「今週のマレーシア」 2003年11月と12月のトピックス

・マレーシア人は飲食前に自己満足の儀式を好む ・ 数字で見たマレーシア、 その19
Intraasia の雑文集−2003年分−

おことわり:コラム数が週の数に見合ってないのは、マレーシアを留守にしたため掲載できなかったからです



マレーシア人は飲食前に自己満足の儀式を好む


筆者は長年且つ日常的に大衆食堂、屋台、ホーカーセンター(屋台センター)を利用していますので、そういう所で飲食しながらマレーシア人の飲食態度を眺めているまたは観察していると、いろいろと面白い行為に気がつきます。つまりマレーシア人の広い意味での食に対する捉え方を知ることができます。

注:ホーカーセンター(屋台センター)の形状には2種類あって、建物屋内にあって四方が壁に囲まれたいわば閉ざされた式と、空き地などの場所に建てたまたは建物の地上階などの一画にこしらえた屋根付き拭きぬけ式です。大衆食堂と屋台に関しては、以前の複数のコラムで詳しく解説・説明していますので、目次を開いて食に関するコラムをお読みください。

ずっと前の第177回のコラム 「マレーシア華人の箸の持ち方について」で華人の箸の持ち方について書きましたね、いささかの残念さを込めて書いたコラムでした。その場合の対象は華人でしたが、今回はマレーシア人全体に共通して見られる特徴についてです。尚今回のコラムでは上品なファミリー風レストランや高級レストランは対象にはしていません。

儀式その1 ストロー内の液体捨て

飲み物だけなら当然ですが、飲み物と食べ物を両方注文した場合、多くの場合食べ物より先に飲み物がテーブルに届きます。その飲み物がKopi、Teh、MiloなどのMinuman panas (ホットな飲み物)であれば客はそのまま、つまり多少冷めるのを待つことはあっても、カップ、グラスに口をつけて飲みます。では氷(ais)を加えた通称 Minuman sejuk (冷たい飲み物)ではどうでしょうか?Kopi ais, Teh ais, Milo ais, Coke, Pepsi, 100 Plus, Air Limau, Barley ais, Soyabean などなどのアイス 飲料は、グラスまたは取っ手付きの小型マグで供されます。屋台や安っぽい大衆食堂によってはグラスが安物プラスチック製になり、プラスチックの匂いが鼻をつきます。Cola, Soya beanのような飲料は缶またはビンまたは紙パック式の2種類ありますが、いずれも氷をいれたグラスといっしょに供されるのが一般的です。もちろん氷は要らないと伝えても構いません。

でいずれのグラスまたは取っ手付き小型マグでも必ずストローがいっしょについてきます。ストローつけてと頼まなくても、その飲み物を入れたグラスに刺してテ−ブルに運ばれるのが普通です(例外はある)。Coke, Pepsi 類ではビンまたは缶から氷とストローの入ったグラスに注ぎますが、Kopi ais, Teh ais, Milo ais 類はすでに氷と混じってグラスに入っていますね。さて飲む用意は整いました。多くのマレーシア人はグラスに直接口をつけるより、ストローを使うことを好みます。しかし素直にストローに口をつけて飲み始めるわけではありません。

まず人差し指で、時には親指、の腹でストロー上部の穴をふさぎます。グラスに沈んだストロー内にはすでに液体が入り込んでいますから、この液体がストローの中で保たれた状態になります。つまり真空ポンプの理論で、この指で押えた状態でストローをグラスから取り出しても、液体はストローから落ちません。グラスから取り出してから上部口をふさいだストローを横にする人もいます。いずれにしろストローの中に溜まった液体は下側の口からこぼれません。この状態のままでストローをテーブル下なり横まで運んで行って、上部口をふさいでいた指を放します。すると当然ストロー内の液体はストローから出ていきますよね。こうしてアイス 飲料飲む前の儀式は終ります。

この儀式の目的はなんでしょうか? そうです、ストローに溜まった液体を逃すことで”ストロー内を洗った”つもりなのです。大衆食堂や屋台のストローは内部にほこりが溜まったり製造時の匂いがこもっているとでも考えているわけです。だからコーラやジュースやKopi の液体でストロー内部を洗うということですね。客の中には上記の指で口を押えて内部の液体をテーブル横に捨てる行為を、ご丁寧にも2回繰り返す人がいます、男も女にもありますよ。

ストロー以前に気にすべきこと

でこの行為、現実に意味あるのでしょうか?あるわけないです。大体屋台や大衆食堂の飲料品の準備され方、作られ方を見ていればわかるように、誰も準備し作る時点で衛生に特に気などつかっていません(全然使わないということではありません)。テーブルを拭いた雑巾の手でKopi を入れたり、グラスに氷を手でわしつかみで入れるのも別に珍しいことではありません。屋台人は特にそうですが、金のやりとりしながら飲み物、食べ物を準備します。金を触った手でカップを握り、氷をグラスに入れ、洗い物した手で客が口をつけるストロー上部をつかんでストローをグラスに刺します。それ以前にグラスやカップがどれくらいきれいに洗われているかです、こんなこと店の内部をよく観察していれば誰でもすぐわかります。

