・ 理髪店と美容院の話 ・ 数字で見たマレーシア、その3 ・ 誤情報掲載ホームページに一言
・ スマトラで考えたマレーシア社会のよさ ・ 子供に対する父母間の権利は平等ではない
・ 脚光を浴びるニュースと浴びないニュースについて思う ・ 公衆トイレ使用に関する男と女の本音
・ マレーシア人の姓名の付け方と表記法 ・ マレーシア人との結婚は即居住権獲得とはならない
・ 時代の変化と旅人としての変化
久しぶりこのテーマを選びました。マレーシア社会を考える論じる時、数字も知っておかなければなりませんからね。以下このトピックスで表示した数字は最近発表された 公式報告である経済報告98/99年と観光省の統計などを基にしています。
まず基本的な数字をいいますと、面積は33万平方キロですから、日本より少し小さいですね。でも人口密度はぐっと低いですよ。97年の総人口は2,166万人でした、93年から97年の人口増加率は2.6%ですから、やっぱり高いというべきでしょう。これは暮らすものの実感からいってもわかります。とにかく1家族で子供が多い、たしか4人弱であったと記憶してます。
ただ今回の経済報告では、人口伸び率に寄与したのは外国人移住者の増加、93年から95年は年率13%、も大きいと分析しています。96年以後は移住者抑制方向に向かったので落ちましたがそれでも年率5.8%でした。
この結果マレーシアでなく外国出自の人の総人口に占める割合は、93年の5.2%(百万人)から97年は6.8%(百五十万人)に上がりました。総人口中、被雇用労働人口は850万人と発表されていますが、この中に150万以上の外国人が含まれているのかどうかよくわかりませんが、多分含まれてないでしょう。失業率は昨年後半からの経済停滞で97年の2.6%から98年は5%近くにいくと予想されています。
もちろん日本とは比べ物になりませんが、マレーシア社会の年齢構成は発展途上国では比較的高年層が多いのです。といっても、65才以上は総人口のわずか3.7%で、これはこの5年間ほとんど変わっていません。
15歳以下の人口は93年36.4%を占めていましたが、97年にはわずかに落ちて34.5%になりました。といっても3人に一人は15才以下ですからやっぱり日本人の感覚でいえば、子供が多いのです。
政府は公衆衛生の向上にも力を入れています。この結果もあったでしょう、平均寿命が延びました。男は変わらず93年の69.4才から97年は69.5才、女はここでもやっぱり強く(!)93年73.8才から97年は74.3才です。
新生児死亡率は11.3から97年は9.8に向上しました。(これって千人に対する率ですか?)
あいも変わらず交通事故の危険は高いのです。97年は56574件の人身事故があり、うち約1割の 6302人が死亡です。これでも93年の交通事故死亡者が全交通事故件数に占める割合、100事故中3.4人は97年は2.9人に減ったのです。事故件数の伸び率は年率12%です。
事故にかかわった車両中、自動車が6割、バイク・オートバイが2割5分占めています。いずれにしろ自動車事故には一番気をつけなければなりません。人口が6倍の日本の交通事故死亡者数と比べて下さい。
さてマレーシアにとって日本はたいへん関わりの深い国です。それは単に日本からの投資と対日貿易がマレーシアにとって上位の3位国以内に入るからだけでなく、旅行者の面からもそれがいえます。97年マレーシアを訪れた日本人は旅行者30万9千人(旅行者とは1泊以上する入国者のこと、前年より13%減)でした。隣国のシンガポールからの349万人、タイからの48万人についで3位です。さらに、1泊もしない日帰りの日本人旅行者(日本人の場合はほとんどシンガポールから)は20万人いました。これもマレーシアの隣国国民を除けば最大数を誇ります。
尚マレーシアの外貨稼ぎのトップはダントツで製造業、次いでパームオイル、多少落ちて観光産業なのです。ですから観光収入は大きな役割を果たしています。
最後に一人当たりの国民所得をみておきましょう。97年はRM12,051(US$4282) でしたが、98年は2%ほど下落してRM11,817(US$3014)になるだろうと予想されます。
このことを消費者物価の上昇率からみてみると、98年9月までの上昇率は5.2%で前年同期は2.6%の上昇でしたから倍の率です。消費者物価の上昇の一番大きな原因は食品の値上がりです。これは筆者の実感からも言えますね。たしかに98年は数字上でも経済成長下落つまりマイナスの影響が及んでいます。
マレーシアなど発展途上国の物価を考える時、一人当たりの国民所得の値はたいへん重要なのです。いろんな物、サービスの値段を単に日本円に換算してもその国の物価の実態は見えてきません。ですから是非この値を覚えておいて、ある物の価値が平均的マレーシア人にとってどれくらいにあたるか推測なさると、マレーシアがより身近に感じられるかもしれませんよ。
下記はこの間巻頭ページに載せたものです。筆者宛てのメールを含めて読者からいくつかの反応がありましたし、前々から筆者の気になっていたことでもありますので、このコラムの一つに追加して保存しておくことにしました。一部書き加えたのと語句を変えた以外は大体同じです。
筆者はあまりいろんな種類の他サイトを見学する方ではありませんが、ごくたまに個別の国サイトでなく各国の又は地域の情報を集めた旅行情報ホームページを覗いてみます。一番の目的は自分のホームページを登録することですが。そういうホームページは当然ながらごく一般的情報、例えばビザの取り方とか飛行便の種類、両替、おいしい料理などの案内が簡単に載っていますね。その種の国情報網羅ホームページは対象を1カ国だけに絞ってるわけではありませんから、そのこと自体は当然でしょうし、文句つける筋のものではありませんが、少しばかり一言いっておかなければならないこともあります。
そこに載っている情報が古いことと紹介文句にどうも納得できないことがままあるのです。参考にした資料が古くて、人口とか民族比など数字がとっくに過去のものであったり、書き手が2次又は3次資料を使ったため正確さに劣る表現を使っている場合です。
先日たまたま旅行業界専門誌 「週刊トラベルジャーナル」www.tjnet.co.jp/ のサイトを見ました。「トラベルジャーナルでは、強力検索サイト『goo』のホットチャンネル:ワールドレジャーに、最新の海外旅行情報をデイリーで提供してい」るそうですが、その内容にがっくり。リンギット通貨の米ドル固定化のニュースでは数字を間違えたり、対日本円も固定化したと書いてます(固定してませんよ)。その他にも間違いあり、これじゃ旅行者が困惑します。
そこで 「トラベルジャーナルのネットワークが集めた新鮮な旅行情報を、一般旅行者にも開放!オンライン旅行情報マガジン『旅天国』を創刊しました。」そうなので、それを見たら今度はびっくり、「また、マレーシア国内の多くの商店やレストランでは、シンガポールドルでの支払いも可能。」と書いてあるではありませんか。これは勘違いなんてものでなくて、マレーシアを全く知らない人が書いたものだと感じました。
ランカウイやクアラルンプールなどの免税ショップ、国境付近の一部地域、団体観光客をバスに乗せていき、さあ買い物して下さいよといって訪れる店を除いて、シンガポールドルが街で通用する何てことは全くありません。これを書いた人の無知ぶりを物語っています。
これは、ある国で他国の通貨がそのまま通用することがその国にとってどういう意味を持つのか、の根本的な知識が欠如していますね。マレーシアとシンガポールの複雑な民族感情を全く知らないこういう鈍感で無知な人に書かせている編集者は何を考えているのと、憤慨せざるをえませんでした。「どことなく印象の薄いといわれがちなマレーシア。」 などと書くのは個人の印象ですからそれはその人の勝手ですが、無知を隠して事実と違うことを書くことはいけません。
このように世界の多方面に手を伸ばすのは勝手ですが、もう少し正確で現地の状況に通じた情報を送って欲しいものです。それができなければ当サイトのような専門に尋ねなさいな。Intraasiaのような小さな知名力の劣るホームページと違って、専門誌を発行し有名サーチエンジンにも情報を提供している金と人力のあるホームページは、それだけ多くの読む人に影響を与えますからなお更ですよ、日本の有名ホームページさん。
さて他人のサイトを批判してお前はどうかと言われそうですから、筆者のものを書く姿勢を示しておきます。
まず、知らないことを知ったふりして書くことはしません。知らないことは知りませんと書くか、それにふれません。
誰でも間違いはあるし、絶対に間違いをしてないつもりでも思い違いだったり見過ごしていたりで、他人から間違いを指摘されることがありますよね。ですから、もし筆者の書いた内容に明らかな事実の誤認や勘違い思い違いがあったり、変換違いを含めた書記間違いを発見されましたら、遠慮なくご指摘ください。Intraasiは読者からの指摘をいただいてそれを訂正していくことにしています。
