・マレー鉄道ジョーホールバル駅の利用者安全とサービスへの無関心さを嘆く
・2004年の国内自動車販売統計の分析と今年の展望
・タイ深南部はどういう状況になっているのか −現地訪問の報告− 前編 ・ その後編
・ブミプトラ発展を視点にした独立以後の簡易年表 ・最優秀映画賞をあげたいマレーシア映画 ”Sepet”
・マレーシア旅行業界が主催する最大の旅行展示会 MATTA フェアー
マレー鉄道(マラヤ鉄道)の南端はシンガポールを起点としています。終着・始発駅 Tanjung Pagar の場所はシンガポール内にあっても駅敷地内と鉄路はマラヤ鉄道つまり Keretapi Tanah Melayu Berhad、 略称 KTMB の所有です。その理由はマラヤ連邦が独立するより前の時代からの由縁に基づきます。シンガポールがマレーシアから分離独立した1965年に始まったわけではありません。
さてそのマレー鉄道のクアラルンプール行きまたはコタバル方面行きの北上列車がシンガポール領域内を出て海峡橋Causeway を渡ってマレーシア国土内に入った直後の地点にあるのが、マレー鉄道ジョーホールバル駅です。バスや自家用車でシンガポールとの間を移動される方の大部分がCauseway 利用者なので、その際必ずや通るのが Jalan Tun Abdul Razak であり、必ずや目にするのがジョーホール駅です。というのは、そのTun Abdul Razak 通りの終りというか起点がCauseway につながっており、ジョーホール駅はこの Jalan Tun Abdul Razak にあって且つCauseway手前に設けられたマレーシア出入国管理庁 Imigresenの建物まで数十メートルの距離で近接しているからです。
このためマレー鉄道を利用されない方にも駅の建物は馴染みのはずです。ただ建物自体に名前が大書されていないので、初めて訪れたような方だと鉄道駅とは気がつかないことがあるかもしれません。下段で詳しく触れますが、皮肉なことにジョーホールバル駅が Imigresen建物 にこれほど近接しているために、ある危険な行為も呼び起こしています。
ジョーホールバル駅は、マレー半島最南部に位置する主要駅です、大きさからいえばマレー鉄道としては中程度の駅の範疇に入るでしょう。日本の鉄道水準から言えば、大きな駅とはとてもいえません。こじんまりとした駅舎建物外観は西欧風建築がちょっと優雅な雰囲気を与え、歴史を感じさせます。建物内部の一部に2階部分があるのかどうかよくわかりませんが、すべての駅機能は地上階だけです。
駅舎の入り口は1箇所だけであり、トイレと一時荷物預かりの場所は駅舎の端に固まっており、そこへは行くには駅舎をわざわざ1度出る必要がある設計です。ただし改札を経たプラットフォームからはこのトイレと荷物一時預かり所へ連絡しています。改札は列車の到着少し前にしか行われません。そこで、改札が始まるまでの列車待ち駅利用者は雨の時など駅舎を出てトイレ、荷物預かりにたどりつくまで濡れてしまいます。田舎駅ならわかりますが、主要駅の一つともいうべきジョーホールバル駅の作りとしては感心しない構造ですね。
さらに荷物一時預かりのサービスのいい加減さです。私が調査のために訪れた夜10時過ぎにはすでに閉まっていました。預かりの所のドアには、早朝(確か7時) から夜11時と張り紙がしてあるにも関わらずです。いや、それはたまたまのことで、いつもは11時までやっています、という反論がひょっとしたら出てくるかもしれませんが、荷物一時預かり所がある日は予定より早く閉めてしまうというのは、容認できないサービスですね。預けた荷物が引き取れないなんてことになりかねません。駅自体が何らかの事情で閉めるようなことがない限り、常にオープン時間は守るべきであるのが、荷物一時預かり所の責務です。例えマレー鉄道が外部委託している業者だからといって、マレー鉄道は我関せずというのは、鉄道の駅としては無責任な態度でしょう。
それでは肝心の駅舎はどうでしょうか。駅員用でなく一般利用者に関係ある所に絞れば、駅舎内は長方形状ホール一つだけからなる構造です。つまりこの長方形の短辺にあたる左側に切符販売カウンターが設けてあり、もう一方の短辺は、シンガポール行きの際の切符売りカウンターと出入国検査カウンターが、ドアを境にした部屋の中に収まっています。そして長辺ホールの真中からちょっとはずれた位置が駅舎の入り口であり、その対面側つまりもう一方の長辺にはプラットフォームに通じる改札口があります。
決して大きいとはいえない駅舎の一部、つまり地上階部分の半分くらいがホールです。ですからその長方形状ホールはこじんまりとしています。そのホールの長辺状の部分の半分くらいにイスが雑然と置かれています。全部で20ちょっとかな、30個もない。その数少なさから、一目見ただけでいかにも足らないと感じます。案の上、私の乗り込む 23時半発の Senandung Malam夜行急行に乗るべく、乗客がだんだんと駅に集まって来るにつれて、とっくにふさがっていたイスはいうまでもなく、まともに待つ場所も足らなくなっていました。他人があまりにも接近して回りに立つと、誰でもうっとしく感じますからね。
仕方なく私を含めて多くの乗客が駅舎の外側であるほとんど街灯の点いていない暗い暗い駅敷地内でたたずんだり、駅出入り口の階段に腰掛けたりせざるをえません。中には若者たちのようにホールの地べたに座り込んだりと、それぞれが駅舎内外に居場所を探すことになります。
マレー鉄道の南部基幹駅に適当な待合コーナーまたは充分なイスがないというのは解せません。クアラルンプール方面に向かう列車ではジョーホールバル駅でたくさんの乗客が乗るのは毎列車のことです。当然、逆方向のクアラルンプールからの列車では多くの乗客がジョーホールバル駅で下車します。その晩は晴天だったので少なからずの人が駅敷地の屋外の一画でたたずんでいました。しかし雨の日は皆がホール内に入らざるをえないので、狭いホールは一杯になってしまうことでしょう。
駅員が気を利かせて、多少早めに改札をして利用者をプロットフォームに入る機会を作れば、プロットフォームにはイスがホールのその数以上にありますから、座り場所を確保できる人が増えるのです。しかしマレー鉄道の駅員にそういう態度は期待できませんね。20分や30分程度余計に改札口に居座って、プラットフォームに入る乗客の切符をチェックすることなど、重労働でもなんでもないはずです。その時間彼らは何やっていたか。窓切符カウンターの向こう側で、ずっと駅員同士でおしゃべりしていただけではないか(全員かどうかは知りません)。
さてクアラルンプール行きの夜行を待っていたその夜、私を一番いらつかせたのは、ホールの狭さでも、待合イスの少なさでも、ホールを駆け回る子供たちの煩さでも、トレイの不便さでもありませんでした。 駅舎前に広がる空き場所というか、庭と呼ぶのがふさわしいかもしれません、そこは日中はいくらかの車が駐車できる駐車枠もある駅敷地です。駅舎とその前を走る大通り Jalan Tun Abdul Razak の間に存在する狭い場所です。日中その駐車枠に駐車する車が1台ゆったりと通れるぐらいの幅しかありません。この屋外敷地は長さが数十メートルでしょう。あくまでも道路ではなく駅敷地内の駐車場所を兼ねた庭です。
その敷地内庭を、Causeway に続く大通り Jalan Tun Abdul Razak を走ってきたバイクが、一時的に道路をそれて庭に入り込んで疾走していくのです。バイクがなぜわざわざ大通りから駅敷地内に入り込んで数十メートル疾走した後、また大通りに戻っていくのか? それはこの道路が多数の車、バスのために大渋滞して、のろのろ走行しているからです。上段で説明しましたように、Jalan Tun Abdul Razak はCauseway につながっているために、ジョーホールバル駅よりずっと手前からImigresen の建物入り口までびっしりと渋滞しています。1日中交通量が多いので、いつも多少なりに関わらず渋滞しているようですが、とりわけ夕方から夜が、多分朝も、一番混んでいるようです。
ですから渋滞の道路をのろのろと走るより、わずか数十メートルとはいえ、駅敷地内を走ればその分早くCauseway の Imigresen検問所に到達できるからでしょう。それが駅敷地内を疾走するバイク乗りの論理です。10メートル離れたら顔がほとんど識別できないくらい、お粗末な照明しかない暗い敷地内を、バイクが時速数十キロのスピードで次々と駆け抜けて行くのです。1分間に何台もの数で敷地内に入り込んでくるどのバイクも、駅敷地内の人に気を配ってのろのろ走るなんてことはしません。
マレーシアバイクの常でヘッドランプがものすごく暗いバイク、ヘッドランプ自体が消えているバイクもあります。暗い暗い敷地内をひっきりなしにバイクが駆け抜けて行くのは、毎日のことですね。たまたま駅敷地内を通りぬけるのではなく、駅敷地を走れば多少でも時間短縮になると、考えているバイク乗りが数多くいるということです。
この描写をお読みになっただけでも読者の方には危険性を感じられるはずです。実際、危険です。バイクなど本来疾走すべきでない駅敷地内を、それもまともに街灯の点かない暗い敷地内をバイクがひっきりなしに疾走するのですから。道路から敷地へ入る入り口には、遮断機式のバーがかかっています。自動車であればこのバーで勝手な通行は妨げられますが、そのバー脇にはバイクが通るには充分過ぎるほどの隙間がありますので、バイク乗りはこのバーを全く意に介せず、道路からスピードをほとんど落とさずに敷地に入り込みます。そして庭内を疾走し、また出口にあるバー脇の隙間を抜けて道路に戻っていきます。この傍若無人なバイク乗りが次ぎから次ぎと敷地内を駆け抜けていき、私が改札を待っていた数十分の間、全く途切れませんでした。恐らく通りの渋滞がそれなりになくなるまで続くことでしょう。
いうまでもなくクアラルンプールでもそうですが、バイク乗りの傍若無人ぶりは手がつけられません。一方通行路を逆通行、赤信号無視、渋滞を避けるためまたは一歩通行路を逆送する替わりに歩道を疾走(のろのろ走るのではない)、Uターン禁止場所で突然Uターン、道路のジグザグ走行で車の間をすり抜け、などの道路交通上の非常識行動を行っています。さらに店舗街やビジネス街では歩道やビル入り口をふさぐ形で二桁数のバイクが停めてあります。こういった行為は、全くの日常光景であり、恒常化していて、珍しいことでも例外的行為でも全然ありません。不思議なことに警察もほとんど取り締まらないので、この行為が少なくなる可能性は当分全然考えられせん。警察官の目の前でバイクが歩道を疾走していても注意すら与えないのですからね。
ですからマレーシア人であるマレー鉄道の駅員もマレー鉄道会社 KTMB も、渋滞でのろのろ走らざるをえない時間を少しでも短くしようということだけが頭にある、自分勝手なバイクが無断で駅敷地内を通りぬけて行くだろうことは、予想できるはずであり、現実に目の前で毎晩起っていることです。鉄道会社として、鉄道及び駅利用者の安全を確保する義務があります。そしてその鉄道会社に働く職員として、無断で敷地内を通行し且つ駅と鉄道利用者に危険を明らかに及ぼしているバイクに対処する責務があります。大多数のバイク乗りに常識を期待できないことは、マレーシア人であれば、マレーシアの会社であれば、当然知っていることです。もしバイク乗りの他人に対する思いやり行動を期待するのであれば、その発想の出発点から間違っています。
それなのにマレー鉄道 KTMB当局も駅員もなんの措置も取らないのですね。夜になったら敷地内の入り口を手運び式の遮断柵で車とバイクが勝手に入り込まないように塞ぐ、または駐車場所に入る車をさえぎる遮断機のバーをもう少し長くしてバイクが通る隙間をなくす、こういうごく簡単で且つ費用などほとんどかからない工夫か措置をとれば、バイク乗りが道路からほとんどスピードを落とさずに敷地内に入り込み、敷地内の人に危険を及ぼしながら疾走し、道路に戻って行く行動をほとんど防げるはずです。
暗い敷地内をひっきりなしにバイクが疾走している時、駅員は何をしていたか。窓口カウンターの向うで数人がお喋りしていました。彼等にとってホールの狭さや待合イスの少なさで、居場所のない利用者のことなど気にかける気はこれっぽちも湧いてこないのでしょうか? 駅舎前の暗い敷地を疾走するバイクの危険性を考えたことがないのだろうか? マレー鉄道当局は、10メートル離れたら人の顔の判別が難しくなるほど暗い敷地内を照らす電灯を設置するまたは切れたランプを交換することを考慮しないのだろうか?
