チャットコーナーのマスターを囲んでマレーシアの新年を語る ・ マレーシアの稲作と米
・マレーシアにおける中国語と「方言」の作られ方 (前編)と(後編) ・ ランカウイ群島との連絡ボートが離発着する桟橋風景
・ ハリラヤ祝日のオープンハウスに思う ・たむろするマレー若者男たち ・ オランアスリを知っていますか ・
・ 再びスマトラでマレーシアとインドネシアの同異を考える ・別の面から見た中国正月の風景から ・ 客サービス精神と義務感に関する試論
マスター:皆さん、開けましておめでとうございます、(と言って店のドアを”開けて”入ってくる) マレーシア語でいえば、Selamat Tahun Baru ですが、マレーシア人同士が挨拶としてこれを言うわけではありません。
お客一同:マスター、明けましておめでとうございます。今年も、いや今年こそ商売繁盛でありますように。
マスター:さっそく皮肉ですか。従業員のウエートレス、といっても一人しかいませんけど、はちょっと遅れて来ます。いつもの南海の海に熱帯魚と戯れに行ってるので、遅れてくるそうです。
なぎさ:それなら、それまで私がお手伝いしまーす。
マスター:ありがとう。若い新人はウサギみたいに元気よくていいですね。
ひでこ:マスター、マレーシア人はどのように新年を祝うのですか?
マスター:マレーシアは多民族国家ですから各民族によって捉え方が幾分違います。でも大多数のマレーシア人にとっては、西暦の新年ということで年が新しくなったとかカレンダーを新しくした程度しか感じないでしょう。この日に家庭で正月料理を作ったり食べることはありません。各新聞が新年特集を組みますが、公的な特別な行事はありません。1月1日は国民の祝日ですが、それ以上の日ではありませんね。
ゆみこ:ということは、街にお祝い気分はないのですか?
マスター:ショッピングセンターなどでは、クリスマスといっしょに垂れ幕を掲げ、セールスを行います。また若い者たちが大晦日夜に家とか飲み屋、広場に集まって新年の到来を祝うことはあっても、元旦に家族でまたグループで新年を祝い、互いに訪問し会うことはありません。マレー人は現在ラマダンの最中ですから(98年12月20日から1月18日までの1ヶ月間)、今彼らの頭の中ににあるのは、ラマダン明けのハリラヤプアサのお祝いでしょう。ハリラヤプアサはマレー人最大の祝日ですよ。
ゑぬ:じゃ、正月の特別料理なんてないのですね。
マスター;ありません。高級ホテルのレストランでNew Year Brunchとか Dinnerなどの催しはありますが、新年用の特別マレーシア料理はありません。これはマレー料理でも中国料理でも同じです。
ひでこ:なんか楽しくなさそう、でもおもちぐらいあるでしょ?
マスター: ”もち”ろん、あります。でもそれは新年用ではありません。マレー人はもち米 beras pulutをマレー菓子の材料とか竹蒸しご飯に使ったりしますが、もち米は日常のごはんではありません。この甘いマレー菓子は”Kue" とマレーシア語で呼びます。ですから彼らは”Kueを食え” と言ってお客に勧めるのですよ。
れべ:本当ですか、あやしいなあ。サラワクでももち米は食べますよ。華人はもち米を加工して時々食べますけど、日常食とはちょっと言い難いと思うのですが。
マスター:そうですね、もち米は 糯米と書いて "nuomi"呼びます。でもこれも新年用ではありません。屋台で味付き糯米の姿で売ってますね、何かの節にも食べるのでしょう。それ以上詳しいことは知りません。
華人は中華世界共通で旧暦正月つまり中国正月をずっとずっと盛大に祝いますから、西暦の新年は彼らにとってカレンダーの掛け替えぐらいの意識でしょう。華人の使うカレンダーはほとんど旧暦が新暦の下に併記してありますよ。
ひとし;すると、新年の祝い酒なんてないですね。マレー人はもともと飲まないからあたりまえか。でも中国人はもちろんインド人も酒飲みますよね?
マスター:そう、インド人は酒を飲みます。つまり宗教上許されている人が多いのですね。インド系に人気あるのはサムスという椰子酒だそうです、マスターの住居地近くにはインド人が集まる路上酒場があり、いつもインド人が酒盛りしてます。時々そのなかに華人も混じっています。ただこういうのを飲むのはいわゆる労働者層で、しゃれた都会のユッピーはパブやカラオケでビール、ウイスキーを飲んでいるのです。
ウエートレス:あ、遅くなりましてすみません、皆さん新年おめでとうございます。
マスター:酒の話になると必ずやってきますな。
ひとし:ウエートレスさんが遅いので、さめとデートしててさめに食われたかとみんなで心配してましたよ。
ウエートレス:ふん、サメなんか相手にしません。サメはふかひれスープにして飲むだけです。
お客一同:わあ、ウエートレスさん”さめ”てる。
ゑぬ:マスター、マレーシアの華人もふかひれスープ好きなんですか?
マスター:好きみたいですね、どんなちょっとした中国レストランでもメニューにふかひれスープは載っています。マレーシア旅行の際には是非味わってください。中国料理の材料ってやっぱり中国から輸入が多いみたいですね。
なぎさ:それじゃ、先輩にかわります。マスター、マレー人って魚をけっこう”さかな”に食べますよね。
マスター: そうですね、屋台や大衆食堂の料理には必ず魚(Ikanという)がありますからね。名前が Ikanでも魚を食べては Ikanということではないのですよ。
ひとし:多くのマレーシア人の生活面では、新年はあまり特別な意味を持ってないみたいですね。でも会社とかビジネス関係にとってはどうですか?
マスター:公的なことをいいますと、マレーシアの政府会計年度は1月から12月締めの暦年会計です、これが個人法人の税金算出の基になります。ただ各会社は税金支払い面は別にして、自由に会計年度を設定してもいいのです。尚日本のように3月末に企業会計が集中することはありません。
ひでこ:私子供いなけど、ちょっと子供のこと聞こうーと。学校はいつ始まるのですか?
マスター:小学校と中高学校は1月初めから新年度が始まります。学制は小学校が6年間、中高学校が5年間です。その上に大学入学資格用特別期間、Form 6と呼ぶ、の2年があります。
ゆみこ:マレーシアの生徒はみんな同じような制服きてますけど、あれってどの州も同じですか?
マスター:そう全州同じ制服です。小学校はマレー女子が白いBaju Kurungに紺のスカート部、非マレー系女子は白い半袖ブラウスにスカートです、男子が白い半袖シャツに紺の半ズボン、中高学校は女子生徒が白い半袖ブラウスに水色のエプロンスカート、マレー人ならBaju Kurungですね、男子生徒は白い半袖シャツに紺のズボン。マレー人女生徒は制服に加えてTudungというスカーフをしていますし、スカート部も丈がずっと長いのです。生地は同じだけど型がマレー人以外の生徒とは違うわけです。
但し私立の学校は多少色が違いますね。制服を着なくていいような自由な学校はないみたいですが、はっきりは知りません。
ウエートレス: 私もこの店でああゆう感じの制服にしようかな。
ひでこ:お年をお考えになった方がいいのでは。あっ、お年で思い付いたんですけど、ウエートレスさんは働き者だから、心やさしいマスターから新年のお年玉でませんか?
マスター: マレーシアには西暦の元旦にお年玉を渡すという習慣はありません。ですから本当は渡してあげたいけど、習慣にないところで出すのはおかしいので、残念ながらやめておきます。
マレーシアにはお年玉に似た習慣があります。それは華人なら中国正月の時に紅包(Ang Pou)を親戚身内に配ります。またマレー人はハリラヤ祝日の時に似たような Duit Rayaを配りますね。もちろん小さな袋にお金をいれて渡します。
ウエートレス:私は子供じゃないからお年玉なんて要りません!
