役に処せられます。尚観光訪問とは、Social visit Pass をパスポートに押される訪問者のことであり、在住者を除いた大多数の日本人訪問者もこの範疇に入りますね。
違反者総数 | シンガポール | インドネシア | タイ | ブルネイ | 台湾 |
240万人 | 843,149人 | 626,009人 | 346,781人 | 88,827人 | 50,800人 |
世帯所得の乖離は社会的公平さを保つためにあまり広くてはいけません。社会経済と環境研究所は全体的に富の分配は向上してきたと捉えています。
2002年時点における世帯所得を3分類すると、月収 RM 1200 未満の低所得世帯は全体の25.9%、RM 1200から RM 3500未満の中所得世帯が全体の47.9%、RM 3500以上の高所得世帯が 26.2%を占めます。
この数字をよく知っていただきたいと思います。一般に日本人の居住する地域、交際するマレーシア人の階層は圧倒的に中所得以上の階層が多いので、捉え方が全国の平均的実態とずれている場合が見うけられます。
全国の国民中学校で華語を授業科目に入れている学校数とその華語の授業を受けている生徒数は、2000年が643校で 16万3千人、2004年が817校で 24万人と増えました。華語科目の大多数は選択科目としてです。全国の国民中学校の全生徒数の1割くらいが、華語科目を取っていることになります。
つまり逆の言い方をすれば、国民中学生の約1割しか華語を授業で習わないということです。小学校段階では華語教育する国民型華文小学校出身者でも、中学校に入ると華語を授業科目に選択しない、または華語授業科目自体がその中学校にないので取れない生徒も多いということです。小学校で華語を習っただけという若い華人が少なくないのはこのためです。これでは充分な華語能力はつきませんね。
2003/4年度の全国で高等教育を受けている学生数
国立大学 全17校 | 私立の大学及び大学カレッジ 全23校 | 私立カレッジ 全519校 |
294,359人 (内65%が学士課程) | 76,505人 | 237,839人 |
この調査によれば、マレーシア人の訪れる買い物場所の回数は、2003年で
種類 |
ハイパー・ スーパーマーケット | コンビニ |
伝統的 食品販売店 |
伝統的 市場 | その他 |
月平均回数 | 2.2回 | 2.5回 | 6.8回 | 7.4回 | 0.9回 |
電力会社がその契約者・家庭 に対して停電を起こしてしまう1年間の総分数を下表に示します。(1契約者・家庭が被る平均停電時間を分数で表示)
2001年 | 2002年 | 2003年 | |
TNB (半島部の電力会社) | 266分 | 128分 | 168分 |
サバ州の電力会社 | 2279分 | 1779分 | 1729分 |
サラワク州の電力会社 | 731分 | 610分 | 418分 |
郵便局POS は全国に651軒あります、さらに販売を第3者が運営する限定サービス機能の POS Mini が208箇所あります。
コンピューター&マルティメディア業者の全国団体であるPIKOM は全国の総世帯500万のうち、パソコンを所有している世帯が約4分の1を占めると推測しています。しかしこれが非都市・町部では9%にぐっと落ちると推測です。
男性 | % | 女性 | % | |
1位 | 肺 | 13.8 | 乳房 | 31.0 |
2位 | 鼻咽喉 | 8.8 | 子宮頚部 | 12.9 |
3位 | 結腸 | 7.6 | 結腸 | 6.0 |
4位 | 白血病 | 6.6 | 子宮 | 4.3 |
5位 | 直腸 | 6.6 | 直腸 | 4.1 |
6位 | 前立腺 | 6.4 | 卵巣 | 4.1 |
7位 | 胃 | 5.1 | 白血病 | 4.0 |
年 | 1999 | 2000 | 2001 | 2002 | 2003 | 2004 | 2005 |
報告件数 | 10,146 | 7,146 | 16,368 | 32,767 | 31,043 | 33,203 | |
死亡人数 | 37 | 45 | 50 | 99 | 72 | 58 |
2004年は経済がまこと好調でした。
農業 | 鉱業 | 建設業 | 製造業 | サービス業 | 実質GDP | |
第1四半期 | 3.2 | 5.8 | 0.6 | 12.7 | 6.2 | 7.8% |
第2四半期 | 3.2 | 1.2 | -1.7 | 11.9 | 7.8 | 8.2% |
第3四半期 | 6.1 | 4.2 | -3.0 | 9.9 | 6.1 | 6.8 |
第4四半期 | ? | ? |
2002年 | 2003年 | 2004年8月まで | |
直接製造数 | 93559 | 87751 | 70933 |
組み立て生産数 | 176761 | 256276 | 207327 |
総計 | 270320台 | 344027台 | 278170台 |
道路交通庁に登録数 | 222685台 | 321234台 | 338275台 (10月まで) |
区分 | 普通車 | 商用車 | 四輪駆動車 | 合計 |
台数 | 380568 | 70948 | 36089 | 487,605 |
Khazanah Nasional Bhd は経済省がその株式を100%保有する、政府の投資会社です。次ぎの表はこのKhazanah Nasional Bhd 及び経済省が大株主である、いわゆる政府系会社の一覧表です。これらの比率は時々変わるので、以前掲載した表の更新版です。
企業名 |
Tenaga 電力 | Telekom |
Plus 南北ハイウエー | Proton |
MAS マレーシア航空 | MAHB | Timedot Com |
Khazanah | 34.6 | 32.5 | 18.0 | 30.5 | 0 | 23.5 | 30.0 |
経済省 | 17.1 | 3.4 | 0 | 0 | 69.3 | 49.3 | 0 |
合計保有率 % | 51.7 | 35.8 | 18.0 | 30.5 | 69.3 | 72.7 | 30.0 |
企業名 |
UEM 建設 |
Bintulu 港湾 | Pharmaniaga | UDA |
POS 郵便事業 | Faber | UEM World |
Khazanah | 44.7 | 32.3 | 30.7 | 0 | 46.2 | 63.6 | |
経済省 | 0 | 0 | 0 | 50.0 | 29.5 | 0 | 0 |
合計保有率 % | 44.7 | 32.3 | 30.7 | 50.0 | 29.5 | 46.2 | 63.6 |
地域 | 北米 | ヨーロッパ | 西アジア | 南アジア | 東南アジア | 東アジア | 中南米 | アフリカ |
RM | 10億2千万 | 7億7千万 | 1億2千万 | 1億6千万 | 15億9千万 | 16億8千万 | 20億 | 16億9千万 |
マレーシアはかつて世界一の錫産出国でした。19世紀の終わりには世界の錫の半分を産出していました。1979年でも世界の総産出高の3分の1を誇っていました。当時は4万人以上が錫産出に関わっていました。しかし1985年に世界の錫価格が暴落して、錫産業は斜陽に向かい、1994年には産出わずか6500トンで従事する者は3000人に減りました。
リンギットは98年以来、米ドルだけに固定した為替相場を敷いています。このところこの対米ドル固定為替率の見直しが話題になっています。リンギットは米ドルには固定していますが、他通貨にはもちろん変化しています。次ぎの表で、マイナス はその通貨に対してリンギットの為替価値が落ちたことを示します。例、日本円から見れば、対リンギットの価値が3割前後上がっているということです。
対通貨名 | 日本円 |
シンガポール ドル | タイバーツ |
インドネシア ルピア |
2002年 | -15.4 | -1.2 | 5.9 | -20.3 |
2003年 | -28.1 | -1.6 | -2.4 | -26.8 |
2004年10月 | -29.0 | -4.0 | 1.1 | -18.1 |
2004年12月 | -33.5 | -5.7 | -4.2 | -15.3 |