KL Sentral 駅とその設備には何百万、何千万リンギットもの金をつぎ込んでいるマレー鉄道とその外郭団体は、南部基幹駅の駅舎外側に夜間適度な照明をもたらす電燈を設置するまたは切れたランプを交換することさえできないのだろうか? ああ、悲しきマレー鉄道当局。いつもながらマレー鉄道の幹部は現場を知らない、利用者の身になって考えない。一方現場で毎日状況を目にし利用者に応対する立場のマレー鉄道職員は、利用者サービスなんてこんなものさと始めからあきらめと改良・向上への無関心さに満ちている。つまり、鉄道当局、ジョーホールバル駅、そこで働く職員、この3者が tak apa, apa(知ったことではない)症候を示していますね。長年、マレー鉄道に数多く乗り、マレー鉄道情報を伝え、マレー鉄道を応援するものとして、ジョーホールバル駅の状況は残念なのです。だからここで嘆いておきます。
ではマレー鉄道を応援する者として、なぜマレー鉄道に批判がましいことを書くのか? それはマレーシア社会が発展するにつれて、マレー鉄道(KTMB) も進歩向上しなければならないと考えるからです、いやそうあるべきです。マレー鉄道にとって、発展するマレーシア社会に見合った、効率の良い安全で快適な大量公共輸送手段としての役割が最も重要な時代になりました。マレーシア旅行してマレー鉄道に乗る旅行者がエキゾチックに感じれば充分であったような時代は、もはや終ったのです。
昨年2004年の自動車販売総台数は好調で、前年比約20%増加の 487,605台を販売しました。2004年当初から自動車に関する税金に変化があり課税率が変更されたにも関わらず、販売台数面では史上最多の台数を記録したのです。
毎年自動車産業の販売数状況を統計して発表している、マレーシア自動車商協会のコメントで、「2004年は年初の自動車関連税の改正によって初めの3ヶ月間は販売数が低迷していたが、各自動車メーカーの適当な価格による新モデル導入、自動車ローンの低利率と長期年の分割払い可能のおかげで、販売が好調となった。」 と分析しています。
尚ここで掲載している表の数字は全て、そのマレーシア自動車商協会が統計して発表した数字が基になっています。
区分 | 普通車 | 商用車 | 四輪駆動車 | 合計 |
台数 | 380568台 | 70948台 | 36089台 | 487,605台 |
販売台数のトップ10を示します、ヨーロッパ車と米国車は11位以下なので、この表には現れていません。
2004年 総販売数 487,605台 |
2003年 総販売数 405,745台 |
国産と非国産 の区分 |
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順位 | 市場占有率 |
自動車 メーカー | 市場占有率 | 順位 | |
1 | 34.6% | Proton | 38.8% | 1 | 国産車 |
2 | 25.0% | Perodua | 30.6% | 2 | 国産車 |
3 | 10.6% | Toyota | 9.9% | 3 | |
4 | 5.1% | Honda | 4.2% | 5 | |
5 | 5.0% | Nissan | 4.5% | 4 | |
6 | 3.3% | Hyndai | 0% | ||
7 | 3.2% | Inokom | 0% | 国産車 | |
8 | 2.1% | Naza | 0.8% | 13 | 国産車 |
9 | 1.4 | Kia国産分 | 1.1% | 10 | 国産車 |
10 | 1.3 | Kia | 1.7% | 6 | |
以下省略 | 以下省略 |
この統計表を見てまずわかるのは、マレーシアの2大国産メーカーであるProton車とPerodua車が、市場占有率(シェア)を落としていることですね。その幅が両社ともそぞれ5%前後ですから、決して少ない減少幅ではありません。80年初期(確か正式の発足は1983年)に国策自動車会社として発足したProton は長いことマレーシアの工業面での顔であり誇りでした(今でも多分にそうでしょう)。同時に日本の自動車技術を導入した、日本−マレーシア技術且つ資本協力の一つのモデルでもありました。いうまでもなくこれを強力に推進したのはマハティール前首相です。
Proton社の発足以来の技術パート−ナーであった三菱とは90年代中頃から次第に協力度を薄め、2004年には三菱自動車がProton持ち株を全て売り、そして2005年初めには三菱グループとして保有していた最後の株式も手放しました。これでProtonと三菱の資本面での関係は完全に終止符を打ちました。
Proton社は現在 Volkswagen社との関係を深めていますが、現時点でも資本投資関係はまだできあがっていません。いずれにしろ90年前後のようにProton車が国内自動車市場を席巻するという時代は完全に過去のものとなりました。日本のDaihatsu との資本と技術協力関係を強めている,第2国産自動車メーカーであるPerodua社も市場占有率を低下させています。2003年はこの両社で市場の70%を占めていたのが、2004年は60%に落ちましたからね。台数でいえば、Proton車が168,616台、Perodua車が121,804台です。
この先とりわけ2005年はどうなるのでしょうか。市場アナリストの中には、Proton車のシェアはさらに落ちて30%ぐらいになるだろうという観測もあるそうです。いずれにしろProton社がぐんとシェアを回復する可能性は低そうですね。
Perodua社はDaihatsu の資本がかなり入っている合弁企業です。第2国産車という呼称があるように、軽自動車に絞って国産軽自動車を生産販売しています。このPerodua社もシェアを大きく落としてしまいましたね。
韓国車が増えていることがおわかりになりますね。とりわけ2003年にはほとんどゼロであったHundai車が初登場でシェア3.3% を占めました、台数でいえば、16133台になります。この台数は長年マレーシアで販売されている高級車のMecedes Benzや BMW車を上回る数です。Inokom はHyndai とマレーシアのBerjayaグループの合弁企業の車です、国産車と分類されていても実質は韓国車ですね。Nazaも分類上は国産車ですが、これも韓国の(確か)Kia社とマレーシアのNazaグループの合弁生産車です、よって韓国車。こうして実質的韓国車はシェアが合わせて10%を超えるのです。
今年2005年にマレーシア市場に初登場したのが、中国車のCherry車です。Cherry車は小型車クラスの乗用車で、その数モデルが市場に登場したばかりです。マレーシアでは小型車市場が厳然として存在しており、且つCherry車の比較的割安な価格から、国産車、韓国車、日本車と充分競争力があるとの見方があるそうです。韓国車が登場して数年で市場で一定のシェアを持つようになったように、中国車がマレーシア市場で一定のシェアを得るのは時間の問題だろう、というマレーシア自動車商協会の議長の発言が新聞に載っていました。
多分、いやきっと、中国車は1つの韓国メーカー並のシェアを占めるかもしれませんね。中国製品は超安価な非・高品質品だけでなく、Haierのような電化製品分野でもマレーシア市場で一定のシェアを持っていますから、乗用車部門で急速にシェアを確保するのも不思議ではないと思います。Cherry車を販売するのはマレーシアの会社Alad Corpで、この会社は近い将来マレーシアでノックダウン生産する計画です。そうなればより入手しやすくなることでしょう。
私の居住地にこのAlad社の初のCherryショールームが1月後半オープンしました。現代の自動車は外見上どのメーカーの車もかっこよくて充分速そうに見えます。そしてCherry車もぞの例外ではありません。もちろん自動車は外見だけで判断していけないのは当然ですが、自動車しろうとの私に、どのメーカーの何々モデル車がどのように優れているかという評価はできませんし、Cherry 車が 優れている、あまり優れていない などという判断はしません。
もっとも多くの一般マイカー所有者は自動車工学の専門知識やプロレースドライバー並の運転技術を持っていませんから、宣伝文句や他人の話しを鵜呑みにしたり、外見を判断基準にして、あれこれと自動車を評価しているのではないでしょうか。ということから、中国製品にとりたてて拒否感のないマレーシアでは、多少割安な値段をつけた中国製車Cherry車がある程度のシェアを確保する可能性があると、私も思います。
日本車に目を移せば、Toyota、Honda、Nissan のそれぞれが少しづつシェアを延ばして、合計20%を超します。ただ2大国産車メーカーがぐっと減った分を韓国車が大部分を取った形なので、韓国車ほど伸び率は大きくありません。もっともPeroduaにはDaihatsuの技術が入っている点は上記で触れておきましたね。マレーシアにおける外国自動車メーカーとしてToyotaが引き続き販売数1位を、それもダントツの1位を、維持していることは特筆できます。尚Toyotaは販売台数でいえば51,700台です。
全販売台数に占める国産車の割合を見ると、2大国産車メーカーの車 + 韓国系国産車 + この表に現れていないわずかな数 =67.2% です。この割合は2003年の72.3% よりも下がっています。つまり韓国系国産車といういささかおかしな国産車分類を加えても7割を割ってしまったのです。今年はこれがもう少し下がるのではという観測の方が強いそうです。
前年に引き続いて自動車の関係税率が改訂され、2005年1月1日から施行されています。
完成車にかかる輸入関税 | 完全ノックダウン車と部品にかかる関税 | |||||||
対象となる自動車 | アセアン製車 | 非・アセアン製車 | アセアン製車 | 非・アセアン製車 | ||||
開始日はその年の1月1日 | 2004年 | 2005年 | 2004年 | 2005年 | 2004年 | 2005年 | 2004年 | 2005年 |
普通型の乗用車 | ||||||||
1800cc以下 | 70 | 20 | 80 | 50 | 25 | なし | 35 | 10 |
1800cc超えて2000cc以下 | 90 | 20 | 100 | 50 | 25 | なし | 35 | 10 |
2000cc超えて2500cc以下 | 110 | 20 | 120 | 50 | 25 | なし | 35 | 10 |
多目的車とバン | ||||||||
1500ccを超えて1800cc以下 | 40 | 20 | 60 | 50 | 10 | なし | 20 | 10 |
1800cc超えて2000cc以下 | 50 | 20 | 70 | 50 | 10 | なし | 20 | 10 |
2000cc超えて2500cc以下 | 90 | 20 | 100 | 50 | 10 | なし | 20 | 10 |
四輪駆動車 | ||||||||
1800ccを超えて2000cc以下 | 50 | 20 | 70 | 50 | 10 | なし | 20 | 10 |
1800cc超えて2000cc以下 | 80 | 20 | 100 | 50 | 10 | なし | 20 | 10 |
2000cc超えて2500cc以下 | 100 | 20 | 120 | 50 | 10 | なし | 20 | 10 |
開始日はその年の1月1日 | 2004年 | 2005年 | |
普通型の乗用車 | 1800cc以下 | 60 | 90 |
1800cc超えて2000cc以下 | 70 | 120 | |
2000cc超えて2500cc以下 | 80 | 150 | |
2500cc超えて3000cc以下 | 90 | 200 | |
多目的車とバン | 1500ccを超えて1800cc以下 | 30 | 40 |
1800cc超えて2000cc以下 | 40 | 60 | |
2000cc超えて2500cc以下 | 70 | 120 | |
2500cc超えて3000cc以下 | 80 | 150 | |