ゆみこ:お話を伺うとマレーシア人って新年の休暇取らないんですね。
マスター:そうほとんどの人が新年の休みは祝日の1月1日だけですね、ただ今年は2日が土曜日、3日が日曜日なので3連休する人も多いでしょう。マレー人はもうすぐやってくるハリラヤ祝日(2月19日と20日の予定)に休みをまわすし、華人は2月にある中国正月に休みをまとめて取るのです。工場、会社、店もそれに合わせて休むから、西暦の1月1日は単独の祝日にすぎません。
ひとし:今年のマレーシア景気どうかな、心配だな
マスター:昨年は成長率がマイナス5%ほどだったけど、今年は1%ぐらいの成長を政府は期待してますよ。だからそれに期待しましょう。それじゃ景気つけにケイキを皆さんにごちそうしましょう。
ゑぬ:マレーシア人もお祝い時にケーキを買って祝うんですか?
マスター:そうです、誕生日などはそうするようです。町にはケーキ屋さんつまり洋菓子屋さんが大ていありますから、そういう所でケーキを製造販売してます。このケーキはクアラルンプールで有名な洋菓子屋の”京都”店で買ってきましたよ。
ひとし:店名が京都?日本人がオーナーのケーキ屋さんですか?
マスター:いえ、いえ。マレーシア人がオーナーです。マレーシアでは合弁でなくても、たまに日本名を付けている店とか会社があります。もっとも発音は”きょうと”ではありませんよ。その店は英語名の”King's”というのを掲げてます。おもしろい名前ではマスターの住んでいる近くにSEIKETSUなんて社名をつけた会社があります。つづりが雪潔となってるのがいい加減だけど。
ウエートレス:さあ、ケーキ切りましたから、皆さん一つづつ分けますね。マスターってほんと気がよくきく人ですね。
ひでこ:ですからマスターって素敵です。でもこのケーキものすごく甘い!
ウエートレス:素敵だからといってひでこさん、マスターに手を出さないで下さいね。出すのはお金だけですよ。
マスター:そうなんです。マレーシア人はコーヒーでもお菓子でもものすごく甘くするのです、インディアン菓子など砂糖の固まりみたいに甘いのですよ。カロリー制御の社会通念がまだあまり広がってない面も多分にあるからですけど。ですから厚生省は、"コーヒーに入れる砂糖はスプーン1杯で充分です"、なんていうキャンペーンを新聞ではじめたのです。ちなみに甘いは”manis”とマレーシア語でいいまして、かわいい女性の形容にも使います。
ひでこ:じゃ、私は manisですね。
マスター:いえ、あなたはたんなる甘ちゃんだとおもうけど。
れべ:だから太ってるマレーおばさんって多いんですよね。それだけでなく、あまり運動しないせいも多いと思うんだけど。
マスター:私もそう推量してます。マレーシア人の食生活ってカロリーの多いサテとかミーゴレン食べることが多いし、あまり生野菜取らないって言われてますから。中国料理だとなんでも炒めたり煮込んでしまうし、マレー料理も炒めるか煮てカレー味にするのが一般的ですね。生野菜にサンバルつけて食べる人もいないわけではありませんけど。
でも反面マレーシア人はそれだけ栄養状態がいいという面も示しています。マスターはインドネシアのスマトラとかベトナムなど旅すると、太ってる人はまれにしか見ませんから。
ウエートレス:私ひとつだけマレーシア語知ってます。甘くしないで、という意味で ”Kurang Manis”というんですよね。これマレーシア行く人是非覚えておくと役に立ちますよ。それとトイレの中腰法、私得意です。
マスター:誰もそんなこと聞いてません、ここではその話題はありませんよ。それじゃTeh Tarikを入れてケーキを食べながら、今年も良い年でありますように皆で新年を祝いましょう。
ひとし:うーん、おとそで祝いたいけどまあ我慢しましょう。中国正月までとっておくか。今日はマスターのおごりだからオープンハウスみたいですね。
ゆみこ:オープンハウスって、マレーシアの祝日の時、大臣とかが民族にかかわらず一般人を招いて料理を振るまうことのことでしょ?
マスター: そうです。これはマレーシア独特らしい。オープンハススは単におえらいさんだけがやるのでなく、マレー人はハリラヤなどでは近所親戚友人を呼んで、手料理を振る舞うそうです。ですから今日はチャットコーナーのオープンハススですな。
お客一同:マスターはお金無いけど、心やさしいオープンな方ですね。
マスター:どういたしまして、当店はいつもどなたにもオープンしていますよ。それでは皆さん今年もよい年でありますように。
お客一同:Selamat Tahun Baru!
(敬称略とさせていただきました。)
マレーシア半島部を旅行されると水田をあまり目にしません。でも食事の時には、マレー料理であれ中国料理であれインド料理であれ必ずご飯が供されますね。クアラルンプール付近やジョーホール州などの郊外で目にする風景は、パームオイル農園、ゴム農園が圧倒的で、では水田は一体どこにあるのでしょうか。
半島部の水田は北部州に偏っており、マレーシアの穀倉ケダー州、尚ランカウイ島もケダー州です、その北の最小の州ペルリス州、さらにペナン州に偏っているからです。他州にもないことはないでしょうが、やっぱり上記3州に水田が集まっているのです。そこで日々食べる米のことに触れてみましょう。
以下新聞の記事より引用
マレーシアの米自給率は72%です。農業省の専門家の推定では、平均家庭で月RM65を米代に費やします。つまり家庭収入の3%です。「マレーシアの米作農家は平均耕作面積1haという完全なる小規模農家です。 1ha当たりの1シーズンの米作収入はRM1147、二期作なので月収に直すと月RM191、つまり貧困以下です。」
このため農家はもっと割のいい耕作物に転換します。「それが穀倉地帯に問題を起すのです」米以外の栽培物が国の米供給に影響を与えます。米は値段が適当な価格で簡単に入手できるので、中程度の農家は米作にあまり興味を示しません。
歴史的背景から言いますと、 一般通念とは違って、ほとんどのマレー農家は英国植民者がやってくるまで、水田耕作をしなかったし米を食べなかったのです。当時の稲作は、裏耕作作物として耕作される陸稲 Padi ladangしか耕作しなかったのです。その後マレー半島の植民地化とともに、米食文化をもった中国人とインド人がやってきたのです。マレー零細農民はそのための充分なる米を栽培できませんでした。英国植民地政府はそこで、マレー農家が米作した方が安くつくと考えるまで米を輸入したのです。
これがUPM大学のある教授による、なぜマレー農家が米作に興味をもたなかったか、の理由付けです。米作を管理するために、植民地政府は組織的に陸稲栽培を不奨励したのです。さらに陸稲から水田に変えるため、灌漑計画をすすめたのですが、それでもマレー農家は米作に積極的ではなかった。「かれらは水田耕作文化に欠けていた」のです。
その後ゴム栽培が始まると農家は、ゴム栽培の方が金に成ることから陸稲栽培を自家消費のためだけにし、ゴム栽培に移っていったのです。現在でもこういう傾向はかわらず、マレー農家はゴムやパームオイル栽培に比して水田耕作はあまり労働に見合わないと考えるのです。
現在米の販売価格は生産コストを下回っています。そこで政府は肥料援助と価格差補助の形で米作農家に補助を出しているのです。この補助金額は年間5億リンギットにのぼります。
以上99年1月5日付けThe Starの記事から抄訳
興味深い米作に関する記事です。豊かな土地と恵まれた気候であるにもかかわらず、マレー農民は昔米作をしなかったのですね。まこと意外な事実です。筆者も昔から半島部では大規模ではないものの稲作が盛んだったと思っていました。現在ではサバ州もサラワク州も稲作していますが、これは昔から主要作物だったのでしょうか、残念ながら筆者には知識がありません。サバ州では時々干ばつで稲作農家が大きな被害にあった(っている)と報じられています。どちらにしてもサバサラワク州でも稲があまるほど耕作されているわけではないようです。