ほとんどは洗剤の残ったような感じですすぎ、グラスやカップを逆さにして次ぎに出す状態にしていますが、混んできてグラス、カップが足らなくなると洗ったカップグラスを即、次ぎのコーヒー、コーラ用に使いますから、カップグラスの内部の洗剤水がよく落ちないうちに、次ぎのTehが注がれるわけです。近くに水道蛇口のない屋台を見て下さい。2つ多くて3つの水を溜めたたらいでグラス類を洗うのが普通です。一つのたらいの水が底が見えないほどに変色しても洗い続けます。そしてすすぎ用のたらいでグラス、カップを軽く沈ませ、それで終りです。乾いた布でカップ、グラスを丁寧に拭くような大衆食堂、屋台はありません。

こんな状態でホットであれアイスであれKopi, Teh などを注がれたアイス 飲料は、さらに手つかみのアイス(氷のこと)が加わります。この種の店で使う氷は、一般に業務用氷会社からの袋詰めアイスか一般的で立方体氷もあります。店では配達された10Kg程度の袋を破ってアイスボックスに保存しておきます。立方体氷なら店で砕いてアイスボックスに入れます。アイスそのものがどれくらい高度の衛生常態かは知りませんが、まあ問題ないとしておきます。尚多少裕福な大衆食堂では自前の製氷機を備えている店もある、でも凍らせるその水は煮沸してない水道水です。

ストロー、これは数100本入りの袋詰めですから、そこから1本取り出して、グラスかマグに差すだけです。ものすごくけちまたはみみっちい屋台では、1度使ったストローを折れてない限り何度も使うようですが、まあそういう屋台はごく少ないです。つまり1回使って捨てるのが普通です。

以上の説明と描写をお読みになれば、ストローの内部をグラスの液体で”洗ったつもり”の行為など全く意味ないことがおわかりになるでしょう。つまり衛生上無駄な行為ということです。しかしマレーシア人一般としては、この行為をするのが好きなのです。だから筆者は儀式と上で書きましたように、これはアイス飲料を飲む前の儀式なのです。儀式だからそこに本質的な効果がなくてもやってる本人は満足するのでしょう。尚Intraasiaはもちろんそんな儀式は行いません、“Tak apa 気にしない”。

儀式その2 紙でスプーン類をぬぐい拭く

次ぎは食べ始める前の儀式です。自分でおかずをよそるタイプの料理ではよそったその皿を自分でテーブルに運びます。皿を運んでくる時についでにスプーンフォークも容器から取りテーブルに運びますが、そうでない場合はテーブルに上に置かれた容器にスプーン、フォークが入っています。華人屋台・大衆食堂であればこれに箸とレンゲが追加されます。

炒め物やどんぶりの麺類などは注文して料理ができてテーブルに配達されるまでちょっと時間がかかるのはどのこの世界でも同じですね。さて自分でよそる料理であればその料理をテーブルに運んだ時点で、注文してつくってもらう料理であればその料理がテーブルに並ぶ前に、客の中にはスプーンとフォークまたは箸を手にしてすぐ食べ始めない人が結構います。そういう人は何をするかというと、テーブル上にナプキンやトイレットペーパーが用意されていればそれを使って、自分のスプーン、フォーク、箸、レンゲ、分け皿か小皿があればそれも、をまず拭くのです。テーブル上に紙類が用意してなければ、自分のティッシュペーパーを使って、同じ拭く行為をします。

トイレットペーペーのテーブルナプキン代用

ここでトイレットペーパのことを少し説明しておきましょう。ペーパーは通常円筒形容器に入っており、中の芯を抜き、芯になる方の紙を引き出して容器の外側に伸ばしてあります。客はそれを適当に切って使います。このトイレットペーパーのナプキン代用は民族を選びませんが、華人系の店では比較的にあると言えます。といっても、全ての屋台、大衆食堂がトイレットペパーを含めて紙類を提供しているわけではありません、紙類を客の目に付くところに全く置いてない店もたくさんあるし、ティッシュペーパーボックスをテーブル上に置いている店もあります、ただこのティッシュペーパーボックスを置いているのはマレー店がほとんどです。東南アジアの食慣習に慣れてない人は、あれ!と思われるかもしれませんが、テーブルナプキンがトイレットペーパーであることに誰も文句など言いませんよ。ちなみにトイレットペーパのナプキン代用はタイではごくごく普通です。

食器以前に料理をする状況を知れば

本題に戻ります。子供連れの母親は子供のスプーン類も拭いている行為をよく目にします。神経質そうな女性になるとまこと丁寧に拭いているのです。この行為をするのは老若男女を問わず、まことありふれた行為です。しかしほぼ全員がやる、ということではありませんよ。でなぜスプンフォーク類をペーパーで拭くのか?それはスプーン、フォーク、箸、小皿類の洗いが不充分で汚れと油分がよく落ちていないという理由からです。そう確かに、多くの店でスプーンやフォーク類を丁寧に観察すれば油分が残っていたり目立たない程度の汚れが目に入るのは事実です。

さてここでまた上記のストローの場合と同じです。屋台、大衆食堂で食器洗いは何も皿やどんぶりだけを丁寧に洗うなんてことは起こり得ません。下働きとして使われているインドネシ人労働者なり、店の者が適当につまりまあ見た目は一応きれいなる程度に洗っているだけで、流し水でとことん洗う、完全に洗剤を落とすなんてことは、到底期待できません。それがマレーシアの屋台、大衆食堂の衛生観念であり、これが特に一般マレーシア人の意識とかけ離れているわけではありません。

