・ マレーシアにありそうでないもの、なさそうであるもの ・ PAS党について再度語る ・
自由旅行の案内と理論(前編) ・ 自由旅行の案内と理論(後編) ・ 中等教育での職業・技術教育を概観してみる
・ マレーシア人にとっての家族観とその範囲 ・ 学校でのしつけ教育と宗教に期待する割合
・ マレーシアで医者と歯医者にかかる ・ マレーシアのマスメディア
今年中に必ず総選挙があるといわれ、それはそんなに先のことではないと言われています。政権与党で与党連合バリサンのかなめであるマレー人政党のUMNOも選挙準備に力を入れているそうです。
これは野党がすでにしきりに選挙近しとして準備にはいっているものと同じで、政党としてはあたりまえでしょう。第一野党のDPA、華人基盤で長年野党第一党ですが、はこのところ内紛騒ぎが目立つ、そして刑務所に入っているアンワルにかわって彼の妻が党首を務める数ヶ月前にできたばかりのKeadilan は党員を増やしているそうです。何でもその数20万人以上とか。Keadilanについては西側マスコミがアンワル事件以来大きく扱っているので、名前を知らなくてもそういうことを知っている外国人は多い事でしょう。
筆者はここで政治情勢分析をやろうとしているわけでも、政党の動向を解説しようとするつもりもありません。マレーシア政治自体に筆者はそれほど大きな興味はないし詳しいわけでもありませんからね。それに読者のとってもこういうことは退屈な話でしょう。
でなにがいいたのか? それはマレーシアの民衆というよりマレー民衆に起きているのではないかと推量される意識変化(おおげさな言い方で、早く言えば支持政党の変化)が筆者には少し感じられるからです。それはPAS党の著しい活動です。PAS党については4月5月収容のコラムで軽くお伝えしました。それを参照してください。
また最近の新聞に載った、PAS党の思想の一端を示す記事から部分翻訳紹介しておきます。
クランタン女性が選挙の鍵を握る(見出し)
クラランタン州の女性はいろんな意味で多くの注目を浴びる。彼女らはマレー女性中もっとも美しいと言われ、さらに最も起業家精神に富みよく働くと言われている。
しかしPAS党の握る州政府の方針で、クランタン女性はかってない注目にある。最初、クランタン女性は家を出る時は必ず Tudungスカーフを身に付けねばならないとされ、次に働く時には化粧をするなと言われている。そして最近州首相は、もし家庭が豊かなら母親は働いてはいけないと言ってます。これらの見解に続いてこのイスラム原理主義政党は、PAS女性党員は選挙に出馬できないといっています。
PAS党のその方針では、女性は守る対象でありその尊厳をもっとも尊ぶ、と正当化しています。「イスラム教はこう教える、男女の望ましくない関係に結びつくものはすべて抑えなさい、」 と州首相。さらにPAS党は州内のスーパーマーケットの支払カウンターを男女別にする、映画館は電気を消してはいけない、という規則を決めたのです。
PAS党の女性幹部は、党は女性を差別しているという非難を一徹して、それは与党連合UMNOの知的不十分さだと言ってます。このPAS党員で上院議員は、「党が女性に働かないように勧めているのは差別ではない、女性の一番の役割はどの様な観点からいっても、子供の世話をすることだ。それが古代から人間の一番の責任だ。」
「現代、多くの社会悪が家族のつながりのなくなっている事からおこっている、と人々は認識し始めた。もし両親が子供と過ごす時間を増やせば、そういう社会問題は劇的に減る。」 さらに州首相の、女性は労働時化粧をするなについて、このPAS党幹部女性はいう、女性美はその人の夫のみに賞賛されるべきである。「神はその美しさを夫のために創り出した。そして夫だけがそれを愛でるのである。」 「もし女性が化粧して美しくみせれば、他人の夫や男性をひきつけることになる。」
以上The Starの7月初めの記事から。
PAS党はイスラム国家の樹立を目標にし、公然とそれを訴えているそうです。それに対して選挙協力を模索している野党のDAPがそれは到底受け入れられないといってるのですが、PASはそんなことにひるむようなやわな政党ではありません。
新聞の伝えるところではPAS党は、深マレー州であるケダー、ペルリス、トレンガヌ州で集会を毎日開いており、それにはいつも多くの人々が集まっているとか。もちろん州政権を握っている PASの牙城でもあるクランタン州はいうまでもありません。次の選挙でPASは上記4つの深マレー州、マレー人が圧倒的多数を占める州のこと、でUMNOを上回る議席を揚げると意気込んでいるそうです。
ここで外国人にはほとんど理解できない事でしょうが、争いの本質的違いは政党の政策ではありません。宗教、つまりイスラム教を盾にした戦いなのです。UMNOにとって本当の敵はマスコミで華やかに伝えられるアンワルとその支持者たちでなく、UMNOを草の根で支えるマレー民衆を獲得しようとしている PAS党なのだ、と筆者はなんとなく感じます。
ある新聞記者が書いています、「イスラム政党としてのPAS指導者は神を持ち出すことの誘惑を決して隠そうとしません、ちょうど党の精神的指導者でクランタン州首相であるNik Aziz氏の党の政策を守るために(宗教の)宣告を発するのと同じように」と。
さらにこう述べています。「マレー人が宗教として姿を変えた感情により傾くいていくという、将来の選挙の哀しいシナリオがゆっくりと実演されているのです。そしてこの状況は将来にさらなる過激主義者を育んで行くのです。」と。
ちょっとまわり持った言い方でわかりにくいのですが、いわんとすることは、要するにどちらの政党がよりイスラム的であるかを競うようになるのではないかという心配を述べたものでしょう。
続けて「PAS等にとって与党連合Barisan Nasionalとの戦いは決して楽ではないが、宗教的政治の犠牲者になるのはマレー人なのだ。それがPASに増殖されようとUMNOに増殖されようとだ」と書いてます。
「もし宗教が権力のために政治的指導者に用いられる又は誤用されると、選挙に勝つ事は多民族社会にとって意味を失うであろう。」
筆者にはこの新聞記者の憂慮はわかります。イスラムを国教にしイスラム勢力が主流である国で、イスラムをよりイスラムである事を強調すると、それがイラン型になるのではないかという考え、マレーシアを治めるのは究極的にムスリムであることはほとんどの人が認めており、それはアンタッチャブルなのです。それなのに我党こそ真のイスラム政党であるというPASが力を持てば、多民族融和のために強烈なイスラム色を出さないようにしているUMNOにとって不利以外のなにものでもありません。なぜならUMNOを支える草の根民衆は素朴な地方のマレー民衆が中心の一つであり、その草の民をPASに失う事は、重大な問題なのです。マレー人中流階層だけの支持ではUMNOは持ちませんからね。
そこにUMNOの危機感が感じられるのです、と私は分析していたのですが、この記者のいうところは的を得ているのではないでしょうか。
これを読んでいただいている日本人のほとんどの方は PAS党を御存じないでしょうし、興味ないことは想像できます。なぜならマレーシア在住者もそのほとんどは西海岸の街や都会に住み、日頃の交際範囲も英語をよくする華人や中流マレー層が中心ですし、例え工場でマレー人がたくさん働いていても、本当の末端層と交流する事はきわめて少ないでしょう。
旅行者が旅で東海岸へいって多くのマレー人に出会ってもそれは旅のひとこまであり、そこに彼らの思想・心情を感ずるるまではとてもいかないでしょう。これを書いている筆者自身マレーカンポンで敬けんなマレー人と交流した事は全くありません。はっきり言ってそうすることは難しい、彼らの考えを知ることができてもそれを理解することは尚更難しいのです。
何かことが起きると近隣国から飛んで来てニュースを取材する外国人記者ではとても計り知れない、草の根マレー民衆の心理がそこにはあります。PAS党をたんにイスラム原理主義政党と定義するのは簡単ですが、じゃなぜそういう政党をマレー民衆は支持するのかです。
PAS党はクランタン州以外の州で国会にも州議会にも議席はごく少ないのですが、選挙区での得票率は、UMNO候補者の8割から5割くらいは取るのです。国会の議席数だけでは計り知れない強さを持っているのです。PAS党の週刊機関紙 ”Harakah” は今や多くのキオスク・新聞販売店で売られています。クランタン州では英語の新聞はなくても Harakahは置いてあるぐらいです。それぐらい売れているのでしょう。半島北部諸州を旅すると、PASの緑地に白丸党旗がこれまた至るところに掲げられています。その精力的な活動は確かにすごいです。
こういうPASに引き寄せられるマレー民衆の心情は何なのでしょう。単にイスラム原理主義を支持するからだけではありません。それ以外の何かがあるからです。UMNOの発展主義に反発がある、UMNOの政治家は腐敗している、UMNOの政策で潤ったものはわずかだ、などという批判があるのはもちろん知っています。しかしそれがすべて当っているとは思えません。 PASが政権を握ったら、外国投資家は二の足を踏むでしょう、マレー民衆でもそれはご存知でしょう。ですから、このマレー民衆の心情が筆者にはよくわかりません、残念ながら。
日本にはマレー研究者はたくさんいらっしゃいます。マレーカンポン住み込みで研究されている方も当然いらっしゃることでしょう、そういう方に是非お願いしたいのは、その研究成果をもっと人の見えるところに出してほしいということです。マレーシア在住 Sさんのようにホームページを持ってその一端を発表されている方は少ないと思います。大学の紀要や研究者間の発表雑誌だけでなく、わかりやすい言葉でそれを人の目に入るところで発表してほしいのですね。そうすれば、筆者を含めてマレーシアに関心のある人の知識向上にも役立つと思います。マレー民衆の心理が良く分からない筆者はそう願っています。
日本はもう夏休みですね、海外旅行が手軽になった現在、ちょっとシンガポール、バンコク、香港までという方が多いことでしょう。そこからもう少し足を伸ばせば、マレーシアです。上記の場所に比べれば日本人旅行者にとってまだまだ気軽さと親しみに欠けるのは残念ながら認めますが、マレーシアは捨てたものではないのです。
さて旅行のスタイルが多様になった現在、パッケージでも変化を付けたツアーがあるそうですね。遺跡を訪ねるとか、音楽コンサートだけを聞きに行くとか、グルメだけを楽しむとか、でも筆者はそういうパッケージツアーには全く詳しくないので、パッケージツアーはとりあえず置いておきます。自由旅行に絞ってみます。