スーパーマーケットにいくとビニール袋詰めの米が並んでいます。マレーシアの米の主輸入先はタイですから、その中にはタイ米が目に付きます。筆者は料理しませんので、グレードが高いのか低いのかわかりませんが、こうやってタイから簡単に米輸入できる位置にあるマレーシアが、米輸出国になることはこの先もありません。皆さんが外でお食べになる米はタイ米の可能性も高いのですよ。
ランカウイ本島唯一の町 Kuahのはずれは波止場です、そこは半島部へ/からのフェリー便が発着する大きく近代的フェリーターミナルが相当な場所を占めています。ターミナル内の乗り場からすぐ横手に見える距離に、ヨットハーバーとクラブハウスがその素敵な姿でフェリー乗り場の乗客の目を奪っています。ヨットハーバーに停泊している数十の大小のヨット、ハーバーを見下ろすように建つレストラン付き瀟洒なクラブハウス、いずれもランカウイ島の名を国外に広めるにふさわしい存在ですね。
そのヨットハーバーとフェリーターミナルに挟まれた浜辺の一角に、島巡りのツアー客用の小型スピードボートが離発着する桟橋が1本だけあります、長さも幅も小さな木の桟橋ですが、常時、観光客相手のきれいな小型ボートが停泊しています。この桟橋一帯には建物もなく地面も舗装されてないので、あまりぱっとしませんが、時折発着するボートがそこも波止場なんだなと感じさせます。(このトピックスに関係ある写真は旅行者・在住者のためになるページの「ランカウイ」項目に載せてあります。後でご覧ください)
ここまではいかにも観光の島らしい風景です。でもこの桟橋は単に観光客相手のスピードボートの乗り降りのためだけにあるのではありません、ランカウイ島外の小島に住む住民の足である連絡ボートが離発着する桟橋でもあります。しかしこの桟橋の大部分は観光客相手のスピードボートに占領され、島からの連絡ボートは桟橋の根元部の一部を使用しているにすぎません。
連絡便がずっと少ない小さな島とランカウイ本島をつなぐ連絡ボートは桟橋も使えず、それはその船の高さが桟橋に合わないのか係留の権利がないのかはっきりしませんが、桟橋でなく桟橋横の浜辺に直接着きます。といっても完全に水がない場所にボートが止まるわけではわけでないので、10人前後の乗客はひざ下ほどの深さの波打ち際に飛び降りなければなりません。マレー衣装のBaju Kurungのすそを捲って船首から波打ち際に飛び降りる女性や子供、小さな子供を抱きかかえてなんとか足を下ろす女性、この様子だけをみると、一瞬離れ島の浜辺についた連絡ボートを思わせます。しかしここはランカウイなのです。
すそをぬらしながら水際に飛び降りる島民は、カメラを肩からさげサングラスをかけ、桟橋を歩いている、スピードボートで出発を待つ観光客に何を思うのでしょうか。
みすばらしい屋根もまともにないその小さな連絡ボートから数十メートルも離れてないところには、1漕何十万か何百万リンギット知りませんが、瀟洒なヨットが停泊し、白人たちが時折行き来しています。
またそこから数十mしか離れていないフェリーターミナルの桟橋には冷房付きのかっこいいフェリーが碇泊しています。そのターミナルの間際には ”Welcom to Langkawi" の大きな看板。それぞれの島から毎日ランカウイ本島へ渡ってくる島民の目にこの看板はどう映っているのだろう。もっとも島民は多分波止場の風景なぞ気にしないのかもしれませんね。
この島巡りの観光スピードボート用兼渡島連絡ボート用の桟橋の近くにはみすぼらしい小屋があり、木の簡単な長椅子が数個、その前に木で作った椅子が数個、少し離れた所に木の下にも椅子がいくつか、たったそれだけが渡島連絡ボートの乗客つまり島住民の”待ち合い場所”です。雨が降ってもまともに雨除けの場所はありません、暑い太陽の光をどうやら遮る程度です。毎日行き来する島民の待ち合い場所を雨の防げる小屋に”格上げ”しても、ヨットハーバーに碇泊する小型ヨットのいかり1個ぐらいのものではないかな。
筆者はそこに座って新聞みたり人々の様子を見ながら Pulau Tuba行きの連絡ボートの発船を待っていました。いやがおうでも目の前のヨットハーバーが目に入ります。島の住民は一生乗ることはないであろう高価なかっこいいヨットが碇泊したヨットハーバーとクラブハウスが数年前に建設される前から、この木の下待ち合い場所と連絡ボートはあったはずです。ヨットハーバーできたからといって、ランカウイ島へ通学通勤又は買い物に渡ってくる島民にきっとなんの感激も影響もないのでしょう。
島住民の連絡ボートが到着すると、大抵の乗客は浜辺で待っているバンに乗ってどこかへ立ち去っていきます。
さて観光客におなじみの Plau PayarとかPlau Dayang Buntingへはここから観光ボートがでます。ランカウイの何十とある島にはほとんど住民が住んでいませんが、その中で一番島住民の数が多い Plau Tubaへは Kuah 波止場のこの桟橋から連絡船が出るのです。Plau Tubaへ渡る連絡船のほとんど全部は島住民ですし、他の小島への連絡ボートもいずれ島住民専用と言って間違いないようですので、この桟橋付近にはボートの行き先表示とか発着時刻の表示はまったくありません。ですから待っている住民に聞くか、桟橋に着いたボート操作者に聞くしかありません。人が適当に集まったら出発ですから、乗客はただ気長に待つしかありません。
1時間を超える待ち時間後に、PulauTuba行きの10人の乗りほどの小さなボートが出発することになり、筆者も乗り込みました。Kuah海峡を超えてPulau Tubaへ渡る間ゆれるしぶきのかかるボートからみるランカウイの風景は、半島から高速フェリーでKuah波止場につく時の風景とは違って感じますね。それは乗った船の大きさの単なる違いと冷房のあるなしの違いに起因するものなんでしょうか。
オープンハウスとは、マレーシア特有の意味を持たせた言葉です。祭日とか何かのお祝い事時に、住居、宿舎などを民族宗教に関わらず普段は直接関係ない人に開放して、飲食物を無料で供することです。オープンハウスがもっとも盛んな時期は、何といってもムスリムの祝日であるHari Raya Puasaの時です。その他中国正月とかデーパバリ祝日時にもオープンハウスが主に政界人によって開かれますが、Hari Raya時の方がずっと盛んですね。この時は単に政界人だけでなく、普通の人たちも家族友人同僚を招いてオープンハウスを催す、と言われています。
さて今年のハリラヤプアサの初日(1月19日)にスランゴール州の州首相主宰のオープンハウスが開かれることを知ったので、筆者は車を持っている友人を誘って行ってきました。場所は州都シャーアラムの高級住宅地の一画にある州首相官舎です。車がないととても不便なところですが、その近くに着いたら、千台をはるかに超えると思える駐車がすでに道路一帯を占領していました。 皆さん、よく知ってますね、というのがまず感じたことです。もっとも官舎でオープンハウスは毎年開かれるのでしょうから、興味ある人なら知ってて当たり前ですけど。
マハティール首相初め政界トップ人のオープンハウスの話題はいつも新聞に載るし、また州首相官舎が一般人に無条件で開かれるのは、恐らくこの時しかないので、筆者はそれがどのような行われ、官舎内部がどれほど大きいのか実際に見てみたかったわけです。昨年マハティール首相のオープンハウスに行ってみようと思ったのですが、首相官邸までの足がなくてあきらめました。
官舎の門をくぐると、すでに多くの訪問客が食べたりまたは料理を求めて動き回っていました。バイキングスタイルの料理が並んでいる庭のテーブル前は人また人の混雑で、皿とかフォーク類が訪問者数に比してずっと不足していたので、まず皿を手に入れることから始まり、さらにテーブル前で順番を待ちと、料理を取るまでに一苦労です。いつもながらのマレーシア人流の我先現象ですから、おとなしく後ろに並んでいてはいつまでたっても物にはありつけません。もっともオープンハウスの無料飲食自体には初めからそれほど期待してませんでしたが、やはり満足な料理は食べられませんでした。