四輪駆動車 | 1800cc以下 | 50 | 60 |
1800cc超えて2000cc以下 | 60 | 80 | |
2000cc超えて2500cc以下 | 70 | 120 | |
2500cc超えて3000cc以下 | 80 | 150 |
最後に、マレーシアの自動車販売数は東南アジア主要国内ではどういう位置にあるかという比較をしてみましょう。
国名 | タイ | マレーシア | インドネシア | シンガポール | フィリピン |
台数 | 626,026 | 487,605 | 483,168 | 131,222 | 88,000 |
タイ深南部という地方は去年からタイ関係のニュースでは必ず、襲撃、爆弾、テロ、という枕詞と共に報道されています。マレーシアはこのタイ深南部と国境を接しており且つ深南部では住民の4分の3以上がムスリムであるということもあって、マレーシアではタイ深南部でちょっとした事件が起る度にその都度または頻繁に報道されてきました。
昨年(2004年)タイ深南部では、反政府武闘ムスリムグループと警察・軍隊側だけでなく様々な人たちを含めて約600人ほどが、銃や爆弾や非人道的扱いによって殺されました。その内4月パッタニー県の有名なクロセ・モスクに立て篭もった80人ぐらいのムスリムが軍隊に全員射殺された事件と、10月のナラティワーット県の国境の町Takbai で警察署前で起きた集会に起因して逮捕され非人道的扱いを受けてたこれまた90人近いムスリムが死亡した事件が2大事件といえるでしょう、そしてこの2つは直ちに国際ニュースになりましたね。
この2大事件以外にはほぼ毎週といっていいぐらいなんらかの襲撃事件、加えて小さな爆弾事件が起きており、このため警察官、警備の軍人、自治体職員、政府側と見られる村の幹部、タイ鉄道職員、学校の教師、通常の仏教徒市民、元警官、ごく少ないが僧侶、そして襲った側の反政府武闘ムスリム勢力の構成員、たまたまその場にいて巻き込まれた人、こういった人たちが死んで、いや殺されています。去年からタイ深南部でこの種の襲撃・爆弾事件はもう全く珍しいニュースではないはずです。
そのタイ深南部を、私はこの2月中旬マレーシアを留守にした際訪れて、できるだけあちこち回ってみました。タイに滞在した10日間の半分近くをタイ深南部で過ごしました(残り半分は深南部から北上してタイ南部で過ごした)。
当コラムをずっと読んでいただいている方ならご存知のように、私はこれまでにも何編かのコラムでこのタイ深南部について書いてきました。私とタイ深南部の付き合いは初めて訪れた80年代後期に始まりますが、興味を持つようになったのはこの10年ちょっとほどで、断続的に何回も訪れてきました。その様子と分析は次ぎに掲げるコラムで詳しく書いていますので、関連または前提知識としてお読みください。
さて今回の私のタイ深南部訪問は、状況が悪化した昨年初め以来始めてです。実際はどうなっているのか、それを自分の目で見たかった、感じたかったのです。私の知る限り且つ報道されている限り外国人が襲撃主対象には1度もなっていませんし、その可能性はないと判断してのことです。爆弾の巻き添えで死亡したり怪我したマレーシア人がこれまでに6、7人出ているように、万が一の巻き添えリスクはもちろん承知してのことです。なにせタイ鉄道深南部線の線路に爆弾が仕掛けられていたのを、見回りの治安部隊などが未然に発見したというニュースが私の出発直前に新聞に載ったぐらいです。
で私がタイ深南部及び南部に滞在していた10日間の期間中、タイ深南部の状況はどうであったか。報道から数えると合計20件弱ぐらいの襲撃殺人または爆弾事件が発生しました。つまり1日平均2件近い事件がタイ深南部では起きていたことになります。これは普段よりも多い数といえますが、その増えた理由はタクシン首相の深南部視察がちょうどその時予定されていたことがその理由かもしれません。これに関しては後編で触れます。
結論から先に言えば、あちこちで目にはいる軍隊と警察からなる警備陣の存在にも関わらず市民は以前となんら変わらず暮らしており、日々の日常活動に特に変わったところはほとんど見られなかったということです。多分そうであろうと私が推測していた通りです。あちこち歩き回った私が危険を感じることはもちろんありませんでした。マスコミの伝えるニュースから人々がイメージするのと、現実に大きな違いが出てくる、現れているのは、世界各地に共通したいつものことであり、タイ深南部もその例外ではないということです。
しかし誤解なきように強調しておきます。私の見聞した、体験したことがこうだったから、だから皆さんにタイ深南部を訪れてくださいとか、深南部は安全で問題ありません、などと主張しているのではありませんよ。万が一ぐらいの率で巻き添えの可能性はある、と思います、よって危険性のリスクをちゃんと承知した人以外は行くべきではないと言っておきます。
タイを訪れる、住む日本人の99.9%は深南部を訪れないでしょうから、深南部と聞いても地理や風土の様子が浮かぶ人はまずいないでしょう。それがこの1年強の間に深南部を訪れない日本人の率は99.99%に増えたに違いありません。そこで上記のいくつかのコラムでは深南部の様子を諸面から描写してありますよ。
タイ深南部とはナラティワット県、ヤラー県、パッタニー県の3県を指します。この3県が互いに隣り合った形で細長い台形みたいな形状をなした地方で、ナラティワット県がクランタン州と、ヤラー県がペラ州と主として接しています。台形の上部分にあたるパッタニ−県はマレーシアと接していません。3県ともムスリムが絶対多数を占めており、あちこちでモスクが目に入ります。
数字を示しておきましょう。面積1940平方Kmのパタニー県の県都パッタニーからバンコクまでは1000キロ強離れており、面積4500平方Kmのヤラー県の県都ヤラーからバンコクまでも同程度の距離です。面積4500平方Kmのナラティワット県の県都ナラティワットはバンコクから1150Km離れています。タイ深南部がいかにバンコクから遠いかお分かりでしょう。
外国のマスコミではこれら3県を含めてタイ南部と一括して総称して、単にタイ南部の不安定状況などという、極めて大雑把でいい加減な報道が目立ちますが、同じタイ南部でもこの3県は民族構成的に且つ歴史的にユニークな特徴を示しているのです。だからこそ反政府武装抵抗勢力の活動ははほぼこの3県にほぼ限られています。例外として、ソンクラー県があります、つまり何年か前にタイ鉄道ハジャイ駅で爆弾破裂事件があったように(旅行者に複数の死亡者がでた決して小さなとはいえない規模でした)、この3県以外の地域で事件が数少ないながらも起こっているのは、ヤラー県、パッタニー県の両県と接しているソンクラー県だけです(ハジャイはその中心地)。
その他のタイ南部の県では反政府武装抵抗勢力の目に見える形での事件は起っていない、報道されていないはずです。尚そもそも非公然活動ですから、活動そのものが全く存在しないなどというつもりはありませんし、そんなことが私にわかるわけありません。つまりタイ南部の中で外国人旅行者が大挙して訪れるプーケット県も、コサムイ島もクラビ県もスラタニー県もパンガー県もトゥラン県でも事件は全く起っていません。マレー半島西部に位置してマレーシアのペルリス州と国境を接するサトゥン県はかなりムスリム比率の高い県ですが、ここも反政府武装抵抗勢力が起こした事件はこれまでのところ皆無です。
今回の旅ではまずとにかくタイ深南部を回ろうと計画したので、スンガイゴロク経由でタイ入国することにしました。そこでクアラルンプール発のマレー鉄道東海岸線の夜行Wau号で朝 Pasir Mas に着き、そこから乗り合いタクシーで国境の町Rantau Panjangへ行きました。この国境検問所はこの10数年の間に何回もマレーシア出国または入国で利用してきました。今回も別に変わった様子は全くありませんが、クランタン州地元のマレーシア人ではなく他州からのマレーシア人旅行者の利用は減っているなどと、以前なにかの記事で読みました。しかしその数がどれくらいかは書いてありませんでした。
マレーシア側 Imigresen を通過し、橋を徒歩で渡ればそこはもうタイ領です。昔から全く変わらないタイ側 Imigresen 建物の窓口で手続きします。タイ側の出入国届け出用紙の書式が新しくなっていた以外、これらに関しては以前との違いを全く感じませんでした。変化を感じたのは橋を歩いてタイ側領地に近づいた時、そこの場所に自動小銃を手にした警官が目に入ったことです。パスポートに入国スタンプをもらって歩き出すと、その建物の端にある警察の詰め所の警官、軍人も加わっているかもしれない、がいずれも防弾チョッキを着用して自動小銃を手にしているのに目にして、やはりなと変化を感じたのです。以前は腰に銃を携帯したお馴染みの制服の警官がのんびりと構えていただけですからね。
スンガイゴロックの町中心部まで人を運ぶバイクタクシーが一杯客待ちしてます。今回私はその中心部の一角にあるタイ鉄道スンガイゴロク駅まで町をよく眺める目的もあって歩きました。15分ほどの徒歩行程から見る様子になんら変わったところはありません。駅に着くと確かに警備の兵士は数人いますが、1個小隊が張り付いているような状況では全くありません。国境検問所から鉄道駅までは町の主要道路ですが、ホテル街はこの道路沿いにはありません、道路沿いにあるのは飲食店や販売小売り店、そして市場です。
このホテル歓楽街ではこれまでに数回爆発事件が起こっているそうで、中でも昨年10月ある種のナイトクラブ店前に停めてあったバイクに仕掛けられた爆弾が爆発して何人かが巻き込まれ、その内死亡した1人を含めて5人がマレーシア人でした。そしてその同じホテル街にある恐らく中級ホテルでしょう、その前に停車していた自動車に仕掛けた爆弾が爆発した事件が、私が今回タイを離れた日に起きました。
この爆弾事件はこの1年強のタイ深南部不安定化状況の中で初の自動車爆弾であり、最も強大な爆発であったと形容されています。しかも多分に無差別爆弾テロ的な様相を示しているといえます。というのは狙われたのが政府、警察、軍の施設でもその関係者や関係団体の集まりでも、ないからです。たまたまその付近を通りかかる一般市民、もちろんムスリムを含めて、観光客も巻き添えにする恐れを充分に込めた事件です。
さてハジャイ方面への鈍行列車が発車するまで駅内で1時間強待ちました。この駅で見かけた中に、数組みの白人バックカーグループがいました。その姿からスンガイゴロックの国境検問所でも見たような記憶だったので、いずれも検問所から駅に直行してハジャイまたは通常はもっと北上した地方を目指す旅行者でしょう。以前からスンガイゴロク検問所を利用する白人バックパーカーは数は多いとは言えなくても珍しくありません。通常彼らはスンガイゴロクの町に留まらず、且つタイ深南部を素通りしてハジャイへ行くのがパターンです。この不安定状況になって、タイ深南部旅行自粛警報も出ているので、推定するにスンガイゴロク経由の白人バックパッカ−は減っているのでしょう。しかしそれでもいるということですね。
白人バックパーカー、白人旅行者の姿はこの駅とその列車内を最後に、その日を含めて4日半の私のタイ深南部滞在中に、ただの1人足りとも見かけませんでした。もともとタイ深南部は白人旅行者、日本人旅行者はほとんど足を踏み入れない地方です。足を踏み入れる者たちも、このスンガイゴロク−ハジャイ間の鉄道利用がほとんどだと推測しています。これは10数年の間にこの地方を何回も訪れてきた私の観察から間違いないはずです。ただ以前であれば、ごく少ないとはいえタイ深南部に4泊して1人も白人の姿を見かけないというのはありえないことでした。私が回ったタイ深南部3県の主要地及び郡部に限られるとはいえ、全く白人の姿を見なかったのです。やはりもともと少ないこの地への外国人の訪問者はさらに減っているのです。
列車は昼前にほぼ定刻発車しました。私はこういうひなびた路線に乗るのは好きです。冷房車両のない全3等車両で、座席は固く車内は結構汚れていますが、乗っている乗客の姿がいかにもタイ深南部らしい。大多数の乗客が外見からムスリムだと思われ、老いも若きも生徒風も男女も混じっています。若い女性はトゥドゥン姿がほとんどです。3等車ですから住民の足といったところです。