ただしイスラムは嫌いだとかマレーシアは面白くないなどという感情的な意見の違いと、マレーシアの海は汚いとかマレーシア人はあまり働かないなどといった物事の比較根拠をはっきりさせることのできない個人の意見の違いに対しては、間違いとか事実の誤認ではありませんから、ここでいう訂正の対象にしないことはおわかりになっていただけることと思います
上記で指摘しました 「マレーシア国内の多くの商店やレストランでは、シンガポールドルでの支払いも可能。」という誤記述に関して、当ホームページの常連読者の木田さんがトラベルジャーナルにメール出して訂正をうながしたところ、トラベルジャーナルウエッブサイト「旅天国」の管理者から彼女に訂正とお詫びの11月10日付けメールがありました。筆者は木田さんからのメールをもらってこのことを知りました。
個人宛てのメールですのでその内容をここに引用することはしませんが、「旅天国」がその部分を削除したことをIntraasiaも確認しました。「旅天国」が素直に間違いを訂正された態度は評価するものです。
この「旅天国」のマレーシア項目とトラベルジャーナルのマレーシア情報にはその他まだ多少誤認又は不適と思われる内容・表現が見受けられますが、上記の通貨ほど重大ではないし、また筆者は間違いのあら探しをするのが目的ではありませんので、この件に関してはこれ以上問題にするつもりはありません。ただ日本円に対してマレーシアリンギットは固定されていませんよ。
今後もそのサイトが重大な間違いのない一般向けの情報を発信していただけることを期待しております。
前にも書きましたが、マレーシアの魅力っていろいろありますね。青い海と白い浜辺、灼熱の太陽そんなイメージはとりあえず置いておいて、その一つに多民族が融和しながら暮らしていることがあります。大体世界では、日本のように一つの民族が圧倒的に多数派を占める国よりも、複数民族が交じり合って住んでる国の方が多いですから、これはマレーシアだけに特徴的なことではありません。でも融和してくらしているということは何よりもすばらしいことではないでしょうか。
毎日の新聞などのニュースをにぎわしているのは相変わらずの民族宗教紛争です。アフリカや南アジア、南米の”発展途上国”のみならず、”先進国”という名の英国北アイルランドではカトリックとプロテスタント教徒間の爆弾まで用いた紛争が絶えませんね。
マレーシア近辺でもそういう紛争は国名を挙げるまでもなく常に起こっています。しかしマレーシアは、69年の民族暴動を唯一の例外として、民族宗教紛争は起こっていません、これからも起こらないでしょう。この点はいくら賞賛しても賞賛しきれることはないと思います。日本人にとってなかなか理解しずらいことですが、歴史と宗教面を違にした複数民族が融和して暮らしていくことは、まことに大きな努力とエネルギーを要することなのです。
家族感も違う、労働への取り組みも違う、食事慣習も違う、現世感も同じでない、まこと違うことばかりです。でもマレーシアは一つの国としてまとまりをもち、何々民族が独立運動を試みたり、何々州が自治権を求めて分離運動を試みたり、国の中に国を作ったりしませんし、その萌芽さえありません。ある一つの民族なり州が抑圧されている差別されていると感じる時にそういう運動は起こるものです。たとえどんなに政府が強圧政策をとろうともそういう動きを撲滅させることは不可能です、世界で起こっているそういう国、地域の内情をみれば明らかですね。
マレーシアだって数十の民族全部がすべてに満足していることはありえません、それぞれが大なり小なり不満を持ちまたそれを政治の場にも持ち込んでいます、でもそれが紛争に結びつく又はなることはありません。マレー人政党UMNOを中核にしたBarisan政府が政治を牛耳っているからでしょうか、そんなことはありません。たしかにマレーシアは言論締め付けの厳しい国ですが(筆者はもちろんそれには批判的です)、世界の国でいや近隣国家をみただけでもこれ以上厳しい国はいくらでもあります、そしてその厳しさにも関わらず紛争や暴動を起しています。
ですから Barisan政府が言論に厳しいから民族暴動が起きないという論はまったくあてはまりません。民族紛争にいたらないように非常に気を使っている、そうならないように民族融和策を成功裏に実施しているからです、そしてそれがこの30年以上成功してきたわけです。多分に高度の経済成長がそれに貢献したのですが、その経済成長によって各民族の隙間が少しずつ埋まる方向にすすんだからこそ、この不景気の現在でも民族間のあつれきはうまれていません。その逆を言ったのがインドネシアであり、経済成長がほとんどすすまなかったのがミャンマーですね。
ここで参考までに、8月に旅したインドネシアのスマトラ島北部、Aceh と呼ばれる地域、で筆者が見た感じた状況をその紀行記から、ごく一部抜き出しておきます。
<Acehで感じた中央との違い>
短いAceh旅を通じてだから詳しいことはもちろんわからないが、すくなくともAceh地方では華人に対しての暴動はなかったようだし、旅をしていて不穏な空気を感じたことは一度もなかった。まわりすべてインドネシア人ばかりの乗車移動や宿泊がほとんどであったが、それだからといって不安を感じることもまったくなかった。
Aceh地方が他のインドネシア地域と少し違って、自治意識が高く、自治権をある程度認められた地方だからなのか、圧倒的にムスリム地区のせいかそのへんは住んでみないとよくわからないだろう。個人的意見を言えば、メダンのような都会、貧富の差が激しく忙しく猥雑とした都会とAcehのような穏やかな地方では、住民の意識も違うのではなかろうか。Aceh地方でも華人系は確かに町の商店に多い、つまり他のインドネシア人より豊かには違いない、しかし圧倒的に裕福だとは、少なくとも彼らの店構えを見た限りは、いえなかった。このあたりがメダンやジャカルタとずいぶん違うのではないだろうか。
(尚、この紀行記は雑誌投稿用に書いた物で、ホームページに掲載予定はありません)
蛇足ですが、このトピックスを書き上げてしばらくした9月3日付けの英字紙がロイター通信電として、Acehの中心都市Lhoksemaueで死者を伴う暴動が発生したことを理由に、インドネシア軍のAcehからの引き上げを中止した、と伝えています。暴動自体は華人に対するものでなく、ジャカルタ中央による永年の Acehへの圧政に対する不満をAceh人が引き上げる軍隊に向けたもののようですが、インドネシア情勢の不安定さをあらためて知りました。筆者はそのつい3週間ほど前にその都市Lhoksemaueに1泊したのです。旅人として観察できる限界をあらためて知らされた次第です。
(この下の一文のみ、ホームページ掲載前に急きょ追加しました)
8月に続いて11月初めに、またスマトラ北部を駆け足で回ってきました。相変わらず新聞はインドネシア状況の不穏を伝えていますが、Acheh地方に関する限り今の所それは感じませんでした。それよりも山間部僻地で見た”第三世界”そのものの状況に再び考えさせられました。そこでは豊かな潜在的観光資源を持ちながらもツーリストに忘れ去られたかのように、5日間まったく外国人旅行者に出会いませんでした。マレー半島ではとても考えられない出来事です。
広い意味でのマレー世界の一部で起こっているこの状況を伝えたいのですが、このホームページはマレーシア専門ですからこれ以上詳しいことは書きません。単にスマトラだけではないでしょうが、もうマレーシアとは比べ物にならないほど発展から取り残されてしまったスマトラ北部僻地の民の状況を目の当たりにすると、心が痛みます。
インドネシアの状況を知るとまこと哀れみを感じます。独立50年以上もたって今尚、膨大な絶対貧困層の存在と相変わらずの華人攻撃、何かが徹底的に間違っています。当ページ読者ならご存知のように、私はマレーシア万歳人間では決してありません、しかしマレーシアに滞在してきて、インドネシアで感じるような哀れみと疑問は感じません。ある民族が自国民から攻撃される恐怖と不信感を抱いて住むようでは、民の信頼、国の安定などありえませんね。
人間”金”がすべてではないけど、”金”つまり経済を軽視して融和もなにもありえません。多くの民がその日暮らし、いまだに清貧糊口をしのぐ生活の中で、一部の上流階級がベンツを乗り回しインターネットでのポルノ自由論を論じていても、民族問題は何も解決しません。
経済が発展しそれが多くの人に恩恵なければ、それは何おかいわんやですね。マレーシアにはまだまだ激しい貧富の差があります、特にサバサラワクへ行くとそれが感じられます、しかしそれをなくそうとする政府と民の意識は強く感じるのです。
マレーシアで民族の融和が進んでいるというと、知らない人は各民族間の通婚が進み、すべての民族が入り乱れて住んでいると思われる方があるかもしれませんが、それは間違いです。半島部マレーシアでは通婚はニュースになるぐらいですし(サバ・サラワクは半島部より通婚が多いようですが)、一つの地域が各民族比に見合って住んでいるなんてことは例外です、いまでも彼らはそれぞれ何人地区といわれるように、ある民族が固まって住んでいる地域がほとんどです。もちろんその中に他民族が混じってますがあくまでも少数です。