料理を入手しても庭に取り付けられたテント下のテーブルと椅子は既に満席とゴミの山で、立って食べてる人も多いのです。官舎の冷房付き大ホール内でもバイキング料理が振る舞われており、そこの方が各種料理豊富ですが、まあ料理食べるのが目的でないので、そういうことはあきらめ人々の姿を眺めておりました。とにかく実に人が多い、次から次へと訪問者がやってくるのです。21日の新聞は、1万5千人が訪れたと伝えていました。
無料飲食に引かれてやってきたのか、筆者のようにもの珍しさでやってきたのか、それとも州首相と握手するためにやってきたのか、知るすべはありません。官舎内の1室では州首相が訪問客と握手していたそうですが、筆者にはそういう興味は全くありませんので、パス。
マレーシアの催しにつきもので見慣れた光景に運転手付き高級車ベンツの群れがあります。官舎の門に立つ警備の警官、意外にもたった2人しか目に入らなかった、の許可を受けて庭先まで入ってきて、我がもの顔で駐車しているベンツの数は10台を超えていましたが、どうせ州かUMNOの高官か又は友人や親戚一族でしょう。たまたまベンツから降りてきたのはきれいなBaju に身をくるんだ子供とその母親らしき一行でした。政治家とか州幹部だけの集まりならともかく、一般向けのこういう機会にもVIP待遇を好む又はそれを許す風潮は筆者には理解できませんが、マレーシア人はそんなこと当たり前さのごとく気にしてないようですね。
筆者はこのオープンハウスに行く前は、訪問者はマレー人が絶対多数だと思っていたのですが、そうではなく華人とインド人の訪問者が合わせて半数近くを占めているように見えました。こういう各民族の垣根なくハリラヤのひとときを、その目的は何であれ、いっしょに祝うことができることがマレーシアのよさですね。きれいなインド衣装、サリーなど、に身をまとったインド人、Baju KubayaやBaju Mulayuを着たマレー人、カジュアル着の華人と衣服は様々ですが、無料料理にありつく心とハリラヤを楽しむ心は互いにどこかでつながっているわけです。
世界に断食月明けのハリラヤプアサを国家挙げて祝うイスラム国はいくらでもありますね。しかしムスリムだけ又は絶対多数の国でムスリムだけがハリラヤを祝うのでなく、ムスリム人口が3分の2を切る国で、少数派民族も混じって、少なくとも表面上は仲良くハリラヤを楽しんでいる、そういうマレーシアの良さはやはり強調すべきですね。いい悪いは別にして、一般に権威を持った者に弱く比較的従順なマレーシア人ですが、民族間の融和を成功裏に成し遂げた利点はやはり賞賛に値する、と筆者は思います。
但し下記のような見方もあることを付け加えておかねばなりません。それがなければ今年のマハティール首相のオープンハウスに4万人、アブドゥラー副首相のオープンハウスに3万人もの訪問者があったことはちょっと説明がつきませんからね。
「そういう機会にオープン訪問する人の多くが精神病をわずらっている訳ではない、個人的欲張り心と自己中心主義をわずらっていると考えます。キーワードは”無料”なんですよ。だから多くの会社がマーケッティング手段として販促手段としてその”無料”を利用するのです。 オープンハウスの場合、無料飲食がたいへん人を誘惑するのです、特にハリラヤ時は多くの店が閉まっていますから。」と地元大学のある心理学者は、オープンハウスに集まった人の”我先現象”とマナーの悪さを批評しています。別の学者は「人がやれば自分もやっていいという、群集心理もあります。」
参考:この様子を伝える写真が旅行者・在住者のためになるページ内の「休日とカレンダー」にありますのでご覧ください。
クアラルンプールで一番観光客に好まれるというチャイナタウンですが、そこから一本道路を挟んだところに位置するセントラルマーケットは、マレー民芸品を中心とした土産店がたくさん入居していることで知られています。それだけでなく有名中国レストラン、パブ、インド料理大衆レストランもあり、屋内ホーカーセンター(屋台風の店が集まっている)も2階にあります。ですからいつも外国からの観光客がうろついているし、マレー人を中心にしてマレーシア人もよく訪れるところです。
セントラルマーケットの裏には小さなステージがあり、時々マレーシアの民俗芸能などが上演されますし、正面玄関前にも特別シーズンには特設舞台が作られ、芸能が演じられます。筆者もそれを見にたまに訪れます。
さてセントラルマーケット脇の道路を Jalan Hang Kastriといい、車の通行のないいわば歩行者天国です。ここは平日の朝と昼は別にして、マレー人若者がたむろする場所なのです。土曜日の午後から、祝日を含めて日曜の夜までこの小さな通りはマレー若者に占領されるかの様相を示します。その中にはマレー人カップルや少し年配のマレー男性ももちろん混じっていますが、なんといっても若いマレー男が圧倒的に多いのです。彼らは何をするでもなく歩道の縁や街頭樹の下段に腰をかけ、たむろしています。そのスタイルにいわゆるしゃがみスタイルが結構あるので、なんともおかしく、どこでも若者はこういうことが好きなんだな、と苦笑します。
最近はこのマレー人若者の群れとは別に外国人労働者のグループをちらほら見かけるようになったのですが、それでも力関係はほとんどかわりません。なおこの通りではマレー人のよく物売りが地面に物を並べて売っています、もっともこれは違法なので取り締まりに合うこともあるのです。蛇足ですが、怪しげなマレー香具師を見たければチョーキット地区へ行くことをお勧めします。
華人の若者連れはここを通り過ぎることはあっても、この通り付近でたむろすることはまったくありません。無理もないでしょう、これだけマレー若者が集まってればちょっと場違いに思えますからね。でも華人若者には彼らのうろつき場所があり、チャイナタウンで近頃はやりの音楽喫茶店とかゲームセンターでたむろしており、見事な”すみわけ現象”が見られるので、ちょっと興味深いのです。もっともゲーセンではどの民族の若者も遊んでますけどね。
クアラルンプールの中心街にあって若者中心に集まる場所は、ここに限らずほとんどが民族別のつどう場所があり、マレー系はといえばこのセントラルマーケットとそこから程近い Kota Raya ショッピングセンター、Tuanku Abudul Rahman通りの Pertama ショッピングセンター付近などです。Chow Kit界隈はいうまでもないのでここでは触れません。Tuanku Abudul Rahman通りにある有名な SOGOデパート自体はいろんな民族が買い物とウインドーショッピングするのですが、SOGO玄関前のちょっと踊り場と階段は、セントラルマーケット脇と同じくマレー若者男たちのたむろ場所です。日曜日の午後などその幅ひろい階段に大勢の若者、ほとんどが男ばかり、が腰をかけておしゃべりしたり、何をするともなく時を過ごしているのです。
バスやバイクでやってきた彼らは若年層で間違いなく低所得者層ですから、当然 SOGO内の高級なレストランやちょっとしゃれた喫茶店には手が出ないのでしょう、安上がりな Sogo横の Pertama ショッピングセンターのホーカーセンターなどで飲食し、仲間とSOGO前でつるんでいるのです。
この両方のたむろ場所に共通するのがマレー人若者たちの身なりと行動様式です。集まっている若者は圧倒的に男ばかりでその身につけている服装がジーンズに色彩感のない長袖シャツかTシャツ又は襟首シャツという決まったスタイルですから、描写することばは悪いが、電線に集団で停まっているすずめみたいに感じます。若い男ばかりで、「おまえたちはいつもいつもそんな同じ所ばかりに集まって何やってるのだ、彼女くらいいないのか」と心の中で思います(もっとも人のことは筆者もいえませんけど、それは置いておいて)。ただこう思うのは私ばかりでなく華人でも同じようで、あそこはマレー若者ばかりつるんでいるけどあいつら何してるのだろうと、時々言ってますよ。
ただマレー若者男性の名誉のためにも言っておかなければならないのは、なにもこういう風に群れたがるのは、マレー人ばかりでなく華人もインド人も同じだということです。いろんなショッピングセンター、映画館、バスターミナルなど人の集まる場所で観察していれば、仕事上は別にして、自由時間はやはり同じ民族同士で行動しているのがごく普通です。そしてマレー人、華人の若者もインド人の若者もやはり同性同士が互いにグループで行動する方が多いですけど、その中では華人が一番男女混じって行動している割合が多いように見えます。