これを大前提にすれば、スプーンもカップもグラスも大小の皿もどんぶりも箸もレンゲも皆同じ状態です。その皆同じ状態である食器、容器の中のスプーンと箸だけをペーパーで丁寧にぬぐったって、料理やライスを盛った皿は、麺の入ったどんぶりはどうなるのですか? それ以前に料理人がものすごい衛生観念を発揮して、料理準備前には石鹸水でしっかり手を洗い、素材を完全に洗い、鍋をまな板を常に雑菌ゼロにしているのでしょうか? 彼らの料理態度を見ていればだれもそんなことは期待できません。適当に洗った素材が無造作に地面やテーブルに置かれています。客から金を受け取りその手で材料を掴み料理します。料理を運んでくる外国人労働者を含めて屋台人や大衆食堂の人たちが、定期的にきちんとした健康診断を義務付けて細菌保菌者でないことを保証している自治体は一つもありません。

誰でも勝手に屋台人になれ、料理人になれます。自治体に届けるまたは講習を義務付けている自治体も中にはありますが、それでも屋台大衆食堂に関わる人全員が所詮健康診断など受けませんし、例えあったとしても守られないでしょう。こうして料理を作る人間、料理を盛る容器、その料理を食べる環境(汚い店であれ、狭い路上であれ)から考えれば、基本的に大きな違いはないのです。そんな状況下で、自分の使うスプーンとフォークだけをペーパーで丁寧に拭いたってまさに、目くそ鼻くそを笑うようなものですね。
だからこのスプーン、箸類をペーパーでぬぐい拭く行為も、ストローの場合と同じで、マレーシア人の食前の儀式なのです。尚Intraasiaはもちろんこの種の儀式は行いません、“Tak apa 気にしない”。

儀式その3 パオの薄皮はがし

さて3番目は包を食べる前の儀式です。包は[ Pao ] と発音しマレーシア語でも PAO と表記されます。日本の肉まん、あんまんとよく似ており、外側の部分が白く、中身にこしあんやKayaを詰めたまんじゅうで、蒸して供します。数少ないですが白基調でない包もあります。中身に入れる材料によって呼び名が違います。こしあん:豆沙包、チャーシュー:叉焼包、 Kaya(ココナツベースのジャム):Kaya包、と呼び、その他 大型の大包など数種ありますが、最初の3種で大半を占めます。豆沙包とKaya包は1個70セントか80セントで叉焼包RM1ぐらいです。地域によって値段にわずかの差はありますが、どこでも似たり寄ったりの味です。それは包専門の会社または製造屋から仕入れて、店で蒸し器にかけて販売するのがほとんどであり、大衆食堂が自家製の包を売っているのはまず珍しいことです。尚包などのおやつ・スナック類を改造自動車やバイクに荷台を取り付けたスタイルで売りに来る移動式の”屋台”も数少なくあります。

包はもともと中国料理の1種なので、販売する店の大半が、華人系の大衆食堂であり、客の大半は華人で、加えて少数のインド人その他です。しかし、マレー大衆食堂、屋台でもたまに売っています。なんとなく味が違うのは、こちらはHalal 仕様だからかもしれません。尚マレー人を中心としたムスリムが華人経営の大衆食堂で売られている包を買って食べることはありませんし、宗教上してはいけないことです。なぜなら圧倒的大多数の華人食堂・屋台での食品は非Halal 食品だからです。ところで高級なスーパーマーケットのコーナーで売られているような包の場合は、Halalの包になっているはずです。

注:都会でなく地方町・村になれば、華人経営の食堂・屋台でもHalal 食品を扱う率が増えます。Halal とはイスラム教で許されたという語義で、イスラム教の定める材料、スタイルで準備した飲食品を一般に指す。


手で掴んで剥く

さてマレーシア人がこの包を食べる時の儀式を説明しましょう。
何々包(パオ)と注文すると、店の者が蒸し器の扉を開けてパオを挟む道具(V字型の金具です、日本語で何と呼ぶか思い出せません)で包を挟み、小皿に載せて客のテーブルに運んできます。持ち帰りであれば小さなビニール袋に包をいれて手渡してくれます。テーブルに置かれた小皿に載った包は、マレーシアでも手掴みで持って食べるのが普通です。これは日本だって他の中華圏だって同じではないでしょうか。

しかしマレーシア人はその包をすぐに口に持っていきません。包が熱すぎるからでしょうか? あまりそういうケースはありません。熱熱の包は余り好まれませんので、ものすごく熱くなった包は少ないのです。まず小皿に置いたままか片手に包を掴んでもう一方の手で包の薄皮をむくのです。眺めていると、うまく薄皮がむけず包の実までいっしょに剥けてしまう時もあります。これは包が古くて皮が固くなっていたり、蒸しすぎて崩れ気味の包の時がたまにあるので、このせいかもしれません。いずれにしろ包全体の薄皮をむき終わってようやく、口に運びます。

でこの薄皮剥きの目的は何でしょうか? 包(Pao)の配達人や販売者が汚れた手でそのまま掴んだりするので、包の外側は汚れている、だから汚い皮をむくということです。一見なるほどという理由付けですが、でその包を食べる人は自分の手指をきれいに洗ってから食べるのでしょうか? 店で眺めていると、確かにそうい人もいることはいます。しかし外から来て手も洗わずにそのままの手で、薄皮剥きをしている人が多いのです。