原則論からいうとおかしいとお考えでしょうか、いやそうではないのです。この方がいいと筆者は考えます。民族融和とは無理して各民族が交じり合い、住居も同所に所有するというやり方は紛争の火種を残してしまうと思うのですね。なぜなら上記で述べたようにそれぞれの民族がそれぞれの宗教と民族性に基づいて、家族感、食習慣、婚姻習慣、労働感、人生観をその生活に適用していますから、各民族が互いに接近しすぎることは、ある時それが急に反感、嫌悪感、蔑視感、不信感、不満を持ちかねないことになるのです。
マレー人と華人とインド人とカダザン人とでは宗教も母語も違う、それをすべていっしょに混ぜてしまうのは危険です、非常に無理があります、特に宗教の違いは決定的に各民族を隔てています。皆が無宗教主義者にもならない限り、そんなことは絶対にありえない、すべての民族をMelting Potの中に入れるのは不可能です。
それをさけるために各民族がつかづ離れずの関係を大事にすることが一番だと思います。つまりモザイク状態が一番いいのです。離れすぎれば旧ユーゴスラビアみたいになってしまうし、無理にMelting Potに詰め込めばインドネシアのように、華人は非常に抑圧されながらも(中国語の使用さえ禁止されている)経済力だけを持ち、それがまたインドネシア多数派の反発を生むという関係になりかねません。
マレーシアはこのあたりを見事に操縦しています、各民族は母語初等教育を保証され、母語でテレビ、ラジオ、新聞に自由に接触できます。一方でそうしながら 一つの国民 Bangsa Malaysiaを生みだし育てていこうとしています。Bangsa Malaysiaとは民族学的な人種でない ”一つのまとまったマレーシア人” という極めて政治的な概念ですが、その概念が育つことによって、各人が各民族のアイデンティティーを守りながら、マレーシア人であることを誇りにもち、単なる国籍としてのマレーシアだけでないマレーシア国民になるわけです。
ブミプトラ政策で教育、不動産、投資機会でブミプトラが幾分優遇されてはいるものの、その優遇度が度離れたものではありません。これに対していろんな見方はありますが、私は一つの安全策であろうという見方にたどり着きました。
多数派マレー人の立場を脅かす存在にもし他の民族が政治的に力をもったら、それは国の安定にマイナスなのです。多数派が少数派に政治的に支配される、少なくともそういう気分を多数派に持たせる、ことは絶対に避けるべきです。それは他国の現状と歴史が証明しています、南アフリカであれ、フィジーであれ、かつてのマラヤであれ、少数派は政治的に力を持つことは多数派の反発を生みそれが紛争に結びつきかねません。
理想論をいえばどの民族が力を持とうと民主的に運営すればいいじゃないかとなりますが、民族感情はそんな感単に割り切れるものでないことは、多民族国家の人民であればあるほどそういうことを知っていますし、尊重しなければなりません。同質的なヨーロッパ諸国の民族でさえ、時にはその国の多数派と少数派間で問題をおこすではありませんか、ましてや華人、インド人、カダザン人、イバン人そしてマレー人と同じアジア人といえ同質度は相当低いのです。
異なるものを無理にくっつけるのは後後までたいへんですし長持ちしませんよね。もちろん自然にくっつけばそれにこしたことはありませんが。不釣り合いな男(女)と結婚した女(男)はあとで後悔しますからね。
最近のマレーシアのニュースといえば相変わらず結構大きく扱われている、逮捕拘留されている前副首相兼前UMNO副総裁アンワルの裁判のニュースでしょう。公判が進むに連れて、すこしずつ起訴内容の細部が明らかになってきています。
現在はまず4つの起訴事実、いずれも汚職の罪状、について、検察側証人に対する弁護側からの証人尋問が行われています。公判のあった翌日、新聞にはその内容が結構精細に記事となって必ず載りますので、筆者はそれを丹念に読んでいるのです。
9月頃の劇的な解任追放そして逮捕となった頃とは様相が随分違ってきています。なぜならその公判で明らかになっている内容が、警察及び検察のまったくのでっち揚げととるにはちょっと具体的すぎるし、説得力のある公判記録なのです。もちろんこの時点での判断は早いのですが、ここで証言されていることが全部でっち上げとするのは、第三者の目で見ても難しいと感じます。
公判傍聴熱はまだ一般人にもあるようで、20数人しか枠の無い一般枠のために高等裁判所法廷前に朝早くから並んでいるそうですが、しかしその行列は一時の100人を超えることはもうなくなり、40,50人だと新聞は伝えています。ユーロピアンコミュニティーECの大使館職員が各国持ち回りで裁判傍聴しているそうですが、こちらは続いているようです。
どんな有名裁判でも公判が長く続けばいずれ傍聴者は少なくなって当たり前ですから、これ自体がちまたのアンワル事件への関心薄れに即つながっているとはいえませんが、いつまでもトップニュースであった時期はもう終わりなのです。外国のマスコミももう連日これを伝えるようなことはしていないでしょう。
9月と10月初旬までは毎週末あったアンワル支持者の市中心部での集会はいつのまにかなくなり、このところマレー人街であるカンポンバルの一角で時たま警察の指示を無視して集会を開く程度に落ちました。
この事件のことの発生は、97年8月にアンワルの前運転手(要するに彼の乗る車を専属で運転する人)とアンワルの当時の秘書の実妹が、アンワルがその運転手にホモ行為を強要し、またその秘書の妻と不貞行為を行ったとマハティール首相宛てに手紙を書いたのです。その手紙が首相に渡る前か後か知りませんが、アンワルの知る所となり、彼は警察長官の命令でその件を調べていた特別警察支部の長官に内密に指示し、結果その2人は逮捕され、2人に手紙の内容を否定する撤回書を書かせたということです。この段階で取り調べにあたった特別警察官は2人の供述内容に事実を感じたが、上層部の命令にしたがって、2人に手紙を翻す内容の手紙をかかせ、供述書を取ったというものです。
このためアンワルへの4つの起訴状名が汚職となっているわけで、ホモ行為と不貞行為に対する起訴は後日の審理になる予定です。
これまでのところ検察側証人への尋問に登場するのはほとんどその2人の取り締まりにあたた特別警察の捜査官とその指揮官、特別警察長官と副長官です。公判では、アンワルが特別警察長官らにこまかに指示したあらましも述べられていますが、これを弁護側はどう崩していくのかなというところです。結局のところアンワル側は手紙に書かれた内容と特別警察に干渉したという2つのことを全部否定、つまり2人はうそを書き、警察検察はでっち上げをしていると否定、しなければならないのです。なぜなら一つでもこの起訴内容をわずかでも認めればアンワルの立つ立場が崩れてしまうからです。
裁判の起訴状は汚職になっていますが、ことの本質はアンワルがホモ行為と不貞行為をしたかなのです。例え汚職行為が嫌疑不十分で有罪とならなくてもホモ行為又は不貞行為がわずかでも真実味をもたれたら、アンワルの寄って立つ立場は完全に崩れます。彼は敬謙で真摯なイスラム指導者たる政治家であり、そのため多くの支持者を育てて保ってきたわけですから。西欧のメディアにはこの視点が欠如しているように思えます。
筆者が前にも書きましたように、汚職が有罪とならなくてもホモ行為なり不貞行為が万が一本当なら、彼は政治的宗教的に死となるのです。外国マスコミはこのアンワル追放逮捕をマハティール首相との権力闘争の結果破れ、マハティール首相がでっち揚げ逮捕させたかのように捉えて、アンワルを自由化運動の旗手扱いにしていますが、実態はちょっと違うのです。
権力闘争は事実でしょう、政治家が表面上どんな親密に見えようと権力闘争するのはあたりまえで、これ自体を特別視することがおかしいわけです、政治家の権力闘争など日本だって米国だって当然のことですよね。闘争はしていいけど、その中で反対派を暗殺したり根拠なく逮捕すればそれは暗黒政治ですね。
筆者はこの事件が起こった9月当時はまだ事実内容が明らかになっていないからと、自分の立場をはっきりさせてきませんでした。まことこの裁判が始まるまで、なぜアンワルが逮捕までされたかがはっきりとされていなかったのです。ですから筆者は、この権力側のあまりにも強引なやりかたとアンワル支持者を中心とする民衆運動への権力者の理解不足を批判しても、アンワルそのものへの支持はしませんでした。
筆者は外国人ですからここで政治運動しているわけではありません、そういうことは避けていますし、それにイスラム原理主義的傾向の強いアンワルを思想的に支持するつもりは全くありません。(原理主義の思想は思想として尊重はしますが、それに共感することはありえない。) 筆者がかげながら応援するのは、アンワル支持派、政府寄り、野党寄りのどの勢力であれ、民主的な行動は正当でありそれを弾圧することはおかしいということです。例えイスラム原理派であれ民主的に反政府行動する権利は認められるべきです。