でまたマレー人若者たむろ現象に戻るのですが、それが目立つのはやはり彼らの集まるのが、有名場所だからでしょう。セントラルマーケットもSOGO前もクアラルンプールでは知られた場所ですからね、それにマレー人が一番数が多いから目立つからというのもあるでしょう。少数派のインド人では目立つ所を占有するなんてできませんからね。
先年政府や教育界の幹部が、若者のたむろ現象を非難して、学校教育の欠点を批判していました。こういう風にあてもなく若者が集まってぶらぶらすることを Lepakとマレーシア語でいうのですが、それが流行語になったぐらいです。この頃そのことばはほとんど聞かれなくなりました。別に若者のLepak現象が減ったわけではありません。学校での教育を多少変えたぐらいでこういう若者行動はなくならないでしょうし、禁止しきれるものでもないでしょう。都会の華やかな生活をつかみきれない又はなんとなく違和感を感じる若者が友達と連れ立って、いつもの場所にやってきて、くだらないおしゃべりをして過ごしていく、まあこれも都会の一面といってもいいのではないでしょうか。
そんな風に筆者は理解しようとしてます、でも男ばかりというのこれはどうもなじめませんな。
マレーシアの公的書類とか私企業、例えば銀行の申込書などに、性別と年齢以外に、よくその人の民族の種類を示す欄が設けてあります。次の当てはまるところに ”x”印を付けなさい、Malay, Chinese, Indian, Others という風にです。書類によっては Othersの場合は( )内にその民族名を書きなさいというのもあります。その名を書く欄がない場合、じゃ「私は特定の民族でなくて”その他”なのか、その他のマレーシア人なのだ」というような気持ちを抱いても、その人の立場に立ってみれば、おかしくありませんよね。
この Others つまりマレーシア語の書類なら Lain-lain という範疇に入るのは、総人口2千2百万の約1割ですから、決してそんなに少ない数ではありませんね。しかしそのLain-lainを構成する民族数は数十に上ります。特にサバ州サワラク州は先住民族数が多いので、民族名を全部あらかじめ書類に印刷しておくのはわずらわしい、ということは理解できます。しかし、Others ( )のカッコがないのはどうもいただけませんね。
おことわり:民族とは部族とは何かという定義はここで扱いません。そこまで踏み込むと専門家ならそれだけで1冊の本になりますから。またマレーシアには一つの民族 Satu Bangsaしかないんだという、政治的プロパガンダ又は政治的概念上の民族論の立ち場を筆者はとりません。
さてサバサラワク州はとりあえずここでは扱わないとして、半島部の Othersの筆頭に来るのは、多分オランアスリかもしれません。彼らはマレー半島の先住民族であると言われ、マレーシア政府の定義ではマレー人やサバ・サラワク州の先住民族と同じくBumiputeraつまり大地の子と言う意味の範疇にはいります。尚タイ系マレーシア人、先祖がスマトラから渡ってきたインドネシア系マレーシア人などもBumiputeraに含まれますが、華人とかインド人はこのBumiputeraには含まれません。
オランアスリをマレーシア政府内のオランアスリ関連庁による分類では、オランアスリ、人口10万弱、は3つのグループに分けられています、Negritos 約3千人、 Senoi 約5万人、Protp-Malay 約4万人強です。ただそれぞれのグループで更に慣習と信条と儀式を同じくする下位グループに別れているそうです。
一番少数グループのNegritosは遊牧民で、居住地は半島部全体に及んでいますが、北部州のPerak州、Kelantan州に比較的多いそうです。Senoisは本来は遊牧生活をしていたそうですが、今はPerak州、Kelantan州、Pahang州の丘陵地に定住しているのが多いそうです。それでも焼き畑の慣習は残しているようです。伝統的マレーカンポンの周辺に居住している Proto-Malayは、主にSelangor州、Negri Sembilan州、Malaka州、Johor州に住んでいます。
歴史学者によれば、こういうオランアスリの先祖は1万年前から3千年前までに中国南方から少しずつマレー半島部に移住してきたのです。そして多くのオランアスリは今もその伝統的生活である森の産品の採集生活と陸稲、タピオカ、メイズ、バナナなどを栽培する農業生活を維持しているそうです。このため必然的に彼らの村落・部落はジャングル周辺が主体にとなりますね。もちろんBlowpips(吹き矢)を使った狩猟と罠網を使った魚取りもその生活の一部だそうです。
「もっと知りたいマレーシア」などのマレーシアの解説・教養書をお読みになった方なら、書中でもオランアスリに軽く触れられていますから覚えてる方もあるでしょう、また国立公園Taman Negaraの案内パンフでもオランアスリ部落訪問などを載せていますから、その名前を聞いたことのある方もいらっしゃることでしょう。でも実際に会った、又は話した方はずっと少ないことと思います。筆者も旅をしていてごくたまに見かけたりする程度で、かるく言葉を交わした以外は、本格的に話しかけたことはありません。
先日人に連れられてスランゴール州のKuala Langat地方にある河川に面したレストランへいった時、そこで何人かのオランアスリの若い男女が働いていました。筆者は初めその姿格好からてっきりインドネシア人と思ったのですが、そうではなく、対岸の Carey島から働きにきているオランアスリだったのです。このようにオランアスリに出会うのは伝統的生活を守って暮らす僻地の村とか町の周辺であるとか、高度技能を要さない単純労働現場になってしまいます。もちろん公務員であるとか会社で働いているオランアスリももちろんありますが、数が極めて限られており、一般人にとってはという但し書き付きです。
それほど一般マレーシア人には接触の少ない民族ですから、ニュースの主流として登場することはありません、ニュースに現れるオランアスリは、開発の影響を受ける部落の民としてであり、就学率が多民族に比べてずっと悪く低所得の民としての扱われ方がほとんどです。それ以外に登場するのは、ジャングルトレッキングのガイドとしての森の人としてのイメージですね。
正直いって筆者も深いことを知らないので、残念ながらそういうイメージが中心になってしまいます。
オランアスリ人口ははマレーシア総人口の1%にもはるか満たないわずか10万人ほどですが、今だにマレーシアの各民族中で一番貧しいグループで、その8割が貧困層です。この理由からまたはその結果からか、オランアスリコミュニティーは国の発展の主流から取り残された状態にあり、それが時々ニュースに取り上げられるのです。
「オランアスリを管轄する関係当局も一般大衆もオランアスリの活気のない生活態度を非難しているのは悲しい現実です。オランアスリコミュニティーの社会的経済的発展を図って政府が割り当てた金と努力にも関わらず、彼らの発展速度は依然として遅いのです」と新聞The Starの記事は分析しています。
この発展への妨げに立ち向かっているのが、コミュニティー研究と開発のための基金の僻地開発部門です。5年前に始まったそのパイオニア計画では、パハン州のPekan地区に住む5000人の Jakunコミュニティーの開発を目指してきました。「私たちの究極的目的は、地区のオランアスリが自分たちでできるようになることであり、発展の流れに統合化されていくことを見守ることなのです。」とこの僻地開発部門の代表は語っています。「彼らに他人依存症になって欲しくない、自立的で自分たちの運命を切り開いてほしいのです。」