筆者は自己紹介のページにも書いたように、1975年以来一貫して世界を自由旅行してきた現役の旅人ですから、旅について語るとなればひとことでは済みませんが、ここではそういうことを述べるのでなく、マレーシアを主にした東南アジアの自由旅行について、案内、理論、筆者の考え、初心者へのアドバイスを書いてみましょう。
学生時代や20代のうちは確かにバックパッカースタイルも気にならなかったしそういう旅したが、30才過ぎるころからはもう少し違ったスタイルで自由旅行を楽しんでみたいと思ってる方もいらっしゃるでしょう。パッケージ旅行は何回も参加したので、ここらで自由旅行を試してみたいという方もいらっしゃるでしょう。さらに若い時は個人で旅したが結婚した今は夫婦で自由旅行したいという30代の方、そういう人たちに送る旅人 Intraasiaの 30才過ぎてからの自由旅行の案内とすすめです。
自由旅行するとなると、まず自分たちでフライトを見つけなければならないのですが、旅行代理店はどこにでもありますから、それはまったく障壁にはならないでしょう。今ではインターネットで予約も受け付けるようですしね。マレーシア往復の切符価格なら代理店間でもせいぜい数千円ぐらいの差ですか?筆者のアドバイスは、自分の日程と出発地を優先して決めるべきで、たとえ切符が数千円年安くてもその差などすぐなくなりますからね。
次はマレーシアなど東南アジアのどこへ行くかとどうやってホテルを見つけるかです。どこを訪れるかは、それこそ旅する人の興味と日程と予算次第ですから、人様々ですが、まず旅行の目的をはっきりさせることです。これが案外できていないみたいです。限られた日程で広いマレーシア全部回る事は不可能、ですから旅の第一目的は何かをはっきり決める、認識する事です。そうでないと「どこへ行ったらいいですか?」という、誰も答えられない質問になるのです。こういう質問に答えるのは、無責任の証明ですよ。
青い海と白い砂浜でのんびりしたい、それなら半島部であれボルネオ島部であれ、離島又は人里離れた海岸に限ります。都会は飛行機の乗り換えだけで、まっすぐ海岸へ直行すべきです。どの宿にするか、日本の雑誌はよくリゾートを写真付きで紹介してるようですが、参考にすればいいのです。ただそういう取材記事は書いた人がマレーシアに詳しくないことが多いようで、深い事はまったく書いてないでしょうし、書いてあってもそれはどこかの孫引きでしょうから、時にはとんちんかんな記事になります。まあ、どっちみちそういう雑誌の記事に精密さや深い取材はもとから望まれてませんから、それを責めているのでなく、そういう出版物だという事です。
取材でお世話になったリゾートの目に見える部分を示しているだけで当たり障りのないことし書かれてません、ですからそういう雑誌記事を参考にされる場合は、データと写真だけ見ておけばいいのです。カタログみたいなものです、レストランで何がお勧めか、部屋の様子は、どんな施設があるか、そんな程度ですね。
ガイドブックになるともう少し情報が載っている本もありますが、その情報を書いた人がそのリゾートに何回も泊って書いたものと考えたら大間違いで、何十もあるリゾートに全部泊って試してみるなんてことはできないし、実際そんなことはまともに考えれば、不可能なことはおわかりでしょう。ホテルのパンフレットから、スタッフからの聞き書き取材です。もちろん実際泊って書く場合もあるでしょうが、1年の様々な時期に訪れるわけにはいきません。これはどのガイドブックであれ取材者(筆者を含めて)であれ同じですし、当然ですよね。ですから時には書かれた内容と違う場合がある・起こるのは避けられません。例えばあるレストランがなくなっていたとか、設備が変わっていたとか、値段が改訂された、天候の記述がおかしいなどです。
こういうことを頭にいれてリゾート選びは決めてください。もちろん実際に泊ったことのある人に聞く、評判を信用するなど決める際のきっかけは複数ありますね。料金ですが、マレーシアの場合、タリフといわれる公表部屋料金と現実に適用している料金に相当違いがあります。適用料金は年毎いくらか上下しますが、ホテル過剰時代の今日、タリフよりずっと安いのがほとんどです。飛び込み又は現地の代理店を通じての予約の方が日本からの予約よりずっと安いのが普通です。もちろん例外はあるし、超高級リゾートは値段を落とさないでしょう。
自分で行動できる人であれば、マレーシア現地で予約した方が安く付きます。それだと望むリゾートが満室でそこに泊れないという場合も出てくる可能性はありますが、マレーシアの旅行シーズンと年末・クリスマスをはずせばそれほど可能性の高いものではありません。そのリゾートでなく隣りのリゾートでもいいというぐらいの気持ちであれば、日本からの予約などまず要りません。自由旅行される方はできるだけこういう柔軟さを持たれたほうが、何かにつけ旅がしやすくなります。
さてじゃあ、リゾートまでどうやて移動するかですね。リゾートの場合大抵、空港からなり、波止場からなりそのリゾートのバン・小型バスが送り迎えしてる場合があるし、なくてもタクシーで簡単に行けますから、リゾートに到着する事自体難しくはありません。問題はバスで列車でそのリゾート近くの波止場、町まで行く方法です。この方法を取る場合は、まずクアラルンプールなどで1泊する必要が出てきます。そういう時にガイドブックの町と交通案内が役立つわけです。しかしガイドブックであっても、限られたスペースと、時には取材者の取材能力不足から的を得た記述でないことがよく見受けられます。ここが多くの自由旅行者のネックになる事はわかります。
これを批判する前に、自由旅行しようと思う人は、単に書かれたものを読んだからすぐ実行できるわけではない、ということを認識しておく必要があります。街は生き物ですから、自分の思い通りに動けない、それは当然です。これを最初からあきらめるか、それにチャレンジしていくかによって、自由旅行を楽しめるか楽しめないかが変わってきます。誰であれ、最初からガイドブックに書かれたように行動できません。これをよく認識しないと、不満ばかり残るわけです。自由旅行はある程度の諦めをかならず必要とします、つまり目的としたことができなかったけど、それは次回の肥やしになるという気持ちです。そう試行錯誤して自由旅行の技術が上昇していくわけです。
またガイドブックの中には、その国、町に詳しくない取材者が書いたものがよくありますので、肝心な点を飛ばしていたり、間違いを書いている個所もあります。これを見極めるのは確かに難しいです、筆者のようにマレーシアを中心とした東南アジアにある程度通じていれば、どこがおかしいか不十分かすぐピンときますが、普通の旅行者がそれを発見するのはまず不可能です、ですから100%ガイドブックに頼らないということです、つまり人間誰でも間違いはあるということを頭において、ガイドブックを見てください。これはガイドブックが宛てにならないという事でなく、その国・町をよく知らない人はガイドブックを参考にすべきだが、それに全てを頼らないという姿勢を持つ事です。
自由旅行を楽しむためには、当然ながら汗がつきものです、とまどいも出てきます、失敗も重ねます、人生と同じで全てが予定通りいくわけありません。これをしっかりと認識しないと、あれができなくて、又そこへ行けなかったという悔いだけが残り、自分で行動した苦労の成果が失われてしまいます。これができない人は、厳しい言い方ですが最初から自由旅行をあきらめるべきです。
さてマレーシアなど東南アジアの都会を町を田舎を歩く場合です。日本と違って交通法規遵守精神がまだまだ薄いですから、特にバイク、交通事故に一番気を付けてください。多くの旅行者は一般に飲食物を一番に心配し勝ちですが、もちろんそれは必要ですが、それよりも気を付けなければならないのは交通事故です。事故は時間差がありません、日本のように救急車を呼べばすぐやってくるなんてことは稀です。食べ物で問題があってもそれは治療する時間があります、事故はないのですよ。特に山間僻地なら病院までいくことさえたいへんですから。
事故にいくら自分だけが気を付けても、乗っている車なりボートが事故を起すことがあります。これは自分では防げませんよね。できるだけ安心できそうな交通機関を選ぶ、としか言えません。しかしこれも選択の幅がきわめて限られている場合も多いので、そういう場合はそこへ行くことに、何万分の一か何十万分の一かの危険性を覚悟する必要があります。例え何十万分の一の危険性でもいやだ、という方はそこへ行くこと自体をあきらめるしかありません。冷たい言い方ですが、これが現実です。この現実をちゃんとわきまえること、それも自由旅行には必要です。
筆者はあえて不安感に見廻れながら交通手段を選ぶこともあります。しかし最後はある種の諦めです。これを持たない限り、人のやらないことをやる行かない所へ行ってみる、そういうことにチャレンジはできません。ここまでやる人はごく少ないでしょうが、例え一般的な交通手段でもなんかの時には交通事故を起すのは世界共通ではないでしょうか。その時自由旅行自体を責めるのでなく、知らない国・地域では起こり得ることをあらかじめ認識しておくべきです。それが受け入れない方は、始めから出かけないことです。
犯罪にあうことが心配という指摘があります。旅行者の立場になってみるとわからないでもないですが、第一の原因は旅行者側のすきです。もちろん普通に道を歩いていていきなり強盗に出合うという可能性がゼロとは言いませんが、そんなこと考えたら、日本でもありますよね。そうではなくて、何か隙があるのでつまり対象になり易い行動をとるのです、甘い言葉で寄って来る人についのってしまう、大体見ず知らずの人が旅行者に頼まれもしないのに寄ってくるのはおかしいです。ハンドバックをこれ見よがしに持っている、まあ持っていてもいいがそこに現金・カード・パスポートを入れておく事が問題なのです、この3つは必ず身に付けておく、バッグ・鞄内には万一取られていいものだけにする、もちろんホテルの部屋の置いた鞄に入れっぱなしもだめですよ。
金銭を伴った男女一次的交際でトラブルに巻き込まれる、東南アジアの若者に夢中になる、こんなことは100%自分の責任で、他人に責任をなすりつけるなんてもってのほかです。やりたければ、というよりやるなといってもやる人はいますから、やればいいのであって、ただし100%個人の責任においてする、男も女も後始末は自分ですること。そう思いませんか?