包製造屋の光景

自分の手だから少少汚れていても気にならないという理屈の人は多いはずです。じゃ、そのパオは一体どうやって製造されているのかご存知ですかと、筆者は聞きたい気分になります。下町の商業住宅混在地区のショップハウスで見る包製造屋の裏側はゴミの溜まった悪臭さえ漂うお馴染みの裏道、この種のショップハウスは裏口も表口と同じ位大きく、裏口には一杯材料や半出来上がりの包が並べてあります。包製造の職人が真っ白なエプロン姿で働いているなどと期待してはいけません。同じショップハウスの一角にある大衆食堂の料理準備料理風景と同じです。

加えタバコで物を運び、汚いジーパンで手を拭き拭き、材料の粉を運ぶ、そんな光景は何もこういったショップハウスの包製造屋だけに特有のものではありません。中秋月餅で有名な月餅屋も裏口にから眺めた光景は、パオ製造屋と似ています。調理具や材料が雑然と地面においてあったりというところです。小さな食品製造屋は時々軽工業団地にも存在しますが、町中のショップハウスの飲食品店、飲食製造屋と特に変わっているとは全く思えません。包は近代的なオートメーション設備の中で厳重な食品管理のもとで製造される食品ではないのです。

パオ製造屋もマレーシア社会でごく普通に受け入れられている

下町のまたは軽工業地または商業住宅地の中で営んでいる、家族経営しているような小さな製造会社・屋で作られた包は車で店店に配達されます。だから包も一般的マレーシア人の食品衛生管理思想と取り扱い環境の中で作られています。要するに朝昼のご飯を人々が食べる大衆食堂や夕飯を友人と揃って食べる冷房なし中国大衆レストランや街のケーキ・パン屋さんと変わらないと考えて間違いありません。特別に不衛生でもないが厳重な衛生思想で営業、製造してないことは、誰でも知っているし、そのあり方がマレーシア社会に普通に受け入れられています。

その包(パオ)製造屋さんで作られた包の衛生面は、大衆食堂で食べる麺類と飲むKopi と本質的に変わりはありません。大衆食堂で朝飯やスナック用にトーストも注文できますが、これだって包と同じ、銭金扱った手で、テーブルを拭いた雑巾の手でパンを掴んでトーストに入れて焼いています。要するにすべてが同じなのです。大衆食堂で午後のひと時食べる包も例外ではありません。もうおわかりですよね? 包の中身はものすごく衛生的で外側だけ汚れているなんてことは、またまた目くそ鼻くそを笑う現象ですね。薄皮を剥いたって剥かなくたって所詮包(パオ)を食べる限り変わりはないのです。ですからIntraasiaはいうまでもなく、この種の儀式は行いません。

尚パオの皮は嫌いだ、薄皮を剥いた味のほうが好みだという人もいないとは言いませんから、そういう人にとっては薄皮剥きに実利的意味はあるのでしょう。

一人前のマレーシア人大衆になる方法

大衆食堂や屋台でTeh ais と パオを注文して、テーブルに置かれたグラスのストローを取り出してさっとストロー内のTehを捨て、パオの薄皮を汚れた手で剥きながら、携帯電話であたり構わず大声で会話し続ける。こんなスタイルの行動を取れば、あなたも一人前のマレーシア人大衆ですよ。



数字で見たマレーシア、 その19


これまで断続的に掲載してきた数字で見たシリーズです。いろんな統計、数字を知ったうえで考えてみるのも時には必要だと思います。

犯罪統計

武器類を使う強盗事件の全国発生件数が昨年2002年に比べて30%も増加しています。マレーシア犯罪防止基金の副会長は今年上半期で7561件の強盗事件が発生した、昨年同期は5764件でした。「正常な感覚を持ったマレーシア人であれば、これらの犯罪に無関心ではいられない。わが社会の諸問題を起こしている根源の一つは、若い世代に影響を及ぼしている倫理観の下落です、それは親としての技術が欠けて子供を正しい道へ導く事に欠けていることと一対になっています。」 

マレーシア犯罪防止基金発表の犯罪統計 (各年上半期のみ)

殺人 殺人
未遂
ギャング
武器
強盗
ギャング
その他
強盗
武器
強盗
その他
強盗
強姦傷害 重犯罪
合計
2002年27834458472435764684224610141
2003年293423110532147561703225212149
変化率5.4%23.5%-31%24.3%-11.9%31.2%2.8%0.3%19.8%

日中家
屋侵入
夜間家
屋侵入
トラック
窃盗
自動車
窃盗
バイク
窃盗
ひった
くり
その他 財産
犯罪計

2002年34019218226542802365973821392464129
2003年35139804269141412433387001358166763
変化率3.3%6.4%18.8%-3.2%2.8%17.8%-2.6%4.1%

ギャングというのは、ギャング団による武器強盗、その他強盗という意味です。どういうわけか一般的な強盗とは統計上区分してありますね。

路上でのひったり犯罪の85%以上は、バイクによる仕業という点が、警察庁発表の統計数字から明らかになりました。下記表の総報告数8700件中バイクによるひったくりは7669件です。この総報告数の内、警察は4225件を解決し985人の被疑者を逮捕しました。被害者の大多数は女性だということです。事件の発生地点は人の往来の多い車の待合場所、銀行が近くにある所、人通りの少ない場所などです。
2003年上半期の路上でのひったくり件数
ペルリス州ケダー州ペナン州ペラ州 スラン
ゴール州
クアラ
ルンプール
ヌグリスン
ビラン州