この基金が直面する一番の困難な点は、オランアスリの思考法を変えていくことだそうです。基金がこの Jakunコミュニティー向けに起てた発展計画は当初2年計画だったのですが、それが5年に延びました、「思考法を変えていくには思った以上に時間がかかるものだ。一番の問題は彼らは人生をただ与えられたものだと捉え、自分たちの生活を向上させていくということを考えないことです。多くの人はこれを怠けからくる無気力状態と見ますが、これはオランアスリがさらされている情報が不足していることと彼らの生活している現状況から影響を受けていることが多分にあるのです。」 「我々は、オランアスリが自身で生活を変えていけるんだという自信を、なんとか彼らに植え付けようとしているのです、彼らは生活を向上させたいのです。」とこの僻地開発部門の代表は語っています。
この基金の実施するオランアスリ発展計画は6段階からなり、貧困軽減への話し合い、基本的インフラを建設、教育プログラム、収入を得るプロジェクト作り、コミュニティーを構成する、オランアスリ自身による貸付金組合を設立する、からなるそうです。こういう計画とプロジェクト実施にさいして、基金はしばしば公機関であるオランアスリ庁、半島部オランアスリ協会、その他州の保健所と農業部と連携するとのことです。
僻地開発部門の代表は、こういう公的機関のオランアスリへの対処の仕方に苦言を呈して、「物をあげるという方法はオランアスリに慈善への依存症を増すだけだ、発展のための対処法は命令式でなく参加型であるべきです。」と。関係当局がオランアスリに、どんな発展が彼らにいいのかということを課してしまう傾向があるという批判です。
この僻地開発部門はオランアスリからの信頼を得、彼らの思考法を変えていくことに困難を感じながらも、その任務にはやりがいがある、と語っています。
こういう話を読むと、確かに少数派で”遅れた”民族のオランアスリ問題は一筋縄でいかないことはよくわかります。オランアスリがその伝統的生活法と思考法を短期間に変えることができるのかどうか知りませんが、それが本当に彼らのためになるのかな、という疑問もわかないこともないではありません。僻地に住み都会の暮らしとは一線を画している彼らが、いくらがんばっても他民族に経済的にかなうことはないでしょう。もちろん政治面でも同じです。わずか10万人の極少数派では政治的に力を持ち得ませんから。
しかしまともな上水設備も電気もなく暮らしていく生活、町の外れで文化生活から切り離された集団のごとく生活している現状を知れば、それではいけないという気も強くします。これは世界至る所にある、主流の繁栄から切り離された少数民族に共通する問題です。いくら考えても簡単にうまい処方箋の出る問題でないことは確かです、決して開発か伝統生活保護かの2者択一では片付かないのです。
このコラムは98年12月27日付けThe Starの「貧困の中で」という記事を参考にしました。コミュニティー研究と開発のための基金は93年に設立されました。基金には研究、訓練、僻地開発、都市開発の4つの部門がありいろんな活動をしています。 Foundation for Community Studies and Development: 電話 03-6169854
先週(2月第1週末から翌週にかけて)またスマトラ、インドネシアを訪ねてきました。そこでスマトラで考えたマレーシア社会とインドネシア社会、ここではスマトラ社会、の比較を軸に再度そのことお伝えしましょう。当サイトはマレーシア専門を歌っていますから、インドネシアのことを伝えるのはちょっとおかしいのではありますが、広い意味でのマレー・インドネシア社会に関係あるという意味ですから、今回はご理解下さい。
日本人だけでなく欧米からの旅行者を含めて、バリを別にしてインドネシアはまだそれほど身近な存在ではありませんね。インドネシア旅行といえばバリ島一辺倒で、その情報はあふれていますね。日本語のそういう情報に疎い筆者でも、本屋へいけばバリのAからZまでを面白おかしくまたうんちくを傾けた雑誌風本やガイドブックが並んでいる事を知っています。これはそれだけバリを売るインドネシアの政策が成功した証拠でもあり、旅行者が何を求めているかの嗜好・傾向をしることができます。 バリ以外に売るものは首都ジャカルタと古都ジョグジャカルタとボドブドール遺跡、バンドンそれぐらいしかないでしょう。それとバックパッカーならロンボク島、ダイバーならスラウエシの一部ぐらいかな。
インドネシアは西端のスマトラのアチェから東端のイリアンジャヤまでの距離 5000Kmは、日本からジャカルタの距離に匹敵するほど離れており、インドネシアの国を構成する島の数は実に1万を超えるのです。それほど超広大でまとまりのない地形で構成されるインドネシアは人口2億を超える世界の大国です、またムスリム人口が世界一というイスラム国家でもあります。超広大で超多数の島からなるインドネシアですから、民族の多様性はいうまでもありません。
これをみると多民族複数宗教のマレーシアも、地理的には半島部とボルネオ島部だけの2分割社会ですから、その構成の複雑さではインドネシアにはかないません。サバ州サラワク州にいくら数十の先住民族が住んでいるといっても陸続きですし、インドネシアのように人口巨大ではありません。幸か不幸かボルネオは植民地列強によって勝手にオランダ領とイギリス領に線引きされ、それが現在のサバサラワク州とカリマンタンの国境になってしまったのです。サラワク州の最大民族イバン族はサラワク州だけに住んでいるのでなくカリマンタンにも住んでいるのであり、サバ州にバジャウ族はスルー海を根城としてフィリピンにも住んでいます。
このように国の境は即民族の境ではありません。歴史の中で植民地勢力や時の為政者の気まぐれで、勝手に線引きされる例は世界至るところにあり、インドネシアの例もそれに漏れません。こういうことを考えると日本はなんと幸せであるかとつくづく感じます。島国としての国境が民族のとしての境にほぼ重なり、不幸な北方領土と沖縄の一部のの例を除いて、まことに均質な社会でありつづけてきたのですね。
こういう均質社会で生まれ育った日本人には諸民族が入り交じった非均質な社会と交わると戸惑いを感じ、またその社会の非効率さを嘆く事が多々ありますが、よく考えていただければおわかりのように、異質な者たちが互いに交流すれば習慣言語などのすべての面である種の妥協が必要であり、”完全”を期待できないのです。あうんの呼吸で互いが理解できるのはやはり同質的社会か又はある民族だけが絶対的な権力をもった社会です。
異質な交じり合った社会では共通言語も時として流動し、それがリンガフランカの発生を生むのです。リンガフランカはあくまでも交易・交流のための言語であり、それで思想を語り小説を書くものでは本来ありません(例外はある)。マレー語はもともとこういうリンガフランカとしても使われていたのですが、マレー半島ではそれがマレー人の母語であったのと対照的に、インドネシアではそれを母語としたのはスマトラの東海岸マレー部族にとどまっていました。そこからマレーシア語とインドネシア語の生い立ちと発展が違う事になり、現在の同根ながら結構違うという状況を生み出しました。(互いに通じないということではない)
インドネシア語は今でもインドネシアでは多くの人にとって母語ではないのです。国語であり公用語でありますから、通用度は相当高いのですが、低教育層にとってまだまだ各民族のことば、例えばジャワ人ならジャワ語、アチェ人ならアチェ語、が彼らの母語なのです。「それぞれの地域におけるインドネシア語のできない人の割合、中部ジャワ50%、バリ島48%、スマトラ29%など」 (言語学者の柴田紀男氏のことばより)。インドネシア語が民族間のコミュニケーション用言語つまり族際語であることがまだまだ強いわけです。これがマレーシアですと族際語の地位を占めているのがマレーシア語だけでなく英語もそれに加わります。
さて話をスマトラに戻せば、スマトラはインドネシアで2番目に大きい島、28万8千平方キロですから半島部よりはるかに大きいのです(マレーシア全体で33万平方キロ)。歴史的に言えばマレー半島部とのつながりが強く、例えばイスラム教はスマトラ経由で伝来しました。又マレー人がスマトラの東海岸に移住したりスマトラからマレー半島に移住した民族もあるのです。その代表がスマトラのミナンカバウ民族で17,8世紀にヌグリスンビラン州へ移住してきたのです。ヌグリスンビラン州の州都スレンバンに見られるミナンカバウ建築は有名ですね。