しかし上記で述べた不透明さが充満していた当時、外国マスコミとか日本人を含めた外国人の中にはマハティールの独裁だとか不法逮捕だと批判していたようですが、筆者はその愚かさを軽侮しておりました。内実がはっきりしないうちにすぐレッテル張ることは簡単ですが、問題を末永く深く追求していくことは決してたやすいことではありません。まこと根気と時間の要ることなのです。
筆者は以前にも述べたようにマハティール首相の信奉者ではありません、その強引な手法は私の好みではありません、それだからといってアンワル追放逮捕の内容もよくわからないうちに、独裁者の強権政治と決め付ける愚かさは持ち合わせておりません。マレーシアを観察するものとしてできるだけわかった時点で判断するつもりであり、だからこそあいまいな立場を持ち続けてきました。こういうことを理解しない人は安易なレッテル張りの愚に走るわけです。
11月末までの公判で公表された、いや証人尋問が明らかにしただけでことの全てを判断はまだできません。ですからもう少し裁判の様子を見守る必要がありますね。それにしても政府指導者はどうしてこれほどまでにアンワル支持者らの集会に過剰に反発するのでしょうか。たかが数千、いや最近では千に満たない数までに落ちたそうですが、の支持者が民主的に行動する限り集会などいくらでも認めるべきではと、日本育ちの筆者は思うのですね。
アンワル公判のニュースの影に隠れたわけではなく、それの持つニュース価値がマレーシア国民に理解されない、興味を待たれないために大きく扱われないニュースがあります。日本人を含めた外国人メディアもまことと同じですけどね。
それは、サラワク州のバクン水力発電所建設プロジェクト推進のために、先祖伝来の地を追われるかのように州政府提供の地Asapへ移住させられていくサラワク州先住民族のことです。
一般にバクン開発と呼ばれる国家級プロジェクトは当初の計画の半分ほどに縮小され、プロジェクトの中心企業であったエクラン企業グループが経済問題から手を引き、替わりに電力会社 Tenaga Nationalがその中心としてプロジェクトを引き継ぐようです。バクンダム建設することで半島部まで電力供給する当初の計画はなくなり、バクン発電はボルネオだけに供給する計画に縮小されたのです。でも依然として国家級プロジェクトであることにかわりはありませんし、ダム建設で広大な地域が水没するわけです。
従ってBelaga地区のBaluiのような水没予定地域に住む先住民族が移住させられることになるのです。ここに巨大ダム建設による環境破壊への可能性と先住民族の権利が充分に尊重されていない、という批判が起きてくることになります。しかしこれはまことに一般マレーシア人に受けない興味を起させないテーマです。
サラワク州だけで発行されているローカル新聞は読んだことがありませんので知りませんが、いわゆる全国紙でサラワク州のバクンダム開発のために先住民族が移住させられることを1面なり大きく取り扱ってきた新聞は、私の知る限り見たことはありません。記事として載せてていないということではなく、ことの重要さほどには扱われていないのではないかという意味ですよ。
比較的リベラルなThe Starでさえ時々記事にはなるもののそれはサバサラワク便りのなかであり、大きなニュースとして扱っていません。また国会審議の様子が新聞に載りますが、こちらでも大きな議題になっていません。
なぜか、それは第一に、移住させられる人々がマレーシアの主要民族であるマレー人、華人、インド人でないことでしょう。マレーシア語紙も華語紙も全国的大事件を別にして、当然ながら自民族にかかわる事柄を主要記事にします。英語紙はその当たりをバランスを取っていますが、例えばクアラルンプールの華人コミュニティーのニュースとかマレー人地区の細かいニュースなどはほとんど記事になりません。インド人の中のタミール系を対象にしたタミール語紙、非常に発行部数が少ない、は当然インド人コミュニティー中心に記事を書いているそうです。
さてマレーシアの国土面積の4割近くを占める州人口200万のサラワク州の主要民族は、マレー人、華人、インド人を別にして、Iban、Bidayu、Melanau, Orang Huluなどで20いくつかの先住少数民族から構成されています。うちイバン族が最大で、州内人口の3分の一近くを占めています。今回移住の対象になっているのは、Kayan、Kenya、Penan、Lashagan族です(Kayan、KenyaはOrang Huluの下位グループ、Penan、Lashagan族も多分そう)。いずれもサワラク内でも少数族に属します。
サワラクで少数ということはマレーシア全体から言えば極めて少数派になるわけです。ここからその少数民族の声が中央に届く機会はごくすくなくなることは容易に推測されますね。これが第二の理由になるでしょう。しかもこの少数民族は僻地山間地帯を主たる居住地、生活地にしているため、当然所得面では全国平均のはるか下位になります。電気水道などのインフラ面でも遅れがちになっているのは否めない事実でしょう。
筆者はサワラクを訪れたことはありますがずっと前のことであり、それも沿海部の町を中心に回ったので、サラワク少数民族の現状を語る資格はありません。ただサバの僻地なりいくつかの第三世界の状況を長年垣間見てきた経験から、山間僻地で暮らす少数民族の生活はある程度想像できます。
彼らの生活を見るなり想像すれば、一概に開発反対、環境保護、先住民族の権利尊重というスローガンに全面的には賛成できません。むろん基本的には賛成ですよ。水道や電気のまともに無い衛生状態の悪い文化生活とはとても言えない状態をそのままにしておいて、単に伝統的民族生活スタイルを保存していくことが彼らにとって本当にいいことなのか、安易にきめつけられません。また発展のために都市に出て行く若者を一概に責め付けることもできません。なにせ経済社会とは程遠い僻地では金を得る手段が限られていますからね。
開発か保護かという2者択一では解決が難しいことも感じます。ことは彼らの生活つまり一生にかかわることですから、部外者が簡単に意見を述べるのも無責任な気もします。従ってバクンダム開発で先住民族の居住地が水没するからダム計画自体を破棄するべきだとは、簡単にはいえません。サラワク州での将来の電力供給計画に本当に必要であり、且つ影響を受ける彼ら少数民族がそのことをよく理解し同意するなら、自然保護に最大限の注意を払っての開発もやむを得ないのではと思います。
巨大なダム建設を計画しておいて自然に全く影響はない、というばかげたいいわけは聞きたくありませんが、自然に最大限の保護を払いつまり金をかけ、それでも経済的に見合えばという前提の基で開発も必要だと考えます。
こういう前提の基でバクン開発を考えると、どうも不透明さが付いて回っているように感じてなりません。開発の中心であったエクラン企業グループが政府の後押しにもかかわらず手を引き、その手を引く際の状況も決して透明になっていませんでした。
更に政府は中心開発企業が交代する際にプロジェクトの規模を半減させたのです。当初の計画では、ダム開発で起す電力で半島部にも相当の割合の電力を送ることになっていました。当時はそれがどうしても必要だからという理由でしたが、なぜそれが急に必要なくなったかの明確な説明は伝えられていません。半島部に送る必要が、どうしても必要から別に必要でなくなったに変わったのは、計画が甘かったのだという邪推をうんでも仕方がないでしょう。1国の長期電力供給計画がそんなに簡単に変わっていいものでしょうか。
本当に必要であれば計画を半減すること自体がおかしいわけで、プロジェクトが国全体の経済停滞で遅れようとも完全実施に努力すべきでしょう。しかし中央政府の決定でプロジェクトは半分になり、つまりダム建設も縮小されたわけです。その結果自然に与える影響も当初よりは減ったことでしょうし、影響を受ける先住民族の数も減ったかもしれません。
しかしそれでも、超広大な面積の山間部が水没し先住民族がその先祖伝来の地を追われることはかわりません。ですからこのプロジェクト決定遂行に透明さと民主的手続き、環境保護思想の徹底が望まれているわけです。筆者はこのバクン開発問題を追ってきたわけではありませんので詳しいことは知りません。マレーシア観察者として一般の国民よりはずっと興味を持ってみてきましたが、現地を訪れて調査などしたことがないので、どの程度自然が影響を受けている又は受けるのかはわかりません。NGOなどの発表と政府側発表を比べて、判断するしかありません。
しかしながらどうひいきめに見ても、人と自然に与える影響度から考えて、これほどの大プロジェクトながら大きな国民的論議の対象にならなかった、そして今もなっていないのは事実だと言いきれます。
ごくたまにバクンプロジェクトに関する記事が出ます。この11月23日と27日の「新聞の記事から」に簡単に紹介しておきました。ちょっと記事を再録してみます。
(まず開発に批判的な立場をとるNGOからの発言)
Bakunダムを憂慮するNGOグループのスポークスマンは、「例えば、これまでの所移住先の写真が公表されていない、既に移住したものの中にはその地の生活に不満を訴え、もとの地に戻りたいと訴えています。」−11月23日分から抜粋
(これに対して開発側からの発言です)