車中で聞えてくる会話に耳をそばだてていれば、タイ南部マレー語の会話が多いことに気がつきます。タイ南部マレー語と呼ぶべきか、マレー語タイ南部方言と呼ぶべきかはここでは論じませんが、このことばはマレーシア語とはかなり発音と語彙の両面で違います。よってマレー語を母語とせずマレーシア語を学習した私のような者には、この話者同士の会話はまず内容が聞き取れないのです。普通のマレーシア人でもこのタイ南部マレー語の会話を充分に理解できるのは、クランタン州の人だけでしょう。マレー語クランタン方言と近似性が非常に高いと言われていますから。
タイ南部マレー語にまじって聞えてくる会話や車掌が客に対して話すのはもちろんタイ語ですが、そのタイ語も南部特有の声調が目立つ南部タイ語方言です。ローカル列車での楽しみはこういうところにもあります。もちろん沿線のひなびた風景は、ああ田舎を走っているのだなと心をほのぼのさせます。反面、ゴミが捨てまくってある線路際や駅近くの空き地の光景には、民度の低さはいつになっても変わらないなといつもながら嘆きたくなります、それほどゴミがあちこちに捨てまくってあるからです。
列車内で今回感じた変化は、乗車警備員の強化です。昔からタイ鉄道のどんな路線でも最低1人は鉄道警官が乗車しています。通常はたまに見回ってくるだけで、急行列車など冷房座席に座り込んで新聞読んでる姿をよく見かけたものです。しかし今回はいつもの鉄道警官とは違う制服を着て大型拳銃を携帯した保安員、軍人なのか特別警官なのか知りませんが、がこまめに車両内を巡回していました。私の座席近くにいた中年男性は持ち物を全部座席上に出されて執拗に調べられていました。
車両内の警備がぐっと強化されたのは無理もありません、というのはタイ鉄道のこの深南部区間、ハジャイ−スンガイゴロク路線では、この数年間で私の知るだけでも仕掛け爆発物の爆発と鉄道員への襲撃が数回起っているからです。鉄道員と警備警官に重体者も複数出ています。さらにこの日私の乗車する数日前、クアラルンプールで読んだ新聞の外報欄に、ハジャイ−スンガイゴロク路線のナラティワット県内にある線路に爆発物が仕掛けてあったのを見回りの警備陣が見付けた、という記事が載っていました。スンガイゴロックはナラティワット県のはずれです。
このようにこの区間は襲撃対象になっていたしなっている区間でもあるようです。じゃあといって、地元民主体の乗客が激減しているようにも見えませんし、事実この車両も結構混んでいました。さらに乗っている乗客が心配な様子を呈しているかといえば、そんな雰囲気はこれっぽちもありません。なんら普段の様子と全く変わりません。様子と会話言語から乗っている乗客の大多数は深南部住民だと推測されます。
鈍行ですからほとんどの駅で停車して行きます。そこで停車する駅駅で列車窓から駅舎内を見やると、必ず駅警備の兵士が目に入ります。小さな駅ですから1人か2人の兵士ですが、必ず防弾チョッキを着て自動小銃を手にしています。といってぴリぴりした様子にはあまり見えず、イスに腰を下ろしたり、同僚の兵士と談笑している光景もありました。当然ながらゲリラ的に襲う見えぬ敵に24時間緊張しているわけにはいかないでしょうから、兵士の義務とはいえご苦労なことです。
こうして約2時間乗車の後列車はヤラ駅に到着し、私は予定通りその駅で下車しました。私はタイ深南部を訪れる時、いつも主たる宿泊の地としてヤラーを選んできました(ヤラーだけに泊まるということではない)。ヤラーは私にとってタイ深南部のベース地みたいな所です。ヤラーはヤラー県の県庁所在地であり、同じ深南部のパタニー県にもナラティワット県にも簡単に足を伸ばせる好位置にあります。よって今回もヤラーをベースにこの両県に足を伸ばしてぶらついたのです。
ヤラー県も去年から幾多の事件が起ったそうです。県都ヤラーにも一時は夜間外出禁止例が出たそうです。今年に入っても事件は発生しており、私の到着する数週間前に、ヤラー市内の人気ある大衆飲食店で置き忘れたように見せかけた荷物に仕掛けられた爆弾が爆発し、何人かが死亡し怪我人が多数出たというニュースを読みました。さらに私がヤラーでの宿泊を終えてハジャイ方面に発つ日の前夜、ヤラー市内のCD・ビデオ屋の前に停めたバイクに仕掛けられた爆弾が爆発し警官が1人死亡し20人以上のけが人が出た、というニュースを翌々日の地元紙で知りました。ホテルをチェックアウトする日の朝、ホテル前にいやに警備の兵士が多いなあと私は感じましたが、多分この爆弾で市内回りの警備を一時強化したのでしょうと、後で気がつきました。
1件は銃撃事件の後現場を訪れた警官隊を狙って爆発させたものだろうと推測されていますが、どちらの爆弾現場も特に警察軍隊施設でも政府施設でもなく、全く普通の市中の店で起きています。これは一般市民が確実に巻き添えを食っていることにつながっていますね。
私がヤラー市で常宿にしているホテルはエコノミークラスのホテルであり、中級クラスのホテルとはちょっと言い難いホテルです、尚ヤラーには高級ホテル自体がありません。宿泊料が以前よりバーツ表示で2割ほど下がっていたので、うれしいながらもあれっと思いました、やっぱりヤラーを訪れる人の総数自体が減っているせいなのでしょう。ちなみにエアコン、衛星テレビ、温水付きの(タイの水準として)きれいで広い部屋に、米ドル換算で1泊US$10 です。
安宿は別にして多分ホテルならどのクラスのホテルも警察か軍隊の警備兵が見回りに訪れているようです。といってエコノミークラスですから24時間警備兵が常駐しているわけではありませんし、誰だって簡単にホテル内部に入れますし、荷物検査などもちろんありません。このホテルは1階にホステスの付くカラオケバーも併設されています、そういう場所は狙われる対象になりやすいのでは思いました。尚ヤラー市では去年だったか一昨年だったか、あるホテルのロビーで仕掛け爆弾が炸裂した事件が起りました。
ヤラー市内でも当然というべきでしょう、警備車が巡回しているのを時折見かけました。つまりジープやピックアップトラックの後部に防弾チョッキを身につけた複数の兵士が自動小銃を手にして乗り後方を見やっています。ある朝市内を街歩きしていたら、主要交差点の一角で何人かの警察官がやってくるバイクを次々と止めて、持ち物検査していました。タイでは女性のバイク乗りが非常に多いのですが、見た限りでは対象は男ばかりです。交通取締りではなく治安取締りですね。町で見かけるバイクに乗ったり警らしている警官は全て防弾チョッキを着用しています。タイ深南部の後訪れた数カ所のタイ南部の県では、警官の防弾チョッキ着用は1度も見かけませんでしたので、これは深南部に限ってのことでしょう。
翌日バスでパッタニー県の奥深くそして海岸に面した村を訪ねました。ヤラーの路上の発着場からオンボロ小型バスで約2時間の距離にあります。この村のことは以前のコラムで数回書きましたね(第178回、227回)。ほとんどムスリムから構成される漁村です。浜辺はたいへんきれいで景色の良い海岸ですが、ムスリム漁村であり且つ宿泊施設は皆無ということから、近辺の地元人以外は訪れることはまずないでしょう。唯一の小型バス便もヤラから2時間近くかかり、パタニー県内にあるにも関わらず県都パタニー市からの直行便はありません、要するに公共交通便も相当不便です。ヤラー行きのバス便は午後4時前に終わってしまうのです。つまりそれを乗り逃がしたら戻れなくなる。
いつもバスで行きますが、乗客の姿顔からわかるように老若男女からなる地元ムスリム以外の乗客を見た記憶がありません。地元、近辺以外の仏教徒タイ人が週末の行楽にこの村を訪れるようなことはあまり考えらえません。観光業とは全く縁遠い深南部のムスリム漁村です。だからこそ私は1999年に初めてこの漁村を訪れて以来度々訪れてきました。今回の深南部旅では、この種の典型的ムスリム地区を訪れてみたかったので、この漁村はまず最初に行きました。この村に、反政府武装ムスリムグループの活動があるのだろうか?そんな疑問がありました。
この漁村を度々訪れてきたのはもう一つ理由があります。それは村の大衆食堂の主人と顔なじみになったからです。この主は昔クアラルンプールに住み込んで働いたことがあるそうで、そうして働いて溜めた金で出身の村で大衆食堂兼茶店を開いたと以前語ってくれました。彼とは話しが弾みます、それはこの主はマレーシア語がたいへん流暢だからです。よって私は会話がスムーズにいくわけです。この大衆食堂でたまたま5、6人の男たちが食事などをしながら大きな声で話しており、まもなくバンに乗り込んで去って行きました。食堂の主は私に、彼らは村の漁師でこれからクランタン州の漁村へ出稼ぎに行くのだと、説明してくれました。いみじくもタイ深南部の村人とクランタン州の関係をまたまた知りました。クランタン州は地理的にも遠くないし、言語コミュニケーションにも困らないので、出稼ぎ場所としては向いているのでしょう。
彼いわく、この村は平和そのものでなんの問題もないよ、と。それはよかった、と私はつくづく思いました。反政府武装組織に属する者たちがバイクに相乗りして、バイク走行中の(特定の)村人を襲撃するニュースや村の学校焼き討ちのニュースは心を悲しませますからね。平和であろうとも、この村にある村役場とタイ寺院前でも警備の兵士が歩哨していましたし、村の交差路では検問所が設けてありました。ムスリム大多数とはいえ仏教徒タイ人も小数いますから仏教寺院はあるのです。
このバスが走る道程では何箇所かで、道路ブロックに出会い、検問所を見ました。役所のような政府系の建物、仏教寺院、さらには学校の外には(前には)警備の兵士が複数常駐しています。こういう建物前の警備所の周り、または脇には高さ1mから1.5mぐらいの土嚢が囲むように積み上げてあります。道路検問所の中には検問の兵士が留守でいないところもありますが、検問所は全て土嚢が積んであります。
そういった警備所、道路検問所の警備の兵士は立って歩哨していたり、または警備所、検問所のイスに座ったりしていますが、例外なく防弾チョッキを着用し手には自動小銃を持ています。いつ襲われるかもしれないから気は抜けないでしょうが、そうかといってこの暑い炎天下を含めて24時間気を張り詰めていることなどできませんから、警備する方はまことたいへんでしょうね。
警備所や道路検問所の回りに積み上げて囲った土嚢の存在はこれまでのタイでは珍しいことです。これまでその種のものをタイで見た記憶は、首都バンコクの重要警備建築物、各地の軍隊駐屯地・基地の前または道路から目に入るその敷地内広場や庭の一角にある土嚢だけでしたから、地方のなんの変哲もない一般公共施設や寺院、田舎道の検問所の回りや脇に積み上げた土嚢の存在は、タイ深南部の不安定状況を嫌がおうでも認識させます。歩哨の兵士、警官の存在自体はタイでは珍しくありませんが、その兵士、警官が全て防弾チョッキ着用し、自動小銃を肩にかけた状態ではなく常に手にしている姿を見ると、警備検問が単なる飾りでないことを強く感じます。
そういった存在にも関わらず、ぴりぴりした雰囲気は感じられないのです。この道程だけでなくタイ深南部滞在中に何回か乗った冷房無しのオンボロバスの乗車では1度たりともバスが検問にあうことはありませんでした。
上記パッタニー県の漁村を訪れて帰りのバスで村を出る直前の田舎道の十字路に、兵士の姿と土嚢に囲まれた検問所がありました。その脇で地元のトゥドゥン姿の若い女性が、多分乗り合いピックアップバンを待っているのでしょう、2人立っていました。まるで検問所と兵士が存在しないかのように立っているのです、全く普段の様子に見えます。もちろん地元のこういうムスリム女性が襲撃されることはありえませんから、彼女たちにとっては ”検問所などはない存在”なのか、それともこういうよそからやって来た兵士と検問所の存在は、”気にすべきでない存在” だからなんでしょうか? 私がこの漁村内をふらふらと歩いたとき、屋台で昼食を食べながらことばを交わした時、以前となんら変わらない雰囲気を感じました。検問所脇のこの女性の立ち姿はそれと同じことなんでしょうね。