こういう基本的必要なことを守ればほとんどの不幸な自体は防げるはずです。100%の安全は日本の路上でもないし、それを求める事はナンセンスです。普通に歩いていて普通にショッピングしていて災害にあうことまで、防げないのはマレーシアであれ、フランスであれ、シンガポールであれ同じです。こういう当たり前のことを理解していただかないと、あそこの国は危険だとかあの都市は危険だなどといった、我が身のことを忘れた発想につながります。とっぴもない行動をして失敗すれば、それはそれをした人の自業自得であり、責任をその国その町の状況に押し付けられるのは、はなはだ迷惑です。
中にはこういう目にあうと、旅行代理店や参考にしたガイドブックに責任をなすりつける人がいるようですね。知り合いの代理店の方もそう言ってられましたし、ガイドブックの注意事項の過剰強調もそれを現しています。代理店は非難や責任追及を逃れるためにひたすら無難なことしか勧めないし、ガイドブックはこんなことも必要なのかという注事項をでかでかと繰り返し、読者の非難をかわそうと自己防衛せざるをえなくなります。これは旅行者、代理店、ガイドブックのどれにとっても残念なことです。
せっかく訪れてほしいところがあっても、代理店は紹介しない、ガイドブックは書かないか簡単にすます、旅行者はそれを知らない、この繰り返しです。最初に書きました様に、ガイドブックに全てを頼るという旅行者の思考そのものに問題があるのです。参考にし、それを行う場合は自己の責任において行う、それができない人は自由旅行など最初からやらない、こういうことが守られない限り、ガイドブックや代理店の過剰自己防衛は進む一方です。
Intraasiaは旅行者ページで多くの旅行情報を載せていますが、自由旅行する人が無責任な行動や無謀・不注意な行動することまで、責任を感じるつもりはさらさらありません。反対にそういう風潮に強い反発を覚えるものです。だから非難逃れに過剰な注意事項を書いたり、せっかくの見所を飛ばすようなつもりはありません。もちろん明らかに危険がある場合は、ページに注意書きして、それを認めた人だけが行くように、と書いています。もっともそういう場所ははじめからほとんど載せてません。
とはいうものの若いうち、つまり20代のうちは無謀なことをしがちなことは、わかります。筆者も苦い経験はいくつもあります。例えば、その昔初めて行ったインドネシアのジャカルタで、暗い夜道を安宿探ししていたら、路上警備の警官に、「お前、よく刺されなかったな」といわれて肝を冷やしたこともあります。後年考えると数々の無謀なことをやり、よく無事でいられたなと思ったこともあります。このように無知から無謀行為をするのは、”青春の特権”でもありますが、情報の発達した今では、「青春の特権だから仕方がない」とばかり言ってもいられません。
筆者の青春時代は情報がなくて手探りで探した時代です、ですから上記のようなこともありましたが、今ではその手の情報もあふれています。若い自由旅行者の数は20年前とは比べもののないほど増えています、それは多分に金の余裕面が出たからですが、それに寄与したのはなんと言ってもガイドブック類の多種多様な出版です。この書かれた情報によって、全くの初心者が、昔ならある程度の経験者しか行かなかったようなところへ出かけていくのです。筆者が彼らに訴えたいのは、「それはあなたたちの旅技術の向上のせいではなく、単に与えられた情報に頼っているだけですよ、それを自覚して行動してください」ということです。
初心者がいきなり、危険度のちょっと高いことをすることが増えたのは事実ですね。基本的な宿探し術、言語力、行動力、知識、保身術を取得せず、そういうことをする、耳からの情報のため自分でもできると思い違いしている、過信している、そういうことがあるように思えます。これは現代旅行社会・情報が発展したおかげの負の面でもあります。かつては少しずつ難度の低い旅から難しい旅に向かっていたのに、今では最初からC難度を狙う人が増えているのです。若さゆえそういうことをする、というのはわかりますが、でもあまり背伸びしないでくださいね、痛い目にあうのは自分ですよ。
失敗とか被害に関していえば、逆説的な言い方をしますが、小さな失敗・被害は旅を始めた早いうちにであった方がいいということです。例えば、筆者は昔ポルトガルの地下鉄車中で、集団スリに小銭入れをスラックスのポケットから抜き取られたことがあります。筆者は昔からポケットに入れるのは小銭だけで、札はその日使う分ぐらいだけ財布に入れ、ボタン付きの胸ポケットに収めているので、実害はほとんどなかった。この例でいえば、どういう時に集団スリに狙われやすいか身をもってわかったのです。小さな被害をその後の旅に活かせることになりました。
人間誰でも油断する時はあるし、注意が薄れる時があります、そういう時大きな被害を被らないために、基本的な保身術・防衛手段を必ずとっておくことです。万一空港・レストランなどでふっと気を許した瞬間置き引きにあったとしても、カバンにパスポートや現金・カードを入れておかなければ、不便になるし損害はあるが旅は続けられる又は日本へそのまま帰れます。
このように万が一を想定して、その被害を最低に抑える知識とその実行は必須です。ただ残念ながらこれが徹底してないから大きな被害を受ける人が出てくるわけです。自由旅行者たらんとする人は、普通程度の注意をするのはもちろんですが、100%の防御はないということも認識しておくべきです。万が一の時でも被害は最小に抑える、そういう基本的防御術を実行してください。
ところで普通に物を食べていれば、食べ物にそんなに気を遣う必要はないと思うのですが、見ているとそうも行かないようですね。旅する人が日本で普通の暮らしをしている人であれば、旅先の普通の人が食事しているところで食べる、食べてみるそういうスタイルが自由旅行の楽しみだと思います。 もちろんグルメに絞った自由旅行でもいいでしょう、それこそ個人の自由ですから。必ずそうするべきだなどというつもりはありません。
食に関して個人の好みは当然違いますから、その国の料理になじめないという人もいらっしゃるでしょう。そういう人は当然自由旅行にそれなりの行動の制限が出てきます。これも御自分であらかじめ認識することがらですね、できそうにないと思ったら、あまり無理しないということです。
本格的に自由旅行をやってみたいという方であれば、まず自分の味に固執する気持ちを減らさなければなりません。短い旅行期間中ですから、その間は自分の味覚・好みから離れてみる、そういう柔軟な姿勢がどうしても要求されます。そうでないと、自分の味覚にあったところばかりを求め、見つからないから気分を害し自由旅行どころでなくなる、当たり前ですが、食にある程度満足できないと旅は面白くなくなるものです。ですから食の面はたいへん重要です。 どうか御自分でよく判断してください。自分の味覚に固執することから離れられないのか離れられるのかを。それによって自由旅行の組み立てが相当違ってくるのです。
さて30才を過ぎればもう若さゆえの”暴走”はなくなるでしょう。筆者も無知からの無謀さはなくなりました。あえてやることはあってもそれは、起こるかもしれない結果をある程度覚悟の上のことでしたから。
30才過ぎて始めて自由旅行する人にとって、きっと初めは安宿は絶えられないことでしょう。そういう初心者の方は初めから安宿に泊らないことです。エコノミークラスのホテル、部屋内にシャワー・トイレがあり冷房付、形だけでもロビーがある程度のホテルです。こういう所に何回も泊った後、それよりも多少程度を落とした宿に泊ってみるのです。そうして少しづつショック感をなくしていきます。
本格的に自由旅行するなら、どうしても安宿に泊る必要が出てくることがあります、田舎のぽつんとした町に泊る、他の中級ホテルは満室だった、予算を抑えたいなどという理由からですが、こういうことに慣れておかないと、行動が限られてしまいます。ある程度のホテルのある所にしか泊れないでは、本格的自由旅行ははっきり言ってできません。もちろん本格的などやるつもりのない人は別ですよ。
バックパックカー旅を経験した人ならそうでしょうが、学生時代や20代中頃までは安く泊れればどこでもよかったが、30才近くになれば、安かろう悪かろうの宿に泊ったりすることにちゅうちょ感がでてきても不思議ではありません。筆者の場合は少し遅くて35才近くになってからでしたが、ただ今でも他に選択がなければ、国によっては1泊数米ドルの宿にも泊ります。安宿に泊るのが否だからといって、目的地を変えるようなことはめったにありません。
安宿と聞くと知らない方はものすごく心配されるでしょうが、ある種の危険な宿を除いて、現実問題ほとんど心配する必要など筆者は感じません。むしろエコノミークラスのほうが要注意のことがあります。こういった安宿に泊る時、警戒心を見せてはだめです。警戒心を見せればいかにその泊まり客が他人と変わっているかを証明するようなものです。普通の注意程度で自然体で泊ることが一番いいのです(難しいとは思いますけど)。早く言えば、盗まれてこまるような物を持ってなければ安宿はたいして心配ないのです。