件数960485139825552146186
マラッカ州 ジョー
ホール州
パハン州 トレン
ガヌ州
クラン
タン州
サバ州サラワク州総数
件数244102511016656782728700

去年1年間の総報告数は14640件で、内12476件がバイクによるひったくりでした。警察が逮捕した被疑者の数は1558名でした。

麻薬患者
1988年から2003年までの麻薬患者として取り締まられた者の数は約244000人でした、その内マレー人が65%、華人が20%、インド人が11%、その他4%という内訳です。

警察官

マレーシアの警官1人あたりの国民の数は292人になります。これは2002年時点の国民人口2478万人と全警察官の数84815人から割り出したものです。
正規警察官になるには、志願採用後警察学校で2年の訓練と、実習3年を経て、正式の一人前の警察官となります。
警察官の民族別内訳

マレー人華人インド人その他民族合計
人数67402222134281310886159人
割合78.2%2.6%4.0%15.2%100%


全国の車両が登録を義務付けられている道路交通庁の統計から

2003年7月現在 車両総数は1248万台。その内2輪車(バイク)が802万台、バスが5万2千台、タクシーが9900台、トラック類が72万8千台、その他車両が35000台ほどです。一番多く登録されているのがクアラルンプール管轄下で153万台です。次いジョーホール州の68万台、スランゴール州が66万台、ペナン州が50万台です。

新聞の購読者数

各新聞の平均購読者数
英語紙万人マレーシア語紙万人華語紙万人タミール語紙万人
Star112.3Utusan Malaysia147.0星洲日報97.7Nanban22.8
New Straits
Times
37.5Berita Harian142.2中国報67.3Tamil Nesan16.6
Sun18.5Harian Metro83.1光明日報39.6

Malay Mail10.9

南洋商報36.5





光華日報26.8

何らかの
英語紙
144 何らかのマレー
シア語紙
312 何らかの
華語紙
242 何らかの
タミール語紙
33

出展:調査専門会社Nielsen Media Resarchによるメディア指標2002年7月 - 2003年6月から
調査対象:半島部に住む15才以上の人

数字は購読者数であって発行部数ではありません、発行部数はこの数字の数分の1です。 華語紙”東方日報”は発刊が2002年末なのでこの統計に載ってないと考えられます。
複数紙または複数言語紙を購読する人があるので、各言語紙の合計がすなおに”何らかの新聞”を読む人の数にはならない。

民放

マレーシアで初の民放ラジオ放送が始まったのは古いことではないのです、初の民放ラジオ局Time Highway Radioは1994年9月初めに開局しました。同局は2002年に名前をTHR.fm と変更しました。

マレーシアでテレビ放送が開始されたのは1963年です。そして1969年にこの公営放送は第2テレビチャンネルを開始しました。民放テレビ局として初のTV3局が放送開始したのは1984年です。その後1995年にケーブルテレビの民放局MegaTVが放送開始しましたが、2001年に放送中止。1995年には一般民放テレビ局のMetrovisionが放送開始しましたが、1999年に放送中止しました。
現在人気ある民放テレビ局 ntv7 が放送開始したのは1998年です。2003年に新規放送開始したテレビ局はChannel 9です。

有料衛星テレビのアストロ
有料衛星放送のASTROは、市場調査会社ACNielsenによれば、テレビ視聴者中で視聴率18%です、つまりある定めた時間において100人のマレーシア人視聴者の内18人はASTROを見ているということだそうです。これは公営のTV1と民放のNTV7 より成績がいいのです。ASTRO視聴者の中で民族別では華人が圧倒的に多く半分以上を占めます。マレー人は3割です。尚現在のASTRO契約者数は100万人を超えました。

外国からの投資額

2002年外国からの投資申請を各州別にみる (マレーシア工業開発庁MIDAの統計から)
トレン
ガヌ
スラン
ゴール
ペナン ジョー
ホール
ケダー クアラル
ンプール
サラ
ワク
N.スン
ビラン
ペラパハン マラ
ッカ
申請件数425812818822463638411628
申請額 RM億47.532.323.118.510.010.97.75.73.63.23.0

サバ、クランタン、ペルリスはさらに少ないので省略しました。
トレンガヌ州がわずか4件しかないのに金額が異常に多いのは石油関係の巨大プロジェクトへの投資申請だからでしょう。一般的商工業がトレンガヌ州に投資するのはごく限られていますね。一般的商工業の投資の中心は依然として、西海岸の3州に固まっていることがわかります。

2002年外国からの投資申請を産業別に分類
産業石油運輸電子電気化学食品原材料機械
申請件数1383193536924112
申請額( RM億)48.335.334.812.39.48.98.4


マレーシアの貸し出し金利と預金金利

2003年6月における貸し出し金利の平均は6.0%、3ヶ月定期の平均利率は3.0%でした。

国会議員の報酬など

有権者から選挙で選ばれる唯一の国会議員である下院(Dewan Rakyat)議員の報酬です。これは1980年国会議員法に定めてあるとのことです。通貨単位はリンギット(RM).