ヤラー市からパタニー県の県都パッタニーへは簡単に行けます、バス便が頻繁に出ているからだ。翌日このバスに乗り小1時間でパッタニーに到着、私には数年ぶりである。パッタニー県は深南部3県の中で、面積は最少だが、タイ南部でのイスラム教の中心地の様相を持っており、その代表が中央モスクである。その外見はまことに立派なモスクです。
パタニーの町はどうもまとまりにない形をしているが、以前の記憶と地図頼りに歩いてみる。市場あたりをぶらついた後、中央モスクのある方向に歩くと、モスクのすぐ手前のショップ建物の一角は旅行代理店と大衆食堂だ。食堂前には何人かが車待ちしている、国境の町パダンブサール行きの乗り合いバンの発着場も兼ねているのだ。旅行代理店の外側に 「Transnasional バス クアラルンプール行き」 と書いた古い垂れ幕がかかっているので、気になってその代理店の扉を開けて尋ねてみた。答えてくれたその社員いわく、クアラルンプール行きのバスはとっくに中止になったが、以前はこの場から発着していたとのこと。
確か2002年頃だったと記憶している、クアラルンプールのPuduRaya からタイのハジャイ経由パタニー行きの夜行バスの運行が始まった。どれくらいの乗客がいるのだろう? パッタニー市のどこに着くのだろう? と私は知りたく思っていたものです。いつの間にかこの便がなくなったことは気がついていましたが、その場所を実地に確認できたのだ。いつのまにかと書いたが、2004年初めからの深南部不安定状況下で、マレーシア人乗客の数がぐっと減ったに違いない。よって便運行停止の原因となったことでしょう。いうまでもなくこの路線を利用するのはほぼマレー人に限られていたはずだ。代理店に置いてあったツアーパンフレットを見ても、パッタニーのイスラム教施設の参観が主体になっています。
パッタニー県にはたいへん立派な中央モスク以外にも、歴史ある有名なモスクがあり、それが市の郊外にあるクロセ・モスクです。昨年そこに立て篭もったタイムスリムが全員軍隊に殺された事件は、タイ深南部の不安定状況をさらに深刻化させる契機になりました。
パタニー市内の橋や郵便局、役所など公共の施設は立派である。どんどん歩いていくと市内を突き切って海に流れ注ぐパタニー川にかかる橋にあたる。この橋のあたりから河口に向かって川の両岸には何十艘もの漁船が停泊している、河口まで数キロあるとのことだ。漁船はその大きさと形状から、数人乗りの日帰り漁船ではなく、1度出港したら数週間は戻らない近海漁船であろう。川岸には数年前にはなかったきれいな遊歩道と休憩小屋が作られている。私はそれにつられてどんどんと停泊漁船の方向つまり河口方向に歩いていきました。そこはいわば町の中の漁村といった地区のようであり、取りたてて貧しさを感じさせない。観光客はいうまでもなくよそ者が足を踏み入れるような地区でないのは間違いないだろう。しかし私はそういった場所をうろつくのが好きなので、迷わず入って行った。昼食時でもあったので、川岸のテント張り屋台で昼食兼休憩をしたかった。
私は強い日差しの中で歩き回ったことからもうぐったりである。一般にタイ人は歩かない、ちょっとそこまで出かけるにもバイク、バイクがなければあちこちで客待ち、客拾いしているバイクタクシーの利用です。この暑い日の中、テクテクと歩いているのは私以外誰もいないのです、バイクタクシーがしきりに私に声をかけてきましたが、無視して歩き続けました。さてこういう屋台で飯を食べたり休んでいれば、地元の人間がよく話しかけてくる、それが私の狙いでもある。「マージャークナイ(どこから来たの)?」、 「ジャーク マレーシア(マレーシアからですよ)」 などと問答になります。店のおばさんも客も間違いなくタイムスリムだ、彼等同士ではタイ南部マレー語で会話している。そこで私はマレーシア語にことばを変えてみる、だめだやはりこの人たちのマレーシア語の理解力は極めて低いのだ。
一人の中年漁師らしきが非常に聞き取りづらい下手なマレーシア語で反応した、多少は話しが進むがとても自然な会話までには至らない。タイ語で話した方がまだましだ。こういった様子を観察していると、まこと平凡な日常の様子が感じられます。タイ深南部不安定状況の片鱗さえこの地区からは感じられなかった。ただ彼は私にこう尋ねた、「問題が起こっていることに心配はないのか?」 と。私は答えた、「マイペンライカップ(気にしませんよ)。」
この地区に限らずパッタニーの町自体に緊張感などはまったく感じられない。もちろん時折、兵士を乗せた警備車は見かけた。しかし市施設・建物前の警備が特別堅固になっているわけでも、町の至るところで検問が行われているなんてことはまったくない。数時間パッタニーをぶらついた後、小さなショッピングセンターにも寄ってみた。入り口で警備員が見張っているだけで、特に警備が厳しいわけではない。ヤラー行きバスの発着場である道路の空き地に戻る。脇の屋台でバスの乗務員や乗客が数人、所在なげに待っている、なんらまったく普段と変わらない状況である。緊張感の”緊”の字も感じられない。深南部の中心地で、反政府武闘組織の本拠かとも言われるパッタニーではあるが、町の生活はマスコミ・報道の作るイメージとは全く違う例ですね。人々は日々不安定状況に囲まれておどおどして暮らしている、などということはないのです。
翌日、今度はどこでもいいからナラティワット県内を回ろうと思った。鉄道のヤラ−駅脇のバス発着場、といっても単なる道路の一角です、に停まっているオンボロバスの行き先表示に「ルソ」 の文字を見た(もちろんタイ語表示)ので、そこへ行こうと決めた。前夜地図で調べたところ、ナラティーワット県にある郡とその中心町の名前だとわかった。そこでそのバスに乗って、ルソなる郡及び町に向かいました。始めて行く場所だ、どういうルートを取るのか分からなかったが、あとで調べて見るとちょっと複雑な道程であった。
バスはヤラーの市内を抜け郊外に出、次いで田舎道を走りヤラー県に属する小さな町ラーマンを抜けて、よやくナラティワット県に入り、また田舎道を走って、1時間半ぐらいかかって終点のルソ町に着いた。ヤラーから最後まで乗っていたのは私だけであった。その理由は推測できた、帰路にルソ駅からヤラー駅までタイ鉄道を利用したが、こちらは地図上まっすぐ走り40分で着いたのだ。つまりヤラー−ルソ間なら鉄道の方がはるかに短時間で済むからであるのだろう。
しかしバスがこのように大回りしたおかげで、田舎道の様子がよく見えた。田舎道には頻繁に道路ブロックが置いてある。どういう物か説明しましょう。自走行車線と対抗車線の両方の真中に入れ違いの形で鉄柵が置いてある、つまり走ってきた車はこの場所では必然的にジグザグ徐行運転となるのです。襲撃して逃げるバイクがあればここではスピードを落とさざるを得ない、且つこの道路ブロック脇には土嚢を積んだ小さな検問所がたいていは設けてあるのです。こんな田舎なのにいや田舎だからこそなのであろう、この種の道路ブロック検問所が各所に設けてあるのです。ただし検問所の半数以上は無人でした。
ルソの町はルソ郡の中心、といってもなんら魅力的な観光施設があるわけではない、ただのひなびた田舎町である。1年間にこの町を訪れる外国人旅行者はまず1人もいないであろう。とりあえず昼食だ、何軒か覗いた大衆食堂はどこもタイ式、でも店員も客もすべてムスリムに見えました。昼食後ぶらぶらと町を歩くと、たまたま公園があったので木陰で休む。学生たちがバイクでやってきて騒いでいる、小グループが公園の大衆食堂で昼食している。まことのんびりとした平和な光景である。次ぎに町中心部に戻り、警察署近くの茶店で休憩した。ジュースを飲みながら道路を眺めていると、荷台に銃を持った兵士を載せ後方を見張る形の警備車が徘徊しているのが見えた。しばらくしてこれまた銃を持った兵士が後方向いて見守るジープが走り去って行った。このひなびた田舎町でも警備車は常に見回っているのです。
ルソ郡とルソ町、私がそこを訪れるのは最初で最後になるであろう。ルソとの縁はそれで終ったと思ったら、なんと私がタイ深南部を発って南部に移動してから、この地で襲撃事件が起きたのです。政府系と見られる仏教徒タイ人が郡内の田舎道で襲われたとか。さらにルソ駅からヤラー駅に向かう鉄道のラーマン駅付近では爆発事件が起ったと報道されていた。ヤラー県に位置するこのラーマン駅を私は覚えている、乗ったバスがこの駅前で停車したし、ヤラへ向かう列車内でここで途中下車しようかなと、私はちょっと迷ったからです。全くの田舎町の田舎駅、もちろんその駅にも警備の兵士はいました。それを覚えていて、ルソ郡とラーマン郡の襲撃と爆弾事件のニュースを読んだとき、うーんと思いました。
田舎駅といえば、このタイ鉄道の深南部区間、つまりスンガイゴロック−ハジャイ区間の沿線上にある田舎町で、私がまだタイ深南部に滞在していた間に、このルソ郡、ラーマン郡と同じように襲撃または爆弾の事件が起った郡・町が他にも数箇所あります。内2箇所はナラティワット県のラゲ郡とチョアイロン郡です。チョアイロン郡では警察署敷地内に手りゅう弾が発射されたのこと。そのほかにもヤラー県のラーマン町に通じる道路で警官が襲撃されて殺され、ナラティワット県のタクバイでは爆発で兵士が負傷した、パッタニー県では私がバスで2回通ったマヨ郡でも襲撃発生、などなど。深南部を回れば、もう至るところで襲撃と爆弾事件のあった(そして今後もあるであろう)郡、町、市を巡るのです。
そして私がヤラを離れる前の日の晩、ヤラー市内のビデオレンタルショップの店先でバイクにしかけた爆弾が炸裂。それは、警官一人が死亡、20数人が負傷という結構大きな事件です。このように私がタイ深南部に滞在していた後半からその後タイ南部に移動した合計1週間ほどは連日、複数の襲撃と爆弾の事件発生が続きました。そしてとどめは前編に書いた、スンガイゴロックでホテル前の自動車爆弾です。この期間中の被害者総数は死者は10人を超え、負傷者は100人を超すでしょう。単なる通行人やたまたまその場にいた者も多く巻き込まれています。
自分が滞在していた市のある場所で、または訪れた郡や町のどこかで訪問日の直後なり直前に襲撃事件があった、爆弾で何人もが負傷したというニュースを読むのは決して気持ちのいいことではありません。なぜこの1週間ほどに事件が集中したかは、多分にタクシン首相の総選挙後初のタイ南部視察が予定されていた、そして実施されたからでしょう。
ここで関連情報として、タイ総選挙の件をちょっと書いておきます。
私がタイに入国した時は、タイの総選挙の投票が終った直後でした。確定した開票結果によれば、タクシン政権与党のタイラックタイ党(タイ人はタイを愛するというような意味)が選挙前の評判通り圧倒的な強さを示して、総議席数の実に4分の3も獲得するという、大勝利を収めました。しかしタイ南部だけに限れば、政権を取ったこともある古い政党で現在は野党第1党である民主党が南部総議席数 54議席中52議席を確保しました。全国レベルでは圧倒的第1党のタイラックタイ党はわずか1議席だけでした。南部は元来民主党の地盤です。
そして注目のタイ深南部3県では、全11議席中10議席を民主党が取り、他の党が1議席取りました、つまりタイラックタイ党はゼロでした。以前から言われていたように、タクシン首相が立党し党首を務めるタイラックタイ党はタイ南部では人気がない、ましてタイ深南部ではタクシン政権の深南部対策と政策への支持はぐっと低いという説を裏付けるものでした。
このタクシン視察に合わせて、反政府武闘派組織は襲撃と爆弾を集中させたのでしょう。私の当初の計画では、タイを発ってマレーシア帰国する前日、滞在していたタイ南部の町からもう1度ヤラーに戻って宿泊して翌朝ハジャイに行く予定でした。しかし新聞のニュースで、タイ政府は急遽北部から5千人ほどの軍隊を深南部に増援派遣したという記事を読み、これはもう至るところで検問を受けそうになりそうだと、ヤラー行きをあきらめました。その日タクシン首相はタイ深南部に滞在したのです。
皮肉というかなんというか、このタクシン首相は私のマレーシア帰国便にも影響を与えました。帰路に使ったハジャイ空港でAirAsiaの飛行機の到着が予定より2時間も遅れ、ようやく到着した飛行機に乗り終ってさあ出発だと言う時、機長がアナウンスしました。「右手に見えるVIP機が離陸するまで当機は待機します」。 「何?」 と窓から外を見れば、高級軍人を含めて兵士と警官が一杯いるではありませんか。