サラワク州のバクンダム建設で移住を勧められている先住民族に関して、「もし彼らが移住を拒否すれば、それは昔に戻ることになる。なぜなら現在与えられている学校、医療などの公共サービスも新しい移住先に移るから。移住計画が完了する来年4月には、現在の居住地ではすべての公共サービスはうけられなくなります。だから結局移住しないことを望んだものも移住せざるを得ないことになるでしょう。」とバクン移住委員会の長が述べました。
この人は州の観光大臣でもあります。「移住を拒否しているものはNGOに影響を受けた一握りである。」と言っています。−11月27日分から抜粋
このように両者には随分食い違いが出ています。残念ながら移住する先住民族の直接の声が聞こえないので、筆者にはどちらがどうだと決め付けることはできません。移住する様子を載せた記事も写真も以前数回載りましたが、その記事は突っ込んだ記述をしておりませんでした。生れてこのかた離れたことのない長年住み慣れた地を、開発のためといえ離れざるを得ない少数民族の人たちの心境にどれほどつらいものがあるかは想像できます。
先住少数民族Kayan出身の国会議員がこの移住が始まる前にこう語っていました、「新しい移住地のBunganになじむのさえ時間がかかる。200年以上も彼らの家であり彼らの文化そのものであったBaluiを捨ててしまうことは問題をはらむことになるでしょう。」 伝統的ロングハウス居住者間の絆が崩壊することを心配してして、「ロングハウスの人たちの中には(政府から払われる)補償金に心を奪われ始めている人もでている。今やこの金をどうやって住民間で分けるかが熱い問題です。」と。「発展がいいことなのか悪いことなのかにかかわらず、それは発展の代償なのです。」
彼らはその土地と森林に依存しながら、都会や町の生活者とは違って現代金銭社会とは少し離れた中で、ロングハウスで共同体生活を送っている民です。単に都会の居住者が開発で立ち退きを食うのとは訳が違います。日頃声を立てない僻地の少数住民でしょうから、こういう声が充分な政治的力をもつことはないでしょう、ですからNGOの出番となることはわかります。
マレーシアの風土として、こういう小数民族の立場に同情して大きな輿論が起こるとか、環境保護の観点から市民運動が起こるなんてことは今の所まったく期待できませんから、この少数民族の移住も遅かれ早かれ計画とおり実施されていくことでしょう。事実として、アンワル支持者のデモ集会やゴア副大統領発言に関する批判投書は山ほど新聞載せられているし、私の話した人もそういう意見を表明していましたが、こういうことつまりサラワクの僻地で起こっている少数民族の問題に言及する投書も意見も聞いたり読んだりしたことがありません、多分これからも極めてその機会は少ないでしょう。
このように一般マレーシア人が興味を持たない目立たないニュースですが、ことの重要さとそれを生み出す行動と思想背景は決して軽視するべきではないと思います。マレーシアを考え知るということは、単にマスコミで大きく扱われたり人々の口に上ることばかりでなく、目立たないけど重要な出来事にも光を当て考えることではないでしょうか。そして一時の感情的な雰囲気の中でことを論ずるのでなく、ことをある程度見極めるためにじっくり待つことが必要であり且つ我々にはそれができるのです。なぜなら私たちはマレーシア国民でないので、論議や運動の熱の中に巻き込まれる必要性はないからです。
以前このコラム第86回で「トイレと水洗方法のお話」を書きましたね。マレーシアの公衆トイレの概観を筆者なりの観察と視点から述べたものです。いろいろもっと知りたいことがあったし、書くのはどうかという内容はいくつか飛ばしてしまいました。
最近英字紙 Starの別刷り版にマレーシア男性、新聞記者かフリーランスかしりませんが、の描写したたいへん愉快で且つ興味深い記事が載りました。新聞の別刷りとはいえこういう内容の記事が載るのは筆者の知る限り初めてです。是非皆さんにも知っていただきたいと、抜粋紹介しておきましょう。訳すと原文の可笑しさがよくわからないかもしれませんが、率直な描写と雰囲気は伝わると思います。尚( )内の注はIntraasiaが加えたものです。
男性と女性はそれぞれ相手が公衆トイレでどのように振る舞っているか不思議に思ったことはありませんか?それではこれからこれまでになく接近してみてみましょう。
誰も小便器を使っていない時、男はどの小便器に向かうでしょうか? 「私は一番隅のやつ。それが狙いやすい。」と37才の男。「私は一番使われてなさそうな所。小便が床にたれていない所。」と28才の男。もし誰かが使用していたらどれを使いますか? 「隣に誰もいない所へ行く。又は隅へ行く、プライバシーがある所だから。」 と30才半ば。もし全部がふさがっていたら? その30才半ばの男は、「ちょっと離れて待ってます。している奴のすぐ後ろでは待てないからね」
小便するにおいては、男は平等、社長も見習いも同じなのです。列を作って並びジッパーを開けるのです。
(注: マレーシアの男は、特にマレー人は隣に人がいるのを嫌います。そして小便器コーナーの両隅を極端に好むのです。確かにすぐ後ろで人が待つケースはごく少ないのです)
便器に注いでいる時は集中心が要ります。力を注ぐような会話は聞けませんね。 でも中には隣の人と会話する男もいます。でもそれは相手をしている時だけでしょう。「私は知らない人とは絶対に口をきかない。」と27才の男。会話は普通取り止めもないことばかりです。
(注:確かにマレーシアの男たちは話さない。黙ってことをしている。ベチャベチャおしゃべりしたり、時には歌を歌ってしている日本人とは大分違うのです)
男は小便をしている時互いに覗きあうのでしょうか? 「何のために。小便する以外に見るものあるのですか?」と30才半ば。ほとんどの男は、自分は覗かないと言っています。「そんなことは考えたこともない。小便器に向き合っている以外に他に何がみえますか」と30才男。
といってそういうことをする奴がいないわけではない。26才の男はある時小便中に、少し離れた所にいる男が覗いていることに気が付いた。「そいつは私の顔を見てないのです。」彼はできるだけ早くことを済ませて立ち去ったそうです。
(注:マレーシア男性は恥ずかしがりやですから、上記に書いたように、隣同士になることを嫌いますので、覗きあうなんてことはあまり起こらないと思いますけど)
無理もありません、中には扉付きの個室の方、つまり大便器の方、を好んで入って行く人もいます。ある18才の男、は決して小便器を使ったことがありません。「プライバシーが必要です。だから扉もロックします。もしすべての個室がふさがっていたら、空くまで待ちます。」
30才の先ほどの男、「マレー人は個室つまり大便器の方を好むね。つつしみからとそれに使用後 ”あれ”を洗うホースがついているから。」「私は、小便器が壁に掛ったタイプの時は個室の方を使います、個室の方が水が出るから。」と彼は言っております。。
(注;マレーシア人男全体が個室の方を好むことは間違いありません。ここでも述べられているようにマレー人は9割方まで個室、つまり大便器の方へ入っていきますね。はずかしいのか自信がないのか宗教上なのかよくわかりませんでしたが、どうやら”洗う”理由もそれに加わりますね。筆者はうすうすそれに気が付いていましたが、確かめる手段はありませんでした。)
女性はトイレの手洗い容器で手と顔を洗いますね。男はそれ以上のことをするのです。「ある男が小便後自分の”もの”を洗っていたことを見たことがあります。」と30才半ばの男。「むかつくことだ。人々が手と顔を洗う所で自分の”もの”を洗うなんてこと、想像してみて下さいよ。」
でも手洗い容器を洗うこと以外に使うのはもっと悪いのだ。
「サッカーの試合の前、通常は男たちがトイレに殺到する。私の前にいた白人がつぶやいた。このトイレちょっとへんじゃないかな?。というのは男たちは手洗い容器を代替えに使っていた、なぜなら列がものすごく長かったから。」と37才の男。「うん、確かに俺もやったことある。列が長くてもう待てなかったから。で水道の蛇口をひねっておいた。洗面容器の高さがちょうどいい高さだったし」と28才の男。
(注; 本当かね、サッカースタジアムならまんざらなさそうでもないかもしれませんね。でも普通の公衆トイレで自分の”もの”を洗ってるマレー人を見たことは私もある。手洗い容器を信じないように、がアドバイスですな)
小便をし終わった後どうするか。「いくら振っても振り切れるものではない。ズボンに収めてもしずくはある。」と27才の男。37才の男は、便器に取り付けられた/流れる水で”もの”を洗うが、それを拭くことはない。30才半ば男は、もし紙があれば紙で”それ”を拭くという。 この紙で拭く行為は問題をしばしば起す、なかには紙ナプキンを使い、それを便器内に捨てて詰まらせてしまうからだ。
(注;そのせいか小便器が詰まっていることがある。タバコの吸い殻だけではなさそう)
その衣服と身体的違いのせいから男は女より時間が短く済むのは不思議でない。だから男は通常そんなに長くトイレに時間を使う必要はないが、女はものすごく長くかかる。「それは口紅とパウダーのせいさ。」と27才の男。しかし30才の男は違う意見だ、「女性はその服装をトイレに入る前と全く同じように見せようとするからさ。ブラウスのすそをちゃんと入れ、ボタンをきちんととめる。」