エコノミークラス以上になると、中には金目の物をもった泊まり客がいますので、時には悪質な従業員や泊まり客がいないとも限りません。でもそんなことわかりませんから、自衛するしかありません。すべてのホテルに共通することは、部屋に置いたバッグに金目の物を残さない、例え5分間部屋を離れる時でも、貴重品は身に付けるという習慣を身につけることです。筆者も留守中にバッグ内が調べられた形跡を見つけたことは数回ありますが、盗まれたことは一度もありません(一時預かりに預けていたバッグからラジカセを盗まれたことはある)。金目の物とか盗む価値あるもの、つまりパスポート、現金、旅行者小切手、航空券、カードの5つは常時絶対に身につけていますから、被害は受けなかったのです。着古した衣料、洗面道具や日記、メモ、資料など誰も持っていきませんよ。
現代の旅行者はお金持ちだから、CDウオークマン、電子手帳、ノートパソコン、高級カメラなど旅行に携帯している人が結構いらっしゃるようですが、結局のところこういうものは盗難・強盗の対象になることは頭に入れておいてください。部屋を離れる時これらを全部携帯しない限り、防ぐ手段はないといっても過言ではありません。
本格的に自由旅行するなら、結局こういうものは携帯をあきらめることです。「そんなこといやだ」と言われても、これの解決策はありません。要するに何に優先順を与えるかです。上記のものはなくても充分自由旅行できます、ない方が身軽且つ安心感が出る、確かに現代の高機能道具類はあればあった方が便利でしょうが、盗まれやしないかとの心配と、スペースと重量をとる荷物となり、自由な行動を制限しますからね。
こういう高価なもの、例え高価でなくとも盗みの対象になる物、をどうしても携帯したければ、中級以上のホテルばかり泊るしかありません。それでも100%安全ということはないでしょうけどね。
安宿の中にバックパッカーの好む外国人専用のような宿があり、ガイドブックに紹介されているのでそういう所にたむろする又はそういう所を好む若者が多いようですが、筆者はまったく逆です。どこへ行っても同じような人間と交わり、英語文化を持ち込んでいるこういう宿泊場所は、まったく筆者の好みではありませんが、まあ若い時の一時期ならいいでしょう。30才過ぎてこういう場所に泊る方はあまりないでしょうが、こういう所にたむろする不良白人、その国の文化をまったく馬鹿にした態度をとりただ安いからだけで長滞在してる奴等のこと、とは付き合わないことです。タイにはこの手の白人が特に多く、その手の宿はまたたくさんあるのです。
宿を捜す場合は、もちろんガイドブックのお世話になってもいいですが、別になくったって実際問題たいして困りません。「そんな!」という方はどうぞ参考にしてください。ただしその記述は鵜呑みしないこと、そして自分の目で見て決めること、こういうことを重ねていけば、多少は安宿やエコノミーホテルを探すこつ、見る目が出てきます。もちろんそうだからといって100%見分けられる、成功するわけではありませんよ。
ガイドブックに載っていない町で宿探しはどうするか、もちろんタクシーで訪ねれば一番簡単ですが金がかかる、そういう時は、宿は人の集まるところの近くにあることが多いですから、その場所をまず聞き出しその当たりを歩いてみます。宿は何軒かあるでしょうから、1軒1軒訪れて見てから決めればいいのです。最初に訪れた所が気にいれば、それに超したことはありません。
中程度の町だと、町はずれに中級ホテルがあったりしますから、そういう時はタクシーなり乗合い交通機関を使わざるを得ません。ただ慣れてない人はタクシーに限りますね。
こういう宿探しで必要なことは、どこかで妥協する決断をしなければなりません。自分の希望する程度でなくてもしかたありません。だから上記で述べたように、どこかまで柔軟に対応できるかが、自由旅行の出来具合に響いてきます。たかが一晩ぐらいこれで我慢しておこう、という気持ちこれが大事です。
こういう宿探し時にも響くのが旅行者の携帯する荷物の量と重さです。自由旅行する人でまさかスーツケースを抱えている人はいないと思いますが、ごろごろ引きずるキャスター付きはまったく不向き、あれは1個所ある程度のホテルに滞在する人向きです。バスや電車に乗り荷物を抱えて町を歩く自由旅行者には、背負うタイプのバックパックかショルダーバッグの2種類となります。現実問題、このどちらかでないと行動自体がものすごく制約されますしね。
どちらにするかは個人の好みですが、筆者は断然ショルダーバッグ派です。理由は町歩きでも違和感を感じないからです、若い時はバックパックもありましたが。まあどちらでもお好きなスタイルをどうぞ。それと大切なことは必ず両手を空ける、ということ。せっかくバックパック・ショルダーバッグにして手を自由にしたのに、サイドバッグを持ちさらに袋をなんて人をよく見かけますが、それじゃバックパックの意味がない!。
それと大事なことはバッグの重さ、私は山岳育ちだから30Kgを背負っても平気で何時間も歩けるという人は別にして、男だったらせいぜいバッグ自重いれて10数キロが限界でしょう。女性なら10Kgを超えないことです。そうでないとバッグを背負う又は掲げることに疲れてしまうからです。ちなみに筆者は、1週間以上数ヶ月以内の東南アジア旅行なら、バッグ自重を入れて8Kgを超えることはありません。寒いヨーロッパなどへ行けば衣服の量と重さで多少増え10Kgほどになります、
だいたい2週間から1ヶ月程度の旅行で10数Kgを超えること自体が、荷物が多すぎる証拠です。特別な道具類を携帯せざるを得ない人は別にして、普通の自由旅行者がこの重さを超えることは、その荷物構成に余分がありすぎるのです。身軽に移動しようとしたらこの法則は重要ですよ。御自分の荷物を見直してください。東南アジアを旅行するのに、アイロンも化粧道具一式も変圧器もいらないのです。衣服も下着も替えの2着程度で充分、必要なことはこまめに洗えばいいのです。自分で洗うか、街のクリーニング屋で頼めば、高くても1着100円もかかりません。
それと自由旅はファッションセンスの見せ場でありませんから、カッコ良すぎる衣服スタイルもちょっとですが、といって、いつもよれよれでうす汚れた姿をしていることにも、どうも感心しません。「俺は貧乏旅行しているんだ」と衣服から主張するのは、まあ25才前までの若者に任せておいて、30才過ぎた旅行者は普段着のスマートさでいきましょう。高価すぎず、汚すぎずいつもの服装でが一番いいのです。そうすれば持っていく衣服の量も減りますよ。
涼しいところへ行くから急にセーターが必要になるかもしれない、それならスーパーや屋台で買えばいいのです。タイなら数十バーツから売ってます。いらなくなったらポイ、たった1回だけ着るセーターのためにわざわざ日本からかさばるセーターを携帯して持ち帰るより、よっぽどいいのです。1回しか使わないかもしれないために貴重なバグのスペースと重さをとられるのは、動き回る旅行者には賢い方法ではありません。1個所滞在型の旅行者は別です。
東南アジアの町なら普通の自由旅行者が日常必要な物は入手できます。好みの銘柄と種類がみつからないことはあっても、その物自体が見つからないことはまれです。僻地に行く前に安いものを買い、いらなくなったら捨てる又は人にあげる、そういうスタイルにするのです。好みに固執しないこと、これは大事なことです。
ジャングルトレッキングするからキャンプ用具、ダイビングするからダイビング用具を持ちこむ方でも、それを預けておくことはできますね。一時荷物預かり所か泊った宿に頼んでみるのです。盗まれないためには、まあ高価なものをもともと持ち込まないしかありませんな。
とにかく筆者の見るところ、ほとんどの自由旅行者の荷物は多すぎますね、あれでは自分の行動を制限してるとしか思えません。いるかいらないかもしれないものを携帯しない、この決断が重要です。薬の携帯は筆者もしますが、その量ってたかが知れてますよね。
訪問する地域国の全部のガイドブックを携帯する人がいますが、そういう方には上の方で書いたガイドブックに頼らない気持ちを持とう、と言うしかありませんな。必要部分だけを切り抜いてまたはコピーして携帯すれば相当軽量化できるのです。
最後に言うことはやはり前に書いたことと同じ、無理して背伸びした旅をしないこと、徐々に自由旅行に慣れていくことです。諦め・妥協の精神を持つこと、これは非常に大事です。計画した全てができるなんて最初から思わない、全部できなくて当たり前です。予算に限りがあればあるほど、その分汗をかき、忍耐を必要とします、これは致し方ありません。その替わり自分で旅したという満足感はやはり何ものにも代え難いのではないでしょうか。