しばらくして5台ほどのヘリコプターが相次いで着陸、一番大きなヘリコプターからVIPらしき一行が下りてきて、居並ぶ軍・警察隊にしばし演説していました。その前にカメラを手にした多くのマスコミ関係者もヘリコプターから降りてきました。そしてそのVIP一行はジェット機に乗り込み、ようやく離陸して行きました。その間軍隊と警察は整列して飛行機が上空に上がるまでずっと見守っています。たくさんのMPが周囲を囲っています。飛行機の機体にはタイ語と英語で「タイ国」とだけ書かれています。このものものしい様子と政府専用機使用から、タクシン首相が深南部視察を終えてバンコクに帰るところだとわかりました。
このおかげで我々の乗ったAirAsia機は出発がさらに1時間も遅れ、都合3時間遅れで離陸したのです。KLIAに着いたのは夜7時半を回っていました。
タイ深南部は県都でも小さな田舎町でも村でも、人々は以前と変わらず暮らし、ビジネス活動は普段通り行われている、そして緊張感は感じられない。私もその中を以前と変わらぬ調子であちこち歩き回った。一方公共施設やタイ寺院前は土嚢で囲った警備所が設けてあり、道路の要所要所に検問所なり道路ブロックが設けてある。タイ鉄道の駅はどこも兵士が警備している。市でも町でも防弾チョッキを着用して自動小銃を手にした警察・軍隊の警備車が常時巡回している。バイクに乗った普通の警官も皆防弾チョッキを着用しています。襲撃の第1対象になっている軍と警察の人員にとっては気の抜けない状況なんでしょう。
地元紙を開ければ、もうしょっちゅう襲撃、爆弾のニュースが写真入りで載っている。住民はそんなニュースを聞いたり読んだりしながらも、なんら変わりなく暮らし、買い物に街をぶらつき、大衆食堂で飯を食べているのです。言うまでもなく、巻き添えになりたくないと誰でも思っているはずです。
3月に入っても相変わらず襲撃、爆弾のニュースはマレーシアでも報道されています。タイ深南部に平穏状態が戻るのはいつだろうか? そんなことは誰もわかりません。戻ろうと戻らまいと、人々は日々暮らしています。それがタイ深南部の状況ですね。
マレーシアの前身であるマラヤ連邦が英国から独立したのが1957年8月31日で、マレーシアが成立したのが1963年9月です。ですからマレーシアという国は前身のマラヤ連邦時代を含めてもまだ半世紀にも満たないということで、比較的若い国と捉えても決して間違いではないでしょう。
ここに掲げる簡単な年表は、一般的にマレーシアを紹介する通常の年表では載っていない、載せられていない内容が多くを占めます。つまり通常の年表では現れてこない、為政者側からの視点でブミプトラ発展を軸にした年表です。ご存知のようにブミプトラを発展させるのはマレーシアの重要な国策ですね。下記に記した年表は、政府与党連合 Barisan Nasional が The Star 紙 2004年3月18日付け に載せた年表から多くを引用し、さらに項目、注書き・説明、関連知識を加えました。
1957年
1958年
1959年
1960年
1961年
1962年
1963年
1964年
1965年
1966年
1967年
1968年
1969年
1970年
1971年
1972年
1973年
1974年
1975年
1976年
1977年
1978年
注:PNB はその活動において、ブミプトラが株式市場へ投資する機会を間接的に与えていることになります。つまりブミプトラのためのファンドマネージャーです。ブミプトラからの投資をPNBが企業などに投資して活用するわけです。さらにPNBはプランテーション産業、銀行などの大株主でもあります。2004年末でPNBは8つのユニット信託ファンドと 2種の不動産信託ファンドを有する。PNBに口座を持つ人(投資者)の数は800万人になるとのことで、その約1割だけが非ブミプトラです。
1979年
1980年
1981年
1982年
1983年
1984年
1985年
1986年
1987年
1988年
1989年
1990年
1991年
1992年
Amanah Saham Buniputera(ASB) |
通常預金 の利率% |
定期預金 の利率 % |
ASB合計と 定期の差 |
|||
配当% | ボーナス% | 2つの合計 | ||||
1996年 | 10.25 | 3.00 | 13.25% | 4.10 | 7.26 | 5.99% |
1998年 | 8.00 | 2.50 | 10.50% | 3.87 | 5.74 | 4.76% |
2000年 | 9.75 | 2.00 | 11.75% | 2.72 | 4.24 | 7.51% |
2002年 | 7.00 | 2.00 | 9.00% | 2.12 | 4.00 | 5.00% |
2004年 | 7.25 | 2.00 | 9.25% | 1.59 | 3.70 | 5.55% |
1993年
1994年
1995年
1996年
1997年
1998年
1999年
2000年
2001年
2002年
2003年
2004年
以上
マレーシアが着実に発展してきた様子がこの年表からも感じられますね。5年間毎の国家中期経済計画であり、2006年から始まる第9次マレーシア計画でも、ブミプトラ発展は引き続き主要な項目の一つとなることでしょう。
マレーシア映画?そんな映画があるのだろうか?と思われる方が、在住者と旅行者を通じてほとんどでしょう。これまでごく例外的にしか制作されていないのですが、マレーシア映画はあるのです。そのごくごく寡作なマレーシア映画を今回のコラムで紹介します。そして紹介だけでなく、マレーシアに興味ある方、映画の好きな方は是非ご覧になってください、と推薦もします。なぜ マレーシア映画 ”Sepet” はIntraasiaの推薦作なのか、それをここで述べていきます。尚 Sepet とは「セペット」と発音し、口語マレーシア語で 「華人に典型的な細い目」 の意味だそうです。
この「今週のマレーシア」ではこれまでに何編もの映画に関するコラムを掲載してきましたし、ゲストブックでもごくたまに映画の話題を書いてきましたから、いつもご覧になる方であれば Intraasiaの映画好きはすでにご存知のことでしょう。映画は素晴らしき大衆文化ですから、ある国の紹介には欠かせないと思います。
そんなこと知らないよ、という方のために書きますと、私は大予算ハリウッド娯楽映画も、社会問題を扱った社会派ハリウッド映画も、軽妙な香港喜劇映画もアクション香港映画も見ます。マレーシアでたまに公開されるヨーロッパの映画、タイやベトナムの映画も見ます。コラムでも紹介してきたシンガポール映画はマレーシアで公開される度に見ています。特に好んで見るわけではないですが、当地のマレー映画も毎年数本見ます。ごくわずかですが、ボリウッド映画も見ます。
つまり種類に偏重はあってもどういう映画であれ基本的に見ます。見る映画を自分の好みだけに合わせて選ぶというスタイルでなく、できるだけたくさん本数を見るという長年の映画ファンです。尚映画は100%シネマでつまり映画館で見ます、もちろんそれは良い悪いということではなく、好みの問題ですね。ただシネマで見る利点は大画面、大音響ということだけでなく、観客層の種類を知り、どういう場面が受けるかを観察することができることです。
上でマレー映画を特に好んでみるわけではないと書いたのは、マレー映画は概して退屈だからです。退屈な主たる原因は、そのあらすじ・企画内容と演技にありますね。もちろん公開されたマレー映画を毎年すべからく見ているのではありませんが、そう思う根拠があるのです。マレー映画の観客の大多数がマレー人であるように民族的偏重が激しいこと、その興業成績がRM 100万を超えればまずまずといわれるくらいその観客数自体が多くないこと、が示すように、マレー映画自体がマレー人の大多数から絶対的に支持されているとはいえません。つまり退屈さを感じるのは非マレー人の私だけではないのです。華人、インド人をマレー映画の観客の姿に見るのは稀です。それでも私はマレー映画を見るのは、もちろんマレーシア制作の映画界でマレー映画がほとんど唯一の映画だからです。
さて本題に入ります。2月の終わり頃公開されて第2週目に入った時点で、このマレーシア映画 ”Sepet” を見ました、そして喜びと感動を込めてこの映画を、昔のP. Ramlee 時代は別にして、90年以降制作された最高のマレーシア映画 =the Best Picture だと評価します。私がこれまで見たマレー映画の中で名監督 U-Wei 製作の ”Jogho” と ”Buai Laju-Laju” はかなり優れた映画だと思います。当コラムでも紹介していますよ(第399回)。この”Sepet”はU-Wei の映画とはかなり趣向の違う映画であり、しかもマレー映画ではないのです。監督はマレー人ですが非マレー映画であり、ごくごく数少ないマレーシア映画です。なぜなら内容が配役が台詞がその他全てが、極めてマレーシア的だからです。
どういう面が極めてマレーシア的か。そのマレーシアらしさを最も如実に感じさせる台詞はマレーシア語、マレーシア英語、舞台がクアラルンプールということから広東語 の3言語が主として話され、さらに福建語、華語も一部混じるという、いかにもマレーシア社会らしい複数言語混在の台詞です。もちろん複数言語の台詞はマレーシア映画足る必要条件の一つであり、それだけではマレーシア映画とはいえません。
テーマ、筋と内容、台詞、俳優、映画の舞台・撮影地、この5つの要素がそれぞれマレーシア的であれば、その映画は充分にマレーシア映画といえます。そこでそれを個別にみていきましょう。
テーマは、一般的ではないけど起る可能性もある民族と宗教の枠を超えた若者同士の恋物語です。 筋と内容はそのテーマをマレーシアの社会に具体的に適用してあります。まだ学校在学中の17才ぐらいのマレーガールに恋する20才前ぐらいの華人ボーイ、この2人の出会いと関係の発展を軸に、この2人の家族友人関係の模様を描写することでマレーシア社会の一面を見事に映し出しています。男性主人公は詩の好きな海賊版VCD売り、女性主人公は都会の非保守的な家庭に育つ中学校の最高学年在学中の都会派マレー女性、といういかにも都会の日常世界にありそうな役の設定、その筋が展開する背景もこれまたありそうな設定、という観衆が身近に感じる舞台設定です。
この観衆に日常性を多いに感じさせる舞台設定の中で、決して日常的とはいえないがしかし起りえるムスリムと非ムスリム若者間の恋物語を、監督はまこと上手に展開させていきます。マレー映画に非常に目立つ誇張した表現と演技がないことがこの映画に新鮮味を感じさせます。筋は最後で悲劇を映して終っています。最終場面近くで盛り上げていった雰囲気をある一場面だけを写し出すだけで、映画終了にさせています。映画手法としてもなかなか優れていると思いました。
俳優の面に移ります。Orkid という親称の女性主役がマレー人、Ah Long という親称で呼ばれる男性主役 が華人です。主役を助演する助演陣は、女性主役の家族と友人側がマレー人、男性主役の友人と家族が華人です。その他脇役もマレー人と華人の混演です。主役を演じる男性は映画またはドラマの経験のない全くの素人の華人であり、女性主役を務めるマレー俳優 Sharifah Amani は、新人ではないかもしれませんが少なくとも有名俳優ではありません。男性主役を取り巻く友人知人役はアマチュアなのか劇団員なのか知りませんが、少なくとも知られた存在でないのは確かです。主要な役柄の中でよく知られたプロ俳優が役を務めているのは主役女性の家族役のみです。役柄の中で、主役男性の母親がPeranakan女性つまりニョニャという設定であり、ここにもマレーシアらしさを加えているところです。
もちろん登場人物はすべてマレーシア人であり、具体的には華人とマレー人です。こうしてその映像に特徴があるという女流監督のもとで、新鮮味のある新人または無名俳優プラスごく小数の有名マレー俳優という配役がこの映画を新鮮に感じさせています。