議員報酬交際費交通費運転手代電話代特別手当
毎月の固定収入 RM5916800210500400500

国会出席宿泊代国内生活費国外生活費国外食費飛行機
公務時の手当て RM毎日150最高1泊200毎日100毎日100190ビジネスクラス

これ以外にも、与党と野党代表にはその職に対して固定費が支給されます。また議員への特別ローンとして、自家用車 RM43000、コンピューター RM5000、家屋 RM12万もあります。

就学率の男女の差

2000年の調査では、6才以上の国民で学校へ通ったまたは通っている男性の率は92.7%、女性では87.6%でした。これは1991年の調査数字に比べて、男性88.4%で女性79.8%でしたので男女差が狭まりました。

寿命

平均寿命(2000年の時点、統計庁)と 病院、医師数(2003年の時点、保健省発表)
人口 平均寿命
男性
平均寿命
女性

政府系
病院数
私立
病院数
田舎の
保健施設数
医師の数 歯科医
の数
2327万人70.2才75才
127224192415503人2083人


トイレの水洗

マレーシア国民の平均は1日に7回トイレの水洗を流し、その量は77リットルになります。

国民奉仕計画の第1期プログラム参加者決定

青年層を主対象とした国民奉仕計画(プログラム)は、来年2004年から開始されます。その第1期プログラムの参加者の名簿が、国民奉仕庁によって12月に公開されました。参加者85000人は、1986年生まれの国民48万人からコンピュータによって任意抽出されたとのことで、参加者構成比は男性51%、女性49%です。この8万5千人は3つのグループに分けられて、全国各地でそれぞれ3ヶ月間の奉仕プログラムに従事します。
参加者として選ばれなかった残りの39万5千人ほどには、国民奉仕計画(プログラム)への参加義務は生じません。


ブミプトラ華人インド人その他合計
割合69.93%20.74%7.36%1.97%100%
人数59438人17629人6257人1676人85000人

国民奉仕計画(プログラム)の参加者は、次ぎのようなプログラムを受けることになります:

  1. 武器を使用しない軍事訓練、救急訓練、スポーツなどからなる体力訓練、
  2. 国家の歴史勉強、マレーシアを取り巻く問題の勉強、国家の安全と防衛などからなる国家愛植え付けクラス、
  3. 倫理養成、リーダーシップ訓練、自負心植え付け、などの精神修養、
  4. 環境保護意識植え付け、近隣人意識の高揚、共同活動、自発的活動ーなどのコミュニティーサービス




Intraasia の雑文集−2003年分−

下記の2つのタイトルはいずれもゲストブックに書いたものの再録です。

日本人の美徳観が陳謝の背景なんでしょうか

マレーシアとは関係ないですが、ちょっと気になったのでここに書いておきます。この場はゲストブック兼雑記なので、まあ雑記です。
3日の当地の新聞の外報記事に、ヨルダンで日本の毎日新聞のカメラマン所有の手荷物が空港内で爆発、死傷者がでたという記事を見ました。最初は誰かが仕掛けた爆発だろうと軽く読み流してました。そして昨日の朝刊(もちろん欧米の外国通信社配信記事)では、そのカメラマンが戦場の手土産として手榴弾?かなにかをカバンに入れ、それが爆発したのだという記事と、アンマンの病院に収容された怪我人の写真が載っていました。記事の見出しに、「新聞社が爆発の件で陳謝」 とありました。

陳謝!なぜ?と思って、気になったので、めったに見ない日本の新聞サイトで毎日のページを開くとあれこれ書いてありました。要するにこのカメラマンの個人的行動ということがはっきりしていますね。編集局長はヨルダン国民にあやまりたい、などと書かれています。

古くて新しい話題ですが、なぜ日本企業は時には官庁はこういう時に、個人が犯した行為に替わって陳謝する行動に出るのかということです。日本社会の中ではこれは社会一般に期待される行動であり且つ当然視されていることなので、この社会常識にを破ることはできないはずですし、破ってはいけないと思います。それが日本社会だからです。

しかしことは国外であり、しかも日本社会慣習や文化など一切理解しないであろうアラブ世界です。ヨルダン一般市民社会で日本及び日本人が直接にも間接にも嫌悪の対象とか好まれの対象にもなっているとは到底思えません。毎日新聞派遣の特派員であっても、会社がその人間の行動全てに責任を持つことまでは必要ないのではないでしょうか?欧米のマスコミの記者が取材で滞在する他国で犯罪または犯罪的行為を、個人の行為で行った場合、果たして会社がその国民にお詫びなどするだろうか?欧米社会のあり方から考えて可能性はごく低いです。例を上げれば、Washington Post やAP通信の記者が私事で酔払い運転して歩行者を死亡させた時、新聞社がその国民にお詫びするなど想像できない。

マレーシアではどうか? これもほとんど考えられない。雇用している会社(ここでは毎日)が被害者にお見舞いのことばを伝える、これは当然でしょう。人道的行為であり、そうあるべきだと思います。しかしその国の国民一般に向かって陳謝などするという発想は全くでてこないでしょう。なぜなら、ある個人が勝手に行ったしかし意図して爆発させた行動ではないからです(テロ行為ではない)。