こういうことがいやとか我慢ができないならパッケージツアーか半パッケージツアーにすることです。
そうは言っても、いくらこれを読んでも自由旅行は心配だという方、そのうち Intraasiaの自由旅行入門実践教室でも開こうかな。
それでは気を付けてしかし警戒しすぎないように、旅を楽しんで来てください。
マレーシアの家族は概して大家族主義が残っているといえるでしょう。地方、田舎は、もちろんですが都会でも家族の範囲が日本よりぐっと広いのです。
会社、工場勤めしていると、誰でも家族が病気になったり入院することがおきますね。そしてその場合急であれば時には休まざるを得ないし、又は遅刻せざるを得なくなります。それでも一切構わず普通通りに出勤するというモーレツ社員は別にして、これは日本人でも極めて当然の事ですね。
でここでマレーシアの例を見てみましょう。
工場で働いているマレー人が時時突然休んだり、遅刻してきます。ここまではいいです、がその理由です、おい又はめいが病気なので医者に連れていったとか、いとこが入院したので病院へいったとかの理由がよくある事です。彼らにとっての家族とはこういう範囲までに広がっている証拠です。これを日本流になぜおいやめいやいとこが家族なのだといっても始まりません。彼らの意識では極めて当然の事なのですね。
マレー人に比べて華人の家族範囲はもう少し狭い様に感じられますが、直系血族だけでなくある人にとって身内と考えられる範囲という意味では、それでも現在日本の家族範囲より幅広いと考えられます。
例をあげてみます。中国語ラジオ局では、よくDJとのおしゃべり番組があります。マレーシア語局でも同じみたいですが、筆者は中国語局の常聴取者ですから中国語局にひとまずしぼります。尚英語局はまったく聞きませんのでコメントは控えます。
さて、そのDJとの電話でのおしゃべりの際、聴取者に「だれだれに捧げるとか、よろしくあいさつを送ります」と言う機会が与えられますが、その誰誰の範囲に家族が含まれている事が一番多いのです。次いで多いのはもちろん友人ですが、日本なら恐らく友人・恋人をあげるのが一番多いのではないでしょうか。
家族としてあげる中で、夫婦ならまず配偶者をあげることが多いようですが、これは極めて当然ですね(配偶者を一番にあげないなんておかしいと筆者は考えますから)、次いで母親父親そして又はそれに混じって兄弟姉妹があげられる事が非常に多い。10数才の子供なら兄弟姉妹をあげるのは日本でも多いかもしれませんが(よく覚えてないので想像)、20才を超えてDJとのおしゃべりの際、「母親、父親、兄弟、姉妹に捧げる、よろしくいう」というのは筆者には意外でした。
「それはお前が家族愛が少ないからさ。」と言われそうですが、でも筆者の覚えている限り日本のラジオ局のDJとのおしゃべり番組でこれほど兄弟姉妹の名が出てきたとは記憶にないのです。読者の皆さん、私の記憶は間違っているでしょうか?
たまにはおじさんやおばさんやいとこの名前まで出てきますが、これは日本では珍しいですよね。
とにかくマレーシアでラジオ放送を聞き始めた当時、これは筆者には結構意外なことでした。華人家庭はマレー人家庭ほど大家族ではないし、それも筆者住むのは都会の華人地区ですから、もっと家族範囲ときずなの狭いそれを想像していたからでしょう。
別の例を見ましょう。
また父親が自分の子供を面倒みる範囲は日本よりも大きいのではないかとも感じられます。筆者の住む地区は学校の集合地区なので小学校を中心として学校が何校もあります。その小学校への子供の送り迎えはマレーシアでも母親がずっと多いのですが、それでも父親が朝送って来る光景によく出会います、決してごく一部の父親が送っていくのではありません。バイクの背に載せたり車で又は手を引いて来ます。注:スクールバスがあるがそれを使わない家庭は親が普通子供を校門まで送っていく。
日本と通学形態がやや違うとか通勤手段にバイクと自家用車が多いという理由もあるのでしょうが、筆者の知る限り日本より通学時に父親の送る率は高いのは確かです。
マレー人は都会でも大家族、ここでは3、4世代いっしょに暮らす垂直の大家族主義というのでなく家族の員数が多いという意味です。兄弟姉妹が多く、親も兄弟姉妹が多いから必然的にいとこ、おじ、おばも多い事になります。ですからラジオを聞き始めた頃、マレーシア語局でDJとのおしゃべりでしょっちゅうAbang(兄)Kakak(姉)とかAdik(弟、妹)が出てきてもそれほど意外には感じませんでした。マレー人聴取者の言葉にIbu(母)Bapa(父)が極めて頻繁に使われるのは彼らの家族観の現われといってもいいでしょう。
筆者は血縁関係にきわめてクールなので(こう書くとお前は冷たい奴だと言われそうですね、心配だなあ)、マレーシアの聴取者は民族の如何に関わらず日本より身内のつながり強いなあ、と感じたものです。そしてその身内の範囲が広いわけです。
華人社会では昔から伝統的に家族経営の小商売や茶店・屋台商売が多いのです。そういう商売は大抵2,3人規模で、夫婦が多いのは当然ですが、親子で兄弟姉妹で、時にはいとこ叔父叔母らがいっしょに働いています。極小資本で比較的簡単に商売が始められる土地柄と起業家精神の強い華人ですから、2,3人の家族経営又は個人経営という形が多いのでしょう。独立して兄弟姉妹といっしょに商売を始めるとか自分の商売を子供といっしょにやっていくのようなありかたです。さらに使用人に簡単に低賃金の外国人労働者を雇えるのもそれを助長しているかもしれません。
正確な統計は手元にありませんが、間違いなくこういう極小規模家族商売は日本よりはるかに多いはずです、ですから実感としてこういう家族商売における身内の緊密さを感じるわけです。注: マレーシア人だけに許される、個人事業(個人無限責任会社)登記はごく簡単で最低資本に制限はない。又有限会社(Sdn. Bhd. と表す)でも実質的に払込資本の最低制限はない。
このような商売のありかたが華人社会に多いのは歴史的に理由があります。かつて中国を離れて海外へ出ていった中国人はその外国の地毎に、同じ地の出身者で同郷会、同言語話者で同一方言ぱん、同種の職業グループいわゆるギルド、同業会を形成しました、そしてそれらを頼ってまた次の世代が海外へ出て行ったことに源を発するのです。その際やはり身内に頼るのが一番確かだったことでしょう。直接の親兄弟であれ遠い親戚であれやはり身内の緊密さは、見知らぬ国、土地での不安感と不安定さを少なくさせたことだと容易に推測できますね。
こうして中国を離れた華人は最初は華僑とよばれていましたが、次第にその国、地域に永住化、同化することによって華人となったわけです。マレーシアでは戦前から住むそういう華僑はもうほとんど生存していません。マレーシア国籍を取った華人系マレーシア人になったのです。
このような歴史を持っている華人です。さらに華人間で主たる宗教である道教徒ゆえに氏族としてのまとまりを非常に重んじる事もあるのでしょう、これも身内のきずなを強くしている一因だと思います。
同じ中国文化の影響を受けた日本ですが、先祖代代を継承していくことはたいへん重きに見られているはずですね、一方身内の範囲つまり拡大家族としの広がりは華人のほうが広い様に感じます。特に現代日本の核家族化は拡大家族化とはある意味では反対のあり方ですからね。
もちろんこういうことを論じる時、筆者の立場をある程度反映してしまいますので、もっと伝統的家族観を重んじるとか保守的な方から見れば、いや日本のほうがずっと家族関係が緊密だとおっしゃる方もいらっしゃることでしょう。先祖崇拝・家名存続ではそういう面もあるかもしれませんが、でもそういう方でも、マレーシアの一般華人の捉える身内の範囲は、現代日本のそれより広い事は気づかれると思いますが。
さてマレー人家族を少し見てみましょう。マレー社会は依然としてその根底のあり方にKampung社会を残している、というのが筆者の以前からの分析です。つまり村社会としての掟、つながり、しきたりを都会生活に残しているという意味です。マレー社会は一部の貴族階級を除けば、先祖崇拝、氏族存続重視の社会ではありません。その氏名に父親の名が受け継がれるように、家名というものはありませんからね(これに着いては当コラム117回を参照)。
マレーシア語のラジオ番組でDJとの会話で出てくるのは、家族の構成員が一番多いと上で触れましたね。父母がやはり一番かな、そして兄弟姉妹が多いので加えてAbang, Kakak, Adikが告げられます。兄弟姉妹が多いにも関わらずというか多いからこそきずなは強いのだな、と筆者は感じます。マレー人家庭で日本のように一人っ子なんて探すのは難しいでしょう。子供4人5人はざらです。
休みの日、彼らは家族全部引きつれてショッピングセンターへ行きます。そのありさまを見ているとまこと家族とはこうもにぎやかなものだなと感心します。子供が多いので必然的に互いの年が離れてきます。10才以上離れている兄弟姉妹の家庭は決して珍しくありません。ですから上の子供が下の子供の面倒を見る、こうして子供と学校時代を過ごしていけば、日本の兄弟姉妹関係とは幾分違った兄弟姉妹関係が出来上がっても不思議ではないでしょう。