台詞については上記で触れましたね。主役2人の間での会話はほとんど英語です。主役女性の家庭は都会の中流家庭さを示す英語、マレーシア語両方話す家庭との設定です。場所設定がクアラルンプールのため、登場する華人間での会話は広東語が主体です。挿入歌に香港歌謡の巨星 許冠烈 のヒット歌謡が使われており、マレーシア華人の好みを醸しだしています。尚字幕は英語だけが付きます。
映画の舞台はイポーです。主人公の2人はいずれもイポーまたはその郊外に住んでいる設定であり、場面もほぼ全場面がイポーの屋台市、ビル内、個人の家、ファーストフード店、路上、池などが撮影場所ですね。最も印象的な場面は、主人公の2人がイポーでごく普通にあるバス停で雨宿りするシーンですね。
追記:最初、クアラルンプールと思ってそう書きましたが、情報から判断するとイポーのようです。
このように5つの要素を細かく検証していくと、ますます極めてマレーシア映画との確証を得ます。マレーシア映画としてはもう何年も前に公開された、しかし制作されてすぐ公開できなかった、”Spining Gasing” が思い浮かびます。民族を超えた若者の交流とぼんやりとした恋を描いた、英語台詞主体のこの映画はなかなか優れた映画でしたが、映画検閲で数々のシーンがカットされたりしたり、マレーシアの映画賞候補から外されたりした多少いわくのついた映画です。もちろん性的描写があるからなどという理由ではありませんよ、だいたいマレーシア製作の映画にその種のシーンは最初から撮られません。
それに比べて今回の”Sepet”は映画検閲でのカットは数シーンだけだと新聞に出ていました。どこがカットされたのかわからないほどです。製作者と監督がその面に充分気を使って撮ったのでしょう。脚本と監督はYasmin Ahmad という女性です。この監督は以前の作品で国際的な賞を取ったことがあるそうです。
”Sepet”が公開されたのは2月の終わり頃です。配給会社のBuena Vista Columbia TriStar によれば、第1週だけで公開された全国の9シネマでの観客数合計は25000人ほどだったそうです。そして2週目は需要が上がっていると。全国でたった9館だけですから、公開場所の面から多いとはいえません。マレーシアの各新聞などに載る映画批評では、誰もが”Sepept ”を好意的に評価したそうです。
現在までにこのSepet は外国の映画際で、第48回サンフランシスコ国際映画際 の選定作、バルセロナアジア映画際で選定作 などと広告には書かれています。
といった数字や賞のあれこれを書いても、日本人を含めて多くの人にはほとんどピンとこないことでしょう。Intraasiaがこの映画を推薦するのはそんなことからではありません。映画”Sepet”は極めてマレーシア映画であり、且つ映画としてもたいへん優れているからなのです。
制作費はRM100万にも満たないつまりマレーシア基準でも多少低予算の部類に入る映画ですが、マレーシアの映画市場から見ればものすごく低予算までとはいえません。何億米ドルもかけて製作するハリウッド映画はいうまでもなく、数百万ドルの香港映画にも、ボリウッド映画にも制作費の面でマレーシアで製作される映画が適うわけありません。しかし大予算映画は大予算なりに良さがあり、低予算映画は低予算なりに良さがあればいいのです。比べる基準が違います。
映画は面白い、楽しいことは確かに必要でしょうが、まず映画としての良さがあればいいのではないだろうか。優れた映画は何映画であれ優れた点を持っており、鑑賞した後満足感が感じられます。よって稀少なマレーシア映画であるだけでなく十分な満足感を感じられる ”Sepet”は最優秀マレーシア映画だと Intraasia は評価し、皆さんにお勧めします。マレーシア訪問の際にはVCD、DVD版をお探しくださいね。
マレーシアの旅行産業界の一員としてビジネスを行っている旅行社、旅行代理店、国内ツアー運営業者が集まって Malaysian Association of Tour & Tour Agents という業界団体を結成しています。この業界団体は頭文字をとって通常 MATTA と呼ばれていますので、このコラムでもMATTA を使います。毎年MATTA は海外パッケージ旅行と国内パッケージ旅行を重点とした旅行展示会 MATTA Fair を開催しており、必ず観光省が公式に後援します。今年の3月中旬に開催されたMAATA Fair で第19回となるそうです。15年前に始まった当時は1年1回だけでしたが、その後何年かした後は年2回方式に定着しており、通常3月と9月にそれぞれ3日間の会期で開催されます。
年2回開催されるようになったのは、それだけMAATA Fair の訪問者が増えたからであり、これは初期からほぼ毎回 MATTA Fair を訪問してきた私の実感からもわかります。初期は現在の会場クアラルンプールの中心部の一角にある PWTC だけでなく他の会場もありましたが、会場を訪問する一般交通面の便利さから言えば、圧倒的にPWTCに軍配があがります。そうしたこともあってのことでしょう、年2回方式に定着した頃から会場はPWTCだけに固定されたかのようです。
マレーシアでは業界団体が展示会方式でその商品・企画を販売する方式が人気です。例えばコンピュータ及びマルチメディア販売業界団体が毎年開催するのが、PIKOM PCフェ−ですね。常設の店ではなく、展示会場で多少安い品、企画品を探して購入するという方式は、多くの訪問者で混雑すること、限られた都市、そのほとんどがクアラルンプール、だけで開催される、という欠点があるにも限らず、マレーシア人はこの種の展示会方式が大好きなんです。
旅行業界では他にも旅行展示会が開催されていますが、なんといってもMATTA Fair が最大で且つ最多の業者・会社の参加数を誇っています。開催場所がクアラルンプールに限られるというのは他の都市、地方の方には不便で不公平でもありますが、それでも毎年たくさんの訪問者が訪れているという事実は、マレーシア人のこの種の展示会好きを示す例ですね。尚MATTA Fair の入場料は大人1人 RM 3で、当日限り有効です。
旅行社、旅行代理店、国内ツアー運営業者以外にも旅行業界に関連する分野の会社及び政府観光振興庁(局)が出展します。出展という意味は、独自のブースを構えて宣伝・販売するという意味です。代理店の売り込むツアーの中でそのツアーに協賛したり主たるツアー航空会社となっている、という意味ではありません。
この3月期のMATTA Fair では、全ブース数が750ほどで、それを200近い、会社、業者、航空会社、ホテル、政府または州観光局などが借りて出展しました。いうまでもなく、複数のコマブースを借りる企業もあれば、1コマブースだけの借り手もあります。会期中の訪問者総数は約8万人が見込まれていました。
今回出展した航空会社名: AirAsia, Air Mauritius, Air New Zealand, Emirate, Garuda Indonesia, Jet Airways, Sri Lanka Airlines, Air Sahara(インドが地元の新航空会社)
この顔ぶれからわかるように、通常ヨーロッパ系航空会社が出展するのは珍しく、オーストラリアとニュージーランドの航空会社は出展したりしなかったりですね。もともとマレーシアに路線のない米国系航空会社は常にゼロ出展です。マレーシアを除く東南アジアの航空会社は時々出展しますが、今回も数は2社と少なかった。日航と全日空は私の覚えている限り、1度も出展がないはずです。全体的に見て、航空会社の出展は多いとは言えませんね。
マレーシア航空は今回出展していませんでした。正確にいえばマレーシア航空のパッケージ旅行専門部門であるMAS Golden Holidays が出展してその主催旅行を宣伝・販売していました。マレーシア航空本体が出展しなかったのは、MATTA Fairの1ヶ月ほど前に、マレーシア航空は独自の旅行展示会を開催したからでしょう。
今回の出展国: ドバイ、エジプト、インド、韓国、マカオ、ネパール、フィリピン、シンガポール、南アフリカ、台湾、オーストラリア、タイ、トルコ、ジンバブエ、中国(ただしシンガポールにある中国観光事務所) 。
オーストラリア、タイ、インド、シンガポール、台湾、南アフリカなどは常連の出展国です。その内、シンガポール、オーストラリア、タイは常に最大級のブースを展開します。珍しいところではネパールとジンバブエでしょう。最小ブースのジンバブエで地図をもらう時に、私は昔行ったことがあるよと展示係りジンバブエ人に答えたら、大いに喜んでいたほどです。なんといっても今回特に目だったのは、韓国の熱心な出展ぶりです。ブースも充分大きく韓国民族衣装を着た女性がしきりに勧誘兼宣伝していました(ごく一部はマレーシア人かも?)。あとで触れる旅行代理店のパッケージツアーでも韓国ツアーは積極的に売り込まれており、韓国観光振興会のその積極的な宣伝ぶりが目につきました。
日本はどうかといえば、 JTBマレーシア がジンバブエ並の最小ブースで出展していました。それが唯一日本関係の出展ブースでした。韓国に比べて随分と見劣りしますが、なぜでしょう?日本の人気は旅行パンフレットなどで見る限り決して極端に低いとは言えません。さらに大衆的日本レストランや日本グッッズ、日本ポップ大衆文化がマレーシアで以前から紹介されているので、国民の間に日本への拒否反応はまずありません。やはり一番の壁は旅行費用の高いことなんでしょうか。だから日本の公的観光振興機関は出展して積極的に売り込むまでに至っていないと、私は推測しています(過去にはごく少数回出展があったと記憶しています)。
米国は過去ブース出展があった年もありましたが、今回はありませんでした。さらに今回はヨーロッパの国の出展は全くありませんでした。年によってヨーロッパ国のブースが出ている時もありますが、その場合でも小さなブースであり、国数も2、3カ国程度で、毎回必ず出展があるとはいえません。ヨーロッパパーケージ旅行は人気あるとのことですから、なぜなんでしょうか? その理由を推測すれば、英語の上手いことが自慢で英語に頼るマレーシア人はまず英国好きであり、その他ヨーロッパ諸国は十把ひと絡げ式がほとんどであり、何々国を独自に選択して自由旅行する人がごくごく少ないからでしょう。皮肉なことにその英国は私の知る限り1度たりともブースを出したことはないですね。しょせん英国にとってマレーシアは数ある英連邦の一国、すなわち元英国植民地の一つにしかすぎないのに、マレーシア人は政治家や英語高等教育を受けた人が率先して英国との絆を強調したがりますね。
中国ブースは知らないうちに見過ごしたので、よく覚えていませんが、大きなブースではなかったはずです。しかし中国の旅行地としての圧倒的人気の強さは、旅行代理店の扱う中国旅行商品の種類と数の多さからわかります。
ほとんど全州がそれぞれ州名を掲げたブースを出していました。大体どの回のMATTA Fairでもほとんどの州はこのように出展します。ただいつも気になるのは、その州名を掲げたブースには、その州内を本拠とするツアーオペレータまたはホテルから派遣された者が場所を占めており、純粋な州政府観光推進機間から派遣された者が比較して少ないことです。
さらにそういった州観光推進機間の係員の中には、自州内の旅行知識のお粗末な者がよくいます。私はしばしば、その州に関する細かな、またはちょっと趣向の違った観光質問を投げかけますが(マレーシア語で)、しっかりと満足のいくように答えてくれる知識を持った者が実に少ないのです。この種の公的観光推進機間に働く人たちの最大の問題点は、旅行が大好きだからその部門に勤めているわけではない、ということを以前から私は感じています。だから州内各地のバス情報を知らない、国境検問所のことをほとんど知らない、通常ルート以外にある場所にたどりつく道を知らない、州内の主たる観光地、島などを全部訪れていない、などといったことが会話しているとわかってきます。