マレーシアでは例えば官吏や社員の犯罪行為に組織体幹部が責任を取るなどというケースは極めて極めてまれです。一番いい例は、下級時には中級警察官が強盗、ゆすり、汚職などをして逮捕される記事を読むのはぜんぜん珍しいことではないですが、そういう時逮捕された警官の属する地方警察暑の幹部のことばは、残念だぐらいで終りです。時には州警察の幹部が全国8万の警察官の中にはそういう悪い奴もいるからそういう奴ははじき出さなければならない、ということばで済ます程度です。

確か昨年のことです。クアラルンプール近郊の警察署の留置内で勤務中の平警官が拘留中の違法滞在外国人女性2人を強姦した事件がありました。マレーシア社会の基準からいっても異常なる事件です。後日女性の訴えで警官は逮捕されましたが、上司が監督不届きで停職などの処分があったとか、警察の陳謝の声明などまったくありませんでした。

これに見られるように、組織に属する者が犯罪を犯してもそれは個人だけが責めと罪を負うべきであり、上部はほとんど責任を感じない(かのように見える)、すくなくとも外部にわかるような責任は取らない社会です(内部でお叱り程度はあるかもしれませんが、それはわからない)。

個人の負の行為に対して、その所属体が責任を共有し、深く陳謝を表明するというのは日本人の美徳であると考えられてきましたし、今でも多くの日本人はこの考えを変えていないと思います。日本社会の中ではそれでいいでしょう。しかし国外で同じことはすべきでないと、私は考えるものです。なぜならアンマンの行為などはまるで新聞社全体がこの愚かな行為(カバンに爆発物を入れた行為)に責めを負っているとか、日本人は個人の私的行為にも会社が責めを負うのだ、かのようにとられかねません。日本人の美徳観の真の意味を世界の多くの外国人が知っているなどとと決して期待してはいけません。

よく知られた例でいえば、外国で自動車事故を起こした時、加害者であっても決着のつく前に謝る行為は慎めというものです。これも日本人の美徳観をそれを理解しない外国世界で示しても意味がないだけでなく、不利時には不幸にもつながるから、この行為は慎みなさいというものです。
いろんな外国で過ごしてきた、多様な世界を見てきたものとして、私はここで書いたようなことを思うのです。いやそれでも日本人の美徳は国外でも示すべきだ、とお考えの方が多いのでしょうか?


本日はマハティール首相の勇退の日、それにちなんで


今日(10月31日)の午後マハティール首相が勇退し、その首相職をアブドラ副首相に譲りました。マレーシアの主要メディアは、もちろん全部を調べることはできませんから推測ですが、今日明日はマハティール首相勇退を惜しみその功績を称える声、記事、評論、に満ちているはずです。実に22年間という長期間国のトップ指導者としてありつづけたから、当然といえばまこと当然といえます。世界には20年30年と国の指導者に座っている(いた)者も決して珍しくはありませんが、選挙自体がない国、あっても名目・形だけの国、一党独裁の国、王族として終身指導者のような場合ばかりですから、国家とUMNO党のいくつかの選挙で勝ち抜いて政権を維持してきたという面で、確かにマハティール首相とマレーシアはその面でユニークであります。

当サイトはマレーシア専門サイトですが、まとまったマハティール首相論は一回も書きませんでしたし、避けてきました。その一番の理由は、個人評論は私の好みでないということであり、第2に もしマハティール論を書くならそれにはものすごい準備時間がかかるので、他に書きたいことに手が回らなくなるということがあります。世の中、英語、日本語で書かれたたくさんのマハティール首相論がありますので、それをお読みになってくださればと思っています。

読者の方であればお気づきのように、基本的に私は彼の崇拝者ではありません、といって マハティールの全てに反対 論者でもありません。「新聞の記事から」では是々非々でコメントしてきましたように、マハティール首相を手放しで誉める、評価する気持ちはありませんが、しかしながら彼のマレーシア社会と経済発展に貢献した功績と 敢然と伝統的西欧支配観特に米国流の世界観に反対してきた世界観には、うなづける点も少なくありません。

マハティール首相の根本に流れる、発展のためには言論とか表現とか政治活動などの面での自由制限思想は、日本で育ちヨーロッパの空気にも触れてきた筆者の思想とは合い入れませんが、世の反マハティール首相論でよく見落とされている点をここで一つ指摘しておきます。彼の独裁的傾向が指摘されることは珍しくありませんが、その独裁的傾向は彼独自のものではないということです。マレーシア社会の基底にそういう基層があり、彼はそれを利用し且つ流れに乗ったものであるのです。マレーシア社会は権威を好む、権威に依存する社会です、これは何民族、階層の上下、都市と田舎、与野党政党によらず同じ傾向ですね(31日付けの新聞の記事からでも触れています)。そしてこの点は極めて宗教的社会であることと同一の根を持っています(それが全てではない)。宗教は何教であれ、その権威を拠り所として成り立ち、権威を疑わないからこそ、宗教として集合体を構成しますからね。

こういったマレーシア社会を前提にしなければこれほど長期のマハティール首相は存在できなかったことでしょう、つまりマレーシア社会の基層と性格を見ずにマハティール首相論はなりたたないということです。単に彼の政策や論調を精微に論じても、マレーシア社会への深い理解が欠けておれば、それは木を見て森を見ずということですね。