マレーシアの家族を考える時、宗教が大きな役割を果たしていることを忘れてはいけません。マレー人社会とインド人社会はこの家族間の関係にはその宗教への帰依が重なります。マレー人即イスラム教徒であれ、インド人の多数派であるヒンヅー教徒、少数派のシーク教徒であれ、彼らの日常生活と考えはその宗教にものすごく左右されます。つまりある家族の行い、考えの幅は必然的にその信じる宗教の枠内でしか幅はないわけです。
マレー家庭で親がイスラム教徒で子供の一人はキリスト教だなんてことは絶対にありえないし、許されません(マレーシア国籍離脱すれば別です)、マレー人はムスリムになるのでなくムスリムに生れるからです。マレー人と結婚する異教徒はイスラム教への改宗が絶対条件です。ですから片親が非ムスリムということは起こり得ません。(外国人が結婚のため形だけイスラム改宗をしたとしても、法律上はムスリムですからね)
インド人のヒンヅー教徒でも子供がキリスト教徒に改宗するなんて極めてありえない事でしょう。インド人にもキリスト教徒は結構いますが、そういう家庭の子供は、またキリスト教徒になるのですし、少数派であるシーク教徒の子供はまたシーク教徒になるのです。
彼らはこういう深い宗教世界に生きる人たちですから、家族間の決定的な思想や行動の違いも生まれにくくなりますね。宗教的であればあるほどその考えと行動に違いは許されないのは、世界どの宗教界をとっても同じことでしょう。こうして家族のつながりは宗教面からも保証されている。
以上は筆者のこれまでの観察と知識をもとにしたものです。例えばマレー人やヒンヅー教徒のインド人と結婚してその中で暮らす人であればもっと実生活にみちた観察ができることでしょう。
いずれにしろこういう家族関係は絶対無宗教主義者の筆者には、これ以上踏み込む事のできない世界ですな。
最後に、年老いた親に関わる家族観を典型的に表している新聞記事、99年8月初めから紹介しておきます。
マラヤ大学経済学部のある教授はこう発言しています。「先進国では老人を援助する方途は社会福祉に結び勝ちである。しかしこれは発展途上国にはとても見習う例にはならない。なぜなら発展途上国には充分な統一的な福祉を供給する資源がないから。」
「(マレーシア)社会が、老人は社会のあらゆる面に関わるべきだという新しい概念を受け入れない限り、老人世代は引き続き病気と(他者への)依存に頼ることであろう。」
マレーシア社会はまだまだアジアで典型的な考え、老人の世話を見るのは家族の責任であるという意識を捨てない社会なのであり、そして政府はしっかりとした社会保障を老人世代に与える事ができません。マレーシアもその例外ではありません。
はじめに
ある読者から質問があり、メールでお答えするのでなく、それに多少幅を付けて答える目的で書いたコラムですので短編です。
前回のコラムで触れたように、家族範囲が広く且つ宗教的締め付けの厳しいマレーシア社会でも、当然老壮若の各世代間にある程度の価値観のかい離はおこり、社会悪は生れてきますし現に存在しています。
こどもの規律と公衆道徳に関して言えば、家庭と学校での教育の両方に責任があるのはいうまでもありませんが、マレー人の場合はこれに宗教学校が加わります。宗教学校とは教義を教えるのみならず、ムスリムとしての信仰のあり方、規律を教育する場のようです。
ただ筆者が一般に感じるのは、学校でのしつけ・公衆道徳教育が不十分ではないかという事です。それだからこそゴミ捨てポイ症候群が一向に減らず、列を一切つくらない我先現象が子供たちの行動から一向に消えません、親の世代がそういう行動を取っているから、家庭で規律教育はあまり期待できないから、学校で若い世代である生徒に子供の時からこういう規律を習得させる事が重要であるのに、それが成功してません。
ですから依然として、老若男女は至るところでゴミ捨てポイし、バスやエレベーターには降りる人を無視してわれ先で乗り込むのです。
また校内での暴力問題も時々新聞種になります。ただこれは華人系学校とインド系学校に多いようです。華人社会には昔から秘密結社という地域的な非合法組織があると言われてますが(日本の暴力団のような大きな広範囲な組織ではない)、これを真似したように生徒がグループを作って対立したり、いじめを行うケースです。インド人社会は3大民族中人口が一番少ないのに、全人口の8%強、犯罪が割合多いので人口比での犯罪率が高いのです。極小規模なギャンググループがたくさんあると伝えられています。それらの育つ温床が学校社会にもあるのかもしれません。
学校内で起こる生徒のいじめや暴行事件を抑える、なくすのに教師側の対応が不十分だとやPTAが批判したり、反対に学校側が各親がもっと子供の責任を持つべきだと批判する論調もよく新聞に載ります。筆者にはどちらが正しいかの判断はまったくできませんが、こういう問題の根は日本と同じかそれほど変わるものではないでしょうか。
マレー社会になると、こういう生徒の行動はその生徒らへのイスラム教育が不十分だとの見方に結びつききやすいようです、極端なイスラム主義で知られたPAS党はこういう子供たちの行動をすべて現代西欧思想のせいだと決めつけ、純粋なイスラム教教育とその徹底かを訴えています。こういう発想はもちろん日本にはありませんが、与党華人政党でさえも生徒への宗教教育、この場合は仏教なり道教からの意、は必要だと考えるぐらいで、マレーシア教育は宗教から切り離すことはできないようです。正確にいえば、宗教と教育の分離は基から考えられてはいないのです。
公衆道徳の向上やきちんとしたしつけは家庭のまず責任であり次いで学校だと思いますが、これを宗教に相当又はある程度の割合依存するのはいかにもマレーシア的ですね。
外国の旅先で又は滞在中に病気、怪我でお医者さんのお世話になる、こういうことは誰でもいやだし避けれるものなら避けたいですよね。しかし思いもかけないことが起こったり不測の事態に出会うことがあるのは世の常、そういう時は現地の医者なり病院の門をたたかざるを得ません。
筆者も長い外国旅歴と滞在歴のなかで、歯医者を入れて7,8カ国で医者のお世話になりました。英語がいくら世界一通用度の高い言語とはいえ、英語がどこでも通じると考えるのは誤りですから、英語を全く解しない医者に診てもらったことも数回あります。筆者は今では相当衰えたとはいえ当時は2,3のヨーロッパ語にもある程度通じてましたが、それらの習得前に医者にかかったこともあります。ですから診断と治療される際ものすごく心細い思いをしたことを覚えてます。もちろん貧乏旅行者の筆者ですから費用の心配も常にありました。
こういう経験をしてきてマレーシアに目を転じますと、医療水準は少なくとも都会の高級病院や高級クリニックを診る限り高いように見えるし(素人目には)、いなかの町でもまずクリニックはどこでもあります。筆者は一応英語通訳もしますから、医者に診てもらう際重要なことを訴えられないことはないし、また相手がそれほど英語ができなくても、マレーシア語で最低限度の病状ぐらいは訴えられるので、例え田舎でそういう目にあったしてもそれほどコミュニケーションそのものに不安は感じません。さらにクアラルンプールなら華人の看護婦の多くは広東語話しますから都合がいいのです。
こういうことであってもやっぱり医者に行くのはあまり好きではありません。当たり前ですね。第一の理由はもちろんお金がかかるからですが、その次の理由はもらう薬に今一つ心配が残ります。効かないというのでなく、副作用の心配です。当地の医者は抗生物質を簡単に処方するので、これいつまでも飲んで大丈夫なのかなとかの心配です。尚マレーシアの病院とクリニックはほとんど医薬分業が進んでいませんので、クリニックは薬も調剤します。
日本でも同じようですが、処方してくれる薬に「こんなたくさんいらないのになあ」と思うことがあるので、最近は筆者の方から何日分でいいですとリクエストするようにしてます。医者で処方してもらう薬の量って大体があまりやすいですものね。
診断方法は英国スタイルというか英国圏で医学部を卒業した医者が多いので、今では慣れてしまったのですが、その診断スタイルに最初はちょっと違和感を感じました。でも医者の診断スタイルより重要なことはその診てもらう医者の人柄によるのが非常に大きいと感じます。日本の病院などでも”3時間待って3分治療”ですからね。これじゃ患者として満足できるはずがありませんよね。ですからやはりここマレーシアでも大切なことは、自分にあったいい医者に巡り合うことではないでしょうか。
もちろん旅先で緊急に診てもらう時は、クリニック、医者を選んでいるひまはありませんから、これはもう当りはずれの問題というしかありません。(お医者さんごめんなさい。でも正直なところそうではないでしょうか)筆者も非常に義務的な医者に当って腹立たしい思いをしたことがあります。反対によくコミュニケーションできなかったけど、心からその治療に感謝したことも何回もあります。