28才の男は考える、女性は鏡の前でたくさんの時間を使うのだ、「それとも、多分彼女たちは衣服を脱いだり着たりするのに時間を使うのでは。」 30才半ば男はこういう、「彼女たちが言うことなんだ。実際女性はトイレ座席の上で中腰でいるのに忙しいのさ。小便の時それだとトイレの座席ふたに接触しないからね。」また 「トイレ座席に腰掛ける時、ティッシをずっとそこに敷く女性がいる。」ことを知ってます。
(注;これはこの記事に出た男性陣の女性がトイレ使用時にどう行動するかの推測です。で次は女性陣の登場です。)
女性用公衆トイレは悲しむべき状況であるから、(男たちよ、女性トイレは男用よりもっとひどいのだぜ)女性がそこで衣服をゆるめるのに余計に時間を使うのは不思議でない。それは多くの時間を鏡の前で使うということではないのだ。
女性は幾層にも重ねた衣服を着ている、それを身体から取り除いてやらねばならない。「パンストを考えてみてご覧なさい。ただ簡単に脱ぐわけにはいきませんよ。伝染してしまうから。」と25才の女性。もちろんガードルだのボディースーツはいうまでもなくですね。
なぜならトイレの床は通常濡れている、女性はこれらを脱ぐ時充分に気を遣わねばならない。スラックスとかサロンとかスカートの丈の長いものは特に問題です。
「そういう衣服は上手に巻き上げてやらなければなりません。そしてそれらを脱いだ時床に触れないように。」とこの25才女性。「それにスラックスの上部がトイレ座席部に接触しないようにも気を遣うのです。」と26才の別の女性。
(注: 前々からの疑問、マレー女性の衣服は普段でも床に触れている長さのバジュクルンやクバヤですけど、あれどうやってトイレ内で処理するでしょう、答えがわかりました。インド人のサリーでも同じだけど、マレーシアの女性は大体が長くてかさばるのを身に付けている。女性用トイレだって床は濡れていると想像されますからね、皆さんの苦労に同情します。)
(注:ところでこの暑いマレーシアでストッキングなぞ履く必要があるのかね。いくら冷房が効きすぎてるといっても普段は必要ないでしょうに。これを考えると10年ほど前タイに滞在したり足げく通っていた時のことが思い浮かびます。当時バンコクの自称おしゃれな女性たちがパンストを身に付け始めていました。日本のランジェリーメーカーの執拗な宣伝が実った結果だと思ったのです。いつかマレーシアのファッションを扱う時に考えてみましょう。)
中にはこういう女性がいます、絶対にトイレの施設に手を触れない。「私はドアーも足でけって開け、鍵はティッシューでくるんで閉めます。」と26才の女性。その彼女はできるだけ物に触らないようにします。フラッシュのバーは足で操作し、もし手でやらなければならない時は必ずティッシュを使います。
また手でどうしても触らなければならない時は左手を使いますと、上記の25才の女性。彼女は顔に触れる時は右手を使うからです。
座席型トイレの場合です。大抵の女性はできるだけしゃがみタイプのトイレを好みます(注:コラム第86回にその写真があります)。しかし座席タイプを使わねばならない場合は、必要は発明の母なのです。
ある30才半ばの女性、彼女はトイレ座席を濡れティッシュで拭きます。「誰が座ったかもしれないでしょ。おしりに病気のある人が座ったかもしれない。」 「私は通常、座席トイレの2インチ上に腰を浮かせています。もしそれが大の時は、座席の上にティッシュを並べます。でも5星ホテルでない限り、公衆トイレではそうしないようにしています。」と26才の女性。
25才の女性はさらに徹底しています。「私は腰掛けたことがありません。いつも中腰です。例え大の場合でもです。腰を浮かしてやるのには何年もの訓練がいるのですよ。それにこれはももの大いなる運動でもあるのです。フィットネスなんて必要なくなりますよ」
この女性は壁に手を付かずに腰を浮かした姿勢を保てるそうです。「壁はいつも汚い!」
別の30才の女性、そうしなければならない大の場合は、座席型トイレの上に乗ってしゃがむことを認めます。これがもう一つの害をおよぼすことになります。だって本来座るべき所に足を乗せてしゃがむわけですから、トイレ座席はへこみ靴で汚されるのです。
23才の女性、かの女は個人的にはしゃがむより腰を浮かせた方がいいとのこと、「その方が疲れなくていい」
女性陣のコンセンサスは、女性用公衆トイレは全部しゃがみタイプにすべきです、となります。
(注:女性用に限らず男性用も同じですね。座席タイプはいつも座席がひどく汚れてるか又は最初から腰掛けるふたが取り付けてありません。つまりそこに人が腰掛けることを想定してないわけです。それだったら最初から全部しゃがみタイプにした方がいいのです。女性用もおなじかと、納得しました。それにしても彼女たちはあの衣服を着て又は脱いで座席の上でしゃがむわけか?)
女性のトイレ使用時間が長いのにはまだ理由があります。気をもっと遣うタイプの女性は水を流した後、あとに何も残っていないことを確認するのです。「もしなにかトイレ便器内に残っていたら、例えティッシュでも、水が十分溜まるまで待ってもう一度水を流すようにしています。次に使う人が私の残したものを見るなんて耐えられません。」 と29才の女性。
「トイレ使用中もしおならをしてしまったらとてもはずかしいので、それを聞いてしまったかもしれないトイレ室内の女性が皆出てしまうまで待ち、それから扉の外に出ます。」とこの女性。
ある別の女性はこう言います、「女性用トイレには、使用者が中腰でいるつまり腰をうかせている間バランスを保てるように(床に)平行な棒を取り付けるべきです。」 また別の女性は、「それとも身体を持ち上げておくことのできるハーネスを取り付けるべきです。」
誰かが(こういう苦労を解決してくれる)すすんだトイレを作ってくれない限り。女性はより多くの時間を女性用公衆トイレ内で使うのです。
男性は立ったまま小便して便器の外にこぼしてもいい特典があるのですから。
(注:涙ぐましい女性陣の努力ですな。しかしどんなトイレを作ろうと、きれいに保とうという公共心が皆に育たない限り無駄だと思うのですけどね。まあ当分は男も女も狭い座席トイレの上でしゃがむ又は中腰で励むしかなさそうですな。旅行者の皆さん、家か会社で少し練習しておかれた方がいいかもしれませんね。)
全国民の身分登録、出生届け、結婚届、死亡届けなどを司る役所Jabatan Pendaftaran Negaraつまり 国家登録庁のオフィスを訪ね、質問して確認しました。
まず@に関してはっきりしたことは、”または”という意味合いです。ある人が2つ以上の名前を持っていてそれを登録した時、国家登録庁のコンピュータに@ 入りで登録されています。例 Liew Pian Hom @ Liew Toh Eng という場合、この人物が@ をはさんで2つの名を登録しているということです。どちらも姓はLiewですね。非ムスリムだけでなくムスリムにも少ないがこういう複数名登録があるとのことです。しかしこういう複数名登録は、マレーシアが独立した頃と間もない頃になされたことであり、現在では全く認められていないのです。つまり恐らく現在40代未満の人にはぐっと少なくなり、もっと若い世代には皆無だとのことです。
@に関して、全部が”または”であるとまでは、クアラルンプールのオフィスの答だけでは100%断定できません。なぜなら一般的に半島部の人がサバ州サラワク州の命名法に通じている事は考えづらいからです。ただもう何年も前から複数名登録はどこであれ受けつけてないとのことです。
登録名を替えられるかについては、登録番号は絶対に変わりませんが名前部分は理論的には可能です。ただしイスラム教に入信する場合を除いて、相当なる理由が必要であり、おいそれとは認められないとのことです。イスラム教に入信すれば、身分証明証の記載名が変更されます、しかし登録庁のコンピュータには古い名前も残っています。尚キリスト教に入信して、英名例えばJosefなどを登録名に追加したいなどという場合も認められることがあるとのことです。もちろん100%ムスリムのマレー人にこういうケースは起こり得ません。
登録庁のコンピューターには百文字をはるかに超える名前でも登録できますが、身分証明証上では70文字分に限定されます(例外なし)。従がってものすごく長い名前の人はどれかを削ることになります。複数名を登録してある人も、1つだけを表記する場合もでてきます。ですから、前に書いたように、国家登録局のコンピューターに登録されている名前が全ての基本になります。
以上追記分
どこの国でもその国の永住権を取るのはかなり難しいものです。国籍つまり市民権となればなお更ですね。日本はこの点では難しい国に入るのではないでしょうか。
さてマレーシア人と結婚している人又はこれから結婚しようとする人さらには将来結婚を考えている人は案外いらっしゃいますね。筆者はこれまでに、こういう方から何人もメールをいただきましたし、そういう方の発言を読んだこともあります。