当然なが交易面でも半島部とスマトラはつながりが強く、15,6世紀にはマラッカ海峡王国が半島部とスマトラ中部に栄え中国とインドを結ぶ交易の中継地でありました。地図をご覧になればよく分かりますが、マラッカ海峡はたいへん幅が狭く、スマトラの属小島から半島部の一番近いところまでなら小船で1時間ぐらいです。半島部のマラッカからスマトラのドマイまで毎日往復しているフェリー便は2時間ほどで海峡を横断してしまいます。いまではその近さからインドネシアからの不法労働者の半島への上陸があとをたちません。非合法インドネシア労働者を移入するシンジゲートがあることは公然の秘密です。
このところ何回も足を運んでいるスマトラで会った人々のなかにはマレーシアへ出稼ぎに行って帰ってきた人も数人いました。スマトラでそういう人を探す事は決して難しい事ではありません。だから偶然筆者も数回そういう人とことばを交わしたのです。
このようにスマトラはマレー半島部と昔から密接な関係があったことを考えながらスマトラを旅すると、また違った興味が湧いてきます。マレーシア、特に半島部が周辺地域と関係なく存在する事はありえません、マレー半島部と北スマトラ東海岸との民族・言語的緊密さと歴史的つながり、及びタイ南部の数百万人のムスリムとの宗教的面からのつながり(タイは決して微笑みと仏教だけの国ではありませんよ)は、誤解を恐れずに言えば半島部とサバサラワク州のつながりよりも歴史的には深いのではといえるほどです。もちろん現代では一つの国ですから政治的には強いものがありますけど。
筆者はこの3地域、北スマトラの東海岸、タイ南部、マレー半島西海岸をトータルに考察する知識を持ちあわせていませんから、これ以上ここで解説できないのが残念です。
この1年数ヶ月の間に、スマトラでの97年山林火災以後、筆者は4回スマトラを訪れてきました。昨年後半からはインドネシアの不安定社会情勢のもと、多少緊張を感じる場面もありましたが、マスコミが伝えるほどスマトラは不穏ではありません。今回は主に西スマトラとRiauと呼ばれる地域を駆け足で回りましたが、そこでデモや暴動が起こっているわけではありません。いつもながらマスコミの特に西欧マスコミの誇張した報道にはひとこと言いたくなります。
口をかわした何人かのインドネシア人は言っていました、「西スマトラはaman です」つまり平和ですと。確かに社会に緊張は感じられませんでした、しかし町や村にあふれている巨大人口の圧力とインフラの悪さを見ると、完全に安心してはいられません。
ここでひとこと言っておきますと、多くの人は暴動とかが恐いとお考えですが、もちろんそれ自体は恐い、実際はそれよりも人心のすさみが恐いのです。暴動はそういう所へのこのこ出かけていかない限りそれほど恐くないのです。社会状況が不安定で治安が悪いと、暴動とは関係ないところで、つまりなんの変哲もないところでちょっとしたことがきっかけで脅し時には強盗などが起きやすくなるのです。筆者はバスターミナルなどでしつこくまつわりつくインドネシア人には慣れてますからいつも適当にあしらうのですが、一度その若者の態度が急に硬化した時ひやりとしたものです。スマトラの人たちの多くは粗雑ですが心は優しく別に危険など感じませんが、ものすごく刹那的に暮らしている人々が時に目立つので、なんでもないことがきっかけで襲われるという可能性はゼロではありません。完全単独行動する筆者はそれが心配なのです。
前回まで筆者は主にスマトラの最北部ACEHを回っていましたが、ここは東チモールと並ぶインドネシア内でもっとも自治意識の強い地域且つ民族なので、それを押さえつける軍隊の駐留が目立ち、インフラの極端な格差が目に付いたのものです。Acehの貧しさを目の当たりにすると形容しがたい気持ちになります。そのためAcehではこれまでに何回もジャカルタ中央派遣の軍隊と衝突しており数十人の死者が出ていると報道されています。私が訪れた町ではその数週間後に衝突がありましたし、今回もスマトラへの出発朝に読んだ英字新聞の記事にはAcehの一部で暴動が起きている事を伝えていました。そのためもあり筆者はスマトラ内での周遊地を多少変えたのです。
インドネシアの国内テレビ放送を見ていると東チモールの騒乱が何回も映し出され、次の放送ではジャカルタのデモ状況が写し出されるといった具合です。これらに比べればマレーシアで昨年起こったアンワル支持派のデモ・集会行動などほとんど子供の火遊び程度で、これを大袈裟に伝えた西欧や日本のマスコミは何を意図していたのかと勘ぐりたくなります。
インドネシアの状況は昔筆者がジャワを歩いた頃(80年代)の政治状況とはものすごく変わったと実感しました。今回長距離バスの後ろガラスに、反対野党第一党の有名なムガワティ女史とイスラム運動の指導者アミンライスの写真が掲げてあるのを見て驚きました。又彼らとちょっと話し込んだりすると、時々アンワルはどうなっているのかと私に聞き返してくる(私はいつもマレーシアから来たと答えるしマレーシア語で話すので、彼らは私をマレーシア人だと思っている)そんなことがこれまでに数度ありました。人々がこういうことをある程度オープンに口にする雰囲気が今のインドネシアにはあるのですね。町の新聞スタンドには暴動を伝える新聞や雑誌がこれ見よがしに並べてあります。
その一方、一般人は誠に新聞を読まない、ある程度の町でないと新聞(もちろんインドネシア語紙だけ)そのものが手に入らないのです、村規模では新聞を売ってない、だから読まない、読まないから売れない、そんなところでしょう。もちろん極貧困層は新聞などに金を払う余裕がないせいもありますが、そういう人でもひっきりなしにタバコを吸っている、男の喫煙率は100%近いのです。どうやって人々は情報を得るのか、間違いなくテレビとそれと人口の膾炙ですね。伝統的村社会が生きています。このあたりは新聞ぐらいならどこでも入手できるマレー半島部の田舎とは違うなという気を強くします。
こういうある意味では流動的状況ですから、筆者の訪問したいずれの回もほとんど外国人旅行者に出会いません。世界のいたる離島にいる白人バックパッカーにも、離島へ渡る町を除いていろんな所で会う事は極めてまれで、ダイビングスポットのWeh島と今回訪れた高原の町Bukittingiでいくらか見かけたぐらいで、町から町へ村から村へと走るおんぼろバスや乗合いバンでは一度足りとも白人バックパッカーと一緒になりませんでした。安宿でもいっしょになりませんでした。
4回の旅で日本人を見たのは1回だけそれも上記の場所です。これほど外国人旅行者が少ないのは希有の事です。今や東南アジアのどこへ行っても、タイやマレーシアはいうまでもなくベトナムであれミャンマーであれ日本人若者のバックパッカー姿に出会わないのはたいへん珍しいのですが、スマトラは全く違います。有名観光地のレイクトバや離島のバンガロー、メダンなどの都会のホテルを除けば、バスターミナルへ行こうと田舎の町を歩こうと外国人旅行者はいません。20年ほど前の東南アジアの状況ではないかと思えてくるほどです。
マラッカ海峡を飛行機で50分渡るだけでこれほど違った状況にあるのは不思議な感慨を覚えます。スマトラ社会が極端にマレー社会と違うとは感じませんが、その粗忽さといい加減さはマレーシア社会に慣れた者にも時としていらだちを覚えさせます。例えばこのいい加減さのため今回筆者はMedanまで戻れなくなり急遽別ルートでマレーシアに戻りました(バスターミナルで待っていた長距離バスが何時間も到着せずそのあげく、バスは故障したとのひとことで片づけられた、向こうで買った飛行機の切符に書かれた時刻が実際の出発時刻より2時間も遅れていたため、間一髪で乗り遅れるところでしたなどなど)。
マレー半島部とスマトラ社会の歴史的緊密さが経済発展度という座標によって隔てられてしまったなと感じたのです。スマトラは多くのマレーシア人それに外国人にとっても近くて遠い国ですね。しかしもう半島部では味わえないワイルドな旅がスマトラには残っているから筆者はまた出かけるでしょう。