これらの経験を通じて筆者の取得したのはこうです。外国に滞在している場合は、軽い病気の時いくつかの医者にかかってみておいて、その医院または医者の特徴を覚えておくということです。気に入らなければもう2度と行かなければいいし、気にいったらちょっとひどい病気の際はその医院、医者を選ぶようにするわけです。
こうして何年間にわたりますが、主にかぜの症状の時いくつかのクリニックを訪れました。2度と行かなかったクリニックもあるし、2回目も行ったクリニックもあります。一般内科的に体調が悪い場合筆者が比較的よくお世話になるのは、クアラルンプール及び周辺在住者ならよくご存知のクリニックですが、ただ筆者の場合他の在住者とは違う理由でそこにかかります。
一般的な内科でない専門医には、これまで外科、眼科、病院の内蔵専門医、耳鼻科、婦人科(これは前パートーナーの付き添いとしてです)のお世話になりました。つい数ヶ月前もかぜがこじれて耳鼻が悪化し、住居近くの華人病院内の耳鼻科を訪れて診断治療してもらいました。こういう場合治療費とクスリ代を除いて、専門医診察代だけでRM50かかるのです。
筆者の場合在留邦人のよくお世話になる有名病院ではなく、住居地に比較的近い一般に華人患者が多い病院を選びますので、筆者の観察はそういう病院、医院に偏ります。が、といってもマレーシアの医療制度内にありますから、他の病院と特徴にそれほど大きな違いがあるとは考えられません。
マレーシアで医者特に専門医(耳鼻科、外科、眼科、皮膚科などの一般内科でない医者のことを指す)にかかる時の心配はその料金です。マレーシアに日本でいう健康保険、つまり国民健康保険も会社健康保険も存在しませんから、そのまま診察治療費が全額請求されるのです。軽いかぜなら薬代含んで1回RM20からRM30ぐらいですが、専門医の場合最低でも薬代をいれて1回RM100近い料金になりますから、筆者のような貧乏人には相当なる負担です。
多くの在住者の場合医療費は会社負担又は半額負担とか、一次全額立て替えた後日本の健康保険組合に請求できるという利点があるので、おそらくこういう切実さは感じられないでしょうが、マレーシア人の低所得層にとって専門医にかかるのは非常なる負担なのです。ですから低料金だけどものすごく混む政府の公立病院を選ばざるをえません。
マレーシアはまだまだ社会保障という面では発展途上国ですから、こういう社会保険は不十分です、社会保障はまだまだ家庭の資力と私的セクターに頼っている面が多分にあります。例えばある程度規模以上の会社ですと、その従業員特典に月いくらまでは医療費補助が出るとか、グループ医療保険に加入しているとかの面を強調しています。しかしこれは個人会社・店や零細企業ではまずありませんし、屋台商売人や個人事業主の場合も地域や国の保険があるわけではないので、無保険状態です。
勤務中に怪我した場合は、事業主に加入することが義務浸けられている政府管掌のSOCSOという社会保険がありますが、これも支払補償と加入義務範囲に不十分な面が多いのです。さらにSOCSOは一般病気を一切カバーしませんしね。地方自治体で医療費補助などというプログラムを行っているケースは聞いたことがありません。
となるとある程度余裕のある人は、保険会社の疾病保険や入院保険に加入することになりますが、これでは普通の通院は一切担保されませんから、通院の場合はやはりほとんどが個人的負担になります。さらに歯科を担保する保険は筆者の知る限りありませんね。入院保険のような保険金の高さもあって負担できない低所得者層向けに、誰でも加入できる共済組合式の保険があるべきだと筆者は考えますが、ないようです。(絶対にないとはいいませんが)
共済掛け金が低すぎて組み合いの支払いがまかなえない恐れがあるのか、組合員資格の認定の問題があるのか、それともこういう発想自体ないのかよくわかりません。
さてマレーシアの医院と病院は例外なく常勤、非常勤に関わらず担当医師の学歴を玄関又は待合室に掲示しています。英国の何々大学の医学部卒、マラヤ大学医学部卒、オーストラリア何々大学の歯学科卒という様にです。加えてその医師の専門を明示しています。Paediatrics(小児科), Orthopaedics(整形外科)などと日頃なじみのない難しい英単語で書かれてますよ。
町の医院(クリニック)と小型の病院の場合、そこに常勤する医師は一人又は少数ですが、毎週曜日を決めて訪問診察する医師がいるのが普通です。いくつかのクリニック・病院を回っている医師、特に専門医もいるようです。筆者も以前近くの病院の耳鼻科を尋ねた時、マラヤ大学医学部の教授に診察してもらったことがあります。
マレーシアのクリニックで多いのは、特に住宅地にある場合ですが、24時間オープンを看板に掲げているのです。こういう場合日曜日でもオープンしてますが、これはちょっと目には親切なようですが実際はあまり感心したシステムではありません。いくら常駐又はクリニックと住居が同じ医者とは言え常時勤務状況をしいられるわけですから、当然そのサービスに欠如が出てきてもおかしくありません。もちろん深夜料金は別途かかりますよ。
クリニックの多い地区ですと、何軒もの24時間オープンのクリニックが並ぶなんてことになります。こういう無駄を防ぐためにはやはり地域で夜間と休日当番クリニックを決めたあり方の法がいいですね。
ところでマレーシアのクリニックと病院でよく感じるのは、看護婦のつっけんどさです。もちろん日本でもありますが、概してこれはマレーシアのほうが出会う頻度が高いように感じます。もちろん、患者がサービスに何を期待し看護婦がどのように対処すべきかに起因する文化的風土的違いがその原因で、優劣ということではありません。マレーシアの医療制度である限りこれは致し方のないことでもありますが。
ひとこと付け加えておくと、私立病院の場合、入院する際患者は保証金を病院に預けることを要求されるのが一般的です。クレジットカードがあればそれでもいいようです。
さて同じ病気でも歯科の場合を見てみましょう。
筆者は昔から歯科とは縁がいやになるほどあって、日本にいる時1年間に一度も歯科にかからなかった年がないくらいです。それほどたくさん虫歯もち、虫歯治療済のほうが健康な歯より数が多い、なので外国でもよく歯科のお世話になってきました。ヨーロッパでも緊急治療を受けたことが2回ほどあり、旅行中の台湾でも滞在を伸ばして歯にかぶせものをしてもらいました。
マレーシアでも歯科の数にすれば、6軒ほどの歯科にかかりました。1回行って次ぎは2度と行かなかった歯科医もあり、年をおいて何度も通った歯科医もあります。やはり自分にあった歯科医を探すのは難しいですね。電動歯ブラシを使うようになったせいか(?)この数年歯科に通う頻度は減ったのですが、それでもたまに住居地近くの華人歯科クリニックを訪ねます。歯科はまったく旅行者保険がきかないし、といって痛みはがまんできないし、というところです。どうして私はこうも歯が悪くなりやすいのだろう(歯だけかという陰口は無視します)。
マレーシアの歯科の特徴は、少なくともクアラルンプールでは、あらかじめ治療費を見積もってくれますから、筆者は必ず「この歯を治療するとどれくらいかかるか」と尋ねることにしてます。そうでないと費用的に安心して治療してもらえませんからね。
先週住居近くにある初めて行く歯科クリニックで治療してもらいました。何年も前に日本で治療済みの前上歯がものすごく痛んだからです。詰めたところが根幹治療不十分で化膿したとのことで、抗生物質4日間飲んでようやく痛みは抑えましたが、結局それでは必ず再発するとの説明に納得して、今週同クリニックで、非常勤の歯科外科医の手術を受けました。筆者は、医療はすべて日本式でないとだめだという考えの持ち主ではありませんから、こうと決めたら早いのです。
筆者の例を出したのは、これが典型的な歯科のスタイルでもあるからで、専門医はこうして歯科クリニックを回るのです。もちろん大きな病院へ行けばそこには専門医は常駐してるでしょう。ただクリニックは病院より待ち時間などは短時間に済む利点と住居地近いという便利さもありますから、どちらがいいとかはいえないでしょう。
歯ぐきを切り開いて(4針縫った)骨に穴を開けて治療した診断治療費しめてRM400は、あらかじめ大体見積もられていたとはいえ、筆者にはものすごい負担で痛み以上に泣きそうです。クアラルンプールの下町にある外国人の行かない歯科クリニックの一つの例として示してみました。ただし単に円換算するのでなく、マレーシアの所得と物価に比してと考えてください。
尚診断時の手術説明の時、歯科外科医が手術の成功率80%ぐらいだとあらかじめ伝えてくれたのはいかにもマレーシアらしいですな。読者の皆さんならどうされますか?