そこで上記の方々のお役に立つことも願って、この市民権と永住権のことを少し考えてみましょう。筆者のこれまでの知識と経験と新聞の記事とインターネットの情報を基にして書きますが、調査がちょっと不十分かもしれません、もし間違いとか勘違いがあれば遠慮なく指摘して下さい。
さてまず気が付いたことは、マレーシア人と結婚すると自動的に市民権又は永住権がえられると思い込んでいる又は漠然と思っている人が多いということです。こういう思い込みは日本人だけでなくマレーシア人にも結構多いのです。そこまではいかなくても、日本人はマレーシア人と結婚すれば無条件にマレーシアに滞在できるものだと思っている方、マレーシア人にも日本人にも多いのです。
実際筆者もかってマレーシア人からよくこう言われたものです(今はもう関係ない)。「結婚してるから永住権取れるでしょう。」と。これを含めて上記の思い込みはすべて間違いです。
初めに結論を書いておけば、マレーシア人と結婚しているということだけで、自動的に市民権が得られる、市民権獲得の条件が整った、永住権がえられる、永住権はないが無条件に滞在できる、滞在できて無条件に働ける、ということはいずれもありません。
注:ここでいう結婚とは、マレーシアの結婚登録局に届けて結婚証明書を得たという意味です。日本でマレーシア人と結婚して市役所に届けても、マレーシア人配偶者がマレーシア大使館に届けなければ、そのマレーシア人はマレーシア国の法律上結婚しているとはみなされません。その逆でも同じ、つまり日本人がマレーシア人とマレーシアで結婚しても日本大使館に届けなければ、日本の法律上では法的結婚になりませんよね。
尚マレー人と結婚するためには、配偶者予定者はあらかじめイスラム教に入信しなければなりません。日本大使館届け時にもこの証明書を要求されます。これはマレー人は即ムスリムですから、ムスリムにはイスラム法が適用されるからです。ムスリムであるインド系マレーシア人と結婚する場合も同様のはずです。
政府の高官が言っています。「政府はマレーシア人と結婚した外国人移住者に市民権を与えるつもりはない、ただし憲法に定める条件を満たせばべつだ。」と。
これはマレーシアだけでなく多くの国でも似たり寄ったりの面がありますね。西欧でも市民権獲得には複雑な要件と手続きが必要ですし、日本国も日本人と結婚しただけでは外国人に市民権を与えていません。しかし確か10数年前に市民運運動が実って、日本人と結婚している外国人は無条件に日本に滞在できるようになりましたし(必要書類を提出後、1年ビザを取得し更新できる、と記憶してます)、そうすれば特別許可を受けなくても合法的に働けます。つまりこの面では日本はマレーシアよりもずっと開かれています。
マレーシアでは配偶者の滞在ビザ、永住権獲得、市民権獲得に関して、2種類の法律が外国人配偶者に適用されます。
憲法の市民権に関して第3部、第15条
第18条を前提にして、マレーシア男性と結婚した外国人女性は、連邦政府に申請すれば、以下の条件の基で市民として登録できる。(つまり市民権を得られる)
A)その女性が市民権申請する日に先立って、マレーシアにつづけて2年住んでおり且つ永久的に住むつもりである、さらに
B) その女性はよい人柄であること
このようマレーシア人男性と結婚している外国女性の市民権取得に対しては一応このように明記した条文がありますが、驚くなかれマレーシア女性と結婚している外国人男性の立場について憲法は言及しておりません。
これを知った時私はなんでと憤慨せざるを得ませんでしたし、多くの外国人男性も同じ気持ちでしょう。
そういう男性は法律に規定がありませんので、普通の外国人と同じく社会ビザで認められた期間はマレーシアに滞在し出入国を繰り返すか、又は独自に労働ビザ(ワークパーミット)を入手しなればなりません。つまりどこかのマレーシア企業、合弁であれ日系であれマレーシアで設立登録した会社、又は政府などの公的機関に雇われるか、あるいは投資という形で自分で出資し又は合弁で事業をはじめなければなりません。
「その外国人男性に対して、法律上にどうすれば長期ビザを与えるかのきめが無いばかりでなく、永住権には全く触れていません。移民庁(日本でいう出入国管理庁にあたる)の対応は、その男性の立場とか資格経歴により判断するという、極めて恣意的なものです、」という新聞の指摘に筆者も同意します。
ところがマレーシア人男性と結婚した外国人女性は、永住権を取得しやすいのです。長期の社会ビザ、1年、を認められやすくその上、5年間マレーシアに住めば永住権申請の権利が得られます。ただし自動的に永住権を取得できるということではありません、要件が整えば夫が外国人妻に替わって申請するのです。
以下は Imigresen移民庁のインターネットサイトに載っているものを訳しました。
マレーシアに永久的に居住しようとする者はまず入国許可証を得る必要があります。ある範疇に当てはまる者だけがこの入国許可証を得る資格があります。それを発行することは権利でなく単に適格性があるということなのです。この範疇とは1963年移民法に定められおり以下に示します:
以上Intraasia訳。
これはあきらかに男女差別の現われですね、つまりマレーシア人男性と結婚する外国女性に対しては比較的寛大で、その裏の意識は女性は男性に養われるものだという考えです。一方マレーシア女性と結婚する外国男性には居住権の保証が無いということです。一見女性が恵まれているように見えますが実態は少し違います。マレーシア男性と離婚した場合、その女性は、もし永住権を獲得してなければ、マレーシア滞在権を自動的に失うのです。つまりこの時点でマレーシア法の保護から外れるわけです。
ここで時々問題なるのは、離婚した外国人がまだ永住権を取得してないと、子供はマレーシア国籍なので、母親と子供が離れ離れになりかねないことです。
なお数年前に、マレーシア人と結婚した外国人配偶者、こちらは男女問わずです、に雇用面での救いの手が作られました。
これも移民庁のインターネットサイトから訳しておきます。
マレーシア人と結婚している外国人配偶者に与えられる雇用許可証
発行条件
以上Intraasia訳。
現在のマレーシア移民法(出入国管理法)は、配偶者を自由に選ぶという基本的権利を抑制しています。外国人男性と結婚したマレーシア女性という言葉が含意することは、二人は夫の居住地に住まなければならないということです。この婚姻のおかげで、その女性つまり妻は母国マレーシアとの関係をあきらめなければならないのです。(98年12月9日付けThe Starの指摘から、つまり筆者の解釈では、夫はマレーシアでの居住権がないから、夫はいずれ夫の国へ戻り妻はそれに従わざるを得ないということでしょう)
これを改めるよう女性団体は永年政府に要請してきたのです。例えば、「マレーシア市民の”配偶者と18才未満の子供” がもしそのマレーシア人といっしょにマレーシア入国する場合は、許可又はパスを得る必要がない」というようにです。現在の条文は”マレーシア市民の妻は”となっているようですから、夫がマレーシア人で妻が外国人なら許可は要らないということですね。これが意味するのは上記で見たように、妻がマレーシア人で夫が外国人なら許可又はパスが必要ということ。
全国女性評議会は、移民法条文中の「妻」という単語をすべて「配偶者」に置き換えるべきだ、と提案しています。こうすれば夫が外国人でも妻が外国人でも扱いは同じになるわけですから。
日本の場合は80年代に出入国管理法が改められて、日本人の配偶者は、つまり妻でも夫でも、ほぼ自動的に日本に滞在できますよね、マレーシアはまだこういう平等思想を適用しておりません。
こういう思想は残念ながらまことマレーシアに根づかないようで、日常の会話でであったことがありません。こういうことに関しては、イスラム教もヒンヅー教も儒教も宗教の施行面では、西欧平等思想の後塵を拝していると思わざるをえません。もっともイスラム原理主義にいわせれば、そういう平等思想そのものが西欧的であり受け入れられない、ということになるのでしょうけど。
こういう批判に対して、いやその教義では男女の真の平等を認めている、ちゃんとそう書かれている、という反論がありますが、しかしある宗教がその教義通り100%適用される社会は存在しませんから、その宗教が現実社会に適用されているつまり実際に行われている状況を見るべきです(学問としての宗教論争は別です)。そうでないと異教徒のその宗教に対する教義批判になり、それは絶対に宗教者の認める所でなく且つ終わりなき争いを生む源になるからです。
ですから筆者はこの場で教義批判はしませんしそのつもりもありません、それに宗教教義に精通しているわけでもありませんから。単に現実社会に現れた現象を考え論じ時には批判しているのです。
当ホームページを96年10月初旬に開設して以来、このコラムは毎週休みなく書いてきました。そこで今回は大きく趣向を変えて、マレーシア観察者としてでなく、旅人でもある Intraasiaの世界と心をエッセイー風に記して、今年1年の締めくくりコラムとします。