中国正月(2月16、7日)の約1週間クアラルンプールの街は普段よりずっと静かになります。それはクアラルンプールの住人に華人が多いため、経済活動が休息し多くの華人が新年祝い、里帰りすることが主要な理由ですが、マレー人など他の民族もこの休日を利用して里帰りや旅行に出かけるからです。他の民族の祝日でもちゃんとそれを利用して楽しむのがマレーシア流なのです。2日間の祝日が終わっても華人はまだ休んでいますから、店、会社、工場ではマレー人とインド人それと外国人主体で少しずつ営業活動を再開するわけです。
筆者はこのところ、この休日前後も含めてあらためて(何十回目かな)クアラルンプール一帯を歩いていますが、今回特に外国人労働者の多さをあらためて実感しました。工場や店が休みですから、そういう所で働いている外国人労働者は、里帰り旅行もしませんから、自然とクアラルンプールの繁華街とか公園をうろつくという事になります。普段うろついているマレーシア人が減った分彼ら外国人労働者が増えるのです。
このため中心部へ向かう市内・郊外バスの乗客にずっと彼らの比率がたかくなりました。時には半数以上がそういう外国人労働者と思しき乗客となります。こういう姿を見るといかにクアラルンプールとその一帯の経済活動を外国人に頼っているかが実感できるのです。外国人労働者でも姿、ことば使いから筆者に容易に見分けがつくのはインドネシア人とバングラデシュ人ですが、外見だけでは判断できないパキスタン人とかスリランカ人、さらにインド人(マレーシア国籍でない)もきっと混じっていることでしょう。
フィリピン人はほとんどが家庭のお手伝いさん(メイド)として働く女性ですが、彼女たちは普段からも毎日曜日、コタラヤショッピングセンター付近に集うのです。それは近くにフィリピン人の日曜礼拝に集まるカトリック教会があることからで、礼拝の後コタラヤ付近でおしゃべりや買い物しながらうろついていくのです。その合間にフィリピン女性はコタラヤ付近で同じフィリピン女性相手にアルバイトの物売りに励みます。
外国人労働者はそれぞれ民族毎に主として集まるところがありまして、フィリピン人は上記のコタラヤ付近、バングラデシュ人ならマスジットインディア通りやトゥアンックアブドルラーマン通り付近、インドネシア人なら伝統的にチョーキット界隈です。もちろんそれ以外にも、各種民族の混在するセントラルマーケット付近とかがありますし、コタラヤ界隈は様々な民族が集まりますから、これはあくまでも主たるということです。
店や屋台の事に触れますと、コタラヤ付近にはバングラデシュ人専用のスーパーまでありますし、チョーキットはインドネシ人相手のインドネシア料理を出す大衆食堂もあるのです。筆者の居住地区は華人地区ですが、多くのバングラデシュ人が住んでいますので、彼ら相手の屋台も数軒あります。チョキットへいけばマレー人用なのかインドネシア人用なのかわからない屋台などいくらでもあります。
こういうことはガイドブックではもちろん触れませんから、旅行者や在住者の目を捉えることはほとんどありませんし、マレーシア人に聞いても彼らはよく知りません。マレーシア人はもともと外国人労働者の文化、行動に極めて無関心ですから、詳しい事を知らなくても不思議ではありません。まあ漠然とは知っているでしょうけど。
以前にも書きましたようにマレーシア人はこういう外国人労働者の現状に冷淡というよりそれが当然の事であるととらえがちなので、日本で時々見られるように、外国人労働者を援助するとか連帯する NGOはきわめてきわめて少なく、そういう存在が新聞に載って一般に知られることはほとんどありません。丹念に新聞を読んでいる筆者でも知らないくらいですから、一般マレーシア人がそういう存在を知るこ機会はないといっても過言ではないくらいです。
このように、多民族複数宗教国家であるマレーシア人の捉える外国人労働者への態度は、均質国家日本人の捉えるものと大分違いがあります。マレーシア人にとって彼らは単なる出稼ぎ者であり、その出稼ぎ労働者は珍しいどころかマレーシアの始まる前から絶えずやってくる存在なので、そのことに取りたてて感慨もなにもないのです。日本に外国人労働者が流入するようになったのは80年代以後ですし、その存在がめずらしいものであったのと対照的ですね。このため日本人は、方や彼らを拒否する人もある一方、彼らとの交流を積極的にされる人も決してめずらしくありませんね。しかしマレーシアではそれは珍しいのです。例外はインド系マレーシア人が新しくやってくるインドからの労働者に対する感情のように、自分と同民族の外国人労働者に対する場合でしょう。
外国人労働者の比率がごく一時的に高くなったクアラルンプールの中国正月のある風景でした。
筆者は時々モスクの近くを通る事はあってもその中に入るのはめったにありません。又 モスク内へ入って行ってももちろん礼拝するわけではありません。ムスリムがどう行動しているかなと、ちょっと興味にかられるからです。ここでたまに書いてるように、筆者は(思想としての)絶対無宗教者ですから、遺跡としての宗教建築物は別にして、モスクであろうと仏教儒教寺院であろうと中に入る事をあまり好みません、それは嫌いだということでなく、宗教信者に敬意を払っているからです。物好きな筆者としては何にでも興味があるのですが、それをたてにとって、祈っている人又は施設を勝手に覗いたり写真に取って大丈夫かな、失礼じゃないかな、という心配があるから、つい避けてしまうのです。
先週見たあるモスクの金曜礼拝の様子は、そういうことをまじかで見るのは別に始めてでもないけど、あらためて観察すると、信者の熱気にすごいものだなと感心させられました。モスク内に入れないムスリムが路上にそれぞれ持参したお祈りカーぺーットを敷き、モスク内から流れるスピーカーの声とともに一斉に礼拝の儀式をします。内部には入れないのでどれくらいの信者がいるかわかりませんが、路上はざっとみても1,2千人はいるでしょう。彼らが一斉に祈る姿を見ると、宗教力のすごさを感じずにはいられません。
これはヒンヅー教徒の寺院での礼拝儀式を見ていても強く感じます。筆者の居住地の近くにあるヒンヅー寺院で先日12年に1度の宗教祭りが行われたのですが、どこにそんなにたくさんのインド人がいたかのように続続と集まって来てひたすら祈る姿を見ると、あまりのすごさに、到底筆者には理解できない人間の宗教心のすごさを感じます。
華人が毎朝毎夕、香を家や店内とドアー外に立てて祈る姿を見る時も同様ですが、ただ華人の礼拝はこのように数千人が一同に会するようなことは、葬式でもない限りありませんから、モスクやヒンヅー寺院の場合ほどのすごさを感じませんね。
さてそういう風にして礼拝していたムスリムが解散して、モスク前はまたもとの香具師の商売場所に戻ります。金曜日には多くのモスク前には、通常の数十倍も訪れる信者を期待して屋台や薬売り香具師が並ぶのですが、つい先ほど前まで神妙に祈っていたムスリムが、まことにいい加減なつまり非科学的な口上の香具師に戻るのです。その落差が面白いのです。それを眺めている観衆ももちろんムスリムですが、時に香具師の薬を買っていきます。効く効かないはその人の思い込み次第でしょうから、筆者の口を出す事ではありませんけどね。
この屋台群の中には、裁判拘束中のアンワル前副首相の支持者のグループがバッジや関連雑誌、カセットテープ(全部マレーシア語のみ)を売っています。加えてイスラム原理主義政党 PASの機関紙も売られています。これらは別に隠れてとかこそこそとかでなくまったく堂々と、マスジッドジャメの前では警察官の目の前でした、売られており、彼らは熱心に通りかかるものに勧めています。何が売られているのかなと思ってのぞいた筆者にも、一生懸命勧めてくれました。がもちろん買う気はありません。
こういう風に中国正月の時期を利用して街をあらためて眺めてみると、いろいろ興味深い事を再発見できるのです。今年の中国正月にどこへも遠出しなかった筆者の街のルポでした。