活字出版物も電波放送もマレーシアの多民族複数言語社会という状況を反映して、各言語別に出版・放送され、購買・視聴対象者もその使用言語に一番縁の深い民族に主たる対象を置いている。その中で各民族を横断的に対象としているのは、英語出版・放送ということになる。
まず活字出版の面から見てみます。
マレーシア語紙
Utusan Malaysia:政府与党連合のかなめのマレー人政党UMNOが大株主の新聞、
Brita Harian: Utusanと並ぶ主要マレーシア語紙。
その他 夕刊紙と週刊紙がそれぞれ数種発行されているが、サバ州サラワク州を含めて全国紙といえるのは上記の2紙のみ。
発行部数の総数からいうとマレーシア語紙が一番多い。
英語紙
The Star:タブロイド版で英語紙中一番購読者が多い。
New Straits Times:高級紙の体裁をとっている。Brita Harian発行会社とは同グループになる。
The Sun:上記2紙に比べて発行部数はぐっと落ちる
Malay Mail:首都圏だけで発売されている大衆夕刊紙
英語紙の記者も他言語紙と同じくマレーシア人です。
中国語紙
星洲日報 Sin Chew Jit Pohと南洋商報 Nanyang Siang Pauが中国紙中の主要2紙となる。中国報 China Pressは南洋商報と社主は同じであるが大衆路線を取っており、発行部数は上記2紙に迫る多さ。
光明日報 Guang Ming Daily Newsは社主が星洲日報と同じで大衆紙。
光華日報 ペナンで発行されている、半島北部諸州でしか購買できない。
中国紙は他言語紙がほとんど伝えない華人社会の細かな動向をこまめに伝えている。
タミール語紙
Tamil NesanとMalaysian Nanbanがある。いずれも発行部数は極めて少なく、数万部程度と見られている。
サバ州とサラワク州では、サバ州又はサラワク州又はその両州でだけ一般に販売されている英語紙が数種、中国語紙が数種ある。マレーシア語紙は上記全国紙が購読され、サバ州サラワク州だけで独自に発行の新聞はない。ただサバ州の地元発行の英語紙の中には、別編集されたつまり翻訳版でない、カダザンドゥスン語とマレーシア語でかかれたページが挿入されている新聞もあるが、新聞名はその英語紙と同じである。
どの言語紙にも共通して言えることだが、新聞の論調で政府与党を批判する・攻撃することはないし、各民族批判と宗教批判はタブーである。尚以前そういうことは多少あったようだが、そのため発刊停止処分を受けた新聞社もでた。
96年にマレーシア国民の読書調査したある報告によれば、マレーシア人は年間に2冊の本しか読まないということです。この調査結果だけでなく、一般にいわれているのは、読書する習慣が一番高いのは子供時代で、25才を過ぎると急激に下がるということです。
この現象は一般マレーシア人の行動を見ているとなるほどとうなづけます。町に書店が極めて少ない、書店の規模がごく小さい、様々な場所で本を読んでいる人をあまり見掛けない、特にバス電車内で本を読んでる人を見るのは極めて珍しい、新聞でさえ読んでる人を見ることが少ない、などからこの調査にうなづけます。
原因は学校時代は学習上の必要性から読むのだが、学生でなくなればその必要がなくなる、各言語別に話者が分化していて、一つの言語で多数発行が望めないこともあり出版産業自体が小さい、あらゆる分野に関して日本ほど出版の自由がない(出版側の自主規制もあると想像される)、などいろいろ考えられます。
このため英語出版物は英米の輸入出版物が多数を占めることになる、マレーシアで出版される英語出版物は新聞と一部雑誌を除いて極めて小部数となっている。中国語の出版に至ってはほとんどが台湾そして中国から輸入のもので英語出版物以上に地元発行の書籍類は小部数である。
マレーシア語の出版物はすべて国内出版であるが、学習・研究及び一部出版物を除けば読者対象がマレー人に限られているので、これも飛躍的に部数が多く出るわけではない。尚日本の国立国語研究所に似たDewan Bahasa dan Pustaka(DBP)という公機関があり、マレーシア語の専門書・雑誌と公的出版物を多種発行している。ただDBP出版のそういう出版物は一般書店にはあまり並んでいないので、数少ないDBPの販売店・所へ行かないと入手しにくい。
総じて言えば、マレーシアは翻訳文化の国ではなく、原書をそのまま読むという文化なので、他言語が相当程度理解できないと、母語以外の言語出版物に手が出ないということになる。( 注:母語と母国語は似て非なるものです)
公営のRTM(Radio Television Malaysia)下にある局が2つ:TV1,TV2
民営放送局でしにせのTV3、首都圏だけで見られるMetro Vision、98年放送開始のntv7です。早朝から放送開始しているのはTV1だけです。その他の局はいずれも午後から放送開始です。ただし週末はMetro Visionを除けば朝から放送している。
マレーシアではサバ州サラワク州を含めて各州または広域圏に独自の地元放送局があるわけではない。すべてRTMの支局という形です。ですからテレビ放送に関しては地方放送局制作の番組は今の所存在しない。尚ラジオ放送ではサバ州サラワク州を含めて、地元独自の放送局はないが、例えばサバ放送のように支局から送る番組も一部ある。
山間僻地部では難視聴地区が多く、公営のTV1とTV2は映ってもTV3がなかなか映らない。
テレビ放送はすべて対象視聴者の分類表示が義務づけられている。U:すべての年齢層対象、18SG:暴力と恐怖シーンがなく、18才以上対象、18SX:性的描写の場面がなく、18才以上対象、18PA:政治的又は宗教的又は反マレーシア文化的要素を含み、18歳以上対象、18PL:前記の要素を2つ以上含み、18才以上対象
番組では1時間から30分のニュース番組がマレーシア語、中国語、英語そして夕方だけ放送のタミール語のニュース枠がそれぞれ別の時間帯に放送される。インタービューを含んだモーニング番組、子供用番組、スポーツ番組、歌謡番組、ドラマなどが一般的であるが、日本のような長時間バラエティーショーのスタイルの番組はない。ドラマでは恋愛、家族友人の出来事の内容が多く、シリアスな社会問題を題材にしたものはほとんどないと思われる。
公営のTV1によくあるのがイスラム教の指導者たちの説諭番組で、これはイスラム教を国教とするマレーシアらしい。また各局でお祈りを始める時間を通知する短いお知らせが流れるのもイスラム国らしい特徴だ。
テレビ番組ではマレーシア語の放送でないものは、必ずマレーシア語の字幕が挿入される。外国製の番組として米国、香港、数は少ないが日本製の番組もよく放送されるが、これらも最低限マレーシア語の字幕が必ずはいる。尚外国製番組は一般に吹き替えをしない。映画はマレーシアでも人気ですから、毎晩どこかのチャンネルで必ず放映される。こちらも字幕の規則は同じ。ハリウッド映画が圧倒的多数を占めるが香港映画と昼の時間帯に放送されるインド映画も人気である。
付け加えると、シンガポールに近いジョーホール州ではシンガポールのテレビ番組が視聴でき、英語紙にはその番組表まで載せている。また半島北部の諸州ではタイのテレビ放送の番組が映る。しかし新聞にタイテレビ番組表を載せているところは一つもない。
マレーシアには衛星放送専門局のAstroがあり、これに加入すれば、CNNやNHK国際放送など20数チャンネルが家庭で楽しめる事になる。現在HNK国際放送は午前11時から夜12時まで。Astroの加入料金は機器類一切を含めて現在RM1700ほどで、毎月の聴取料がRM80かかる。
ホテルで衛星放送をサービスに取り入れているところはまだまだ少なく、また衛星放送とは別に有線放送の番組を提供しているところもある。
衛星放送ではなく1種の有料テレビ Mega TV(電話 03−7161111)がある。チャンネル数は7チャンネルとAstroよりぐっと少ないが、CNNやDiscoveryチャンネルが含まれている。申し込み時に保証金含めてRM200、1ヶ月の視聴料金はRM50とAstroよりは安いし、デコーダーとアンテナは無料貸与という面が衛星放送局とは違う。
テレビ放送よりずっと民間放送局が多い。公営のRTMは各言語別に放送チャンネルを持っており、RTMが唯一の全国をカバーするラジオ放送局である。民営ラジオ放送局はクアラルンプールに集中しており、そこで成功すると受信地域を少しづつ広げていくことになる。民営ラジオ放送局もほとんどが単一言語放送で、対象とする聴取者が民族別に明確に分かれていることになる。例えば華語と広東語放送の麗的FM放送の聴取者は都市部の華人というようにです。
尚 RTMのラジオ放送は全国放送とは別に、ほぼ各州ごとにその支局が独自の周波数で地方番組を放送している。例えばペナン州では周波数95.7MHzのようにである。
マレーシアもインターネットが盛んになり加入者数は99年中頃で50万人を越えました。しかしまだまだ都市部での普及が中心で、それも半島部西海岸州に偏在しています。東海岸州、サバ州サラワク州の非都市地域での加入率は極めて低いのです。その原因は所得格差と教育水準格差も考えられますが、電話普及率が僻地では極めて低いこともその一因です。
マレーシアのインターネット人口は若年青年層が圧倒的に多数を占めており、家庭の主婦がインタネットを楽しむ段階にはまだ至っておりません。マルティメディアスーパー回廊プロジェクトを推し進める政府はインターネットの普及に積極的ですが、市場そのものがまだ小さいこともあり、一次プロバイダーとして、JaringとTMnetの2社のみに免許を与えています。また2次プロバイダーの数も5社ほどに制限しており、この面での大きな自由化は近い将来も見込めません。
インターネット利用料金はプロバイダー加入時に最低RM50ほど必要であり、インターネット接続専用電話番号につないで利用すれば電話料金は1分間1.5セントという低料金です。