今日をもってマハティール首相は政治のトップからは勇退しました、しかしその影響力自体がすぐなくなるようなことはないでしょう。多くの国民にとって、彼の存在はこの22年まさに当然のごとく存在していたのです。そして批判者を含めてある種の感慨が国内に満ちているのは、私も感じます。私がマレーシアに住むようになって12年ほどですが、その間彼は常に”そこ”に存在していました。筆者にとってもある種の感慨はあります。しかしそれはマレーシア人と同じものでないのは当然です。なぜならいくらマレーシアを論じようと関わろうと、”私は saya bukan orang Malaysia マレーシア人ではない” からです。

なにわともあれ、マハティール首相は優れたマレーシアと東南アジアの指導者である(あった)ことは、衆目の見るところと同じく私も同感です、そこでマレーシアマスコミと国民ほどではありませんが、賛辞もここに記しておきます。


次ぎの2編はずっと以前に書いたけど、結局どこにも掲載しなかった雑文です。

ミスコンの報道記事のスタイルに思う

新聞の記事を抜粋 
つい先日2003年Miss Malaysia/World が決定した。それに選ばれた23才のWong 嬢はその過程の全てを(思い出して)味わっています。そして彼女は12月に中国で開かれるMissWorldコンテストを楽しみにしています。「マレーシアは多民族国家で多宗教国家ですが、それにもかかわらず調和よく一つにまとまって暮らしていることを、示します。」と彼女は語る。
以上抜粋終り

こういったミスコンの記事をいつも”読まさせられる”者として、英語紙と華語紙はなぜしょっちゅう ミス何々 を大きく扱うのだろうと思います。別にミスコンが悪いとは思いませんよ。ミスコンとは、単に有名になりたい女性の品評会にすぎないのであり、そういう場を利用して商売・宣伝したい会社や人のビジネスの場ですね。だからそれに目くじらを立てるのはナンセンスですからね。参加したい女性、参加させたい組織団体・会社、ミスコン利用で商売したい会社はどうぞお好きに、です。

しかしジャーナリズムを名乗るマスコミが、これらの女性をまるで最良の人格を適えた模範女性かのように報道するのには、あきれを通りすぎてあほらしくなる。例えば、コンテストの過程で予選通過の参加者に必ず身障者の家や老人ホームを訪問させその様子を報道するのです。優勝したまたはコンテストに参加したこの種の多くの女性たちが、それぞれのコンテスト終ってから自分から進んでそういう施設をどれくらい訪れたかを調べて報告すれば、面白い結果が出るであろう。ジャーナリスムを名乗るならそれぐらいやってみろよ。

ミスコンとは別に無私の人たちの催しでも奉仕精神にあふれた人たちのコンテストでもない、数あるビジネス・娯楽イベントの一つである。それをわかっていながら、新聞がまるでミスコンの広報紙のごとく報道する悲しきあり方をここで突いておきます。このマレーシアを”代表する”Wong 嬢は中国でのMissWorldコンテストの場で、現代マレーシアのミスコンにはムスリム女性は始めから参加できないことを話すのであろうか?(注:マレーシア人口の約6割りはムスリムです)。最初から全ムスリム女性を抜きにしたコンテストの優勝者が ”ミスマレーシア”とはこれ如何に?


カタログ的旅行書籍の氾濫に思う

とくに頼んで購読しているわけではなくある経緯から勝手に毎月送られてくる、ある旅雑誌のメールマガジン(何号かは忘れた)に載っていた次ぎの一節が私の目を引きました。以下は引用:
「かつての編集者は、企画を立て、書き手を育てていくという役割を担っていた。しかし出版不況のなかで、編集部員は減らされ、そんな余裕がなくなってきてしまった。丁寧な本づくりは許されず、収益に追われる日々を強いられている。しかし事態はさらに進んでいる。最近、発行・発売の本が多くなってきているのだ。発行・発売というのは、出版社以外の会社が本をつくり、出版社は販売だけを請け負うスタイルである。中略  この流れは出版界の構造改革の前兆なのだろうか。事態はますます深刻になってきている気がするのは僕だけだろうか。」
引用終り

これを書いたのはアジア旅のライター・編集者として有名な下川裕治氏です。彼と多分同じ年頃から旅に出始めた私は同年代である下川氏を別段好きでも嫌いでもないのですが、彼のこの発言にはなるほどと思いました。

日本の書店に並ぶ旅行書籍類の中には、きれいな写真を一杯並べパンフレットを切り貼りしたような文句を散りばめたカタログ的旅行書が並んでいるのをよく見かけます。つまり、対象国・地域の深い知識や充分なる旅行経験がないくせに知ったかぶりの断定調で書いている自称ライター、旅が本当に好きでもないのにただ英語ができるということで仕事している者、学生時代ちょっと海外旅行したことがある程度のパートタイマーが、観光局や高級ホテルや現地旅行代理店の協力に依存して作っているような、独自取材情報満載を歌うが実質は宣伝・広報に満ちた書籍ですね。(宣伝・広報が悪いということではなく看板に偽りありということです、最初から観光局、代理店監修とでもすればいいのだ)

たかが旅行書籍というなかれ、他のいろんな分野と同じく、ある国・地方の通になるとか旅を専門に語っていくには、それなりに何年もの年月を旅に費やす必要があり知識収集に手間暇かかるものなのです。カタログ的旅行書籍の氾濫は、下川氏の言うように、地道にライターを育てていくことができなくなってしまったことの一つの現われでもあるのでしょう。



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