つまり観光推進機間の人員であるにも関わらず、自由に且つたくさん旅する者を満足させる知識が欠けています。旅行が本当に好きであれば、自分が住み働く州内の隅々まで自分で旅行するはずです、そうすれば自ずと公式パンフレット以外の知識と経験は増えてきます。しかし残念ながら、彼女、彼らはそういうタイプの人間ではない。公費で連れて行ってもらえるまたは出かけられる場所と自分の生まれ育った地方の知識程度であり、同じ州内なのに知らない、行ったことのない地方、場所がよくあるのです。自分の務める部署で職に関する知識と経験を自分から増やしていこうというタイプの人間ではない、といえます。もちろん全員がということではなく、多数派の傾向としてですよ。
今回ブースを借りて出展: A'Famosa Resort, Aseania Resort, Avillion Port Dickson, Bayview International Hotelグループ、Berjaya Hotelグループ、FederalHotelグループ、Fraser Siverpark Resort, Guoman Port dickson Resort, Hotel Villa グループ、Hotel Equatorial グループ, Impiana Hotel, Laguna Redang resort, Metroplex ホテルグループ、MINES、 Hotel Seri Malaysia チェーン、Sheraton Laguna Resort, Sunway Lagoon Resort, Swiss Garden ホテルグループ、Tanjung Bunga Beach Hotel,
今回出展していたこれらのホテルの多くは、それぞれMATTA Fair期間中だけ販売する割引ホテルクーポンを発売していました。つまりこの割引クーポンを買えば、通常の宿泊料金より数割りはお徳である、ということです。一般にクーポンの通用期間は3ヶ月とか半年とホテル毎に違いがあり、宿泊予約はクーポンを買った人が自分で対象ホテルと連絡します。MATTA Fairではいつもこのように、ホテルの宿泊クーポンも販売します。いうまでもなく、宿泊クーポンに払い戻しはありませんよ。
数ヵ月以内に確実にそのホテルに泊まるのであれば、このクーポンは確かにお得だと思います。例えばマレーシア資本のエコノミークラスのホテルチャエーンとして半島各地にある Hotel Seri Malaysia チェーンは、2泊分料金で3泊泊まれると宣伝していました。RM 225 で宿泊クーポンが3枚入手できます、つまりHotel Seri Malaysiaのホテルであれば、連泊であれ、3泊とも違う場所であれ、1泊RM 75 で泊まれるわけです。他の例を抜き出せば、マラッカのよく知られたホテルSeri Costa は1泊の部屋料金+税サービス込み RM 100、ペナンのTanjung Bunga Hotel は 1泊部屋料金 RM 75から。
旅行規格品・商品となんの関係があるのだろうという出展者も案外あり、それがまたキャッチセールスみたいに煩いのです。その代表がクレジットカードの加入勧誘であり、数社がそれぞれ何人もの勧誘員を雇ってこれを会場で行っていました。MATTA Fair主催者はこの種のわずらわしく、旅行に直接関係のない出展を規制すべきですね。
この分野で今回目についた出展者として、冬物衣料中心の販売社です。数社がそれぞれ複数のブースを借りてたくさんの商品を並べていました。マレーシア人の好きなオーストラリア方面は旅行時期の高まるころは冬に向かいますから、旅行パッケージを購入した後、ついでに冬物衣料も買おうという客には好都合でしょう。もちろん今月すぐにとか、今年の秋ごろ中国、ヨーロッパ、米国旅行する人も対象ですね。
冬季のある国々へ出かけ慣れた人であれば当然冬物衣料は持っているでしょうが、初めてとか冬季に訪れたことのない人にとって、冬物衣料はやはり出発前に揃えておきたくなるはずです。ここ数年クアラルンプールのいくつかの有名ショッピングセンター内には冬物衣料専門店がオープンしましたから、旅行直前でも買えるはずです。でも地方の人ならこの際ついでに買っておこうというのもいい考えですね。尚冬物衣料販売の出展者はどれもショッピングセンターにテナント出店している会社だと思われます。
今回はマレーシア航空をはじめとしていくつかの航空会社が割引航空券つまりエアーオンリーの切符安売りを競うような場面はほとんどありませんでした。航空券の安さを競う、宣伝するスタイルの会場広告も少なく、航空券狙いの自由旅行者の観点から言えば、ちょっと期待外れのMATTA Fair だったことでしょう。
しかし依然としてマレーシアの海外旅行者は団体パッケージ旅行が主流ですね。そしてMATTA Fair でいつも感じるのは会場にマレー人姿の少ないことです。少ないという意味は、マレー人は総人口の5割強を占めわりに少ないということであり、クアラルンプールが会場なのでサバ州サラワク州からやってくる人がまず考えづらいため半島部だけではマレー人は6割を超えるのに、その人口比ほどはその姿を会場に見ないということです。
ムスリム旅行者として旅行範囲が限られることが、明らかに大きな理由の一つでしょう。飲食物、環境の面でムスリムはどうしても条件が厳しくなります、つまりムスリム旅行者を受け入れられる環境が整っていない限り、多くのムスリムはその地への旅行をしませんからね。もちろん海外での条件をイスラム諸国を旅行するのと同程度に求めないムスリムもいますが、それは小数派ですね。
ムスリム専用の旅行としてumrah 旅行を売り込んでいる旅行代理店が数は多くはありませんが、ありました。Umrah 旅行とはいわゆるメッカ巡礼の小ハジ旅行ですね。例:11泊13日 シンガポール航空使用でJeddah, Mekah 訪問 料金 RM 4370、10泊12日 同条件で 料金 RM 4280,
出発日限定のムスリム専用のヨーロッパ旅行パッケージ 10日間 RM 5988。 さらに”ムスリムのための日本旅行”などという企画旅行を宣伝している旅行代理店も見かけました。ただ実際にどれくらいの予約が入ったのでしょうかね。
こうしてMATTA Fairの会場訪問者の比較多数派は華人です。これは旅行代理店のパンフレット、会場に出展した代理店ブースに大書されたり壁に貼った宣伝文字に、中国漢字(華語)が併記されている場合が少なくないことですです。行き先が中国、台湾、香港の場合だけでなく、世界各地の行き先パッケージ旅行でもそれに華語が併記されています。一方ムスリム専用のパッケージ旅行と一部の国内旅行を除いて、パッケージ旅行類の説明文、宣伝文字にマレーシア語が併記されているのはまず見かけません。この点だけをみてもいかにマレー人が第1対象から外れているかがわかります(対象ではない、ということではありませんよ、誤解なきように)
その華人にこの4、5年たいへん人気あるのが中国旅行でしょう。中国旅行を積極的にまたは前面に出して宣伝、販売している旅行代理店が出展社中にたいへん目立ちます、それは大手の旅行代理店はどこも中国旅行を大きく扱っているからだと思われます。つまり中国旅行を扱うカウンターの数が多いということです。そしてその中国旅行を扱っているカウンターの周りにはいつも客が座っています。こういったことを見れば中国旅行は人気あるなとよくわかります。
中国旅行パッケージから
7日間 北京・天津・承徳 RM 1198、 8日間 上海・蘇州・南京など RM 1588、7日間 北京・西安の古都精選 RM 1988、9日間 中国東部 RM 1688、9日間 北京・大同 RM 1688、7日間 湖南・西安 RM 2388、8日間 桂林と絶景山水遊覧 RM 1888、8日間 内蒙古草原の旅 RM 2388、 11日間 シルクロードの旅 RM 3888、
といったように実に種類多くの中国旅パッケージがあります。
今回目立った韓国旅行パッケージから
5日間 ソウル・スアンボ・インチェオン RM 1488、6日間 ソウル・チェジュ・インチェオン RM 1688、8日間 ソウルのドラマスタジオ、映画撮影地などを含めて訪問し、韓国内で飛行2回含む旅 RM 2688、6日間 韓国春のランデブー RM 1988、
中国と比べれば種類ははるかに少ない、しかし韓国と比べると同じくらいの数である日本旅行のパッケージも抜き出してみましょう。
7日間 本州・デズニーランド・ユニバーサルスタジオ RM 4688、5日間 東京ショッピングツアー RM 2588、7日間 九州の旅 RM 4188、7日間 日本桜祭の旅と温泉 RM 4588、7日間 北海道+ソウル RM 4288、
種類は韓国旅行パッケージ並にあっても、上の例でもおわかりのように、ツアーの料金がはるかに高額です。RM 2000 を切るような旅行パッケージは見当たりません。よって推測すれば合計した参加者数は韓国にはかなわないでしょうね。
米国旅行パッケージから
8日間 西海岸 RM 3988、11日間 ニューヨーク・カナダ など RM 5588、
ヨーロッパ旅行パッケージから
8泊11日間 ドイツ・オーストリア・ベルギー・オランダ RM 5388、 9泊12日 ドイツ・スイス・フランス・ベルギー・フランス RM 6688、3泊6日 ロンドン・パリ RM 3588、
というように、いずれも高額ツアーですね。3泊6日などという飛行機泊と車中泊の多い旅はたいへんです。
オーストラリア・ニュージーランドのパッケージから
オークランドまたはクライストチャーチに4泊6日 RM 2888、5日間 パースとフリーマントル RM 2288、6日間 ゴールドコーストとサンシャインコースト RM 3498、
東南アジア旅行パッケージはもちろんいろいろあります。インドネシア、タイ、ベトナム、カンボジアです。日本のツアーと違って、インドネシアツアーはバリ島だけでなく、ジャカルタツアー、スマトラ島ツアーなど2、3日間の短期ツアーがあります。
もちろん国内旅行のパッケージは数と種類ともたくさんあります。東海岸の島々へのツアーの場合、飛行機利用の料金体系と、現地の波止場までは自分で行き、そこから島往復を含めた料金体系の種類に分かれます。以下はほんの一例です。
2泊3日のキナバル登山ツアー: コタキナバル空港をツアーの起点としてそこからの往復交通と宿泊費及び登山に関係する費用を含む マレーシア人料金 RM 299、外国人料金 RM 399、
3泊4日のコタキナバルツアー: コタキナバル空港をツアーの起点としてそこからの往復交通と宿泊費及びキナバル公園、ポーリン温泉、マヌカン島訪問費用含む ホテルに寄って料金に差あり 最低 RM 449から。
中には半島部ではなかなか情報を得られない興味深い、サラワク州のツアー例:2泊3日 四輪駆動車で行くMulu洞窟 Miri 発 交通 + 宿泊+食事+ガイド 1人当り料金 RM 699 (これは他では味わえないツアーですね)。
Lang Tenga島 2泊3日 Merangからのボート往復、シュノーケリング、食事付き、ツイン使用で1人当りの料金 RM 288、 Lang Tenga島 4泊5日 PADI オープンウオーターコース 宿泊と食事付き RM 1300、Perhentian 島 2泊3日 ボート代+宿泊と食事 Perhentian Island Resort泊料金 RM 335、
Cherating海岸 2泊3日 Residence Inn 朝食付き部屋代 RM 288net、
朝食付き宿泊 ペナン:Citiel 部屋代 RM 140、Sheraton 部屋代 RM 100, ランカウイ:Mutiara Burau Bay 部屋代 RM 165、
以上
100社を超える大中の旅行会社、代理店、ツアーオペレーターが出展していますので、いろいろと比較しやすく、もし自分の好み、行きたい所へのツアーがあれば、通常より割安に購入できることができるでしょう。しかしもちろんツアーの品質はわかりませんから、評判や説明で判断するしかないでしょうね。
この国内最大の旅行展示会 MATTA フェアーは毎年3月と9月に開催されますから、ちょうどその頃マレーシア旅行される方と在住者は会場に足を運んで、もし気に入った旅行商品・企画やホテルバウチャーがあれば購入してみるのもいいかもしれませんよ。