がたがたと揺れる列車の窓ガラスを通して、飛んでいく景色を眺めているのは飽きないものである。いつ頃からだろうかこういう時間に喜びを見出したのは。無造作に流れる時に身をまかしながら硬い座席に腰をさすっていても、何時間も何時間も座りつづけているといつしかうとうととし始める時もある。景色の単調さにいつしか睡魔を感じ、ちょっとばかり暑いぐらいの車内の気温がその睡魔を増幅してくれる。しばしの夢の世界からふっとわれに返っててみる、窓ガラスの外の景色はあいかわらず同じようだ。今どこを走っているのだろう。まあどこを走っていようとたいした問題ではない、私は旅にでているのだ。
旅の好きな私はこれまでどれぐらい旅してきたのだろう。ある時までは几帳面につけていた旅日記類も、日本の住居を引き払ってしまった時資料とともに全部捨ててしまい、今はもう記憶の中にしかない。なんでそんなにしょっちゅう外国ばかり行ってるの、と聞かれたのも今は遠い昔、五万円もあれば東南アジアでも米国西海岸でも週末にちょっと旅行できるこの時代、もうそんな驚きと軽蔑で見る人もいなくなったことでしょう。
年間1千万人以上が国外へ出る時代、旅雑誌が各種山と積まれガイドブックはもうこれ以上細分化できないくらいに豊富に且つ多様になった時代、格安航空券が大手エージェントでさえ市民権を得た時代、そしてインターネットでたちまち情報が収拾できる時代、そんな90年代後半は旅行者の質も層ももうかっての時代とはまったくかわってしまったな、とつくづく感じます。
今から2昔も前である70年代中頃から国外に出始めた私は、旅で時たま出会う日本人の姿を眺めながらその変化を感じてきたものです。他人の旅姿を見ながらもいつしか自分自身の変化も感じてきました、もちろんそれは年齢からくるものからもあるでしょうし、自分の置かれた立場の変化を反映したものでもあり、金銭的余裕度のせいも多分にあります。
80年代初期まで旅すれば必ず覚えていた新鮮な感動と喜びそして怒りはもう二度と味わえなくなりました、これが一番残念なことかもしれません。どこへ行っても驚き喜び時には怒りは今でももちろん味わいますが、しかしそれはかって駆け出しの旅人として全青春をかけて旅していた頃の程度とはもう比べものになりません。
美しい物をみればそれを愛で、巨大な建築や自然の不思議に感動し、不親切とか意地悪な人たちや社会の仕組みに腹を立てる、きれいな女性を見ればつい近く寄りたくなる、そんな旅の日常は今でもそれほど変わりません、しかしそれでも明らかに自分のなかに変化を感じづにはいられません。私の旅はスタイル面では10数年前とそれほど変わってはいませんが、私が旅する意識の中での変化は、20数年間の旅スタイルの中での変化よりも多分大きいのではないかなと思います。
なぜなら、今でも最小限の荷物でふらりと旅に出ることの好きな私のスタイルは、持ち物品目に多少の変化があるとはいえ、質的に変わったわけではありません、昔も今も自分で組み立て自分で歩き自分で金を都合する放浪的自由旅行者ですから、スタイル自体に変化はほとんどありません。変化したのはその中での私の意識、旅に全青春をかけ、ある時は悲壮な覚悟で歩いていたそんな意識はもう二度と持てませんし戻らないですね。
まともなガイドブックのなかった時代、情報が欲しくても手にはいらなかった時代、航空券が物価と自分の所得に比してなんと高かった時代、1米ドルが300円前後だった時代、そんな時代にようやくつかんだ機会を逃してはなるものかの気概でがむしゃらに旅していた自分の姿を今でもなつかしく思い浮かべることができます。
私は今でも貧しい旅人です、高級ホテル、リゾートなどほとんど泊ったことがないし、食事はいつも大衆食堂かアジアなら屋台ですまし、バスなどの公共交通機関だけに頼り、いつもてくてくと歩きまわっています。しかしそれでも20年前の貧乏旅行に比べればずっとましでしょう、もうそれだけのエネルギーはなくなってしまたのはみとめざるを得ません。人間あることに慣れてしまえばその感動は落ちるし、集中度は落ちますね、やはりそれと同じことでしょうし、年のせいもおおきいでしょうね。若くなくなれば自身が例えいくらそこへ入っていこうとしても相手がそれを受け付けない場合も多いし、入る前から計算してしまい、つまり状況を読んでしまい冒険をしなくなります。おかげで失敗は減りましたが、反対にハプニングも減りましたね。
旅人として自己変化を感じたのは30代半ばぐらいかな、それでは遅すぎるって?、そうかもしれませんが、それほど旅に自分をかけていたのです。旅なんて学生時代の暇を利用してやるものでサラリーマンになっても生活を賭けてやるのは馬鹿さ、そんな批判と軽蔑を幾度も聞きながら、相変わらず歩き回っていた20代後半、ちょっと考えるようになった30代前半、そして壁に突き当たった30代半ば、自分の旅史を振り替えればこんなところかな、
30代後半からはつらい貧乏旅はしても、がむしゃらで一筋な旅はしなくなくなった。人間が進歩したのか、退歩したのか。
これまでに訪れた世界の地点、都市、町、村、海岸、などは数千個所に達するだろうし、1泊以上したホテル、旅館、安宿、ホステル、友人宅など宿泊所の数(宿泊数ではない)もざっと見積もって1千軒近いはずです。宿泊代も当時の1米ドルから上は数十米ドルぐらいまで、さまざまな安宿を主として泊ってきた私ですが、宿の好みも変わりましたね。安かろう悪かろうはもう選択の第一から落ち、できるだけ安く多少は快適に変わりました。
例え初めての場所へ訪れてもこれまでの経験を参考にしてある程度状況が想像できるから、まったく新鮮な出会いに浸ることができなくなり、それが自然と自分の行動パターンを幅狭くしていることが残念ですね。あそこがああだったからここもきっとこうだろうと頭の中で想像、期待してしまう、これは旅人としてのあり方に変質をもたらしています。
しかし昔を振り返っていたり懐かしがっていては旅人として失格ですから、新しい目標を持ち同時に時代に合った旅意識を理解しなければなりませんね。現代の情報化社会では本当に珍しいことは限りなく少なくなり、旅行者は本で雑誌でインターネットですでに疑似体験したり与えられた情報を得ていますから、その疑似体験と与えられた情報をどのように追体験していくかが、90年代後半の旅行者の求めていることだと思います。
ですから旅行情報の発信者はこの90年代後半の旅スタイルを取り入れる必要があります。旅行情報の送り手としての私は、旅人としての私を少し離れて、ホームページ、時には旅雑誌上でも、を通じて現代の旅行者に求められるような旅の情報を送っているわけです。
90年代に入ってからの私はベテラン旅人として、取り入れる情報をできるだけ減らす方向に自分を持っていくことにより、方向性を見出そうとしています。情報に振り回されない分自由度が高くなり、少しでも感動と喜びと怒りを増やしたいのです。旅は非日常性との出会いでもありますが、そこに住む人人にとっては日常なのです、この接点をどこに置くかが旅に何を見出すか発見するかが違ってきます。追体験に喜びを見出すことのできない私にこの接点の見付方は非常に重要なのです。
私の学生時代好きだったフォークソングに「遠い世界へ」というのがありました。40代以上の方でないとフォークソング自体をご存じないでしょうけど、その歌の歌詞(メッセージソングなのでその裏に意味が込められていた)のごとくいつかは遠い世界へ旅に出たいな、と漠然と思っていた10代の頃から、年月は流れ今はマレーシアに暮らす身となりました、というよりそう自分で選んだのですが。でもあの頃の遠い世界へは、90年代後半の現代 もう”遠い世界”ではなくなりましたね。物理的距離自体は変わらないけど、ほんとに遠い世界はもう地球上からほとんどなくなってしまったのではないでしょうか。
ですから私はノスタルジックな気分に満ちた旅日記をつけることはもうありません。ただし旅記録はつけます。
食べ始めたソムタム(タイの一種のサラダ)の辛さについ苦情を伝えた私の言葉を無視して、屋台のおかみは、「マイペット 辛くないよ」と無造作に言い放った。辛くないはずはない、私の舌はしびれ胃の中は逆流しているのである。さらに私は文句言う、「あらかじめ辛くしないようにいったのに、これじゃ食べられない。」北タイのソムタムの辛さは充分知っているから注文時に伝えておいたのだ。 「だから辛くなくしたのよ」とおかみ。
所詮文句いっても無駄とは分かているが、食べれないものに金を払うのはしゃくだ、でも払わざるを得ない。仕方ないから、ソムタムのからしのついてなさそうな部分だけをよってライスといっしょに無理矢理口にほうり込み、とりあえず空腹を満たし、テーブルの上のグラスの水を喉に流し込む。辛さに麻痺してる口内に水を入れるのは火に油を注ぐようでよくないが、背に腹は返られない。
「タオライ いくら」とぶっきらぼうに尋ねてやる、ちょっと怒りを込めて。おかみは私の顔を見もせずに 「40バーツ」。 「あーあ、ソムタムの5分の1も食べずに40バーツも払うのか。」心の中でつぶやきながら、財布から20バーツ紙幣を2枚抜き取りおかみに手渡す。「コップンカーありがとさん」 何がコップンカーなものか、こんな辛いソムタムにしやがって、北タイ人の辛さ好きはまったくどうかしてるぜ。